2022年5月4日水曜日

ウクライナの避難民は

1928年、DHロレンスの小説「チャタレイ夫人の恋人」でチャタレイが恋人の「森番」に、「逃げましょう,2人でオーストラリアかカナダに逃げて2人きりで暮らしましょう」というシーンがある。こんな昔からオーストラリアとカナダが、大英帝国からみると逃避行先として知られていたということは、とても興味深い。

オーストラリアの人口は2500万人に達したが、移民と難民とその子孫で形作られてきた。全人口に占める外国生まれの人の割合は29%。いまメルボルン45万人の人口のうち35万人はギリシャ人とイタリア人の子孫で、彼らは戦後の深刻な不況とイタリア内戦から逃れてきた人々だ。フランコ独裁政権からも、20万人のスペイン人が逃れてきている。1980年代のハンガリーからも東ドイツの難民が押し寄せて来ている。1973年のチリのクーデタと政情不安からも1万人あまりが難民として受け入れられた。
また1975年4月ベトナムのサイゴン陥落以降、旧ベトナム軍関係者や資産家華僑がボートピープルとして流入、9万人以上が政府によって受け入れられた。1989年中国の天安門事件では、公安警察に追われた活動家たちが、香港を経由して2万人以上が難民として受け入れられた。
また今回、2020年香港国家安全維持法の制定と、2021年の選挙制度改悪によって言論の自由も民主的議会選挙もかなわなくなった活動家達も多数オーストラリアは受け入れた。帰国すれば危険と思われる留学生には永住権が与えられ家族も受け入れられた。

しかし難民受け入れに掛かる絶大な経費(教育費、医療費、職業訓練費)を理由に、オーストラリア政府だけでなく、どこの国も年々、難民の受け入れ条件を厳しくしている。1981年に難民条約の難民議定書に加入した日本の難民受け入れは、ほとんどゼロ、0.5%以下で論外だけれども、米国は前大統領がメキシコとの国境に壁を作り移民も難民もシャットアウトし、その費用をメキシコに負担させた。
英国は今後難民はアフリカのルワンダに送り、その地で5年間生活支援するが、その後効果のなかった人々はもと来た国に帰す、そうだ。何という冷酷無比。
20世紀は難民の世紀だったと言われたが、今世紀も世界は同様の悩みを抱える。戦争がある限り、難民は押さえられない。ウクライナは国民の4分の1がすでに難民として国外流出した。これをどう収拾するのか。難民を流出させた国と流出した国とが、その国家責任を問い自力更生させることは無理だ。私たちはそれぞれの国を尊重しながら援助することしかできない。流出した難民が安心して祖国に帰還できるまで必要な援助を続けるしかない。できるだろうか。
加藤登紀子の「時には昔の話を」を歌ってみた。むかし同じ時代を過ごしたムラマツ氏と、28日に出所する共通の友人のために。

I am singing [ Let's talk about old stories] written by Kato Tokiko. for sharing memory with my best friend Muramatsu and friend who will be free soon.