2021年6月27日日曜日

映画「水俣」とユージンスミス

映画「水俣」
原題:「MINAMATA」
監督:アンドリュー レビタス
音楽:坂本龍一
キャスト
ジョニー デップ:ユージン スミス
ビル ナイ   :雑誌ライフ編集長
美波      :アイリーン スミス
真田広之    :患者活動家、ヤマザキ
国村隼     :日本窒素社長         
浅田忠信    :患者家族、ムラマツ 
加瀬亮     :患者、カメラマン

2020年ベルリン国際映画祭で特別招待作として、ワールドプレミアムで上映され好評を得た。今年は、水俣病が公害として公式に確認されてから65年目となる。いまだに患者として認定されていない患者も居り、患者の苦しみが無くなったわけでも、問題が解決したわけでもない。

ストーリーは
ユージン スミスは第2次世界大戦で戦場カメラマンとして活躍し、雑誌ライフで作品が取り上げられ、高く評価されていた。26歳で、サイパン、硫黄島に派遣され、沖縄で日本軍の砲撃にあい重症を負った。このときの後遺症で、激しい頭痛と、固形物を咀嚼できない障害に一生苦しめられ、それがアルコール中毒の遠因となる。

1970年、51歳のユージンは、雑誌ライフ専属のカメラマンとして籍を置いていたが、わがままで酒びたりな為に、編集長の意向に合わず、衝突ばかり繰り返していた。ニューヨーク、マンハッタンに自分の仕事場をもっていたが、ある日そこに、日本の富士フイルムからコマーシャルを撮影する仕事を依頼され、通訳として同行してきたアイリーンと出会う。このときアイリーンは、20歳でカルフォルニアのスタッフォード大学の学生だった。母は日本人で父親はアメリカ人、11歳まで東京で育ったので日本語が流暢だった。初めて会ったばかりなのに、人嫌いで偏屈だったユージンはアイリーンに、これから自分のためにアシスタントになって欲しいと申し出る。そしてアイリーンもそのまま大学を中退し、二人はそのまま同棲する。アイリーンの勧めにより、ユージンは、公害病の水俣病に関心をもち、雑誌ライフの編集長に、会社から水俣に派遣してもらうように交渉するが、断られ、ユージンとアイリーンは自分達の意志で水俣に飛ぶ。

ユージンとアイリーンが水俣で見たものは、水銀中毒による悲惨な患者たちの姿だった。理解ある患者家族の世話で、小屋を借り仕事場ができた。しかしその家族からも、胎児性水俣病のために生まれつき重症の脳性麻痺患者の姿を撮影することを拒否される。人々はアメリカから来た有名なカメラマンがカメラを向けると、顔をそむける。やけになってユージンはアルコールをあおり、自分のカメラを四肢麻痺のあるシゲルにやってしまう。怒ったアイリーンは患者たちからカメラを寄付してもらって、患者たちと日本窒素との団体交渉の様子などをユージンに撮影させる。また患者でカメラマンの活動家の力を借り、窒素病院に潜入して患者の姿や秘密にされていた資料などを撮影する。水俣病患者と日本窒素との争いは、窒素の株主総会に患者団体と窒素の雇った警備員や暴力団とが衝突するなど、日本中に知られるようになった。時に、1972年ストックホルムで国連環境会議に、水俣病患者代表団が送られることになり、雑誌ライフの編集長は、ユージンに写真とストーリーを送れ、と檄を飛ばす。

はじめのころ、日本窒素社長は、ユージンを呼びつけて、50万ドルの札束を渡して母国に帰れ、という。この忠告にユージンが応じないでいると、次に人を使って、ユージンが写真を撮りフイルムをプリントするなどの仕事に使っていた小屋を放火させた。自分が撮影した作品がすべて焼け落ちて、ユージンはまたアルコールを浴びるが、患者たちがこれを機会に、自分たちの大事な肉親が水俣病で苦しんでいる姿を撮影しても良い、という許可を与える。これによってユージンは救われる。しかし、1972年1月、患者交渉団とともに200人の窒素社員の強制排除にあい、カメラを壊された上、脊椎骨折、片目失明の重症を負わされる。ユージンは、負傷による後遺症に悩まされながら患者たちと交流を重ね、ライフにも写真を載せてもらいカメラマンとして再び脚光を浴びる。1974年10月、3年間暮らした水俣を後にして、ユージンはニューヨークで、写真集「MINAMATA」を出版する。

というおはなし。

映画が始まったとたんに、「音」に感動する。坂本龍一の音楽がとても良い。ニューヨークの仕事場でカメラマンとして、乗りに乗って仕事している暗室のユージンに、デイープなロックが腹に響く。しびれる。
胎児性水俣病で体を曲げることも、言葉を発することもできない娘の世話を頼まれて、逃げ出したい気持ちを抑えて、彼女を抱きながらジョニーデップが、「フォーエバーヤング」を調子外れに歌う。生まれてきた子に幸あれ、恵あれ、という歌詞のボブ デイランの歌だ。ジョニーの声に後追いでこの曲が流れる。音楽が映像につながっている。人から人へと生活の中でつながっていく。音の使い方が秀逸だ。

印象的なシーンがいくつかある。アイリーンが、「写真の撮り方を教えて」という。ユージンは急に冷酷な顔になって、「アメリカンインデアンはむかし写真を撮られると魂を抜きとられると信じて写真を撮らせてくれなかった。しかし’魂を取られるのはカメラマンの方なんだぞ。写真をとるということは魂と引き換えに撮る覚悟がないと、撮れないんだぞ。」と言う。
また後になって、患者交渉団に対して日本窒素の警備員や暴力団が患者に襲い掛かって一方的に危害を与える姿に怒り罵言するアイリーンに向かって、ユージンは「黙れ!!!口を閉じろ。怒りをレンズに向けろ。写真を撮れ。」と怒鳴る。これがプロの「ことば」というものだろう。実際、アイリーンはユージンの死後も水俣に関わり、この映画の製作にもかかわっている。これらはユージンの遺言のようなものだろう。


伝説の写真「TOMOKO IN  HER BATH」だ。胎児性水俣病患者の娘を抱いて母親が風呂に入るシーンの音と映像が、神々しいほど美しい。このシーンを見るためだけのために、この映画を見る価値がある。素晴らしい。弱い風呂場の光に照らされて、母が抱く娘、折れ曲がった娘の手足、愛情にみちた母の横顔、信頼とあふれるほどの愛が映し出される。これほど美しいシーンを見たことがない。ユージンが、1枚の写真が1000の言葉以上の力を持つ、と言っていたが、このことだろう。素晴らしい。

映画はユージンを水俣病被害者の側に立った、ヒューマンで立派な男として描いておらず、父娘ほどに年の離れた妻アイリーンには頭が上がらないアルコール中毒で、繊細すぎる心を持った、弱さを抱えた男として描いている。水俣病訴訟も、宇井純先生の公害自主講座も、ユージンが窒素の暴行を受けて大けがをしたことも、当時東京に居て知っていたが、ユージンの人柄については知らなかった。
ジョニー デップは良い仕事をしてくれた。一流の俳優陣、音楽、製作陣、とても良い映画だ。映画配給がメジャーな会社ではないので街の大きな映画館で上映していないことがとても残念だ。

明治末期に農業と製塩業が衰退した九州熊本県で、合成肥料を作る日本窒素が工場を建設したのは、水俣の奥地の鉱山に電力を供給する水力発電所があったためと、水俣の熱心な誘致の結果だった。水銀を触媒にして塩化ビニールを合成する新技術をもった日本窒素は、日本の産業発展のための最先端をいく会社となり、小さな漁村だった水俣は一挙に人口数万人の企業城下町として繁栄した。会社は生産に追われ、水銀は無処理のまま海に捨てられた。

激しい脳神経症状を示す患者が続出したのが1956年5月。原因究明をした熊本大学医学部は、工場排水が原因だと考えたが、そこから取れる魚は多種多様の毒物を含んでいて、何が原因か同定できないでいた。そのころ日本窒素では、すでに原因が水銀であることを知っていたが、会社側も、通産省も、企業秘密にして情報を大学研究班に伝えなかった。会社側は、風土病だろうとしか、熊本大学に伝えていない。

1956年6月に新潟県阿賀野川下流で、昭和電工が工場から出るメチル水銀を垂れ流し、海産物を汚染、それを食べ水銀中毒になった第2の水俣病患者が、多発したことにより、水俣病が大きく取り上げられることになった。患者側の努力によって、1959年になって初めて水俣病の原因がメチル水銀であると認定された。しかし会社側は、わずかな患者に、わずかな見舞金で、ことを収めようとする。

1968年9月にようやく水俣病の原因が、窒素の工場排水によるもので、公害病であることが公式の認められたとき、この病気の発見から12年がたっていた。
それでも水俣病患者たちと、少額の慰謝料でことを済ませようとする加害企業窒素との争いは、果てしなく続く。政府と窒素は患者数を限定、患者を審査する認定委員会の委員を入れ替え、患者数を減らす、患者を「慰謝料目的のニセ患者」と決めつけ、窒素側を擁護する医師だけで患者認定を行う。その後も、熊本大学医学部水銀中毒研究班に対抗して、日本化学工業協会が御用学者の東大グループをつくり、水銀中毒を否定するなどの妨害が何年も続いた。

宇井純(1932-2006)は水俣病発生当時、東大工学部助手だったが、この原因究明と被害者支援に取り組み続けた。彼の地道な水俣病の研究なしに、水俣病の解明はなかった。1979-1986まで、東大で自主講座「公害原論」を主宰。自主講座は、鶴見良行、原田正純、桑原史成、荒畑寒村、石牟礼道子、高橋晄成など様々な分野の人々によって、講座が支えられた。1972年ストックホルム国連人間環境会議に出席、日本の公害状況が、国外に発信され、戦後日本の急激な経済性成長が、どれだけ人々の犠牲を強いたかが世界的に認識された。

当時不知火海岸に住んで、魚を食べていた人口は20万人、そのうち1割、2万人に何らかの水銀中毒の症状が出ていたと考えられる。そのうち患者として認定されたのは、生存者で2000人に満たない。水銀が体に蓄積されれば、心臓も肝臓にも水銀が溜まる。高血圧や糖尿病を併発するが、それは水俣病に関係ないと、患者認定を却下されている。政府も企業も限りなく患者を認定しないように切り捨てる。そのために水俣病による多様な症状が、いまだわかっていない。
また、政府は一度として水俣病全域について、健康診査をしていない。患者一人当たり200-300万円の補償(一律一人260万円の最終解決)、そのうえ国も企業も、一度として患者と患者家族に謝罪していない。
1994年に出た判決では国と県に水俣病の責任はなく、20年以上水俣を離れている患者には、時効により補償請求権が失効した、という。いまだ水俣訴訟は終わっていない。

足尾銅山鉱毒、カネミ油症、イタイイタイ病、PCB汚染、アスベスト、DDT汚染、オレンジガスなどなど、数えきれない公害が、政府と企業によって救済されないまま、患者たちは痛みを抱え、障害を抱えて生きざるを得ない。
また政府と企業が水俣病患者にしてきたことは、そのままそっくり311の東日本大震災の津波、放射能被害に当てはめることができる。一度として政府は、東京電力という企業を守るために、被害全域について健康診査を継続していない。ヒロシマ、ナガサキの被爆者に渡された「原爆手帳」さえ制作もせず、追跡健康調査さえしていない。なにひとつ解決していない。それが今の日本だ。



2021年6月25日金曜日

サイモンとガーファンクルの「ボクサー」

サイモンとガーファンクルの「THE BOXER」を歌ってみた。
  自分のことを話すつもりはないけどさ、俺ただの貧乏人だよ。精一杯できることは、ポケット一杯のつぶやき。みんな嘘か冗談と思うだろ。人は聞きたい事しか聞こうとしないもんさ。だから耳をふさいでいろよ。まだ俺が子供だった頃、家を捨てたのさ。誰もいない汽車の駅や、貧困街でビクビクしながら眠ったよ。仕事が見つけられなくて、声をかけてくれるのは7番街の娼婦だけ。リングに立つボクサーになったけど、戦うことが義務なんだ。打ちのめし、切り裂き、怒りと屈辱で叫び声をあげる。家に帰りたい、故郷に。俺はもう止めるんだ。もう止める。でもまだ戦える。痛みつけられながら。ここに踏みとどまるよ。
ボクシングは過酷なスポーツだ。この歌はボクシングに限らず、たった一人で人生というリングに立って生きることの厳しさと辛さを歌ったもの。人生の応援歌ともいえる。
人生は平坦な道ではない。誰でも一生に一度は「野良犬のような目をして雨に濡れながら」ほっつき歩いたり、ぽっかり空いた胸の傷を抱えながら暗闇でうずくまっていたこともあるだろう。今、自分がどんな立場に立っていても、苦しいところに居る人のために涙を流し,共感できる心を持ちたい。
I am singing [ The Boxer] written by Paul Simon and sung by Simon & Garfunkel. 、、、、 I am just a poor boy, Though my story seldom told, When I left my home and family,,,, Where the New York city winter aren't bleeding me, In the clearing stand a boxer Every glove that laid him down and cut him, till he cried out, in his anger and his shame , I am leaving I am leaving but the fighter still remains、、、
A young boy came to NY alone, and had to fight as a street boxer for small money. He struggled with hunger, cold, loneliness, and sadness, as every one might experienced. Hope always you can emphathise with the people who is hungry, angry, miserable and sad.



2021年6月17日木曜日

「島唄」を慰霊の日に

「島唄」を歌ってみた。
1993年に、宮沢和史によって作詞作曲されて、ロックバンド、THE BOOMによって歌われた。宮沢は 沖縄を旅行した際にひめゆり記念資料館を訪れ、そこでもとひめゆり学徒だった人に直接沖縄戦の体験を聴いたことが、作曲の切っ掛けになったと言っている。

6月23日は慰霊の日。沖縄では学校、官公庁は休日になる。
1945年沖縄ではこの日に日本軍司令官が自決、司令部は玉砕され、沖縄は米軍によって占領された。米軍上陸以来、那覇の日本軍司令部が放棄されたあとも、日本軍は投降せず、住民と共に逃げまどい、住民に投降することも許さなかったために、集団自決など悲惨な死を招き、20万人の死者、沖縄に住民の4人に1人、12万人が亡くなることになった。
日本軍司令部が欧米並みに、国際法への知識と人権意識と常識を持っていれば司令官だけが先に勝手にに自決などせず、米軍に投降し,住民を戦火に巻き込むこともなかった。ただただ日本軍人の無知と天皇への狂信が被害を招いた。
6月23日は本土の人々は、沖縄の方々の無念な思い、怒りをしっかり聞き留めて胸に収めたい。軍事基地は、そこに住む人々を守らない。それを沖縄の人々は知っている。沖縄を再び日本軍の防波堤にしてはならない。沖縄の軍事要塞化を許してはならない。辺野古に基地を作ってはならない。重要土地調査規制法案を通してはならない。

I am singing [SHIMAUTA] written by Miyazawa Kazufumi at 1993 and sang by THE BOOM,: Japanese rock group. The day of 23June is the memorial day in Okinawa. This day on 1945,Okinawa was surrendered and invaded by US Force. Japanese army chief killed himself before US army arrested him, and all Japanese soldiers refused to be surrendered that is why Okinawan people are unable to raise white flag and killed by US soldiers and Japanese soldiers. One in 4 Okinawan people, 12000 was killed, totally 2 hundred thousand people died.
This day we prey for the victims in Okinawa and we have to stop building and expanding army bases in Okinawa.



2021年6月12日土曜日

インターナショナルの歌

「インターナショナルの歌」
6月には、涙の雨が降る。この歌は唯一、歌詞を見ないでも、お終いまで歌える歌だ。私と同世代の人たちにとっては、みな同じようなものかもしれない。
1989年6月4日、37年前の北京天安門広場では、中国の民主改革を求める10万人の知識人、学生、市民が集まっていた。政府は戒厳令を発動し、戦車や重装備で武装した兵士が人々を襲って、1万人の死者が出た。この時、オーストラリアのボブホーク首相は、文字通り大粒の涙をぼたぼた落としながら、戦車が学生たちを踏み殺している、許せない、と中国政府に抗議する声明を発表し、当時滞在の中国人留学生4万2千人余りにオーストラリア滞在ビザを出し、香港から秘密裏に弾圧を逃れてきた活動家たち多数を市民として迎い入れた。しかし未だに中国政府の香港やウイグルに対する弾圧は変わっていない。
1960年6月15日、当時東大生だった樺美智子さんが日米安保条約反対デモで、全学連が衆議院南通用門から国会に突入した際、機動隊の規制にあって殺された。安保条約は今に至っても存続している。
1945年6月23日沖縄慰霊の日。沖縄では日本軍司令部が崩壊、日米戦により20万人の死者、沖縄の市民4人に一人が亡くなった。沖縄では慰霊のために学校も役所も休日となる。沖縄に家族で住んでいた時、この日は慰霊祭に参加したり、市役所主催のバスに乗って現地の方々の話に耳を傾けた。
インターの歌の作詞は、ウジーヌ ポテイエ(1816-1887)彼はフランス革命後、1871年パリコミューンの活動家だった。独仏戦争で敗れパリを占領するプロイセンに立ち向かったコミューンが崩壊した後、死刑宣告を受け英国に亡命し、この詩を書いた。のちに曲をつけたのが1888年ピエール ドシェテルだった。
1917年10月、ソビエトが革命を成功させたとき、ボルシェビキのウラジミル レーニンがこの歌をロシアの国歌として採用した。
日本では1922年「種を蒔く人」の佐々木孝丸が訳詞して歌われるようになった。


 


2021年6月3日木曜日

ボブデイラン「ハードレイン ゴナフォール」

ボブデイランの「ハードレイン ゴナフォール」を歌ってみた。

  俺の青い目の息子どうしてたかい、かわいい俺の息子、俺は霧の山をふらついて、曲がりくね  ったハイウェイを這いずって、森に迷い込み、死んだ海に来て、墓の入り口にたどり着いたのさ
  俺は狼に囲まれた赤ん坊を見て、煌めくハイウェイには誰も居なくて、木々は血に染まって、男たちの手斧は血にまみれ、みんなしゃべっているけど言葉にならず、子供たちが銃と刀を握っていたよ
  俺は雨が降る前に、また行くよ、真黒な森の一番奥まで行ってみるよ、そこは沢山の人が、何も持っていないところ、そこはネズミ殺しが浮かんでいるところ、汚い監獄のある谷の家に、死刑執行人はいつも顔を隠し、飢えが醜い、魂が失われた場所に、色と言えば黒、数と言えばゼロのところ、そこで俺は語り、考え、話し、それを吸い込む、山から見れば魂は、観ることができる、俺は海に沈んでしまうまで海に立つ、しかし俺は唄い始める前に歌を失ってしまう。

「Hard Rain A-Gonna Fall」、邦題「激しい雨が降る」1962年のこの作品が作られた頃、キューバ危機の最中だったので、デイランは、ソビエトからミサイルが飛んできて、この先自分の人生も長くなさそうだと思って書いた、と言っている。葬送の歌ともいえる。
2016年10月にノーベル文学賞を賞与されたとき、式に本人は出席しなかったがボブの親しい友人、パテイ スミスが、この曲をオーケストラをバックに歌った。

彼はおとぎ話や伝承文学、聖書、中世の吟遊詩人の言葉や、ジャックロンドン、アーネストヘミングウェイなどの文学の中から、沢山の言葉をひっぱってきて、独特の詩を書き、それの声を載せて歌った。内省的で作家性が強く、強烈なメッセージが込められている。79歳、今もツアーを組んで現役で歌っている。それが嬉しい。超人の部類に属する。
I am singing [ A Hard Rain A-Gonna Fall ] written by Bob Dylan. When he was given Novel Prize in 2016 ,Bob did not attend on the ceremony however his one of best friend Pady Smith sang this. It is funeral, sad song.



2021年5月30日日曜日

ジョンデンバーの「アニーズソング」

ジョンデンバーの「アニーズソング」を歌ってみた。
ジョンデンバーと言えば、「カントリーロード」が超ポピュラーだ。ジブリアニメのテーマソングにも使われた。アニーは彼の妻の名前で、これはラブソング。

彼はドイツ系米国人で、本名はヘンリージョン デユチェドルフジュニア(1943-1997)という。空軍のパイロットの父を持ち、軍人のしつけの厳しい家庭が嫌で高校をドロップアウトして、友達とバンドツアーをしていたら、父にジェット機で探し出し、連れ戻されたエピソードを持つ。
近視が原因で、プロのパイロットという父と息子の夢を絶たれたが、飛行機への執着を否定できず、小型飛行機を収集し自ら操縦を楽しんだ。53歳でプロペラ機操縦中、海上に墜落死した。破損が大きく遺体はDNAで確認されたという。
同時代ジョーンバエズらがギターを持ち、「勝利を我らに」と歌いながらデモの先頭に立った頃、彼は目立った政治的な関りを持たず、メッセージ性のある曲を作りもしなかったが、明朗快活で、歌いやすい彼の曲に親しみを感じる。
I am singing [ Annie's Song ] written by John Denver. He loved airplane which influenced by his father who was a Air force pilot. His dream was becoming a professional pilot however he got short eye sight and was unable to be professional. But he loved to operate his own small airplane. On 1997 he passed away by air plane accident crushed into the ocean. He wrote lots of easy listening songs include Country Road, which is very popular.



2021年5月27日木曜日

サイモンとガーファンクルの「明日にかける橋」 Bridge over troubled water

サイモンとガーファンクルの「明日に架ける橋」を歌ってみた。
    
「君が生きるのに疲れ、みじめで泣きたいとき、そばに居てあげるよ。激流をこえる橋のように僕が君の懸け橋になる。銀の少女、船を出せ。君の夢に向かって前に進め。友達が欲しければ僕がいる。後ろから見ていて、いつでも懸け橋になってあげるから。」
作曲者、ポールサイモンは、自分が育ったNYユダヤ街で通った教会で聴いたゴスペルに、インスパイヤされてこの曲を作ったと言っている。

曲は、当時ベトナム戦争(1955-1975)で疲弊していた人々の心に響いた。この曲を最後にサイモンとガーファンクルはデユオを解消するが、一方で、曲の人気は続き、1970年当時アパルトヘイトのあった南アフリカでは、教会で賛美歌として歌われた。1992年に人種登録法が廃止されたあと、サイモンはこの国に招待され、人々と交歓した。美しい旋律。スカボロフェアと、サウンドオブサイレンスを歌ったあとなので、前に投稿したことがあるが、サイモンの作った曲の中で、一番好きなので歌ってみた。
I am singing [ Bridge over troubled water ] written by Paul Simon and recorded by Simon & Garfunkel on 1970. Paul was inspired by Gospel , The Swan Silvertons(1958 ), and wrote this music. This song won an unprecedented 5 Grammy Award and loved by young Americans who were forced to serve Vietnam War. It touches hearts of people who lost hope with war and tragedy.



2021年5月22日土曜日

さくらみち

作詞作曲、秋吉壽和「さくらみち」を歌ってみた。
ときどき、これを作曲された方に来てもらって、ギターを習っている。難しいコードや自己流のまちがいを直してもらったり。

ギターを始めたのは、何と60年近く前、テイーンのとき。小さい時からヴァイオリンを教わっていたが、小野アンナ先生の直弟子のレッスンは、1音の誤りも許されない息詰まる緊張と、重圧感から自分を解き放ちたくて、ヴァイオリンレッスンの帰りに、自分の小使いでギター教室に通った。彫りの深い、ジェラルフイリップ(1922-1959)そっくりの美しい顔をした先生が、その長い細い指でスパニッシュギターを弾く姿に心を奪われた。お小使いが続かなくてあまり続けられなかったけれど。

それから50年経ってマゴが生まれ、半分ガイジンのマゴたちに日本の童謡を歌ってやりたくて、成瀬龍三郎、シドニーでロックバンドのメンバーだった方のところに通い始めた。彼には童謡を含めて200曲くらい教わった。2年余り教わって、ビートルズもステイービーワンダーも歌えるようになって嬉しかったが、残念なことに帰国された。
現在の先生は、マーケテイングビジネスをしながらハワイアンバンドで活躍されている。
この曲は、雪降る道を歩きながら桜が咲くころに結婚して故郷を離れていく娘を歌っている。
I am singing [SAKURAMICHI] written by Hisakazu Akiyoshi, who is my current guitar teacher. I started to learn guitar when I was teens, nearly 60 years ago. As a little violinist, I needed to be released tension from strict and hard violin lesson and visited guitar teacher who was look like French movie star Gerald Philip, beautiful guy and I had wonderful lesson. Then 50 years passed, I got a guitar teacher ,Ryuzaburo Naruse who was a Australian rock band member. He taught about 200 music but sadly he went back to Japan, however luckily I got new teacher. This music was written about a girl who is leaving her home for marriage, sentimental song.



2021年5月18日火曜日

映画「スーパーノバ」とオーストラリアの安楽死法

映画「スーパーノバ」( SUPERNOVA )

監督:ハリー マックイーン
キャスト
コリン ファース:サム
スタンレー ツチ:タスカー

スーパーノヴァの NOVAとは、新星のことで、それにスーパーが付くから「超新星」。星がその核の原子力を失うと、爆発して粉々になって滅ぶがそのときの光は太陽よりも明るい光となって消えていく。その大爆発を超新星爆発という。銀河系の中で起きる超新星爆発による衝撃波は、星どうしの密度に揺らぎを生み出し、新たな星の誕生を促すのだそうだ。私たちが何気なく夜空を見ていて、強く光を発する星があるかもしれない。その時私たちは何千億光年という遠い昔に激しく瞬いて、光と共に消えて行った星の残骸を見ているのかもしれない。残骸は周囲のガスに衝突して断熱圧縮されて高温を維持する。そして高温を維持できなくなるまで数万年輝き続ける。ふたご座にも、おうし座にも白鳥座にもその残骸がある。爆発の時、光となり、粉々になった星の粉は、地球に落ちてきて、私たちの体の一部になる。

そんなことを、夜空をみながらタスカーが、サムに繰り返し語って教えている。
タスカーは2年前に若年性認知症と診断されて、いまは、思考する自由も、体の自由も失いつつある。名のある作家として活躍してきたが、20年来の人生のパートナーであるサムに面倒をかけている。
2人は休暇を取って、キャンピングカーで昔の友人や、タスカーが生まれ育った田舎を旅行することになった。サムは、いまはタスカーと会話を楽しんでいるが、もう自分で服を着ることもできなくなったタスカーが、じきに普通に日常生活を送ることもできなくなり、サムのことを認識できなくなる日も近いことを予感している。サムはタスカーが自分のことを忘れてしまっても、そばにいて支え、排尿便出来なくなっても世話して、自分の腕の中で死なせてやりたいと心に決めている。

二人はタスカーが生まれて育った田舎で親戚や兄弟たちと、なごやかに過ごした後、湖に面した、静かな山荘に数日間過ごす。しかし、サムは偶然、タスカーが毎日几帳面につけている鍵つき日記帳を、開けて中を見てしまう。そこにはもう活字がかけなくなっているタスカーの殴り書きと、自殺用の薬が入っていた。タスカーには、まだ自分の意志で自ら死を選ぶ判断力も行動力もある。しかし進行性の病ゆえ、明日それが実行できるかどうかわからない。じきにタスカーがその薬が何なのかわからなくなったら、自分の意思を達成することもできなくなる。サムとの激論の末、タスカーは言い争いに疲れて眠ってしまう。目が覚めた時、机の上には彼の鍵つき日記帳が置かれていた。もう心配することも、思い残すこともない。トスカーはしっかりとサムに抱かれて旅立つ。
というストーリー。

美しい映画だ。イングランドの自然がいっぱいの田舎、深い森、静かな湖、落ち葉の絨毯。冷たい清涼な風。「明日」がない二人の愛情が画面をみながらしっかり伝わってきて、せつない。コリン ファースも、スタンレー ツチも素晴らしい名優だ。年を取って、二人ともどんどん魅力的な役者になってきた。

テーマは認知症と尊厳安楽死。星もいつかは爆発して滅亡する。星の爆発で地球に降りかかってきた粉をまとった人間もいつか死ぬ。尊厳死を望む人間が認知症に陥った時に、どう死ぬべきか。


オーストラリアでは北部準州(州都ダーウィン)で1995年に安楽死法が議会を通過したが、オーストラリア連邦政府によって決議が覆され、法案は廃案になった。その後、ビクトリア州(州都メルボルン)で、2017年に「VOLUNTARY ASSISTED DYING法」(医療的自殺ほう助法)が立法化され、2019年から施行されている。施行後6か月で52人の末期患者が安楽死で亡くなった。そのうち42人が医師の処方の薬で、9人が医師の静脈注射で亡くなった。
安楽死の条件は、成人で、ビクトリア州に1年以上居住し、余命半年以下であると2人以上の医師に診断され、生存よる苦痛が耐えがたいと認められた場合に限っている。

ビクトリア州に続いて、タスマニア州と、南オーストラリア州(州都アデレート)でも同様の安楽死法がすでに議会で決議され、来年からの施行を待っている。安楽死は、EUでは、スイス、オランダ、ベルギーなどで同じような条件つきで認められている。しかし、オーストラリアの法は、医師が患者に直接静脈注射で致死量のモルヒネを投与できるという意味では、EUの国々の法よりも積極的に患者の要望に応える内容になっている。

これに対して、バチカンでは神に対する冒涜だと、おきまりの批判をしている。しかし、人間は自分の人生に自己決定権をもち、本人の尊厳を守るために苦痛より安楽死を望むのは自然の流れだ。私は医療現場にいて、パラテイブケア(終末医療)に関わっているが、処方箋に従って、たくさんの末期患者にモルヒネを投与してきた。
命は時として科学では説明できない。治療効果がなく、飲めない食べられない状態になって輸液もせず、全身皮膚がんに侵された90歳の患者が激痛に苦しみぬきながらも死ねず、1か月以上も生存しなければならなかった例を見てきた。

オーストラリアは6州1準州と特別区に分かれているが、6州のの半分の3州ですでに安楽死法が議会を通過した。今後、安楽死法は各州で論議され、法整備されるだろう。
ニュー-サウスウェルス州(州都シドニー)では安楽死が認められていないが、ADVACE CARE PLAN という書類があり、ここに自分が重病になって回復の見込みがないときや、認知症や脳障害で自分の意思を伝えられないときに、どうして欲しいか、どう死にたいか、を書き残すことができる。自分は遺言状を弁護士に作ってもらった時に、これも作った。
また、オーストラリアでは運転免許証に、事故などで急死したとき自分の体のどの部位を臓器移植のために提供するかが明記してある。残された家族の気持ちより、本人の意志を優先する合理に全面賛成だ。

人は長く生きるようになりすぎた。人はどう生きるのか、そしてどう死んでいきたいか、もっとオープンに語られなければならない。その意味で、アンソニーホプキンスの「ファーザー」もそうだが、こうした映画がさかんに作られている。


2021年5月16日日曜日

シーカーズの「カーニバル イズ オーバー」

この間FBで歌った曲が50曲達成!と自画自賛してみたが、この曲で60曲目になった。

きょうはオーストラリアのシーカーズというポップカルテットが歌った「カーニバル イズオーバー」(涙のカーニバル)を歌ってみた。トム スプリングフィールド作詞。
この曲、どこかで前に聴いたことがあると、ずっと思っていたら、なんだ!「ステンカラージン」ではないか!オリジナル曲はロシア民謡だった。
バラライカを伴奏によく訓練された、バリトン歌手がゆっくりしたテンポで、朗々と歌う素晴らしく堂々とした歌だ。ステンカラージン(1630-1671)は、ロシアロマノフ王朝に、厳しい徴税と度重なる徴兵で疲れ切った農民や下層民を組織して武装蜂起し、ボルガ河からカスピ海まで進出して強盗、強奪を繰り返し、ツァーリズムと戦った民衆の英雄だ。ロシアの王侯貴族を追放しコサック王国を建設する予定だったが、捕らえられて刑死した。

しかし、オリジナルの詩は、ペルシャから綺麗なお姫様を強奪してきて、ねんごろになったがステンカラージンは男だ!部下どもに、女にうつつを抜かして、となめられないようにボルガの急流にお姫様を投げ込んでやったぜいー!というようなとんでもない詩だ。人権擁護者が聞いたら卒倒するような詩。今でもこの詩でロシアで歌われているんだろうか。

子供時代に、この「ステンカラージン」や、「ボルガの舟歌」をどでかい蓄音機で聴いて育ったのは、戦後の国民総貧困、総栄養失調の時代に「資本論」や「共産党宣言」を翻訳した大叔父や叔父たちの影響もあっただろうが、単に父が薄給の大学教授だったからだ。意味も知らず、ステンカラージンステンカラージンと言いながら、縄跳びをしていた幼児期の記憶がある。
うちにはテレビが長いことなかった。おかげで小学校で友達の話題に全然ついていけなかった。人形も、みんな友達が持っているような人形でなく、東ドイツ製の粗末な藁人形だった。
しかし今になってみると、家族そろって蓄音機をわきに、「ツイゴイネルワイゼン」や、「ホフマンの舟歌」などのレコードに耳を傾けたことは、かえって幸運だったのかもしれない。
I am singing [ Carnival is over] by The Seekers: Australian pop quartet( 1962-2014). Ordinal song is Russian Folk song, titled [ Stenka Razin]. Stenka was a leader of Cossack rebel (1630-1671). He fought toward Russian Kingdom in 17C and killed by government.
I was familiar with this song since I was very little. My father put this record on old phonograph frequently and well trained opera singer used to sing with gorgeous baritone.



2021年5月12日水曜日

夥しい死者を前に、ただ祈るしかないのか

         

コヴィドウィルスの感染で、世界中で330万人の人命が失われている。
米国60万人、ブラジル45万人、インドでは1日4000人のスピードで死者が出ていて死亡総数など想像することしかできない。米国ではすでに国民の半数ちかくがワクチンを打ったのに、感染が止まらない。英国ではワクチン効果が出てきている、と言っている。

ニュージーランドとオーストラリアは、ラッキーだった。昨年3月から1年余りの間、国民に海外に出ることを禁じ、外国から帰国する人を制限し、事実上の鎖国政策をとって、感染者をくい止めてきた。外国からの帰国者を、2週間ホテルや国の施設で隔離を徹底したことも大きく効果を上げている。国から人を外に出さない、人を入れない、感染源を徹底して追及し、感染者が乗ったバスや関わった人々すべてを隔離し、みなどこに行ってもQRコードを入力して、自分の行動に責任を持つ。一人でも感染者が出て、感染源を突き止められなかったら、即時その地域全体を、ロックダウン外出禁止にして、感染拡大を防ぐ。ウィルスは腸に最も生息するので、各地の下水道の検査を続ける。
60歳以上の人は、アストロゼニカのワクチン、若い人はファイザーのワクチンを打つ。出来るだけ早く打つ。国民も、永住者も、旅行で入国した人たちも、ビザを持っていない人々も、とにかく国内に居る人は全員ワクチンは無料で無条件で受けられる。これだけのことをして、感染を最小限に防いできたオーストラリアの医療体制を少しだけ褒めてやりたい。

自分も医療従事者としてこの1年余りの間、ものすごい重圧を受けながら仕事をしてきた。50人の老人を預かる小さなホームで、職員たちと励まし合いながら働いてきたが、私よりも若い職員と、友人のナースが、2人もストロークで倒れた。2人とも自宅で、意識不明で倒れていて救命されたが、一人はリハビリで後遺症と戦い、もう一人は未だ重体だ。コヴィド流行によるストレスが無かったら、絶対病気にならなかったような人々が、病に倒れている。

ホームの老人50人のうち、期限までに家族の了解が得られなかった年寄りと、体調の悪かった人を除いて、44人が2回にわたるファイザーのワクチンを接種された。2回目のワクチン接種の後、44人中、2人が喘息症状が悪化し、2人嘔吐者が出た。が、深刻な副作用は出なかった。私自身は、オフの日に、アストロゼニカワクチンを受け、副作用もなかったが前後は自重して過ごした。

医療は完全ではない。コビッドテストも正確度80%、ワクチンも75-90%の割合でしか免疫はつかない。2週間の隔離をした後でも、検査で陽性になる人がいる。繰り返し発病する人もいる。人の体はみな同じではないからだ。ワクチンは効かないから、水銀を使っているから(使っていない)、ナチュラル思考に反するから、と接種に反対する人がいる。その人もポリオにも、結核にも、腸チフスや麻疹にもならずに生きてきただろうに。忘れたのだろうか。予防接種は副作用が出るだろうとビクビク、半信半疑でワクチンを受けて、注射部位の痛みだけで病院に行きたがる人もいる。

自分の体は自分のものだという意識を持った方が良い。医療者はワクチンを打つが、免疫を作るかどうかは、自分の体なのだ。超過勤務して、5分刻みの仕事の合間に走っていってワクチンを打ってはいけない。徹夜でドラマを見て、タバコを吸い、酒を飲んでワクチンを打ってはいけない。調子が悪かったらワクチンを打つ予約日だったとしても延期すべきだし、ワクチンを打った日は、外出せずに人込みや職場にでることをやめ、静かに自宅で過ごすことだ。ワクチンを打つ前後は、とくに栄養に注意して、きちんと食事をしてビタミンを取り、よく眠り、ワクチンを接種して免疫を自分の体のなかで、しっかり作ることが大切だ。
私たち地球市民、無念に死んでいった、330万人の死者たちのために、自分の体を大切に思い、そして彼らのために祈りたい。

2021年5月9日日曜日

スピッツの「ロビンソン」

1980年代に日本のロックグループ、スピッツが歌っていた「ロビンソン」を歌ってみた。

夫の赴任に伴って、フィリピンのレイテ島オルモックに家族で移住したのが1987年、20年に渡って戒厳令を布いた独裁者マルコスがピープルズ革命で倒され、アキノ政権に代わったばかりの頃だった。首都マニラと違ってレイテ島では、まだNPA共産軍の力が強く、政府軍の駐屯地など常に緊張していた。早朝の犬の散歩で、殺されたゲリラの死体の第一発見者になったこともあったし、無造作に死体が積み重なったところを歩かなければならないこともあった。ODAの豊富な資金を使って建設省は、家族を現地に住ませて、地元の有力者達とのコネクションを作ることが当時の課題だった、と思うが、毎日が外交と社交という重大な責任を負わされ、身の安全も保障されなかったレイテでの3年間、密かに銃を枕元に置いて眠る日々だった。小学生だった二人の娘たちにとっては、テレビも電話もない、外国人が一人もいない町で、日本文化を渇望しながら、過酷な生活を体験したと思う。

その後、マニラに移って娘たちはインターナショナルスクールに入り、実によく勉強した。熱帯地方の汗が粘りついてくるような蒸暑さのなかで、二人とも機関銃のような音のするエアコンをつけて、その音量に負けないボリュームで、スピッツのCDを聴きながら勉強をしていた。

異国の地で日本の文化に巡り合う喜びは大きいが、このころ母子家庭の我が家に頻繁に日本の本、日本の雑誌、日本のCDを持ってきてくれた、山田修は、だれよりも有難い存在だった。いまだに本を送ってくれている山田修には、一生かかってもお礼が返しきれない。しっかり勉強してくれたお陰でオーストラリアで立派な専門家になってくれた娘たちと山田修に感謝をこめて、、、「ロビンソン」。
I am singing [ Robinson] by Japanese rock band, SPITZ.



 


2021年5月1日土曜日

トマスメンデスの「ククルクク」と山本満喜子さん


鳩は一度つがいになると、終生共に生きると言う。
相手に死なれて一羽になってしまった鳩は二度と別の相手を持たずに、悲嘆の歌を歌いながら孤独のうちに死ぬ、という歌。

メキシコのペラクルスという港町に伝わるウアパンゴ(民族舞踊曲)1954年メキシコ人トマス メンデス作曲の、ククルククを歌ってみた。

50年以上まえにこの歌をスペイン語で哀愁いっぱいに歌ってくれたあと、プロポーズしてくれた人がいた。そのころは安保、ベトナム戦に抗して毎日デモで忙しく、そんな事にかまっていられなかったが。
キューバのフィデロ カストロがまだ元気で政権を掌握し活躍していた。フィデロの実質的な妻だった山本満喜子が一時帰国したときに、その彼と一緒に訪ねて行って、大学での講演を依頼して、親しくさせていただいた。一番近くにいる人からフィデロの超人的な働き方や、革命前のゲリラたちの姿や、様々なエピソードを伺って、フィデロにも、満喜子さんにも心から魅了された。これほど魅力的な女性に前にも後にも会ったことがない。艶やかな肌に目が輝いて、物腰が柔らかなのに野生のヒョウを思わせる美しさ。山本権兵衛の孫だそうだが、彼女は、1993年に73歳で亡くなったそうだ。
50年あまり経って振り返ってみると、この歌への思い入れも深い。

I am singing "Cucurucucu". Mexican huapango style song, written by Tomas Mendez in 1954. People said, once a Dove mate as a pair they keep their relationship whole in their life. The dove which lost a partner, never gets other partner and keeps mourning till its own death.



2021年4月24日土曜日

レボンヘルムの「プア オールド ダート ファーマー」

レボン ヘルムの「ダート ファーマー」を歌ってみた。
レボン ヘルム(1940-2012)は、「THE BAND」の5人の中で唯一のアメリカ人だった。生まれ育った南部アーカンソー土着のフォークソングやブルースをもとに作った曲を歌いバンドで活躍したが、喉頭癌で歌えなくなった。バンドは1976年「ラストワルツ」を最後に解散、再結成の過程を経て2007年に彼は奇跡的にカムバックして、アルバム「DIRT FARMER」で、この歌「プア オールド ダート ファーマー」を歌っている

泥にまみれて百姓は働いても働いても貧しさから抜け出ることができない。農耕はヒトが初めて集落社会を形成し余剰価値を作り出した、尊い仕事なのに、資本主義の市場経済は、百姓から情け容赦なく土地を取り上げる。百姓が土地を失うのは、日照りや豪雨などの自然災害のせいではなく、種を買うにも銀行が介在する経済システムゆえなのだ。年老いて百姓は借金で首が回らない一方で銀行だけが肥え太っていく。

Levon Helm(1940-2012)was only one American member of [The Band]. He was a drummer and a vocal singer but at 1998 he lost voice by Laryngeal cancer. However he came back 2007 as if it was a miracle, with album,' Dirt farmer'. He is singing; poor, old and dirt farmer is hard to survive by draught and get only debt from the bank. Farmer becomes the more poor the more work because of system of the capitalism.




2021年4月18日日曜日

映画 「ファーザー」

映画 :「FATHER]

監督 :フロリア セレール
キャスト:父=アンソニー ホプキンス
     娘=オリビア コールマン
2021年第93回アカデミー賞 作品賞、主演男優賞、助演女優賞、脚色賞、美術賞などにノミネイトされている。
ストーリーは
ロンドン。エンジニアだった81歳の父親が、寡夫となり、一番可愛がっていた末の娘を交通事故で亡くしてから急に老け込んで、認識障害を起こしている。近所には上の娘が夫と共に住んでいるが、仕事が忙しくて父親の世話をすることはできない。しかし父親の日常生活に支障が出てくるようになると仕方なく、娘は父親を自分のアパートに引き取ることになる。父親は、物忘れが激しくなり、怒りっぽくなって、自分が置き忘れた腕時計を探すたびに、娘や息子の夫を泥棒扱いしたり、時も場所も思い違いが多くなり、家政婦に来てもらっても、衝突ばかり繰り返す。夫はたまらず出て行き、離婚することになった。娘は介護に疲れ、手のかかる父親を絞め殺したい衝動も起こるが、家庭思いだった父親との思い出は消しがたい。離婚後、娘は良きパートナーと出会い、ロンドンからパリに移る決意をする。父親はついに老人ホームに入居する。そんな悲しい選択をするまでに4年もかかったのだった。
というストーリー。

認識障害の老人役をアンソニー ホプキンスが演じた。素晴らしい役者。当然ながらアカデミー主演男優賞にノミネイトされた。映画音楽に、オペラが多用されている。まずマリア カラスが歌う「椿姫」を聴きながらホプキンスが料理をする場面で映画が始まる。次は、アルフレッド クラウスの唄う「真珠とり」のアリアだ。これをバックに、頭が混乱して苦しむ父親の姿が映し出される。繰り返しオペラが使われていていることで品の良い映画に仕上がっている。
最近では、CIVIDで自宅隔離を余儀なくさせられている世界中の人々のために、ホプキンスは、FBとYOUTUBEで、短いヴィデオを発信している。彼のテーマは、いつも「ピアノ」と「ねこ」だ。彼のピアノはプロ並みとよく言われていることだが、ねこを膝に乗せたまま、ノクターンやソナタを弾く彼の姿は、本当に心がなごむ。リラックスにもってこいだ。

映画に目新しいことは何もない。
父親が老人性痴呆状態になって娘が世話をしなければならない。夫より父親を選択した娘は夫に捨てられる。女が年寄りの面倒をみなければならなくなって、どれほどの家庭が壊れなければならないのか?
映画では結論は、娘が老人の認識障害は老人のせいではなく病気なのだという事実を認めて、施設で専門医によって処置されなければならないとして、老人ホームに入れて、パリに旅立っていく。妥当な判断で、それは今の現状で、どこでも誰にでも起きていることなのだ。

老人認識障害の初めは、物忘れから始まる。このごろ人の名前が思い出せなくて、、と中年になると自覚し始めるが、古い記憶より新しい記憶から忘れっぽくなってくる。徐々に悪化して、時と場所が混乱してきて、人の名前だけでなく自分のアイデンテイテイもわからなくなる。時、場所、名前で、混同が起こると、人との会話がとんちんかんになり、笑われたり、怒られたり、周りの態度が変化することで、怒りや逃避や悲嘆にくれるなど、情感にも支障が出る。症状の現れ方は、その人の生きてきたライフパターンによって千差万別だ。
認識障害の関するレポートや症例や小説が出ているが、一番すぐれた作品は、有吉佐和子の「恍惚の人」だと思う。時代を超えた名作だ。

脳に障害が起こるのは脳卒中、脳出血、癌、交通事故などの外傷が原因でも起こるが、アルツハイマー病のように脳神経のレセプターに変化が起きる。認識障害は一つの原因で起こるのではなくこれらすべてアルツハイマー、脳梗塞、躁鬱病、精神分裂病などすべてが併発していると考えた方が良い。家庭で世話しきれなくなった老人は、派遣看護体制で世話し、それができなくなれば施設で世話をする。癌ならば施設に入り完全治癒と退院帰宅もあるが、認識障害の場合は改善することはないので入所したら死亡まで退所することはない。家族は認識障害を病気と理解したうえで、年を取って人が変わってしまった、と嘆かず、ひんぱんに面会するなど、死ぬまでできるだけサポートすることだ。

国は医療と教育には責任がある。幼稚園から大学卒業までに、国が費やす17-18年間分の教育費にたいして、老人は障害がでてから長い人では老人ホームで10年も20年も生きる。24時間ケアが必要な老人にかかる人件費は、若い人の教育費をはるかに上回るだろう。
私は、医療通訳と病院のナースで8年、いまのエイジケアに勤めて15年になる。今の職場で3回ほど殺されそうになった経験がある。責任者なのでホームの出入り口や、モルヒネの入った棚などの鍵を首から下げている決まりになっている。夜になると鍵をかけてまわるが、急に家に帰りたくなった患者は鍵を奪って逃走しようとする。患者に家などもうないし、家族など音信不通、でも患者が家に帰りたい、と怒り出す家とは、自分が生まれた家で母親が待っていてくれる思い出の家なのだ。数人で興奮する患者を鎮めようとしてもうまくいかず、身の危険ゆえ、ポリスを呼んだこともある。
また看護者が腰を痛めるのはいつものことだ。家族から見捨てられ、だれも気にかけてもらえないと思い込んだ患者は、わざとベッドから落ちてみんなから注目されたい。何度でも、怪我をしてもそれを繰り返す。機材を使って床で伸びている患者をベッドまで引き上げる。どんなに機材を使っても腰への負担は大きい。タタミとオフトンの日本がなつかしい。世界一重いオージー。体重ではアメリカを抜いて肥満度世界一のオーストラリア、でかい、おもい、ちからもち、それでいて痴呆の患者をケアするのはたやすいことではない。
人権意識の高いこの国では、ベッドに落下防止柵をつけることも、手足を拘束することも、薬で暴れる患者を鎮静することも許されていないのだ。人権意識の高さゆえ、ドクターもナースも理学療法士も栄養士も薬剤師もリスクを負うことになる。

COVIDで去年からの累計、世界中で遂に300万人が亡くなった。命を失った医療従事者が沢山いる。オーストラリアでも死亡者の半分近くが医療関係者だ。
人は年を取る。自分で何もできなくなった老人の命は国が守ってやらなければならない。老人にかかる費用は若者への教育費や医療費をはるかに上回る。COVIDで、最大数の死者を出している米国が、サイバーアタックと、ウクライナへの敵対を理由に大使館から職員を引き上げる、、、中国をけん制するために大規模な軍事演習を繰り返す、、、日本からスガを呼びつけ中国、台湾間の緊急事態に備える、、、
一体なのをやっているのか。
日本では3人に1人は70歳代という時代に、痴呆老人に銃をもたせて、隣の国と戦争しろというのか。戦争どころではない。世界が戦わなければならないのは、資源でも、オイルでもミサイルでもない。国の財源を根こそぎ奪い取る「AGE」という人類永遠の敵なのだ。
「AGE」について、多くの人が関心を持つ切っ掛けになるのなら、この映画は良い映画だったと言うことができる。



2021年4月11日日曜日

映画 「ミナリ」

映画「ミナリ」
2021年アカデミー作品賞、監督賞、主演男優賞、助演女優賞、脚本賞、作曲賞にノミネートされた。外国語映画賞ではない。一般部門で、これだけの候補作品となっている。
また2021年ゴールデングローブ、再優秀外国語映画賞を受賞した。2020年第36回サンダース映画祭でグランプリと観客賞を受賞した。
「それでも夜は明ける」などのブラッド ピットの制作会社、「PLAN B」と、「ムーンライト」などを手掛けたスタジオA24 とで制作された。

原作:アイザック リーチョンの半自伝
監督:アイザック リーチョン        
キャスト
父ジェイコブ:スチーブン ユアン
母 モニカ :ハン イエリ
娘 アン  :ノエル ケイト チョー
息子デヴィド:アラン キム
祖母スンジャ:ユン ヨジュン

1980年代、米国南部アーカンソー。
アーカンソーに移住した韓国人夫婦が、がむしゃらに働いて自分たちの農地を買った。学童期の娘と息子がいる。息子は先天的な心臓病で、走ったり運動することができない。夫婦は移民してきた5年間のあいだ、町でヒヨコの雌雄選別の仕事をしてきたが、やっとお金をためて念願の土地を買ったのだった。父親の望みは、自分の農地を持ち、そこで韓国野菜を作り米国在住の韓国人の間で流通させることだ。アーカンソーで韓国人はみな食べ物が自分たちの育ってきた国の食べ物と違うので苦労している。韓国人の要求に見合う作物を作れば事業として成功間違いないだろう。

大きな夢を抱いて購入した農地に家族でやってくる。草ぼうぼうの広い野原と、掘っ立て小屋。雨漏りはするし、水も十分ではない。電機はモーターの自家発電で使える時間が限られる。さっそく、何もかも気に入らない母親と大喧嘩だ。父親は、妻のために国から妻の母親を呼んでやることにする。畑仕事に明け暮れる両親に代わって、子育ては、韓国からやってきた祖母が担うことになる。そして祖母と孫たちとの交流が始まる。
というストーリー。


夫婦してヒヨコの雌雄判別作業を5年間した、ということがどんなショボいものだったか、想像できる。映画には出てこないが、卵から孵化したばかりの愛らしいヒヨコは、ずらりと並んだ移民たちの手で判別され、オスはベルトコンベアーに乗せられて、羽毛や手足など生きた姿のまま粉砕機に放り込まれて燃やされる。オスは肉が硬いので食べられないし、卵を産まないからだ。オスは孵化されても殺されるために生まれてきた。なんともやるせない。だからヒヨコの入った箱にいくらと決められたわずかなお金をためて土地を買ったときは、夫婦はどんなに嬉しかったことだろう。

ミナリとはセリのことで、水辺に育つ野草。匂いの強い、韓国料理に多用に使われる野菜で、どこにでも根を張り繁殖する。韓国人家族が米国に根着いて生きていく姿を、象徴している。韓国から祖母が種を持ってきて、繁殖させ、彼女が倒れた後、父親がいとおしそうにこれを摘む。

家族の喜怒哀楽が描かれていて共感できる。でもそれにしても、母親はどうして怒ってばかりいるんだろう。家がボロだとか、畑が荒れ放題なのは当たり前だったと思うけど、当たり散らして子供たちを怯えさせるのは、止めて。いったん怒るとその気性の激しさ、一歩も譲らぬ論理性、感情表現の一刻さに、彼女の子供でなくても怖くなる。どうでもいいことだけれど、何年も前、仲の良かった韓国人のカップルが口喧嘩していたのを思い出してしまった。学校の門の前で二人が喧嘩をしていた。どちらも良く知っている人たちだったが、無視して学校に入り、90分のミーテイングをして帰ることにした。門のところで、驚くことに二人は全く同じ格好で、同じように向かい合い口喧嘩を続けていた。90分ですよ。日本人の夫婦喧嘩なら、すぐ面倒になってゴメンナサイを早く言った方が勝ちで、すぐに和解して手をつないで映画にでも行っていただろう。イタリア人だったら、両手をプロペラのように振り回して大声で怒鳴りあい、皿を床にたたきつけたり、ドアを蹴飛ばしたり大音響の30分後に、どっちかが去ってチャオ。フランス人だったら互いに、きつい皮肉を言い合って、サッサと別れて、互いに別の相手とランデブー。アメリカ人だったら、銃で撃ちあって喧嘩は5分でジエンドだ。

アメリカ南部の農耕地帯の田舎町で教会を通して移民家族がコミュニテイーに入っていく様子が好ましい。牧師が模範的なキリスト者の態度で、片言しか話せない移民でも仲間として受け入れる。アーカンソーの自然の大きさ。自然災害の怖さもよく描かれている。
しかし、アメリカ人にとっての韓国人とは、どんな存在だったのかが、あまり描かれていない。どんな田舎に住んでいても、当時徴兵制のあったアメリカ人にとって、朝鮮戦争とベトナム戦争には関わらざるを得ないものだったはずだ。
私が1990年代にオーストラリアに移民したときでさえ、私が日本人だとわかると、親日オージーは、「ジャパン、ヨコスカ、ナハ、カデナ」など、米軍基地があって自分も行ったことがある場所の地名を並べ立てて、日本よく知っているよーと言ったものだ。反日オージーだと、「パールハーバー、ノーテイー、ヒロシマ、ワークリミナル」だ。オーストラリア兵が日本軍の捕虜になってビルマ鉄道建設で過酷な労働を強いられ大量死したことをオーストラリア人は決して忘れない。大西洋戦争の死者の半分がここで捕虜死したのだから。

その国のイメージは自分の父親や祖父から直接聞いた実話から印象付けられる。外国で自分の出身国を言うときは、外交官並みの歴史認識と知識が要求される。知識人の少ない田舎に行くほど、さらに努力と知識と社交術が必要とされる。アメリカ人にとって朝鮮戦争もベトナム戦争も自分たちにとっては何の利益もなかったにもかかわらず、犠牲ばかりの多い戦争だった。1960年代、韓国軍はアメリカ軍と共に参戦したベトナムで、最大時5万人の兵を送り5千人の戦死者を出している。今もなお、徴兵制のある韓国で、彼らがなぜ米国に移民しなければならなかったのか、日米関係よりも米韓関係のほうが、ずっと複雑で密接な関係があったはずだ。

リー チョン監督は小津安二郎が大好きで影響を受けたと言っていることが、うなずける。家族は大切かも知れない。でも人間は社会的な動物だから、社会状況に関わりなく生きていくことはできない。映画では、小津の映画のように、あまり大きなことは起こらない。平穏と小さな幸せ。この映画は家族の結びつきを強調するあまり、人がどんな心を抱えて、どんな社会で生きたのかが十分描かれていないのが、残念だ。小津にないものねだりをしても仕方がないんだけれども。


2021年4月9日金曜日

ステイングの「フィールド オブ ゴールド」

[フィールド オブ ゴールド] :

家は大麦畑に囲まれていて、夏になるとたおやかに実った収穫前の麦に太陽が照り付ける。金色に輝く麦畑の上を、風がそよいで渡っていく美しい眺めは、まるで天国みたいだろう?
1993年に英国人ステイングによって書かれた曲。この曲を、ビートルズのポール マッカートニーは、「僕自身のハートを癒す曲で、僕の人生そのものを語ってくれている。」と言って絶賛した。「永遠の愛」を歌っているということで、結婚式に使われることが多いが、葬式にも使われるそうだ。

エヴァ カジデイ(EVA CASSIDY)というアメリカ人シンガーが、この曲を歌っていて、たった33歳で1996年に亡くなった。彼女の死後2年目に両親の手によってアルバムが出版され、グラミー賞を獲得した。彼女の印象深い歌は、ユーチューブで聞くことができる。ステイングは、「彼女が僕よりもずっとうまく歌ってくれている」と言っていて、そんな彼らしいコメントに心が安らぐ。

Singing ' Field of Gold" written by Sting on 1993. Once he lived a house surrounding by field of bally, which become golden shinning color in the Summer. The wind makes wave on golden bally that is beautiful like a heaven. American singer Eva Cassidy who died in young at 33 on 1996, loved this song. After her death her parents published her record album and it got Grammy award. Sting says," Eva is singing this song much better than me."



2021年4月6日火曜日

映画「ノマドランド」

  
ノマドランド
原題:NOMAD LAND
原作:「ノマド 漂流する高齢労働者たち」ジェシカ ブルーダー
監督: クロエ ジャオ
キャスト
ファーン:フランシス マクドーマンド
デイブ: デヴィッド ストラザーン

あらすじ
米国ネバダ州、60歳を超えて、夫を失ったファーンは、働いていた鉱山の資材会社が倒産し、職を失うだけでなく長年住み慣れた家まで失ってしまった。この機会にキャンピングカーに、大切なものをすべて積み込んで、「ノマド」(遊牧民)として生きることにする。年金などまったく当てにならない。移動する先々で仕事を探して働き、現金を得る。ときにはパートタイマーのアマゾンで箱詰めの仕事、時には掃除婦、時には季節労働者となる。同じノマド仲間同士の互助会もあり、そこには資本主義社会からドロップアウトした人々の貧しいながら助け合う集まりもある。ファーンは働く現場で知り合った人々と、ゆるやかな交流をしながら、淡々と移動を続けていく。
というストーリー。

2020年第77回、ベネチア国際映画祭、金獅子賞受賞。第45回トロント国際映画祭、観客賞受賞。2021年アカデミー賞、監督賞、作品賞候補。

主演のフランシス マクドーマンドが、とても良い。他の女優がやっていたら、ただの演技になっていただろう。彼女ほど孤独が似合う女優は居ない。彼女とデイブを演じた役者以外に役者を使わず、実際ノマドの生活をしている人々を使って、半分ドキュメンタリーのように撮影したそうだ。
自然がいっぱい。壮大な自然のなかで暮らす人々の小さな存在が映し出される。ファーンは、人よりも、自然を愛する。海沿いを走っている。車を止めて、ひとり大きな岩の上で波しぶきを浴びながら塩風を胸いっぱい吸い込んでみる。キャンプ地で、すべてのほかのキャンピングカーが立ち去った後、地平線に沈んでいく太陽をひとり、いつまでもいつまでも眺めている。そういったシーンをカメラが動かず、じっと捕らえる。
そんな彼女も、小さな恋をする。小さな町の観光ガイドの男に、心惹かれ一人で岩から岩に隠れてみて、相手が見つけだしてくれるのを待ってみる。そして男がちゃんと追ってきて、呼び戻してくれるのを見て満足する姿は、テイーンエイジャーのように可愛らしい。それでいて、男に求婚されると、迷いもなくサッサと立ち去るのだけれど。



自分による、自分のための、自分だけの人生を、しっかり生きている。自然と一体感を持ち、だれにも優しく、窮地に陥ると助けを求めるが、助けを押し付けず、すべての人と間隔を置く。徹底し個人主義だ。それもとても強い個人主義。誰にも決して嘆きや、苦情や、身の上に起こった不幸などを打ち明けたり、ぶつけたりしない。だから自分が情けないなどとは感じない。自分がホームレスや、社会的落ちこぼれだなどとは信じていない。自分の人生を自慢したり、人と比較して、自分が不幸かどうかなどと測ってみたりしない。淡々と自分に与えられた状況そのものを、楽しむ。執着心のない、透明な人格。

キャンピングカーが、もう修理に時間も費用もかかるので、買い替えるように勧められるが、「この車は私なの。私の家、家以上の存在なの。」と言って、修理に修理を重ねる。車が死ぬときは彼女が死ぬ時だ。思い出の深い皿が割れてしまうと、新しい皿を手に入れようとせず、接着剤で直して使い続ける。どんなに気に入っているものが大切か、それだけは譲れない、自分のものを持っている。映画にはヒッピーも出てくる。家出少年も出てくる。彼らとの交流も互いに尊重しあいながら、決しておせっかいをせずに優しい。

人生は自己満足。人と比べず自分の価値観に従って生きれば。それが一番幸せな人生だ。
他人には何も求めない。他人に何かを期待すれば、執着心が出てきて期待がかなえられないと自分が傷つく。他人から与えられれば受け取るが、それ以上は期待しない。彼らの生き方は、托鉢で与えられた食べ物だけで命をつなぐ修行僧のようなストイックな生き方を思わせる。
孤独という、何にも代えがたい自由の喜びに満ちた生き方だ。とても勇気付けられた。孤独は怖くない。何という豊穣な世界か。

高齢化社会の日本にも同じような家を失い、漂流する老人たちが増えていくことだろう。


2021年4月2日金曜日

サイモンとガーファンクルの「スカボロフェア」

SCARBOROUGH FAIR:

戦争で命を失った兵士が、故郷に残してきた恋人が忘れられなくて、スカボロフェアの市に行こうとしている旅人に、恋人への伝言を頼む。「針を使わないでシャツを縫って水のない井戸で洗ってくれ、海辺の波と陸の間に広い土地を見つけてコショウの種を撒いて皮の鎌で収穫してくれ。」無理難題をふっかけてくる兵士の悪霊に魂を抜き取られてしまわないように旅人は、匂いのきついローズマリー、タイム、と魔よけの呪文をとなえている。
中世のころから英国ヨークシャーで吟遊詩人によって歌われてきた古いフォークソングを、自分たちのバージョンで, サイモンとガーファンクルが歌っている。

このアルバムが発表された1966年は、ベトナム戦争が泥沼化していた。若者たちは、参戦する意味を疑いながらも徴兵制のために、国に命を差し出すことを強制されていた。この歌は、戦争で命を失った兵士たちの悲しみを歌っている。1966年ダステインホフマン主演映画「卒業」のサウンドトラックになった。

SCARBOROUGH FAIR :Make me a shirt without seams, nor needle, and find me an acre of land between the salt water and the sea strands,,, Dead soldier askes to a traveler impossible desire and rob his spirits. The traveler was scared and tried to evil spirits away. This song was written by Simon & Garfunkel 1966, and used for sound track for the movie,[Graduation]、 but it is ordinated old English folk song titled [Elfin & Knight]. We can read this song means anti- war resistant song during Vietnam War1960-1970.