父が大学を定年で退官して国から勲章を授与されることになって、父は即座に断ったが、あとで勲章にルビーの宝石がついていたと知って、私がルビーだけ外してもらって来れば良かったのに、と言ったら「今からでももらえるだろうか」とあわてて父が電話に向かって走りそうになった、というエピソードだ。
そんな父の話をしたい。
71歳まで、早稲田政経学部の教壇に立った。学問的に何の業績も残さなかったが、学生を愛し、学生に愛された。
水道はなし、井戸で炊事洗濯をし、トイレは旧式、ときどき漁師の家のお風呂に呼ばれる、といったのどかな田舎暮らしを、大学の2か月の夏休み中、ずっと父に付き合う勇者もいた。母は日焼けが嫌でついてこないし、子供だった私も兄も姉も父のゼミの学生たちに泳ぎを教わり、遊んでもらって、世話を焼かせた。9月に学校が始まるので、家に帰ると言ったら、「なんだお前の小学校はひと月しか夏休みのない学校なのか!」と驚いていた。
父は話好きで、話を始めると1コマ授業が90分だから、90分間話が止まらない。でも学生たちは父が話し始めると自然と輪になって、嬉しそうに話を聞いていた。政経学部だからバンカラ学生が大声で、父の言葉に異を唱えたり、ちゃかして笑いを取ったり、そのまま朝まで飲み会になって、みんなよく食べ良く飲み、こんがり日焼けして東京に帰った。
夏休みでなくても大学の自分の研究室は、学生たちのたまり場になっていた上、日曜日はいつでも自宅に学生たちが訪ねて来て、書生のように家にはいつも誰かが居るような家だった。
「先生の家」は食い詰めた貧乏学生がご飯を食べにくる場であり、悩みを抱えた学生が日曜には気晴らしに来る場だった。そして「先生」にとって学生は、警察に引っ張られた学生を引き取りに行ったり、就職から結婚までしっかり面倒を見るのが、当たり前という、良い時代を父は過ごした。「天下を取るぞ」と卒業後議員選挙に立候補した学生には、ずっと選挙結果や、地元での活動を見守っていたし、主要新聞社や、商社に就職した学生のことは、自分の手柄のように人に自慢していた。朝日はいいぞ、こいつが入ったんだから、とか、伊藤忠は最高だぞ、あいつが入ったんだから、とかだ。沖縄から来ていた学生のことは特別可愛がっていた。
父は満鉄の幹部だった父親の赴任先、京城(いまのソウル)の満鉄官舎で生まれ育ったが、小学生1年のときに父に死なれ淡路島に戻り父親の弟、大内兵衛に育てられた。毛筆が上手だったのは彼の影響だ。
大内家の男が全員、父の2人の弟も含めて、父親も叔父たちも従弟も、全員が赤門出身だった中で、たった一人早稲田で学び早稲田で教えた。我が道を行ったことにコンプレックスはなかったと思う。
でも晩年になって、母が亡くなって一人きりになってからは、すっかり外国に暮らす私を頼るようになって、私だけには、グジグジとこぼすようになった。「早稲田に入った時、兵衛は私学など塾と同じで大学ではない」、とビシッと言われた、とか、「私は母親から愛されたことがなかった、母は姉のことばかり可愛がった」、、、などと泣きそうな顔で言うこともあった。一級の寂しがり屋だった。
父が亡くなった時、私や兄や姉など身内の家族よりも大泣きした学生がたくさんいた。教える側にとっても教わる側にとっても、とても幸せな時代を、父は過ごした。
いまだに、もと学生で、シドニーに長年住む私に美しいクリスマスカードを送ってくださる方がいる。彼ももう80歳を超え、もうじき私も74歳。共通の思い出を抱いて、年を取ってきたと思う。