今年のアカデミー賞では、ハンガリーの、ネメッシュ ラスロ監督による映画「SON OF SAUL」(サウルの息子)が、外国語作品賞を受賞した。この作品は、アダム アーカポ監督による「マクベス」とともに、アカデミースポットライト賞というの賞も受賞した。
今年の外国語作品賞候補作は、ヨルダンの「THEEB」、デンマークの「A WAR」、フランスからは「ムスタング」、コロンビアの「EMBRACE OF THE SERPENT」と「サウルの息子」が挙げられ、最終的にこの作品が受賞した。
今年のアカデミー賞は、2か月前に候補作が挙げられた時点で、ホワイトアカデミーと揶揄され、白人の男性ばかりが候補になっているのは人種差別、男女差別の見本だと批判され、一部の黒人俳優が出席拒否をするなど、話題が多かった。いざ蓋を開けてみると、司会者やショーを盛り上げるパフォーマーがみな、ホワイトアカデミーと言う言葉に触れてジョークをかますなど、政治色も強い発言が多くて興味深かった。
レデイーガガが、「TILL IT HAPPENS TO YOU」を何十人ものレイプ被害者、家庭内暴力を生き延びた被害者と一緒に歌って、会場からスタンデイングオベイションを受けていた姿が印象的だった。ーあなたは悪くない、レイプされても自分が悪かったなんて思わないで、ひどい目に遭っても暴力で私の心を曲げることはできない、前を向いて生きていこう、、、そう互いに言えることがいかに大切か。「HOLD YOUR HEAD UP」なのだ。本当にそうなのだ。
アカデミー主演男優賞を遂に手にしたレオナルド デカプリオが、受賞のスピーチで、大企業、エネルギー産業による環境破壊は現実に起こっていることで深刻です。地球上すべての生き物が生き残るために、先住民族を尊重し、弱者を保護し、環境保全のための政策を取らなければなりません。といった自然保護活動家として、まっとうな警告をして、これまたスタンディングオベーションを受けていた。
またドキュメンタリーショートフイルムでは、パキスタンの「A GIRL IN THE RIVER」が受賞した。二度目の受賞になる女性監督SHARMEEN OBAID CHINOY シャ―メン オバイド チノイは、若い女性がシャリアローと呼ばれ、名誉殺人といわれる慣習によって殺されている現実を告発した作品をフイルムにした。パキスタンなどモスリムの一部の地域では、女性が親の決めた結婚に逆らったり、身分違いの男に恋をしたりすると、その女性の兄弟や父親が、当の娘を殺すことが名誉とされる宗教的慣習がある。パキスタンでは毎年1000人余りの女性がこの名誉殺人で処刑されている。監督は受賞の檀上スピーチで、「今年パキスタン政府は、やっと名誉殺人が違法であることを正式に認めた。フイルムのパワーがこうした動きに通じていると考えると嬉しい。」と述べた。
このようにアカデミー賞も今年は、かなり辛口で告発型、政治色の強い、社会性のある賞になったことは、良い事だと思う。単なるお祭りではなく、考えるための集いになったことは、フイルムの本来の目的に沿ったことであるからだ。
サウルの息子
監督:ネメシュ ラスロ
キャスト
サウル:ルーリグ ゲーザ
アブラハム:モルナール レべンデ
ビエデルマン:ユルス レチン
ドクター:ジョーテル シャーンドル
ラビ:トッド チヤ―モント
ストーリー
1944年10月 アウシュビッツ ビルケナウ収容所
サウルはハンガリアのユダヤ人で、アウシュビッツに捕らわれ、同じユダヤ人が殺されたその死体を処理するゾンダーコマンドと呼ばれる特殊班で働かされていた。班の囚人たちは、自分たちも数か月後には、処理される側に送られることを知っていた。
列車で次々と収容所に送られてきた人々に、熱いシャワーを浴びると偽って、衣服を脱がせると、ガス室に閉じ込める。そこがシャワー室でないと悟った人々が、逃げ出そうとして騒ぎ出し、室内は怒号と泣き声で、阿鼻叫喚の様相となる。しかしサウルたちは淡々と、人々が残していった衣類や宝石や時計、財布などを仕分けていく。 それが終わった頃には、ガス室を開け、死体を積み重ねて運び出し、汚物と血で汚れた床を洗い流す。運び出された死体は積み重ねられ、ガソリンで焼かれ、灰は川に捨てられる。休む時間などない。ゾンダ―コマンドは、てきぱきとドイツ兵に命令されるまま仕事をする。
ある日、ガス室で沢山の死体が折り重なっているなかで、一人の少年が奇跡的に生き残っている姿が発見された。少年はすぐにドイツ衛生兵によって窒息死させられ、解剖に回された。それは15歳のサウルの息子だった。
ユダヤ教では死体は火葬しない。燃えて身体がなくなったら魂がよみがえって再生することができない。サウルはせめて自分の息子だけは土葬してやりたいと願う。サウルは解剖を終えた同じユダヤ人の医師に、死体を自分のために確保しておいてほしいと頼み込む。次にラビを探さなければならない。ラビの祈りとともに埋葬したい。
サウルは仲間たちからラビが他のゾンダーコマンドにいることを知らされる。サウルはそのゾンダーコマンドに潜入してラビを探し出す。ついに見つけ出して息子のために祈りを捧げてほしいと頼み込むが、それをラビは拒否する。それでも食い下がるサウルから逃れようとしてラビは、とっさに川に落ちて投身自殺しようとする。サウルは川からラビを救い引き上げたが、ラビはドイツ兵により銃殺されサウルは生き残った。
サウルは息子の死体を自分のベッドに運んできて横たえる。必死でラビを探すことを諦めない。一方で仲間たちの間では、脱獄計画が進行していた。サウルは女子房から、銃に詰める火薬を受け取りにいく任務を指示される。極秘に首尾よくサウルは火薬を手にするが、帰りに新しいユダヤ人たちが列車で到着し、彼らが駅に着くなり銃で殺される現場に居合わせた。銃から逃れようと人々が右往左往する大混乱のなかでサウルはラビを見つけ出す。サウルはラビを自分の部屋に連れて来て、ひげを剃り、自分の囚人服を与え、ゾンダーコマンドの一員に仕立て上げる。
とうとう翌日にはサウルのゾンダーコマンドが、今度は処分されるという情報が入った。時間がない。脱獄計画は突然現実のもにとなった。反乱は一瞬のうちに始まる。圧倒的多数のユダヤ人囚人に比べてドイツ監視兵の数は限られている。サウルは息子を肩に背負いながら、ラビを連れて逃亡に成功し、他の仲間たちと、森に逃げ込む。森で息子を埋めようとして、サウルは今まで自分の体を盾にして、その命を守って来たラビが、偽物ラビだったことを知らされる。ドイツ軍の追手が迫っている。サウルは埋葬することを諦めて、遺体を背負って川に飛び込む。しかし急流に飲まれてサウルは、息子の遺体を手放してしまう。溺れているところを仲間に救い出されて、向こう岸に着いた。十数人の生き残った仲間と共に、山小屋で休息を取る。脱獄計画のリーダーは、森の中でポーランドのレジスタンスに合流する計画でいた。しかし、みな疲れ切っていて、しばらくは動けない。そんな囚人たちを、ひとりの近所の農家に住む少年が、不思議そうに眺めている。サウルは少年を前にして、そこに自分の息子がよみがえって目の前に立っているように思えた。息子は生き返って自分の前に立っている。息子の邪鬼のない目で見つめられて、サウルは自分の心が休まる思いだった。息子は殺されたり焼かれたりせずに、自分の前にいるではないか。
しかし、その山小屋はすでにドイツ兵に囲まれていて、、、。
というお話。
人は悲しいとき言葉を失う。
極端に会話というもののない映画。あるのは音だけだ。鉄格子の錠が下りる金属音。収容所のサイレン。銃弾の音。軍靴の音。ドイツ兵の短い命令、血で汚れた床を洗うブラシの音。断末魔の悲鳴。絶望したすすり泣き。何百人の人々が映し出されて、生と死のドラマが進行しているにもかかわらず、人の会話、人と人が話す音が全く失われていることの恐怖。
この恐怖感と、極度の緊張が、映画が始まってから終わる瞬間までずっと続く。
カメラが焦点を合わせるのは大写しになったサウルの顔だけ。でもそのサウルの後ろでたくさんの、もうたくさんの数えきれない死体が折り重なっていて、それが処分されていく様子が、焦点のないぼやけた背景として映し出されている。
ぼやけている背景が本当に事実だったことで、焦点の当たっている男の顔の方が抽象だ。
背景の焦点をぼかすことによって、より強い事実を表現している。なぜなら、ぼやけた背景では一体どんなことが行われているのか、何が起きているのか、わたしたちは想像力を駆使する必要もなく、事実として知っているからだ。600万人の声なき声を聴いているからだ。圧倒的な暴力の前に沈黙するほかはなかった人々の声が聞こえる。焦点を失ったぼやけたフイルムから、言葉のない人々の姿がはっきりと見える。
フイルムの訴えるパワーを再確認させられる映画だ。優性思想によって蹂躙された人々の沈黙の重さを噛みしめる。70年前にあったことだが、これからのことでもある。言論統制が始まっていて、ジャーナリズムがその機能を果たしていない。人々が沈黙に向かっている。この映画は、昔の話をしているのではない。