ちばてつやの「あしたのジョー」や白戸三平の「カムイ伝」で育ったが、今でもやっぱり一番好きな漫画は、井上雅彦の「スラムダンク」だ。それと、彼の「バガボンド」、「リアル」。あだち充の「タッチ」、石塚真一の「岳」、一色まことの「ピアノの森」、ヨシノサツキの「ばらかもん」、羽海野チカの「3月のライオン」など。
子供の時から長編の物語が好きだった。トルストイの「戦争と平和」、「アンナカレリーナ」、ドストエフスキーの「カラマゾフの兄弟」、ロマンロランの「魅せられたる魂」、「ジャンクリフトフ」、マルタン ヂュガール「チボー家の人」、ガルシアマルケスの「百年の孤独」など。母は死ぬまで大変な読書家だったが、子供の私が「戦争と平和ってどんなお話?」と聞くと、「みーんなみんな死んじゃうのよ。」という。「じゃあジャンクリストフってどんな本?」と聞くと、「男の話よ。」、「では魅せられたる魂は?」と問うと、「女の話。」「カルメンは?」「三角関係で死んじゃう話。」すべて返答は簡潔。会話にならない。だから自分で読むしかなかった。
ストーリーは
1986年ドイツ、デユセルドルフ。
日本人天馬賢三は、アイスラー記念病院の脳外科医。ハイネマン医院長の論文を読んで日本から研修に来て以来、他に追随を許さない天才的な技術と判断の良さとで次々と難しい手術を成功させ、高く評価されていた。謙虚で患者や仲間からの評判も良く、若さに違わず外科部長に就任するうえ、ハイネマン病院長の娘と婚約していた。
ある夜、救急室に呼ばれたドクター天馬は医院長の命令で、有名なオペラ歌手の緊急手術を行い彼の命を救命する。しかし隣の手術室ではトルコ人移民が命を落としていた。トルコ人はオペラ歌手が運ばれてくるずっと前から待たされていたが、天馬がオペラ歌手の手術を優先したために、貧しいトルコ人は死んでしまった。家族に責められて、ドクター天馬は良心の呵責に責められる。
ニュースで東独から亡命してきた東独貿易局顧問のリーベルト夫婦が二人の双生児アンナとヨハンを連れて、デユセルドルフに到着したニュースが流れる。しかし翌朝夫婦はナイフでのどを搔き切られて、死んで発見される。そばに居た双子の兄、ヨハンも銃による頭部挫傷で重体、一人生き残ったアンナはショックで口がきけない状態で病院に運ばれる。天馬は少年ヨハンの頭の銃創をみて、自分でなければ救命できないと判断する。しかし同じ時間に市長が脳出血で倒れ、病院長は天馬に市長の手術をするように命令する。天馬は迷った末、院長の命令に従わず、少年の難手術を行い救命する。が、病院長とわいろで結びついていた市長は、他の医師の手にかかり手術台で亡くなる。
怒った病院長は天馬の外科部長の役職を取り上げ、エヴァは婚約指輪を天馬に投げつけて婚約解消する。おまけに天馬は自分が救命したヨハンの主治医まで外されてしまった。天馬はまだ昏睡状態でベッドにいるヨハンの病室で、酔った勢いで、病院長たちみんな死んでしまえばいいのに、と愚痴る。
翌日病院長と、新しい外科部長と、ヨハンの新しい担当医3人が、毒入りキャンデイーを口に入れて死亡しているのが発見された。不思議なことに、アンナとヨハンの双子が失踪していた。3人の殺人事件は、ドイツ連邦警察のルンゲ警部の担当となる。凶悪殺人なのに何の証拠もあがらず、天馬にはアリバイがある。しかしルンゲ警部は、天馬が二重人格で本当は殺人犯なのではないかと疑い天馬を監視する。病院は何事もなかったように再開し、天馬は外科部長として多忙な生活にもどる。
9年経った。1995年
ハンブルグ、ケルン、ミュンヘン、4つの異なった場所で、子供のいない裕福な中年夫婦が、9年前の双子の両親が殺されたのと同じ、営利なナイフでのどを切り裂かれて殺される事件が起きた。4件とも共通して一人の男が、事件周辺で姿を見せている。ルンゲ警部は、その男を追って、デユセルドルフにやってくる。4件の犯行の鍵を握る男は、怪我をして天馬に救命される。しかし、男の入院中警備に当たっていた警官が毒入りキャンデーで殺され、男は病院の屋上で撃ち殺される。患者を追って屋上にきた天馬は殺人犯と対面する。殺人犯は9年前のヨハンであることを自己紹介したあと、天馬が殺したいほど憎んでいた病院長たちを殺してあげたのは自分で、それは天馬が自分を救命してくれた命の親だから恩返しにした事なのだ、と言って立ち去る。
天馬は自分が、生き返ってはいけない殺人鬼モンスターを蘇らせてしまったのだということを知る。天馬は病院を辞めて、ヨハンを追う。
ハイデルベルグ 1996年
今日で20歳になるアンナは、優秀な法学部の学生で将来検察丁の検事になりたいと思っている。彼女はフルトナー夫婦の間に生まれた娘だと思っているが、10歳以前の記憶を持たない。夫婦はアンナが20歳になる誕生日に、彼らが本当の親ではないことをアンナに伝えようと思っている。しかしアンナが誰かに呼び出されている間に、夫婦はのどを搔き切られて死んでいた。アンナは呼び出されてヨハンに会う。そこでアンナの記憶が呼び覚まされる。10年前ヨハンを銃で撃ったのはアンナだった。アンナはヨハンが善良な養父母を殺しているのがヨハンだったと知ってモンスターを処分するのは自分しかいないと思い込んだのだった。ヨハンを追ってきた天馬もアンナの心情を知る。再び姿を消したヨハンを追って、アンナ、天馬、そしてランゲ警部が後を追う。そして謎の極右秘密組織もヨハンを追っていた。ヨハンはその天才的な頭脳で、裏社会の銀行の頭取を務めていた。
天馬は東西ドイツ間の壁崩壊前の、旧東独貿易局顧問リーベルト宅を訪れて、彼らが亡命する前、ヨハンを511キンダーハイム孤児院引き取ったことがわかる。ヨハンは他の孤児院にいたアンナと一緒でなければ行かないと言い張ったので、二人はリーベルトの養子となった。キンダーハイム孤児院は崩壊前の東独の内務省による実験場だった。憐れみを持たない子供を実験的に作る場で、ヨハンが立ち去ったときに教官、孤児のすべてが殺し合って、生存者が一人も残らなかったのだったという恐ろしい孤児院だった。
さらにわかったことは、ヨハンとアンナは、東独で孤児院に引き取られる前、ふたりでチェコスロバキアの国境付近を瀕死の状態で彷徨っていた。唯一持っていたのがフランツ ボナパルタの描いた絵本だった。二人は「薔薇の館」から逃げて来たのだった。そこはフランツ ボナパルタの主催する秘密組織人間改造実験所で、母親から引きはがされて二人の双子は「薔薇の館」で育ったのだった。「薔薇の館」では実験研究者、患者の児童たち、チェコ政府の関係者すべてが、何者かの催眠にかけられたかのように殺し合って全員死亡していた。
10歳以前の記憶をもたないヨハンは、ここまでの事実を知って、フランツ ボナパルタを探して、ルーエンハイムという山に囲まれた小さな山村にやってくる。旧東独極右組織が、将来ヒットラーを再び蘇らせることのできるヨハンに心酔して、ヨハンを追ってやって来る。アンナと天馬とルンゲ警部ももちろんだ。村は大雨で道路が浸水し完全に村は陸の孤島になった。電話も通じない。ヨハンは、「薔薇の館」で研究員たちが全員殺し合うところも、511キンダーハイム孤児院で教官や孤児たちが殺し合い全員死亡するところも見て、また自分を育ててくれた養父母夫婦全員を殺して来た。チェコの研究所「薔薇の館」と、東独の孤児院で起こったことが、再び繰り返されるのか。
平和だった村で、善良な夫婦にとんでもない金額の宝くじが当たったことを知らされる。ヨハンによって村人たちに銃がばらまかれ、閉鎖された村の空気のなかで、銃など手に取ったこともなかった人々が、疑心暗鬼になって催眠術にかかったように銃を撃ち合い、あちこちに死体が転がっている。人々の恐怖が爆発しそうだ。
ヨハンを前にしてアンナは憎しみの連鎖を断ち切るために、ヨハンを許す。自分はすべて忘れて正しい道を歩む決意をする。天馬もヨハンを撃ち殺せない。
ヨハンは、人質にとった村の子供を撃とうとして、子供の親に撃たれる。フランツ ボナパルタは、自分が実験場を作ったことを詫びて、極右組織の手で殺される。ヨハンは州立警察病院に運ばれ、一件落着。
天馬は病院で昏睡状態のヨハンにさよならを言いに来る。国境なき医師団に入る予定だ。もうどうでも良いことだ、と思って、天馬はアンナとヨハンは小さなときに引き離された母親がまだフランスで生きていると言う。天馬が病院の門を立ち去る時、もうヨハンのベッドは空だ。
というところで終わる。
18巻の長編をまとめるのは容易ではない。書けなかった人物など50人くらいいるし、細かいデテールなど100くらいあって書ききれないけれど、この漫画の最後のシーンが一番好きだ。ヨハンのベッドが空だ。ヨハンは再び出て行って母親を殺しにフランスに向かったに違いないが、人によっては違う解釈もありだ。しゃれた終わり方だ。
この話で面白いのは、双子のアンナもヨハンも10歳以前の記憶がないことだ。自分達の本当の親も、自分たちの名前もわからない。アンナは、20歳まで愛情深い養父母に育てられて正義感の強い愛すべき少女に育った。しかしヨハンは自分の過去を憎み、自分のことを知っている養父母をすべて殺して来た。また自分を実験と研究の材料にしてきた秘密研究所や孤児院の関係者まで葬って来た殺人鬼だ。アンナとヨハンは善悪の対比の様に描かれている。しかし二人とも「薔薇の館」で育った経験を共有している。ヨハンを追う天馬とすれ違う時、アンナは天馬に「モンスターは一人じゃない。2人居るのよ。」と叫ぶシーンがある。アンナも催眠にかけられ、ヨハンのように残酷な殺人者になることもできるのだ。
浦沢直樹の悪い癖で漫画の連載が好評だと、話をふくらませてどんどんストーリーが広がっていって、読んでいるときは面白いが話が広がり過ぎて筋が合わなくなって、苦し紛れに登場人物の会話で、無理につじつま合わせするようなところも何か所かある。それは「20世紀少年」にも言えることだ。
しかしよくできた漫画で、特記すべきはこれが1994年から2001年に書かれていることだ。
20年前にはまだチェコのナチの逃亡犯をかくまったオデッサのような秘密友愛結社や、ヒットラーの再現を願うネオナチ団体も、元東独の極右秘密結社も、移民をアリのように平気で殺せるスキンヘッドも、社会の恥のように小さくなっていた。漫画ではヨハンの心酔者として描かれている連中だ。
20年前にはまだチェコのナチの逃亡犯をかくまったオデッサのような秘密友愛結社や、ヒットラーの再現を願うネオナチ団体も、元東独の極右秘密結社も、移民をアリのように平気で殺せるスキンヘッドも、社会の恥のように小さくなっていた。漫画ではヨハンの心酔者として描かれている連中だ。
それが、20年たった今では、性懲りもなく地中から這い出して、いまや政治の主流になりつつある。米国のトランプ大統領、ブラジルのボルソラノ大統領、フランスのマリーヌル ペン、イタリアのマテロ サルビ二、日本のおばかさん首相。ポピュリストは オランダ、ウクライナ、スウェーデン、ギリシャでも急激に勢力を拡大している。まるで浦沢直樹が、「MONSTER」で預言をしたように、極右のトップが世界を動かすまでに成長した。新たなヒットラーの出現を待ち望む人々が増えている。
「MONSTER」は18巻で終了し、アンナはヨハンに赦しを与え、天馬は新たな医師活動に意欲を持ち、ルンゲ警部は定年で大学講師になり、だれもが一件落着したように思えるが、ヨハンは死んでいない。すでに彼はベッドを抜け出して世界を死に追いやるために出て行った。20年前の漫画が現実の状況に警告を発している。
とても面白い漫画だ。読む価値がある。英語版が再版中止になっていて、友達に読ませたいがもう手に入らないことが、すごく残念だ。