2021年9月29日水曜日

ちいさな医療現場からコビッドを考える


この1年半のあいだ、医療現場で走り続けてきた。
公立病院でも、ICU勤務でもない、年寄りばかりの施設でのんびりしているから71歳のナースでもフルタイムで働けるんだろうと、思われるかもしれないが、となりに建つ北部最大の公立病院から急性期を越えたばかりの患者や、リハビリ期にある患者や、障害者も送られてくるし、精神病院の入院患者よりも悪化したアルツハイマー患者も送られてくる。特にこの1年半のあいだは、公立、私立ともに病院がコビッドに振り回されているので、こちらも多忙を極めた。

ワクチンが政府からリリースされてすぐ50人の患者と40人余りの職員は全員2回のワクチンを受け、施設は厳しいロックダウンとし、患者への家族面会禁止、職員のうちホットスポットと言われるコビッド陽性者が出た地域から通ってきている職員には3日に一度PCRテスト、2か所以上の職場で働く職員には1か所だけで働くようにさせ、とにかく50人の患者をコビッドから守ることに専念してきた。オーストラリアで昨年のコビッド死者100人(1000人ではない)のうち80%が、メルボルンのあるビクトリア州の老人ホームから犠牲者が出たことから、その二の舞はしてはならないと考えてきた。

冬に年寄りは亡くなる。いくつも既往歴をもっていて免疫の弱い年寄りは、軽い風邪や尿路感染で冬になるとあっという間に亡くなる。しかしコビッドが流行し始めてから肺炎で亡くなる人はいなくなった。毎日まめに検温し、熱発や風邪っぽい人はすぐに 隔離してPCR検査をして抗生物質などを投与して処置したからだ。そうして、50人の患者をコビッドから守ってきた。

自分がコビッドをは運んではいけないから、この1年半の間、どこにも行っていない。休暇で日本旅行する予定はキャンセル、海のリゾートで家族そろって過ごす予定もキャンセル、愛するマゴたちには毎日でも会いたいのに、1年半の間に会えたのは、6回だけ。シドニーのロックダウンと再びロックダウンされる僅かな隙間を縫うように、何とか工夫をして去年のクリスマスとマゴの誕生日に会うことができただけ。日々成長が激しく、会うたびに身長の伸びに驚愕する。そんな子供たちの成長を見届けることができないのは、何よりも悲しい。

この間、親しくしている若い職員が二人も脳出血で倒れた。一人は救命できたが障害が残り職場復帰できない。ストレスが原因だ。医療従事者は、みな喜んでこれほどのストレスにさらされる現場に居るわけではない。病気で休職中や、辞めて行った職員も多い。
自分も、大学でマスコミを学び、大学卒業後、新聞社に勤めた。その後、夫の赴任先のフィリピンではインターナショナルスクールでバイオリンを教えていた。医療現場以上に興味のある職場があったら、そこに行く。ナースが天職だなどと思ったことは一度もない。そう言いながらこの職場にもう15年も務めてきた。いま、コビッドで健康な若い職員が脳出血で倒れるほど激しいストレスのもとで働かなければならないのは、コビッドの悪魔性もあるが、人々の無理解にあると考える。

感染症の感染を止めるには、人と人との接触を止めるしかない。
自分の住むシドニーのあるニューサウスウェルス州では、デルタ型コビッドが入ってきてからロックダウンとなり、すでに14週間それが続いている。州人口の80%が、2回のワクチンを済ませないとロックダウンは終わらない。それを州知事は14週間言い続けてきたが、なかなか80%に達しない。
世界人口の44%という膨大な数の人口が、すでにワクチンを打っているというのに、ワクチンで死んだ人の方がコビッドで死んだ人より多い、とか、ワクチンは毒だ、とか、製薬会社の陰謀だ、などと言う者がいまだに居る。

ワクチンは集団免疫を作らない。そんなことはわかっている。小説に出てくるような強力な警察国家が人口99%に、大人にもに子供もワクチンを強制しなければ集団免疫などつかない。しかしワクチンは、感染重症化を予防する。ワクチンは自分がウィルスを運んで、ワクチンが打てない、免疫不全の人や、子供や、障害者に感染することを最小限に止める。自分がウイルスを運ばないように、弱い人々の命をまもることが大切なのだ。

ワクチンを打つかどうか、ロックダウンを守るかどうかは、個人が選択すべき「自由」だという人がいる。自分が赤ちゃんの時に母親が、予防接種を受けてきたゆえに、結核にもならず、小児麻痺で障害も受けず、百日咳で呼吸困難にもならずに生きてきたことを忘れている。自分が恩恵だけ受けて、ワクチンを打たずにマスクもせず、ロックダウンも守らず「自由」に出歩いて叫びたて、デモで警官にツバを吐いた男が、翌日救急車で運ばれてコビッドで病院で治療を受けている。「自由」は、単なるわがままや、子供じみたエゴイズムではない。自由の概念は、そんな安っぽいものではない。

政府は12歳から16歳の子供にワクチン接種を勧めている。「自由」に判断して自分だけでなく自分の子供にもワクチンを打たせない母親たちは、ドクターの予約を取り、子供がきちんとワクチンについて医師と話し合い、学校の先生とも話し合ったすえにワクチンを打つかどうか、自分で選択する自由を与えて欲しい。子供を私物化しないでもらいたい。
自分はコビッドには感染しないからルールを守れないと言う人は、是非、ENDURING GUARDIANS(自分が意識不明や昏睡状態になった時に、どうして欲しいのかを明記する書類)にサインして、自分はコビッドに感染しても救急車の世話にも病院の世話にもならない、と約束してからワクチン拒否、マスク拒否、ロックダウン拒否をしてもらいたい。

守るべきは、州知事が言ったことや政府が罰則を布いて、決められたことにただ従うことではない。自分が考えて自分の倫理に従って、弱者は誰なのか、誰を自分が守らなければならないのか、考えることが倫理なのだ。
きちんとした科学知識を持ち、にも拘らず自分の信念 信心をもってワクチンに反対する医療従事者もいる。それはそれで仕方がない。今年の12月には、ワクチンを打った人も打たない人も、ワクチン人口が80-90%に達したら、「自由」に出歩けるようになる、と宣言した州知事の決断には賛成だ。
「平等」に人々が苦しんでいるのだから。

2021年9月22日水曜日

豪国の原子力潜水艦建設に反対する

豪国の原子力潜水艦建設に反対!

今、豪国はフランス大使が召還されてしまって、マクロン大統領に「裏切者」「後ろから攻撃する卑怯者」「米国の愛玩犬」「下品で粗野で残忍な奴」と攻撃されている。仏国だけでなく、EU議長からも、豪国との信頼関係は絶たれた、真摯な態度で説明をしないでいるとEU全体との外交問題となる、と言われている。
事の発端は9月15日に渡米中の豪国スコットモリスン首相が、突然米英豪3国共同軍事協力を約束し、米国の技術で豪国で原子力潜水艦を建設すると発表したことによる。
寝耳に水の仏国が怒るのは当然だ。7年前から独仏日の入札、交渉の結果、やっと仏国から動力型潜水艦を、900憶ドルで買う契約を済ませている。両国で数千の雇用で経済効果が約束されていたのを、一方的に契約破棄され、その損害賠償だけで4億ドル。代わりに、米国製の長距離極超音速巡航ミサイルが搭載される原子力潜水艦が建設される。このため今の豪国の軍事予算GDPの2.1%を超える史上最大の出費が予想される。
豪国は、EU と仏国だけでなく、隣のニュージーランドからも非難されている。核兵器も原子力発電も拒否してきた非核のニュージーランドは、原子力潜水艦の入港も領海に侵入することも許さないとアダーン首相は言い、近隣国との協調を目指すことが大切であると強調した。
シドニーはいまコビッドで、厳しいロックダウンの13週間目に入った。自宅から5キロ以内の距離で生活必需品を買いに行くか、エクササイズ以外外出禁止、誰を家に入れることも訪問することも禁止、学校もオフィスも自宅でリモート、おかげで倒産、失業、自殺数は、連日記録を更新している。そんなときに国は、900憶ドルの仏製を買うのをやめて、4億ドルの契約違反金を海に捨て、さら何倍もの金額の原子力潜水艦を買うと言う。
強力な武器で近隣諸国を威圧しなければならないとしたら、それは外交に失敗していることになる。私は25年間この国で働いてきて給料の35%を税金に取られている。他国よりも短時間にたくさんの人を殺せる武器を作ることに税金を使うことは許せない。武器増強は「安全」の抑止力にはならない。何のための核武装か。子供じみた軍備競争はやめなければならない。米国を基にする武器、死の商人の言うままになってはいけない。
原子力潜水艦という「漂流するチェルノブイリ」「海底のフクシマ東電」を作ってはならない。
武器を持たないことが、最大最強の武装である。
Scott Morrison Australia PM announced the US, Britain and Australia made a historic new partnership, and decided to built nuclear powered submarine by US technology in Australia.
It's long range hypersonic missile technology and undersea drones, against China's escalating militarisation of South China Sea.
It means Australia dumped the contract to buy $90 billion submarine from France, after negotiation and planning program the past 7years and promised thousands jobs. Cancellation for contract with France costs $4billion. A furious France Emmanuel Macron recall Ambassador and he blamed Scott Morrison "poodles of the US", "brutal, graceless, inelegant" and " stabbed from the back".
Australia should maintain healthy tie with China, the biggest economy power in the world. The continuing arm race and power projection in the region should be stopped. The Nuclear powered submarine is " floating Chelnoyble", and " Deep sea HIROSHIMA".
Arm racing doesn't bring peace and never stop a war.
No arms are the best arms.



2021年9月21日火曜日

ビートルズの「ノーウェアマン」

ビートルズの「ノーウェアマン」を歌ってみた。1964、ジョンレノンと、ポールマッカートニーによって作られた。ジョンは、新曲を作るために5時間も苦しんで、何もアイデアが浮かばずにいたが、たった一人でどこに行く当てもない、アイデアもない、何をしてよいかわからない自分の姿に自分で気がついて自分のことを曲にしてみた、とあとで語っている。
ビートルズによるアニメ―ション映画「イエローサブマリーン」に使われている。
訳詞は、自分よりも達者な、娘の書いたものがあったので、それを書いてみる。

あいつはほんとのノーウェアマン
誰もいない国に住み  誰の役にも立たないことを考える
 生きている意味がわからなく
 どこへ行くのかも知らない
 まるで君と僕みたいだ
ノーウェアマン 聞いてごらん
君は大事なことを忘れてる  世界は君の思い通りになるんだ 
 何もみていないようだけれど
 自分の見たいものは見てる  僕のことも見えてるかい
あせらなくてもいいよ
自分流儀でやれよ
困ったら誰かに手を貸してもらえよ
 ものの見方がわからなく
 何をしていいかもわからない  まるで君と僕みたいだ
ノーウェアマン 聞いてごらん
君は大事なことを忘れてる  世界は君の思い通りになるんだ
 あいつはほんとのノーウェアマン
 誰もいない国に住み  誰の役にも立たないことを考えてる

I am singing [ Nowhere Man] 1965 written by John Lennon and recorded by The Beatles. John wrote about himself after rache said. This music used for [Yellow Submarine] animation movie made by The Beatles.






2021年9月16日木曜日

ポールマッカートニーの「ヘイジュード」

「ヘイジュード」1968 ポールマッカートニー作詞、作曲を歌ってみた。
ジュードとは、ジュリアンの愛称。ジョンレノンとシンシアが離婚して、ジョンがオノヨーコのもとに走った時、ジョンの息子ジュリアンは、5歳だった。ポールはジュリアンのことを赤ちゃんの時から可愛がっていたので、事態を知るとすぐにロンドンからジュリアンとシンシアのところに飛んで会いに行って、ジュリアンを慰め、力になろうとしてこの歌を作った。

ジューと言えば、独語でユダヤ人のことだが、それをポールは知らなかった。一般的にジューと、ユダヤ人に限らず誰でも気軽に「きみ」と呼びかけるときに使われることもあるので、自分もこの歌は、気弱な男の子が、好きな彼女に言い出せないでいるのを、叱咤激励している恋の応援歌かと思っていたが、あとで前妻のシンシアの書いたものを読んで、ジュリアンのことだったんだと知った。
5歳の子供に向かって、がっかりするなよ、君のお母さんはお前が夢中になるほど素敵な人じゃないか、何でも分かってくれるよ、君はやせ我慢なんかせず泣いてもいいけど、お母さんが一緒だぜ。元気出せよ。と言っている。

ジョンレノンは、レノンでアイドルグループから第一線を走るアーチストとして生きるために、オノヨーコが必要だった。オノヨーコの美術展に行ったことがあるが、キューレーターから説明を受けなければ訳のわからない作品が多かったが、それでも彼女のほとばしる才能と、独特の宇宙観に手触りを感じた。
ニューヨークで、ヨーコの白い壁に釘が沢山あって、どこに釘を打ってもいいと、かなずちが置いてあった作品の前で、ジョンが釘を打ちつつ初めてヨーコと出会い、会話して、その時からジョンがひきずり込まれるようにヨーコに惹かれていった、というエピソードがとてもわかるような気がする。ジョンはこのときミュージシャンではなく、本物のクリエイターになりたかったんだと思う。

何か新しい局面にぶち当たった時、どうすべきか。一番弱い立場に居る人の側に立ってみる。被害者、突き落とされて傷つき悲嘆にくれる人、自分に何が起こったのか分からなくなって混乱し、言葉を失っている人、そうした弱い立場に立っている人と同じ側に立って物を見るということが大切だと思う。

今でこそロンドンニューヨーク間は、直行便で8時間で飛べるが、60年代ではその倍もかかっただろう。ジュリアンの気持ちを思って仕事を放り出して、ジュリアンに会いに行ったポールの気持ちを思うと、胸の中があたたかい思いでいっぱいになる。
I am singing [Hey Jude]1968 、written by Paul McCartney. Jude is nick name of Julian, son of John Lennon and his wife Cynthia. After John left his family for Yoko Ono, Paul came from London to visit Cynthia and Julian. Then he wrote [Hey Jude] as way of consoling little Julian...." And anytime you feel the pain, hey Jude refrain, Don't carry the world upon your shoulders".... poetic words sing to a confused and hurt 5 years old little boy and some of the most empathetic lyrics ever written. Cynthia later wrote that Paul was the only person who dared anger John, by visiting her and Julian in their time of need.





2021年9月9日木曜日

「五番街のマリーへ」と男社会

「五番街のマリーへ」1973作詞:阿久悠、作曲:都倉俊一を歌ってみた。

1950年の終わりから60年にかけて、プレスリーが歌いながら腰を振るのは、公共秩序に反し道徳と教育に悪く、若者の非行を助長するという理由で、警察が出動して、彼が腰を揺らしたら即、逮捕という条件でステージで歌わなければならなかった。
ビートルズが世に出た時、人々は長髪の男たちの登場に顔をしかめ、「不良」のレッテルを張り、PTAなどこぞって、彼らのレコードを公衆の場で踏みつけ叩き割った。
今では冗談のようだが、これが事実であって私も歴史の証人だ。

18で大学に入りすぐベトナム戦争、安保反対闘争に突入、家を出て、当時学生が占拠していた学生会館をに根城にして、毎日ガリ版でビラを作って蒔き、集会でデモを呼びかけ、連日デモり、せっせと敷石をかち割り、逮捕者を救援する、一緒に活動する仲間と思っていた活動家と称する男たちは、ほとんどが女を「同志」と考えず、俺の女とか、誰それの彼女という範疇でしか存在を認めようとしなかった。
逮捕された警察署で「お前らPは、」と言われて、意味が分からず聞き返したら、マルクスは俺のものはお前のもの、お前のものは俺のものと言っている。だからお前ら女子学生は、誰とでも寝る売春婦を同じだ、と言われた。2度目の逮捕の時は、もう囲まれていて逃げようがない場で、重装備の機動隊に「女のくせに生意気」と飛び蹴りされて、地面に倒れたところを数人の機動隊に殴る蹴るの暴力を受けた。左翼の多くも、ポリと同じ封建時代、明治男の頭だった。冗談のような話だが、事実だ。

リベラルな家庭に育って、父も叔父たちも母方の叔父たちも皆、戦争に抗した大学教授だった。しかし家庭では、父は平気で、「女は馬鹿だ」と言い放ち、私の2歳上の兄だけを「世継ぎ」として甘やかした。戦後貧しい中でも四谷大塚のような塾に通わせ中学で下宿までさせて、東大に行かせようとし、その後就職まで面倒を見る親ばかだった。父は死ぬ前、とても甘えてきて何かと頼りにしたが、財産の大半は兄に残して死んだ。家のアルバムに私の写真はほとんどない。兄の小さなころからの笑顔ばかりが張り付けてある。冗談のようだが、これも事実だ。

「五番街のマリーへ」は、昔マリーを捨てた男が、何年かしてマリーに思いをはせる、センチメンタルな歌だ。自分がマリーを懐かしく思うと、マリーの方も自分を懐かしく思ってくれていると信じて疑わない、うぬぼれた思い込み。俺がマリーを捨てた時、マリーの方も別れたがっていたかもしれないし、思い出したくもないかも、あるいはすっかり忘れているかもしれないとは決して思わない男の身勝手と自己過信。マリーに悪いことをしたと思うなら反省して、匿名で小切手でも送りなさい。黙って、そっと力になる、ということがどうしてできないのか。勝手に自分と他人との過去を装飾して、ノスタルジアと自己愛にふけるのは、やめたほうがよろしい。
どうして女は怒るのか。
答えは簡単だ。男が甘やかされすぎていて、未熟なまま成長し、大人になれないまま死んでいくからだ。(笑)
I am singing [ 5 th Avenue's Mary ] written by Aku Yu and Tokura Shinichi in 1973 and recording by Pedro and Capricious



2021年9月2日木曜日

「赤とんぼ」と「おぼろ月夜」

「赤とんぼ」三木露風作詞、山田耕筰作曲と、「おぼろ月夜」高野辰之作詞、岡野貞一作曲を歌ってみた。
日本はこれから「赤とんぼ」の季節に入り、自分が住むシドニーはこれから「おぼろ月夜」を迎えることになる。日本の秋とこちらの春は、気温が同じくらいで、一年で一番自然が美しい時期だが、あいにくシドニーは、ロックダウンが10週間目になる。国境封鎖、州境封鎖、訪問者禁止でどこの家を訪ねてもいけない。1日1回1人だけ5キロ以内に、マスクをして食料などの買い物に行けるが、店に前でQRコードを入力しなかったり、5キロを超えて外出すると$5000の罰金。どこにも行けず、誰とも会えない。学校は閉鎖され、オフィスはリモートワークのみ。これが2か月続いていて、さらに、2か月延長されるもようだ。

職場のナースたちは、3日に一度PCRテストして、外出許可証をもって職場に来ている。仕事中、マスクをしたうえで、プラスチックのフェイスシールドを付け、ガウンを着て働いていると、自分の吐きだしたCO2を吸って動き回っているので、呼吸が苦しくなって死に物狂いの形相で働いている。
近代医療は感染症との闘いだった。細菌感染では抗生物質で治療を途中でやめたり、多用すると、MRSAメチシリン耐性黄色ブドウ球菌のような耐性菌ができ、さらに強力な抗生物質が必要になってくる。ウイルスは細菌より小さく細胞膜がないので抗生物質が効果ないのでワクチンしか治療法がない。初め接触感染で弱かったコロナウイルスが、デルタ株が世界中に波及してからは、1人が感染すると家族4人に感染させ、2日後には100人を超える感染力を持つ。伝染を止めるためには人と人の交流を止め、ロックダウンするしかないという論理はEUをはじめ世界各国が経験してきたことだ。患者隔離、PCRテスト、QRコードで徹底した個人の行動を追跡して感染者を隔離、下水検査、国民の80%までワクチンを打つこと、これらを早急に進めなければならない。子供たちを死なせないために。
コロナが終息して戻っていく社会は、再びパンデミックを繰り返さないために、今までの利潤優先の競争社会の発展をスローダウンしなければならない。森林を守り、野生動物の捕獲や売買をやめ、地場の有機農業を援助し、地域のものを食べ、屋根に太陽光パネルを置き、化石燃料による電力を拒否し、原子力発電を終結させ、フロンガスを使った電化製品をやめ、漁業網の海上投棄をやめさせ、プラスチックをなくしていく。必要なもの以外買わない。
コロナパンデミック終息後、戻っていく社会は、コロナ前と同じ社会であってはならないだろう。同じ社会に戻れば、第2第3のパンデミックが大規模に広範に、深刻に人の生存権を脅かすことになる。
経済成長をスローダウンする。そのことによってパンデミックの再来を止める。そういった叡知が人にはある、と思いたい。
I am singing Japanese old song [Red Dragonfly] and [Shadowed Moon]. When these songs were sang by people, most Japanese 90%population were agricultural workers, poor, hard working but helping each other at their community.
Right now we are suffering with pandemic COVID19,and 4,5
million people died in the world wide, 24000 in Japan, 1000 people in Australia. Every body wants to back to normal: 2019 happy past as soon as possible, after 80 % population will be fully vaccinated.
However, we should not be back exactly same world because the key of pandemic was there in the past, free Capitalism, consumer first society. Japanese economy depends 100%imported oil, 30% imported foods, still unable to give up nuclear power plants and coal power plant, continuously large amount of CO2 product in the society, and medical system was completely corrupted because of shortage of government money and privatized system.
Hope to see economy growth make slow down. Better humanity society ahead.




2021年8月26日木曜日

PPM の「PUFF」とマゴ自慢

PPMの「PUFF」を歌ってみた。
 魔法の恐竜パフは、霧に囲まれた海辺に住んでいる。いたずらっこジャッキーはパフが大好きで、まねしてヒゲやウロコを作って身に着けた。二人して大波こいでボートで旅に出た。ジャッキーはパフのしっぽに登って見張り役。お姫様や貴族たちは丁寧にお辞儀して、海賊たちは怖がって、旗を低くした。恐竜は永遠に生きるけど,ジャッキーはいつまでも子供じゃない。作り物の羽や輪は他の道具に使われて、ジャッキーはもうパフに会いに来ない。パフは悲しくて、悲しくて、頭は低く垂れ、緑のうろこも剥がれ落ちた。もうパフは勇者になれない。魔法もなくして、ひとり洞窟に閉じこもってしまったよ。

マゴの自慢話をしてみたい。
マゴが3歳の時、この曲を聴いて涙を流したのだった。たった3歳の子供の想像力と豊かな感受性に感動した。パフとジャッキーの絵がのっている絵本があったわけではない、恐竜パフの映画を見たわけでもない。小さな少年がパフと一緒に大冒険をして仲良しだったのに、少年は恐竜を忘れ、傷心の恐竜は魔法の力を失ってしまう。歌を聞いただけでパフの気持ちを察することができた3歳の子の信じがたいほどの感性の柔らかさに心打たれた。
その後も、この子は成長につれ自分で絵本を作ったり、手先器用にドールハウスを作ったり、印象的な絵をかいて驚かせてくれた。紫式部じゃあるまいし、いくらなんでもそんなに長く髪を伸ばして、と思っていたら誰が勧めたわけでもないのに、どこかから情報を得てきて、癌で髪を失った人のために自分の伸ばしてきた髪をバッサリ切ってきた。
暮れに長年一緒に生きてきた猫のクロエを私は亡くした。今でも安楽死させた獣医の前を車で通ると、どっと涙が自動的にあふれてきて前が見えなくなる。安楽死させたその日、誰もいない家に戻ると、辛くてつらくて娘たちに携帯でメッセージを入れた。すると1分もしないうちに、このマゴが、「おばあちゃんクロエを亡くして辛いでしょう。でも悲しみすぎないで。これからはクロエは、おばあちゃんの胸の中でずっといっしょにいてくれるから。」とメッセージを送ってくれた。11歳の思いやりのこもった言葉をもらって前を見ることができた。マゴの何という、心の成熟度、人の心を思いやることができるマチュアリテイ。私はマゴを見ていて、人の精神というものが、どれほどの成熟性をもつことができるのか、それは実際の年齢と関係がないことを知ったのだった。 12歳になるREMI、 お誕生日おめでとう。

I am singing [Puff the magic dragon] written by Peter Yarrow and Lenny Lipton and recorded by Peter, Paul and Mary(PPM) in 1963.PPM is American folk group formed in NY 1961. This song is about lost love, and broken heart story,, childhood playmate Puff was forgotten by Jacky.
When my grand daughter was 3, listen first time this song and she became emotional and tears. I was surprised only 3 years old girl can imagine the feeling of lost. How rich imagination and sensitive heart she has. She'll turn to 12 soon, still she has been surprising me at many ways : giving me artistic draw, playing violin for nearly 10 years, swimming like Nemo, kicking ball in soccer field, giving me hand made story book, donating her long hair for cancer patients, and showing sympathy when I lost my cat; Chloe and gave powerful message.
I learned mental maturity is not only related to age.
Gorgeous my grand daughter Remi, Happy birthday!


2021年8月24日火曜日

大叔父さん大内兵衛のオリンピック

大叔父さんの大内兵衛が治安維持法で逮捕拘禁される1年半前に、個人書簡で、オリンピックについて書いたものが見つかったので、シェアしてみる。1936年ベルリンオリンピックのときを、保田の家で夏休みを過ごしていたときの文。オリンピアンを馬や鳶に例えるなど、いつも達観していて、お茶目な彼らしい言葉に笑ってしまう。鳥にしても、鷹(タカ)でなくて、鳶(トンビ)に例えるところも、いかにも叔父さんらしい。わざと、時間ギリギリに家を出て、ドアが閉まる寸前に電車に飛び乗って、人をハラハラさせるのが好きな人だった。
「8月に入って保田の海岸の光景は一変した。小学生のラジオ体操がなくなって、若い男女の学生がたくさん森永のキャンプストアの前の砂の上にうずくまって物静かなラジオを聞いている。ベルリンの伝えるオリンピックの鼓動を彼らの若い血潮の心臓において再生産するのだという話だが、私見によれば走ることにおいては人は馬に敵わず、飛ぶことにおいては鳶にかなわない。だから本来西洋に発達したスポーツに日本がまけたとして悲しむに及ばず.勝ったからとて、そう喜ぶことはないはずで、僕はこの目前の現象がどうしてこうあるかについて全く理解するところがない。ただ、先頃の議会において外国人の真似をせぬほうがよい、という理由でメーデーの挙行を阻んだ、広田総理が、この外国にオリジンをもつオリンピック東京招致に歓喜し、その上巨額の国幣さえ投じようとしている点から考えると、オリンピックというものは何か非常時的ないし、国民神話的な効験をもつものではないかと察せられるのである。



2021年8月19日木曜日

テネシーワルツとリチャードライト

「テネシーワルツ」を歌ってみた。
1948年にピーウィーキング作曲、レッドスチュワート作詞。テネシーはアメリカ南部の州で典型的な南部の常として人種差別が激しかった。貧しい人々にまで人頭税の納税義務が課せられていたにも関わらず選挙権がなかった。公民権法によって、アフリカンアメリカンに選挙権が与えられたのは、なんと1965年になってからだ。
1968年4月4日に、マーチンルーサーキング牧師が殺されたのも、テネシー州のメンフィスだった。アフリカンアメリカンの人権運動のために遊説中だった。
メンフィスと言うとプレスリーが生まれた土地でブルースの中心地、カントリーミュージックの発祥地であり、レコード会社サンレコードにジョニーキャシュ、ジェリールイスなどが集まってきていて、ギターのギブソン本社もあって、ミュージシャンにとって明るいイメージがある。
でも子どもの時からリチャードライトを、涙と鼻水でぐちゃぐちゃになりながら読んできた自分には、メンフィスというと、怒りと悲しみのイメージしかない。
リチャードライトはメンフィスに育ち、何の理由もなく白人に自分の家族や友人たちが殺される日々の体験を通して、恐怖と屈辱と怒りをペンにたたきつけるように小説を書いた。初めて読んだ時の衝撃は忘れられない。
身近に1930年40年代に、治安維持法で逮捕、拘禁された大叔父にあたる大内兵衛や、叔父に宇佐美誠次郎がいたにもかかわらず、彼らが寡黙だったのと、家では政治の話を全くしなかったため、「やさしい叔父さんたち」の思い出しかない。自分は「人権」というものの価値を、リチャードライトから学んだと思う。

I am singing [Tennessee Waltz] written by Pee Wee King and Redd Stewart in 1948. Tennessee is one of the most conservative US South territory, and racial discrimination was strong culture. After the US Supreme Court ruled racial segregation to be unconstitutional in 1954, schools were integrated and the right of vote were given to African American in 1965.
On April 4 1968, civil rights leader Martin Luther King Jr. was assassinated in Memphis Tennessee. King participated lending march for black's right to vote, desegregation, labor rights and basic civil rights.
Since I was a small child I was deep impressed by [Black American Writer], Richard Wright. He grew up in Memphis and facing, watching, and suffering white men were killing black men without any reason only for amusement. He wrote his novels for express his full of anger, hate, and terror. I have learnt what human right are, from this writer, Richard Wright.



2021年8月12日木曜日

サイモンとガーファンクルの「アイアム アロック」

サイモンとガーファンクルの「アイアムアロック」を歌ってみた。
 冬のある日、寒くて暗い12月、僕は一人ぼっちで、窓から降りしきる雪を見ている。僕は堅固な岩。揺るぎのない島。僕は壁を作った。完全な砦みたいな壁に誰も入れない。友達なんか要らない。笑ってみたり愛して見たり、友達なんて自分が傷つくだけさ。僕は岩。僕は島。
愛のことなんか言うなよ。そんなヤツ僕の記憶の底で寝ちまってるさ。僕は誰も傷付けたり、死んだ思いをすることもない。だって僕は岩。僕は島。僕は本をたくさん持ってる。僕の詩は僕を守ってくれる。僕は武装して、まるで子宮の中にいるみたいに安全な部屋にこもってる。僕は誰も触れることもないし、誰も僕を触れない。だって僕は岩。僕は島。
シドニーはこの歌みたいに真冬で、ロックダウンがすでに8週間続いていて、家族や友達を訪ねていくこともできない。厳しい自宅隔離で自宅から10キロ以内で食料品などを買いに行くことができるだけ。自分には仕事があるが、大多数の人は仕事に行けず、1年半にわたって繰り返されたロックダウンで職場そのものが倒産寸前だったり、政府のわずかな補助金で生き延びるしかない。
これではサイモンでなくても「僕には友達も恋人もいない、痛みを感じることも泣くこともない、」と、「岩」になりたくなる。
1966年、若かったポールサイモンの感受性の強い魂に触れる曲だ。日本では昨年コビッドが流行り出してから、この8月までに33500人の自殺者が出ている。人々は共通する社会の中でルールを守りながら、少しでも自分だけでなく多くの人に良くありたいを思って生きている。社会はヒトとヒトとの関係で成り立っているが、それが遮断されたら個人はどう生きればよいのだろう。自殺者を出さない。身近な人々、孤独な魂にあたたかい息を吹き込むこと、それがワクチンよりも大切なことだ。
I am singing [ I am a rock ] written by Paul Simon, recording by Simon & Garfunkel.
I have imagined, 1966, Paul Simon was so sensitive and delicate young poet. = In a deep and dark December, I am alone, ,,I have no need friendship, that cause pain. Do not talk of love, I never loved, I never would have cried because I am a rock, I am a island,,,.
I am alone at home already for 8 weeks except working days, by the Sydney lock down law, unable to see family, unable to visit friends.
Since COVID had spread last year about 33500 people killed them selves in Japan. I believe people can not live alone. We need to talk to some one, any one, any time, and need to express selves, that is important than Vaccine.



 


2021年8月5日木曜日

フレデイアギラの「アナク」

フレデイ アギラの「ANAK」(我が子よ)を歌ってみた。
私たちの国は、一滴の血も流さずに民衆の力で独裁者を倒したことがあっただろうか。私たちの国は、米軍基地を撤退させたことがあっただろうか。フィリピンは、それをした。

フィリピンはマゼランの航海以来330年間、スペインに植民地化された後、米国に売られ、太平洋戦争時3年間は日本に侵略された。戦後独立してもなお、独裁者マルコスの圧政下で長いこと戒厳令が敷かれていた。1983年大統領選挙のために米国から帰国したベニグノ アキノ上院議員は、飛行機から降りフィリピンの地を踏んだ瞬間に、大統領再選を狙うマルコスによって暗殺された。これが契機になって余りにも長いこと戒厳令を敷き、権力を欲しいままにしてきた独裁者に対する人々の怒りが爆発した。民衆は、マルコスの住むマラカニアン宮殿を取り巻き、エドサ通りを埋め尽くした。フレデイ アギラは、ギターを抱えプロテストソング「バヤンコ」(我が祖国)をデモの先頭に立って歌った。
1986年マルコス政権がピープルズ革命によって倒された翌年私たち家族は、フィリピンに赴任した。人々の革命を経た興奮は冷めやらず、レイテのような島ではまだ治世は混乱していたが人々の目は、輝いていた。10年の間に、レイテ島大洪水、セブ行き乗船沈没で2000人死亡、ピナツボ火山大噴火、ローマ法王訪比などいろんな出来事があった。まじかにこの国の大きな動きを身近で見て貴重な体験をしたと思う。

I am singing [ANAK]( Child )written by Freddie Aguilar, the Philippines singer song writer.
The Philippines was invaded by Spain for 330 years and later USA occupied then Japan did during world war2. Even though after independent, Philippines people suffered by dictator Marcos. In 1983 president candidate Senator Benigno Aquino Jr was assassinated by President Marcos. That was triggerd the People Power Revolution in 1986. Freddie Aguilar was always in front of peoples resistant and demonstration.
My family arrived in Leyte Philippines the following year of the Revolution, and still people and society were unrest and fragile. during nearly 10 years in the Philippines, we were witness of real country's history ,and it was great experience.




2021年7月29日木曜日

70曲達成

70曲達成!
FBで歌ってきた曲がこれで70曲を超えた。中島みゆきの「糸」を歌ってみた。
71歳のフルタイムで働くエッセンシャルワーカーといわれるナースが、デルタ型コビッドの暴風が荒れ狂う中、呑気に人の迷惑も考えずに下手な歌を歌ってやかましい、と言われるだろうが、辛うじてユーチューブで見つけてきた歌にコードを付けて歌ってみる、という「小さな楽しみ」を見つけて正気を保ってきた。これからも医療従事者にはつらい時期が続く。迷惑だろうが71歳のロックナースに付き合っていただけると嬉しい。

デルタ型コビッドの流行に伴って、シドニーがロックダウンになって5週間目に入った。あと4週間はロックダウンが続くそうだ。エッセンシャルワーカー以外、学校にも職場にも外出禁止、家族でも家に呼んではならず、訪ねて行ってもいけない。生活に必要な食糧などの買い物は1日1人自宅から10キロ以内のみ。外出時のマスクは当然、違反者は$500罰金。
コビッド検査は、毎日千人単位で行われ、陽性者の出た地域のエッセンシャルワーカーは3日に一度のコビッド検査。下水道検査でコビッドが検出される地域の特定を続行。政府はワクチン接種を大奨励しているが、アストロゼニカによる血栓で4人死んでいるので、ファイザー希望者が殺到して、需要が供給に間に合わない。

すでに流行が始まって、1年半、職場では1日として気の抜ける日がなかった。職場にウイルスを持ち込んではいけないから最大限自粛、毎日でも会いたい娘たちや孫たちにも、この1年半の間に10回、10日しか会えていない。ロックダウンと次のロックダウンとの間を、急かされるような気持ちでマゴの誕生日やクリスマスを祝った。355日は一人でいたことになる。職場のプレッシャーは激しく、これからも厳しい時が続く。先が見えない。

何が正しいことなのかわからない。これほど厳しい規制をして、沢山の医療従事者や、年寄りや、免疫の落ちていた人が死ぬことを食い止めた方が良いのか。それによって必ずやってくる政府の赤字財政を償うために、人々が身を削るように高い税金を払わなければならないことをよしとするか。それとも日本のようにロックダウンも、PCA検査もせず人々を自然死のような扱いで、無責任に自由放任して、生き残った人々だけで嵐が収まるのを待てば良いのか。何が良いことなのかわからない。
ただ,いま私にできることは、職場に留まり一人でも優秀な後輩を育てる事。そして自分の時間に、ギターかかえ、ささやかな楽しみを続けていくだけだ。
I am singing [ITO] written by singer song writer: Nakajima Miyuki. Sydney is now under the Lock down Law, and all shops, offices and schools are closed, people are allow to leave home only daily living things to buy. I am a 71 years old, full time work nurse, and am having huge pressure during Delta variant COVID spread. I could see my grandchildren only 10 times in this 1 and half years between lock down and another lock down. However I found little happiness in my time to singing, which reached already 70 music.


 



2021年7月22日木曜日

プレスリーの「Can't Help falling in Love」

プレスリーの「愛さずにいられない」を歌ってみた。
ロックを語るのにエルビス プレスリーに触れずに通り過ぎることはできない。彼はテネシー州メンフィスの貧困街で育ち、アフリカンアメリカンのリズム&ブルースと、白人文化のカントリーミュージックを融合させ、アメリカの自由で明るい大衆文化を創り出した。音楽に興味のなかった若者や労働者を音とリズムで夢中にさせ、最多レコードヒット記録を更新し,キングオブロックンロールの名をものにした。数万人の熱狂的ファンを前に、トラック運転手だった彼が、180センチの長身を純白のジャンプスーツで腰を揺らして歌う姿はアメリカンドリームそのものだったろう。酒もたばこもやらず、ピーナッツバターとバナナとベーコンをはさんだサンドイッチが大好きだった彼は、1977年に42歳で睡眠薬乱用のために亡くなった。

オーストラリアでは、毎年エルビスの誕生日1月8日には、恒例の「パークスエルビス祭り」が開催される。シドニーのセントラルステーションは数千人のエルビスのように髪をダックステールになでつけ、派手なジャンプスーツを着たファンが集まって、特別列車で6時間揺られてパークスという内陸の小さな町に行く。そして5日間、エルビス主演映画を見たり、歌やコスチュームのコンペテイションをして、楽しむそうで、それはそれは楽しいだろう。一度行ってみたいが、小さな街なので宿泊が1年あとまでいっぱいだ。

I am singing [ Can't help falling in Love] 1961, recorded by Elvis Presley(1935 -1977): The king of Rock and Roll. He rise from poverty to significant fame and became the best his success seemed to the American dream.
On January 8, Sydney Central station is fully packed by thousands Elvis' costume wearing fans, and special train travels to small town call Parks, 6 hours far from Sydney. [ The Parks Elvis Festival] is held every year and now in its 29th year. The festival continues to grow with more than 200 events across 5 fun field days, with 24000 fans.



2021年7月15日木曜日

死刑囚の歌、Green Green Grass of Home

GRREN GREEN GRASS OF HOME
やっと家に戻ってきたんだ。列車の駅にはお母さんもお父さんも迎えに来てくれている。愛しいマリーまで、駆け寄ってきて、彼女の髪は輝いて、唇はサクランボのようだ。家は古びているが、家の前に立つ樫の樹も昔通り、あたり一面は緑の草原がひろがって、何て懐かしい故郷なんだ。
そこで僕は目が覚めた。迎えに来たのは死刑執行人と年老いた牧師。二人に導かれて、死刑台に向かって歩く。僕はもうじき故郷に帰る。遺体となった僕を母と父は家の前に立つ樫の樹の下に埋めるだろう。
死刑執行前の男の歌。作詞作曲クラウドプットマンジュニア。1965年。ジョニーダレルによって録音され、ポーターワゴナー、ボビーベア、ジョニーリールイス、トムジョーンズ、ケニーロジャーズや、ジョーンバエズによって、歌われてポピュラーになった。
悲しい歌だ。誰にでも子供時代に頃の良い思い出はある。良心を持たずに生まれてきた人は居ない。死刑制度は誰も救わない。凶悪犯罪の歯止めにもならない。犯罪が起こるのは社会が病んでいるからだ。貧困をなくし、精神病医療を充実させることが先決だ。人は間違いを犯す。しかし命を奪ってはいけない。
I came back to home, and my parents and lovely Mary waited me in the station. The old house is still standing and big oak tree makes cool shade. Its good to touch the green green grass of home.
But I was dreaming, woken up by the old priest and a executioner. I am going to be hung now. My body will be sent to my home, and buried under the oak tree, where my parents and Mary are waiting.
Sad song. The death penalty violates the most fundamental human right. It should be ended. Before punish criminals the poverty should be eradicated.




沢山の人が死ぬだろう

                    
シドニーでは6月29日から7月30日まで、1か月のロックダウンとなった。
オーストラリアでは昨年初めから、外国から人を入れない、国民を外国に出さない、という徹底した「鎖国政策」で、コビッド流行を抑えてきた。EUや、米国、インドですさまじい流行が繰り返されて、米国での死者が60万人、ブラジルでは40万人を超えてもオーストラリアでは、コビッドゼロと言っても良い状態を保ってきた。外国に居て自分の国に帰れなくなったオーストラリア人が、4万5千人を超えても、頑として政府は、その国境を開けなかった。

しかし4月末から国民の2%しかワクチンを打っていないインドで、これまでのコビッドの数倍感染力の強いデルタ型が猛威を振るい、1日で何千人もの死者が出るニュースが流れ、これまでの鎖国政策を強化しなければならないときになって、「特殊事情」でインドから帰国してきた人を空港から隔離先のホテルに送った、リムジンの運転手からデルタ型が入ってきた。政府が5月2日に、新しいセキュリテイー法を導入して、インドから帰ってきた人に、罰金$6600、5年間の実刑を課したにもかかわらず、だ。緊急事態にこのような強力な法が、定められると、必ず人権団体などが猛反対する。政府が総攻撃にあって腰砕けになったところでデルタ型が入ってきた。

いま私たちは外出禁止、1日1回1人だけ家から10キロ以内なら必要最低限の買い物か、エクササイズに出ることができる。冠婚葬祭禁止。家族に会いに行くことも禁止。戸外でマスク、人との間隔は2m。町ではスーパーマーケット以外どこも店は開いていない。
感染者がでた家やアパートの前にはパトカーが常駐して誰も外出できないように監視。エッセンシャリワーカーは、3日に1度PCRテストをし、その結果を持って出ないと働けない。
最低の状況だが、少しマシなことはこの1年で、人々はレストランやイベント会場などに入る時にQRコードを厳守してきたことから、感染者が出てもいつ、どこで、何時ごろに居たかがわかるのでコンタクトした可能性のある人々を同定できることだ。その人々が、2週間自宅隔離をすれば感染を抑えられる。
とりあえず今できることは、ロックダウンを守り、少しでも多くの人がワクチンを打つことだ。

エッセンシャルワーカーで、エイジケアにフルタイムで勤めてきた、この1年半は地獄だった。今も、これからもそれが続く。
オーストラリアのコビッドでの死者は、2020年1月以来今まで合計しても、100人程度、他の国に比べればわずかだが、そのほとんどがエイジケア施設に居る年寄りだった。当然、エイジケアのナースは何をやっているんだ、とバッシングにあった。バスや電車で「コビッドがうつるから近寄るな。」と言われたり罵倒される被害が多発して、医療関係者を口頭または物理的に攻撃した人は$1000の罰金が科せられる「新法」までできた。
また職場では、いつ、どこでメデイアの人にインタビューを受けても、業務上のことで質問に答えてはならない、という厳重なお達しが出ているので、私も政府や医療業界やシステムに、100も200も言いたいことがあるが、今は言えない。

去年ボリス ジョンソンがコビッドで死にかかったとき、ICUでずっと彼に付き添ったナースはオージーナースだった。ボリスは、こんな非常時に献身的に働いてくれたナースはエンジェルだと褒めたたえて、彼女に感謝しまくっていたが、その後彼女はナースを辞めた。「ナースはやっている仕事を充分尊重されていないし、充分正しく評価されていない。」というのが理由だった。同感だ。この1年の間にストレスから、深刻な病気になった同僚が沢山いる。職場を離れ、辞めて行くナースが後を絶たない。

こんなときに日本はオリンピックをやって、選手たちだけでなく、その何倍もの関係者やマスメデイアが日本に入ってきている。
たくさんの死者が出るだろう。
そしてそれらの死者の死因は、心筋梗塞とか、脳卒中とか、喘息の悪化とか、糖尿病の悪化とか、過労とかの名前をつけて葬られるだろう。

どんなワクチンも、人によっては副作用は出る。しかし血栓ができる可能性は、コビッドに感染するよりずっと少ないし、血栓ができても症状がすでに一般に知られていて対応できるので病院に行けば完治できる。
すれちがっただけで感染するデルタ型で、死んではいけない。デルタ型は、年齢を問わず感染が広がり10代でも死者が出ている。
一刻も早くワクチンを打ってほしい。

2021年7月8日木曜日

ボブ デイランの「フォーエバーヤング」

「フォーエバーヤング」FOREVER YOUNGを歌ってみた。
オリジナルは、ボブデイラン作詞作曲1974年。彼に息子が生まれた時の感動と、父親の子に対する願いを曲にしたもの。ボブデイランはアメリカンジューなので、ヘブライのバイブルから言葉を引用している。
  神の恵みとご加護が君にありますように、君の願いがすべて、かなえられますように、いつも人の力になって、人からも力を貸してもらえますように、星まで届くはしごを築き一段一段登っていけますように、いつまでも生きていられますように、、、
といった詩で、これに感動したロッドスチュワートなど沢山の歌手が、自分のバージョンでこの歌を歌っている。 私が歌っているのは、ドイツのロックグループ、アルファビルのバージョン1984年で、歌詞もメロデイも少し違っている。

映画「MINAMATA」(水俣)は、3年間水俣に住み着いて公害による被害の様相を写真に撮ったカメラマン、ユージンスミスを描いた作品。ユージンを演じたジョニーデップが、映画の中で胎児性水俣病患者の娘を抱きながら、この歌を歌う。調子外れだが子供の幸せを願う親の心が歌われていて、とても印象深かった。この映画は9月公開だそうだが、良い映画だ。見る価値がある。

I am singing [Forever Young]. Ordinally this song was written by Bob Dylan in 1974 and recorded by The Band. Poet is related father's hope that a child will remain strong and happy, after Bob's son was born. The words came from the Hebrew Bible as Bob an American Jew. Many singers are singing their own version and I am singing with German rock band : Alphavill version.
I watched a movie, titled [MINAMATA]. In the movie, one very impressive scene I could not forget that Johnny Depp sang this song, holding a disadvantaged child who is suffered with MInamata disease.


2021年6月27日日曜日

映画「水俣」とユージンスミス

映画「水俣」
原題:「MINAMATA」
監督:アンドリュー レビタス
音楽:坂本龍一
キャスト
ジョニー デップ:ユージン スミス
ビル ナイ   :雑誌ライフ編集長
美波      :アイリーン スミス
真田広之    :患者活動家、ヤマザキ
国村隼     :日本窒素社長         
浅田忠信    :患者家族、ムラマツ 
加瀬亮     :患者、カメラマン

2020年ベルリン国際映画祭で特別招待作として、ワールドプレミアムで上映され好評を得た。今年は、水俣病が公害として公式に確認されてから65年目となる。いまだに患者として認定されていない患者も居り、患者の苦しみが無くなったわけでも、問題が解決したわけでもない。

ストーリーは
ユージン スミスは第2次世界大戦で戦場カメラマンとして活躍し、雑誌ライフで作品が取り上げられ、高く評価されていた。26歳で、サイパン、硫黄島に派遣され、沖縄で日本軍の砲撃にあい重症を負った。このときの後遺症で、激しい頭痛と、固形物を咀嚼できない障害に一生苦しめられ、それがアルコール中毒の遠因となる。

1970年、51歳のユージンは、雑誌ライフ専属のカメラマンとして籍を置いていたが、わがままで酒びたりな為に、編集長の意向に合わず、衝突ばかり繰り返していた。ニューヨーク、マンハッタンに自分の仕事場をもっていたが、ある日そこに、日本の富士フイルムからコマーシャルを撮影する仕事を依頼され、通訳として同行してきたアイリーンと出会う。このときアイリーンは、20歳でカルフォルニアのスタッフォード大学の学生だった。母は日本人で父親はアメリカ人、11歳まで東京で育ったので日本語が流暢だった。初めて会ったばかりなのに、人嫌いで偏屈だったユージンはアイリーンに、これから自分のためにアシスタントになって欲しいと申し出る。そしてアイリーンもそのまま大学を中退し、二人はそのまま同棲する。アイリーンの勧めにより、ユージンは、公害病の水俣病に関心をもち、雑誌ライフの編集長に、会社から水俣に派遣してもらうように交渉するが、断られ、ユージンとアイリーンは自分達の意志で水俣に飛ぶ。

ユージンとアイリーンが水俣で見たものは、水銀中毒による悲惨な患者たちの姿だった。理解ある患者家族の世話で、小屋を借り仕事場ができた。しかしその家族からも、胎児性水俣病のために生まれつき重症の脳性麻痺患者の姿を撮影することを拒否される。人々はアメリカから来た有名なカメラマンがカメラを向けると、顔をそむける。やけになってユージンはアルコールをあおり、自分のカメラを四肢麻痺のあるシゲルにやってしまう。怒ったアイリーンは患者たちからカメラを寄付してもらって、患者たちと日本窒素との団体交渉の様子などをユージンに撮影させる。また患者でカメラマンの活動家の力を借り、窒素病院に潜入して患者の姿や秘密にされていた資料などを撮影する。水俣病患者と日本窒素との争いは、窒素の株主総会に患者団体と窒素の雇った警備員や暴力団とが衝突するなど、日本中に知られるようになった。時に、1972年ストックホルムで国連環境会議に、水俣病患者代表団が送られることになり、雑誌ライフの編集長は、ユージンに写真とストーリーを送れ、と檄を飛ばす。

はじめのころ、日本窒素社長は、ユージンを呼びつけて、50万ドルの札束を渡して母国に帰れ、という。この忠告にユージンが応じないでいると、次に人を使って、ユージンが写真を撮りフイルムをプリントするなどの仕事に使っていた小屋を放火させた。自分が撮影した作品がすべて焼け落ちて、ユージンはまたアルコールを浴びるが、患者たちがこれを機会に、自分たちの大事な肉親が水俣病で苦しんでいる姿を撮影しても良い、という許可を与える。これによってユージンは救われる。しかし、1972年1月、患者交渉団とともに200人の窒素社員の強制排除にあい、カメラを壊された上、脊椎骨折、片目失明の重症を負わされる。ユージンは、負傷による後遺症に悩まされながら患者たちと交流を重ね、ライフにも写真を載せてもらいカメラマンとして再び脚光を浴びる。1974年10月、3年間暮らした水俣を後にして、ユージンはニューヨークで、写真集「MINAMATA」を出版する。

というおはなし。

映画が始まったとたんに、「音」に感動する。坂本龍一の音楽がとても良い。ニューヨークの仕事場でカメラマンとして、乗りに乗って仕事している暗室のユージンに、デイープなロックが腹に響く。しびれる。
胎児性水俣病で体を曲げることも、言葉を発することもできない娘の世話を頼まれて、逃げ出したい気持ちを抑えて、彼女を抱きながらジョニーデップが、「フォーエバーヤング」を調子外れに歌う。生まれてきた子に幸あれ、恵あれ、という歌詞のボブ デイランの歌だ。ジョニーの声に後追いでこの曲が流れる。音楽が映像につながっている。人から人へと生活の中でつながっていく。音の使い方が秀逸だ。

印象的なシーンがいくつかある。アイリーンが、「写真の撮り方を教えて」という。ユージンは急に冷酷な顔になって、「アメリカンインデアンはむかし写真を撮られると魂を抜きとられると信じて写真を撮らせてくれなかった。しかし’魂を取られるのはカメラマンの方なんだぞ。写真をとるということは魂と引き換えに撮る覚悟がないと、撮れないんだぞ。」と言う。
また後になって、患者交渉団に対して日本窒素の警備員や暴力団が患者に襲い掛かって一方的に危害を与える姿に怒り罵言するアイリーンに向かって、ユージンは「黙れ!!!口を閉じろ。怒りをレンズに向けろ。写真を撮れ。」と怒鳴る。これがプロの「ことば」というものだろう。実際、アイリーンはユージンの死後も水俣に関わり、この映画の製作にもかかわっている。これらはユージンの遺言のようなものだろう。


伝説の写真「TOMOKO IN  HER BATH」だ。胎児性水俣病患者の娘を抱いて母親が風呂に入るシーンの音と映像が、神々しいほど美しい。このシーンを見るためだけのために、この映画を見る価値がある。素晴らしい。弱い風呂場の光に照らされて、母が抱く娘、折れ曲がった娘の手足、愛情にみちた母の横顔、信頼とあふれるほどの愛が映し出される。これほど美しいシーンを見たことがない。ユージンが、1枚の写真が1000の言葉以上の力を持つ、と言っていたが、このことだろう。素晴らしい。

映画はユージンを水俣病被害者の側に立った、ヒューマンで立派な男として描いておらず、父娘ほどに年の離れた妻アイリーンには頭が上がらないアルコール中毒で、繊細すぎる心を持った、弱さを抱えた男として描いている。水俣病訴訟も、宇井純先生の公害自主講座も、ユージンが窒素の暴行を受けて大けがをしたことも、当時東京に居て知っていたが、ユージンの人柄については知らなかった。
ジョニー デップは良い仕事をしてくれた。一流の俳優陣、音楽、製作陣、とても良い映画だ。映画配給がメジャーな会社ではないので街の大きな映画館で上映していないことがとても残念だ。

明治末期に農業と製塩業が衰退した九州熊本県で、合成肥料を作る日本窒素が工場を建設したのは、水俣の奥地の鉱山に電力を供給する水力発電所があったためと、水俣の熱心な誘致の結果だった。水銀を触媒にして塩化ビニールを合成する新技術をもった日本窒素は、日本の産業発展のための最先端をいく会社となり、小さな漁村だった水俣は一挙に人口数万人の企業城下町として繁栄した。会社は生産に追われ、水銀は無処理のまま海に捨てられた。

激しい脳神経症状を示す患者が続出したのが1956年5月。原因究明をした熊本大学医学部は、工場排水が原因だと考えたが、そこから取れる魚は多種多様の毒物を含んでいて、何が原因か同定できないでいた。そのころ日本窒素では、すでに原因が水銀であることを知っていたが、会社側も、通産省も、企業秘密にして情報を大学研究班に伝えなかった。会社側は、風土病だろうとしか、熊本大学に伝えていない。

1956年6月に新潟県阿賀野川下流で、昭和電工が工場から出るメチル水銀を垂れ流し、海産物を汚染、それを食べ水銀中毒になった第2の水俣病患者が、多発したことにより、水俣病が大きく取り上げられることになった。患者側の努力によって、1959年になって初めて水俣病の原因がメチル水銀であると認定された。しかし会社側は、わずかな患者に、わずかな見舞金で、ことを収めようとする。

1968年9月にようやく水俣病の原因が、窒素の工場排水によるもので、公害病であることが公式の認められたとき、この病気の発見から12年がたっていた。
それでも水俣病患者たちと、少額の慰謝料でことを済ませようとする加害企業窒素との争いは、果てしなく続く。政府と窒素は患者数を限定、患者を審査する認定委員会の委員を入れ替え、患者数を減らす、患者を「慰謝料目的のニセ患者」と決めつけ、窒素側を擁護する医師だけで患者認定を行う。その後も、熊本大学医学部水銀中毒研究班に対抗して、日本化学工業協会が御用学者の東大グループをつくり、水銀中毒を否定するなどの妨害が何年も続いた。

宇井純(1932-2006)は水俣病発生当時、東大工学部助手だったが、この原因究明と被害者支援に取り組み続けた。彼の地道な水俣病の研究なしに、水俣病の解明はなかった。1979-1986まで、東大で自主講座「公害原論」を主宰。自主講座は、鶴見良行、原田正純、桑原史成、荒畑寒村、石牟礼道子、高橋晄成など様々な分野の人々によって、講座が支えられた。1972年ストックホルム国連人間環境会議に出席、日本の公害状況が、国外に発信され、戦後日本の急激な経済性成長が、どれだけ人々の犠牲を強いたかが世界的に認識された。

当時不知火海岸に住んで、魚を食べていた人口は20万人、そのうち1割、2万人に何らかの水銀中毒の症状が出ていたと考えられる。そのうち患者として認定されたのは、生存者で2000人に満たない。水銀が体に蓄積されれば、心臓も肝臓にも水銀が溜まる。高血圧や糖尿病を併発するが、それは水俣病に関係ないと、患者認定を却下されている。政府も企業も限りなく患者を認定しないように切り捨てる。そのために水俣病による多様な症状が、いまだわかっていない。
また、政府は一度として水俣病全域について、健康診査をしていない。患者一人当たり200-300万円の補償(一律一人260万円の最終解決)、そのうえ国も企業も、一度として患者と患者家族に謝罪していない。
1994年に出た判決では国と県に水俣病の責任はなく、20年以上水俣を離れている患者には、時効により補償請求権が失効した、という。いまだ水俣訴訟は終わっていない。

足尾銅山鉱毒、カネミ油症、イタイイタイ病、PCB汚染、アスベスト、DDT汚染、オレンジガスなどなど、数えきれない公害が、政府と企業によって救済されないまま、患者たちは痛みを抱え、障害を抱えて生きざるを得ない。
また政府と企業が水俣病患者にしてきたことは、そのままそっくり311の東日本大震災の津波、放射能被害に当てはめることができる。一度として政府は、東京電力という企業を守るために、被害全域について健康診査を継続していない。ヒロシマ、ナガサキの被爆者に渡された「原爆手帳」さえ制作もせず、追跡健康調査さえしていない。なにひとつ解決していない。それが今の日本だ。



2021年6月25日金曜日

サイモンとガーファンクルの「ボクサー」

サイモンとガーファンクルの「THE BOXER」を歌ってみた。
  自分のことを話すつもりはないけどさ、俺ただの貧乏人だよ。精一杯できることは、ポケット一杯のつぶやき。みんな嘘か冗談と思うだろ。人は聞きたい事しか聞こうとしないもんさ。だから耳をふさいでいろよ。まだ俺が子供だった頃、家を捨てたのさ。誰もいない汽車の駅や、貧困街でビクビクしながら眠ったよ。仕事が見つけられなくて、声をかけてくれるのは7番街の娼婦だけ。リングに立つボクサーになったけど、戦うことが義務なんだ。打ちのめし、切り裂き、怒りと屈辱で叫び声をあげる。家に帰りたい、故郷に。俺はもう止めるんだ。もう止める。でもまだ戦える。痛みつけられながら。ここに踏みとどまるよ。
ボクシングは過酷なスポーツだ。この歌はボクシングに限らず、たった一人で人生というリングに立って生きることの厳しさと辛さを歌ったもの。人生の応援歌ともいえる。
人生は平坦な道ではない。誰でも一生に一度は「野良犬のような目をして雨に濡れながら」ほっつき歩いたり、ぽっかり空いた胸の傷を抱えながら暗闇でうずくまっていたこともあるだろう。今、自分がどんな立場に立っていても、苦しいところに居る人のために涙を流し,共感できる心を持ちたい。
I am singing [ The Boxer] written by Paul Simon and sung by Simon & Garfunkel. 、、、、 I am just a poor boy, Though my story seldom told, When I left my home and family,,,, Where the New York city winter aren't bleeding me, In the clearing stand a boxer Every glove that laid him down and cut him, till he cried out, in his anger and his shame , I am leaving I am leaving but the fighter still remains、、、
A young boy came to NY alone, and had to fight as a street boxer for small money. He struggled with hunger, cold, loneliness, and sadness, as every one might experienced. Hope always you can emphathise with the people who is hungry, angry, miserable and sad.



2021年6月17日木曜日

「島唄」を慰霊の日に

「島唄」を歌ってみた。
1993年に、宮沢和史によって作詞作曲されて、ロックバンド、THE BOOMによって歌われた。宮沢は 沖縄を旅行した際にひめゆり記念資料館を訪れ、そこでもとひめゆり学徒だった人に直接沖縄戦の体験を聴いたことが、作曲の切っ掛けになったと言っている。

6月23日は慰霊の日。沖縄では学校、官公庁は休日になる。
1945年沖縄ではこの日に日本軍司令官が自決、司令部は玉砕され、沖縄は米軍によって占領された。米軍上陸以来、那覇の日本軍司令部が放棄されたあとも、日本軍は投降せず、住民と共に逃げまどい、住民に投降することも許さなかったために、集団自決など悲惨な死を招き、20万人の死者、沖縄に住民の4人に1人、12万人が亡くなることになった。
日本軍司令部が欧米並みに、国際法への知識と人権意識と常識を持っていれば司令官だけが先に勝手にに自決などせず、米軍に投降し,住民を戦火に巻き込むこともなかった。ただただ日本軍人の無知と天皇への狂信が被害を招いた。
6月23日は本土の人々は、沖縄の方々の無念な思い、怒りをしっかり聞き留めて胸に収めたい。軍事基地は、そこに住む人々を守らない。それを沖縄の人々は知っている。沖縄を再び日本軍の防波堤にしてはならない。沖縄の軍事要塞化を許してはならない。辺野古に基地を作ってはならない。重要土地調査規制法案を通してはならない。

I am singing [SHIMAUTA] written by Miyazawa Kazufumi at 1993 and sang by THE BOOM,: Japanese rock group. The day of 23June is the memorial day in Okinawa. This day on 1945,Okinawa was surrendered and invaded by US Force. Japanese army chief killed himself before US army arrested him, and all Japanese soldiers refused to be surrendered that is why Okinawan people are unable to raise white flag and killed by US soldiers and Japanese soldiers. One in 4 Okinawan people, 12000 was killed, totally 2 hundred thousand people died.
This day we prey for the victims in Okinawa and we have to stop building and expanding army bases in Okinawa.



2021年6月12日土曜日

インターナショナルの歌

「インターナショナルの歌」
6月には、涙の雨が降る。この歌は唯一、歌詞を見ないでも、お終いまで歌える歌だ。私と同世代の人たちにとっては、みな同じようなものかもしれない。
1989年6月4日、37年前の北京天安門広場では、中国の民主改革を求める10万人の知識人、学生、市民が集まっていた。政府は戒厳令を発動し、戦車や重装備で武装した兵士が人々を襲って、1万人の死者が出た。この時、オーストラリアのボブホーク首相は、文字通り大粒の涙をぼたぼた落としながら、戦車が学生たちを踏み殺している、許せない、と中国政府に抗議する声明を発表し、当時滞在の中国人留学生4万2千人余りにオーストラリア滞在ビザを出し、香港から秘密裏に弾圧を逃れてきた活動家たち多数を市民として迎い入れた。しかし未だに中国政府の香港やウイグルに対する弾圧は変わっていない。
1960年6月15日、当時東大生だった樺美智子さんが日米安保条約反対デモで、全学連が衆議院南通用門から国会に突入した際、機動隊の規制にあって殺された。安保条約は今に至っても存続している。
1945年6月23日沖縄慰霊の日。沖縄では日本軍司令部が崩壊、日米戦により20万人の死者、沖縄の市民4人に一人が亡くなった。沖縄では慰霊のために学校も役所も休日となる。沖縄に家族で住んでいた時、この日は慰霊祭に参加したり、市役所主催のバスに乗って現地の方々の話に耳を傾けた。
インターの歌の作詞は、ウジーヌ ポテイエ(1816-1887)彼はフランス革命後、1871年パリコミューンの活動家だった。独仏戦争で敗れパリを占領するプロイセンに立ち向かったコミューンが崩壊した後、死刑宣告を受け英国に亡命し、この詩を書いた。のちに曲をつけたのが1888年ピエール ドシェテルだった。
1917年10月、ソビエトが革命を成功させたとき、ボルシェビキのウラジミル レーニンがこの歌をロシアの国歌として採用した。
日本では1922年「種を蒔く人」の佐々木孝丸が訳詞して歌われるようになった。