2018年8月11日土曜日

映画 「サラの鍵」



第2次世界大戦におけるナチスが行ったユダヤ人ホロコーストを知らない人は居ない。600万人の人命が失われた。実際に体験した世代は、戦後70年経ち、減少してはいるが未だに歴史的証人は存在している。

オーストラリアで医療通訳とナーシングを25年間してきたが、腕にナチスドイツが押したプリズンナンバーが刺青されているホロコースト生き残りの人に、2回出会っている。子供の時に入れ墨されたのだろうが、年をとってもユダヤ人としてナチにキャンプで押された認識番号は、はっきり読み取ることができて、胸がつぶれる想いだった。
ホロコーストが人類に与えた影響は甚大で、この事実をもとにして沢山の小説や映画が制作され、今でも製作され続けている。

同じころ日本軍はアジア諸国で侵略を進め、中国、韓国、シンガポール、マレーシア、フィリピン、グアム、ニューギニア、ガダルカナルなど諸国を侵略し、他国民を蹂躙した。戦後日本軍の犯罪に対して、日本人以外の人々が描いた小説や映画は、ナチのホロコーストを描いたものに比べて極端に少ない。その原因に、未だ日本軍が行った残虐非道な行為がまだ充分掘り起こされておらず、一般認識されていないうえ、日本政府がその非をはっきり反省していないからだ。侵略を国土摂取による近代化と教育を授けただけと、開き直り、慰安婦を軍が関与していないとシラを切り、南京虐殺を無かったなどと言う。
ヨーロッパではホロコーストが無かったと発言することは、れっきとした犯罪で告発され、反社会的な人間として葬られるのに比べ、日本では南京虐殺が無かったと歴史を否定しても、犯罪と認識されないばかりでなく、国会議員にでもなれるという、恥知らずがまかり通っている。

最近、「沖縄護郷隊」という言葉を初めて知った。沖縄戦で、諜報機関として知られる陸軍中野学校出身者42人が沖縄に潜入し、沖縄護郷隊を作り、10代の少年約1000人が、米軍に向けたゲリラ戦を戦わせられた、という歴史的事実が知られることになった。米軍に包囲され投降する沖縄住民を後ろから銃で撃ち殺し、ガマに隠れた住民を追い立てて米軍の爆撃にさらした日本軍だ。地元が戦場となった沖縄の当事者にとって、日本軍のスパイとしてゲリラ戦を戦うなどという、余りに残酷な体験は、何年経っても声高に語ることができなかっただろう。それでも同じ歴史が繰り返されないために、語り出した歴史的証人の言葉に、私達は真摯に耳を傾けなければならないと思う。

歴史的事実を残っている写真やドキュメントで、くりかえし発表し続けることが重要だが、事実をもとにした小説や映画がもっと出ても良い。ナチスドイツに関する作品で、このブログで映画紹介と映画評を書いたものだけでも、「白バラの祈り」(ソフィーショール)マルク テムント監督、「否定と肯定」ミックジャクソン監督、「ヒットラーの偽札」ステファン ルオスキー監督、「戦火の馬」ステイーブン スピルバーグ監督、「優しい本泥棒」べレイン パーシバル監督、「ミケランジェロプロジェクト」ジョージ クルーニー監督、「ヒットーラーの忘れ物」マーチン サンフレット監督、「プライベートライアン」スチブン スピルバーグ監督、「サウルの息子」ラスロ ネメッシュ監督、「愛を読む人」ステファン ダルトレイ監督、「ソフィーの選択」アラン パクラ監督などがある。
一方日本軍に関する映画では、「アンブロークン」アンジェラ ジョリー監督、「軍艦島」リュ スンワン監督、「レイルウェイ マン」エリック ロマックス監督、「フラワーオブワー」チャン イーモー監督などがある。
ナチスドイツが人間に、一体何をしたのか、日本軍がどのようにして権力を我が物にしてきたのか、それでどんな歴史的汚点を作って来たのかということを、どんなに語り、表現しても表現したりない。もっと、もっと反省を込めて反戦映画が出て来なければならないと思う。

映画「サラの鍵」
フランス映画
監督:ジル パケ ブルネ
原作:タチアナ ド ロスネ
キャスト
ジュリア : クリステイン スコットトーマス
サラ : メリュジーヌ メヤンス

ヴェロドローム デイヴェール事件を扱った作品。(RAFLE DU VELODROME D'HIVER)
第2次世界大戦下、ナチスドイツ占領下にあったフランス、パリで1942年7月6日にユダヤ人が大量検挙された事件を言う。ヴィシー フランス政府はナチスの要求するまま、パリとパリ郊外で1万3152人(そのうち4115人は子供)のユダヤ人を警官が検挙した。ヴェロドローム デヴェールというのは、冬季競技場の名前で、検挙されたユダヤ人は、5日間ここに閉じ込められ、屋根のない真夏の競技場で、暑さと食糧、飲料を与えられないまま人々はその後 アウシュビッツなどの東欧各地の収容所に送られた。このような過酷な扱いに、ほとんどの人は生存できなかった。
映画のなかでも、警察に引き立てられた人々が、「どうしてこんなひどいことをするの?私はフランス人よ。あなたも同じフランス人なのに。」とパリ警察に抗議するシーンが出てくる。当時ヨーロッパでユダヤ人が憎まれていたとはいえ、自分たちが自国の警察官によって検挙されてホロコーストに会うなどと、夢にも思っていなかった当時の市民の姿が垣間見られる。この映画は、10歳のサラが、深夜パリ警察に連行されるシーンから始まる。
ストーリーは
1942年7月6日。
深夜、パリ警察が乱暴にドアをたたき、父親の居所を問い正す。10歳のサラは、とっさの機転で、警察は、父親と弟の男だけを連行するのかと思い、弟を子供部屋の戸棚の中に隠し外から鍵をかける。たとえ自分が連行されても取り調べだけで、すぐに家に帰れると思っていた。弟には、どんなことがあってもサラが迎えに来るまで戸棚から出てはいけない、としっかり言い聞かせた。サラと母親は外に出され、別棟に隠れていた父親と共に引き立てられた。両親とサラはジープに乗せられ、競技場に連行され、コンクリートの上で炎天下何日も留め置かれた。その間、弟のことを案じた家族は警官に、弟を見つけて連れてくるように頼み込むが、誰も聴く耳を持たない。サラは熱中症で倒れ、家族はバラバラにされて列車に乗せられ、収容所に向かった。そしてそのまま二度とサラは両親に会うことがなかった。

3日3晩高熱で苦しんだのちサラは意識を取り戻す。弟のことが気になって一時もじっとしていられないサラは、収容所の警備員に鍵を見せて必死で弟を連れてきたいと懇願する。一人の警備員が10歳の子の尋常ではない頼み方に心が傾き、収容所の鉄条網をゆるめてやる。サラは走りに走ってパリをめざす。人家をみつけて家畜小屋で眠っているところを百姓夫婦に助けられる。夫婦には息子が居たが戦場に送られていた。夫婦は、サラを不憫に思い、警察に隠れて危険を承知で自分の娘として育てる。サラのたっての願いで、夫婦はサラを連れて占領下のパリに出かける。もとサラが住んでいたアパートに着いて、サラの持っていた鍵で開けた戸棚には、、、。

2002年ヴェロドロームデヴィエール60年周年記念の5月。
新聞社に勤めるジュリアは、この事件について論評を書くように依頼される。彼女はアメリカ人だが、フランス人の夫との間に14歳の娘がいる。新たに妊娠していることがわかった。家族はパリに居を構えることになり、夫の遠い親戚からパリのアパートを貰い受けたので、改築する予定だ。アパートの寝室には古い大きな戸棚がある。
論評を書くにあたってジュリアは、その古いアパートに戦争時に住んでいたスタルズスキ一家について調べることにする。そこに住んでいたユダヤ人家族は戦時中どんな生活をしていたのか。やがてジュリアは、この家族には2人の子供が居たはずなのに、収容所で死亡した両親の記録があっても、子供達の死亡記録がないことに気がつく。夫の遠い親戚たちや公文書から、家族にいたはずのサラと言う名の子供の足跡をたどる。そしてサラが養父母に大切に育てられ、アメリカに渡り、家庭を持ったことまで調べ上げる。

サラはホロコーストを生き延びてアメリカに渡っていた。ジュリアはその足跡を追って、アメリカに飛ぶ。サラの夫は老体で死の床にいた。サラはその夫との間に息子をもうけていた。息子は幼いうちに母親を亡くしたので、サラのついての記憶がない。
ジュリアはサラの人生を追うことによって、自分の人生がサラの人生の重さに重なって、もうサラを知る前の自分に戻ることが出来なくなっていた。というお話。

才覚ある10歳の娘が最愛の弟を守ろうとして、逆に死なせてしまう。その十字架を背負ったまま戦後まで生き残ったサラが家庭を持ち、息子を育てることになるが、息子が死んだ弟の年に近付くに連れて、原罪意識から逃れられなくなっていく。
哀しい哀しい物語だ。
ホロコーストで殺された600万人の人には、600万のサラのような悲劇的な物語を抱えて死んでいったのだろう。

サラの息子は、かたくなに自分の過去に口を閉ざして、そのまま何も語ることなく亡くなった母親が、ユダヤ人だったことも、ホロコーストの生き残りだったことも知らずに成人していた。彼は母親が残した形見の宝石箱に残された鍵の意味を知らずに、ただそれを思い出として大切に持っていた。
サラの生涯を調べつくしたジュリアは、サラの人生に深くかかわるに連れ、自分が妊娠中であるにも関わらず夫と理解し合うことができなくなり別れて 一人で娘を産む。
ジュリアがサラについてのすべての物語を息子に語り聞かせたあと、息子はふと、ジュリアの赤ちゃんは何という名なの、と尋ねる。何という名前?ジュリアはしばらくためらったあと、サラという名なの。と答える。それを聞いて泣き崩れる息子とジュリアのシーンで映画が終わる。とても心に残るシーンだ。

戦争の激しい暴力にさらされて、奇跡のように生き残った生存者が、戦後しばらくして自ら命を絶った、その胸の内が哀しい。「ソフィーの選択」も同様に戦後を生き続けることができなかった男女のお話だ。人は生き延びさえすれば良いのではない。失ったものが大きすぎる。耐えられるものではない。人はそんなに強い心をもって生まれてくるわけではない。
とても哀しい良質な反戦映画だ。

2018年8月4日土曜日

映画「ジュラシックワールド:炎の王国」

製作総指揮:ステブン スピルスバーグ
監督:J A バヨナ
キャスト
オーウェン=恐竜行動学者:クリス ブラッド  
クレア=元ジェラシックパークの運営責任者;ブライス ダラス ハワード
メイジ―=ロックウッド財団創始者の孫娘 :
ジャステイス スミス=クレアの助手 IT技術者:フランクリン ウェブ
ダニエラ ビネラ=クレアの助手、獣医 :ジア ロドリゲス
ベンジャミン ロックウッド=ロックウッド財団の創始者:ジェームス クロムウェル
レイフ ポール=ロックウッドの実質的経営者:イーライ ミルズ
メイジ―の養母アイリス=ジェラルデイン チャップリン
ヘンリーウー=インドミナスレックスの創始者:B D ウォン
イアンマルコム=数学者、議会に召還される:ジェフ ゴールドグラム

その他
ベロキラプトル ブルー、テイラノサウルス、テイラノドン、ジャイロスフィア、
アパルトサウルス、ステイギモロク、インドミナスレックス、インドラプトル、etc.

1億年余り前の中生代に存在した恐竜たちが,何故絶滅してしまったのか。隕石、気候の変動、火山爆発、CO2濃度の減少、地球寒冷化など、たくさんの説があるが、その全部が複合的に合わさって絶滅に至ったらしい。福岡伸一は、巨大な隕石が6500万年前に地球に衝突し、大規模な津波と、大粉塵を起こしたため粉塵が地表を覆い、太陽を遮断し、植物の光合成が出来なくなったため食物が育たなくなって、恐竜は餓死したと予測する。それを証明するように、ユカタン半島北部に直系200キロ、深さ20メートルという巨大なクレーターが見つかった。また地球には希少だが、隕石には高濃度に含んでいるイリチウムが、ヨーロッパの各地の地層から計測されているという。今も、いつ再び起こっても不思議ではない隕石の衝突という事態が、恐竜のような大型動物を絶滅に導いたことは、とても残念なことだ。

映画ジュラシックパークでは、科学者が琥珀の中に閉じ込められた蚊が吸った恐竜の血液からDNAを検出して恐竜のクローン再現に成功した。それは人間の欲がなせる業だったが、人にとって夢の実現でもあったと思う。一連のジュラシックシリーズでは、次回で最終結論を出すことになるが、人と恐竜との共存が可能かどうか、がテーマになる。
ジュラシックワールドは、2015年に14年ぶりにジェラシックシリーズとして発表されたが、今回の「炎の王国」はその続編。すでにこの作品に続きがあることが映画の最後で予告されているので、これはジュラシックワールド3部作の第2作目に当たる。シリーズの最初からスピルバーグが引き続き製作総指揮に当たっている。

前作ではテイラノサウルスとTレックスなどをDNA操作で合わせたハイブリッドの新種インドミナスレックスが、暴れ放題で、テイラノサウルスとデスマッチを繰り広げていたが、新種の方が、血の匂いに誘われて海からやってきたモササウルスに水中に引きずり込まれて食われてしまうシーンで終わった。オーウェンが親代わりになって育てた孤児の4頭のベロキラプトルは、この決闘で3頭殺されて、ブルーだけが生き残る。この映画は、その続きだ。

ストーリーは
深海探査艇が恐竜たちが生息するイスラヌブラ島の海底に向かう。モサザウルスに海に引きずり込まれて死んだインドミナスレックスの死体からDNAを採取して、さらに強い新種を作る試みが進行している。彼らは海底で見つけたレックスから骨を切り取って、無事に引き上げることに成功したが、深海探査艇に異変が起こる。モサザウルスが予想を超えて巨大に成長していて、、、、。
一方沢山の恐竜が生息するこの島に小規模の火山噴火が頻発している。専門家は火山が大爆発し、このままでは、すべての恐竜は絶滅することになると予想した。議会では、恐竜を救うべきかどうか、専門家の数学者マルコム博士を呼んで意見を聴いたが、博士は恐竜の運命は自然に委ねるべきだと主張する。恐竜はこのまま手をこまねいて 再び絶滅するのを待つしかないのか。

ジュラシックパークの創設者、ロックウッド財団はパークの運営責任者だったクレアと、恐竜行動学者オーウェンに、島に行って出来るだけ恐竜を捕獲するように依頼する。クレアとオーウェンは数年ぶりに再会し、ジャステイスとジア、二人の助手を連れて現地に向かう。着いてみると、すでに現地ではロックウッド財団の傭兵たちが恐竜捕獲作戦を始めていた。オーウェンは、自分が親代わりになって育てたベロキラプトルのブルーと再会を果たす。ところが傭兵たちはブルーとオーウェン双方に麻酔銃を発射した。オーウェンが昏倒している間にも火山の大噴火が予想以上の速さで始まっていて、マグマが流れ落ちてくる。オーウェンは危機一髪のところでマグマから逃れ、クレアたちと合流するが、そのころにはすべての恐竜たちが命からがら海岸線まで逃げ延びて来ていた。

病に伏せているロックウッド財団創始者のベンジャミン ロックウッドから仕事を引き継いで実質経営者となったレイフポールの傭兵たちは、大型船に捕獲した恐竜たちを収納し島を去るところだったが、クレアたちは船出の寸前に船に忍び込むことができた。乱暴に捕獲されたブルーは出血多量で虫の息だった。クレアとオーウェンはインドミナスレックスから血液を抜き取りブルーに輸血する。船から大型トラックに乗り換えた一行の行先はロックウッド財団の大きな屋敷だった。そこには財団の創始者ベンジャミンと孫のメイジ―が住んでいた。

屋敷に世界中から招待客が続々と集まってきていた。そこで恐竜たちが、1頭ずつ檻で引き出されてきて競りにかけられ、落札された値段で売られていく。ベンジャミンの命令で保護された恐竜たちが、レイフポールによって売られてしまう。孫のメイジ―は祖父に、レイフポールの裏切りを伝えるが、それを警察に通報しようとしたベンジャミンはレイフポールに殺される。
事情を知ったクレアとオーウェンはメイジ―と一緒に、恐竜たちを守ろうと立ち上がる。オークションにかけられて最も高値で引き取られそうになったのが、インドミナスレックスのようにDNA操作でハイブリッドされた新種のインドラプトルだった。各国の要人たちはこれを無敵の武器として使うために購入したがっている。しかしオークションの最中に檻が開いて、数頭の恐竜が会場で暴れ出して、逃げ惑う人々とで大混乱に陥る。逃げ出したインドラプトルは執拗にメイジ―を追いかける。それをオーウェンとクレアを助けるブルーの登場によって危機を回避、インドラプトルは屋敷の屋根から落下して死ぬ。レイフポールはテイラノサウルスに食い殺される。ロックウッドの屋敷の地下に閉じ込められていた他の恐竜たちは、破壊されたた地下にシアンガスが充満してしまい、このままでは全頭が窒息死することになる。

少女メイジ―は、殺される前のレイフポールから、自分がベンジャミンの娘が事故で死んだとき、そのDNAから作られたクローンであることを知らされた。本物のベンジャミンの孫ではなかったのだ。自分のようにDNA操作で作られた恐竜たちを、このままガスで窒息死させるわけにはいかない。メイジ―は地下室の檻を解放する。次々と恐竜たちは外界に出て行き、ブルーも「安全なところで一緒に住もう」、というオーウェンの言葉に躊躇するが振り返りながら去っていく。
こうして恐竜は生き延びて人々の住む世界に自由に放たれた。
議会で再びマルカム博士が発言する。今や人と恐竜とが共存して生きて行かなければならない。いわばジェラシック時代と呼ばれる新しい世界となったのです。
というお話。

恐竜が本物にしか見えない。この映画の見どころは「上等なCGテクニック」。実に恐竜が本物の様によくできている。円谷プロダクションの着ぐるみ怪獣の特殊撮影に騙されて本気で怖がって震え上がって育ってきた。そんな自分の目からすると隔絶の進歩だ。シンと鎮まって、え、、何が起こるの、といぶかしがっているうちに影が映り、ギャー本物が現れるというパターンが幾度も繰り返されるが、何度やられても慣れることがなく本当に怖い。CGがこれほど進歩したのは、ジョージルーカスとスピルバーグの天才的な才覚によるものに違いない。一連のジェラシックシリーズのおかげで恐竜が大好きになった人も多いだろう。

火山大噴火で燃えるマグマに満ちた島に取り残された草食恐竜アパルトサウルスが、「連れて行って連れて行って」と島から去るオーウェンとクレアに何度も何度も呼びかける。やがてマグマの毒ガスにまかれて姿がみえなくなっていく様子が哀しくて、ここで涙を流さなかった人は居ないだろう。
またオーウェンに育てられたベロキラプトルの孤児で1頭だけ生き残ったブルーがオーウェンに寄せる想いもとても共感できる。こんなに可愛い奴ら、誰もがペットに欲しいと思うだろう。

かくしてジェラシックパークの恐竜たちの大半は火山で絶滅し、財団に捕獲された恐竜たちは、恐竜同様DNA操作でクローンされた少女メイジ―によって野に放たれた。地下室の恐竜たちを生かすか、見殺しにするか二者択一を迫られて、クレアはようやくの思いで自分の思いを押しとどめて、恐竜をあきらめようとするが、それではメイジ―の存在をも認めないことだ。メイジ―はオーウェンとクレアの堅い決意に反して、恐竜を自由にし、この世で人と恐竜を共存させることでクローンとしての自分の命を自己肯定したのだ。勇気ある決断だったと言える。

母親が事故死した後メイジ―はお祖父さんと乳母に育てられたが、乳母役に出てきたのが、ジェラルデイン チャップリンだ。再びこの女優を見ることができてとても嬉しかった。喜劇王チャップリンの娘。映画「ドクトルジバゴ」でジバゴの妻役だったころの知的で美しい姿は、1970年代の他のどの女優よりも抜きんでていた。いまはしわくちゃだったが、全然かまわない。気品に満ちた雰囲気をまとい、キリッと立つ美しい立ち姿と、洞察に満ちた眸、可憐な様子は、むかしのまんまだ。

オーウェンとクレアのやりとりが面白い。前回の映画で二人はハッピーエンドで、あれから3年も経っているから、家庭を持って2-3人子供でもいる頃かと思ったら、二人はあのまま別れていた。その理由というのが聞けば、クレアが腹を抱えて馬鹿笑いするほど単純な、クレアの言葉を誤解して取り違えたオーウェンが、自分から去っていったからだった。そんな二人が再会して互いになくてはならない存在になっていく。オーウェンは単純で武骨な男。クレアは困っても、命の危険にさらされても男に助けてもらうことを全く期待しない。男をアテにしない自立した女として描かれていて好ましい。

クレアの二人の助手に、ラテイーノとアフリカンアメリカンを起用したことは良いことだ。アメリカの人口比からいっても自然なことで、これが正しい。正しいことをしないハリウッド映画が多すぎる。ジャステイスがIT技術者で眼鏡をかけてオタクっぽいがアフリカンアメリカン。そしてジア獣医がラテイーノ女性だ。ジアが姿が見えないのに声だけで誰かわかって彼女が車から出て天を仰ぐと、ゆっくりと森から巨大なアパルトサウルスが姿を表すシーンは、感動的だ。

この映画、安心して子供に見せられる。12歳のメイジ―の名演技。恐竜たちの生き生きとした立ち回りにもほれぼれする。ハリウッド映画は娯楽映画と馬鹿にすることなかれ。とても満足した。
この世も、とうとう人と恐竜とが共存する本当のジェラシックワールドになった。空を見上げればプテラノドンが普通に飛んでいて、海で泳げばモササウルスが何気なく近付いてくる。次作が待ち遠しい。

2018年8月3日金曜日

イギリス映画「エデイ」

この7月に日本では集中豪雨によって洪水や土砂崩れが起きて、死者を含む沢山の被害が出るという痛ましい事態が起きた。
土砂崩れが起きるたびに、日本の林業は大丈夫か、と気になる。亡くなった最初の夫は、教育大学、今の筑波大学の林業学科を出て、地すべり学会の学会員だった。彼は、国有林を管理するグリーンレジャーが廃止されて、山に入る人が居なくなり、山々が荒廃しハゲ山が増えた。地元の市町村が植林をするといっても、すぐに大木になって見栄えは良いが、浅い根を張って水を吸わない外来樹木ばかりを植えるようになったと言って、政府の安易な林業政策をいつも激しく批判していた。

どんなに雨が降っても、木が水を吸えば山崩れは起こらない。
まめに山に入り一本ずつ不要な若木を伐採し、100歳を超えた大木を育てる。バランスを考えながら間伐した分だけ木を植える。このように、昔から何百年も日本で行われてきた間伐と植林を続けて、水を吸って大地を支える大木を大切に育ててきたら土砂災害は防止できるのではないか。そのための地域ごとの林業従事者を育成する必要があるだろう。山を守ることは、下界で畑を作り日々の生活をする人々を守ることだ。
急速に日本の老人人口が増え。若い労働人口が減少する中で、地方の過疎化が進行している。捨てられた地方の山村が増えれば、山を守る林業の専門家が育たない。山に人が入らなくなれば自然災害の規模は大きくなるばかりだ。林業と、農業とは切っても切り離せない大切な国の経済の根幹にあたる存在であり、これをもとに国の経済を考えないならば国の将来はない。山を守ることは、国を守ることだ。武器を買う予算があるなら、一人でも多くの山を守る若い人を育てることのほうが大切だ。

山にはお世話になった。魂を救われた。
谷川岳、丹沢の山々、八ヶ岳、穂高、槍ヶ岳、立山、剣岳、白馬岳、常念岳、蝶が岳、焼岳、乗鞍岳、甲斐駒ケ岳、仙丈ケ岳、白峰三山。どの山も独特で味わい深く忘れ難い。
普通のお婆さんがスコットランドの山々を歩く映画を観た。山の映像を見ているだけで心が洗われる思いだ。
                
イギリス映画;「EDIE」エデイ
監督:サイモン ハンター
キャスト
エデイ : シエラ ハンコック
ジョニー: ケビン グズリ―

ストーリーは
ロンドンの郊外に住むエデイは83歳になる。病身だった夫が老衰で死んだ。エデイの結婚生活は夫の介護に終始した。30年前、夫はエデイを殴り、その夜怒りを制御できないまま脳出血を起こして倒れ、彼は死ぬまで再び立ち上がることも仕事することもなく妻の介護によって30年間生き永らえたのだった。
夫の死後、娘はエデイを強引に老人ホームに入居させようとする。エデイは連れられて行った老人ホームで、生きる屍と化した老人の群れをみて、とても自分には耐えられないと判断して、ひとり家に帰って来る。ともかく身辺整理をしなければならない。家にもどって、古い写真や手紙や書類を暖炉で燃やしてたときに、火の中に投じた1枚の山の絵葉書が何故か気になって手に取って眺めてみる。
そうだ。思い出した。
この絵葉書が切っ掛けで夫がエデイを殴ったのだった。その結果夫は不具の身となって死ぬまでエデイに介護を強いた。すっかり記憶がよみがえった。この絵葉書は、エデイの父親がよこしたものだった。エデイは子供の時から釣り好きの父親のお供で山々を歩き、キャンプをして、ボートに乗り、釣りをしたものだった。結婚したあとも父親はエデイを誘って一緒に山に行こうを絵葉書をよこしたのだった。それを見て怒った夫はエデイを殴った。すっかり忘れていた記憶が蘇り、エデイは自分の30年間は一体何だったのかと自問自答する。

翌日エデイはリュックサックひとつ背に背負って、家を出る。列車を乗り継いで山岳地帯に向かう。雨の中、山のふもとの村まで行くバスを待っていると、もうバスは出てしまったという。ちょうど村まで帰るところだったジョニーという気の良い青年に拾われて、エデイは彼のジープに乗って、村の登山者のためのホテルに連れて行ってもらう。ジョニーは山の道具を売る山岳用品店の店員だった。
エデイはジョニーに、ガイドを依頼する。1日300ポンド。高いとエデイは文句を言いながら1日だけ足慣らしにガイドのジョニーとトレッキングしてみる。そこでエデイは自分が持ってきた昔の長靴や防寒着や、キャンプで湯を沸かしたり料理するコッヘルなどが、時代ものでもう’使いものにならないことを知らされる。ジョニーの働いている店で登山用具を全部そろえてもらって、エデイは出発することになる。

出発の前夜、ジョニーはエデイをパブに誘う。エデイはデイナーのためにロングドレスを身にまとっていそいそと出かけるが、パブに来ていた心ない人々は,年寄りのエデイを笑いものにする。傷ついたエデイは自信をなくして登山をあきらめてロンドンに帰ろうとするが、ジョニーはエデイを引き留めて、山に向かわせる。
頂上をきわめるまでには3日かかる。悪天候の中、テントを張り、荒地を歩き、ブッシュを抜けて湖をボートで渡り、さらに歩き続けなければならない。折しも低気圧前線が伸びて、嵐になって、、、、。
というお話し。

実際に83歳で映画主演して登山までするエデイもすごい。頑固一徹を顔に書いたような女優さん。でもこんな偏屈で笑顔ひとつ見せない老女を、山が好きだという一点のために、ジェントルマンシップをもって扱い、どんな困難にも努力を惜しまない、ジョニーが素晴らしい。これが山男というものだ。気の良い素朴で誠実な青年。石塚真一の漫画「岳」に出てくる登山家、島崎三歩さんみたいだ。
この映画のテーマは友情。友達に男女差や年齢は関係ない。山の頂上をきわめたいという想いに深い意味を抱えた女性がいたら、その望みをかなえてやるために、どこまでもサポートするのが、男気であり真の友情だ。
スコットランドの山岳地帯が素晴らしい。荒々しい岩あり、湖あり、なだらかな山々もあり、それぞれが気象の変化によって表情豊かで、急に穏やかな山になったり、突然豪雨になったり、死をもたらす残虐な魔の山になったりする。

30年余り自分の意志に反して生きて来ざるを得なかった女性が、やっと解放されたとき、一体何をしたらよいのか。83歳の老醜をむき出しにしながらも、エデイは自由になった喜びに、拳を高々と空に向かって挙げる。彼女は体がボロボロになっても、子供の時に山登りで得た喜びを山登りで再体験することなしに自分を取り戻せなかったのだろう。歌を忘れたカナリアは,月夜の灯りに照らされて、再び歌うことができるだろうか。
自分は一体何をしてきたのか、これからどうして行ったらよいのかわからなくなったとき、自分の原点に立ち戻って見たら良い。結婚前の若かったころ、自分が無力で財産も経験もなく、まわりに世話ばかり焼かせながらも、自分ひとりで懸命に何かを掴もうとしていた、そのころの自分に戻って見るものだ。
映画を観て自分の生きて来た人生を振り返って、エデイに共感する人も多い事だろう。

ハリウッド映画のような派手さはないが、英国映画の良さがよくわかる。地味だが高らかに叫ぶのではなく、静かに、でも強靭に、人間賛歌がうたわれている。