2023年12月27日水曜日

父の思い出

先日FBで勲章が話題になって、父のことを書いたことで、父の記憶が一挙に蘇ってきた。
父が大学を定年で退官して国から勲章を授与されることになって、父は即座に断ったが、あとで勲章にルビーの宝石がついていたと知って、私がルビーだけ外してもらって来れば良かったのに、と言ったら「今からでももらえるだろうか」とあわてて父が電話に向かって走りそうになった、というエピソードだ。

そんな父の話をしたい。
71歳まで、早稲田政経学部の教壇に立った。学問的に何の業績も残さなかったが、学生を愛し、学生に愛された。

釣りが好きで千葉県の内房に釣り小屋を持っていた。毎年夏になるとゼミの学生を連れて行って「良く釣った奴にだけAをやる。他はB, 全然釣れなかった奴はCだ。」と言い渡されて、学生の中には釣り船に乗っただけで船酔いで釣りどころではない学生もいるのに、釣りの成果次第で学年末の成績が決まるなんて、とんでもない教授だったと思う。
水道はなし、井戸で炊事洗濯をし、トイレは旧式、ときどき漁師の家のお風呂に呼ばれる、といったのどかな田舎暮らしを、大学の2か月の夏休み中、ずっと父に付き合う勇者もいた。母は日焼けが嫌でついてこないし、子供だった私も兄も姉も父のゼミの学生たちに泳ぎを教わり、遊んでもらって、世話を焼かせた。9月に学校が始まるので、家に帰ると言ったら、「なんだお前の小学校はひと月しか夏休みのない学校なのか!」と驚いていた。

父は話好きで、話を始めると1コマ授業が90分だから、90分間話が止まらない。でも学生たちは父が話し始めると自然と輪になって、嬉しそうに話を聞いていた。政経学部だからバンカラ学生が大声で、父の言葉に異を唱えたり、ちゃかして笑いを取ったり、そのまま朝まで飲み会になって、みんなよく食べ良く飲み、こんがり日焼けして東京に帰った。
夏休みでなくても大学の自分の研究室は、学生たちのたまり場になっていた上、日曜日はいつでも自宅に学生たちが訪ねて来て、書生のように家にはいつも誰かが居るような家だった。
「先生の家」は食い詰めた貧乏学生がご飯を食べにくる場であり、悩みを抱えた学生が日曜には気晴らしに来る場だった。そして「先生」にとって学生は、警察に引っ張られた学生を引き取りに行ったり、就職から結婚までしっかり面倒を見るのが、当たり前という、良い時代を父は過ごした。「天下を取るぞ」と卒業後議員選挙に立候補した学生には、ずっと選挙結果や、地元での活動を見守っていたし、主要新聞社や、商社に就職した学生のことは、自分の手柄のように人に自慢していた。朝日はいいぞ、こいつが入ったんだから、とか、伊藤忠は最高だぞ、あいつが入ったんだから、とかだ。沖縄から来ていた学生のことは特別可愛がっていた。

父は満鉄の幹部だった父親の赴任先、京城(いまのソウル)の満鉄官舎で生まれ育ったが、小学生1年のときに父に死なれ淡路島に戻り父親の弟、大内兵衛に育てられた。毛筆が上手だったのは彼の影響だ。
大内家の男が全員、父の2人の弟も含めて、父親も叔父たちも従弟も、全員が赤門出身だった中で、たった一人早稲田で学び早稲田で教えた。我が道を行ったことにコンプレックスはなかったと思う。
でも晩年になって、母が亡くなって一人きりになってからは、すっかり外国に暮らす私を頼るようになって、私だけには、グジグジとこぼすようになった。「早稲田に入った時、兵衛は私学など塾と同じで大学ではない」、とビシッと言われた、とか、「私は母親から愛されたことがなかった、母は姉のことばかり可愛がった」、、、などと泣きそうな顔で言うこともあった。一級の寂しがり屋だった。

父が亡くなった時、私や兄や姉など身内の家族よりも大泣きした学生がたくさんいた。教える側にとっても教わる側にとっても、とても幸せな時代を、父は過ごした。
いまだに、もと学生で、シドニーに長年住む私に美しいクリスマスカードを送ってくださる方がいる。彼ももう80歳を超え、もうじき私も74歳。共通の思い出を抱いて、年を取ってきたと思う。
写真は上総湊の釣り小屋が壊れて、父が外房の御宿に釣りの拠点を移した時のもの。80歳に見えない。