2013年6月24日月曜日

沢木耕太郎の「キャパの十字架」

          



うーん、この本には唸ってしまった。タイトルの後に こんなセンセーショナルな本の紹介がついている。
ー「世界が震撼する渾身のノンフィクション、、、戦争報道の歴史に燦然を輝く傑作「崩れ落ちる兵士」、だが、この作品はキャパのものなのか、76年間封印されていた真実が遂に明らかになる。」ー
私はキャパが好き。そして岡村昭彦も好き。二人ともベトナム戦争で不条理な戦争を告発するためにカメラをもって戦場に入り、キャパは帰ってこなかった。キャパの「ちょっとピンボケ」と、岡村昭彦の「兄貴として伝えたいこと」は、間違いなく私の愛読書に入る。

たった一枚の写真が人の生き方を変えてしまうことがある。実際に起こっていることを切り取った写真には、百の言葉や評論や解説や言い訳よりもインパクトが強い。強力なメッセージを含んだ写真は、起こった事実以上のものを人に訴える力を持つに至る。報道写真家の中で、従軍カメラマンの作品ほど事実を事実以上に伝えるものはないだろう。ちょっと思い返してみるだけで、報道されて有名になった何枚もの写真が思い浮かぶ。ベトナム戦争で米軍に拘束され、頭を撃ち抜かれる瞬間の少年を撮った「べトコン」の写真、ナパーム弾で家族も自分の着ていた服まで焼き尽くされて大やけどを負い、泣き叫びながら避難路を歩く全裸の少女。アフリカ、ソマリアの飢餓を撮った「ハゲワシと少女」。

そして、ロバート キャパの代表作、スペイン戦争の「崩れ落ちる兵士」。これはスペイン共和国兵士が、敵であるファシスト反政府軍の銃撃に当たって倒れるところを撮った作品とされていた。スペイン共和国が、やがて崩壊し、共和国を守るために従軍した兵士の栄光と誇りを象徴する写真として最も有名な戦争写真。アメリカの写真週刊誌「ライフ」にも掲載された、キャパが22歳の時の作品だ。この年だけでも50万人の死者を出したスペイン戦争の悲惨さは、世界中から共和国を守る為に志願して実際参戦した、作家のアーネスト ヘミングウェイや、ジョン オーウェル、アンドレ マルローなどによっても伝えらた。しかし、この共和国側に対して フランコ将軍率いるファシスト王党派が3年に及ぶ内戦で勝利し、共和国は崩壊する。当時、画家のピカソが、描いた「ゲルニカ」も、 このキャパの「崩れ落ちる兵士」の写真はスペイン戦争の悲惨さを世界に知らせる強力なメッセージだった。

沢木耕太郎は、1986年に、リチャード ウィーランの初めての本格的なキャパの伝記「ロバート キャパ」の翻訳を任される。それと同時にキャパの決定版写真集「フォトグラフス」も翻訳依頼される。その後、伝記は「キャパその青春」と「キャパその死」という2冊の本になり、写真集は「ロバートキャパ写真集、フォトグラフス」というタイトルで、日本語で出版される。沢木はキャパの生い立ちから死に至るまでの軌跡を調べるにつれて、キャパの代表作でカメラマンとしての契機になった「崩れ落ちる兵士」の写真が、いつどのような過程で撮影されたのか、疑問に思う。ネガが残っていないし、本人がこの写真についてだけは、問われても何の説明もしようとしなかった。

沢木は、キャパについて書かれたすべての書籍を検証する。2002年、アレックス カーシュウ「血とシャンパン」、2007年リチャード ウィーラン「これが戦争だ」、2009年J M ススぺレギ「写真の影」など。著者に会い、崩れ落ちる兵士の身元を確認するために当時、キャパが従軍していた戦地に何度も足を運び、家族の証言を得る。地元の郷土史家や、当時の学校の先生や、森林調査官らに会い調査した末、沢木はキャパが写真を撮った場所と日時に確証を得る。正確に「崩れ落ちる兵士」が撮影された日時に、その場所では戦闘はなかった。そこでわかったことは、「崩れ落ちる兵士」の写真は、戦闘を写したものではなく、軍の演習風景を撮影したものだということがわかる。「やらせ」だというのだ。

沢木は、同じ時に「演習」を撮影したほかの30枚の写真を徹底的に調べる。一枚一枚の写真が、どのようなアングルで撮られ、兵士達がどの方向から敵を狙い、敵がどの方向に居て、キャパはどこでカメラを構えていたのか。
当時まだ存命していた 作家、大岡昇平に、これらの写真をみせて、それらが実戦か演習の写真かを問うと、銃の構え方を見ただけで実戦経験のある作家が、たちどころに「演習ですよ。」と言い切るシーンは、印象的だ。また、連合赤軍で、懲役刑に服したことのある雪野健作に教わって、銃撃を受けた兵士が写真のようにのけぞって倒れるかどうか、を実弾の速さと重さから計算して、物理学的には、当時の銃弾に当たっただけで 写真のようにのけぞって倒れることはあり得ない、という結論を出すところも、感動的だ。

2010年に沢木は現地に飛び、郷土史家に会う。この人はキャパの写真が キャパのライカではなく、もうひとつのキャパのカメラ、ローライフレックスで撮られたものだという。2011年にも 沢木は再訪して、雲の動きや写真による影から、30枚の写真を撮った 順番を同定する。そして崩れ落ちる写真が撮られた時、同時に別の方向から同じ人物が撮られていることが確認する。写真は2台のカメラ、2人の人物によって撮られていた。カメラは、ライカとローライフレックスだ。カメラマンは、キャパと、その頃二人でいつも一緒にいたキャパの恋人ゲルダジローだ。
沢木はキャパが持っていたライカ3Aと、ローライフレックススタンダードを手に入れて、実際に同じところで何十枚もの写真を撮る。またパリに飛んで、写真の原板を掲載した当時の雑誌を、パリ国立図書館で探し、さらに渡米してマンハッタン国際写真センターで 当時掲載された雑誌を調べる。ニューヨークのカメラマンから ローライフレックスの特徴を聴くことで、写真はローライフレックスで撮られたことに確証が得られる。

そしてわかったことは、その日、軍事演習風景を、キャパとゲルダの二人が、ライカとローライフレックスで撮影していたこと。同じ場所、同じ構図で、カメラを構えていた二人の前で、坂道を銃を構えて行進してきた兵士の一人が滑って転んだ。キャパのライカは 行進する兵士とその横をまさに転びそうになった兵士を捉えた。しかし一瞬遅れたゲルダのローライフレックスは、滑って転ぶ一瞬を捉えた。、、、「崩れ落ちる兵士」は、ゲルダが撮った写真だったのだ。
当時の写真は、現実にどう映っているか 本人たちは確認できなかった。撮り終えたフィルムはロールのまま雑誌社に送られる。そこでどんな評価がなされるかは、戦地にいるキャパとゲルダは、知る由もない。

この時、キャパは22歳。ゲルダは、このあと戦場に残り共和軍の戦車が暴走してきた事故で命を落とす。26歳だった。遺体がパリに運ばれると、葬送に数千人の市民が付き添ったといわれる。キャパはこの写真で有名になった。しかし写真について説明を求められても、無言で通した。

キャパの「崩れ落ちる兵士」は、軍事演習中に、キャパの恋人ゲルダが、偶然シャッターを押してしまったために撮られた写真だった。すでに有名になってしまったキャパには ゲルダの死後、言い訳も、真実を言うことも許されなかった。黙り通しひとり十字架を背負って、戦争写真家として前に進むしか道がなかった。キャパは その後、日中戦争、第2次世界大戦ではヨーロッパで空襲下のロンドンを撮り、イタリア戦線に行き、ノルマンデイー上陸作戦では 第2次世界大戦で最大の死者を出した浜で次々に上陸する兵士とともに上陸して、無数のドイツ兵に背を向けて、有名な「波の中の兵士」を撮る。そして1954年フランスがインドシナに介入した際に「ライフ」の記者として派遣された北ベトナムで、地雷を踏んで死ぬ。享年40歳。

一枚の写真で人生が変わってしまうほどインパクトの大きな戦争写真の傑作が 「やらせ」でしかも「盗作」といえるようなものだった事実を解明して、沢木耕太郎が発表したことは、写真界にとってのタブーを侵したようなものだろう。スペイン人にとって受け入れがたい。ファシズムに抗して、スペイン戦争を戦った誇るべき歴史を考えれば、ピカソの「ゲルニカ」と、キャパの「崩れ落ちる兵士」は、スペイン戦争のイコンだ。侵してはならない聖域だった。

しかしキャパが偉大な戦争写真家だったことには変わりはない。ゲルダとともにスペイン戦争でファシストたちに蹂躙されていく人々の悲惨な歴史を、証人としてたくさんの写真で残した。キャパは 依然として高い評価をされるべきだ。ひとり十字架を背負って、いくつもの戦場で命をかけて、戦争の現場証人としてあり続けた。改めて、キャパの写真に見入る。しかし、沢木耕太郎も良い仕事をした。執念の数十年だったろう。