2011年11月18日金曜日

ピカソ展ーパリピカソ美術館から




パブロ ピカソは生前 何度も結婚したり 愛人をたくさん持ったが、愛人のフランソワーズ ジローに、こう言ったそうだ。「女というものは苦痛ばかりを作り出す機械のようなものだ。自分にとっては女は二種類しかいない。女神か、あるいはドアマットだ。」
また、ピカソは どうして子供のような絵を描くのか、と問われて「私が子供のときはラファエロのような絵を描く事が出来た。しかし一生と言ってよいほどの時間をかけて、やっと子供のような絵が描けるようになったのだよ。」と。
たくさんのピカソの言葉が残っている。しかし、私が一番好きな 彼の言葉は、この言葉だ。「明日 描く絵が一番 素晴らしい。」疑いようのない自信と楽天性に満ち溢れている。なんて 素敵な言葉だろう。

パリ国立ピカソ美術館から、150点のピカソの作品が海を越えて、シドニーにやってきた。NSW州アートギャラリーで 11月12日から来年3月25日まで展示される。入場料$25、学生と60歳以上は、$18。
パリのピカソ美術館は 1973年に ピカソが死んだ後 遺族が遺産相続税を支払う代わりにフランス政府に寄付された作品を収容、一般公開するために開設された美術館だ。200点余りの絵画、彫刻、3000点のデッサン、88点の陶器を所蔵している。今回は この中から、150点の絵画とブロンズが シドニーにやってきた。
さっそく行って見た。
ピカソが描いた年代順に 10の部屋に分かれている。

第1室
1895-1905:「青の時代」
スペインからパリへ。
ピカソは 幼いときから美術教師だった父親から、絵画の才能を見出されていた。13歳で描いたデッサンなど、とてもその年齢の子供が描いたものとは思えない熟達した筆だ。19歳でパリに行き、印象派後期の画家達と交流し、多くのものを学ぶ。この頃は、暗いブルーとグレーを背景に、乞食、売春婦、ホームレスなど 社会から疎外された人々を描く。1904年になってモンマルトルに居を構え、ヘンリー マチス、アンドレ デライン、ガートルード ステインなどと親交を結び 赤の時代を迎える。
ここで、本物の「セレステイーナ」1904の絵をを初めて観た。青の時代の代表作だ。子供の頃 父の書斎で画集を見ていて、この暗い暗い、片目の怖い顔の中年女性の絵を見てしまって、恐怖に慄いて その夜はうなされたことを思い出した。ほかには、インクによるエッチングで、「断頭台の処刑人」1901などが印象的だった。

第2室
1906-1909:「赤の時代」
この頃描かれた「アビヨンの娘達」1907は、ニューヨーク近代美術館所蔵なので 今回は観られないが、アバンギャルドの先がけとなりピカソの赤の時代の代表作となる。「自画像」1906を観ることができた。白の壁に ほとんど白と言って良い肌色の自分の姿だ。「木の下の3人」1907が とても印象的だった。

第3室
1910-1915:「キュービズム」
最も尊敬していたに、セザンヌの死後、ピカソはジョージ ブラックと親交を結び、実験的にブロックを積み重ねたような抽象画に、鮮やかな色彩を塗り重ねる 彼独特のキュービズムの世界を切り開く。キャンバスを切り刻み 木を貼り付け、鉄の断片をキャンバスに取り付ける。実物を見てみたかった「ギターを持った男」1911を 観ることが出来た。

第4室
1916-1924:「古典主義への回帰」
第1世界大戦を前後して ローマやポンペイを旅行した影響もあって、古典主義にもどり、独自のシュールリアリズムと 古典とを融合させていく。またジャン コクトーと親交をもち、一緒にバレエの演出や衣装に参加する。その縁で、ロシア貴族出身のバレリーナだったオルガ コクローバと結婚。裕福なオルガは ピカソをパリの上流階級の人々に紹介し、ピカソの世界を広げることに力を貸した。「オルガのポートレイト」1918を 観ることが出来た。
「すわる女」1920、「村のダンス」1922など、太い手足、大きな指、柔らかな体の線、暖かい血が通った男女達の姿、、、。
このころのピカソの絵が一番好きだ。中でも 「海辺を走るふたりのおんな」1922が、際立っている。海の鮮やかなブルーが他の作品にない美しさで、海辺を走る女達の純真さと 歓びを全身で表しながら走る姿がなんとも言えない、魅力のある作品だ。この絵を見るために、この展覧会に行ったようなものなのに、思ったよりも小さくて、もう少しのところで見落とすところだった。あぶないあぶない。

第5室
1925-1935:シュール リアリズム
この時期になると 人は人の形をしていない。より抽象的になり より実験的な作品が増えてくる。
「女の頭」1931、という題の大きなブロンズが 5つほど並んでいた。どれも丸みを帯びて 優しく、ブロンズなのに柔らかさが感じられる。デフォルメされた女、ブロンズの「石を投げる女」1931も良い。「赤い椅子にすわる女」1932、「キス」1925、「本を読む人」1932、「休む裸婦」1932、「パレットとイーゼルを持つ画家」1932も 好きだ。

第6室
1936-1939:「愛と戦争」
スペイン市民戦争の勃発によって「ゲルニカ」1937 を製作し始め、写真家ドラ マールと同棲を始める。彼女は、ゲルニカが出来上がるまでのピカソの姿をフイルムで記録する。
「ドラ マールの肖像画」1937は、ロボットのような女の横顔と正面の見た顔とを張り付けたような絵だ。「泣いている女」1937、「父の妻」1938、「青い帽子の女」1939、が印象的だった。

第7室
1949-1951
1949年にナチスがパリを侵略、占領していた間 ピカソの多くの友人達はパリを離れたが フランコ政権のスペインを捨ててきたピカソはそのままパリに留まり製作を続ける。多くの作家達、芸術家達が 志願して戦ったスペイン市民戦争にも、ピカソは志願しなかった。自分を共産党員だといいながら、何一つ政治的な動きに関与していない。
巨大な作品「韓国の大虐殺」1951は、無防備な女子供達が完全装備の武器を持った男達に蹂躙されている作品だ。このころのピカソはアメリカで高く評価され、21歳の画学生 フランソワーズ ジローと出会い、二人の間にクラウド(1947)とパロマ(1949)の二人の子供をもつ。

第8、9室
1952-1959:「生の歓び」
ピカソは ジャクリーヌ ロークに出会い 二人して南仏に移る。「腕を組むジャクリーヌ」1954は 鮮やかな色彩で 人生を謳歌しているようだ。また、巨大な白と黒だけで描いた「枕を持った女」1969が印象的だ。「やぎ」1969という実物大のやぎのブロンズも美しい。

第10室
1961-1971:「晩年期」
最後のころのピカソは 現代美術の先駆者として描き続ける。「わたしは呼吸するのと同じに描いている。」と言っているが、彼にとって、描くことは 息をするのと同じに自然なことだった。1973年4月 91歳で亡くなるまで製作を止めなかった。最後の日、ジャクリーヌは 親しい友人達を晩餐に呼び、皆で彼を見送った。最後の言葉は、「僕のために飲んでくれ、僕の健康のために飲んでくれ。僕はもう飲めないよ。」

今回の展示では、総じて、絵画も良いが ブロンズがたくさん来ていて、それらがとても良かった。その重量感、存在感の確かさに圧倒される。
一度に150のピカソの作品を観られる機会は、一生にそう何度もないだろう。4ヶ月もの間 シドニーで展示してくれるのは ありがたいとしか言いようがない。
展示が終了する3月まで、何度か また足を運んで見ることになると思う。行くたびに きっと新しい発見があることだろう。

写真は
「海辺を走る二人の女」1922
「本を読む人」1932
「韓国の大虐殺」1951