2025年5月29日木曜日

パレスチナ

パレスチナの人々それを代表するハマスの戦いは、反ユダヤ主義でもユダヤ人憎悪でもない。
パレスチナ人たちは、自分たちの祖国を占領しているのが、英国人や米国人や、中国人やロシア人であったとしても戦っていた。火星人やクリプトン星人や、キキララ星人やトウィントウィン星人や、月に住む地球外生物体であったとしても戦っていたに違いない。

パレスチナ人が祖国を占領した者たちと戦うのは、彼らがユダヤ人だからではない。占領者から祖国を守るために抵抗しているのだ。占領者から自分たちの国を奪い返すために抵抗しているのだ。これを民族解放闘争という。正義の戦い以外の何物でもない。

イスラエルのネタニヤフは、ユダヤ人だけの民族国家を建設しようとする誤ったシオニズムに凝り固まったレイシストだ。
彼のトチ狂った頭を少しでも正気に戻すには、米国のトランプが武器供給をストップすることが唯一の治療法だ。武器がなくなれば、無防備の飢えた女子供たちを、もう殺せない。トランプはパレスチナの現状を嘆いたらしいが、それを言う暇があったら、STOP と言えばよい。金儲けのためにそれが言えない。諸悪の根源、トランプ。
ひとこと武器供給に「STOP 」と命令しろ。
STOP NOW !

「YOU RAISE ME UP 」
を歌ってみた。
自己流日本語訳は以下
あなたが育ててくれた  わたしがしょげて、失意にあるとき  困難ばかりで心が重く沈んでいるとき  静かにじっとあなたが来てくれるのを待つ 
あなたが育ててくれたから   わたしは山の山頂に立てる   あなたが一緒に嵐を乗り越えてくれたから  わたしは強い  あなたがいてくれるから  あなたがわたしを強く育ててくれたから。


2025年5月22日木曜日

フィリピン パガサ島のいま

 1990年に私たち家族はフィリピンの首都マニラに移り住んだ。レイテ島に住んでいた頃よりも、   ずっと人々の貧困が目に見えて悲しい。

 当時フィリピンの国会議員の20%以上が、米国のグリーン カードを持っているということだっ  た。いつでも自分の国から逃げ出せる連中が1国の政治を司っていたわけだ。
娘たちが通っていたマニラインターナショナルスクールは、幼稚園から高校までの生徒数が2000人足らずの学校だったが、世界各国から来ていた外交官やアジアバンク、商社などの外国人子弟が通ってきてた。そして現地のフィリピン人を生徒数の7%だけ受け入れていた。その7%の子供たちが、どれほどお金持ちの家から来ているかは、まったく驚くほどだった。

追放された独裁者マルコス大統領が所有する島にアフリカから連れてきたライオンなどの猛獣を放して、家族が狩猟を楽しんでいた、という話は聞いていたが、この学校の子供たちも金曜日授業が終わると、パパが所有する島に、友達を連れて小型飛行機で飛んで週末を別荘で過ごした後、月曜の朝、学校の校庭に飛行機を着陸させて授業に出る、というようなことをやっている家庭がいつくもあった。
私はオーケストラを指導していたが、弦楽器と木管楽器全員で80人くらいの生徒と教師を大型バスに乗せ、地方の海べの別荘に連れていき宿舎と食事などすべて世話をして数日後に送り返してくれるような屋敷を所有する家庭がいくつかあって世話になった。
フィリピン現地採用のコーラスを教えていた女教師の父親は医師だった戦時中に「バタンガス死の行進」の生存者だったが、招かれて屋敷に行ってみたら、常時料理人を8人抱えた大きな屋敷で素晴らしい料理が出てきて、帰りは6台のメルセデスを持っているので、どれでお送りしましょうか、といわれて耳を疑った。
バイオリンの個人レッスンで行った屋敷では、驚いたことに玄関から居間までのスペースに飾り立てたジープニー(乗り合いバス)が飾ってあったことだ。普通玄関には花瓶に生けた花などかざるものだが。それほど大きな屋敷だった。
また、娘の同級生は、毎年ウィンブルドンに家族でテニスの観戦に行って有名選手からテニスの手ほどきを受けていた。
ピープルズパワーで独裁者マルコスを追放したあとに大統領となったアキノも、出身コファンコファミリーは、自分たちの領地には私兵軍隊も銀行も学校も教会もあり、中に電車が走っているような大きな領地をもった大領主だった。

少し私たちが住むビレッジを出て街に出れば、どぶに死体が浮かんでいる。うつぶせになった死体の顔を見ようと、両岸にいる子供たちが頭に向かって石を投げつけている。
交通事故でフロントがつぶれて運転手も乗客も死んだか気絶していて動かない。通行人がドアを開け乗客のポケットから財布を抜き取っている。
用があって出かけたとき、反対側のエドサ通りにガソリンスタンドがあって、給油するところに全裸の少年がうつぶせで横たわっている。ドライバーに聞くと、酔っ払いでしょう、と笑っている。この子の周りを男たちが、その体を蹴飛ばしたりあざ笑っていて、体のすれすれを車が止めて給油している。心残りのまま通りの反対側なので通り過ぎたが、あとでそれが暴行され、捨てられた10代の女の子だったと聞いて悲鳴を上げずにいられなかった。 貧富の差というものを、これほど見せつけられたことのない数年間だった。

いま南シナ海に37.2ヘクタールの、たった300人の住民が住む小さな島、「パガサ島」が注目されている。中国、台湾、ベトナム、フィリピンが、領有権を主張していて互いに譲らない。
今年に入りフィリピンが米国の力を借りて、軍港と滑走路を建設し始めた。いままで平和に自給自足で暮らしていた地元の人々の思惑に関係なく軍の力が先行している。1986年に独裁者マルコスを追放し米軍基地すべてを撤退させたフィリピンも、再びマルコスジュニアを迎え米軍基地を受け入れて、戦闘態勢に入ったのだ。
写真はパガサ島
海の画像のようです

すべてのリアクショ子、他21人

フィリピンマニラ マカテイ

 3年間(1987-1990)フィリピンレイテ島オルモックで過ごした後、夫がレイテ島だけでなくサマール島やマニラで、いくつもの大きなODAのプロジェクトの指揮をとることになり、家族でマニ
ラに移住することになった。
オルモックではフィリピン人15人に1人を日本軍が殺したことへの、免罪符としてのODAで、仮に命を狙われても仕方がないと夫は思っていた。銀行も郵便局もない、人口2万人弱の町を拠点に、道路工事の技術者を含めて何千人の労働者の給料を、毎月現金で運ぶことは危険極まりない仕事だったと思う。どうやって運んでいたのか、夫は私にも決して言わなかった。ずっと後から、ドライバーだった人に、夫が運転手の服を着て運転し、運転手が夫の服を着て2時間、レイテ島の首都タクロバンから車で往復したこともあった、と聞いた。
オルモックを去ることになり、3年間使用したベッドやソファーや冷蔵庫など、世話になった方々にあげて、私も安全装置を外して息を詰めていた瞬間はあったが、引き金を引くことはなかったコルト銃とお別れした。

マニラでは高圧線の入った高い壁に囲まれて、24時間ガードマンが警備するビレッジと呼ばれる外国人向けの住宅に住み、娘たちはインターナショナルスクールに通うようになった。
ちまたでは商社丸紅の支社長が誘拐されたり、暴力団がフィリピン人ダンサーと偽装結婚しては人身売買したり、スキャンダルがいくつもあったようだが、娘たちは日本人学校には通わずに米国の学校に行ったので、日本のゴシップには関わらずに済んだ。

マニラインターナショナルスクールには、世界各国の大使館職員やアジア銀行職員の子弟が主に通っていた。米国のボストンで試験に受かって採用された教師たちによって、米国製の教科書を使って教育が行われた。学費は年200万円ほどで、高額だが教材は豊富で、何か足りないものがあると、軍の飛行機ですぐに届いた。学業だけでなくスポーツも授業で水泳、サッカー、バレー、バスケット、ホッケー、ラクロス、アスレチックなど習って、音楽教育も、オーケストラが編成できるよう弦楽器、木管楽器が、すべてそろっていた。
生徒のほとんどは12年生(高3)までここで学び、米国の大学に進学する。成績だけでなく、スポーツや音楽など課外活動にどれだけ活躍したかで、受け容れる大学が決まる。その州に家のある子どもは州立大学の授業料は無料だった。また、優秀な子供はインターナショナルバカロレアのコースを取ると、大学に入って1年生を飛び級して大学2年生から専門教育を受けることができる。娘たちが学ぶのに申し分のない学校だった。

マニラに移って1年ほどして私は夫を、娘たちは父親を失った。家族ビザがなくなったので、娘たちの学校の弁護士に相談に行くと、それまでボランテイアでバイオリンを教えていたが、現地採用で学校が音楽教師として雇うので、ビザを発給してくれる、という。肝っ玉お母さんみたいな太っ腹のフィリピン人おばあさん弁護士で、彼女の一言で、入管局に足を運ぶこともなく、ビザ問題が解決できて、娘たちがそのまま学業に専念できたことは、とてもありがたかった。
マニラに移って1年ほどして、レイテオルモックでは災害が起きた。オルモックの山頂には大きな湖があるが、雨で決壊して大量の水が山から落ちて来て海に流され、人口の半分ちかくの人々、8000人が亡くなったのだ。3年間住んだ屋敷は、海辺まで200メートルほどの距離にありメインストリートに面していたから、1年引っ越しが遅れていたら無事ではなかった。
日本で買った2000円くらいの安い時計を、仲良くしてくれた海岸沿いのサリサリストアのおじさんにあげたことがあった。彼は山からの水で海に流されて顔が誰だかわからなくなって引き上げられた。「あなたがあげた腕時計で身元が確認できたんだよ。」と人伝てに聞かされて、大泣きした。
写真はフィリピンの国花 サンパギータ
花の画像のようです

2025年5月20日火曜日

フィリピンレイテ島 オルモック

フィリピンは330年間スペインの植民地だったがその後、米国の統治下に置かれ、太平洋戦争では、4年近く日本の植民地にされた。日本軍と米国フィリピン連合軍との間で行われたマニラ市街戦やレイテ島などの激戦によって、日本軍は111万人のフィリピン人を殺害した。当時の人口1600万人のうちの111万人というと、じつに15人に1人のフィリピン人の命を、日本軍は奪った。

幼い2人の娘たちを連れて家族赴任で1987年から1996年まで、フィリピンに滞在した。初めの3年間はレイテ島オルモック市だった。レイテ島は戦争で最も激しい戦闘が行われ日本軍の死者を最も出した土地だ。私たちが赴任したころは、この戦争の生存者で家族を失った人もまだ多かった。ちょっと掘ると日本軍のヘルメットなど沢山出てきた。
また赴任した前年は、1986年2月にエドサ革命が起き、独裁者マルコスの戒厳令に抗して人々が、軍の力をはねのけマルコス、イメルダ夫婦を追放したばかりだった。しかし首都マニラから遠いレイテ島は、イメルダ夫人の出身地でもあったから、いまだ小規模の争いは続いていて、不穏な空気も残っていた。

唯一の飛行場だったレイテ島の首都タクロバンの、ただの原っぱとしか思えない飛行場に小型機がふわりと着地したところから2時間、車で山を越え谷を越え、人口2万人のオルモックに到着。私たちは町で唯一の外国人家庭だった。
夫は第一級建築士と、第一級施工管理士の資格を持つ、建設省のエリート役人だったが、異端児で、現場が好きで、日本の政府開発援助(ODA)の資金でレイテの道路のないところに道路を通すプロジェクトの総指揮をとることになり、現地に派遣されたのだった。まだマウンテンピープルと呼ばれていた共産ゲリラが山を根拠地にしていたから、開発に反対する彼らとの軋轢もあった。赴任に当たって生命保険を掛けようとしたが、どの会社からも断られ生命の保障なしの出向だった。
沖縄生まれの大型犬を連れて来ていたから、私は毎朝1時間ほど海辺を散歩する習慣でいたが、軍によって殺された引き取り手のない死人を収容する小屋の横を、腐臭を我慢して通らなければならなかった。海辺で転がっている死体を発見したことも1度や2度ではない。
住んでいた屋敷は、外観は美しい白壁のスペイン風建物だった。そこで毎月のように市長、町の有力者、工事関係者、隣人たちを招待して大きなパーテイーを持った。そのたびにレチョンという豚の丸焼きが2頭犠牲になった。

国民の15人に1人が日本軍に殺され、ともすれば反日感情が噴き出てくるような状況で、だからこそODAの役割は大きかったはずだが、私たち家族はこうした人々に囲まれて外交的な役割を果たすことに必死だった。まだ小学低学年だった娘たちの笑顔に、どんなに助けられたか計り知れない。母娘3人でバイオリンを弾きまくった。モーツアルトのアイネクライネナハトムジク、バッハのバイオリンコンチェルト第1番、、、小学校で、高校で、パーテイーで、呼ばれるところはどこでも弾いて、音楽好きな現地の人々と交流した。メイドさんたちには、高校に通ってもらった。ドライバーさんたちにはバスケットボールコートを作らせ、チームを作って対抗戦ができるまで支援した。
道路工事が始まり、機材が運ばれても100のシャベルで100人の工夫が働けば、翌日はシャベルは持ち去られ誰も働きに来ない。また別の100人を雇い機材を持たせてもまた持ち去られる、そんなことを繰り返しながら、夫も大変だったと思う。また夫は出張が多く家に帰れないときが多かった。ガードマンを雇っても、夜遊びに行ってしまう。母娘だけで寝ていた夜、ベランダから数人の男たちが侵入して薄いドアⅠつ隔てて震えていたこともある。小さな銃コルトを枕に置いて寝ていた。

111万人のフィリピン人を殺した贖罪として日本政府が提供した、累計4兆6千憶円のODA政府開発援助金を決定した政治家たちや、フィリピン首都マニラのエアコンのきいた高層ビルで政治を語っていた外交官などに、地方に住んで援助資金の最前線で赴任家族が日々奮闘する姿など、想像もしなかっただろう。
当時、娘たちはレイテ島で日比間の外交に携わっているという自覚など全くなかっただろうが、しかし彼女らの邪気のない純真な人々との関りが何よりの優れた外交だったのだ、と今にして思う。あれから40年近い時が経ったが、娘たちには感謝しかない。

2025年5月10日土曜日

母の日

オーストラリアに来たばかりの頃、母の日に菊の花を献花されて、「おい、まだちょっと早いんではないか?」と思ったが、菊は英語でクレサンチマム、最後にマムが付くから、母の日に贈る習慣があると聞いて納得。毎年美しい花を贈ってくれる娘たち、ありがとう。世界中の母親が子供を無くさないで済みますように!!! 即時停戦の母親の願いが天に届きますように!
アマランサス、アガパンサスの画像のようです
すべてのリアクション:
Hiroshigr Mizuno、安西玲子、他32人

2025年5月7日水曜日

日米同罪

なぜ米国への世界の信頼が失われたかというと、国の土台となっていた「民主主義」と「法」が機能していないからだ。
トランプは大統領選挙で圧勝し、議会を無視して次々と「大統領令」を頻発してきた。

移民の強制送還、USAIDの資金を凍結し職員を解雇、連邦政府職員を次々と解雇し、大量人員削減し、メキシコ湾を改名し、グリーンランドの自治に介入し、イスラエルへの武器支援とパレスチナ侵略に加担し、ウクライナ停戦案と引き換えに地下資源の強奪を画策し、中国への関税145%を課し、CIAを解体するという。

国際的にも国際法から逸脱して国連を無視してきた。国際司法裁判所(ICJ)に加盟せず、パレスチナの自治政府を認めず、国際刑事裁判所(ICC)に加盟せず、イスラエルのパレスチナ侵略を支援し武器兵器を送り続けている。パリ協定から脱退し気候変動に我関せずと、石油をもっと掘れ、もっと掘れと世界の動きに逆らい、環太平洋パートナーシップTPPを破棄し、各国に高い関税を課し、イラン核合意、中距離ミサイル合意などの国際合意を無視し、イランに圧力をかけ、さらに圧倒的軍事力で一方的に、イエメンを爆撃している。
これらのうち、ひとつでも民主主義的に市民に選ばれた議会で決定したものはない。法的根拠も国民参加による信任もない。1人の人間が勝手気ままに政策を打ち出す間、米国議会は一体何をやっているのか。民主党は生きているか。もう死に絶えているのか。いまや米国には「民主主義」も「法」もない。

そして

日本はなぜ世界から信頼も、尊敬も失ったのか、というと、「民主主義」と「法」が機能していないからだ。「閣議決定」で何もかもが決められ、民主主義が機能していない。
2014年、7月閣議決定で集団自衛権の行使が認められ、憲法を改正するまでもなく、2015年には安保法制ができて、2,022年安保3文書改定が行われ、日本は戦争ができる国になった。

2024年、防衛庁はイスラエル製ドローン爆撃機を導入することを決め、住商エアロシステム、日本エアクロフドサプライなど輸入代理店を通して購入することになった。国際司法裁判所がイスラエルに対して国際法で禁止されたジェノサイトをもって、暫定措置命令をだしている、その当の5万人のパレスチナ人を殺害しているドローン爆撃機を、日本は買う。殺傷効果は実証されている。

2019年から渥美大島、宮古島、2023年石垣島に自衛隊の軍事施設が完成、与邦国島、馬毛島にも自衛隊駐屯基地ができ、広島県呉市にも京都にも弾薬庫が増設される。2023年から5年間で、軍事費を43兆円に増額し、米国製巡航ミサイルも購入して、敵基地攻撃能力を持つ専守防衛をするという。
これらは議会で討議され民主主義的議会を経て決定されたことだろうか。否。「閣議決定」と防衛庁と米国との合意だけで決められて、もはや、憲法などの「法」の力でくつがえすことができない。
「議会民主主義」も「法」も機能していないことでは、トランプ政府も日本も同罪なのだ。なんということだろう!

写真は自由の女神
その台座には1883年エマラザルスの詩が刻まれている。
自己流の意訳は

あなたの苦しみをわたしによこしなさい  重荷を下ろして  息をついて  拒まれたあなたの苦しい思いを  わたしによこしなさい  あなたのために  光を高く掲げて金の扉を開けましょう。



2025年5月6日火曜日

ベトナム戦争終結50周年

先日、ベトナムでは終戦50周年を祝う、国を挙げての祝祭が行われた。
20年にわたる民族解放戦争(1955-1975)のために、300万人のベトナム人、31万人のカンボジア人、6万人のラオス人が命を落とした。米軍の落としたナパーム弾、クラスター爆弾、枯葉剤ダイオキシン散布が繰り返され、ベトナムの土地は焼き尽くされた。

また58220人の米軍兵も命を落とした。そして戦後20万人以上の戦争のトラウマによる自殺者も米国は記録したといわれている。ベトナム戦争当時、米国も連合軍のオーストラリア、ニュージーランド軍、韓国軍にも徴兵制があった。若者は望む望まないに関わらず戦場に送られたのだ。

1975年4月30日サイゴン陥落に伴い、米軍連合軍撤退後、豪州のマルコムフレイザー首相は、9万人のベトナム人難民、12万8千人のカンボジア人を豪州に移民として迎い受けいれた。
オペレーションベビーリフト(operation baby lift) という言葉がある。米軍撤退によりベトナムに残された米国人との混血児の赤ちゃんが3200人余り、小さな靴箱に入れられて、軍用機に載せられて、米国と豪州に送られた。そのうちの1人、リーダイ氏は、豪州でいま下院議員になっている。

1968年に大学に入って、大学入学1日目からまっすぐ街に出て敷石を割りアメリカ大使館に向かってぶん投げる日々を送った。それはアジアの市民として、ベトナム解放戦線に連帯する、ごく当たり前の行動だった。デモで逃げ遅れ機動隊に囲まれて蹴られ、殴られ、盾でぶっ飛ばされたり、毎晩鉄筆でアジビラを書いたり、小さな諍いで停学をくらったりしたが、この世代の誰もが同じような経験をしていたと思う。
30年前に豪州に移住して、ベトナム戦争時、反戦運動で逮捕され収監されたことのある同年輩の人と話したが、日本で学生が受けた警察権力による弾圧など比べられないほどの弾圧を彼は受けていた。徴兵拒否は、即「国賊」扱い。国民として許されない反政府で卑怯者として警察署でも、監獄でも権力者からもおなじ受刑者からも暴力を受けたそうだ。釈放された後も国賊、共産主義者のレッテルを張られ、尾行され、電話盗聴され、手紙や交友関係までずっと監視され続けたそうだ。
国はそれほど共産主義者に寛容ではなかった。
マルコムフレイザーのような、ベトナム難民や混血児受け入れに積極的でも「国防」とは別の話なのだ。

この5月3日豪州では下院総選挙が行われた。現、労働党党首アンソニーアルバニー二首相が再選された。定数150のうち現在カウントされたところで89議席を確保して労働党単独政権をもつことになる。
対する保守連合の自由党は40議席、党首ピーターダットンは警察出身で、なにをとち狂ったか、原子力のゲの字も関係なかった豪州にクリーンエネルギーのためと称して原子力発電所を全国7か所に建設してエネルギー消費に備える、と言い出した。豪州歴史上今まで誰も言わなかった、何の根拠もない原発を言い出した自由党に、国民が正気に戻って「NO」を投票で示したことは、全く正しい。もし自由党が選挙で勝っていたら、この男が首相になっていた、と思うとぞっとする。2度と豪州で原発などというタワゴトを言い出す輩が出てこないことを祈っている。