2021年8月26日木曜日

PPM の「PUFF」とマゴ自慢

PPMの「PUFF」を歌ってみた。
 魔法の恐竜パフは、霧に囲まれた海辺に住んでいる。いたずらっこジャッキーはパフが大好きで、まねしてヒゲやウロコを作って身に着けた。二人して大波こいでボートで旅に出た。ジャッキーはパフのしっぽに登って見張り役。お姫様や貴族たちは丁寧にお辞儀して、海賊たちは怖がって、旗を低くした。恐竜は永遠に生きるけど,ジャッキーはいつまでも子供じゃない。作り物の羽や輪は他の道具に使われて、ジャッキーはもうパフに会いに来ない。パフは悲しくて、悲しくて、頭は低く垂れ、緑のうろこも剥がれ落ちた。もうパフは勇者になれない。魔法もなくして、ひとり洞窟に閉じこもってしまったよ。

マゴの自慢話をしてみたい。
マゴが3歳の時、この曲を聴いて涙を流したのだった。たった3歳の子供の想像力と豊かな感受性に感動した。パフとジャッキーの絵がのっている絵本があったわけではない、恐竜パフの映画を見たわけでもない。小さな少年がパフと一緒に大冒険をして仲良しだったのに、少年は恐竜を忘れ、傷心の恐竜は魔法の力を失ってしまう。歌を聞いただけでパフの気持ちを察することができた3歳の子の信じがたいほどの感性の柔らかさに心打たれた。
その後も、この子は成長につれ自分で絵本を作ったり、手先器用にドールハウスを作ったり、印象的な絵をかいて驚かせてくれた。紫式部じゃあるまいし、いくらなんでもそんなに長く髪を伸ばして、と思っていたら誰が勧めたわけでもないのに、どこかから情報を得てきて、癌で髪を失った人のために自分の伸ばしてきた髪をバッサリ切ってきた。
暮れに長年一緒に生きてきた猫のクロエを私は亡くした。今でも安楽死させた獣医の前を車で通ると、どっと涙が自動的にあふれてきて前が見えなくなる。安楽死させたその日、誰もいない家に戻ると、辛くてつらくて娘たちに携帯でメッセージを入れた。すると1分もしないうちに、このマゴが、「おばあちゃんクロエを亡くして辛いでしょう。でも悲しみすぎないで。これからはクロエは、おばあちゃんの胸の中でずっといっしょにいてくれるから。」とメッセージを送ってくれた。11歳の思いやりのこもった言葉をもらって前を見ることができた。マゴの何という、心の成熟度、人の心を思いやることができるマチュアリテイ。私はマゴを見ていて、人の精神というものが、どれほどの成熟性をもつことができるのか、それは実際の年齢と関係がないことを知ったのだった。 12歳になるREMI、 お誕生日おめでとう。

I am singing [Puff the magic dragon] written by Peter Yarrow and Lenny Lipton and recorded by Peter, Paul and Mary(PPM) in 1963.PPM is American folk group formed in NY 1961. This song is about lost love, and broken heart story,, childhood playmate Puff was forgotten by Jacky.
When my grand daughter was 3, listen first time this song and she became emotional and tears. I was surprised only 3 years old girl can imagine the feeling of lost. How rich imagination and sensitive heart she has. She'll turn to 12 soon, still she has been surprising me at many ways : giving me artistic draw, playing violin for nearly 10 years, swimming like Nemo, kicking ball in soccer field, giving me hand made story book, donating her long hair for cancer patients, and showing sympathy when I lost my cat; Chloe and gave powerful message.
I learned mental maturity is not only related to age.
Gorgeous my grand daughter Remi, Happy birthday!


2021年8月24日火曜日

大叔父さん大内兵衛のオリンピック

大叔父さんの大内兵衛が治安維持法で逮捕拘禁される1年半前に、個人書簡で、オリンピックについて書いたものが見つかったので、シェアしてみる。1936年ベルリンオリンピックのときを、保田の家で夏休みを過ごしていたときの文。オリンピアンを馬や鳶に例えるなど、いつも達観していて、お茶目な彼らしい言葉に笑ってしまう。鳥にしても、鷹(タカ)でなくて、鳶(トンビ)に例えるところも、いかにも叔父さんらしい。わざと、時間ギリギリに家を出て、ドアが閉まる寸前に電車に飛び乗って、人をハラハラさせるのが好きな人だった。
「8月に入って保田の海岸の光景は一変した。小学生のラジオ体操がなくなって、若い男女の学生がたくさん森永のキャンプストアの前の砂の上にうずくまって物静かなラジオを聞いている。ベルリンの伝えるオリンピックの鼓動を彼らの若い血潮の心臓において再生産するのだという話だが、私見によれば走ることにおいては人は馬に敵わず、飛ぶことにおいては鳶にかなわない。だから本来西洋に発達したスポーツに日本がまけたとして悲しむに及ばず.勝ったからとて、そう喜ぶことはないはずで、僕はこの目前の現象がどうしてこうあるかについて全く理解するところがない。ただ、先頃の議会において外国人の真似をせぬほうがよい、という理由でメーデーの挙行を阻んだ、広田総理が、この外国にオリジンをもつオリンピック東京招致に歓喜し、その上巨額の国幣さえ投じようとしている点から考えると、オリンピックというものは何か非常時的ないし、国民神話的な効験をもつものではないかと察せられるのである。



2021年8月19日木曜日

テネシーワルツとリチャードライト

「テネシーワルツ」を歌ってみた。
1948年にピーウィーキング作曲、レッドスチュワート作詞。テネシーはアメリカ南部の州で典型的な南部の常として人種差別が激しかった。貧しい人々にまで人頭税の納税義務が課せられていたにも関わらず選挙権がなかった。公民権法によって、アフリカンアメリカンに選挙権が与えられたのは、なんと1965年になってからだ。
1968年4月4日に、マーチンルーサーキング牧師が殺されたのも、テネシー州のメンフィスだった。アフリカンアメリカンの人権運動のために遊説中だった。
メンフィスと言うとプレスリーが生まれた土地でブルースの中心地、カントリーミュージックの発祥地であり、レコード会社サンレコードにジョニーキャシュ、ジェリールイスなどが集まってきていて、ギターのギブソン本社もあって、ミュージシャンにとって明るいイメージがある。
でも子どもの時からリチャードライトを、涙と鼻水でぐちゃぐちゃになりながら読んできた自分には、メンフィスというと、怒りと悲しみのイメージしかない。
リチャードライトはメンフィスに育ち、何の理由もなく白人に自分の家族や友人たちが殺される日々の体験を通して、恐怖と屈辱と怒りをペンにたたきつけるように小説を書いた。初めて読んだ時の衝撃は忘れられない。
身近に1930年40年代に、治安維持法で逮捕、拘禁された大叔父にあたる大内兵衛や、叔父に宇佐美誠次郎がいたにもかかわらず、彼らが寡黙だったのと、家では政治の話を全くしなかったため、「やさしい叔父さんたち」の思い出しかない。自分は「人権」というものの価値を、リチャードライトから学んだと思う。

I am singing [Tennessee Waltz] written by Pee Wee King and Redd Stewart in 1948. Tennessee is one of the most conservative US South territory, and racial discrimination was strong culture. After the US Supreme Court ruled racial segregation to be unconstitutional in 1954, schools were integrated and the right of vote were given to African American in 1965.
On April 4 1968, civil rights leader Martin Luther King Jr. was assassinated in Memphis Tennessee. King participated lending march for black's right to vote, desegregation, labor rights and basic civil rights.
Since I was a small child I was deep impressed by [Black American Writer], Richard Wright. He grew up in Memphis and facing, watching, and suffering white men were killing black men without any reason only for amusement. He wrote his novels for express his full of anger, hate, and terror. I have learnt what human right are, from this writer, Richard Wright.



2021年8月12日木曜日

サイモンとガーファンクルの「アイアム アロック」

サイモンとガーファンクルの「アイアムアロック」を歌ってみた。
 冬のある日、寒くて暗い12月、僕は一人ぼっちで、窓から降りしきる雪を見ている。僕は堅固な岩。揺るぎのない島。僕は壁を作った。完全な砦みたいな壁に誰も入れない。友達なんか要らない。笑ってみたり愛して見たり、友達なんて自分が傷つくだけさ。僕は岩。僕は島。
愛のことなんか言うなよ。そんなヤツ僕の記憶の底で寝ちまってるさ。僕は誰も傷付けたり、死んだ思いをすることもない。だって僕は岩。僕は島。僕は本をたくさん持ってる。僕の詩は僕を守ってくれる。僕は武装して、まるで子宮の中にいるみたいに安全な部屋にこもってる。僕は誰も触れることもないし、誰も僕を触れない。だって僕は岩。僕は島。
シドニーはこの歌みたいに真冬で、ロックダウンがすでに8週間続いていて、家族や友達を訪ねていくこともできない。厳しい自宅隔離で自宅から10キロ以内で食料品などを買いに行くことができるだけ。自分には仕事があるが、大多数の人は仕事に行けず、1年半にわたって繰り返されたロックダウンで職場そのものが倒産寸前だったり、政府のわずかな補助金で生き延びるしかない。
これではサイモンでなくても「僕には友達も恋人もいない、痛みを感じることも泣くこともない、」と、「岩」になりたくなる。
1966年、若かったポールサイモンの感受性の強い魂に触れる曲だ。日本では昨年コビッドが流行り出してから、この8月までに33500人の自殺者が出ている。人々は共通する社会の中でルールを守りながら、少しでも自分だけでなく多くの人に良くありたいを思って生きている。社会はヒトとヒトとの関係で成り立っているが、それが遮断されたら個人はどう生きればよいのだろう。自殺者を出さない。身近な人々、孤独な魂にあたたかい息を吹き込むこと、それがワクチンよりも大切なことだ。
I am singing [ I am a rock ] written by Paul Simon, recording by Simon & Garfunkel.
I have imagined, 1966, Paul Simon was so sensitive and delicate young poet. = In a deep and dark December, I am alone, ,,I have no need friendship, that cause pain. Do not talk of love, I never loved, I never would have cried because I am a rock, I am a island,,,.
I am alone at home already for 8 weeks except working days, by the Sydney lock down law, unable to see family, unable to visit friends.
Since COVID had spread last year about 33500 people killed them selves in Japan. I believe people can not live alone. We need to talk to some one, any one, any time, and need to express selves, that is important than Vaccine.



 


2021年8月5日木曜日

フレデイアギラの「アナク」

フレデイ アギラの「ANAK」(我が子よ)を歌ってみた。
私たちの国は、一滴の血も流さずに民衆の力で独裁者を倒したことがあっただろうか。私たちの国は、米軍基地を撤退させたことがあっただろうか。フィリピンは、それをした。

フィリピンはマゼランの航海以来330年間、スペインに植民地化された後、米国に売られ、太平洋戦争時3年間は日本に侵略された。戦後独立してもなお、独裁者マルコスの圧政下で長いこと戒厳令が敷かれていた。1983年大統領選挙のために米国から帰国したベニグノ アキノ上院議員は、飛行機から降りフィリピンの地を踏んだ瞬間に、大統領再選を狙うマルコスによって暗殺された。これが契機になって余りにも長いこと戒厳令を敷き、権力を欲しいままにしてきた独裁者に対する人々の怒りが爆発した。民衆は、マルコスの住むマラカニアン宮殿を取り巻き、エドサ通りを埋め尽くした。フレデイ アギラは、ギターを抱えプロテストソング「バヤンコ」(我が祖国)をデモの先頭に立って歌った。
1986年マルコス政権がピープルズ革命によって倒された翌年私たち家族は、フィリピンに赴任した。人々の革命を経た興奮は冷めやらず、レイテのような島ではまだ治世は混乱していたが人々の目は、輝いていた。10年の間に、レイテ島大洪水、セブ行き乗船沈没で2000人死亡、ピナツボ火山大噴火、ローマ法王訪比などいろんな出来事があった。まじかにこの国の大きな動きを身近で見て貴重な体験をしたと思う。

I am singing [ANAK]( Child )written by Freddie Aguilar, the Philippines singer song writer.
The Philippines was invaded by Spain for 330 years and later USA occupied then Japan did during world war2. Even though after independent, Philippines people suffered by dictator Marcos. In 1983 president candidate Senator Benigno Aquino Jr was assassinated by President Marcos. That was triggerd the People Power Revolution in 1986. Freddie Aguilar was always in front of peoples resistant and demonstration.
My family arrived in Leyte Philippines the following year of the Revolution, and still people and society were unrest and fragile. during nearly 10 years in the Philippines, we were witness of real country's history ,and it was great experience.




2021年7月29日木曜日

70曲達成

70曲達成!
FBで歌ってきた曲がこれで70曲を超えた。中島みゆきの「糸」を歌ってみた。
71歳のフルタイムで働くエッセンシャルワーカーといわれるナースが、デルタ型コビッドの暴風が荒れ狂う中、呑気に人の迷惑も考えずに下手な歌を歌ってやかましい、と言われるだろうが、辛うじてユーチューブで見つけてきた歌にコードを付けて歌ってみる、という「小さな楽しみ」を見つけて正気を保ってきた。これからも医療従事者にはつらい時期が続く。迷惑だろうが71歳のロックナースに付き合っていただけると嬉しい。

デルタ型コビッドの流行に伴って、シドニーがロックダウンになって5週間目に入った。あと4週間はロックダウンが続くそうだ。エッセンシャルワーカー以外、学校にも職場にも外出禁止、家族でも家に呼んではならず、訪ねて行ってもいけない。生活に必要な食糧などの買い物は1日1人自宅から10キロ以内のみ。外出時のマスクは当然、違反者は$500罰金。
コビッド検査は、毎日千人単位で行われ、陽性者の出た地域のエッセンシャルワーカーは3日に一度のコビッド検査。下水道検査でコビッドが検出される地域の特定を続行。政府はワクチン接種を大奨励しているが、アストロゼニカによる血栓で4人死んでいるので、ファイザー希望者が殺到して、需要が供給に間に合わない。

すでに流行が始まって、1年半、職場では1日として気の抜ける日がなかった。職場にウイルスを持ち込んではいけないから最大限自粛、毎日でも会いたい娘たちや孫たちにも、この1年半の間に10回、10日しか会えていない。ロックダウンと次のロックダウンとの間を、急かされるような気持ちでマゴの誕生日やクリスマスを祝った。355日は一人でいたことになる。職場のプレッシャーは激しく、これからも厳しい時が続く。先が見えない。

何が正しいことなのかわからない。これほど厳しい規制をして、沢山の医療従事者や、年寄りや、免疫の落ちていた人が死ぬことを食い止めた方が良いのか。それによって必ずやってくる政府の赤字財政を償うために、人々が身を削るように高い税金を払わなければならないことをよしとするか。それとも日本のようにロックダウンも、PCA検査もせず人々を自然死のような扱いで、無責任に自由放任して、生き残った人々だけで嵐が収まるのを待てば良いのか。何が良いことなのかわからない。
ただ,いま私にできることは、職場に留まり一人でも優秀な後輩を育てる事。そして自分の時間に、ギターかかえ、ささやかな楽しみを続けていくだけだ。
I am singing [ITO] written by singer song writer: Nakajima Miyuki. Sydney is now under the Lock down Law, and all shops, offices and schools are closed, people are allow to leave home only daily living things to buy. I am a 71 years old, full time work nurse, and am having huge pressure during Delta variant COVID spread. I could see my grandchildren only 10 times in this 1 and half years between lock down and another lock down. However I found little happiness in my time to singing, which reached already 70 music.


 



2021年7月22日木曜日

プレスリーの「Can't Help falling in Love」

プレスリーの「愛さずにいられない」を歌ってみた。
ロックを語るのにエルビス プレスリーに触れずに通り過ぎることはできない。彼はテネシー州メンフィスの貧困街で育ち、アフリカンアメリカンのリズム&ブルースと、白人文化のカントリーミュージックを融合させ、アメリカの自由で明るい大衆文化を創り出した。音楽に興味のなかった若者や労働者を音とリズムで夢中にさせ、最多レコードヒット記録を更新し,キングオブロックンロールの名をものにした。数万人の熱狂的ファンを前に、トラック運転手だった彼が、180センチの長身を純白のジャンプスーツで腰を揺らして歌う姿はアメリカンドリームそのものだったろう。酒もたばこもやらず、ピーナッツバターとバナナとベーコンをはさんだサンドイッチが大好きだった彼は、1977年に42歳で睡眠薬乱用のために亡くなった。

オーストラリアでは、毎年エルビスの誕生日1月8日には、恒例の「パークスエルビス祭り」が開催される。シドニーのセントラルステーションは数千人のエルビスのように髪をダックステールになでつけ、派手なジャンプスーツを着たファンが集まって、特別列車で6時間揺られてパークスという内陸の小さな町に行く。そして5日間、エルビス主演映画を見たり、歌やコスチュームのコンペテイションをして、楽しむそうで、それはそれは楽しいだろう。一度行ってみたいが、小さな街なので宿泊が1年あとまでいっぱいだ。

I am singing [ Can't help falling in Love] 1961, recorded by Elvis Presley(1935 -1977): The king of Rock and Roll. He rise from poverty to significant fame and became the best his success seemed to the American dream.
On January 8, Sydney Central station is fully packed by thousands Elvis' costume wearing fans, and special train travels to small town call Parks, 6 hours far from Sydney. [ The Parks Elvis Festival] is held every year and now in its 29th year. The festival continues to grow with more than 200 events across 5 fun field days, with 24000 fans.



2021年7月15日木曜日

死刑囚の歌、Green Green Grass of Home

GRREN GREEN GRASS OF HOME
やっと家に戻ってきたんだ。列車の駅にはお母さんもお父さんも迎えに来てくれている。愛しいマリーまで、駆け寄ってきて、彼女の髪は輝いて、唇はサクランボのようだ。家は古びているが、家の前に立つ樫の樹も昔通り、あたり一面は緑の草原がひろがって、何て懐かしい故郷なんだ。
そこで僕は目が覚めた。迎えに来たのは死刑執行人と年老いた牧師。二人に導かれて、死刑台に向かって歩く。僕はもうじき故郷に帰る。遺体となった僕を母と父は家の前に立つ樫の樹の下に埋めるだろう。
死刑執行前の男の歌。作詞作曲クラウドプットマンジュニア。1965年。ジョニーダレルによって録音され、ポーターワゴナー、ボビーベア、ジョニーリールイス、トムジョーンズ、ケニーロジャーズや、ジョーンバエズによって、歌われてポピュラーになった。
悲しい歌だ。誰にでも子供時代に頃の良い思い出はある。良心を持たずに生まれてきた人は居ない。死刑制度は誰も救わない。凶悪犯罪の歯止めにもならない。犯罪が起こるのは社会が病んでいるからだ。貧困をなくし、精神病医療を充実させることが先決だ。人は間違いを犯す。しかし命を奪ってはいけない。
I came back to home, and my parents and lovely Mary waited me in the station. The old house is still standing and big oak tree makes cool shade. Its good to touch the green green grass of home.
But I was dreaming, woken up by the old priest and a executioner. I am going to be hung now. My body will be sent to my home, and buried under the oak tree, where my parents and Mary are waiting.
Sad song. The death penalty violates the most fundamental human right. It should be ended. Before punish criminals the poverty should be eradicated.




沢山の人が死ぬだろう

                    
シドニーでは6月29日から7月30日まで、1か月のロックダウンとなった。
オーストラリアでは昨年初めから、外国から人を入れない、国民を外国に出さない、という徹底した「鎖国政策」で、コビッド流行を抑えてきた。EUや、米国、インドですさまじい流行が繰り返されて、米国での死者が60万人、ブラジルでは40万人を超えてもオーストラリアでは、コビッドゼロと言っても良い状態を保ってきた。外国に居て自分の国に帰れなくなったオーストラリア人が、4万5千人を超えても、頑として政府は、その国境を開けなかった。

しかし4月末から国民の2%しかワクチンを打っていないインドで、これまでのコビッドの数倍感染力の強いデルタ型が猛威を振るい、1日で何千人もの死者が出るニュースが流れ、これまでの鎖国政策を強化しなければならないときになって、「特殊事情」でインドから帰国してきた人を空港から隔離先のホテルに送った、リムジンの運転手からデルタ型が入ってきた。政府が5月2日に、新しいセキュリテイー法を導入して、インドから帰ってきた人に、罰金$6600、5年間の実刑を課したにもかかわらず、だ。緊急事態にこのような強力な法が、定められると、必ず人権団体などが猛反対する。政府が総攻撃にあって腰砕けになったところでデルタ型が入ってきた。

いま私たちは外出禁止、1日1回1人だけ家から10キロ以内なら必要最低限の買い物か、エクササイズに出ることができる。冠婚葬祭禁止。家族に会いに行くことも禁止。戸外でマスク、人との間隔は2m。町ではスーパーマーケット以外どこも店は開いていない。
感染者がでた家やアパートの前にはパトカーが常駐して誰も外出できないように監視。エッセンシャリワーカーは、3日に1度PCRテストをし、その結果を持って出ないと働けない。
最低の状況だが、少しマシなことはこの1年で、人々はレストランやイベント会場などに入る時にQRコードを厳守してきたことから、感染者が出てもいつ、どこで、何時ごろに居たかがわかるのでコンタクトした可能性のある人々を同定できることだ。その人々が、2週間自宅隔離をすれば感染を抑えられる。
とりあえず今できることは、ロックダウンを守り、少しでも多くの人がワクチンを打つことだ。

エッセンシャルワーカーで、エイジケアにフルタイムで勤めてきた、この1年半は地獄だった。今も、これからもそれが続く。
オーストラリアのコビッドでの死者は、2020年1月以来今まで合計しても、100人程度、他の国に比べればわずかだが、そのほとんどがエイジケア施設に居る年寄りだった。当然、エイジケアのナースは何をやっているんだ、とバッシングにあった。バスや電車で「コビッドがうつるから近寄るな。」と言われたり罵倒される被害が多発して、医療関係者を口頭または物理的に攻撃した人は$1000の罰金が科せられる「新法」までできた。
また職場では、いつ、どこでメデイアの人にインタビューを受けても、業務上のことで質問に答えてはならない、という厳重なお達しが出ているので、私も政府や医療業界やシステムに、100も200も言いたいことがあるが、今は言えない。

去年ボリス ジョンソンがコビッドで死にかかったとき、ICUでずっと彼に付き添ったナースはオージーナースだった。ボリスは、こんな非常時に献身的に働いてくれたナースはエンジェルだと褒めたたえて、彼女に感謝しまくっていたが、その後彼女はナースを辞めた。「ナースはやっている仕事を充分尊重されていないし、充分正しく評価されていない。」というのが理由だった。同感だ。この1年の間にストレスから、深刻な病気になった同僚が沢山いる。職場を離れ、辞めて行くナースが後を絶たない。

こんなときに日本はオリンピックをやって、選手たちだけでなく、その何倍もの関係者やマスメデイアが日本に入ってきている。
たくさんの死者が出るだろう。
そしてそれらの死者の死因は、心筋梗塞とか、脳卒中とか、喘息の悪化とか、糖尿病の悪化とか、過労とかの名前をつけて葬られるだろう。

どんなワクチンも、人によっては副作用は出る。しかし血栓ができる可能性は、コビッドに感染するよりずっと少ないし、血栓ができても症状がすでに一般に知られていて対応できるので病院に行けば完治できる。
すれちがっただけで感染するデルタ型で、死んではいけない。デルタ型は、年齢を問わず感染が広がり10代でも死者が出ている。
一刻も早くワクチンを打ってほしい。

2021年7月8日木曜日

ボブ デイランの「フォーエバーヤング」

「フォーエバーヤング」FOREVER YOUNGを歌ってみた。
オリジナルは、ボブデイラン作詞作曲1974年。彼に息子が生まれた時の感動と、父親の子に対する願いを曲にしたもの。ボブデイランはアメリカンジューなので、ヘブライのバイブルから言葉を引用している。
  神の恵みとご加護が君にありますように、君の願いがすべて、かなえられますように、いつも人の力になって、人からも力を貸してもらえますように、星まで届くはしごを築き一段一段登っていけますように、いつまでも生きていられますように、、、
といった詩で、これに感動したロッドスチュワートなど沢山の歌手が、自分のバージョンでこの歌を歌っている。 私が歌っているのは、ドイツのロックグループ、アルファビルのバージョン1984年で、歌詞もメロデイも少し違っている。

映画「MINAMATA」(水俣)は、3年間水俣に住み着いて公害による被害の様相を写真に撮ったカメラマン、ユージンスミスを描いた作品。ユージンを演じたジョニーデップが、映画の中で胎児性水俣病患者の娘を抱きながら、この歌を歌う。調子外れだが子供の幸せを願う親の心が歌われていて、とても印象深かった。この映画は9月公開だそうだが、良い映画だ。見る価値がある。

I am singing [Forever Young]. Ordinally this song was written by Bob Dylan in 1974 and recorded by The Band. Poet is related father's hope that a child will remain strong and happy, after Bob's son was born. The words came from the Hebrew Bible as Bob an American Jew. Many singers are singing their own version and I am singing with German rock band : Alphavill version.
I watched a movie, titled [MINAMATA]. In the movie, one very impressive scene I could not forget that Johnny Depp sang this song, holding a disadvantaged child who is suffered with MInamata disease.


2021年6月27日日曜日

映画「水俣」とユージンスミス

映画「水俣」
原題:「MINAMATA」
監督:アンドリュー レビタス
音楽:坂本龍一
キャスト
ジョニー デップ:ユージン スミス
ビル ナイ   :雑誌ライフ編集長
美波      :アイリーン スミス
真田広之    :患者活動家、ヤマザキ
国村隼     :日本窒素社長         
浅田忠信    :患者家族、ムラマツ 
加瀬亮     :患者、カメラマン

2020年ベルリン国際映画祭で特別招待作として、ワールドプレミアムで上映され好評を得た。今年は、水俣病が公害として公式に確認されてから65年目となる。いまだに患者として認定されていない患者も居り、患者の苦しみが無くなったわけでも、問題が解決したわけでもない。

ストーリーは
ユージン スミスは第2次世界大戦で戦場カメラマンとして活躍し、雑誌ライフで作品が取り上げられ、高く評価されていた。26歳で、サイパン、硫黄島に派遣され、沖縄で日本軍の砲撃にあい重症を負った。このときの後遺症で、激しい頭痛と、固形物を咀嚼できない障害に一生苦しめられ、それがアルコール中毒の遠因となる。

1970年、51歳のユージンは、雑誌ライフ専属のカメラマンとして籍を置いていたが、わがままで酒びたりな為に、編集長の意向に合わず、衝突ばかり繰り返していた。ニューヨーク、マンハッタンに自分の仕事場をもっていたが、ある日そこに、日本の富士フイルムからコマーシャルを撮影する仕事を依頼され、通訳として同行してきたアイリーンと出会う。このときアイリーンは、20歳でカルフォルニアのスタッフォード大学の学生だった。母は日本人で父親はアメリカ人、11歳まで東京で育ったので日本語が流暢だった。初めて会ったばかりなのに、人嫌いで偏屈だったユージンはアイリーンに、これから自分のためにアシスタントになって欲しいと申し出る。そしてアイリーンもそのまま大学を中退し、二人はそのまま同棲する。アイリーンの勧めにより、ユージンは、公害病の水俣病に関心をもち、雑誌ライフの編集長に、会社から水俣に派遣してもらうように交渉するが、断られ、ユージンとアイリーンは自分達の意志で水俣に飛ぶ。

ユージンとアイリーンが水俣で見たものは、水銀中毒による悲惨な患者たちの姿だった。理解ある患者家族の世話で、小屋を借り仕事場ができた。しかしその家族からも、胎児性水俣病のために生まれつき重症の脳性麻痺患者の姿を撮影することを拒否される。人々はアメリカから来た有名なカメラマンがカメラを向けると、顔をそむける。やけになってユージンはアルコールをあおり、自分のカメラを四肢麻痺のあるシゲルにやってしまう。怒ったアイリーンは患者たちからカメラを寄付してもらって、患者たちと日本窒素との団体交渉の様子などをユージンに撮影させる。また患者でカメラマンの活動家の力を借り、窒素病院に潜入して患者の姿や秘密にされていた資料などを撮影する。水俣病患者と日本窒素との争いは、窒素の株主総会に患者団体と窒素の雇った警備員や暴力団とが衝突するなど、日本中に知られるようになった。時に、1972年ストックホルムで国連環境会議に、水俣病患者代表団が送られることになり、雑誌ライフの編集長は、ユージンに写真とストーリーを送れ、と檄を飛ばす。

はじめのころ、日本窒素社長は、ユージンを呼びつけて、50万ドルの札束を渡して母国に帰れ、という。この忠告にユージンが応じないでいると、次に人を使って、ユージンが写真を撮りフイルムをプリントするなどの仕事に使っていた小屋を放火させた。自分が撮影した作品がすべて焼け落ちて、ユージンはまたアルコールを浴びるが、患者たちがこれを機会に、自分たちの大事な肉親が水俣病で苦しんでいる姿を撮影しても良い、という許可を与える。これによってユージンは救われる。しかし、1972年1月、患者交渉団とともに200人の窒素社員の強制排除にあい、カメラを壊された上、脊椎骨折、片目失明の重症を負わされる。ユージンは、負傷による後遺症に悩まされながら患者たちと交流を重ね、ライフにも写真を載せてもらいカメラマンとして再び脚光を浴びる。1974年10月、3年間暮らした水俣を後にして、ユージンはニューヨークで、写真集「MINAMATA」を出版する。

というおはなし。

映画が始まったとたんに、「音」に感動する。坂本龍一の音楽がとても良い。ニューヨークの仕事場でカメラマンとして、乗りに乗って仕事している暗室のユージンに、デイープなロックが腹に響く。しびれる。
胎児性水俣病で体を曲げることも、言葉を発することもできない娘の世話を頼まれて、逃げ出したい気持ちを抑えて、彼女を抱きながらジョニーデップが、「フォーエバーヤング」を調子外れに歌う。生まれてきた子に幸あれ、恵あれ、という歌詞のボブ デイランの歌だ。ジョニーの声に後追いでこの曲が流れる。音楽が映像につながっている。人から人へと生活の中でつながっていく。音の使い方が秀逸だ。

印象的なシーンがいくつかある。アイリーンが、「写真の撮り方を教えて」という。ユージンは急に冷酷な顔になって、「アメリカンインデアンはむかし写真を撮られると魂を抜きとられると信じて写真を撮らせてくれなかった。しかし’魂を取られるのはカメラマンの方なんだぞ。写真をとるということは魂と引き換えに撮る覚悟がないと、撮れないんだぞ。」と言う。
また後になって、患者交渉団に対して日本窒素の警備員や暴力団が患者に襲い掛かって一方的に危害を与える姿に怒り罵言するアイリーンに向かって、ユージンは「黙れ!!!口を閉じろ。怒りをレンズに向けろ。写真を撮れ。」と怒鳴る。これがプロの「ことば」というものだろう。実際、アイリーンはユージンの死後も水俣に関わり、この映画の製作にもかかわっている。これらはユージンの遺言のようなものだろう。


伝説の写真「TOMOKO IN  HER BATH」だ。胎児性水俣病患者の娘を抱いて母親が風呂に入るシーンの音と映像が、神々しいほど美しい。このシーンを見るためだけのために、この映画を見る価値がある。素晴らしい。弱い風呂場の光に照らされて、母が抱く娘、折れ曲がった娘の手足、愛情にみちた母の横顔、信頼とあふれるほどの愛が映し出される。これほど美しいシーンを見たことがない。ユージンが、1枚の写真が1000の言葉以上の力を持つ、と言っていたが、このことだろう。素晴らしい。

映画はユージンを水俣病被害者の側に立った、ヒューマンで立派な男として描いておらず、父娘ほどに年の離れた妻アイリーンには頭が上がらないアルコール中毒で、繊細すぎる心を持った、弱さを抱えた男として描いている。水俣病訴訟も、宇井純先生の公害自主講座も、ユージンが窒素の暴行を受けて大けがをしたことも、当時東京に居て知っていたが、ユージンの人柄については知らなかった。
ジョニー デップは良い仕事をしてくれた。一流の俳優陣、音楽、製作陣、とても良い映画だ。映画配給がメジャーな会社ではないので街の大きな映画館で上映していないことがとても残念だ。

明治末期に農業と製塩業が衰退した九州熊本県で、合成肥料を作る日本窒素が工場を建設したのは、水俣の奥地の鉱山に電力を供給する水力発電所があったためと、水俣の熱心な誘致の結果だった。水銀を触媒にして塩化ビニールを合成する新技術をもった日本窒素は、日本の産業発展のための最先端をいく会社となり、小さな漁村だった水俣は一挙に人口数万人の企業城下町として繁栄した。会社は生産に追われ、水銀は無処理のまま海に捨てられた。

激しい脳神経症状を示す患者が続出したのが1956年5月。原因究明をした熊本大学医学部は、工場排水が原因だと考えたが、そこから取れる魚は多種多様の毒物を含んでいて、何が原因か同定できないでいた。そのころ日本窒素では、すでに原因が水銀であることを知っていたが、会社側も、通産省も、企業秘密にして情報を大学研究班に伝えなかった。会社側は、風土病だろうとしか、熊本大学に伝えていない。

1956年6月に新潟県阿賀野川下流で、昭和電工が工場から出るメチル水銀を垂れ流し、海産物を汚染、それを食べ水銀中毒になった第2の水俣病患者が、多発したことにより、水俣病が大きく取り上げられることになった。患者側の努力によって、1959年になって初めて水俣病の原因がメチル水銀であると認定された。しかし会社側は、わずかな患者に、わずかな見舞金で、ことを収めようとする。

1968年9月にようやく水俣病の原因が、窒素の工場排水によるもので、公害病であることが公式の認められたとき、この病気の発見から12年がたっていた。
それでも水俣病患者たちと、少額の慰謝料でことを済ませようとする加害企業窒素との争いは、果てしなく続く。政府と窒素は患者数を限定、患者を審査する認定委員会の委員を入れ替え、患者数を減らす、患者を「慰謝料目的のニセ患者」と決めつけ、窒素側を擁護する医師だけで患者認定を行う。その後も、熊本大学医学部水銀中毒研究班に対抗して、日本化学工業協会が御用学者の東大グループをつくり、水銀中毒を否定するなどの妨害が何年も続いた。

宇井純(1932-2006)は水俣病発生当時、東大工学部助手だったが、この原因究明と被害者支援に取り組み続けた。彼の地道な水俣病の研究なしに、水俣病の解明はなかった。1979-1986まで、東大で自主講座「公害原論」を主宰。自主講座は、鶴見良行、原田正純、桑原史成、荒畑寒村、石牟礼道子、高橋晄成など様々な分野の人々によって、講座が支えられた。1972年ストックホルム国連人間環境会議に出席、日本の公害状況が、国外に発信され、戦後日本の急激な経済性成長が、どれだけ人々の犠牲を強いたかが世界的に認識された。

当時不知火海岸に住んで、魚を食べていた人口は20万人、そのうち1割、2万人に何らかの水銀中毒の症状が出ていたと考えられる。そのうち患者として認定されたのは、生存者で2000人に満たない。水銀が体に蓄積されれば、心臓も肝臓にも水銀が溜まる。高血圧や糖尿病を併発するが、それは水俣病に関係ないと、患者認定を却下されている。政府も企業も限りなく患者を認定しないように切り捨てる。そのために水俣病による多様な症状が、いまだわかっていない。
また、政府は一度として水俣病全域について、健康診査をしていない。患者一人当たり200-300万円の補償(一律一人260万円の最終解決)、そのうえ国も企業も、一度として患者と患者家族に謝罪していない。
1994年に出た判決では国と県に水俣病の責任はなく、20年以上水俣を離れている患者には、時効により補償請求権が失効した、という。いまだ水俣訴訟は終わっていない。

足尾銅山鉱毒、カネミ油症、イタイイタイ病、PCB汚染、アスベスト、DDT汚染、オレンジガスなどなど、数えきれない公害が、政府と企業によって救済されないまま、患者たちは痛みを抱え、障害を抱えて生きざるを得ない。
また政府と企業が水俣病患者にしてきたことは、そのままそっくり311の東日本大震災の津波、放射能被害に当てはめることができる。一度として政府は、東京電力という企業を守るために、被害全域について健康診査を継続していない。ヒロシマ、ナガサキの被爆者に渡された「原爆手帳」さえ制作もせず、追跡健康調査さえしていない。なにひとつ解決していない。それが今の日本だ。



2021年6月25日金曜日

サイモンとガーファンクルの「ボクサー」

サイモンとガーファンクルの「THE BOXER」を歌ってみた。
  自分のことを話すつもりはないけどさ、俺ただの貧乏人だよ。精一杯できることは、ポケット一杯のつぶやき。みんな嘘か冗談と思うだろ。人は聞きたい事しか聞こうとしないもんさ。だから耳をふさいでいろよ。まだ俺が子供だった頃、家を捨てたのさ。誰もいない汽車の駅や、貧困街でビクビクしながら眠ったよ。仕事が見つけられなくて、声をかけてくれるのは7番街の娼婦だけ。リングに立つボクサーになったけど、戦うことが義務なんだ。打ちのめし、切り裂き、怒りと屈辱で叫び声をあげる。家に帰りたい、故郷に。俺はもう止めるんだ。もう止める。でもまだ戦える。痛みつけられながら。ここに踏みとどまるよ。
ボクシングは過酷なスポーツだ。この歌はボクシングに限らず、たった一人で人生というリングに立って生きることの厳しさと辛さを歌ったもの。人生の応援歌ともいえる。
人生は平坦な道ではない。誰でも一生に一度は「野良犬のような目をして雨に濡れながら」ほっつき歩いたり、ぽっかり空いた胸の傷を抱えながら暗闇でうずくまっていたこともあるだろう。今、自分がどんな立場に立っていても、苦しいところに居る人のために涙を流し,共感できる心を持ちたい。
I am singing [ The Boxer] written by Paul Simon and sung by Simon & Garfunkel. 、、、、 I am just a poor boy, Though my story seldom told, When I left my home and family,,,, Where the New York city winter aren't bleeding me, In the clearing stand a boxer Every glove that laid him down and cut him, till he cried out, in his anger and his shame , I am leaving I am leaving but the fighter still remains、、、
A young boy came to NY alone, and had to fight as a street boxer for small money. He struggled with hunger, cold, loneliness, and sadness, as every one might experienced. Hope always you can emphathise with the people who is hungry, angry, miserable and sad.



2021年6月17日木曜日

「島唄」を慰霊の日に

「島唄」を歌ってみた。
1993年に、宮沢和史によって作詞作曲されて、ロックバンド、THE BOOMによって歌われた。宮沢は 沖縄を旅行した際にひめゆり記念資料館を訪れ、そこでもとひめゆり学徒だった人に直接沖縄戦の体験を聴いたことが、作曲の切っ掛けになったと言っている。

6月23日は慰霊の日。沖縄では学校、官公庁は休日になる。
1945年沖縄ではこの日に日本軍司令官が自決、司令部は玉砕され、沖縄は米軍によって占領された。米軍上陸以来、那覇の日本軍司令部が放棄されたあとも、日本軍は投降せず、住民と共に逃げまどい、住民に投降することも許さなかったために、集団自決など悲惨な死を招き、20万人の死者、沖縄に住民の4人に1人、12万人が亡くなることになった。
日本軍司令部が欧米並みに、国際法への知識と人権意識と常識を持っていれば司令官だけが先に勝手にに自決などせず、米軍に投降し,住民を戦火に巻き込むこともなかった。ただただ日本軍人の無知と天皇への狂信が被害を招いた。
6月23日は本土の人々は、沖縄の方々の無念な思い、怒りをしっかり聞き留めて胸に収めたい。軍事基地は、そこに住む人々を守らない。それを沖縄の人々は知っている。沖縄を再び日本軍の防波堤にしてはならない。沖縄の軍事要塞化を許してはならない。辺野古に基地を作ってはならない。重要土地調査規制法案を通してはならない。

I am singing [SHIMAUTA] written by Miyazawa Kazufumi at 1993 and sang by THE BOOM,: Japanese rock group. The day of 23June is the memorial day in Okinawa. This day on 1945,Okinawa was surrendered and invaded by US Force. Japanese army chief killed himself before US army arrested him, and all Japanese soldiers refused to be surrendered that is why Okinawan people are unable to raise white flag and killed by US soldiers and Japanese soldiers. One in 4 Okinawan people, 12000 was killed, totally 2 hundred thousand people died.
This day we prey for the victims in Okinawa and we have to stop building and expanding army bases in Okinawa.



2021年6月12日土曜日

インターナショナルの歌

「インターナショナルの歌」
6月には、涙の雨が降る。この歌は唯一、歌詞を見ないでも、お終いまで歌える歌だ。私と同世代の人たちにとっては、みな同じようなものかもしれない。
1989年6月4日、37年前の北京天安門広場では、中国の民主改革を求める10万人の知識人、学生、市民が集まっていた。政府は戒厳令を発動し、戦車や重装備で武装した兵士が人々を襲って、1万人の死者が出た。この時、オーストラリアのボブホーク首相は、文字通り大粒の涙をぼたぼた落としながら、戦車が学生たちを踏み殺している、許せない、と中国政府に抗議する声明を発表し、当時滞在の中国人留学生4万2千人余りにオーストラリア滞在ビザを出し、香港から秘密裏に弾圧を逃れてきた活動家たち多数を市民として迎い入れた。しかし未だに中国政府の香港やウイグルに対する弾圧は変わっていない。
1960年6月15日、当時東大生だった樺美智子さんが日米安保条約反対デモで、全学連が衆議院南通用門から国会に突入した際、機動隊の規制にあって殺された。安保条約は今に至っても存続している。
1945年6月23日沖縄慰霊の日。沖縄では日本軍司令部が崩壊、日米戦により20万人の死者、沖縄の市民4人に一人が亡くなった。沖縄では慰霊のために学校も役所も休日となる。沖縄に家族で住んでいた時、この日は慰霊祭に参加したり、市役所主催のバスに乗って現地の方々の話に耳を傾けた。
インターの歌の作詞は、ウジーヌ ポテイエ(1816-1887)彼はフランス革命後、1871年パリコミューンの活動家だった。独仏戦争で敗れパリを占領するプロイセンに立ち向かったコミューンが崩壊した後、死刑宣告を受け英国に亡命し、この詩を書いた。のちに曲をつけたのが1888年ピエール ドシェテルだった。
1917年10月、ソビエトが革命を成功させたとき、ボルシェビキのウラジミル レーニンがこの歌をロシアの国歌として採用した。
日本では1922年「種を蒔く人」の佐々木孝丸が訳詞して歌われるようになった。


 


2021年6月3日木曜日

ボブデイラン「ハードレイン ゴナフォール」

ボブデイランの「ハードレイン ゴナフォール」を歌ってみた。

  俺の青い目の息子どうしてたかい、かわいい俺の息子、俺は霧の山をふらついて、曲がりくね  ったハイウェイを這いずって、森に迷い込み、死んだ海に来て、墓の入り口にたどり着いたのさ
  俺は狼に囲まれた赤ん坊を見て、煌めくハイウェイには誰も居なくて、木々は血に染まって、男たちの手斧は血にまみれ、みんなしゃべっているけど言葉にならず、子供たちが銃と刀を握っていたよ
  俺は雨が降る前に、また行くよ、真黒な森の一番奥まで行ってみるよ、そこは沢山の人が、何も持っていないところ、そこはネズミ殺しが浮かんでいるところ、汚い監獄のある谷の家に、死刑執行人はいつも顔を隠し、飢えが醜い、魂が失われた場所に、色と言えば黒、数と言えばゼロのところ、そこで俺は語り、考え、話し、それを吸い込む、山から見れば魂は、観ることができる、俺は海に沈んでしまうまで海に立つ、しかし俺は唄い始める前に歌を失ってしまう。

「Hard Rain A-Gonna Fall」、邦題「激しい雨が降る」1962年のこの作品が作られた頃、キューバ危機の最中だったので、デイランは、ソビエトからミサイルが飛んできて、この先自分の人生も長くなさそうだと思って書いた、と言っている。葬送の歌ともいえる。
2016年10月にノーベル文学賞を賞与されたとき、式に本人は出席しなかったがボブの親しい友人、パテイ スミスが、この曲をオーケストラをバックに歌った。

彼はおとぎ話や伝承文学、聖書、中世の吟遊詩人の言葉や、ジャックロンドン、アーネストヘミングウェイなどの文学の中から、沢山の言葉をひっぱってきて、独特の詩を書き、それの声を載せて歌った。内省的で作家性が強く、強烈なメッセージが込められている。79歳、今もツアーを組んで現役で歌っている。それが嬉しい。超人の部類に属する。
I am singing [ A Hard Rain A-Gonna Fall ] written by Bob Dylan. When he was given Novel Prize in 2016 ,Bob did not attend on the ceremony however his one of best friend Pady Smith sang this. It is funeral, sad song.



2021年5月30日日曜日

ジョンデンバーの「アニーズソング」

ジョンデンバーの「アニーズソング」を歌ってみた。
ジョンデンバーと言えば、「カントリーロード」が超ポピュラーだ。ジブリアニメのテーマソングにも使われた。アニーは彼の妻の名前で、これはラブソング。

彼はドイツ系米国人で、本名はヘンリージョン デユチェドルフジュニア(1943-1997)という。空軍のパイロットの父を持ち、軍人のしつけの厳しい家庭が嫌で高校をドロップアウトして、友達とバンドツアーをしていたら、父にジェット機で探し出し、連れ戻されたエピソードを持つ。
近視が原因で、プロのパイロットという父と息子の夢を絶たれたが、飛行機への執着を否定できず、小型飛行機を収集し自ら操縦を楽しんだ。53歳でプロペラ機操縦中、海上に墜落死した。破損が大きく遺体はDNAで確認されたという。
同時代ジョーンバエズらがギターを持ち、「勝利を我らに」と歌いながらデモの先頭に立った頃、彼は目立った政治的な関りを持たず、メッセージ性のある曲を作りもしなかったが、明朗快活で、歌いやすい彼の曲に親しみを感じる。
I am singing [ Annie's Song ] written by John Denver. He loved airplane which influenced by his father who was a Air force pilot. His dream was becoming a professional pilot however he got short eye sight and was unable to be professional. But he loved to operate his own small airplane. On 1997 he passed away by air plane accident crushed into the ocean. He wrote lots of easy listening songs include Country Road, which is very popular.



2021年5月27日木曜日

サイモンとガーファンクルの「明日にかける橋」 Bridge over troubled water

サイモンとガーファンクルの「明日に架ける橋」を歌ってみた。
    
「君が生きるのに疲れ、みじめで泣きたいとき、そばに居てあげるよ。激流をこえる橋のように僕が君の懸け橋になる。銀の少女、船を出せ。君の夢に向かって前に進め。友達が欲しければ僕がいる。後ろから見ていて、いつでも懸け橋になってあげるから。」
作曲者、ポールサイモンは、自分が育ったNYユダヤ街で通った教会で聴いたゴスペルに、インスパイヤされてこの曲を作ったと言っている。

曲は、当時ベトナム戦争(1955-1975)で疲弊していた人々の心に響いた。この曲を最後にサイモンとガーファンクルはデユオを解消するが、一方で、曲の人気は続き、1970年当時アパルトヘイトのあった南アフリカでは、教会で賛美歌として歌われた。1992年に人種登録法が廃止されたあと、サイモンはこの国に招待され、人々と交歓した。美しい旋律。スカボロフェアと、サウンドオブサイレンスを歌ったあとなので、前に投稿したことがあるが、サイモンの作った曲の中で、一番好きなので歌ってみた。
I am singing [ Bridge over troubled water ] written by Paul Simon and recorded by Simon & Garfunkel on 1970. Paul was inspired by Gospel , The Swan Silvertons(1958 ), and wrote this music. This song won an unprecedented 5 Grammy Award and loved by young Americans who were forced to serve Vietnam War. It touches hearts of people who lost hope with war and tragedy.



2021年5月22日土曜日

さくらみち

作詞作曲、秋吉壽和「さくらみち」を歌ってみた。
ときどき、これを作曲された方に来てもらって、ギターを習っている。難しいコードや自己流のまちがいを直してもらったり。

ギターを始めたのは、何と60年近く前、テイーンのとき。小さい時からヴァイオリンを教わっていたが、小野アンナ先生の直弟子のレッスンは、1音の誤りも許されない息詰まる緊張と、重圧感から自分を解き放ちたくて、ヴァイオリンレッスンの帰りに、自分の小使いでギター教室に通った。彫りの深い、ジェラルフイリップ(1922-1959)そっくりの美しい顔をした先生が、その長い細い指でスパニッシュギターを弾く姿に心を奪われた。お小使いが続かなくてあまり続けられなかったけれど。

それから50年経ってマゴが生まれ、半分ガイジンのマゴたちに日本の童謡を歌ってやりたくて、成瀬龍三郎、シドニーでロックバンドのメンバーだった方のところに通い始めた。彼には童謡を含めて200曲くらい教わった。2年余り教わって、ビートルズもステイービーワンダーも歌えるようになって嬉しかったが、残念なことに帰国された。
現在の先生は、マーケテイングビジネスをしながらハワイアンバンドで活躍されている。
この曲は、雪降る道を歩きながら桜が咲くころに結婚して故郷を離れていく娘を歌っている。
I am singing [SAKURAMICHI] written by Hisakazu Akiyoshi, who is my current guitar teacher. I started to learn guitar when I was teens, nearly 60 years ago. As a little violinist, I needed to be released tension from strict and hard violin lesson and visited guitar teacher who was look like French movie star Gerald Philip, beautiful guy and I had wonderful lesson. Then 50 years passed, I got a guitar teacher ,Ryuzaburo Naruse who was a Australian rock band member. He taught about 200 music but sadly he went back to Japan, however luckily I got new teacher. This music was written about a girl who is leaving her home for marriage, sentimental song.



2021年5月18日火曜日

映画「スーパーノバ」とオーストラリアの安楽死法

映画「スーパーノバ」( SUPERNOVA )

監督:ハリー マックイーン
キャスト
コリン ファース:サム
スタンレー ツチ:タスカー

スーパーノヴァの NOVAとは、新星のことで、それにスーパーが付くから「超新星」。星がその核の原子力を失うと、爆発して粉々になって滅ぶがそのときの光は太陽よりも明るい光となって消えていく。その大爆発を超新星爆発という。銀河系の中で起きる超新星爆発による衝撃波は、星どうしの密度に揺らぎを生み出し、新たな星の誕生を促すのだそうだ。私たちが何気なく夜空を見ていて、強く光を発する星があるかもしれない。その時私たちは何千億光年という遠い昔に激しく瞬いて、光と共に消えて行った星の残骸を見ているのかもしれない。残骸は周囲のガスに衝突して断熱圧縮されて高温を維持する。そして高温を維持できなくなるまで数万年輝き続ける。ふたご座にも、おうし座にも白鳥座にもその残骸がある。爆発の時、光となり、粉々になった星の粉は、地球に落ちてきて、私たちの体の一部になる。

そんなことを、夜空をみながらタスカーが、サムに繰り返し語って教えている。
タスカーは2年前に若年性認知症と診断されて、いまは、思考する自由も、体の自由も失いつつある。名のある作家として活躍してきたが、20年来の人生のパートナーであるサムに面倒をかけている。
2人は休暇を取って、キャンピングカーで昔の友人や、タスカーが生まれ育った田舎を旅行することになった。サムは、いまはタスカーと会話を楽しんでいるが、もう自分で服を着ることもできなくなったタスカーが、じきに普通に日常生活を送ることもできなくなり、サムのことを認識できなくなる日も近いことを予感している。サムはタスカーが自分のことを忘れてしまっても、そばにいて支え、排尿便出来なくなっても世話して、自分の腕の中で死なせてやりたいと心に決めている。

二人はタスカーが生まれて育った田舎で親戚や兄弟たちと、なごやかに過ごした後、湖に面した、静かな山荘に数日間過ごす。しかし、サムは偶然、タスカーが毎日几帳面につけている鍵つき日記帳を、開けて中を見てしまう。そこにはもう活字がかけなくなっているタスカーの殴り書きと、自殺用の薬が入っていた。タスカーには、まだ自分の意志で自ら死を選ぶ判断力も行動力もある。しかし進行性の病ゆえ、明日それが実行できるかどうかわからない。じきにタスカーがその薬が何なのかわからなくなったら、自分の意思を達成することもできなくなる。サムとの激論の末、タスカーは言い争いに疲れて眠ってしまう。目が覚めた時、机の上には彼の鍵つき日記帳が置かれていた。もう心配することも、思い残すこともない。トスカーはしっかりとサムに抱かれて旅立つ。
というストーリー。

美しい映画だ。イングランドの自然がいっぱいの田舎、深い森、静かな湖、落ち葉の絨毯。冷たい清涼な風。「明日」がない二人の愛情が画面をみながらしっかり伝わってきて、せつない。コリン ファースも、スタンレー ツチも素晴らしい名優だ。年を取って、二人ともどんどん魅力的な役者になってきた。

テーマは認知症と尊厳安楽死。星もいつかは爆発して滅亡する。星の爆発で地球に降りかかってきた粉をまとった人間もいつか死ぬ。尊厳死を望む人間が認知症に陥った時に、どう死ぬべきか。


オーストラリアでは北部準州(州都ダーウィン)で1995年に安楽死法が議会を通過したが、オーストラリア連邦政府によって決議が覆され、法案は廃案になった。その後、ビクトリア州(州都メルボルン)で、2017年に「VOLUNTARY ASSISTED DYING法」(医療的自殺ほう助法)が立法化され、2019年から施行されている。施行後6か月で52人の末期患者が安楽死で亡くなった。そのうち42人が医師の処方の薬で、9人が医師の静脈注射で亡くなった。
安楽死の条件は、成人で、ビクトリア州に1年以上居住し、余命半年以下であると2人以上の医師に診断され、生存よる苦痛が耐えがたいと認められた場合に限っている。

ビクトリア州に続いて、タスマニア州と、南オーストラリア州(州都アデレート)でも同様の安楽死法がすでに議会で決議され、来年からの施行を待っている。安楽死は、EUでは、スイス、オランダ、ベルギーなどで同じような条件つきで認められている。しかし、オーストラリアの法は、医師が患者に直接静脈注射で致死量のモルヒネを投与できるという意味では、EUの国々の法よりも積極的に患者の要望に応える内容になっている。

これに対して、バチカンでは神に対する冒涜だと、おきまりの批判をしている。しかし、人間は自分の人生に自己決定権をもち、本人の尊厳を守るために苦痛より安楽死を望むのは自然の流れだ。私は医療現場にいて、パラテイブケア(終末医療)に関わっているが、処方箋に従って、たくさんの末期患者にモルヒネを投与してきた。
命は時として科学では説明できない。治療効果がなく、飲めない食べられない状態になって輸液もせず、全身皮膚がんに侵された90歳の患者が激痛に苦しみぬきながらも死ねず、1か月以上も生存しなければならなかった例を見てきた。

オーストラリアは6州1準州と特別区に分かれているが、6州のの半分の3州ですでに安楽死法が議会を通過した。今後、安楽死法は各州で論議され、法整備されるだろう。
ニュー-サウスウェルス州(州都シドニー)では安楽死が認められていないが、ADVACE CARE PLAN という書類があり、ここに自分が重病になって回復の見込みがないときや、認知症や脳障害で自分の意思を伝えられないときに、どうして欲しいか、どう死にたいか、を書き残すことができる。自分は遺言状を弁護士に作ってもらった時に、これも作った。
また、オーストラリアでは運転免許証に、事故などで急死したとき自分の体のどの部位を臓器移植のために提供するかが明記してある。残された家族の気持ちより、本人の意志を優先する合理に全面賛成だ。

人は長く生きるようになりすぎた。人はどう生きるのか、そしてどう死んでいきたいか、もっとオープンに語られなければならない。その意味で、アンソニーホプキンスの「ファーザー」もそうだが、こうした映画がさかんに作られている。


2021年5月16日日曜日

シーカーズの「カーニバル イズ オーバー」

この間FBで歌った曲が50曲達成!と自画自賛してみたが、この曲で60曲目になった。

きょうはオーストラリアのシーカーズというポップカルテットが歌った「カーニバル イズオーバー」(涙のカーニバル)を歌ってみた。トム スプリングフィールド作詞。
この曲、どこかで前に聴いたことがあると、ずっと思っていたら、なんだ!「ステンカラージン」ではないか!オリジナル曲はロシア民謡だった。
バラライカを伴奏によく訓練された、バリトン歌手がゆっくりしたテンポで、朗々と歌う素晴らしく堂々とした歌だ。ステンカラージン(1630-1671)は、ロシアロマノフ王朝に、厳しい徴税と度重なる徴兵で疲れ切った農民や下層民を組織して武装蜂起し、ボルガ河からカスピ海まで進出して強盗、強奪を繰り返し、ツァーリズムと戦った民衆の英雄だ。ロシアの王侯貴族を追放しコサック王国を建設する予定だったが、捕らえられて刑死した。

しかし、オリジナルの詩は、ペルシャから綺麗なお姫様を強奪してきて、ねんごろになったがステンカラージンは男だ!部下どもに、女にうつつを抜かして、となめられないようにボルガの急流にお姫様を投げ込んでやったぜいー!というようなとんでもない詩だ。人権擁護者が聞いたら卒倒するような詩。今でもこの詩でロシアで歌われているんだろうか。

子供時代に、この「ステンカラージン」や、「ボルガの舟歌」をどでかい蓄音機で聴いて育ったのは、戦後の国民総貧困、総栄養失調の時代に「資本論」や「共産党宣言」を翻訳した大叔父や叔父たちの影響もあっただろうが、単に父が薄給の大学教授だったからだ。意味も知らず、ステンカラージンステンカラージンと言いながら、縄跳びをしていた幼児期の記憶がある。
うちにはテレビが長いことなかった。おかげで小学校で友達の話題に全然ついていけなかった。人形も、みんな友達が持っているような人形でなく、東ドイツ製の粗末な藁人形だった。
しかし今になってみると、家族そろって蓄音機をわきに、「ツイゴイネルワイゼン」や、「ホフマンの舟歌」などのレコードに耳を傾けたことは、かえって幸運だったのかもしれない。
I am singing [ Carnival is over] by The Seekers: Australian pop quartet( 1962-2014). Ordinal song is Russian Folk song, titled [ Stenka Razin]. Stenka was a leader of Cossack rebel (1630-1671). He fought toward Russian Kingdom in 17C and killed by government.
I was familiar with this song since I was very little. My father put this record on old phonograph frequently and well trained opera singer used to sing with gorgeous baritone.