2017年10月28日土曜日

映画「私はダニエル ブレイク」と福祉社会の崩壊

原題:「I;DANIEL BLAKE」
監督: ケン ローチ                     

キャスト
デイブ ジョンズ :ダニエル ブレイク
ヘイレイ スクアーズ:ケイテイー
2016年カンヌ映画祭パルムドール賞、2017年英国アカデミー最優秀映画賞、最優秀主演男優賞、ロカルノ国際映画祭、デンバー映画祭、シーザーアワード、エンパイヤ―アワード、ヨーロッパ映画アワードなど受賞。

オックスフォード大学を出てBBCに入社したエリートなのに、一貫して労働者階級の視点に立って社会批判をしてきたケン ローチ監督。イタリアリアリズム手法で、素晴らしい映画ばかりを作って来た名匠も、81歳になって、もう引退宣言をしたはずだけれど、政府の福祉政策が機能していない現状に怒り狂って、この映画を製作した。監督の憤怒の結晶だ。
テーマは、彼が50年前(1966年)に製作した映画「CATHY CANE HOME」(キャシー故郷に帰る)と全く同じ。福祉とは誰のために、何のためにあるのかを鋭く問いかけている。この映画では、キャシーが幸せな結婚をして、新築の素敵なアパートに入居するが、子供禁止で子持ちは入居できないアパートだったので仕方なく引っ越しするが、夫が運悪く大怪我をして収入を絶たれ、赤ちゃんを抱えて夫婦はホームレスとなった末、子供をソーシャルサービスに奪われてしまう。そんな不条理な社会に翻弄される若い夫婦を描いた作品。
あれから50年経ったが、社会福祉政策は一向に良くならないで、悪くなるばかり。福祉制度そのものが形骸化しており、人間味のないものとなり、救われなければならない人々が、年齢や性別の関係なく取り残されている。一部の富裕層ばかりが肥え太り、大多数の真面目に働いて、社会を支えてきた善意の人々が報われない社会になっている。

ケン ローチは言う。政府の福祉関係者は、「人を人として扱わない。人を辱め、罰することを平気でやる。真面目に働く人々の人生を翻弄し、人を飢えさせることを武器のように使う政府の冷酷なやりかたに憤る。」と、政府の援助を受けるための複雑で官僚的なシステムと、それに関わる職員達を激しく批判している。

ストーリーは
英国、ニューカッスル。
59歳の大工、ダニエル ブレイクは職場で心臓発作を起こして倒れ、医師に仕事を続けることを止められたため失業する。病気が良くなるまで政府の福祉を受けなければならなくなって、失業手当を申請するため福祉事務所に行ってヘルスケアプロフェッショナルの審査を受ける。審査官に医師の診断書を渡してあるのに、50メートル歩けるか、電話のダイヤルが回せるか、自力で排便することができるか、などという馬鹿げた52問の質問に答えさせられた挙句の末に、ダニエルには失業手当が出ないと言い渡される。

納得のいかないダニエルは、審議不服申し立てをするために福祉事務所に電話するが、1時間48分間も待たされた後で、不服申し立てと、新たな手当受給申請をするには、すべてがオンラインサービスなので、オンラインで申請するように指示される。パソコンを使えないダニエルには手も足も出ない。
職安の待合室で職員の説明を聞くために列に並んでいたダニエルは、子連れのケイティという女性が、約束の時間に遅れたという理由で、係員との面接を拒否されて、言い争いをしている現場に立ち会う。遅刻しただけなのに聞く耳を持たない係員は、警備員を呼んで彼女を排除しようとする。その横暴さにに怒ったダニエルも、ケイテイと一緒に役所から排除、追い出されてしまった。

彼女は、ロンドンの低所得者向けの住宅に住んでいたが、役所の命令で300マイルも離れたニューカッスルの公営アパートに強制移住させられたばかりだった。慣れない土地で係官との約束時間に遅れただけで、話を聞いてもらおうとしたケイテイに対して面接官は警備員を呼んで建物から追い出した。ケイテイの落胆と怒りに、ダニエルは心から同情する。他人ごとではない。公営アパートは古く不備なままで、あちこち修繕しなければ住めない状態だった。電気代を払えないケイテイに、ダニエルは自分が軍隊に居たときに得た知識でロウソクで部屋を暖める方法を教え、壊れた水洗便所を修理し、子供たちのために木工オブジェを作ってやったり、力になってやる。ケイテイは掃除夫として雇ってもらうために職探しに奔走し、ダニエルもまた失業年金を得るためには仕事を探しているという証明が必要なため、職探しに足を棒にしていた。そんなときに、やっと役所から届いたメッセージは、「申請却下」の知らせだった。就職するための努力をしていないから失業手当が出ない。心臓病で働けないのに仕事を探している証明が必要だという矛盾に、ダニエルは怒りで一杯だ。

ダニエルは食べて行くために家財道具や家具の一切を売り払った。そんな折、ケイテイはスーパーで万引きをして注意勧告を受けた後、親切(?)な警備員からエスコート職を勧められ遂に売春宿で働く。それだけはやめてくれとダニエルは懇願するが、政府から援助を受けられないでいる二人にとって現状を打開する方法はない。
ダニエルは役所の壁に「私、ダニエルブレイクが飢え死にする前に不服申し立てを受け入れろ」とスプレーで書いて、警察に逮捕される。釈放後すっかり落ち込んでいるダニエルの、申し立て審査の日、ケイテイはダニエルに同行する。ダニエルは審査官の前でアピールする原稿を準備していた。しかしその直前に役所の洗面所でダニエルは、力尽き心臓発作を起こして倒れ、死ぬ。役所が準備した公営葬儀場で葬儀が行われ、ケイテイはダニエルが準備していた供述書を読み上げる。「わたしは今まで真面目に働き、一日として遅れることなく税金を払い、社会の一員として、市民として誇りをもって生きて来た。しかし政府は私を犬のように扱った。私は人間なのだ。」 それは人としての尊厳を踏みにじった政府と福祉関係者に対する強烈な抗議だった。
というお話。

映画の中でケイテイが子供に食べさせるために自分は極度の飢餓を我慢してきたため、フードサービスで缶詰めをもらった時、思わずその場で缶を開けて手掴みで中の豆を食べてしまい、職員に責められ泣き崩れるシーンがある。すかさずダニエルが、「大丈夫、君が悪いんじゃない。気にするな。」と言い聞かせる。哀しいシーンだ。
売春宿に入って来たダニエルが、ケイテイに大泣きしながら「こんなこと止めてくれ、止めてくれ。」と叫ぶシーンも悲しい。
ケン ローチの作品にはいつも体に障害を持った人々が出てくる。盲目のサッカーチームが、目を塞いだ健常者チームとゲームに興じる。ダニエルのアパートの隣の住人が盲目で、彼と一同居しているのはアフリカ系イギリス人だ。ケイテイの5歳くらいの息子も自閉症と思われる。一部の富裕層ではない、普通の市井の人々は、障害者とともに生きている。ケン ローチの「普通の人々」への温かい眼差しにはいつも好感を覚える。

それにしても福祉制度に携わる職員の横暴さはどうだ。政府の援助を必要としている人々のプライバシーを平気で晒しものにして、審査と称して自分が神にでもなったように、あなたには手当を出しましょう、あなたのは却下です、と自分たちの物差しで配分する。

オーストラリアも同じだ。福祉国家オーストラリア。鉱物資源に恵まれ農業、牧畜産業も盛んで輸出大国のラッキーカントリー。ネットでサーチしてみると良い事ばかり。高校まで教育は無料。大学も申請しさえすれば、誰でも政府から返却型の奨学金が得られて進学することができる。医療費も100%国民保健が適用され、70になれば国民老齢年金が出る。働いている間は給料の9.5%は雇用者が年金として積み立てててくれているので、退職後それを受け取ることができる。老人ホームは公営、私立、教会系と沢山あって、年金受給者は動けなくなれば一定の収入のある人以外は自己負担なしで面倒を見てくれる。何て素晴らしい国だ。

恐ろしいことは、こういった素晴らしいシステムが、果たして自分に当てはまるのかどうか自分がその年齢、そういった状況に陥るまでまったくわからないことだ。こういった福祉制度は手続きが煩雑で、官僚的で不親切で、非人間的。コンピューターの達人でも簡単には申請できないようになっている。
私は、年を取り腎臓透析が必要な身体障碍者になったオットを抱えて、彼の老齢年金を申請するのに役所に提出しなければならなかった書類の数々を積み重ねたら電話帳2冊分の厚さになる。オージ生まれ育ちのオットは80歳を超えるまで、毎日真面目に働き63年間に渡って税金を払い続け、健康保険を支払い、政府からは年金など一切の手当を受けたことがなかった。年を取り病気になっていよいよ働けなくなって、年金を申請するのには、夫婦一世帯が審査の対象になるため、必要書類と言われて出したものは膨大な量だった。

私とオットの出生証明、学歴、職歴証明、オーストラリアに上陸した正確な日時とその証明書、住居歴と現住所、婚姻証明書、収入、税金支払い証明、所得税報告書、銀行口座番号、残高証明、収入支出データ、給料以外の収入報告、金、宝石などの所有物の報告、所有する車名、走行距離、財産報告、病歴、投薬歴、専門医の診断書、罹った医療費の合計、二人以上の老人専門医によるアセスメント、オットが所有していたペーパーカンパニーの過去5年間の収支決算、会社の税申告、去年私が購入したアパートの契約書、資金調達報告、財産目録。などなど思い出せるだけでもこれだけの書類を提出させられた。

もともとオーストラリアは、税務署と銀行や証券会社と連絡を取り合っているので、隠し銀行口座を持つことも、お金を隠して持つこともできないシステムになっている。役所にこれだけの書類を出して、足の裏からヘソのなかのゴマの数まで調べられ、もう1セントもかくしてませーん、これが私達のすべてです、と「お上」に見せないと年金受給審査をしてもらえない。個人のプライバシーとか尊厳とか言っていたら相手にしてもらいない。私はオットの老齢年金が出るまでに2年半の時を要した。その間オットは病状が不安定で何度も入院と退院を繰り返し、無収入で24時間介護を必要とした。投薬だけで、月に600ドル。病気で働けなくなった80歳の身体障碍者に老齢年金という出て当たり前の年金が、申請しても却下され、また申請しても却下される。私が居なかったらオットはとうにホームレスになって飢え死にしていた。経済的にも物理的にもオットの介護と役所との交渉に身を減らして、悪夢のような2年半だった。フルタイムで働く自分の仕事をもって、障害者を介護して食べさせ、一日おきに腎臓透析に連れて行くだけで、体力の限界なのに役所の年金申請審査を待たされていることのプレッシャーで潰れそうだった。

何が辛いかというと、年金申請審査官の顔が見えないことだ。相手は姿を現さない。名前のない、顔を見せない審査官という目の前に立ちふさがる大きな壁は、傷ついた年寄りを見る目も聴く耳を持たない。いつまで待たされるのかわからない。誰が審査して、それがどこまで進んでいるのか、ただ膨大な書類の束が埃を被っているだけなのか、何もわからない。そんな暗礁に乗り上げて、将来への不安と怒りと哀しみの2年半で文字通りぼろぼろになった。

ひとりで戦ったダニエル ブレイクは、やっと障害年金が出る直前に、力尽きて心臓発作を起こして死んだ。ダニエル ブレイクの怒りは私の怒りだ。資本主義社会では、福祉制度そのものが機能しない。飾りなのだ。真面目に体が動けなくなるまで働いて、税金を払い続けている労働者の蓄積を、ほんの一部の富裕層がかっさらっていく。
これほど貧富の差が広がった爛熟期にある資本主義社会で、福祉とは欺瞞以外の何物でもない。それがよくわかる映画。見る価値がある。

2017年10月14日土曜日

映画:ジャコメテイの「ファイナルポートレイト」


初めて入った美術館で、遠目に見ても誰の作品かわかる展示物があると一挙に、その美術館が親しみを覚える。ニューサウスウェルス州立美術館には、入ってすぐ正面の展示室の真ん中にアルベルト ジャコメテイの女の立像がある。「ヴェニスの女Ⅶ」。初めて見る作品でも独特の、細長く引き伸ばされた人物像でジャコメテイの作品であることがわかる。背が高い。沈痛な顔、にも拘わらずどこかユーモラスな存在感。その横にはジャコメテイが残した3枚のデッサン画もある。

同じ展示室にフランシス ベーコンの絵、そのとなりの部屋に移るとピカソの大作「ロッキングチェアの裸婦」がある。以前はこれが地下の現代美術の展示室にあった。だから以前はピカソに会うためには、レンブラントや、オージーが大好きなターナーや、セザンヌやローレックを観て、それからたくさんの作品を通って、いい加減足が痛くなった頃にやっと地下にたどり着いてピカソに会えるという順路になっていた。ところが嬉しいことに、どうしてか知らないが最近ピカソの作品が全部出入り口の近くに展示室に移された。入口から入って、ジャコメテイの彫刻を通り過ぎて、ゴッホの「自画像」に挨拶して、隣の部屋でピカソのロッキングチェアの女が見られる。これだけ見ればもう用事が済んだようなものなので、サッサと帰ってくることもある。知っている人の、好きな絵じゃないと余り観たくない素人にとって、ここはとても足を運びやすい美術館になった。

そんなアルベルト ジャコメテイを描いた新作映画が公開された。ニューヨーク生まれのイタリア人、スタンレー トゥチ監督はジャコメテイが好きで、画家と親しかった作家ジェームス ロードが書いた「ジャコメテイの肖像」という本を読んで、いつか映画化すると心に決めて自分で脚本を書いて大切に20年も温めていたそうだ。ジャコメテイの作品が好きで好きで仕方のない監督が、彼のことを書いた本を愛読書にしていて、ジャコメテイにそっくりな役者をみつけて映画化したわけだ。
監督スタンレー トゥチは役者もしていて、大好きな役者さん。数えきれないほどの映画に出ている。「ベートーベン」1992年、「キス イン デス」1992年、「ペリカン文書」1993年、「真夏の夜の夢」パック役1999年、「ターミナル」2004年、「ラブリーボーンズ」2009年、「プラダを着た悪魔」2006年、「ハンガーゲーム」2013年、「スポットライト」2015年、「トランスフォーマーズ最後の騎士」2016年、「美女と野獣」2017年などなど私が観ただけでもこんなに沢山。いつもわき役としてとても良い味をだしていて、この人が画面に出てくると、馬鹿っぽいハリウッド映画が一挙に知的になるから不思議だ。

映画「ファイナルポートレート」は英米合作映画。今年のベルリン国際映画祭で初めて上映された。
監督:スタンレー トゥッチ
キャスト
ジェフリー ラッシュ:アルベルト ジャコメテイ
アーミー ハーマー :ジェームス ロード
トニー シャルブ  :アルベルトの弟
シルビー テステユー:妻 アネット
クレマンス ポエジー:愛人カトリーヌ

ストーリーは
1964年 作家で美術愛好家のアメリカ人、ジェームス ロードは訪れたジャコメテイの作品展示会で本人に会って友人となり、親しい交流をするようになった。ジェームスの肖像画を描きたいというジャコメテイの申し出に、ジェームスは願ってもないことと、喜んでアメリカからパリに飛んでくる。しかし実際、モデルになってみると画家は気分屋でわがまま。妻と愛人がいつも自由に出入りするアトリエは混沌としていて、やっと描きはじめても中断を繰り返してばかり、、、肖像も描いては灰色の筆で塗りつぶし、また描いては塗りつぶすばかりで、いつになっても先に進めない。2,3日で終わってアメリカに帰るつもりでいたジェームスは幾度も幾度も帰国の飛行機をキャンセルしなければならなかった。

金銭感覚のない画家は愛人に絵のモデルをさせ、車を買い与えたり贅沢をさせているが、愛人を維持するために、ヤクザに莫大な金を支払い続けている。このために妻の怒りも悲しみも大変なものだった。しかしジャコメテイにとっては、妻も居てくれなければ1日として生きていられない大切な同志。そんなジャコメテイの苦悩も喜びも知って、弟デイエゴはジャコメテイを後ろから、しっかり支えているのだった。
画家仲間と議論をして、かんしゃくを起こし帰るなり今までの作品に火をつけて燃やしてしまったり、芸術家の理解者だったジェームスもジャコメテイの感情の起伏にはついていけない。一向に肖像画が完成しない日々、パリ滞在が3週間に至る所で、ジェームスはジャコメテイにストップをかける。描いては塗りつぶすことを繰り返してきた肖像画を未完成のままいったん引き取り、アメリカでの展示を済ませた後また描きなおす、という約束でジェームスは肖像画を持って帰国する。しかしそのあとジャコメテイは亡くなり、肖像画は完成をみることはなかった。
このあとジェームスは心からの尊敬と愛情をこめてジャコメテイの回想録を書き出版する。
というお話。

スイスのイタリア国境に近いボルコツーヴォで生まれたジャコメテイの顔は、スイスフランの紙幣に印刷されている。紙幣の裏は彼の作品「歩く男」だ。ジャコメテイはジュネーブ美術学校で絵画を学び、後にパリでロダンの弟子だったアントワーヌ ブールデルに彫刻を学んだ。彼の彫刻は写実ではなく、キュービズム、シュールリアリズムなどの影響を受けている。パリでピカソ、エンルスト、ミロやジャン ポール サルトルやポール エリュアール、矢内原伊作などと親しく交流した。サルトルはジャコメテイの彫刻した人物像は現代に観る人間の実存を表していると言って高く評価した。

このジャコメテイの顔が映画を主演したジェフリー ラッシュにそっくりだ。縮毛からワシ鼻までそっくり。ジェフリー ラッシュはオーストラリアが誇る役者だ。クイーンズランド生まれ、66歳。クイーンズランドで演劇を学び、パリのレコールインターナショナル デ シアターで2年間学んだあと、メル ギブソンを同居して二人してパントマイムとシェイクスピア芝居にうち込んだ。30歳を過ぎて初めてフイルム界に入り、1996年「シャイン」で実在の自閉症で天才ピアニスト、デヴィッド ヘルフゴットの半生を演じてアカデミー賞主演賞、英国アカデミー賞、ゴールデングローブ賞などその年の賞という賞すべてを獲得、一つの映画作品でこれだけの沢山の賞を獲得した作品は前後に無く、未だに記録が破られていないそうだ。本当に心にいつまでも残る名作だった。
彼は1998年に「シェイクスピア イン ラブ」で再びアカデミー賞を獲得、「ハウス オン ホーンデッドヒル」1999年、「パイレーツ オブ カリビアン」3作2001年-2003年でキャプテン バルボッサを演じ、「キングス スピーチ」2010年、「やさしい本泥棒」2013年などで主演している。オーストラリアの演劇文化を代表する名役者。

一方のジャコメテイに肖像画を描かれる側のジェームスを演じたアーミー ハーマーはロスアンデルス生まれの31歳。「ソーシャルネットワーク」2010年で、フェイスブックの創始者マーク ザッカ―バーグの友人、ケンブリッジ大学で一緒だったウィンクルボス双子兄弟を好演して注目を浴びた役者。「ローンレンジャー」2013年でジョニー デップの相手役を演じ、クリント イーストウッド監督の「Jエドガー」2011年で、エドガー フーバーCIA局長の相手役を演じた。フーバー扮するデ カプリオの同性愛相手役という難しい役を好演したときは、まだこの役者さん、たった24歳だったことを思うと、でかいのは2メートルの図体だけではない。才能に満ちている。大男だが鼻筋の通った完璧型の美しい顔をしている。

映画の中でジャコメテイに連れられてカフェに入ったジェームスが、ワインとコーヒーを水の様にがぶ飲みするジャコメテイを前に、ウェイターに問われてフランス語でコカ・コーラを注文するシーンが笑えた。やっぱりアメリカ人はどこでもアメリカ人なのか。
パリのアトリエで気難しいスイス人画家がアメリカ人をキャンバスに描いている間、妻と愛人が、いかにもパリジェンヌらしい自由奔放な蝶々のようにヒラヒラ舞って男達を翻弄する姿が面白い。パリです。パリ。

この映画はジェフリー ラッシュとアーミー ハーマーの二人芝居と言って良い。名人芸の粋に達しているジャコメテイ役のジェフリーに振り回される芸術愛好家で人の良い青年作家の話。ジャコメテイが好きで好きで仕方がない映画監督が、ジャコメテイにそっくりな役者を連れて来て、ジャコメテイが当時使っていたアトリエをそっくりに再現して映画を作った。ジャコメテイが大好きな人にとっては、見ていて感動すること間違いなしだ。そうでない人でもアーミー ハーマーの美青年ぶりに心を躍らせるかもしれない。
しかし画家に興味に無い人にとっては、この映画はたいくつでたいくつで耐え難い。うますぎる演技は時として鼻につく。

藤田嗣二の半生を描いた映画「FOUJITA」では、はじめに絵筆を持ったフジタが女性モデルを前にして白いキャンバスに1本の線を入れるシーンから映画が始まる。それを役者ではなく、手はプロの画家、長友薫堂が描いている。この画家がこのシーンのために自分の絵を描くよりもずっと1本のフジタの線を描くことが難しかった、と回想している。

このジャコメテイの映画では、ずっと大きな100号の油絵の白いキャンバスに、本当に本当のジェフリー ラッシュが肖像を描き始めるための筆を入れる。描き直しのきかない大事なシーン。最初に1本の線を入れるとき、息が止まって、時も止まってしまったかと思った。緊張の一瞬。それでもジェフリー ラッシュは一気に描き始めた。度胸が据わっている。ジェフリー ラッシュという役者、一筋縄ではいかない。さすがだ。