2016年10月25日火曜日
映画「シンゴジラ」駆除も捕獲も殺害もなしでゴジラは永遠なり
監督:廣野秀明 樋口真嗣
キャスト
内閣総理大臣補佐官:赤坂 :竹野内豊
内閣官房副長官:矢口蘭堂 :長谷川博己
米国国務省代表カヨコ アン パターソン:石原さとみ
環境庁自然環境局野生生物課長補佐: 尾頭ヒロミ
大河原総理大臣 :大杉蓮
ストーリーは
2016年11月 東京湾羽田沖で突然、大量の水蒸気が海底から吹き上げられると同時に、海底を通る東京湾アクアランドトンネルが崩壊する。何が起こっているのか。政府は緊急会議を開くが、大勢は地底火山の噴火と考えて政府の対策が後ろ手にまわる。内閣官房副長官、矢口蘭堂はネット上の人々の目撃証言や動画から、巨大生物の存在を示俊する。
時を経ずに巨大なこのヘビ状の生物は、東京湾から多摩川を遡上して蒲田に上陸、周辺地域を破壊しながら品川に達し、変態して2本足で歩き始め、また東京湾に姿を消した。そのたった2時間の間に、建物の破壊だけでなく死者、行方不明100人を超える被害が出た。
巨大生物はゴジラと名付けられ、政府は巨大不明生物特設災害対策本部(巨災対)を設置し、矢口蘭堂が事務局長に指名される。
一方漂流中の無人ボートが発見され、それがゴジラの生態を研究していた牧悟郎博士のものとわかった。博士は、「自分は好きにした、今度はお前たちが好きにしろ」、という謎のメッセージを残して姿を消していた。博士が残していたゴジラの遺伝子に関する暗号を解析するために、特殊専門家たちが招集された。ゴジラは驚くことに、体内に原子炉にかわる器官をもっていて、核分裂でエネルギーを供給していた。
その後、再びゴジラは、さらにその体を倍に増強して、鎌倉に現れた。
今度は前回出遅れた自衛隊が出動し、在日米軍の支援も要請し、航空機による爆撃、戦車の出動、米軍の大型貫通爆弾攻撃が行われる。傷を受けたゴジラは、驚くことに、口から火を噴き始め、近辺を炎上させ、避難途中だった総理大臣や閣僚を乗せたヘリコプターも炎上、さらにゴジラは、背中のとげから無数のレーザービームを出して応戦した。しかしエネルギーの大量消耗によって東京駅まで到達して、ゴジラはそこで動かなくなる。
2週間はゴジラは動けない。その間に対策を立てないと、日本の存続にかかわる。
ゴジラの尻尾から剥がれ落ちた組織や血液からゴジラは、人の遺伝子の8倍の遺伝子を持った完全体であり、無性生殖で自己増殖することができ、進化も早く、小型化、有翅化することもできることがわかる。ゴジラは日本だけの問題ではない。国連安全保障理事会の緊急決議で ゴジラを核攻撃で完全抹殺駆除する案が決定される。
東京都360万人の住民が立ち退き命令によって緊急避難した。日本の地に再び核兵器が使用されるのか。矢口蘭堂は、牧博士が残したゴジラの細胞進化を止めるための化学薬品を突き止めて、これを血液凝固剤と共にゴジラに注入することでゴジラの動きを止めることができるはずだと主張する。被爆国として、再び核兵器が使用されることを、何とか止めたい。彼の専門チームの熱い説得で、自衛隊と米軍が共同で動き出した。
弱ったゴジラに向けて、爆弾を積んだ無人新幹線をゴジラに激突させてゴジラの動きを止める。米軍による無人戦闘航空機によってゴジラは火を噴きレーザー光線を出し尽くし、力尽きて倒れる。横になったゴジラの口にポンプ車が何百キロもの血液凝固剤と冷凍薬品を注ぎ込む。ゴジラは何度も立ち上がり、抵抗するが遂に、立ちはだかって尻尾を振り上げる姿のまま凍結した。
というストーリー。
シドニーの大型劇場の最前列の真ん中で観た。30年あまりも外国に居て日本語の日本映画が見られるのは、とても嬉しいことだ。ここでもゴジラは人気ものなんだ。
暴れるだけ暴れると消耗して2週間ピクリともせず動けなくなるゴジラが可愛い。海から上がって来たばかりの幼生ゴジラのウツボとも、蛇とも、ウーパール―パーとも、深海魚ともいえない目がくりくりした姿も愛らしい。ドバー ビシャ―と エラから赤い海水か体液を噴出させながら蒲田や品川を破壊しまくった幼生ゴジラ自身に罪はない。
最後も歌舞伎役者が大見えを切るように、勇壮に尾を振り上げた立ち姿で、凍り付いた姿も忘れ難い。ゴジラの動きは狂言師の野村萬斎が監督したそうだ。さすがだ。
ゴジラは、米軍によって繰り返し行われたビキニ環礁水爆実験によって誕生した。米軍は実に1946年から1958年までの12年間に23回も原子爆弾を使った。とくに1954年の実験では、第5福竜丸など1000艘の漁船が死の灰を浴び、この船長は亡くなり、近隣の島民たちに大きな被害をもたらせた。いまだに放射線が強く、島民は帰島することができないでいる。この実験ではヒロシマ型の原爆1000個分の爆発が起こされ、海底には2キロ幅、73メートルのクレーターができた。
自然界を破壊した人間の奢りに対して、放射能をもろに浴びた海底生物は その遺伝子を破壊され、再生された時にはヒトの遺伝子の8倍の遺伝子を持つ完全個体になっていた。その細胞組織は無限に再生増殖することができる。寿命のない完璧な生物の誕生だ。ゴジラは神か。
今回の映画で嬉しかったことは、映画で一度も「怪獣」という言葉が使われなかったことだ。この巨大海中生物は、核分裂をエネルギーにして、えら呼吸をし、核分裂から起こる放熱を火炎射出や、背中からのビーム放熱で発散させて、海水で体を冷やしている。元素変換装置を持っているから細胞が壊れても再生も進化もできる。こんな発達した体をヒトは欲しかったのではないか。
ゴジラは、米軍による武器開発過程で生まれた 原子爆弾の副産物と言える。核分裂をエネルギーとして、生きる新生物だ。ヒトをできるだけ効率よく殺傷し、人類が何世紀もかけて築き上げてきた文化を破壊するために核兵器が開発され、兵器産業がゴジラを生み出した。ゴジラ自身にはヒトを傷つける意志などないし、ヒトを攻撃や戦闘する理由もない。
凍結されたゴジラは、放射能汚染水の流出を、地下水凍結で止めようとして失敗した東電のフクイチの姿に重なる。日本政府は、対策を練ることもなく、毎日900トンの汚染水を太平洋に流出させながらそれを止める技術も才覚も、指導力もなく世界の顰蹙をかっている。
文明の発展と経済活動を進める上で核開発は避けられなかった。私達はウランを掘り、ラジウムを医療に利用し数々の治療薬や検査薬を生み出し、核分裂させてエネルギーを作り出し、核の破壊力を利用して兵器を作って来た。もう後もどり出来ない。
核の使用前に人類全体として核をどう扱うか世界的な管理、倫理協定を持つことができなかった。その結果として世界は核によって滅び、地球は死滅するしかない。
わたしたちは凍結したゴジラを横に見ながら、より破壊力を持ったゴジラが再び動き始める、その日まで、何もなかったようにメシを食い、仕事を淡々と続けるだけだ。
+写真は、ゴジラが飲み残した急速冷凍凝固剤を、うちのアルちゃんが、ストローでちゅるちゅる飲んでいるところ。
2016年10月23日日曜日
映画 「インフェルノ」とダンテの世界を生きる私達
原題「INFERNO」
原作:ダン ブラウン
監督:ロン ハワード
キャスト
ロバート ラングルトン教授: トム ハンクス
シエナ ブロックス女医 : フェリシテイー ジョーンズ
WHO議長エリザベス シンスキー:シセ バベット クヌッセン
ベルナルド ゾブリスト : ベン フォスター
ハリー シムス : イル ファンカン
クリストフ ブルーダー:オマー サイ
ダン ブラウン原作の「インフェルノ」が映画化され公開された。3年前に原作が出版されたときに、すでに映画化されると発表されていたので、予定通りで、待ってましたーという感じ。前回 「ダ ビンチコード」(2003年)も、「天使と悪魔」(2000年)も、ダンブラウン原作、ロン ハワード監督で映画化されてきて、この「インフェルノ」が、彼らの第3作目に当たる。「インフェルノ」の書評は、2013年12月24日に、このブログで書いたが、すっかり忘れているので、ここで映画評の後ろに付け足してみた。
ダン ブラウンの作品は、緻密な歴史的考証をもとにして書かれているので、映画化するのに向いている。でもキャストについていえば、主役のラングルトン教授をトム ハンクスが演じるのは、もういい加減最後にして欲しい。ラングルトンは博識で、紳士で、50代らしいがチャーミングで独身生活を楽しんでいる。毎朝大学のプールで かるーく千メートルは泳ぐことを日課にしていて、英国仕立てのハリスのツイードジャケットが似合う、いわば男の理想像みたいな学者だ。トム ハンクスが役者では、軽すぎる。今回の悪役、ベルナルド ゾブリストを べン フォスターにしたことも、完全にミスキャスト。遺伝子工学の世界的な権威で天才的なドクターでおまけに富豪という役は、もっとカリスマのある人が演じないと映画が生きない。アクション映画の端役ばかりをやってきたベン フォスターにゾブリストでは、荷が重すぎる。
原作では良い人のはずだったクリストフ ブルダー(オマー サイ)や、準主役のシエナ ブロックスが、映画では悪者になってしまったのは驚きだったが、ラングルトンに、ラブロマンスの香りを付け足したり、原作にない暴力シーンが多かったことに、とても驚いている。
ロン ハワードの3作の中で、この映画が最悪の評価をされているらしいが、実際「ダ ビンチコード」や、「天使と悪魔」にはなかった原作のいじり過ぎが目立つ。いつの頃からアメリカ映画には、暴力とセックスが無くてはならないものになってしまったのだろうか。おかしいではないか。誰もがそういった傾向を好ましいと思っているわけではない。映画は芸術だったのではないか。ひまつぶしではないはずだ。原作から脚本を作り、撮影し音楽を作る、その過程は2年も3年もかかる総合芸術を生み出すための制作過程だ。原作をいじって、暴力とセックスを付け加えるのに断固反対。原作は映画よりも上か。勿論だ。特にこの映画は失敗作。トム ハンクスの老いさらばえた顔を見るよりも、原作を読んで知的好奇心を満足させる方が良い。
この作品のテーマは、ゾブリストが命を懸けて人々に問いかけた人口増加問題にある。私たちは、いま正にダンテの時代を生きている。ゾブリストが言うように「ヒトという種は多産すぎる。」 人口は増加する一方だ。水もエネルギーも食糧も足りない。地球の温暖化は止められない。人々は泥船を漕ぎ出して自滅に向かっている。WHOは何をしている。人口抑制のために開発途上国に無料のコンドームをばらまくだけだ。しかしWHOの職員が立ち去った後を、倍の数の宣教師がコンドームを使うことは神の意志に反していると説いて回り、途上国のゴミ箱には未使用のコンドームで溢れかえっている。70億に達した歯止めの効かない世界人口の倍増を前にして 解決策はあるのか。そんなわけで、ゾブリストは今後人々が子供を産まないようになり、徐々に人口が3分の1になるような解決方法を見出した。しかしゾブリストの解決策が誤っているならば、破滅に向かうダンテの時代を生きる我々人類に、生存できる道があるのだろうか。こういった差し迫った人類に課せられた問題について、答えを見つけられないでいる現状を作家は嘆いている。共感できる。だから原作がおもしろい。ハッキリ言って映画を観るよりも原作を読む方が、100倍面白い。
「ダン ブラウンのインフェルノ」を読んで
2013年 12月24日
ダン ブラウンが大好き。
彼の書くロバート ラングルトンが大好き。
尽きることのない豊富な知識、過去の歴史をそらんじていて、ラテンを含む数か国語に通じていて、難解な暗号を読み解く。ハーバード大学教授だが、象牙の塔にじっとしていられない行動派で、気が付くとインデイアナ ジョーンズなみに冒険の旅に出ている。フェミニストで、謙虚な紳士。いつもイニシャル入りの特注手縫いのハリス ツイードを着てローファーを履いている、男の魅力の塊みたいなロバート ラングルトンを生み出した作家、ダン ブラウンは1961年生まれのアメリカ人。父は数学者、母は宗教音楽家、妻は美術史研究者という。
2003年に「ダ ヴィンチ コード」の出版を機会に、世界的なベストセラー作家となり、その前に出版していたが売れていなかった、2000年「天使と悪魔」も 一挙にベストセラー入りした。ロバート ラングルトンシリーズ第一弾の、「天使と悪魔」は、キリスト教のイルミナリティ組織と、聞いたこともなかった科学技術の「反物質」が出てきたし、「ダ ヴィンチコード」では、レオナルド ダ ヴィンチの絵に隠された暗号を読み、イエス キリストの今まであまり語られることのなかった挿話が描かれた。2009年の「ロスト シンボル」では、フリーメイソン組織の秘密性を暴き出した。出版されたばかりの2013年「インフェルノ」は、ラングルトンシリーズの第4作目となる。2013年10月に出版され、11月末に日本語訳で出版された。
2015年には映画化が決まっている。またラングルトンをトム ハンクスが演じるらしいが、原作に描かれているラングルトンは トム ハンクスよりもずっと魅力的な男で、作者ダン ブラウンの姿に近い。作者はハンサムで実にチャーミングな人だ。だから熱狂的なラングルトンファンはそのまま ダン ブラウンファンになって、両者を常に混同する。彼はインタビューで私生活を一切語らないマスコミ嫌いだそうで、そのためファンは一層 想像力をかきたてられてダン ブラウンをラングルトン以上のスーパーマンかバットマンのように思いがちだ。最近のインタビューによると、実際の彼は、毎朝4時にはキーボードに向かって執筆する退屈極まりない日々を一年365日していて、10ページ書いては、1ページを除いて捨てるような地味な作家なんだそうだ。
今回の「インフェルノ」は、ダンテの叙事詩「神曲」第一部の「地獄篇(インフェルノ)」が、謎解きになって、地球の人口増加現象が語られる。ラングルトンは殺人者に追われながら フィレンツェ、ベネチア、イスタンブールを駆け回る。いつもの通り、美人の協力者と一緒だ。おもしろくてドキドキしながら650ページを一気に読める。
ストーリーは
ハーバード大学宗教象徴学教授ラングルトンは、目が覚めると頭に包帯、点滴でつながれてフィレンツエの病院に居る。どうして自分がイタリアに居るのか全く記憶がない。頭にぐるぐる巻かれた包帯は一体何だ。シエナ ブルックスと名乗る金髪の美しい女医に、自分に何があったのか、事情を聞いている内に、突然外が騒がしくなり病室のドアが開くと、シエナの同僚のマルコーニ医師が、突然闖入者によって撃ち殺される。とっさのシエナの機転で、ラングルトンはシエナのあとについて逃亡。バイクに乗った黒ずくめのプロの殺し屋の追跡をかわしながらラングルトンは、どうして自分が追われなければならないのか理由を考える。ラングルトンが何をしたというのだ。
シエナがラングルトンのジャケットの裏地に縫い込まれた円筒を見つける。ダンテの「神曲」を描いたボッチチェリの「地獄の見取り図」だ。しかし、おかしなことに、この見取り図には、原画にない暗号がついていた。ラングルトンとシエナは暗号が何を指示しているのか、知るためにヴェッキオ宮殿に侵入、ダンテのデスマスクを盗み出す。シエナは驚くべき高い知能を持った女性で、何度も彼女の知恵と機転に助けられながら逃亡、銃口から逃れながら、なぜ自分の命が狙われるのか必死で考える。デスマスクにはさらに謎の暗号が仕組まれていた。それを解くために二人はサンタマリア デルフォーレ大聖堂、ベネチアに飛んでサン マルコ大聖堂を彷徨った末、目的地が、意外にもイタリアではなく、イスタンブールだったことに気が付く。しかし、追っ手によって二人は分断されてしまい辛うじてシエナを逃がしたラングルトンは、敵に捕獲されてしまう。シエナは、先にイスタンブールに向かう。しかし、殺し屋と思っていたラングルトンの追っ手は、実は国際機関WHO議長ドクター エリザベス シンスキーとそのチームだった。シンスキーは説明する。
スイスの大富豪で生化学者ベルトラン ゾブリストは地球上の人類から人口爆発を食い止めるために、生物化学兵器ともいえる病原菌を仕掛けた。ダンテの熱狂的ファンでもあるゾブリストは暗号で病原菌を隠した場所を暗示するだけで、自から死んでしまった。彼は1300年代にペストがヨーロッパの人口の3分の1を死に追いやったことで、生き残った人々が豊富な食料を得てルネッサンスの原動力になった歴史的事実を、高く評価していた。そして世界人口がこのまま増加すれば 資源も枯れ葉てて世界は滅亡するの違いないので、世界人口を3分の2に間引くため病原菌を仕掛けたという。この科学者の残したダンテにまつわる暗号を読み解いて一刻も早く病原菌を回収しなければ人類の危機に陥る。3日前にWHOからラングルトンは、病原菌を隠した場所を示す暗号を解くように要請されていたが、事故で記憶を失っていたのだった。
ラングルトンらの一行はイスタンブールに飛ぶ。ラングルトンの協力者だと思われたシエナは ゾブリストのかつての恋人で、ラングルトンが解きかけた暗号を読んで、病原菌の隠された場所にすでに向かっている。ようやくのことで、ラングルトンが突き止めた病原菌の場所は、観光客に人気のスポットで、その夜はイスタンブール国立交響楽団がコンサートを開いていた。演奏曲目は、フランツ リストの「ダンテ交響曲」。病原菌がばらまかれるまで数時間しか残っていない。ラングルトンは、、、。
というお話。
ダン ブラウンを読ませる力は「知」への欲求だ。彼の本は、知の集積というか、ハーバード大学の講義を聴いているようなものだ。ラングルトンはいつも追われながら、世界各地にある建造物や美術品の歴史的価値や構造や特徴や現代における価値を説明してくれて、さらに今まで誰も述べてくれなかったような不可解な古代の象徴に秘められた暗号や、本当の意味や価値を読み解いてくれる。旅行者には興味があっても行ったり、触れたりすることができない奥の部屋や、地下や、からくりのあるドアや、天井の作りまで、ラングルトンが逃亡しながら足を踏み入れてくれるので、知ることができて、自分が前に訪れて、見て聞いた観光名所に さらに愛着が増す。
例えば、ミケランジェロのフィレンツエ、ヴェツキオ宮殿のミケランジェロの傑作「勝利」の像は、ローマ教皇ユリウス2世の墓を飾る為に作られたが、同性愛を憎んだユリウスの心情に反して、像のモデルはミケランジェロが長年愛したカヴァエーリという青年だった。ミケランジェロは彼のためにいくつものソネットを書いている。それを知った特注者は、ユリウスの墓からこの像を遠ざけた。というエピソード。
またヴェネチアのサン マルコ大聖堂を飾る4頭の馬は、漆黒のオランダ馬フリーシアン種がモデルで歴史上最も盗難にあった美術品といわれる。無名のギリシャ人によって製作されたがビザンチン帝国皇帝によってコンスタンチノーブルに持ち出された。その後十字軍がコンスタンチノーブルを陥落させるとヴェネチアに運ばれて、1254年にサン マルコ大聖堂に設置される。そして500年後にナポレオンがヴェネチアを征服すると、4頭の馬はパリに運ばれて凱旋門を飾り、ナポレオンが破られると再び、ヴェネチアに運ばれた、というようなエピソードは、実際、この巨大な4頭の馬を観て、印象が深かったので、たまらなく興味がわく。
ラングルトンが説明してくれたイスタンブールの「沈んだ宮殿」に上下さかさまに置かれているメヂューサの巨大な大理石でできた頭を一度見てみたい。360年に建造されて、東方教会となりモスクに変わり、いまはキリストも、アラーも、モハメドもいるという「アヤソフィア」も、是非訪れてみたい。こうして、ラングルトンが解説してくれる名所や建物は、本の出版後必ず人気の観光名所になるそうで、各国の観光相からどんなに感謝されてもしきれないだろう。
この本に出てくる、フィレンツエのサンタ マリアデルフォーレ大聖堂、天国の門、サン ジョバンニ洗礼堂、ダンテの家、サンタ マルゲリータ デイ チェルキ教会、ヴァザーリ回廊、、ヴェッキオ宮殿の五百人広間、ポルタロマーノ美術学校、ボーボリ庭園、ヴェキオ橋、ヴェネチアのムラノ島、サンタルチア駅、大運河、水上バス、などなどラングルトンの解説は 月並みな旅行解説本と違っていつも興味を倍増させてくれる。ラングルトンを、「走り回る旅行ガイド」と言った人が居たが、的を得ている。
とにかく面白い。
「ダヴィンチコード」に比べると、驚きは少ないが、充分満足だ。
2016年10月2日日曜日
オーストラリアの野鳥の様に
オーストラリアには800種以上の野鳥が生息する。
シドニー北部のノースショアと呼ばれる地域に20年近く住んで、最近そこから30分ほど西に行ったシドニー北西部に引っ越してきて、朝晩聞こえてくる野鳥の声が変わっていたことに気が付いた。以前のアパートはすべての部屋が、遊歩道のある林に面していたので、いつも煩いくらいに鳥たちがさえずってくれた。
多くの野鳥の名前は 私にはわからないが、一番多かったのがマグパイ(magpie)日本名カササギツエガラス、隊長は20センチくらいで首のまわりを白くした小型カラスみたいな姿。小柄のくせにギャーギャー叫びまわってうるさい。それを大きくしたカラウオン(currawong)と呼ばれるフエガラスは、日本のカラスサイズで、野鳥を虐める人が居ないので全然人を恐れずに歩道橋の手すりなどに止まっている。マグパイは育児中は神経質になっていて、アパートのバルコニーの手すりに来て、バルコニーのソファでせっかく昼寝している我が家の猫クロエに向かって、けたたましい声でギャーギャー声で「ここに敵が居るぞ、あやしい奴がいるぞー!」と100メートル四方に聞こえる音量で警報を発して、クロエがこそこそ家の中に避難するまでそれを続ける。迷惑だ。
手の届く距離の、バルコニーの手すりに飛んできて、静かに地面を見て動く虫がいないかどうか観察しているのは、クッカバラ(kookaburra)日本名ワライカワセミだ。20センチくらいだが体の大きさの割に頭も嘴も大きくて、羽毛がふわふわで愛らしい。ブルーが勝った白色の胸に背は茶色、近所で見かける野鳥の中で一番可愛い。名前の様にカッカッと人の笑い声のような鳴き方をする。
バルコニーで猫と、まったりしていた時に、極採色のレインボーロリキート(rainbow lorikeet)ゴシキセイガインコが普通に飛び交っていて、ボトルフラワーの実をついばんでいったのには驚いた。真っ青な頭、グリーンの背、オレンジの胸というカラフルで美しい鳥が、動物園や東南アジアの森でなく、シドニーの住宅地に普通に生息していることには感動した。
ワイルドターキー(australian wild turky)までも普通の人々が暮らす場に共生していて、どこででも闊歩しているのには、まいった。雄は首に極彩色の袋を持っていて気味が悪い。でかい。こんな奴の肉はクリスマスでも食べたくない。私の腰の高さの身長で、ひょこひょこと歩き回って、私が野良猫に餌をやるのを見ていて、しっかりそのエサを猫の目の前でさらっていく。脅かすと近くの樹に飛んでいって枝に止まって人が去るのを待っている。
だいたいバードウオッチって、日本では小鳥ばかりではなかったか。こちらの野鳥はみな大きいので望遠鏡など要らない。
ノースショアからシドニー北西部に引っ越して来て、前よりもごたごたした下町風の街並みに移った。バルコニーに出ると、相変わらずマグパイが飛んできて、愛猫クロエがせっかく陽の当たる場所で昼寝しようとしているのに、ギャーギャー騒ぎ立ててくれる。それと、マグパイのギャーギャー声をさらにグエ―ギョエーガガーと書いてみると怪獣の様な声で鋭く鳴くコカトウ―(cockatoo)日本名キバタンが、ここではとても多い。30-40センチと大きく真っ白な体に黄色い冠を持っている。寿命は70歳と言うから,うるさいだけでなく貫禄もある。近くにパラマッタリバーと言う大きな河があるので、そのあたりを根城にしているのだろう。うるさくて、全然可愛くないが、日本ではペットとして大事に飼育されているそうだ。
それと前のアパートでは見たことがなかったガラ―(galah)日本名モモイロインコを屋根の上でよく見る。ピンク色の胸にグレーの背をもった大きめのハトかと思っていたら、インコと言う名の付くオウムだそうだ。ピンクとグレーのツートンカラーが美しい。ここでは野生だが、飼育されたものが日本では人気のペットだそうだ。人懐こいので可愛がられるだろう。
テレビでフットボールやサッカー中継を見ていると、緑のグランドに試合中でもたくさんの真っ白なコカトウ―や、アイビス(トキ)がグリーンの上で、虫をねらってたくさんやってきているのがわかる。試合で得点をめぐって緊張が高まっているときに、大きな野鳥や、ワラビー(小型カンガルー)や、大型のゴアナ(オオトカゲ)が試合を邪魔することも多い。こんなときスポーツアナウンサーは、あわてずに「ローカル(地元民)も応援に駆け付けました。」などと言って笑わせてくれる。
引っ越して目にする野鳥の種類も変わったが、住む人間も変わった。以前は北部のスノービーの住むアパートだったから、クラシック音楽愛好者や、ピアノを持つ人も多く、アパートではいつもピアノやフルートの音が聞こえてきた。私も普通に、朝からバイオリンやギターを弾いていた。また、ノースでは道は譲り合い、人とすれ違う時には微笑みを交わすのが普通。老婦人の中には、昔のイギリスからの良き伝統どおりに首飾りに帽子をかぶってデパートに来る人も多かった。最近裕福な中国人が土地を買い占めて、人種が変わってきているが、それでもノースの文化的様相は変わらない。
移ってきたところは基本的にはプアホワイトの土地。昔からオージー保守派の住んできた土地で、地価が安かった時期に大量のインド人など東南アジア人が移民してきたところだ。ショッピングセンターに行くと、若い子連れのインド人ファミリーが多く、あまり身だしなみを気にしないプアホワイトの老人たちばかりに出会う。プアホワイトの顔つきは、ノースのホワイトと全然違う。人と会っても笑わない。だいたい移ってきて8か月経ったが、クラシック音楽の音が聞こえてきたことがない。
日曜日にバイオリンを弾いていたら、翌日となりのインド人のおばさんに興味津々と言う顔で、「あなたギター弾くのね。」と話しかけられたが、そのついでに「お金貸してくれる?」と請われた。こわい。
楽器の音が全然聞こえてこない場所で、すこしだけ遠慮っぽくバイオリンとギターを弾いている。ギャォーギャーンゲャーと、100メートル四方に届くボリュ―ムで遠慮なく鳴きさけぶコカトウ―やマグパイがうらやましい。
写真はオーストラリアワイルドターキーと、コカトウ―
2016年10月1日土曜日
映画 「はじまりへの旅」キャプテンファンタステイック
原題:「CAPTAIN FANTASTIC」
「キャプテン ファンタステイック」
監督: マット ロス
キャスト
父親ベン: ヴィゴ モーテンセン (指輪物語のアラゴン役だった役者)
母親レスリー: トリン ミラー
ストーリーは
ベンとレスリーは、ノーム チョムスキーを信奉する(詳しくはアナルコ サンジカリスト)でヒッピー。現代社会から離れ山深い森の奥地に家を建て、自給自足の生活をしながら6人の子供を育てている。7歳から18歳までの3人の男の子と3人の女の子たちは、学校に行かずベンとレスリーから教育を受けている。
ところが 母親のレスリーは、バイポラ躁うつ病と精神分裂症を併発し、治療のため、山を下りて実家に帰ったところで、自ら壁に頭を打ち付けて死んでしまった。実家の母は、レスリーの葬儀は、教会で5日後に行われるという。ベンは子供たちに事実を告げるが、年少の子供達は、自分たちの母親の死を「理解」できずに居る。ただただママに会いに行きたいと主張する子供たちを前に、ベンは自家用バスに子供たちを乗せて、妻の実家近くの教会に向かう。五日間あれば、バスでたどり着けるだろう。レスリーは遺言で、自分が死んだら火葬して、その火の回りで子供達は歌を歌い踊って楽しく過ごして見送って欲しいと書き残していた。ベンは、妻の意志を尊重して教会での葬儀と埋葬を、是が非でも中止させなければならないと思っている。
バスで移動中6人の子供たちは、初めて森の生活から下界に下りてきて、何もかもが驚きの連続だ。街では肥満体の人々ばかりなのを見てあきれ、ホットドックを食べさせるレストランのメニューに驚愕し、(犬を食べるのか)、18歳の長男はテイーンの女の子にナンパされて、思い余ってプロポーズしてしまうし、てんやわんやだ。レスリーの兄弟家族の住む家に寄っていくと、子供たちと同じ年頃のいとこたちが、知性のひとかけらもなく凡庸な事を恥じることもなく、グダグダとビデオゲームに夢中になる姿に、カルチャーショックを受ける。とうとう五日かかって、たどり着いた教会では、今まさにレスリーの葬儀が行われ、墓地に埋葬されるところだった。そこに6人の子供たちを連れたベンが闖入して、レスリーの棺に手をかけて、教会での葬儀はレスリーの遺志に反すると主張する。しかし、ベンと子供達は、たちどころにガードマンによって教会から締め出され、レスリーは彼女の両親、親族の意向通りに教会から墓地に移されて埋葬されてしまった。
埋葬の後、6人の孫たちに初めて会った、祖父母は、「このヒッピーくずれが、社会と縁を切って、祖父母とも親戚とも合わせずに、森に入り、子供達を私物化しているのは児童虐待で、立派な犯罪だ。警察を呼ぶ、弁護士を呼んでベンが子供たちと会えないように法的処置を取る、」と怒り心頭でベンを非難しまくる。一方、次男は、母親の死を受け入れられずにいて、その悲しみと怒りから、おじいさんの言うことに共鳴して、さっさとおじいさんの家に移って来る。祖父母は子供たち全員を引き取って、きちんと教育を施して責任を全うしたい、と申し出る。大きな屋敷、広い安全な環境、生活するのに何の心配もない裕福な家庭。ひととき、子供たちが祖父母に大切にされて、楽しむ様子を見てベンは、子供達を手放して一人で山に帰る決意をする。長い髪を切り、ひげを剃りたった一人になったベン。自分の教育方針は間違っていたのか。
しかし、6人の子供達は、バスの床下に隠れていたのだった。戻ってきた子供達とベンには、しなければならないことがある。墓地から「ママを取り返す」のだ。墓地を掘り返し、棺をバスに乗せ、子供達はママをしっかり抱きしめてお別れを言って、遺言通りに火葬した。ママの言った通りにママが灰になるまでみんなで歌を歌い、ギターをかき鳴らし、踊り、詩を読んでママを見送って灰を’空から撒くことができた。
というお話。
ニュージーランドを旅した時、オークランドから2時間ほど車を走らせた海岸沿いに、ベトナム戦争の嵐が吹き荒れた時期に、アメリカから兵役を拒否して逃れて来たヒッピーたちが移住してコミュニテイーを作っていた地域を通ったことがある。海に向かって無限の広がりをもった、小さな島々が散らばる美しい土地だった。当時アメリカは徴兵制があったから兵役拒否は、国辱者の「極悪犯罪者」だった。彼らを受け入れる側も、逃げてくる側も「反社会的、凶悪犯人」として弾圧された。今では信じられないだろうが、この時期、長髪にするというだけで過激派レッテルが貼られ、社会は徹底的に排除した。今でこそヒッピーは長髪、ひげ、奇妙なゆるい服を着て、花束を機動隊に差し出したり、素裸になって抱き着いたり珍妙な光景ばかり面白おかしく話題にするが、彼らとて銃を持った国家店力を前に命懸けの反戦活動をしていたのだ。
心から尊敬する作家、シオニール ホセは、著書「民衆」の書き出しで、「ぼくの名はサムソンだ。ぼくは長髪だがそのこと自体、別に何のシンボルでもない。ジェス神父に注意された時、ぼくはキリストも髪を長くしていた、と言い返した。」 といっている。初めて、この本を読んだとき、マルコス戒厳令下で、出版禁止、執筆の道も弾圧で絶たれた闘士 シオニール ホセの言葉に、思わず涙が込み上げた。長髪は明らかに反体制反政府を表示する意味を持った時代だったし反戦活動家は孤立していたのだ。
この映画は、国の教育システムも、社会の規律も、市民としての義務も権利も放棄して、6人の子供を自分のルールで育てている無政府主義者でヒッピーの家族のお話だ。ベンとその子供達は、キリスト教を完全に否定する。クリスマスを祝わずに、ノーム チョムスキーの生誕日が祝日だ。お祝いに子供達は父親から特別なプレゼントが与えられる。一人一人が父親ベンから手渡されて感謝感激する贈り物は、弓矢だったりよく切れるナイフだったりする。キャプテンであるベンは子供達にエスペラントを含む4か国語を教えた。森の中で狩猟に行き、獲物を弓矢とナイフで殺し解体して食べ、皮を服や靴にする。山を開墾し畑を作り自給自足の生活をする。生き残るのに必要な体力の基礎をつくる為、朝から山を駆け巡り、岩登りを学び、泳ぎを覚える。幼いうちから読書の喜びを体験し、常に学んだことを言葉で表現できるようにし、言葉で表現するだけでなく絵画に描き、詩を読み、音楽にして表現する楽しさを家族全員で分かち合う。
10歳に満たない子供が、4か国語を駆使し、議論が白熱すると思わず皆がエスペラントでやりとりしていたり、アメリカ合衆国憲法を諳んじて言えて、ノーム チョムスキーを引用しながらファシズムを批判するかと思うと、自分で殺した小動物の毛皮を剥いで帽子にして、おまけにバッハを愛好する。なんとも なまいきでくすぐったい。
それにしても、どこまで子供は親のものだろうか。
子供は親のものでも親のペットでもない。現実には親が子に教えられることはそんなに多くはない。親がどんなに優れていても、子供にすべてを伝えることはできないし、子の方でも親の限界を早くから気付いて自分から親を乗り越えていくものだ。
人間は社会的動物だ。アーノルド ロレンツは、他の哺乳動物は生まれてすぐに立ち上がり乳を飲むのに比べて、人は未熟児状態で生まれて、親だけでなく社会によって育てられて成長する特殊な動物であると説いた。私たちは子供を産み、保育園、幼稚園、学校などで集団教育を受けさせ、社会の中でスポーツや音楽を楽しみ、子供の成長を見守る。子供達は親からよりも同じ子供達や、社会の大人たちから多くを学んで大人になる。親は子供の教育のほんの一部に関与するだけだ。子供が親の私物でも、ペットでもあってはならないのだ。
ママなんかもう要らない。うるさい、あっちに行って。と子供が言ってくれるようになることを、親は喜ばなければならない。親の介在を必要としなくなるまで子が成長してくれたと理解して、心から喜び、子を祝福しなければならない。そして、できるだけ子供をそっとしておいてやることだ。次に、ちょっとママ手伝って、と自分から言ってくるまで、辛抱強く黙って待つことだ。これが子育ての極意だ、などと言うことは間単だが、実行は難しい。現実には、反省することしきりだ。
子供が2歳の頃、自分で散らかしながらでも食べようとする子供を制して、後かたずけが簡単だからと言うだけの理由で、スプーンを奪って食べさせてしまわなかっただろうか。 子供たちが5歳の頃、危ないからと、止めたのに走って転んで怪我をして泣く子が、自分で立ち上がりこちらに来るまで、愚痴めいた事や批判がましいことを言わずに、じっと見守ってやっただろうか。 子供が7歳の頃、バイオリンの練習時間なのに楽器のケースを開けようとしない姿を見て、黙って待ってやっただろうか。 子供が中学の頃、いじめっ子に酷いことをされたのを見て、本人と解決方法を話し合わずに腹立ちまぎれに相手の家に怒鳴り込みに行かなかっただろうか。 子供が高校の頃、本人が何をしたいのかではなくて、大学に医学部には入れると先生が言うんだから行かなかったらバカだよ、みたいなことを言い選択肢を奪わなかっただろうか。 子供が大学生の頃、学校に送り迎えを申し出る献身的ボーイフレンドを、あいつは20点、こいつは3点、とか言って品定めしなかっただろうか。 子供が結婚するころ、ねえ、あなたみたいな完璧で素敵な人が、あんな奴がダンナで良いの?あんな60点男で良いの?と幾度もしつこく問わなかっただろうか。
全部自分のことだ。子育てより子離れのほうが難しい。親はいつも子供を手助けしたいと願い、子供が転べば走って行って助け起こし、子供に良いと思うことを押し付け、輝かしい将来を実現させてもらいたいと願う。あふれる愛情を止めることができない。でも、だからこそ、肝に銘じて子供は親のものではないことを常に認識していなければならない。
父親が一人で6人の子供達を人里離れた森の中で学校に通わせることを拒否して、すべての学問を教えることはできない。また、そんなことをしてはいけないのだ。
この映画は、おとぎ話と言える。
お伽噺として見れば、この映画はとても楽しい。6人6様の知的で個性的な子供達が、実に生き生きしていて魅力的だ。実際、映画撮影に入る前に、森でみな共同生活をして、本当に家族の様に互いがすっかりなじんでから、映画を撮り始めたという。アメリカ、カナダ、イギリス、ニュージーランド、オーストラリアから集められて役を演じた選りすぐりの子役達が、キラキラと輝いている。
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