2025年2月17日月曜日

USAIDシャットダウン

米国大統領就任式で、新設された政府効率化庁のイーロンマスクが、スピーチのあと人々に向かって異様な敬礼をした。この日、トランプ大統領が矢継ぎ早にサインした沢山の大統領令の内容に、度肝を突かれた世の人々は、マスクの行状などに大して驚かず、話題にならなかったが、そのまま気にせずに通り過ぎてしまいたくない。
豪州では公共の場でナチのシンボルの鍵十字や、ナチ式敬礼をすることは刑法で禁じられている。違反者は1年の実刑と罰金230万円ほどが科される。

右手を胸に当て、腕を伸ばし手のひらを下に向けてから右上に掲げるナチス式敬礼の起源は、ローマー帝国のカイサルにある。 
カイサルは、ルビコンを超えアジア、北アフリカにヨーロッパのほとんどの国々を支配下に置いて、ローマに凱旋した時に、熱狂するローマの人々にこの敬礼で応えた。凱旋パレードは、背中に高く松明の火が燃える象の行列に導かれ元老院議員、楽隊、戦利品を陳列した馬車、捕虜になった敗者を載せた馬車があとに続き、兵士や市民にはボーナスが与えられ、祝宴は4回続いたという。コロシアムではテビレ河の水が引かれて海戦ショーや、剣闘士の剣技、400頭のライオン狩りを人々は楽しんだと伝えられている。

で、、、カイサルの真似をしたマスクだ。就任後、彼の最先鋭の
部下を連れてUSAIDに乗り込み、そのメインコンピューターの情報にアクセスして内容を検討ののち、大統領にシャットダウンするようにアドバイスしたという。
USAIDは1961年、ケネデイ大統領が393憶ドルを計上して創出された組織だ。1961年11月に人類学者を装った(確認できるだけで)12人の米国人スパイが南ベトナム中部山岳地帯に入った。彼らは200万人の文字を持たない山岳民族でベトナム政府に不満を持っていた。それを組織化して低地に住むべトコンと戦わせてベトコンを全滅させてべトナム政権を乗っ取る、というケネデイ大統領による分裂支配の実験だった。1962米国は南ベトナムに宣戦なしの戦争に入った。米国はこんな汚い手で、傀儡の反共サイゴン政府を作ったが、結果は散々たるものだった。ベトナム人によるベトナムは、他国がどんなに資金と武力をを投入しても民族独立の志を奪うことはできなかった。

その後、USAIDは、米国が仕掛けたすべての戦争に、CIAとともに、CIAの手足となって関わってきている。
1999セルビア攻撃、2003イラク攻撃、2011アフガニスタン侵入ではケシ栽培に関わった。2011リビア政府崩壊、ベネズエラの反チャベス運動、ブラジルのボルセナロ支援、中国武漢に生物研究所に出資してコロナ研究に力を入れ、2014ウクライナでマイダン革命を主導し、2021アゾフ連隊を支援した。

USAIDが、難民支援で救った命は数えきれないとしても、組織自体が望む望まないに関わらず、「世界で他国の政権転覆」と「内政干渉」に利用されてきたことは事実だ。最貧国を援助すると言うことは、それぞれの国の特殊性、国内事情やそれを握る経済構造に精通する必要がある。そういった情報は、軍や帝国主義者が最も欲しい情報でもある。良かれと思って援助することが、腐敗した新たな権力者を作り出す。また、どんな組織も大きくなって、豊富な資本がつくと腐敗する。組織というものが、必ず大きくなると腐敗するものだと言う事実を忘れてはならない。

ワシントンでのトランプの就任式に、アマゾンのジェフべゾズも、メタプラットフォームのマークザッカーバーグも、トランプに100万ドル寄付した後、式に同席していた。この2人の男たちのトランプへ忠誠を誓う態度の豹変は、ただの損得勘定だけではなかった、と思う。
カイサルも、ローマで暗殺されたあとは、しばらくはその死体を放置されたのである。

写真は都庁の建物に映し出されたゴジラ。会えて嬉しかった。



2025年2月7日金曜日

日本旅行 その3

上野のホテルから新宿のホテルに移ったら、フイリピンに滞在していた教授こと、山田修さんがマニラから着いたその足で会いに来てくださった。

私のたっての願いで新宿の長崎ちゃんぽん皿うどんで、家族全員と会って、旧交を温めた。彼とのなれそめは、とマゴに聞かれて35年前のこと、すっかり忘れていたがようやく思い出した。娘たちがマニラインターナショナルスクールで学んでいた頃、そこでわたしは午前中は中学生、午後は高校生にバイオリンを教えていた。マニラで日本語の新聞を発行して編集記者だった彼が、音楽室にインタビューに来たのだった。音楽の話をロクにせず、「なぜ塩見孝也がブンドを割って赤軍を作ったことが間違いだったのか。」とか「新左翼がコケたのは当時の党派が子細な戦術の違いで分裂したことに全責任がある。」とか、しっぽり2-3時間話した記憶がうっすら。彼は何でも知っている。わからないことがあって調べるのがめんどくさかったり難しい時、聞くと何でも教えてくれる。わたしの百科事典だ。

翌日は6人で明治神宮におまいりした。神道と仏教の違いが良くわからない義理の息子スコットに、神道がいかにかつての大戦で現人神天皇が300万の国民の命を奪ったかを言及し、神宮の森は残すべきだが、神道は過去の遺産でお伽話にすぎないと説明。その足で原宿、竹下通りに出て、ドーナッツを買って公園で食べ、古着など見た。15歳のマゴが気に入ったジーンズをみつけられて良かった。女子組が買い物にうつつを抜かしている間、男子組は自転車を借りて代々木公園を走り回り、それでもエネルギー持ち甘してバッテイングセンターで大汗をかいていた。スコットは毎朝みんなが寝ている間、退屈しのぎにひとりで遠出の散歩で新宿御苑を何周もしている。

次の日、次女家族は新宿からバスで富士急ハイランドで1日中遊んできた。天気に恵まれ富士山がよく見えたようだ。遊び疲れて夜暗くなってやっと帰ってきた。私と長女は新宿散策、紀伊国屋、世界堂、伊勢丹、追分団子,高野フルーツパーラー、カフェでカニの身が沢山入ったパスタをやっつけた。
翌日は銀座に出て、新しいビルのGSIX, ソニービル、和光、三越、よしのやの靴、MUJIホテルなどなど見たのあと、銀座4丁目の「ライオン」でビールとジャーマンソーセージを食べた。むかし大学でマスコミを学び、当時銀座5丁目にあった新聞社に勤めた。昼飯はいつもライオン、仕事帰りには一緒に採用された5人の新人仲間で上司の悪口を肴に飲んで食べた。1年後セクシャルハラスメントを会長から受けて退職し、女性がずっと働ける職業を、と思って大内兵衛のアドバイスに従って美濃部都政が作ったばかりの看護学校に行きナースになった。今も75歳現役ナース。人生わからないものだ。
娘たちはマゴ達をホテルに残して夜、西口夜店通りからゴールデン街まで足を伸ばして焼き鳥とビールを楽しんでいた。

最後の夜は都庁のビルのゴジラ放映を見て、寿司よねがみでコース料理を食べ、翌朝ホテルにスーツケースを預けて「渋谷スカイ」に行った。素晴らしい眺め。しかし、東京を上から眺め、これから大地震や原子力発電所の事故が起きたら人々はどこに逃げたら良いのだろう、東京の緑の少なさに唖然とした。

空港行のバスを待つ間、吟遊詩人スーマ―さん(Masaaki Sudo)さんがわざわざ横浜から飛んで会いに来てくれた。自分の作った歌をマイクを通さずに伝えられる距離で語り弾きをしている稀有で貴重な人。「寒弾」というエッセイを毎月書いて印刷して全国、全世界の根強いファンに郵送している。画家たちとも交流があって「寒弾」の表紙はいつも斬新な絵だ。彼と話していると、声そのものに優しさと思いやりが籠っていて、心地よい。以前は帰国ごとに彼のライブで、他の友人達を集めて会っていたが、今回はスケジュールが合わなかった。
会いたくて会えなかった方々、Green Design Work の平山さん、村松ゴン、父のお弟子さんたちなど会えなくて残念だったけど、こんどまた。
写真は渋谷スカイ



2025年2月6日木曜日

日本旅行、その2

今回の日本旅行は1にも2にも長女が半年かけて、情報収集や計画を作ってくれたおかげで、事故もなく18万円の旅行保険を使うこともなく最小限の時間で最大限の観光旅行ができた。プロの旅行コーディネーター並みにホテルや新幹線、レストランの予約もシドニーでやっておいてくれて、選ばれた店で食べた食事や、おやつに「ハズレ」はなかった。感謝だ。

ナスパ新潟越後湯沢でスキーと温泉三昧をしてから、新幹線で上野のホテルへ。上野は、娘たちが生まれた文京区千駄木に近く、昔は幼い娘たちを自転車の前と後ろに載せて、上野動物園や不忍池、松坂屋や博物館に行き、1日遊んできた場所だ。私たちの裏庭のようなものだった。

アメ横で買い物を楽しんで、もんじゃ焼きやウナギや日本風洋食を食べ、私が子供の時から親しんできた西洋美術館に行ったら人がいっぱいでチケットが売り切れと。モネ特別展をしていたらしいが、そんなにモネ、日本人の間で人気者だったっけ。拒否されてびっくりしながら次女は浅草へ。釜浅で料理包丁を買い名前を彫ってもらって満足。
次の日は東京駅切手ビルの花丸寿司に直行、北海道でしか取れない新鮮で実のしまった魚介類の美味しいこと。動けなくなるまで寿司を堪能した。

それから沖縄時代からの古い友人森さんに銀座「ろくさん亭」で美味しいローストビーフをご馳走になった。料理の鉄人何とかいう人の店だそうだが、これほど美味しいローストビーフを生まれてから食べたことがない。感激だ。JALのアテンダンスを長いことされた経験で美味しい店を良く知っている。50年前女子のあこがれだった当時の花形スチュワーデス、狭いところで制服から振袖に着替えて食事をサーブするなど厳しい訓練を受け、それをリタイヤ後も仕事にしてきた人だけあって、立ち振る舞いも食べ方も早くて美しい。

次の日は新豊洲に足を運び、チームラボプラネッツで美術体験.水、光、森を体で感じる美術館、これは楽しい体験だった。
そのあとは新豊洲市場で1日中食べ歩き。魚のスープで作ったラーメンがとても美味しかった。1万5千円の茹でた冷凍のタラバガニを市場で売っているので食べたくて、でもホテルでどうやって?と未練心いっぱい、、立ち去りがたい気持ちに揺れ動きながら、ゆりかもめで帰ってきた。そして上野のホテルから、新宿のホテルに移動する。
写真はチームラボプラネッツ



2025年2月5日水曜日

日本旅行 その1

1月20日正午のカンタスエアラインで日本に向けて出発。2018年以来7年ぶりの日本。長女と、2人のマゴを含めた次女家族を連れた総勢6人で、火急目的のない休暇旅行を楽しんだ。
3年間の沖縄、8年間のフィリピン、29年間の豪国といった長い外国暮らしで、すでに両親を見送り父の遺産を受け継いだ兄とは音信不通、日本には数少ない友達が居るだけになった。

旅行目的はスキー。雪を見たことのない13歳と15歳のマゴ達にスキーを習熟させること。
残りは東京見物と買い物。
羽田に着いてJALウェストウィングホテルに1泊し、10時間のフライトで窮屈した体を休め、翌日新幹線で新潟越後湯沢温泉へ。
本当にトンネルを抜けると雪国だった。トンネルを抜ける瞬間を写真に収めようとカメラを構えていた次女が、もうすぐ下りる駅を前に、新幹線の荷物置き場から全員分のスーツケースを出そうとみんなが、てんやわんやでカメラショットのタイミングを失ったことが至極残念だった。
宿はそれぞれの部屋から、大きな越後の山々が広がる絶景に面していて景観には申し分もない。次女家族のファミリールームもそれぞれ分かれていて広々とした良い部屋だった。

翌日はゲレンデに出て家族全員、午前午後2時間ずつのスキーレッスンを受けた。雪に触るのが生まれて初めての13歳と15歳は、驚くことに、たった1時間のレッスンで、上手に滑れるようになり、先頭に立ってリフトに乗って滑り出す。驚愕すべき彼らの運動神経は、サッカー、フットボール、テニス、ラクロス、水泳、クリケットで鍛えあげられている。スキーの先生が必死でスローダウンさせようとしても、言うことを聞かず気持ちよさそうに滑っている。それを横目に私は50年ぶりのスキーが恐ろしくて、及び腰、バランスも取れず転んでばかり、先生が付き切りでお世話してくれる。

翌日は両ひざが2倍に腫れて、早くもスキーリタイヤ。しかし、娘たち家族がスキーを楽しんでくれることが何より。今回の旅行目的は、マゴ達がスキーを滑れるようになること、これが早くも第1日目に達成された。温泉も良い。文句なしだ。

スキーのあと夜はホテルのレストランの「ふぐ鍋コース料理1人6000円」とかの宣伝には見向きもせず、街に下りて行って新鮮な魚介類の寿司を思い切り食べた。13才のマゴが急に黙って食べなくなったので、気になっていたらワサビのいっぱいついたマグロを思い切り食べてショック状態だったのだ。注文はテーブルに着いているアイパッドでするのだが、子供の時に日本を離れた次女が「わさび無し」という漢字の意味を誤解して、子供たちにはわさび無しを注文したつもりでわさび付きを注文していた、という訳。そんなこんなで、街では連日、寿司や蕎麦や海老や新潟湯沢の名物を堪能した。
スキーをリタイヤした私は、ホテルのジムで泳いだり歩いたりしていたが、プールがスキーのゲレンデが見渡せる広く大きな窓に面していて素晴らしい眺めだった。スキーリタイヤ後も満足だ。



2025年2月4日火曜日

シドニーに旅行からかえってみたらば

何年かぶりに2週間ほど日本に帰国して、その半分をスキー、あと半分を新宿で遊び惚けてきて、昨夜遅くシドニーに戻ってきた。
久しぶりに少しは現金も必要かと思って銀行のATM自動支払機で300ドル下ろそうとしたら、150ドルしか出てこない。頭にきて、雪男並みの歩調で銀行の中に入ってモンクを言ったら、15分待たされて、真っ赤な爪で2重につけまつ毛したおねえさんが、まず開口一番「機械だってまちがえますからね。」だって。
いきなりケンカを売ってきた。「機械だからまちがえてもいいのか?」と問うと、「機械が間違わないとでも言うの?」と宇宙人でも見るような顔でのたまう。オーストラリアで一番大きな信用第一の銀行で、私は30年近くのお客様で、自分のお金を下ろそうとしてポンコツ機械から150ドルしか出てこなくて、でも300ドル引かれている。客を15分待たせて、間違いを機械のせいにして、残りの150ドルは1か月間の調査の上、私の言い分が正しければ150ドルを口座に返します、だと。

怒りながら150ドルポケットに入れて、しばらく休んでいたジムのプールで泳ごうとしたら、2週間ジムに来られない間、メンバーシップを維持するための手続きを依頼していたができておらず、2週間で50ドルが取られていて、また怒り爆発。「どうして?」と聞くと「コンピューターも間違えるからね。」と、全身タットー筋肉ムキムキのお兄さんに言われた。

ボーっとしてたら、ほんの30分の間に合計200ドル(2万円)失くすところだった。そう ここはオーストラリア。鷹揚、いい加減、機械音痴、間違っても誰も謝らない国。

100円の買い物をするだけで「いらっしゃいませ、お釣りの金額は間違いありませんか、ご確認ください、ありがとうございました、またおいでください。」と言ってくれる日本のサービスと、優しいホスピタリテイを望んではいけない。昨日帰ってきたばかりなのに、もう懐かしい。涙。