2012年9月23日日曜日

映画 「モンスターホテル」

                                 
原題:「HOTEL TRANSYLVNIA」(ホテル トランシルバニア)


監督:ゲンデイー タルタコフスキー
アメリカ映画 3D コンピューターアニメ映画 ソニーピクチャー
キャスト(声優)
ドラキュラ伯爵:アダム サンドラー
娘メイビス  :セレナ ゴメス  日本版(川崎海荷)
ジョナサン  :アンデイーサンバーグ (藤森慎吾)
フランケンシュタイン:ケビン ジェームス
ミイラ男   :セ ローグリーン
狼男     :ステーブ ブジェミー

ストーリーは
ドラキュラ伯爵は 愛した妻が形見に残した赤ちゃんを 安全に育てる為に秘境のリゾート地に、お城のようなホテルを建てた。妻を無残にも魔女狩りの火あぶりで失った。その憎い人間から できるだけ離れて暮らさなければならない。大切な赤ちゃんを 人間の迫害から逃れて無事に育てるには どんなに注意しても注意し足りない。お城の奥の奥で、大切に大切に育てられた女の子メイビスは 父親の愛情を一身に受けて育った。
でも大きくなると メイビスはお城を出て、外の世界を見てみたくて仕方がない。外に出たいと言う娘に、とうとうドラキュラは メイビスが118歳になったら外出禁止を解く と約束してしまった。

メイビスの118歳の誕生日。
好奇心の塊のようなメイビスのことが心配で心配で仕方の無い父親は、メイビスに外出許可を与える一方で、ホテルの近くに、架空の町を作り、メイビスを待ち受けた。彼女が町に着いたとたんに、人間のふりをしたモンスターがメイビスを火炎攻撃、ニンニク攻撃で、怖い思いをさせる。もうこりごりと、逃げ帰ったメイビスを見て、ドラキュラは、にんまり。

さてメイビスのお誕生日を祝う為に 世界中からモンスターがやってきた。フランケンシュタイン、ミイラ男、透明人間、狼男、と次々にやってくるお客たちと、豪勢で愉快な誕生パーテイーが始まる。しかし、ドラキュラ伯爵の館に こともあろうにバックパックを背負った人間界の青年が紛れ込んでやってきた。ドラキュラは大慌て。

リュックを背負って世界中を歩いて回っている青年アンデイーは、のどかな顔で怖いもの知らず。まして、ホテルはモンスターのために作られたホテルだなどと、知らないから中に入るなり、みんな怪物の仮装パーテイーをしているのだと思って、さっそく仲間入り。そこで出会ったメイビスに一目惚れをする。
メイビスも、生まれて初めて会った青年に心惹かれる。あわてたのはドラキュラだ。体よくアンデイーを追い出そうとするが 可愛らしいメイビスに恋をしたアンデイーは 一向に出て行かない。歯噛みをして二人の間を引き裂こうとするドラキュラのもと、メイビスとアンデイーの初恋の行方は、、、。
というお話。

とても愉快なコメデイーアニメーション。
驚くほど画面が美しい。アニメーションの技術も進んだものだ。デイズニーアニメの初期の頃のフイルムとは雲泥の差だ。動きも自然で、それぞれのキャラクターが際立っている。
ドラキュラがとても魅力ある描き方をしている。彼の親ばかぶりが、笑えて、ホロッとさせる。彼の過保護のもとすくすく育ったメイビスが 純真で可愛らしい。
そのメイビスを一目見るなり恋をする 21歳のバックパッカーも、朴訥としていて 正直で魅力的だ。彼がメイビスに誘われて、お城の屋根の上から下界を眺めて、その美しさに感動して、「ワー。ブタペストみたいだ。」というシーンがある。アンデイがただの旅行好きな現代っ子なだけではなく、東欧諸国を歩いて巡るような、なかなか骨のある青年だということが それとなくわかる。

ホテルにやってきたモンスターたちに楽しんでもらおうと、ドラキュラは 食事だけでなく、ゲームやカードやロックコンサートやプールでもてなす。でもドラキュラのセンスは とっても時代遅れ。なんと言ってもドラキュラは何世紀も生きてきた。今では 年寄りが老人ホームでしかやらないような ビンゴゲーム、1950年代のようなスローテンポのミュージック。ドラキュラの時代の産物に、欠伸を噛み殺すアンデイーの様子が 大いに笑える。
誰もが知っているモンスターたちが、リゾートホテルにやってきて、皆仲良くプール遊びに興じたり、ダンスしたり、ゲームやったり、メイビスとドラキュラのために力を貸したりする。

とても楽しい映画。見ていて自然と頬が緩む。
一人で見るのではなく 仲の良い家族や友達と見て、一緒に笑って、ちょっと幸せな気持ちになれる映画だ。



2012年9月22日土曜日

映画 「メリダとおそろしの森」

原題:「BRAVE」(ブレイブ)
 監督:マーク アンドリュース    ブレンダ チャップマン
 ピクサー アニメーション
キャスト(声優)
メリダ:ゲリー マクドナルド
女王エリノア:エマ トンプソン
王ファーガス:ビリー コノロイ

もうすぐで3歳になるマゴを、初めて映画館に連れて行った。 大きな暗い建物の中に入り 真っ暗闇の中でスクリーンが映し出され、今まで聞いたことがないような大音響、、、マゴは怖かったらしく、椅子に座ったまま 固まって動けずにいた。体を硬くして目だけ大きく見開いて、画面を見ている姿を見て、3歳前では ちょっと早すぎる体験をさせたかな、、と心配になったが、映画が始まると すぐにストーリーの中に入っていって、読み取っていることが分った。順応性がはやい。
ストーリーがちゃんとわかっている。頭が良い。さすが娘の娘だ。

 2歳半のときにヴィデオで「ライオンキング」を見ていて、レオのお父さんライオンが死ぬシーンで涙を落とした。たった2歳半で 死を悼むという間接体験をして、主人公レオに共鳴していた。何て情感豊な子供だろう。わたしが映画を見て 泣いたり笑ったりできるようになったのは小学校高学年の時だった。 娘は小さいときから 絵を描き、詩を読み、ヴァイオリンを持たせるとわたしより良い音を出した。感受性の高い芸術家肌。そんな娘の娘だから 芸術に目覚めるのも早いかもしれない、、、。などと、完全な親馬鹿で、救いようの無いマゴ馬鹿。 ともかくマゴは 2時間近くのこの映画を、最後までしっかり集中して見ていた。すごいな。将来が楽しみ。今回は、抱いてマゴを連れて行ったが、10年後には、わたしの乗った車椅子を押して映画館に連れて行ってもらいたい。

ストーリーは
 中世のスコットランド王、ファーガスは勇敢で力持ち。ある日、ばけ物のような巨大で凶暴な人食い熊と戦って、片足を失くした。彼には、物静かで思慮深い妻と、燃えるような赤毛の娘がいた。その一人娘のメリダは、ふつう女の子が興味を持つような遊びには全く関心がなく、男の子のような活発な子供だった。幼い時に父親から贈られた弓と矢が 一番お気に入りの玩具。馬に乗れるようになると 森に出かけて行っては、弓と矢で走り回っている。何時の間にか、メリダほど巧みに弓を射る者は城内にはいない程になってしまった。

そんなメリダに、母親が突然結婚の話しを持ちかけてくる。遠来の親戚や貴族の中から選ばれた王子と メリダは結婚して、妻としての役割を果たさなければならない と母親は言う。いつまでも愛馬とともに森で自由自在に愉快な暮らしをしたいのに、お城の中で 窮屈な服を着て、刺繍をして夫を待つ暮し、なんて考えられない。そう思うとメリダは 家族のつながりが恨めしい。腹いせに家族を刺繍したタピストリーをバッサリ破って、森に逃げ出した。

森の奥深くで魔女に出会ったメリダは、クイーンがもう自分に結婚を強いないようにして、とお願いをする。しかし、魔女がかけた魔法によってクイーン エレノアは熊にされてしまった。あわてたのはメリダだ。城の中で熊が出た と騒ぎは大きくなるばかり。熊狩りの第一人者 ファーガス王に追われる身になったエレノアを連れて、メリダは森に逃げ出した。メリダはもう一度、魔女に会って、何としてでも母親をもとのクイーンにもどしてもらわなければならない。しかし、森には、むかし王を襲った、凶暴な人食い熊が居て、、、、。 というお話。

ケルト民族独特の燃えるような赤毛の勇敢な女の子が馬を疾走させ、弓を射ながら森を駆け巡る姿が とても美しい。魔女が住み 恐ろしい熊が生息する森の神秘、怖いもの知らずの勇敢なメリダの生き生きとした動き、お城では 王様達が囲む祝宴のご馳走の数々。 画面が きわだって美しい。

しかし、ピクサーアニメーションなのに、「モンスターインク」のような、面白さに欠ける。「トイストーリー」や、「カールじいさんの空飛ぶ家」のような、笑って泣かせて、優しい気持ちになるような感傷性がない。「レミーのおいしいレストラン」のような、突拍子も無い独創性もない。 ピクサーが作った 初めてのお伽噺なのに、ストーリーが 複雑でややこしい。ピクサーが初めて女性監督に作らせたのに、これでは 現代女性の味方になっていない。ピクサーが作った映画なのに 斬新さに欠けて、デイズニー映画みたいだ。

まじめにこの映画を見た子供が、「ママの言うこと聞かないと、ママが熊にされちゃうよ。」という 間違ったメッセージを受け取ってしまわないか、心配だ。家族の絆を大切に、とか、親の言うことをよく聞く様に、みたいな結論になってしまったら、困る。やっぱ、アニメで説教しちゃ、いけないんじゃないか。ま、、、3歳のマゴは楽しかった と言ってくれたからいいんだけど。

2012年9月17日月曜日

オーイ ヤッホー 島崎三歩さーん!!!

大好きだった漫画が長い連載を終えて、最終回を迎える時、読者は長いこと付き合ってくれた親しい友達に去られるような 深い悲しみと喪失感に苛まれる。石塚真一による漫画「岳」が、18巻で遂に終わった。もうこの続きがないのか と思うと大切な人を、又失ったような思いで悲嘆にくれている。  

私のヒーロー、島崎三歩は ヒマラヤのヒラリーステップで死んでしまった。二重遭難だった。 昔の仲間オスカーが率いるヒマラヤ登山隊が悪天候の中、遭難したのを、救助している内、長時間酸素なしで救助に当たらざるを得なくなって、意識混濁するなかを さらに無謀としか言いようのない救助に向かって命を落とした。 三歩は、常に、山に行っても絶対生きて帰ってくると、明言して遭難者の救助を行い、滑落や雪崩や凍死で助からなかった登山者も、自分の背中に背負って帰ってくる。氷のクレパスに落ちて、ザイルと滑車があっても救助できないような怪我人でも、自分の背中に縛り付けて背負って這い登ってくる。 彼は、どんな過失や 装備不全で遭難した登山者も、決して責めない。自分を責める遭難者に、「よく頑張った。」と、心をこめて言い、怪我が治ったら「また 山においでよ。もどっておいでよ。」と、言って送り出す。 ごっつい体に、子供がそのまま大きくなったような純真さで、山を愛する。山への畏敬の念と、登山者への無条件の愛情。どんなピンチでもあきらめない。吹雪に閉じ込められたら ただ無心で天候回復を待つ。決して恐怖に囚われない。もう、穂高岳の三ノ沢に住み着いている三歩は、自然児というか、山の一部のような存在だ。そんな男でも、8848メートルのヒマラヤで風速100メートルの強風とブリザードには 勝てなかった。

島崎三歩は 長野市北部警察署地域課、遭難救助隊を補佐する遭難防止対策の民間ボランテイアだ。 一緒に救助活動をしていた警察官の阿久津君が 落石事故に遭い、二度と自力で立つことが出来ない障害者になってしまった。彼の出会いや結婚、一人前の救助隊員に育つまでを、ずっと見守っていただけに、この事故は、三歩にとって、大きな傷となり、挫折感を植えつけた。仲間のザックに 遭難救助のような人のためではなく、いったん自分の山登りに戻ることを勧められて、三歩は北アルプスの山を降りて、ひとりローチェ登山に向かう。

ローチェ単独山はんを成功させると、今度は天候が予想外に崩れてきたヒマラヤに向かう。ヒマラヤには昔の仲間、オスカーを隊長としたグループが山頂を目指している。その中の一人、小田草介は むかし前穂高岳のシェルンドで滑落し瀕死のところを三歩に救助された過去を持っている。 オスカーを先頭にしたエベレスト隊は サウスコルキャンプ(7980メートル)から ヒラリーステップを越えて、最終アタックに成功(8848メートル)する。酸素ボンベの酸素が残り少なくなって、山頂から少しでも早く下山しなければならない隊に 予想外の天候悪化が襲い掛かる。しかも、午後になって山頂を目指して登ってくる 非常識なインド隊に 一方通行の道を譲らなければならず、待機を余儀なくされたオスカー隊にブリザードが襲いかかり、酸素が無くなる。ヒラリーステップで動けなくなった隊員とオスカー隊長を残して、小田草介が先頭に立って下山するが、草介は凍った稜線で滑落寸前。そこを、三歩に助けられる。

草介から得た情報で、三歩は次々と動けなくなった隊員を救助してテントに収容する。しかし、その前に新しい酸素ボンベを担いで救助にむかっていたピートは 雪庇を踏み抜いて転落。三歩は、酸素なしでピートを救助し、再びオスカーを救助しに山頂に向かう。しかし三歩は、すでに感覚は失われ、視力は無くなり幻覚か現実かわからなくなっていた。それでもまだ、残っているインド隊を救助しようと、、。壮絶な死。

以前、どうして山に登るのか と遭難救助隊の椎名久美に問われて、三歩は「山ではコーヒーが美味しいっしょ?」と答えている。そのコーヒーを三歩は、ヒマラヤの山頂で幻覚の中で飲んだ。 もう悲しくて悲しくて、たまらない。親しい友人を失ったような気持ち。
本当に良い山の本だった。三歩の生き方、山に向かう姿が、とてもよくわかる。ここで最終回になったことで どうしてこんな終わり方になったのか、、、と、アマゾンの読者からのコメントは 怒りと非難でいっぱいだ。でも、山に絶対はない。どんなに立派な山岳家でも命を落とすこともある。山の好きな人ならば、三歩の死は理解できる。この終わり方で良い。

http://dogloverakiko.blogspot.com.au/2012/05/blog-post_15.html
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2012年9月16日日曜日

反米暴動 広がる

先日、9月11日以降、イスラム教徒による反米運動、暴動が リビア、イエメン、エジプトから世界的規模で広がっているが、シドニーでも イスラム教徒によってデモが行われて暴徒化して逮捕者が出た。

もとは、エジプトを中心に組織されているクリスチャン、コプト正教会の者が イスラム教の預言者モハメドを侮辱するヴィデオを、U-TUBEに載せたことで、怒ったイスラム教徒による暴動が起った。INOCENT OF MUSLIMというヴィデオで、まともな良心のあるひとならば、誰もが見て、吐気を催すような下劣なフィルムだ。これで、あっという間に、反米運動に広がり、リビア、ベンガジにあるアメリカ領事館が襲撃され、アメリカ大使を含む4人の犠牲者が命を落とした。 クリントンは、亡くなった大使が、リビアの前大統領カタフイの失脚とリビアの民主化に寄与した人物だった として彼の死を悼んだ。領事館が焼き討ちにあい、大使を含む、4人のアメリカ人が二酸化炭素中毒で亡くなったが、そのうちの二人はアメリカ軍海軍のシールドの一員だったという。シールドは、オサマビンラデインを暗殺した特殊部隊だ。焼き討ちされるほうも、した方も 実に攻撃的、かつ政治的だ。

9-11から11年がたち、アメリカ大統領選挙直前、シリアでは、アサド政権を支持するシーア派のイランと それに対抗するアメリカ、イスラエル、エジプトサウジアラビア、トルコなどの後ろ盾を得たアサド反政権派との戦闘が続いていて、先が見えない。

宗教心あるものが、自分の神でない、他の神を冒涜することは、許されない。軽はずみにヴィデオを作り公表したものは その罪を償わなければならない。しかし、常識を持ったものならば、モハメドを冒涜するヴィデオを公表すれば どんなことが起るかわかっていたはずだ。 このできごとで、利益を得るものは、誰だろう。 反米暴動のどさくさで、漁夫の利をえる者、、、それがヴィデオを製作した本人ではないだろうか。

2012年9月6日木曜日

映画 「ムーンライズ キングダム」

 
   
アメリカ映画

監督:ウェス アンダーソン
脚本:ロマン コッポラ
音楽:ベンジャミン ブリテン

キャスト
保安官シャープ :ブルース ウィルス
スージー    :カラ ヘイワード
サム      :ジャード ギルマン
スカウトマスター:エドワード ノートン
スージーの父  :ビル マーフィー
スージーの母  :フランシス マクドナルド

ストーリーは
1965年夏、ニューイングランド島。
夏の間、ボーイスカウトが ニューイングランド島で、キャンプをしている。スカウトマスターの指導の下、キャンプ内での規律はとても厳しい。食事、炊飯、野外活動、就寝、すべてが時間どうりに 秩序正しく行われなければならない。

ある日、サムと言う少年は、地元の学校の生徒達が教会で「ノアの箱舟」の劇を演じているのを見て、ひとりの少女に恋をした。少女の名前はスージー(カラ ヘイワード)。
サム(ジャード ギルマン)とスージーは 示し合わせて、計画したとおりに駆け落ちをする。サムはテント1式を背負い、空気銃も担ぎ、スージーはスーツケースに愛読書をつめて、ふたりの逃走劇がはじまる。

12歳の少女の失踪で、普段は眠ったような、静かな田舎町は大騒ぎ。少女の両親はあわてふためき、ボーイスカウトのキャンプも大慌て。12歳のサムは 孤児だったので、養父母の育てられていたが、これを機会に、養父母は、サムの引取りを拒否。サムが見つかり次第、孤児院に送られることになった。スージーの両親の要請を受けて、保安官のシャープ(ブルース ウィルス)は 何としても二人の身柄を確保しなければならなくなった。

一方、恋する二人、12歳の道行きは、きわめて順調。二人して手に手をとってボートでムーンライズ キングダム岬に渡って、海辺にテントを張り、サムは魚を仕留めて料理して、スージーは毎晩、サムに本を読んできかせる。二人して仲良く 眺めの良い海辺で過ごしていた。しかし、大型台風がやってきて、、、。
というお話。

映画のストーリーや、キャストや、ドラマがどうこう言うような映画ではなくて、映画そのものがアート作品。ふつうの映画ではない。非現実的なフェアリーテールでもある。
例えば、教会の尖塔で 恋する二人を保安官が引き戻そうとしているところで、雷の音がした、と思った次の場面で、折れた教会の塔に片手で保安官が捕まっていて、その片手にサムが、またその片手にスージーがぶら下がっている絵のようなシーンがある。
あるいは、ボーイスカウトのマスターが居住する小屋は 50メートルもある高い木のトップにのっかっている。そのくせ中では揺れもしない。物理学的にも、建築上も、土木工学的にも、ありえない小屋なのだ。
カメラは正面から写していて動かない。画面が平面的で奥行きがない。ボーイスカウトの小さなテントが沢山並んでいるが、そこに一人が入るシーンがある。次のシーンはテントの中だが、これが驚くほど広くて整然としている。距離感とか、奥行きの 普通の感覚が覆される。

ブルース ウィルスの演じる保安官のキャラクターガ生きている。二人が捕られる。娘と引き離されたサムに、保安官が朝食を作ってやっている。すっかりしょげているサムに、どうだ、あの浜辺では楽しかったか?と聞く。いいなあ、あの浜辺。俺に彼女がいたら、絶対あの浜辺に連れて行ってやっただろうと思うよ。と、実に共感をもって語り、サムを一人前の男として扱っている。
登場する大人たちが、みな、スージーの両親も含めて、どこかずれている。大真面目だが、ずれている様子が とてもおかしい。

サムが獲物を捕まえ、解体して 火をおこし料理する。スージーが食べ終わると、サムが眠るまで、本を読んで聞かせる。テープレコーダーの曲に合わせて、砂浜で踊ったり、手を繋いだり、泳いだり、ちょっとキスしたりする。ひょうひょうとした眼鏡の少年が、頼りなげに見え、危なっかしくて仕方無いのだが、見ている側は、笑いをこらえて見守っている。

駆け落ちという深刻なできごとを 駆け落ちにはちょっと早すぎる二人が気軽にヒョイとやってしまい それに混乱して上や下やの大騒ぎに巻き込まれる大人たちが笑える。
音楽が良い。ベンジャミン ブリテンの「真夏の夜の夢」や、「ノアの箱舟」などからもってきた音楽が 画面の芸術性や、とっ拍子のない筋書きによくマッチしている。

大人でもない、子供でもない、テイーンでもない、スージーとサムの危なっかしい愛の行方に、ハラハラしながら、笑いをこらえながら見ている誰もが いつしか二人の見方になっていて、二人がどんなことになっても守ってやりたい、と思うだろう。
子供だったとき、人を好きになって、それがどんなに純粋で真剣だったかを思い出して 胸が痛くなる人もいるかもしれない。
とても楽しい、ロマンテイックコメデイー。