加藤登紀子の「時には昔の話を」を古い友達、村松和行のリクエストの応えて歌ってみた。彼とは1968年、大学1年の時に会った。54年の歳月が経ったことになる。初めて会った時から他人のような気がせず、兄弟のように感じられたのは、育った環境が似ていて、子供の時からバイオリンを弾き、小説も書いていたからかも知れない。今度の芥川賞は、私が取るといったら、即座に俺が先に取って見せると言われた。何故か討論をしても行動していても、他の人から抜きんでていて目立ち、存在感があった。彼は高校の時から運動していて、佐世保で原子力潜水艦寄港阻止闘争から帰ってきたところだった。迷わず大学学費闘争、反ベトナム戦争の隊列を組んだが、常に一歩先を歩いていた彼は、権力に連れ去られ、長いこと獄中にあった。長期にわたる不当逮捕と拘留、無用な裁判で彼の貴重な20代の大半が失われた。その間の辛さは言葉に代えがたい。
互いに家庭をもち、私がフイリピンで暮らしていて、子供たちの父親で夫であった人を失い、暗闇の底辺で手探りしていた時、彼は手作りのバイオリンを送ってくれた。友達が作ったという、美しい低音のよく響くバイオリン。モーツアルトのバイオリンとヴィオラのためのコンチェルトの楽譜も入っていた。「オーケストラを雇って一緒に弾こうぜ」と。この人ならやりかねない、と思い、50人のフルオーケストラをバックに大きなホールで、二人でモーツアルトを演奏する姿を想像して、再び立ち上がる気力が出た。
数年に一度しか帰国して、やもめになった父を訪ねて行かない私に代わって、彼は父に花をよく送ったり、訪ねてくれた。父は居間に置いた小さな黒板に、彼の電話番号を書いていて、死ぬまで何かあったら電話で助けを呼ぶから、と頼りにした。父は、むかし早大政経で教務主任をしていたころ、早大全学闘委員長だった大口昭彦に退学を言い渡した。そのことでずっと胸を痛めていて、大口昭彦の友人だった彼と関りを持つことで贖罪したい気持ちもあったのだと思う。
この歌を作詞作曲した加藤登紀子も、その夫の藤本敏夫も、同じ時代を駆け抜けてきた。反帝全学連副委員長だった藤本の力強いアジテーションは有名だった。
昔のことを振り返ることには、失ってきたものが多くて痛みを伴いうが、54年間ものあいだ友人でいてくれた村松和行に心から感謝している。