2018年6月24日日曜日
最終駅に着いたオット
自分の力で立つことも歩くことも出来なくなったオットを施設に入れて、一日おきくらいに会いに行くようになって、この6月で2年経った。
残りの週に3日、オットは腎臓透析のために病院で過ごす。救急車と見た目には変わらない公立の患者移送車に乗った屈強な職員たちが、オットを乗せて施設と病院との往復を引き受けてくれる。老人ホームの費用も、腎臓透析の費用も、移送のために費用も全部、老人年金から引き落とされて自己負担の費用は一切ない。
ここまでオットが、年を取り障害者となり、年金が全額出て、老人ホームに入居し、腎臓透析を公立病院でしてもらい延命できる様になる前までの、2年あまりは戦争のようだった。病気で無収入になったオットを、フルタイムで病院で働く私が、仕事を続けながら、週3回、私立の腎臓透析病院に連れて行き、連れ帰って寝かせてから仕事に行き、自分は寝る間もない。泣いても叫んでも申請書を何枚書いても、役所は、オットに年金を全く出そうとせず、会社を所有しているでしょう、車を持っているでしょう、貯金があるでしょう、と繰り返し正しい財産査定をしない。事業から手を引いたまま知らないうちに会社の借金は増えていて、みるみる体調を崩したオットの下の世話と、銀行と役所との交渉という、出口のない闇のトンネルの中で、ひとりもがいていた。やっと入居できるようになった老人ホームでも、年金のないオットは、私の月収よりも高い入居費用を、毎月支払い続けなければならなかった。
オットに年金が全額出るようになったのが、1年前のことだ。 オットが倒れて3年間、老人ホーム入居前2年間と、入居後の1年間、私が支えたからオットは生存できた。オットの代わりに会計士や弁護士を雇い役所と交渉を続け、正しい資産審査を獲得したが、そういった人のいない場合だったら、適切な医療が受けられずとっくに死んでいただろう。老齢で、無収入、疾病を抱える80過ぎのオットをここまで待たせた、政府の老人福祉政策の無策、役所の非人間的な対応とは、一体何という非常識であったか、今思い出すだけでも腹が煮え立つ思いだ。
オットと結婚した時から22年経った。再婚した時、私の娘たちは大学生と、大学予備校生だった。オットには4人の子供が居るが、会ったことも見たこともない。オットの最初の妻が病死した時、一番下の子供は5歳だったそうだ。子供達は妻の両親に引き取られ、オットはシープファーマーを止めて、都会に出て会計士になって、子供達のために教育資金を送った。でも上の2人の男の子たちは全寮制の中学と高校に送られて、オットとの親密な親子関係を結ぶことはなかった。
オットと出会った時から、オットに親戚もなく、友人も驚くほど少なく、オットは私の娘たちと家族になり、私の友人たちと親しくなった。
オーストラリアで金持ちのダンナを見つけなよ。と心強い忠告とともに見送ってくれたフィリピンの友人たちを落胆させることなく、来豪1年目にオットと出会った。金持ちではなかったが。
来豪まえのフィリピンでは10年暮らし、娘たちの通うマニラインターナショナルスクールでヴィオリン教師をしていた。家でも個人レッスンで20人の生徒を持っていた。娘たちにより良き教育を受けさせるためにシドニーに居を構えたが、ここではヴァイオリンでは生きていけない。生徒を集めるには学校や幼稚園などで教えなければ個人レッスンの生徒も集まらない。日本では前夫と結婚した時に、取得していた看護師の資格がある。ペーパーナースのなんちゃってだけれども。そこで、20も30も年下の同級生と大学に通学して、オージーの高等看護士の資格を得た。大学に通っていた間、10人の日本人看護士と仲良くなって、週末には自宅で日本料理を振る舞うようになった。10人の若い女の子達にとって、オットは優しい相談相手であり、頼もしい父親代わりになった。
私の二人の娘たちの結婚式では花嫁の手を取って、教会のヴァージンロードを入場する父親代わりを立派に勤めてくれた。2009年に次女がハミルトンアイランドで結婚式をした時も、2012年に日本旅行したときも、2013年に日本を再訪したときも沢山の友人に出会って、旅行を楽しんだ。2014年に長女がマレーシアで結婚式をした時も、オットは娘の手を取って、教会を歩くことができて本当に嬉しそうだった。クアラルンプールの博物館を見て回って、学ぶことが多いよと言った。けれど、その2か月後に倒れて、再び体調がもどることはなかった。
いまオットは、教会の経営する私立の老人ホームに入居して、専用のバスルームもある個室にいて、寝転んでテレビも見られる。私が行けば車椅子に乗り換えて、階下の駐車場を通り外に出てタバコを吸うことができる。COPD(閉塞性呼吸器疾患)と喘息のために、ふだん呼吸することさえ努力を要するというのに、タバコがやめられない。
老人ホームの最初のころは、日曜日に家に連れて帰った。家に帰ると愛猫と、自分の大きなベッドが嬉しくて、顔をくずして喜んだ。わずかの間しか立っていられないので、シャワーを浴びさせたり、椅子からトイレ、ベッドから車椅子への移動が大変だったが、何とか去年まで介護できた。
今年の1月6日誕生日が最後の帰宅になった。絨毯の上に転んで、助け起こそうとした私も転んで立ち上がれない。しばらく二人して天井を見上げていた。私一人では介護できないことが分かって、オットは納得した。もう家には帰れない。つらい決断だっただろう。
年をとれば、いろんなものを手放さなければならない。ひとつのものを失うごとに哀しいものだが、失うことに慣れなければならない。それは私自身にとっても同じことだ。
オットに今できることは、朝がくれば介護職員がシャワーを浴びさせてくれ髭を剃ってくれる、朝食がサーブされ、モーニングテイーが出て、ランチがサーブされ、午後のお茶のあと、夕食が出され職員がスプーンで食べさせてくれる、その間、座っていることだけだ。私が訪ねて行けば、タバコを3本吸うことができる。
頭がはっきりしているから、以前はよく話したが、このごろは何か言おうとしても言葉が出てこない。何かを話そうと、話し出したそばから言葉を見失ってしまうらしく、途中で話すのをあきらめてしまう。それでも行けば、私の頭をなでて、ユーアービューテイフルと言うのだけは忘れない。ユーアービューテイフル、ユーアービューテイフル。
当たり前だろ。
そんなことわかってる。