2015年12月12日土曜日
マキシム ヴァンゲロフ シドニー公演を聴く
ヴァイオリニストのマキシム ヴァンゲロフが、初めてオーストラリアに来た。メルボルンで1度、シドニーでたった一度だけの公演。もちろん仕事を放り出して公演を聴いてきた。ヴァンゲロフは、わたしにとって神様みたいな存在。ヨーロッパから20時間以上の飛行で、シドニーまで足を伸ばしてくれて、涙が出るほど嬉しい。
シドニーオペラハウス
プログラム
1)ジョナサン セバスチャン バッハ
シャコンヌ:無伴奏ヴァイオリンのためのソナタとパルテイータ2番D マイナー(1720)
2)ルドウイグ バン ベートーヴェン
ヴァイオリン ソナタ 7番 C マイナー作品30(1802年)
3)モーリス ラベル
ヴァイオリン ソナタ 2番 Gメジャー(1927年)
4)ユージン イザイ
ヴァイオリン ソナタ 6番 Eメジャー 作品27(1923年)
5)ハインリッヒ ウィルヘルム エルンスト
エチュード6番 ヴァイオリン独奏のための「庭の千草」変奏曲(1864年)
6)二ッコロ パガニーニ
ヴァイオリンとピアノのためのカンタービレ 作品17 Dメジャー(1823年)
作品13 クライスラーによる変奏曲(1905年)
アンコール
1)ブラームス 「ハンガリアンダンス 第2番」
2)マスネ 「タイスの瞑想曲」
3)ブラームス 「ハンガリアンダンス 第5番」
マキシム ヴァンゲロフはシベリア ノヴォシビルスク出身のユダヤ系ロシア人。40歳。5歳でヴァイオリンをガリーナ トウルチヤニノーヴァに師事、10才でポーランドのリピンスキーヴィエ二ヤスキ国際コンクールで優勝した後、モスクワ、ぺテルスブルグで活躍し、1995年にはプロコフィエフとショスタコヴィチ協奏曲のCDでグラモフォン賞を与えられグラミー賞にノミネートされた。1997年以降アメリカで大ブレイクし、各国で演奏活動を続けるが、2007年の肩を痛め演奏活動を休止。ユニセフ親善大使として若い音楽家への教育に力を入れ、指揮者としても活躍する。2011年から再び精力的に演奏活動を再開して、現在に至っている。ベルリンフィルハーモニック、ロンドンシンフォニーオーケストラ、BBCシンフォニーオーケストラなどで指揮をし、2013年からは日本ではヴァンゲロフフェステイバルが毎年開催されるようになり、今年で4年目になる。昨年は上海シンフォニーホールのオープニングで、ロン ユーやピアノのランランと共演した。現在はスイスのインターナショナルメニューヒン音楽アカデミーと、ロンドンロイヤルアカデミーオブミュージックの教授。
ヴァンゲロフは、世界各国でソロのヴァイオリニストとして公演する先々で、マスタークラスを開催して、若い生徒の教育に積極的に取り組んでいる。マスタークラスでは希望者に個人レッスンをして、一般に公開している。生徒の演奏を聴いて、矢継ぎ早に問題点を指摘しては技術的なアドバイスや的確な指示をする。そんな彼の教師としてのあたたかい人柄と包容力には定評がある。
わたしが初めてヴァンゲロフを知ったのはテレビでBBCのドキュメンタリーを放送した時だ。家でニュースのあと、片付けをしていて消し忘れていたテレビから、今まで聞いたことのなかった「深い溢れるような豊かな音」が聞こえて来て思わず息を止めた。今までどんなヴァイオリンからも、そのような深い音を聞いたことがなかったので、ヴァイオリンでこんな音が出せるものなのか、と心底驚いて、心惹かれた。それは、ユニセフ親善大使ヴァンゲロフが、アフリカの子供たちと音遊びしたり、一緒に歌を歌ったりしているレポートのバックグランドに流れる彼の演奏によるものだった。若いヴァイオリニストが、子供達のちょっと兄貴分といった風に子供に混じって無邪気に遊んでいる。その人のヴァイオリンは深い深い人の心が満ち溢れてくるような豊かな音色に激しく心を奪われた。
それはシドニーにきたばかりのころの話だ。その前まで10年間フィリピンに滞在していて、娘たちがマニラのインターナショナルスクールに通っていた間、半ばボランテイアのような形でヴァイオリン教師をしていた。毎日4クラスのジュニアスクールのヴァイオリンの授業と、課外活動の弦楽オーケストラ指導と、年4回の定期コンサートの準備と、自宅にやってくる生徒の個人レッスンとで目が回るほど忙しく、ヴァイオリンの「本当の音」など聴く暇がないような状態だった。ヴァンゲロフの名前も知らなかったし、彼が、華麗な技術と豊かな表現力とで、日本で最も人気のあるヴァイオリニストだというのも知らなかった。日本にヴァンゲロフフェステイバルというのがあって、毎年彼の訪日を待って音楽祭が行われるというのも全然知らなかった。
ヴァンゲロフは、マスタークラスに来る若い生徒達に向かって、もっともっと表現をして、ヴァイオリンでオペラを歌うように歌いなさいと、繰り返し言っている。オペラのようによく訓練された音でしっかり表現する、、まさに初めて聴いて心から感動した時の、彼の深みのある音だ。音楽はその人の心の表れだから、その人の心に音楽がなければ表現できない。ヴァンゲロフの心には豊な音楽がいつも流れているから、音合わせでさえ他の人と音が全然ちがう。豊かに滔々と流れ満ち溢れるバイカル湖の水のように深い澄んだ音だ。
プログラム
1)バッハのシャコンヌ
2時間余りのコンサートでこれを最初に演奏する演奏家を初めてみた。いつもカジュアルマナーというか、クラシックを聴くためのマナーのできていないオーストラリアで、ヴァンゲロフが一人挌闘と言う感じで、すごい集中力で、力強く弾き始める。ヴァイオリンを弾く人ならば誰もが挑戦してみたい、永遠の名作で、難曲。重音奏法を多用して、重音で低音を演奏しながらメロデイーを弾く、和音が低音で響いている間にそれを伴奏に、ハイテクニックの旋律を重ねるといった高度なテクニック。ボーイング(弓使い)の力強さとしなやかさに感動する。アルマンド、クーラント、サラバンド、ジーク、シャコンヌの5つの舞曲を続けて演奏する15分間の最高傑作。この曲には哀しみが満ちていて、演奏されている間中、なぜか身動き出来なくなる。ヴァンゲロフの演奏は、ただただみごとだ。
2)ベートーヴェンのソナタ 7番
ベートーヴェンはバイオリンとピアノのためのソナタを10曲作曲している。5番の「春」と、9番の「クロイツエル」が有名だが、今回演奏された7番は、ロシア皇帝アレクサンダー1世の献上されたのでアレクサンダーソナタとも呼ばれている。重厚で輝きのある曲だ。
ピアニストは、現在フランス在住のロシア人、ローステイム サイトコロフ。ベルベットのスーツに白い蝶ネクタイをつけた長髪で線の細い華奢な人。そんなショパンみたいなピアニストが、彼を10才若くしたようなもっと線の細い感じの譜めくりの少年をつれてきていた。ヴァイオリンとピアノの掛け合いの楽しい曲目だ。ヴァンゲロフはパワフルに演奏する。弓使いの美しさに見とれる。
3)ラベル ヴァイオリンとピアノのためのソナタ
これほど自由にジャズやブルースを組み入れた曲を楽々と演奏されると、もううれしくなる。クラシック音楽なんて、どこかにふっとばされていく。むかしはラベルもドビッシーも苦手で、フランス人って何を考えているんだろう、と不思議に思っていた。だって、リズムが刻めない。何分の何拍子なの?と聞いてもわからない。そんな訳の分からないラベルやドビッシーが、フェイスブックで知り合ったフランス在住のピアニスト、バルボット成江さんの演奏ヴィデオを聴き、彼女の穏やかで優しい人柄に惹かれるうちに好きになって来た。聴くのは良いが演奏するのは、とても難しいことも分かってきた。高度な技術を駆使してヴァンゲロフはラベルを聴かせてくれた。
4)ユージン イザイのヴァイオリンソナタ
ベルギーの作曲家でヴァイオリニストの作品は初めて聴いた。ヴァンゲロフの独奏。ロマン派の作曲家だが、とても斬新な曲だった。
5)「庭の千草」とその変奏曲
パガニー二と同時代を生きたチェコ生まれの作曲家でバイオリニストだったエルンストの作品。この人はパガニーニが大好きで彼がパリにいる間は、自分もパリで競って演奏活動し、技巧的な難曲を好んで演奏したという。アイルランド民謡の「庭の千草」の単純なメロデイーが、いろいろなバリエーションで演奏される。ものすごい重奏の連続で、ダブル、トリプル重奏が続く。とくに左手で重奏を弓でメロデイーを演奏しながら、同じ左手でピッチカートで伴奏を入れる、というテクニックには、聴いていたシドニーっ子達が夢中になって、曲の途中なのに拍手したりワーワー言いながら興奮していた。こういう風景は、お行儀の良い日本のクラシックコンサート会場では絶対みられない。オージーはクラシックコンサートで、第1楽章が終わって拍手してはならないところでも、自分が感動したら大拍手するし、驚くようなテクニックに出会えば曲の途中でも大声を出す。足もガタガタ踏み鳴らす。
この変奏曲の、ヴァンゲロフが弾いたのではなくて、もっとずっと簡単な変奏曲を中学生の時、発表会で演奏した。今度のコンサートで何を弾くの、と聞かれて、アイルランド民謡のこの曲の名を言うのが恥ずかしくて、とても嫌だった。簡単な曲しか弾けない初心者に思われると思ったのだろう。今になって、そうじゃない、難曲だったんだと、わかった。選曲が悪いと思い込んで恨んだ小野アンナ先生、村山雄二郎先生ごめんなさい。
6)パガニーニのヴァイオリンとピアノのためのカンタービレ
情感豊かな静かで美しい曲。表現者のヴァンゲロフは、本当にヴァイオリンで声高らかに歌っていた。オペラ歌手の様に。
アンコールで演奏されたブラームスのハンガリアンダンスでは、ヴァンゲロフは、きわめて早いパッセージをダブルストップさせる奏法や、観客が大喜びして騒いだ左手のピッチカートを多用して何度も観客を夢中にさせてくれた。ピッチカートが出るたびに観客が沸く。ハーモニックスの重音を繰り返すなんて、すごいテクニックだ。彼はサービス精神のかたまりのような人。これほど自由自在に高度なテクニックを使えるようにするためには、どれだけの練習と苦労があるのか、聴衆には決してわからない。
アンコールの2番目に演奏されたマスネの「タイスの瞑想曲」は、自分が2週間前の友人達とのクリスマスパーテイーで演奏したばかり。ああ、わたしの為に弾いてくれたんだ、と勝手に思い込みながら、心に染み入る美しいひとつひとつの音を受け止めた。美しくて泣けてくる。
最後にヴァンゲロフは、ビバ、ムジカプロジェクトの招待で、初めてオーストラリアに初めて来られて嬉しいと挨拶し、じゃあビバ ムジカのテーマソング(?)を最後に演奏します、と言って「ハンガリアンダンス第5番」を、すごいスピードで弾き始めて皆を笑わせてくれた。何て素敵な演奏家なんだ。
プログラムは、古典の古典:バッハに始まって、ロマン派、そしてラベルのジャズやブルースに触発されて作曲されたラベルと、パガニーニのヴァイオリン曲、それにアイルランド民謡、アンコールで弾かれたハンガリア民謡という風に、すべての時代と曲想をカバーしている。
コンサートでは、楽章ごとに拍手したり、ひとつの楽章が終わると咳ばらいする人も多く、演奏中でも自分が好きなところでワーワー声を出したり、お行儀の悪いオージー観客だったが、ヴァンゲロフの高度な演奏テクニックにみな魅せられて拍手、足踏みブラボーの連呼で終了した。わたしは念願の彼の生の演奏を聴くことができて、本当に嬉しかった。
シドニー公演の翌日、彼は日本に向かった。日本で、今度はお行儀の良い観客を前に、すばらしい演奏を見せていることだろう。