2017年6月28日水曜日

映画「ドッグ パーパス」と犬の話

自分がもっていた犬の話を始めたら止まらない。
沖縄で生まれ我が家に来て、フィリピンで9年一緒に暮らした犬のことだ。ボーダーコリーとジャーマンセパードのミックスだったと思う。
救急車がサイレンを鳴らしながら走ってくると、急に真面目な顔つきになって、前足をそろえ姿勢を正して、空に向かってアオーンと共鳴して鳴く。大真面目な顔で、サイレンが聴こえなくなるまで それを繰り返す。子供達と真似をして月に向かってアオーンと吠えて面白がったものだ。音感に優れた犬だった。

雷が大嫌いで、ある日家のすぐ近くに雷が落ちた。その日は娘たちの通うインターナショナルスクールで演奏会があり演奏したので、ジョーゼットのドレスにピンヒール。帰ってみると犬が居ない。真夜中、大雨のなかをずぶ濡れで狂ったように走り回って犬を探した。やっと見つけたのが、引っ越し前に住んでいた家の玄関先で、震えている姿だった。門から玄関まで10メートル。呼んでも走ってこない。仕方がないので門をよじ登って、腰が抜けて立てなくなっている大型犬を抱きかかえ、また門をよじ登って帰って来た。自然の神秘を畏怖する、気持ちの優しい犬だった。

石造りの床は冷たくて、夏は腹這いになって玄関で寝そべっていると、半開きのドアから涼風が入ってきて気持ちが良い。犬がウトウトしていたところ、6歳になったばかりのバイオリンの生徒が威勢よくドアをバシンと広げて入って来た。ドアが眠っていた犬の頭にぶつかり犬は寝込みを襲われて、思わず女の子の腹を噛んだ。女の子の悲鳴で大騒ぎ。彼女は米国大使館に勤務するの軍人の一人娘。制服に制帽をかぶった運転手つき黒塗りのベンツで、家にバイオリンを習いに来ていた。やわらかいおなかにしっかり噛み跡がついている。生徒の両親に電話をして急遽家に帰す。私は家じゅうの書類をひっくり返して狂犬病予防注射の証明書やワクチン証明書をつかんで別の車で後を追う。彼女のでかい屋敷に着いたとき、軍服姿の父親と、手術着を着た医師の怖い顔が待ち受けていた。日米開戦か。
私の命も犬の命もこれまでか、と覚悟した。女の子を母親に、「犬って野獣なんですね。ライオンと同じにまずオナカを裂いて内臓から食べて殺すんですね。」などと言われて身の置き所もない。これほど恐縮したことはない。幸い、日米開戦は避けられて、傷に深い皮膚の裂傷はなく、氷で冷やしただけで良くなって、しばらくすると女の子は何事もなかったようにレッスンに来るようになった。犬はジャーマンセパードの血が入っているから見事な歯並びをしている。前の2本の牙はほれぼれするほど長く、奥歯はギザギザで、本気で噛んだら腕の一本位簡単に食いちぎることができる。勇敢で美しい犬だった。
犬の話になると、すべてのエピソードが自慢話になってしまって、止められない。
と いうわけで、犬の映画を観た。

原題:「DOG PURPOSE」
監督:ラッセ ハルストン             
原作:ブルース カメロンの同名の小説
キャスト
ジョシュ ガッド : ベイリーの声
デニス クエイド : イーサン
ジュリエット ライランス: イーサンの母
ペギー リプトン : ハンナ
ルーク キーブイ : イーサンの父

ストーリーは
アメリカ東部の小さな街。1960年代
この映画のナレーターは、ベイリー。ゴールデンレトリバーの子犬で、彼の独り言がナレーションになって物語が展開する。「吾輩は猫である」の犬版だ。
野犬狩りから逃れてきた子犬のベイリーは、ごみ収集車の男に捕えられ、暑い夏の車の中に放置されて脱水で死にかけていた。そこを通りかかった少年に救命される。少年イーサンは、一人っ子。夫婦仲のあまり良くない両親に間で、イーサンとベイリーは喜怒哀楽を共にしながら、一緒に成長する。やがて父親は母親に暴力を奮うようになり、家を出て行き、イーサンにはガールフレンドができる。彼はアメリカンフットボールで花形選手となり、あこがれのミシガン州立大学に奨学金つき特待生として進学できることになった。ガールフレンドのハンナも奨学金を得て、一緒に進学できる。沢山の街の人に祝福されて幸せいっぱいの夜、それを羨んだ同級生に、花火を家に放り込まれて、家が全焼してしまった。ベイリーの大活躍によって家族の命は助かるが、イーサンは、崩れ落ちてきた屋根で足に大怪我を負う。イーサンは、家も、スポーツ特待生の資格も、大学進学の夢も、ガールフレンドも失った。

イーサンと母親は、祖父母の住む田舎の農場に身を寄せた。そしてイーサンは足の傷が癒えると地元の農業学校に行くことになった。肩を落として寄宿舎に向かうイーサンを、ベイリーはどこまでも追っていき、見送った。イーサンの居ない静かな農場でベイリーは年をとり亡くなる。

ベイリーの好奇心旺盛で、主人の為に役立ちたいという気持ちが強いため、ベイリーはその後4回も生まれ変わって、この世に帰って来る。
次のベイリーは、ジャーマンセパードとして生まれて来て、プエルトリコの警察官を主人に、k-ナインとして活躍する。何度も表彰されて活躍するが、誘拐犯にあっけなく撃ち殺される。

次の生まれ変わりは、コーギー犬で、飼い主は陽気なアフリカンアメリカンの女子大学生。一緒にピザとアイスクリームを分け合い、彼女が結婚したあとは、たくさんの子供達と愉快で賑やかな生活を楽しみ命を全うする。

最後はセントバーナード犬のミックス。貧しい夫婦に引き取られ、ずっと子犬時代は鎖につながれて運動もできない惨めな生活だったが、棄てられて放浪するうちに、ある日懐かしい匂いをかぐ。そう、それはイーサンが身を寄せていたおじいさんの農場だった。イーサンが居る。ベイリーは、年を取ったイーサンの胸にむかって飛んでいった。イーサンは、肩を落として放火で何もかも失ったときのままだ。わびしい一人暮らし。いつまでも鬱病じゃないだろう。ベイリーには、しなければならないことがある。農場に来る途中、公園でイーサンの恋人だったハンナの匂いをかいだのだ。迷わずベイリーはハンナを探し出して近付いて行く。すっかり年を取ったハンナは、ベイリーの名札を見て驚く。ハンナは半信半疑でベイリーを連れてイーサンの住む農場を訪ねて行く。 二人は数十年ぶりに再会する。嫌いで別れたわけではない。二人は再会して未だに、互いに魅かれ合っていることに気がつく。ベイリーの引き合わせによって、二人は結婚する。
やっと戻るべきところに、すべてが戻ってほっとするベイリー。イーサンは姿かたちも違う、この犬がベイリーの生まれ変わりだったのだということに気付くのだった。
という心温まるお話。

人と犬との結びつきが、よく表現されていて誰もが自分の犬を思い出して、ホロリとする様な映画。だからかもう4か月も劇場公開が続いている。見ようと思っていて見逃して諦めていたが、まだやっていて子供連れの家族やカップルで劇場がいっぱいだったので驚いた。

犬が動物の中で特別なのは、人の喜びを犬が自分の喜びとして捉え共感できる唯一の動物だからだ。嬉しい時、犬も一緒に飛び跳ねてくれて、悲しいときは一緒に嘆いてくれる。これは科学で証明されている。飼い主と犬が、同じ画面を見ながら脳波や断層撮影で脳の動きを調べてみると飼い主が嬉しくて活発な反応を示す脳の場所と同じ脳の反応を犬も見せる。犬はいつも飼い主の気持ちを知りたいと望み、飼い主の一番の理解者でありたいと思っているのだ。

癌末期の痛みの緩和にも犬の存在が効果をみせる。モルヒネで鎮痛効果の見られなくなった患者が犬が横にいてくれるだけで痛みが緩和された報告が沢山出ていて、実験的にホスピスなどで使われている。
痛みは科学的に計測することができない。どこか痛くて医者に行くと我慢できない痛みを10とすると、いまの痛みはいくつくらいですか、とよく聞かれるだろう。たいがいの患者は5か、6くらい、と答える。このような曖昧な痛みは、多分に心理的な影響によるもので、将来への不安や金銭的な心配がなくなり、検査で痛みの原因と解決方法がわかると、それだけで痛みが消失することが多い。一方、癌末期の痛みは、その進行によって鎮痛剤を増していくことになる。多くの場合モルヒネを連用して人は眠りながら死ぬ。しかし愛犬の鎮痛効果が効けば眠ってしまわずに最後まで自分を失わずに死ねる。犬は主人が辛い時共に痛みに共感を示すことができる。言葉をもたない犬だからこそ人に痛みを理論や科学や社会状況や財政状況や様々な問題を越えて、自分のものとして感じてくれる犬の存在が痛みの緩和に効果を示す。

また犬は人間生活の中で、時として家族の家長的役割を果たそうとして、外敵から家族を守ろうとする。自分より弱いものを守ろうとして、人助けを喜んでする犬の姿は神々しい。時として家長になり、時として育児係りを務めてくれる。手加減を知らない幼児が犬を掴んだり、体の上に乗ったり、踏みつけたりしても、それが主人の子供だったら驚くほどの辛抱強さで我慢して子供たちの世話係りとしての務めを果たしてくれる。

本当のことを言えば、犬を持って良い事ばかりじゃない。子犬のときのやんちゃぶりは手加減なしだ。家具はズタズタ ボロボロになるし、他人に迷惑をかけて謝罪してばかりいなければならない。映画に出てくるほど 良い事ばかりじゃない。それでも人は犬を、犬は人を必要とする。それは「人を散歩させてやってるときの犬」の満足そうな、鷹揚で理解のある顔をみれば、よくわかることだ。

2017年6月12日月曜日

女王陛下の誕生日

            
人は一度きり生まれてくるだけだが、これほど沢山の誕生日を持った人も他に居ないだろう。
英国の女王陛下のことだ。彼女は今だに、オーストラリアやニュージーランドなどの国家元首でもある。
私が住むシドニーでは,クイーンズバースデイは、6月12日だが、これはニューサウスウェルス州と、メルボルンのあるヴィクトリア州と、タスマニアの3’州だけで、この3州では、毎年6月の第2月曜日を誕生日と決めて祝日となっている。
パースのある西オーストラリア州は9月25日、ゴールドコーストやブリズベンのあるクイーンズランド州は10月2日が彼女の誕生日とされている。
           
彼女が生まれたのは、1926年4月21日、今年で91歳になった。キングジョージ6世の死にともなって1952年に女王となり歴代最長の期間、女王として君臨し、未だ引退の様子もみせない。

本場英国では、女王の誕生日は6月第2土曜日になる。カナダでは5月25日前の最終月曜日が、クイーンヴィクトリア女王の誕生日で祝日だったので、この日と、現在の女王の誕生日6月14日の両日を祝日として祝う。
フイ―ジ―では、6月第1月曜日が誕生日と決まっている。パブアニューギニアと、ソロモンアイランドでは、6月第2月曜日、ツバルでは6月第2土曜日がクイーンバースデイ。南アメリカのパタゴニア沿岸にある英国領、フォークアイランドでは4月21日が誕生日で祝日。オーストラリアとニュージーランドとニューカレドニアの間にあるノーフォークアイランドでは、6月第2土曜日が誕生日となっている。やれやれ(溜息)。


この日はシドニーでは、主要道路が封鎖されて車が締め出され、ロイヤルミリタリーアカデミーが正装してパレードをするので、沿道を国旗を持った人々や、単に物見高い人々が集まってきてお祝いをしたりする。式典では、その年に活躍した人々に栄誉賞が授与される。
この祭日は、ボランテイアデイともいわれ、どうせ休みだし、することがないから、各地でゴミ拾いや、ホームレスのために炊き出しなどの活動で休日を過ごす人も多い。

午後からはAFL (オーストラリアルールフットボール)の試合がメルボルンクリケットグラウンドで行われる。コリンウッド マグパイとメルボルンン デイモンズが戦うが、これは1856年からずっと行われてきた恒例の試合だ。10万人くらいの人が観戦に来るが、その何十倍の人が、昼からパブでビールをのみながら、テレビ観戦することになっている。

今年はクイーンズバースデイの栄誉賞に900人の人々が選ばれて表彰された。沢山の科学者、文学者、舞踏家、ボランテイア、など様々な分野で活動してきた人が選ばれる。目立ったのは、カンタス航空会社CEOのアラン ジョイスとか、麻薬をバリ島に持ち込んでインドネシアで死刑になった2人のオージー青年の主任弁護士だったジュリアン マホン弁護士。
26年間 アボリジニーのダンサーを育成し、バランガラダンスという組織を監督してきたアボリジニのステファン ペイジ。彼は「ブラック アクテイビスト」として、女王の誕生日の栄誉など受け取らないつもりでいたが、年長者アボリジニ長老たちに説得されて、受け取ることにした、という。活動を認められ、受賞を切っ掛けに沢山の人に見に来てもらうことが大切だからだ。アボリジニの伝統的なダンスだけでなく、白人文化だったバレエを大きく飛び越えた素晴らしい現代的な躍動感いっぱいのダンスは、目をみはる。若いダンサーたちの美しい体の動きには誠に心を打たれる。

女優のケイト ブランシェットも受賞した。彼女はシドニーシアターカンパニーを夫とともに率いて、どんなにロンドンやハリウッドで’活躍していて、仕事をオファーされてもオーストラリアから離れない。パース生まれの謙虚な舞台俳優だ。「THE AVIATOR」でアカデミー賞助演女優賞、ウッデイ アレン監督の「ブルージャスミン」でアカデミー賞主演女優賞を獲得した。気候変動、環境問題の活動家でもあり、難民救済活動家でもある。この女優がとても好きだ。

「勲章」で父のことを、思い出した。父が名誉教授になった年、国から勲章が出るので、受け取るか、と問い合わせて来た。父は、「国が何かをくれるから取りに来い、とは何事か。」と言って怒って断った。早くから実の父親を失くして、その弟の大内兵衛が父親代わりだった。でも断った後で、勲章にはルビーが付いていると聞いて、私が冗談に「どうしてルビーだけもらって、指輪にしてくれなかったの?」と言った時の あわてた父の顔が忘れられない。私の指輪のために、今から勲章を受け取ると、言い直せるだろうか、、と本気で父は慌てたのだった。今でも思い出すと笑ってしまう。

さて、女王の誕生日。休日で電車やバスは間引き運転、休みのカフェやレストランも多い。休日に運転違反をすると2倍の違反切符を取られる。先日混んだ道路で、信号が黄色になったが、大丈夫だと思って右折しきったら、写真をとられていて届いた罰金が520ドル。休日に同じことが起こったら、倍の1040ドル、、、10万円ですぜ。怖くてどこにも出かけられない!

2017年5月3日水曜日

スーマーの「泥水は揺れる」


     


弾き語りミュージシャンのスーマーが最新作、旧作の二つのCDを、シドニーに住む私と娘に送ってくれた。20年、マイクを通さず自分の声が届く範囲の場所で、聴きに来る人だけのために語り弾きしてこられた方。
ファーストアルバムは、「ミンストレル」(吟遊詩人)。2012年にオットのブルースと日本旅行をしたときに、ライブを聴きに行った。手の届くほどの距離で歌ってくれるスーマーを、ブルースは、いいね いいね、と喜んで聴き入って、ふところの深いスーマーの人柄とともにファンになった。

このとき一緒にライブを聴いた私の若い友人夫婦は、新婚旅行から帰ったばかりだったので、彼らのためにスーマーは、お祝いの歌を歌ってくれた。よく響く、よく通る声でたくさんの自作の唄を歌ってくれて、本当に楽しい夜だった。
シドニーに戻って、CDが送られてきたので、車でいつも聴いていた。エンジンがかかるとスーマーが歌い出す、ブルースは週に3日腎臓透析のために病院に往復する。その1時間半のあいだ私達は、いつもスーマーの歌を拍子はずれにハミングして、スーマーと一緒だった。

「ミンストレル」に収録されている曲のうち、「人生いきあたりばったり」を始めとする5曲が、映画「深夜食堂」の中で使われている。
新しいアルバム「泥水は揺れる」は、前作同様、桜井芳樹がプロデュース。でも音にこだわりのある「アナログ盤」で作られた。シドニーのどこに行ったら旧型ステレオやレコード針が手に入るのか、皆目わからない。あきらめていたら、後からCDが作られてスーマーが送ってくれた。ほとんどの曲が スーマーの作詞作曲。

「泥水は揺れる」は、CDのカバーから、中の12曲のひとつひとつの曲ごとに劇画作家エルド吉永のイラストが入っている。その絵は実に曲想によく合っていて、優れた芸術作品に仕上がっている。エルド吉永は、大量出版に抗し、こだわる寡黙な劇画作家。言葉に拘るスーマーと、絵に拘る作家のコーポレーションは大成功。

スーマーはギターを弾くのも、4弦バンジョーを弾くにもピックを使わない。初めてそれを知ったとき思わず彼の手指を触って見ずにはいられなかった。年がら年中強く弦を張ったフィンガ―ボードに指を走らせ、それをつま弾く弦楽奏者の指が、どれほど硬くなってタコができているか見てみたが、予想に反して柔らかい指なのに驚いた。なるほど。ピックを使わない分だけ人の血の通ったやわらかい音を出しているのか。

全曲バックミュージックの方々、ドラム、ピアノ、コントラバス、トランペット、マンドリン、電子オルガン,リコーダなど、デイュオの女性シンガーも含めて、極端に控えめ。そのためスーマーの声が引き立つ。素敵な仲間たちに囲まれているスーマーの様子が見えてくるようだ。聴いていると、自分を飾らない、表裏のない誠実な、心のあたたかい人が歌っているということが伝わってくる。

何度も何度もオットは死にかけて、今はもう自力で歩けなくなり、視力もほぼ盲目同然になった。24時間ケア付きの施設に入所し、腎臓透析には病院付きの救急車で送迎してもらうようになった。言葉もなかなか出てこない。勘違いが多くなった。
人間の5感のなかで、聴覚が一番最後まで残ると言われている。視覚、触覚、嗅覚、味覚がわからなくなり、認識障害が出て来ても、耳だけは人は最後まで聞こえる。

私に余力のあるときは、できるだけオットを家に連れて帰ったり、ドライブに連れ出している。そんなとき車の中で鳴っているのはスーマーの歌だ。ブルースの一生は病気がちで喜びの少ない人生だった。今になって2回ほど日本旅行できたことが、一番良い思い出だったという。スーマーはブルースの喜びに華を添えてくれた。車の中で、ブルースは本当に嬉しそうに拍子をとって聴いている。
ありがとう。
スーマー。

2017年4月16日日曜日

映画 「ヒットラーの忘れもの」

原題:「UNDER SANDET」(砂浜の下)(UNDER THE SAND)
英題:「LAND  OF  MINE」(地雷の土地)
邦題:「ヒットラーの忘れ物」
デンマーク、ドイツ合作映画             
今年度アカデミー外国語賞候補作
監督:マーチン サンフレット
キャスト
ローラン モラー :ラスムサン軍曹
ミケル フォルスガード :エベ大尉
ルイス ホフマン : セバスチャン
ヘルムート モーバッハ:ジョエル
アーネスト レスナー:エミル
ウェルナーレスナー :オスカー

背景
デンマークは現在でもマルグレーデ2世女王が国家元首の立憲君主国家だが、彼女の祖父クリスチャン10世国王の頃、第2次世界大戦では隣国、ナチスドイツに突然先制布告され、戦わずして降伏し、ドイツ軍に侵略された。デンマーク人の中には、志願してドイツ軍に加わる人もいたが、反ナチ活動家となって、レジスタンスの場を提供する者も多かった。駐米大使ヘンリス カウフマンの働きで連合国に接近し、土地をドイツに侵略されながらも連合国扱いされた。
戦争末期、ヨーロッパ戦線の連合軍はフランス、ノルマンデイー上陸を果たし、ドイツ軍を敗退させる。ドイツ軍はノルマンデイーではなく、輸送路が一番短いフランスのカレから、連合軍が侵攻すると考えていた。また同時に、デンマークの西北部の海岸から連合軍が侵攻することも考えていて、阻止するために大量の地雷で、西海岸埋めつくした。

1945年5月、終戦とともにデンマークに進駐していたドイツ軍兵士は捕虜となる。対戦国どうしの捕虜の扱いについては、国際条約ハーグ陸戦条約の規定があるが、ドイツ、デンマーク間は、交戦国ではないため、捕虜虐待禁止や、捕虜の強制労働禁止などの捕虜の扱いに特定の取り決めはなかった。ドイツ軍捕虜たちはデンマーク軍に引き渡され、200万個のドイツ軍が埋めた西海岸の地雷を除去する作業を強制された。従事した捕虜の多くは、戦争末期に非常徴集させられた兵役年齢に達していないテイーンエイジャーだった。

デンマーク人映画監督のマーチン サンドフリットは、地雷撤去に関心があって調べている内に、西海岸に大量のドイツ軍兵士の墓を見つける。どうしてデンマークの海岸沿いで終戦後なのに沢山のドイツ兵が死亡しているのか。調査の結果彼はドイツ軍が埋めた地雷を撤去するためにドイツ軍捕虜が使われた事実を知って、今まで語られることのなかった隠れた歴史を映画にしようと思い至ったという。
映画は、捕虜となったドイツ兵たちが行進してくる。その姿を見て怒りで鼻息荒くなった、ラスムサン軍曹の荒い呼吸音から始まる。

ストーリーは
ラスムサン軍曹は自分の国を侵略していたドイツ軍への怒りを抑えることができない。行進してくる捕虜の中にドイツ国旗を持っている兵を見つけると、飛んでいってぶちのめす。捕虜虐待とか、捕虜の人権とか言ってる場合じゃない。憎きドイツ兵をみて怒り心頭、絶対許せない。彼は12人の捕虜を任された。捕虜たちは、地雷を撤去する作業について訓練を受けた。この12人を生かそうが、殺そうがラスムッセン軍曹次第。3か月で砂浜に埋まった45000個の地雷を撤去してもらおうじゃないか。もともとドイツ兵が埋めた地雷、素手で掘り返して自分の国に持って帰ってくれ。

12人の少年たちは、列を作って砂浜で腹這いになって、棒で砂をつつく。棒に何か当たれば掘り返し、地雷を砂からかき出して信管を抜く。彼らは砂浜での作業以外は、鍵つきの小屋に閉じ込められて、食糧を与えられていない。たまりかねて捕虜の中でリーダー格のセバスチャンが、ラスムサン軍曹に食糧の配給を懇願する。砂浜は、僕たち餓死者で埋まってしまうだろう と。地雷が爆発して、一人の少年の両腕が飛んだ末、死亡した。
軍曹は、少年たちに食糧を配給する。それを見て、エベ大尉は批判的だ。どうして敵に少ない食料を分けなければならないのか。
二人目の被害者が爆破して死んだ。少年たちは空腹に耐えかねて、小屋を抜け出して農家から盗み出したネズミ捕りを知らずに食べ物と思って食べた。軍曹は食べた少年たちに海水を飲ませ、吐しゃさせて救命する。

3人目の被害者は双子の兄だった。弟は錯乱状態になって兄を探そうとする。軍曹は彼にモルヒネを打って鎮まらせ、眠るまで一緒についていてやる。鬼軍曹にも、徐々に少年たちへの優しい感情が芽生えてきている。
基地に出向いたときに、他の隊員達がドイツ兵捕虜に暴力をふるい土下座させたうえ放尿して面白がっている姿をみて、軍曹は虐められている二人の少年を貰い受けてくる。そして今の仕事が終われば国に帰れると、少年たちに約束する。

しかしラスマセン軍曹の大切にしていた唯一の友だった犬が、地雷撤去したはずの浜辺で、地雷を踏んで死んだ。一度は少年たちの父親の様に接し始めていた鬼軍曹は再び態度を硬化する。
そんな矢先、ジープの荷台に集めた数百の地雷を積み込んでいる最中、地雷が大爆発を起こして砂浜にいた4人を除いて全員が死亡する。爆発は強力で、車の残骸さえ残らなかった。残った4人は任務を完了する。終了後は放免されることを約束されていた捕虜たちだったが、地雷除去の熟練者を、軍は放免しない。ラスマセン軍曹の居ないうちに、エベ大尉らは4人の少年を別の地雷撤去の現場に連れ去ってしまう。セバスチャンら4人の捕虜たちは、約束された放免の日のために希望をつないで生きてきたが、ラスマセン軍曹に裏切られたと思い絶望する。

4人は作業の途中で呼ばれて、フードのかかったトラックに乗せられる。どこに行くのか、長いドライブのあとで外に出るように命令された少年たちは、希望を失い仮面のようになった顔で外に出ると、そこに立っていたのはラスマセン軍曹だった。500メートル先はドイツ領だ。走れ、立ち去れ。さっさと帰れ、、、。半信半疑の4人の少年たちは、軍曹の姿を振り返り、振り返りしながら走り去った。
というお話。
鼻息荒く怒っているラスマセン軍曹の顔で始まり、彼の満身の笑顔で映画が終わる。

国境にはデンマーク軍が居るだろう。4人の少年たちが無事に故国に帰れるかどうか疑わしい。軍規に逆らったラスマセン軍曹に待っているのは軍法会議か、厳しい罰則か、全くわからない。映画を観ているものとしては、すべて戦争直後のどさくさの紛れて、なんとかみんな生き延びて欲しいと、切ない希望を託すことができるだけだ。

強力な反戦映画。
砂浜が美しい。地雷撤去したあとの砂浜をはしゃいで走り回る少年たちの姿が、空を舞う天使たちのように美しい。

200万個の地雷。それを撤去するために従事させられた2000人の捕虜たちの映画。まだ兵役年齢に達していない戦争末期に徴発された、貧弱な体をもって腹をすかせた少年たちの姿が哀しい。
ラスマサン軍曹の犬がすごく良い。賢いボーダーコリー。ジープに乗る時も、歩くときもこの犬はいつも軍曹と一緒だ。軍曹が休んでいるとき、犬は幸せそうに全身の重さを軍曹にもたせかけている。演技とは思えない。

ラスマセン軍曹の表情の変化が甚だしい。怒りをたぎらせる鬼軍曹が、少年たちの仲間をかばい合う姿や、いつか家に帰れるという希望を失わず与えられた仕事に励む姿をみて、徐々に硬い表情が緩んでいく。彼とセバスチャンとの会話シーンなど、本当の父と息子のような空気が醸し出されていて、胸を打つ。双子の兄を失った後のエミールが哀しい。兄のオスカーは爆発で肉片さえも吹き飛ばされて何も残らなかった。兄を探して早く見つけ出して家に帰り、父親を助けてレンガを積む仕事をするんだ、と話すのを聞いてエミールが寝付くまで横について居る軍曹の限りなく優しい目。
人間はどんなに憎しみを持っていても、いつまでも鬼ではいられない。ともに飯を食い、同じ空気を呼吸し、同じ光景を見ていれば、人は人を赦すことができる。人は赦す心なしに生きることはできない。

しかし、兵器産業は武器を作り続ける。武器を売るために戦争を作り出している。
地雷ひとつ作るための経費:3ドル
地雷一つ撤去するために必要な経費:200-1000ドル
それでも毎日毎日地雷を作り続ける兵器産業。
米国、ロシア、中国は対人地雷全面禁止条約に署名しようとしない。

カンボジアには米軍が落した600万個の地雷がある。ラオスには、ホーチミンルート補給線をつぶすために米軍が200万トン、8000万発の爆弾を投下し、その30%が不発弾だったため、沢山の地雷撤去ボランテイア組織の活躍にもかかわらず、いまも人々が死んでいる。べtナム戦争は1975年に終了などしていないのだ。
どんな戦争もあってはならないし、起こってはならない。
良い反戦映画は、いつも私達に、自分はどう生きるのかを問いかけてくれる。

最後に「ヒットラーの忘れ物」というタイトルは変。原題はデンマーク語だが、直訳すると「砂の下」、英語の題名は「LAND OF MINE」で「地雷の土地」。どうしてこのまま直訳をタイトルにしなかったのか。忘れ物という言葉は、なにか、間の抜けた「母さん、忘れものだよー。」とか、母親が子供に「忘れ物ない?」と登校前の子に怖い顔で問い質すときなどに常用される言葉で、すぐれた映画のタイトルに合わない。

これまでにも、珍妙なタイトルが多くて、それごとにしつこく文句を言ってきたが、ブログに映画評を書いたので、思い出すだけでもいくつもの映画の例がある。
1)「優しい本泥棒」:「BOOK THIEF」という映画なので、本泥棒で良い。優しい がついて、やさしくて容易いのは泥棒だと言っているのか、泥棒が本だけ持って行ったから優しいのか、本泥棒はみんな優しい人なのか、、、理解不能。ナチによる出版弾圧、思想弾圧、梵書を描いたすぐれた反戦映画なので変なタイトルをつけないで下さい。
2)「ミケランジェロプロジェクト」:「MONUMENT MEN」モニュメント マンと呼ばれた人々が欧米では良く知られていて、ナチが奪った芸術品を取り戻した話なので、そのままのタイトルで良い。ミケランジェロプロジェクトという新語はないし、通じない。
3)「それでも夜が明ける」:「12YEARS SLAVE」苦しくても、夜が明けてハッピーエンドになると、初めからわかっている映画など人は見たくない。12年間奴隷にされた理不尽な人の、本当の話なので、はじめから結果がわかるようなタイトルはつけないで欲しい。
4)「戦禍に光を求めて」:「WATER DIVINER」ウォーターデヴァイナーという水脈を探し出す人で、この言葉は砂漠や荒れ地に住む人しか知らないかもしれないけど、激戦地トルコのガリポリを題材にした反戦映画。大好きな映画なので、奇妙な題をつけられて悲しい。戦禍に光なんかない。
映画の翻訳者には、どんな権限があるのだろう。映画の内容に合わない奇妙な邦題をつけるのは、止めて欲しい。映画監督に失礼ではないか。タイトルまで含めて監督は映画を作る。勝手に翻訳者のセンスでタイトルを「翻訳」してしまって良いのだろうか。これって芸術破壊ではないか。
「ヒットラーの忘れもの」タイトルは悪いが、映画は素晴らしい。見る価値がある。




2017年4月9日日曜日

映画「鷹狩の少女」イーグル ハントレス

                         

原題:「EAGLE HUNTRESS」
イギリス、モンゴル、アメリカ合作ドキュメンタリーフイルム
言語:カザフ語
監督:オット― ベル
アカデミー賞ベストドキュメンタリー賞ノミネート作品

モンゴル国、カザフ族
12世代に渡って鷹狩の名人と言われてきた家系に生まれた13歳の少女、アイショルパンが鷹狩のハンターになるまでのドキュメンタリーフイルム。

鷹狩は紀元前3000年のころから中央アジア、モンゴル高原で行われていた。厳冬期に必要な蛋白源である小動物を取るための生活の知恵だったものが、中国、ヨーロッパに伝えられると、それが全く異なる目的に使われた。神聖ローマ帝国では、鷹を持つことが権威の象徴になって、皇帝たちに愛された。
日本ではすでに古墳時代の埴輪に、手に鷹を乗せた埴輪が発掘されている。日本書紀では、仁徳天皇が鷹狩に興じている記録もある。鷹狩には資金も広い土地も人材も必要なため、天皇を中心としたわずかな特権階級の贅沢な遊びとして広まった。鷹を訓練するための広大な土地に、一般人は出入りを禁じられていた。織田信長や、徳川家康が大の鷹狩愛好家で、諸国の武将らが競って鷹を献上した話は有名だ。鷹は朝鮮半島で捕獲されたものが一番上等な鷹と認定されて高額で取引されていた。

明治維新後にも鷹狩は天皇家の娯楽として継承されてきた。第二次世界大戦後になって、ようやく宮内庁によって実猟は中止されるようになった。敗戦後の国民生活の惨状を思えば、当然のことだが、昭和天皇の時代まで鷹狩が皇室の特権的娯楽だったとは、驚きだ。しかし現在もまだイギリス皇室では、伝統的「キツネ狩り」が、様々な動物保護組織からどんなに批判されても、平気で毎年続行されていることを思えば、皇室の常識外れは世界でも普通のことなのかもしれない。

ところで、本場の本当の鷹狩の話だ。
モンゴルは国土の80%は草原地、そこで遊牧と畜産が行われている。鷹狩は、標高4300メートルのアルタイ山脈、モンゴルとカザフスタンとキリギス共和国の国境地帯に伝わる伝統的な狩猟だ。共産主義時代に多くのカザフスタン人がモンゴルに逃げて来てアルタイ山脈のふもとに定住した。カザフ族はモンゴル国民の4%を占める少数民族で、多くはイスラム教徒だ。これらの人々は、厳冬期マイナス40度にも気温が下がり、土地が雪に覆われる間、タンパク質源となる小動物を狩り、栄養補給しなければならなかった。その方法として鷹を飼い慣らし鷹を使って狩りをする伝統、習慣が継承されてきた。羽を広げると2メートルを超える雌のゴールデンイーグル(イヌワシ)を使い、ウサギやオオカミを捕獲する。

ドキュメンタリーは、男が片手に大きな鷹を止まらせて、残った手で器用に馬を繰りながら黙々と山を登っていくシーンで始まる。馬の背には生きた子羊が括り付けられている。小高い山の頂上に着くと、男は山の神々に祈りをささげ、子羊を殺して皮を剥ぐ。一頭の子羊が丸ごと鷹に与えられる。鷹を山に帰すのだ。長年、家族の一員だった鷹を、男は愛情をこめて撫でさすり、紐を解く。鷹は空高く舞い上がり、羊の肉をついばんでは、羽ばたいて空を飛ぶ。男は再び馬に乗り、振り返り振り返りしながら山を下りて行く。鷹が空に円を描いて、するどくケックエと短く鳴く。情景が詩になっている。美しいシーンだ。

13歳のアイショルパンは長女で、父親の手伝いをするうち、自分でも自分の鷹をもって、狩りに行きたいと願うようになり、父親から鷹の扱い方の手ほどきを受ける。伝統的に鷹狩は男の世界だったから、少女が鷹を持つことに反対する長老たちは多かった。女にできるわけがない、と言われていることごとを彼女は実際にやってみて、自分の可能性を証明しなければならない。
まず鷹を捕獲する。父親の体を結わえてあるロープの片端を腰につけ、山の頂上からザイルで崖を下りていく。崖の中腹に鷹の巣がある。生後数か月で、まだ飛べない鷹の子供を捕獲し、家で寝食を共にして、鷹との信頼関係が培う。鷹は、どこにでも付いてきて、馬上のアイショルパンの腕に安定して乗っていられるようになった。父親は年に一度の鷹祭りに、アイショルパンを出場させることを決意する。

アルタイ山脈のふもと、ウルギイの街では毎年鷹祭りが開催される。各地から選りすぐりの鷹狩の名手が集まってきて、沢山の見物客や観光客の前でその技術を競う。厳重な審査員の前で自分の鷹が、いかに忠実で優秀な狩猟をするか、を名手たちは見せなければならない。世界でも珍しい伝統的な鷹狩を競う祭りとあって、たくさんの人々が集まってきている。鷹の中には、いつもと違う空気のなかで、トチ狂って自分の主人でない人に腕に停まったり、空に飛んでいってそのまま帰って来なかったりする鷹も居る。100組ちかくの鷹狩が集まっていて、少女の鷹狩の登場に困惑している。様々の競技が展開されるなかで、スピード競技が始まった。アイショルパンの鷹が最短時間で彼女の呼びかけに答えて帰って来た。鷹祭り初出場で再年少、しかも女性の候補者が優勝した。女性の登場に快く思っていない候補者たちも、彼女の能力を認めないわけにいかなくなった。アイショルパンのこぼれるような笑顔。

祭りが終わり、本格的な冬が訪れる。アイショルパンは、父親について、厳冬期の山に入る。初めての狩猟だ。二人は数か月の予定で、それぞれの鷹を腕に乗せ、馬で山を越え、凍った湖を越え、獲物を追う。狩りが初めての鷹には、獲物を追い詰めても、死に物狂いで抵抗する狐を鷹は殺すことができない。幾度もの失敗を重ねて、遂にアリショルパンの鷹はキツネを仕留めることができた。アイショルパンは、もう一人前の鷹狩だ。
というお話。

アルタイ山脈とモンゴルの草原が、どこまでも広がっていて美しい。夏には、ゲルと呼ばれる移動式テントを張り、羊たちを山の緑の多い草原に移動させる。足腰の強い馬を自由に操るモンゴル遊牧民たちの、顔に刻まれた深い皺。羊たちの出産を手伝い、弱い子羊を家の中で育てる子供達。短い夏が過ぎると、テントをたたんで、山を下り、堅固に作られた石造りの家に、羊たちと共に戻って来る。家の中での調理、働き者の母親。家族の密接な結びつき、徹底した家長制度。鷹狩の名人の父親について回るアイショルパンの嬉々とした様子。ひび割れたあかぎれのある手にやっと手に入れたマヌキュアを懸命に塗るアイショルパンの表情をカメラは逃さない。

草原の騎馬民族、遊牧民族の人々の暮らしが、美しい絵のようだ。カジフスタン語による父娘の短い会話も印象的だ。馬にまたがり、片手を高く鷹のために掲げたままの姿勢で、片手だけで馬を繰る父娘の勇壮な姿は感動的だ。
椎名誠による映画「白い馬」も秀逸な映画だった。彼はモンゴルの人々が馬と共生する姿に心を奪われて、現地に何年も通い詰めた末、彼の映画を作った。全編が会話の極端に少ない抒情詩になっている。モンゴル騎馬民族の競馬競技を競う迫力あるシーン、短い夏を楽しむ人々を見ていると、広大な草原を走る風を感じることができる。

鷹狩の映画撮影チームは、数年にわたってアイショルパンの家族の生活に密着してドキュメンタリーフイルムを作成した。このフイルムはハンプトン映画祭でベストドキュメンタリー賞を獲得し、アカデミー賞でもドキュメンタリー部門にノミネートされた。賞金と映画上映で得られた収益すべては、アイショルパンの教育費となって、彼女は希望通り医者になったそうだ。

誇り高い騎馬民族、草原に生きる人々、機能的な移動式住居、足腰の強い馬による競馬競技、相撲競技に興じる若者たち、着飾った馬たち、鷹狩り、こうした美しい情景や伝統文化と生活様式は、近い将来消滅していく。いずれ鷹狩は、効率の良い銃による狩猟に、騎馬による羊の移動はモーターバイクやドローンに取って代わられる。失われる前にフイルムに残しておかないと永遠に私達は見ることができなくなる。
雄大な中国大陸の空気を呼吸し、草原の馬のひずめの音を聞き、走り抜ける馬が作る風に触れ、鷹を呼ぶアイショルパンの空を突き抜けるような声を聞き、それに応える鋭い鷹の声を聞いた。映画の作り出す美しい抒情詩を堪能した。
稀有な、貴重なドキュメンタリーだ。



2017年4月1日土曜日

チャンイーモーの「ザ グレイトウォール」

チャンイーモーが、お金をじゃぶじゃぶ使って、すごく馬鹿っぽい娯楽映画を作った。150ミリオンドル(15億円)使って製作されたファンタジーアドベンチャーフイルム。
彼は20年前から、中国が誇る「万里の長城」をテーマにした映画を作って欲しいと、中国政府からオファーされていたので、機が熟すのを待って、要望に応えたのだそうだ。映画の中に「これが中国の神髄」と言えるものが描かれているんだよ、と自分で言っている。
チャンイーモーの初めての英語の映画。映画は全部中国で撮影された。実際の万里の長城を使って撮影することは許可されなかったため、3つの長城を映画用に作って撮影した。エキストラを含めると中国人、数千人の映画出演者のために、100人以上の通訳が撮影に付き添って働いたという。
主役のマットデーモンが、テレビインタビューで「中国人監督のもとで中国の長城の映画に出ましたね。」と言われて、開口一番、「Yes,  build a great wall to keep Trump out」万里の長城を作ってトランプをアメリカから追い出そうとしてたんだよ。と言って笑わせていた。ハリウッドは徹底して反トランプだ。

中米合作映画
監督:チャンイーモー         
キャスト
マット デイモン:ウィリアム
ペドロ パスカル:トヴァル
ジン テイアン:リン隊長
アンディ ラオ:ナムレス砦の総司令官ワン
ルー ハン  :兵士ペヤング
ウィリアム ダフォー:バラード先生
他、出演者数千人

宋の仁宗皇帝の時代。
11世紀の中国は世界の中でも最も文明が発達していた。印刷技術が進み、世界で初めて紙を材料にした貨幣を使って銀行を通じた貨幣経済が発達していた。科挙制度は充実し、北方や西方からの敵にたいしては和睦で交渉、異民族からの侵略を防いでいた。またコンパスが作られ、海洋事業も進み、多数の商業都市からは優れた陶器などが外国に輸出されていた。中でも、火薬の発明は、世界の侵略や戦争の形態をこれまでと全く変えてしまう、強いインパクトを持っていた。

映画のストーリーは
火薬を求めて、中国の国境線を越えてたくさんの盗賊団や密売人がやってきていた。アイルランド人のウィリアムとトヴァルら無法者たちは、ある日追手から逃れて洞窟に逃げ込んだところ、何か途轍もなく大きな怪物に襲われる。図体が大きい割に動きが速い。辛うじてウィリアムは怪物の腕を切り落として、トヴァルとともに生き残るが、他の者たちは全員、怪物に食い殺される。
翌日二人は彷徨っているところを、長城を警備する兵士達に捕らわれて、ナムレス砦に連行される。砦では数千人の兵士たちが、警備しており、二人はワン総司令官(アンディ ラオ)とリン隊長(ジン テイアン)の前に引き出される。そこでウィリアムが怪物の腕を切り落としたとき剣に付いたウロコのようなものを見せると、一同の間に緊張が走る。怪物は60年ごとに群れをなして人を襲ってくる。2000年前からゴウウ山脈の奥から神が、奢り多い人々を制裁するために送って来る試練なのだと伝えられている。無数の怪獣は一頭の女王から生まれてくるので、女王を倒さなければ怪獣は無限に生産されて、人々を苦しめる。

二人は捕らわれるが、このとき無数の怪獣が砦を襲ってきた。この日のために軍事訓練をしてきた兵士たちは恐れることなく怪獣に立ち向かう。ウィリアムとトヴァルは、バラードというこの砦に何十年も捉えられていて、兵士たちに英語を教えて来たという男に、縄を解いてもらい、兵士たちと共に怪獣と戦う。怪獣は沢山の犠牲者を出したあと、いったん引き上げた。1頭だけ砦のなかに残された怪獣を兵士たちは生け捕りにして柵に入れ、首都の朝廷に運ぶことにした。怪獣は磁石を近くに置くとおとなしくなることがわかった。

怪獣は鎧を着たサイのような体形をしていて、文字通り無数に押し寄せてくるので人の力ではなかなか殺せない。リン隊長の指揮する女性兵士たちは、足に縄をつけ、砦の壁からバンジージャンプで、下から襲ってくる怪獣たちと勇敢に戦う。次々と殺されて血塗られた縄に、また次の兵士たちが結ばれて、ジャンプしていく。女性兵士たちは自分が死んでも、同じ志を持った同志たちが必ず後を追ってくることを確信している。リン隊長は、「わたしたちは信頼で結ばれているの。」とウィリアムに言う。それを聞いて、ウィリアムは、自分には信頼して命を預けられるような人が居ただろうか、と自分に問う。一方、トヴァルとバラードは、この時ばかりと隠していた火薬を盗んで二人で砦から逃亡する。ウィリアムは同行することを拒否する。

2度目の怪獣による襲撃が始まった。火薬を使って兵士たちは、ウィリアムとともに怪獣と戦う。一方、生け捕りにした怪獣は、首都に運ばれて朝廷に献上されたが、若い天皇は「馬鹿殿様」で、柵の中の怪獣をからかって玩んだので、怒った怪獣は檻を破り暴れまわって仲間を呼び寄せる。呼ばれた怪獣たちは砦を後にして、首都に向かった。首都は大混乱、人々は次々と襲われて命を失う。リン隊長は熱気球に乗って首都に天皇を助けに行く。ウィリアムも熱気球に乗って後を追う。リン隊長の乗った気球が割れて、怪獣に囲まれ絶体絶命のところを、約束通りにちゃんとウィリアムに救われる。そこで、ウィリアム達は、怪獣の群れの中に女王を発見。火薬を女王に向けて何度も何度も爆発させて、遂に女王を殺すことに成功し、怪獣たちは退却。再び平和が戻って来た。
ウィリアムは、リン隊長に、「火薬か自由か」ひとつを選ぶように言われ、リンに心を残しながらも去っていく。
というおはなし。

目もと涼しい美青年が次々と出て来て、「おお君が映画の主人公か!」と思って観ていると、また次の美青年が出て来て「そうか、キミが本当の主人公だったのか!」と納得していたら、次にはもっと可愛いヤツが出てくる、という訳でもう 何が何だかわからない。話の筋などどうでも良くなってきて画面を見ているだけで楽しい。もう中年のマット デイモンなど目じゃないです。これは、「美青年見放題のおばさん用の映画か」、と思っていたら、いやいや、、美顔美形の少女達はもっとすごくて、バンジージャンプで空を飛び、城壁から突き出た踏み台を蹴って、さかさになったまま剣と盾で怪獣と戦う。勇ましく、強く、美しい。その少女達がさんざん怪獣と戦った末、単なる肉片となって、つるされていたロープだけが帰って来る。ひるまずに次の美少女が壁を蹴って去っていく。美しいものたちが正義で、この世のものと思えない醜い怪獣が悪だから、もう死に物狂いでやっつけるしかない。

ウィリアムは中国から火薬を盗み出して密輸入しようとした無法者だったが、互いに信頼関係で結ばれ強固な意志をもって生きている兵士たちをみて自分も出来る限りのことを人の為にしたいと思うようになる。チャンイーモー監督は、この映画に中国の「心」が込められていると言っているが「信頼」が彼のテーマなのだろうか。よくわからない。チャンイーモーはただ「でかい映画作品」を作りたかっただけではないか。

2000年、チャンイーモーは中国で初めて、プッチーニ作曲のオペラ「トランドット」を演出した。初めて西洋歌劇の公演を中国で行うに当たって、チャンイーモーは何百人もの大人数の出演者で、どでかい舞台を作った。普通プッチーニのオペラ「トランドット」の舞台は男女合唱団を入れても50人以下。だがチャンイーモーは、数百人の出演者で舞台を埋めた。「スぺキュタクラー!」「豪華絢爛」ド派手というわけだ。この北京の紫禁城での公演が、舞台造りからリハーサルを含めて、「チャンイーモーのオペラ:トランドット」というフイルムに納められた。これを映画館で観た。準備が大変だったのは、フイルムを観なくても想像できる。1公演に10万人だったかの観客のために、イタリアから監督を呼んで、舞台造りから始めて、合唱団の組織化、舞踏団の協力、何もかも初めてで大変だったと思う。
出来上がったオペラを観ていて、落胆したのは、トランドット姫に心奪われた王子が胸をかきむしって恋する苦しさを吐露してアリアを歌っているその後で、ポーズを取っている兵士たちが「チェ!やってられないよなー。もうゲッソリよ。」「全くねー。」という感じでおしゃべりしている姿がはっきり写っている。10万人が見守る舞台の上でダレ切っている役者達。フイルムを編集するときだって、おかしな背景が写らないように普通は編集するだろ。フイルム編集者は何を見ていたのか。そりゃ舞台の上に200人もの役者たちが居れば、いろいろあるだろうし疲れるだろうが、舞台の上の出演者なのだからその自覚があって良い。プッチーニのオペラ トランドットを侮辱しないで。彼の演出した「でかいオペラ」は成功したと言えるのだろうか。

2008年 北京オリンピック 世紀の大事業五輪の開会式、閉会式の演出をチャンイーモーは任された。期待された割には、ふたを開けてみると、開会式の派手な花火はCGだったり、会場で独唱した可愛い女の子は「くちパク」で他の子供が歌っていたり、少数民族服に身を包んで踊って歌った青年少女達は、少数民族どころか北京の踊り子たちだったなどなど、スキャンダルばかりで酷評された。オリンピックそのものに反対だから競技をテレビで全く見なかったが、開会式の模様がニュースで流れたとき、数百人の若い少年少女が会場に輪になって手をつないで踊りながら歌っていた。ちょうど「オーストラリア選手たちの入場です!」とアナウンサーが興奮している後で少女達がくたびれた顔で「全く嫌になるねー。」という感じでおしゃべりしながら体を動かしていた。またか。数分の映像でさえ、そんなシーンを目撃して、苦笑するしかない。ただ人を沢山使った「でかいオリンピック」を、彼は演出したくて演出したのか。

チャンイーモーは、中国で初めてのオペラを演出し、北京オリンピックの開会式と閉会式を演出し、そして、中国が誇る万里の長城の映画を監督し、中国の国宝みたいな存在になった。けれど、結果は、どれも「雑で、ただでかいだけ」。人を沢山使えば良いという訳ではないだろう。お金をたくさんつぎ込めば良い作品ができるわけでもない。でも彼の場合、人を多く使って大規模な作品になりすぎたために、内容が雑になったという訳ではないような気がする。雑で、でかいだけの作品を何度も何度も繰り返して作る人は、かりに僅かな資金で限られた人数で小さな作品を作ってみても、もう心に響くものは作れないのではないか。

かつて、自由に物が言えず、自由に作品を作ることが出来なかった弾圧下で、本当に魂のある作品を作った監督だっただけに、残念だ。そう、チャンイーモーはアンウェイウェイではない。わかっている。でもそれが哀しい。

2017年3月25日土曜日

メッツオペラHD 「ロメオとジュリエット」

オペラが大好き。
この世で一番美しい音は、よく訓練された男のテナーの音だと思う。
オペラハウスの会場の華やかさ。舞台下のオーケストラピットの楽士達の音合わせのにぎやかさ。指揮者がさっそうと入って来る時の期待の高まり。オペラの物語が始まる前の興奮と昂揚感、そういったオペラ開始前の華やぎは、他の何にも代えがたい嬉しさだ。
オペラ「真夏の夜の物語」では、舞台が宮廷の庭になっていて、舞台の端に二階建ての楽士席が作られていた。そこに緑と銀色の宮廷侍従の服を着て、房のついた飾り帽を被った
楽士達が、次々とバイオリンを抱えたり、トランペットをもって着席して、序曲が始まったのだ。何て素敵なアイデア!嬉しくて、跳ねまわりたくなる自分を抑えるのに苦労した。

10年くらい前は、毎月の様にオペラハウスに通っていた。会員になって、中央の前から5番目。すごく良い席を確保していた。しかし、シドニーオペラハウスは、外観の良さに反して、年寄りや障害者にとっては最悪の建物だ。外からオペラハウスの正面玄関に入るのには、数十段の階段を登るが、建物に入りクロークから劇場まで、さらに数十段の階段を登らなければ、中に入れない。劇場入口には入れても、席が後の方だったりしたら、またさらに階段だ。クロークの前に、劇場までの小さなエレベーターができる前までは、足の悪い人は、舞台裏まで歩いて舞台の大道具を運ぶ荷物用のエレベーターで、劇場に上らなければならなかった。そのために案内人が来るのを待って、エレベーターを手動してもらう。また、休憩時間にトイレにいくのも、また階段を下りて登らなければならない。
足の悪いオットは、杖をついてオペラに行くのを諦めて、次に車椅子でオペラハウスに行くのを諦めて、遂にオペラに行くことを完全の諦めた。今、オペラハウスが目に入っても、オットを連れて段差を乗り越えられなくて車椅子で立ち往生したり、空気調整が異常に悪い地下の駐車場で喘息発作を起こして死にかかったりした悪い記憶しか戻ってこない。半分国民の寄付で作られたオペラハウスなのに、どうして健康で若い人しか入れないような建物を作ったのか。愚かだ。バーロー。こんなところには、もう二度と行かない。
もっと上等なオペラを、フイルムで観た方が良い。 というわけで、
ニューヨークメトロポリタンオペラの、ライブHDフイルムだ。

オペラ「ロメオとジュリエット」
作曲: シャルル グノー
原作: ウィリアム シェイクスピア          

初演: 1867年 パリ テアトル リリークシアター
2時間40分 フランス語、英語タイトル
指揮: ジアナンドレア ノセダ
製作: バートレット シア
ジュリエット: ダイアナ ダムラウ
ロメオ : ヴィットリオ グリゴロ
ステファーノ:バ―ジニー ヴェレッツ
メルキシオ: エリオット マドレ

背景
14世紀 イタリア ヴェローナ

ヴェローナ支配層は、1239年、神聖ローマ帝国の皇帝フリードリッヒ2世の協力を得て、近隣諸国を征服し、勢力を拡大していた。それをローマ教皇グレゴリウス9世は 反キリスト的だと非難。ヴェローナの支配層は教皇派と皇帝派に分裂して、し烈な抗争を繰り広げた。皇帝派のモンターギュ家と、教皇派のキャピレット家とは、血を血で洗う勢力争いをくり返していた。

第1幕
キャピレット家のジュリエットは14歳になり、父親はヴェローナ侯爵の甥と娘を結婚させようと、やっきになっていた。しかし蝶よ花よと大切に育てられたジュリエットには、結婚に何の興味も感じられない。ジュリエットは、「恋をするってどんなかしら。炎のような愛に生きてみたい。」とアリアで歌う。
モンターギュ家のロメオは、友人のメルキューシオと、面白半分にキャピレット家の仮面舞踏会に紛れこんで、キャピレット家の一人娘ジュリエットに出会う。ひと目で二人は恋に陥るが、二人は後で、相手が敵同士の家の出であることを知らされる。
第2幕
その夜、眠れないロメオは、キャピレット家の庭に忍び込み、ジュリエットのいるバルコニーを見つめながら思いのたけを告白して歌う。「ぼくの太陽、登れよ登れ、ぼくの心の太陽」と、絶唱。ジュリエットも、バルコニーから姿を現して、自分の思いを伝える。
第3幕
ロメオは旧知の神父を訪ね、結婚したいと申し出る。そこに乳母を連れたジュリエットもやってきて、二人は秘密裏に結婚の誓いをたてる。ふたりの熱唱と、乳母、神父を含めた4重唱が美しい。
キャピレット家の仮装舞踏会から、一度も家に帰ってこないロメオを、メルキューシオたちは心配している。一方、モンターギュ家の男達は、自分の家の舞踏会に忍び込んでいたロメオのことを怒っていて制裁しようと、探し回っていた。街は不穏な空気の覆われていた。結婚式を終えたロメオが街頭で、メルキューシオ家の男たちに見つかって囲まれる。駆け付けたモンターギュ家の者たちと、剣を交えた激しい諍いが始まる。ロメオは親友のメルキューシオを殺されてしまい、いきりたって、メルキューシオ家の跡取り息子を殺してしまう。 その夜、ロメオとジュリエットは、互いの運命を嘆きながら、ジュリエットの部屋で初夜を迎える。ロメオは国外追放と宣告されて、二度とヴェローナの街に帰って来られない。延々と、二人の悲嘆にくれるデユエット。
第4幕
ロメオはヴェローナを去った。ジュリエットは父の強い勧めでヴェローナ侯爵の甥と結婚することになった。結婚を避けるために、どうしたら良いのか、ジュリエットはローランス神父に助けを求める。神父は、みんながジュリエットは死んだと思わせるように、仮死状態になる薬を与える。
第5幕
ジュリエットは霊安室で眠っている。そこにローランド神父の使いと入れ違いに、ロメオが、ジュリエットが死んだと聞かされて駆けつける。そしてジュリエットの死んだ姿を見て、後を追って毒を一気にあおる。その後、目が覚めたジュリエットは、ロメオを見て再会の喜びにデュエットを歌うが、ロメオは徐々に力を失う。ジュリエットに問われて、ロメオはすでに毒薬を飲んでしまったことを打ち明ける。ジュリエットは迷わずロメオの短剣を胸に突き付けて、ロメオは最後の力を振り絞って刃を突き刺し、二人は共に倒れる。
というストーリー。

ジュリエット役は、ドイツ人のソプラノ、ダイアナ ダンラウ。厚みのある力強いソプラノだ。表情が豊かで体当たりの演技もとても良かった。14歳のジュリエットが嬉しい時にぴょんぴょん跳ねたり、父親に甘えてしなだれかかったり表現が優れていて、30歳近くの亭主もちの女性と思えない。独唱の多いオペラで3時間ちかく、ほとんど二人舞台といって良い過酷な舞台。インタビューに答えて、「一日一日をサバイブすることで一杯で、他のことなど何も考えられない。」と言っていた。文字通りの大役なのだろう。

ロメオ役はイタリア人テナーのヴィットリア グリゴロ。彼の熱演がものすごく熱い。14歳の少年の役なのだから、もうちょっと力を抜いてソフトにやってくれと言いたくなる。汗をぶちまけながら全身で熱唱、このまま数か月の公演で体がもつのか、他人事ながら心配になる。インタビューで、ジュリエットを横に抱いて、「ぼくは彼女と結婚するんだ。」と宣言して、完全に役になりきっている。決闘場面など本当に剣を抜いてやり合って、トムクルーズ並に活躍。ジュリエットのいるバルコニーに飛び上り、3メートルの高さの門柱に半分足が浮いた状態で、ジュリエット、ぼくの太陽、太陽と、歌いまくっていた。これほど動きの激しいロメオ役も珍しい。

ニューヨークタイムスの批評を読んでみると、「たしかにこの二人が愛を交わし合い、これでもかこれでもかと熱唱する姿がとてもリアルだ、二人で最高の愛のケミストを発散しまくっている。」 と書いてあった。二人はこのオペラの前は、「マノン レスコー」を共演していた。この後、半年後には、「ホフマンの舟歌」でまた共演するようだ。相性が良いのだろう。二人の共演、これからも楽しみかもしれない。心配かもしれない。互いの家族が壊れて血を見るかもしれない。どうでもいいが。

オペラ「ロメオとジュリエット」は、シャルル グノーが作曲し、フランス語で歌うが、作風は古典の中の古典。重鎮グノーの作品だから、オペラ「ファウスト」もそうだが、重くて宗教色も強い。
一方、バレエの「ロメオとジュリエット」は、セルゲイ プロコフィエフ作曲で、現代的で明るい。人気作品だから、今も昔もたくさんのバレエ団が、これを演じているが、中でも1965年ロイヤルバレエロンドンで、ルドルフ ヌレエフと、マーゴ フォンテイーンが演じた作品が最高で、これ以前にも、これ以降にも、この二人以上に美しいロメオとジュリエットはあり得ない、と伝説になっている。まことに夢のような組み合わせだ。

映画では、1968年 フランコ ゼフィレリ監督によるオリビア ハッセイと、レオナルド ホワイテイングが演じた「ロメオとジュリエット」を、最も高く評価したい。このとき17歳だったオリビア ハッセイの、みずみずしく、ういういしくもまた清楚な美しさには目を見張る。相手役の18歳のレオナルド ホワイテイングも、稀有な美少年、本当に美しかった。この映画の後、レオナルドは二度と映画出演せず、その世界から遠ざかってしまった。オリビア ハッセイも、この映画のあと全然良い映画にもましな役にも恵まれなかった。
2015年になって、二人は 「ソーシャル スーサイド」というスリラーミステリー映画で、47年ぶりに、仲良く共演して話題になった。すっかり年を取ったレオナルドは、みごとに額が広くなってふくよかな顔になっていた。昔の絶世の美少年の面影もない。大昔のロメオとジュリエットが47年ぶりに共演したイギリス映画、ということだけが話題の2流作品だったらしく、こちらでは公開されなかったので、観ていない。

このあと1996年、クレア デインズとレオナルド デカプリオが、映画「ロメオとジュリエット」を演じたが、不興だったようだ。2013年には、ヘイリー スタンフェルドと ダグラス ブースで再びイタリア映画、「ロメオとジュリエット」が作られている。
またバーンスタインのミュージカル「ウェスト サイド ストーリー」も、このシェイクスピア作品がもとになっている。
もともとは、シェイクスピアのオリジナルではなく、ギリシャ神話がもとになっているが、人々は悲劇が好きだから、この作品はこれからも、オペラや、バレエや、ミュージカルや、映画で繰り返し繰り返し 全世界で演じられて、人々の涙をそそることだろう。そういえば、フイルムを見ながら泣いている人が結構いて、二人の絶唱をききながら、あちこちで嗚咽したり、鼻をかんだりしている音がした。
土曜日の午後、家から魔法瓶に甘い紅茶とサンドイッチを持ち込んでのひとり観劇。
こういう週末、全然わるくないぞ。




2017年3月19日日曜日

映画「ボブという名のストリートキャット」




                           

原題:「A STREET CAT NAMED BOB」
イギリス映画
監督 :ロジャー スポテイスウッド
キャスト
ボブ : ボブ自身
ジェームス:ルーク トレタウェイ
べテイ :ルタ ゲドミンタス
ヴァル(ソーシャルワーカー):ジョアナ フロガテイ
父 二―ガル : アントニー ヘッド

今から15年前のことだが、シドニー北部で最大規模のベッド数を持つ公立病院に勤めていた間、病院の前に建つアパートに住んでいた。病院は広大な敷地に、メインビルデイング、研究室、小児科病棟、透析室、産科、精神科、など独立したビルが散在していた。目の前に住んでいても、務めていたビルに行くまで歩くと結構距離があって、巨大な樫の樹や、ガムトリーが茂る木々の間を歩いていると、枝から枝へと飛び移る猫サイズの有袋類ポッサムによく出会った。大きいリスのような姿で、両手で木の実を抱えてすわって食べる様子は、愛らしい。出会うと嬉しく、ポッサムのためにいつも果物を持ち歩いていた。牧歌的な時代だった。
やがて敷地一杯に新しい総合病院が建てられ、100年を超える歴史を持った木々たちは、無残に切り倒され、土の香りもなくなった。大きな建物の一角に、ドアには何も書かれていないが、それとわかる「メサドンクリニック」が開設された。ヘロイン中毒者と一目でわかる顔つきの人々が朝早くから並んで順番を待っている。メサドンを飲んだ後、仲間同士つるんでから、彼らはそれぞれ散っていく。

薬物中毒者が薬を絶ち、自立するには、大変困難を伴う。常習者は薬物が体から脱けると自分の意志に関わらず体が薬物を求める。一挙に薬物を中止することができないので、メサドンという代行ヘロインを毎日飲んで、徐々に薬物依存から抜け出していく。メサドンはビンごと患者に渡すと貯めて売ったりするから、必ず毎日クリニックに通わせて、医師や看護師の前で飲ませる。医療側も毎日患者の顔が見られると、様子がわかるので管理しやすい。メサドンを飲んでいても、働き出してお金ができるとヘロインを打って、過剰投与で命を失ったり、行倒れになるかもしれない。メサドンをもらいに来なくなると、警察の世話になっているのか、交通費もなくて困っているのか、など状態を把握し福祉関係者と連絡を取り合って必要な援助をすることができる。

シドニー最大の歓楽街キングスクロスには、ユナイテッド教会が経営する「ヘロイン注射所」がある。やってきた人に医師や看護師は、清潔な使い捨ての注射器と駆血帯をあげる。来た人はこれを受け取って、自分でヘロインを打つ。おかげで過剰投与で命を失うことも、注射器の使いまわしで HIVなど感染症を拡散することもない。薬物過剰投与で命を失う若い人が後を絶たないので、他州でも同じような注射所を開設する動きが出ている。薬物の関しては、今のところ、メサドンプログラムと、ヘロイン注射所の継続によって、かなりの感染症が防げて、過剰投与による死亡者を減らす効果が出ている。

というわけで、「ボブという名のストリートキャット」だ。
同名のタイトル原作本が世界28国で翻訳紹介されてベストセラーを記録している。日本でも愛読されているそうだが、全然知らなかった。ボブと名付けた野良猫に出会ったジェームス ボーエンというストリートミュージシャンが、猫と暮らすうちヘロイン中毒から立ち直ることができたという実話を、映画化したもの。

ストーリーは
ジェームスはオーストラリア生まれだが、父の再婚を機会にロンドンに移って来た。プロのミュージシャンを目指していたが、うまくいかず、父の再婚相手とも良い関係を築けない。家にいたたまれず家出、学校も放校となる。ドロップアウトの終着駅、ヘロイン中毒者となり、住むところも失い、コペントガーデンでギターを弾いて、その日暮らしをしていた。お金がたまるとつい薬を打つ。何度目かの過剰投与で死にかかって病院に送られたあと、ソーシャルワーカーの計らいで、古いアパートを提供され、メサドンプログラムを始める。

アパート生活が始まって、ある日、大きな傷をうけた茶色の猫を保護する。彼は有り金を全部はたいて、猫の治療をしてもらい、猫と一緒に生活を始める。動物病院の看護婦とも仲良くなって友達になる。ボブと名付けた猫は、すっかりジェームスに慣れて、ジェームスがバスで、1時間もかけてコペントガーデンにバスキングに稼ぎに行くときも、一緒についてくる。そのうちボブは、バスキングでギターを弾くジェームスの肩の上に載ったり、歌うジェームスのギターの上に座り込んだりするようになって、道行く人々が、珍しがって足を止めるようになった。猫と一緒のバスキングが人気を呼んで、稼ぎも良くなると、他のストリートミュージシャンの嫉妬、ねたみうらみを買う。遂に喧嘩になって、ジェームスはコペントガーデン出入り中止の命令を言い渡される。バスキングできなくなると生活費を稼げない。

被雇用者が雑誌を売るとその何割かのお金を受け取ることができる「イシュー」を、街角で売ることになった。ここでもボブを肩に乗せたジェームスは、たちまち人気者になって他の「イシュー」の売り子たちの顰蹙をかう。それで「イシュー」を売ることも禁止されてしまった。クリスマスにジェームスは、なけなしの金で買ったシャンパンをもって父の家に訪ねていくが、再婚した母は冷たく、その子供達は面白がってボブを追いまわし、散々な目に遭ってジェームスとボブは、家から追い出される。せっかく友達になった動物病院の看護婦とも仲たがいしてしまった。おまけに殴り合いのけんかで警察で留置されているあいだに、ボブを失ってしまった。

最低だ。ボブはもういない。バスキングが出来なければ稼げない。仕事も友達も失い、もう何の希望もない。そんな情けない、どん底のジェームスのところに、ひょっこりボブが帰って来る。ジェームスは、もう2度とボブに辛い目に遭わせないように、心を決めてヘロインもメサドンも絶つ。地獄のような数週間、そして数か月、、、。ボブがいつも見守っている。遂にジェームスは完全に薬から抜け出すことができた。ボブのおかげだ。
というお話。

依存症は性格のひとつで、もって生まれてくる。だからひとつのことに依存する人は、年を取ったり、家庭環境が変わっても依存する対象が変わるだけで、依存そのものは無くならないことが多い。タバコ依存症の人は、コーヒー依存症にも、睡眠薬依存症にも、アルコール中毒症にも、薬物依存症にもなる可能性がある。依存を絶ち、立ち直るには、どうしてそれがなければ居られなくなったのか冷静に自己分析して、ならばどうやって無くても居られるか解決方法を導き出し、よそからの援助を仰がなければならない。ドクターや医療関係者や施設やソーシャルワーカーや福祉施設の利用は必須だ。
自分の力だけで抜け出せる人は少ない。まして施設に入らないで自力で薬を断つのは容易ではない。ジェームスが、ばかをやってどん底まで落ちた時、それでもジェームスのところに戻ってきてくれたボブのために自己再生することができた男の実話は、同じような状況にある人達に勇気を与えることができるだろう。

この映画の良さは、1にも2にも猫のボブにある。映画化された実話をボブ本人が映画特別出演している。ジェームスは役者のジェームスだが、本物のジェームスの肩に乗るようにして役者のジェームスが歌っている間、彼の肩やギターの上に座って、ちゃんとじっとしている。これはすごい。天才的な立派な役者ではないか。それが、丸々とした可愛い猫なのだ。ジェームスのお話が本になり、ベストセラーを記録し、それから映画が撮影されるまで何年も経っているのにボブは、かっぷく良く丸々として年齢を感じさせず、美しい毛並みを誇って平然としている。立って姿よく、座って気高く美しく、歩く姿は堂々として華麗そのもの。すばらしい。
映画が公開され、英国映画ベストフイルム賞を受賞し、キャサリン ミドルトンからも頭をなでられた。フェイスブックにアカウントを持ち、そのフォロワーは20万人だそうだ。うーん!

ボブが自分のところに帰ってきてくれたから、ジェームスはドラッグから抜け出せることができた。しかし、実のところは、猫は飼い主を救おうとして帰って来たわけではない。はなから猫には、飼い主などというものは居ない自由な存在ではなかろうか。猫は単に居心地の良い場所に戻って来ただけ。
気がむいたから帰って来たのさ。
猫は、そうやって猫である、というだけで人々を救う。



2017年3月2日木曜日

大混乱のアカデミー賞授賞式と、映画「HIDDEN FIGURES」

                             


2017年2月26日に開催されたアカデミー賞授賞式は、特別おもしろかった。
アカデミー賞のなかで一番肝心な、「作品賞」は、毎年5時間にわたる授賞式で最後の最後に発表される。最後のとっておきの栄誉だ。だからこの栄誉を受けた作品関係者は、受賞作の監督だけでなく、作品に関わった製作者やキャストの面々もステージに上がって、祝福を受け監督が受賞スピーチをするのが通例だ。
今年は、「ムーンライト」が受賞した。が、どこをとち狂ったか発表者が 「ララ ランド」と間違えて発表してしまい、「ララ ランド」の面々がステージに上がり、役者たちも抱き合い大喜びをして、監督は涙ながら受賞スピーチをし、製作者もスピーチをしている最中に、司会者から「重大な間違いが起きました。受賞作品は 「ララ ランド」ではなく、「ムーンライト」です。」と叫び始め、檀上は大混乱。急遽登場した 「ムーンライト」の監督の受賞スピーチが始まっても、ステージの 「ララ ランド」の面々は意味が解らず、茫然と檀上に残ったまま、ステージの上はただただ混乱して人々が右往左往していた。

映画「ボニーとクライド」は、1967年アーサーペンによって作られた映画史上で後世に残る名画だが、これを主演したのが、フェイ ダナウェイと、ウオーレン ビューテイーだった。1934年に起こった男女による連続銀行強盗の実際にあった事件を映画化したもので、二人は最後、警官に包囲され、それぞれが50発以上の銃弾を浴びて惨殺された。1930年代の少年少女の行き場のない退廃的な社会状況の中で、貧しく恵まれない大人になったばかりの男女が強盗に走る姿が、アーサー ペンの切れ味の良いシャープな映像と、テンポの良い音楽に乗せて映し出される、素晴らしい作品だった。この作品がアカデミー賞作品賞、監督賞、主演男優賞、主演女優賞にノミネートされて、今年で60年目となる。

そこで、フェイダナウェイ、76歳と、ウオーレン ビューテイー、79歳が、手に手を取って、今年のアカデミー賞のステージに華々しく登場して、作品賞を読み上げたのだが、それが間違っていて、大混乱を起こしたのだった。このとき、ウオーレン ビューテイーが、ステージで封をされた封筒を開けて、中に書かれた作品名を読み上げるはずだった。ところが中の紙を彼は読まず、フェイ ダナウェイに渡して彼女に読ませた。誰もがゴールデングローブ賞をすでに取っていた「ララ ランド」が、作品賞を獲ると思っていた。で、フェイが、「ララ ランド」と言って、アカデミー賞始まって以来の大失態が起きた。ウオーレンは自分が読まずにフェイに読ませたのは、彼女に華を持たせたかったのか、自分が何十年かぶりの舞台に立って舞い上がってしまって、字が読めなかったのか どうか事実はわからない。わたしは、フェイ ダナウェイが予定外に、突然紙を渡されて、眼鏡なしに字が読めなかったのではないかと思う。

あとでアカデミー審査委員が、間違った封筒をウオーレン ビューテイーとフェイ ダナウェイに渡してしまったと、言い訳していたが、そんなわけはない。ステージの上でフェイが持っていた紙には、確かに「ムーン ライト」と書かれ、それをカメラが大写しでとらえていた。メデイアは、審査委員のミスだったということにして、80歳ちかくになった二人の往年の名優をかばったのだろう。

という訳で、今年のアカデミー賞はハプニングがあったり、パーキンソン病で20年も前に惜しまれながら引退したマイケル フォックスが足を引きずりながらも元気な姿で出て来たり、ジャステインテインバーレイクの歌も、ステイングのパフォーマンスも良くて、なかなか見ごたえがあった。

中で3人のアフリカンアメリカン女優が、仲良く肩を組んで司会に出てきたのは嬉しかった。3人は新作映画 「THE HIDDEN FIGURES」(隠された人々)のヒロインたちだ。
1969年 ガガーリンが世界で初めて人工衛星で宇宙に飛んだ。アメリカではNASAの宇宙開発をしていて、天才的数学者のアフリカンアメリカンの女性たちがそれを支えていた。彼女たちは人間コンピュ-ターと言われ、IBMがコンピューターを開発する前までの 宇宙工学と宇宙物理学的な数字をはじき出すために無くてはならない存在だった。
しかしこの事実は白人、男性優先社会では公にされず隠され続けてきた。黒人がまだ公民権を持っておらず、黒人女性が大学院で学ぶ前例もなく、公共の場では、トイレも学校も、劇場の入り口も、「白人専用」、「カラード専用」と区別されていた時代だ。
映画の中で、数学者キャサリン ジョンソン扮する、タラジア ヘンソンが、仕事をしているNASAのビルには、カラード用の女性トイレがないため、遠くのビルまで走っていかないとならなかったり、全員白人の職場でいやがらせに、コーヒーまで 「白人専用」、「カラード専用」と分けられたりして、いじめられる姿が出てくる。それを知ったボスの、ケビン コスナーが怒り狂って、全職員の前でナタで「白人専用」トイレの看板をたたき割る。で、「きょうからトイレはみんなのものだよ。」と宣言する。年取った、ケビン コスナーがとても良い。とても良い映画だった。

それで、この作品はアカデミー賞に縁がなかったが、3人のアメリカのこれまで隠されていたヒーロインたちが、本物の天才数学者で工学博士のキャサリン ジョンソンをステージに連れて来た。スタンデイング オベーションで迎えられた車椅子の彼女の登場は、威厳のある美しい女性で、アカデミー賞の華を添えた。

映画「THE HIDDEN FIGURES」
監督:テオドール メルフィ
キャスト
タラジ P ヘンソン:キャサリン G ジョンソン
オクタビア スペンサー : ドロシー ボウガン
ジャネル モネイ メアリー ジョンソン
ケビン コスナー : アル ハリソン
クリステイン ダンスト :ビビアン ミッチェル
グレンパウレル:ジョン ハーシェル グレン宇宙飛行士
マハーシャラ アリ:キャサリンの夫

アカデミー賞は、白人のショーと言われて久しい。審査員はユダヤ人が多い。
だからユダヤ人差別発言を酔ったついでに言ったことがあるオージー監督のメル ギブソンは これこそが今年の映画の中で最も優れていると思われる、良心的兵役拒否者の沖縄戦を描いた 「ホーカス リッジ」が作品賞、監督賞、主演男優賞にノミネートされていたにも関わらず、編集賞を獲得しただけだった。とても残念だ。

しかし アカデミー賞に集まったアーチストたちは、はっきり「反トランプ」だ。メリル ストリープはアカデミー賞の大御所で、トランプが大統領になる前から激しく批判を繰り返していた。トランプも大人げなく、メリル ストリープなんか、大したことない影響力のない女に過ぎない、とコメントしてきた。司会者のジミー キンメルは、アカデミー賞が2時間過ぎたところで、「みなさん トランプが何も、ツイッターしてきません。」と言って、会場を沸かし、「メリルが ハーイって言ってるよ。」と、トランプにむけて、自分の携帯でメッセージを送って見せて、笑わせたあと、メリル ストリープをみんなが支持しているところを見せてあげよう、といって、会場の全員がスタンデイング オベーションでメリル支持表明した。

また、前回の受賞者として登場した役者のガエル ガルシア ベルナールは、受賞者の名前を読み上げるだけでなく、自分の言葉で、「アートに国境はない。メキシコ人として、人間としてアメリカとメキシコの間に壁を創ってはいけない。」と発言した。
去年のアカデミーは受賞者が全員白人だったことから「ホワイトアカデミー」と揶揄されたが、今年のアカデミーは、反トランプの勢いでさしずめ 「ブラック アカデミー」と言えよう。

作品賞を獲得した「ムーンライト」は、アフリカンアメリカンの少年がマイアミの貧しく暴力的な黒人社会の中で自分のアイデンテイテイーを模索しながら成長していくお話。製作予算も小さく特に有名俳優を使っているわけでもない小品だ。しかし、アフリカンアメリカンでゲイという少年にとって、社会がいかに不条理で厳しく、生きにくい社会であることか、を物語っている。心に響く作品だ。
助演男優賞をこの作品でマヘシャラ アリが受賞した。この役者は、「HIDDEN FIGURES」で キャサリン ジョンソンの夫役でも出演している。母親役のナオミ ハリスは助演女優賞にノミネートされていた。
また助演女優賞には、映画「フェンシズ」(「柵」)で、主演ベンゼル ワシントンの妻役を演じたビオラ デイビスが獲得した。
アカデミー作品賞 「ムーンライト」を監督したバリージェンキンスは、受賞のスピーチの最後に、この賞はすべての肌の黒い人々のためにある、と言って、このアカデミー大祭を締めた。反トランプに沸いて、アフリカンアメリカンの受賞が多数の「ブラック アカデミー」となったが、これを一日だけのお祝いにすることなく、ずっと継続していってもらいたい。

2017年2月27日月曜日

映画 「マンチェスター バイ ザ シー」


                               

観たい映画(沈黙)があって、メジャーなハリウッド映画ばかりを上映する近所の映画館ではなく、1時間運転してマイナーな文芸映画を見せる館まで行かなければならなかった。往復2時間かけて一つの映画を観て帰って来るのも、ガソリンの無駄の様に思われて、ついでにもう1本、映画を観ることにした。それが、この映画。

映画が始まって、いつになってもお気に入りの役者 ベン アフレックが出てこないので不思議に思っていたら、この映画ベンの弟のケイシー アフレックが主役だった。失礼しました。アカデミー主演男優賞受賞おめでとう。

ケネス ロナーガン監督がマット デイモンと共同で制作を開始、資金調達をして、主役をマット デイモンでなく親しい友人の 顔の良い方のベンではなく、弟ケイシーが勤めることになった。アフレック兄弟とマット デイモンは近所で生まれて育ち、ベンはマットとは高校まで同級生同士だったそうで、子供の時から一緒にフイルムを回して映画製作をしていたという。
この映画は、2016年 サンダンス映画祭で初めて上映された。2017年、ゴールデン グローブ賞で、主演のケイシー アフレックは主演男優賞を受賞し、また、アカデミー賞でも彼は、主演男優賞を獲得した。

主役の元の妻の役を演じたミッシェル ウィリアムズも、ゴールデン グローブ賞で助演女優賞にノミネイトされた。2時間40分の長い映画のなかで、彼女が出てくるシーンは、ほんのわずかだが、彼女の登場のインパクトがすごい。彼女が叫び、むせび泣き、声を押し殺してなくシーンに、この映画の価値が すべてかかっているように思える。良い役者とは、こういう存在を言うのか。
実生活でヒース ロジャーの妻だった。彼女はオージー俳優のヒースがたった28歳で亡くなって、残された娘を育ててきたため、少しの間映画から遠ざかっていた。ヒース レジャーは「バットマン」ダークナイトのジョ-カー役を渾身の演技で演じた後、火が燃え尽きたように亡くなってしまった。娘の顔がヒースにそっくりだ。役者の中で、ヒース レジャーのことが一番好きだったから、この娘の顔を雑誌などで見かけると、胸が痛む。

監督:ケナス ローガン                
キャスト
ケイシー アフレック : リー チャンドラー
ミッシェル ウィリアムズ : ランデイ
カイル チャンドラー : ジョー チャンドラー
ルーカス ベッジズ : パトリック
グレッチェル モル :エリス

ストーリーは
リー チャンドラーはボストンで一人暮らしをしている中年男。不愛想で、皮肉屋で、社交性がなく酔うと喧嘩ばかりしているトラブルメーカーだ。便利屋として、壊れた水道管やボイラー修理や清掃業をして、かつかつに生活をしている。友達一人いない、しけた奴だ。
ある日、電話で、たった一人の兄、ジョーが心臓発作で緊急入院したという知らせが入る。リーは、兄に会いに、生まれ故郷のマサチューセッツに向かう。故郷の街マンチェスターの海辺は、リーが生まれ育ち、昔、住んでいた街だ。昔と全く変わりない。
しかし、リーが病院に着いたとたん、知らされたのは兄の死だった。兄の一人息子、16歳のパトリックは、孤児になってしまった。兄はずっと昔にアルコール中毒の妻と離婚している。マンチェスターに着いて、リーの最初の仕事は、兄の息子、パトリックに父親の死を知らせることだった。パトリックは昔、子供の頃は、リー叔父さんが大好きで、仲が良かった。リーは、パトリックがアイスホッケーの練習をしているアイスリンクに行って、父親の死を伝える。

冬の間は雪で土が硬く凍っているので、墓地に遺体を埋葬することができないという。埋葬ができるようになるまで数か月の間、葬式もできない。リーは、葬儀が終わるまでボストンに帰ることができない。弁護士は、リーが自分が知らない間に、兄の遺言で、パトリックが大人になるまで親権者として財産管理をし、パトリックの親代わりになることを指定している、と知らされる。兄の遺言にも、弁護士の言葉にも納得できないまま、リーは、しばらく兄の家でパトリックの世話をすることになる。
パトリックはもう、体がリーよりも大きくなって、立派な大人に見えるが、法律では16歳では車の運転が出来ないし、一人で学校に行き来することも許されていない。まず学校に送り迎えができる大人が居て、家で一緒に暮らす保護者がなくてなならなかった。
パトリックは高校でアイスホッケーのリーダーで、人気があり、ロックバンドでギターを弾き、2人のガールフレンドを持つ活発な高校生だった。リーは、パトリックのために学校の送り迎えをして、ロックバンドの仲間の家に送り届け、彼のガールフレンド宅に行き来するためにも運転してやらなければならなかった。社交的で忙しいパトリックの仲間と、付き合おうともせず、ガールフレンドの家族とも誘われても口をきこうともしないリーの態度に、パトリックは不満を募らせる。パトリックが幼い時、リー叔父さんは近所に住んでいて、頼りになる優しい叔父さんだった。、父親の次に好きだった。一緒に父のボートで釣りに行き、沢山のことを教えてくれた。その叔父さんが、すっかり人が変わってしまって、一体どうしたというのか。何が起きたのか。

リーは昔 妻のランデイと3人の子供たちと共に、兄のジョーと家族と近くに住んでいた。ジョーの息子パトリックとリーの3人の子供達は、仲が良く、にぎやかで愉快な生活をしていた。
ある冬の夜、寒い家全体を温めようとリーは火を起こし、ちょっと近所のミニマートに食糧を買いに出た。帰って来た時に見たものは、家が猛火におおわれて、狂ったように子供たちの名前を呼びながら燃える家に飛び込もうとしている妻の姿だった。家はあっという間に燃え落ちて、妻は2酸化炭素中毒で病院に運ばれる。燃え尽きた灰の中から、二階で寝ていた子供達の遺体が回収される。リーは警察に連行され、火災の原因が、暖炉に防護柵を付けずに外出した彼のせいだったと知らされる。ほんのちょっとの気のゆるみ、わずかの時間に買い物に出たことで、3人の子供達の命が奪われた。リーは警官から銃を奪い、自殺を試みるが失敗。このときから妻のランデイとは口をきくことも会うこともなかった。リーは一人きり故郷を離れた。

ジョーが亡くなって、その息子パトリックの後見人になって故郷に戻って来たリーに、人々は厳しい目を注ぐ。3人の子供達の死を、誰も忘れてはいないのだ。再びそこに住まなければならなくなって、リーが仕事を探そうとしても人々は冷たく、職を提供しようとしない。もう社交的なパトリックに、昔の様な頼りになる叔父さんの役は演じられない。離婚したランデイは新しい連れ合いを持ち妊娠中だ。あの事故以来、会うことがなかったランデイとリーは街で偶然顔を合わせる。二人にとって、過去の事故のことは、傷が大きすぎて、いまだに言葉にならない。

リーは弁護士と話し合って、自分の代わりに友人夫婦にパトリックの後見人になってもらえるように頼み込んで、マンチェスターを去る。
というお話。

男の子が一人前の男として生きるためのロールモデルになる頼もしくて愛情に満ちた父親を失うことの大きさ。父の死を知らされてから、一度として泣かなかったパトリックが、父の死後しばらくして、冷蔵庫を開けると凍った肉や食品が滑り落ちてくる。屈んであわてて落ちた物を拾って、冷凍庫に入れようとして、開けたままになっていたドアに頭をぶつける。冷凍庫の中のものは、安定を失ってどんどん滑り落ちて来て、拾っても拾っても落ちてくる。ぶつけた頭は痛いし、もう棚から落ちてくる冷凍品は元に戻せなくなって、収集がつかない。そこでパトリックが声を出して大声で泣きだす。ものすごく共感できる場面だ。冷凍庫で同じような体験を誰でも一度くらいしたはずだ。我慢していた涙が堰をきったように爆発する。

子供の時に母親が居なくなり、父親にまで死なれた16歳の少年の姿は、みかけは大人だが頼りない。彼は、「虚勢を張った大きな子供」であり、社交性のないリーに比べれば、「立派な大人」だが、、心の拠り所を失った「ひ弱な魂」でもある。
3人の子供を過失から失って、心の「十字架を背負って」生きる孤独な父親と、たった一人の保護者を失った「ひ弱なみなしご」が、淡々と、離れ離れになって、生きていく。
哀しい、哀しい映画だ。マンチェスターの海の美しい光景が、ことさら残酷に見える。



2017年2月24日金曜日

映画「沈黙」

英題:「SILENCE」
監督: マーチン スコセッシ                    
キャスト
アンドリューガーフィールド:     セバスチャン ロドリゴ司祭
リーアム ニーソン :        クリストファ フェレラ教父
アダム ドライヴァー:      フランシス ガルべ司祭
通辞 : 浅野忠信
キチジロー : 窪塚陽介
井上筑後守 : イッセー尾形

日本におけるキリスト教信者への迫害は、1587年豊臣秀吉による、伴天連遂放令に始まる。秀吉は、唯一の絶対君主となるために一斉に刀狩りを行い、20万人の兵を率いて九州に侵攻、島津藩を降伏させて,天下統一を図った。1592年には,16万人の兵を朝鮮に出兵させ、明との友好的国交を絶ち、植民地化への道を探った。彼は早くから、スペインと、ポルトガルが日本を征服しようとしている意図を察知していた。それに対抗するために、彼は琉球王国、朝鮮、明の国を植民地化し、さらにポルトガル領インド、スペイン領フィリピンを征服する予定で居た。

そもそも秀吉を怒らせたのは、バテレン宣教師たちが、当時の習慣になかった牛馬肉を食べ、キリスト教を唯一の教えとして他の教義を否定し、さらにポルトガル人が日本人を奴隷として売買し、巨利を得ていることが発覚したからだった。秀吉の命令を受けて、1597年2月 長崎西坂でスペイン、ポルトガル、メキシコの司祭と20人の日本人信者、合計26人が焚刑に処されたことは、クリスチャンでなくとも人々を恐怖に陥れた。
秀吉の死後、徳川幕府は、さらにキリスト教信者への弾圧を強め、1614年1月にはキリスト教禁止令を発した。このときから実に1873年明治政府がキリシタン禁止令を撤廃するまでの長い間、政府はキリスト教を禁じたのだった。

1610年にポルトガル人、クルストファ フェレラ司祭は他の司祭たちと共に、マカオから日本に入国し、20年余りの間イエズス会地区長という最高の重職について、布教を続け。他の隠れ残っていた37人の司祭たちや信徒を統率していた。迫害が始まる前の日本には、九州から仙台まで、たくさんの教会が建ち、いくつもの神学校が作られ、40万人もの信者が居た。しかしその後、弾圧と迫害の嵐が吹き荒れ、1637年には島原の乱が起こり、3万7千人の一揆に参加した信者たちが惨殺された。

クリストファ フェレラ教父が20年余りの困難な布教ののち、幕府に拘束され、拷問を受けた結果、棄教したという信じがたいニュースがローマ教会に伝えられた。
と、いうところから、遠藤周作の1966年に発表された小説 「沈黙」が始まる。
映画はこの原作を忠実に制作されている。

ストーリーは
フェレラ教父を心から尊敬し慕っていた弟子のセバスチャン ロドリゴ司祭は、彼が棄教したというニュースが信じられず、事実を確かめようと、フランシス ガルべ司祭とともに、日本に密航する許可を教会から得る。彼らは舟で1638年、ポルトガル リスボンからポルトガル領インドのゴアを経て、マカオに着く。そこで二人の司祭は、出会った日本人キチジローを案内人として、九州五島半島のモトギ村に潜入する。彼らは隠れ信者たちのために洗礼、布教をするが、弾圧は激しく困難を極める。村では司祭や信者を見つけて、役人に密告すると、莫大な謝礼金が出るといった密告社会が出来上がっていて、告発された信者たちには、踏み絵をはじめとして見せしめのための、激しい拷問が待ち構えていた。

ロドリゴ司祭は、キチジローの密告により逮捕され、長崎奉行;井上越後守から尋問を受ける。この男はロドリゴ教父を改心させた男で、それまでの宣教師や信者たちへの迫害はかえって信者の信心を強化する役割しか果たしていないことを知っていた。そして、より効果的に司祭を改心させる手立てを考えていた。
拘束されたロドリゴ司祭は、自分が拷問されるのではなく、自分をかくまって、食べ物を差し出し世話をしてくれて信者たちが自分の代わりに、目の前で拷問を受けることに苦しみ抜く。問答無用に踏み絵を踏んだ信者たちが、許されることなく首をはねられ、海に突き落とされて死んでいく。唯一の仲間だったガルべ司祭も、信者を追って水死した。激しい拷問にあとで殉教していく信者のための彼の祈りは、神に聞き届けられない。

ロドリゴは井上越後守の計らいで、日本に渡航する目的だったフェレラ教父に会う。かつての師に棄教するように勧められるが、しかしロドリゴは、フェレラに軽蔑と、憐憫の情しか持ち得なかった。まして、自分を裏切ったキチジローというユダを赦すことができない。神は何故祈りを聞き入れてくれないのか。神は沈黙を守り、信者の祈りに応えてようとしない。

ロドリゴ司祭は長崎中を裸馬に乗せられ引き回しの刑をうけたあと、暗闇の牢のなかで人々のうめき声を聞く。3人の信者がロドリゴ司祭が棄教しないために穴吊りの刑で死につつある。自分が棄教しさえすれば信者たちの命は助かる。ついに、ロドリゴはフェレラに押されて、踏み絵を踏む。
その後、ロドリゴは岡田三右エ門という日本名とともに、幕府から住居と給与を与えられ妻帯する。先に沢野忠案庵という名を与えられていたフェレラとともに、幕府に請われるまま、翻訳やキリスト教関係の執筆などをした。ロドリゴは30年余り生き、江戸で病死する。死ぬときに彼は殉教した信者からもらった十字架を持っていて、棄教したのは偽りで、偽装転向していただけだったことがわかる。
というストーリー。

フェレラとロドリゴの棄教とは、異なる。フェレラは絶望から棄教した。3日間汚物をつめた穴の中で逆さに吊るされ、耳に開けられた小さな穴から少しずつ血を流し続け、自分と同じように5人の信者が吊るされているうめき声を聞きながら、彼は神に絶望する。「神が何ひとつなさらなかったからだ。わしは必死で祈ったが神は何もしなかったからだ。」「司祭はキリストにならって生きよと言う。もしキリストがここに居られたらたしかに、キリストは彼らのために転んだだろう、」とフェレラは言う。

ロドリゴが踏み絵に足を乗せたのは、「銅板のあの人は言った。踏むがいい。お前の足の痛さはこの私が一番よく知っている。私はお前たちに踏まれるため、この世に生まれ、お前たちの痛さを分かつため十字架を背負たのだ。」という声を聞いたからだ。そして彼は、悟る。「神は沈黙していたのではない。一緒に苦しんでいたのだ。神は弱い者のためにあるのだから。」 ロドリゴは決して絶望していない。神は弱い者のために一緒に苦しんで、沈黙していたとわかったからだ。

自分の信心と志を曲げずに殉教していった信者たちよりも、痛みや恐怖から自分の信念を捨てた弱い者のために神は居る。という思想は作者、遠藤周作の一環したキリスト者としてのテーマだった。
当時、重税にあえぎ、貧困に苦しみ抜いていた人々にとって、生きていても良い事はない。死後に苦労が報われて、救われると信じたいという他力本願の思考は、限りなく仏教の親鸞の教えに近い。すなわち、「善人なおもて往生を遂げる。いわんや悪人をや。」という思想だ。
来世を信じて神に祝福されて死んでいきたいと願いながら殉教していく信者を前にして、「それは、神の教えとは違う」、と、ロドリゴは言うことができなかった。来世に行くために踏み絵を踏まずに拷問を受ける心の強い信者も、踏み絵を踏む弱い信者も、同時に神から赦されるべきだと、ロドリゴは考える。そして、ロドリゴは、自分を密告したキチジローのために、懺悔を聞き、赦しを与えた。

わたしはクリスチャンでも、親鸞の浄土真宗信者でもない。聖書は13歳のときに一度読んだきりだ。
人は宗教を持とうが持つまいが、人として、「良き人でありたい」と願いながら生きるものだ。「人は他人のために生きて初めて生きたことになる。」 というトルストイの言葉が好きだ。良き人になろうと努力をして、良き人として生き、良き人として死んでいきたい。踏み絵を踏むか、踏まないかは個人の問題だ。弱い人、強い人というものがあるわけではなく、人には誰でも弱い時も強い時もある。だから、遠藤周作が、この作品を発表したとき、カトリック団体から厳しい批判が出て来たことが不思議でならなかった。
人々がみな鉄の意志を持ち、正義と、神への愛のために生きることができるのであれば、文学や詩などありえない。芸術など成立しないではないか。

井上筑後守を演じたイッセー尾形の演技が冴えている。残酷な指導者ほど物腰が柔らかく、ねこなで声で優しい。そんなコントラストのある役を、ひょうひょうと演じていた。キチジローの窪塚洋介は、とても良い役者だ。
でも日本人役者の中で一番良かったのは、通辞役の浅野忠信。彼の日本人なまりのない英語が耳に快い。すばらしい。通辞役は、はじめ渡辺謙がやるはずだったそうだが、撮影スケジュールの関係で浅野忠信になったそうだが、これが正解。
この通辞は、自分もはじめは神学校で洗礼を受けたクリスチャンだったが、宣教師たちの白人至上主義の差別的態度や傲慢さに嫌気がさし、棄教した人物。貧乏侍の子供が食べていくのに有利なように、ポルトガル語を習熟したという秀才で屈折した男、という難しい役を浅野は淡々と演じていて、とても魅力的だ。

監督はフェレラ役を、はじめはダニエルデイ ルイスと考えていたという。本当に彼がやっていたら、もっとフェレイラの裏切る姿に複雑な陰影が現れていて良かっただろう。彼の心の葛藤なども、うまく表現されていたに違いない。
主役のロドリゴ役の アンドリュー ガーフィールドは今や一番輝いている若手の役者だろう。ことさらカメラが、彼の顔のアップを捕えているシーンが多かったが、さすが舞台俳優、、、苦悩する人の表情、心を痛めている表情が存分に表現されていて共感を呼ぶ。

この監督は、作品を、実に巧みな映像の力で、効果的に人に訴えることを得意とする監督だ。最高のテクニシャン。天才的なストーリーテラーだ。彼の手にかかれば、どんなつまらないお話も、わくわくどきどき連続、時には恐怖のどん底に突き落とし、時には最高の幸せ感で一杯にしてくれる。フイルム「シャッターアイランド」では、出だしから不安感をあおり、究極の恐怖感まで上り詰めさせてくれた。「ウルフ オブ ウオールストリート」では、裸の女の肛門に置いたコカインをレオナルド デカプリオが吸い込むシーンで始まり、終わりまでアメリカ的なアメリカのためのアメリカンテイストのシーン満載で、ゲップを連発させてくれた。
「ヒューゴの不思議な発明」では、映画というものの素晴らしさを、バケツ一杯の涙が出るほど巧に見せてくれた。彼は映像の魔術師。本物の映画屋だ。

その彼が1991年から「沈黙」の構想を持っていて、映画化することが念願だったという。日本の17世紀初頭を映像化するのに資金がかかりすぎるため、すべて撮影を台湾で行なった。それが、とてもとても残念。海と山の場面は良い。しかし、フェレイラが住居としていた西勝寺や、長崎奉行、井上筑後守の屋敷などが、安造りでがっかりした。
日本の四季の移り変わり、木漏れ日、真白の障子、欄間を通して光る陽、襖に描かれた山水画、生け花の楚々とした美しさ、淡い空気の変化、真新しい畳の香り、畳の縁飾り、磨き抜かれた廊下の輝き、瓦屋根に沁みる雨、緑の鮮やかさ、淡い色の花々、行灯の淡い影、朝夕の寺の鐘、本堂に至る石段、苔に覆われた庭、、、日本の屋敷、日本の生活様式の美しさ、、、、、。映画を作る前に、2日でも3日でもマーチン スコセッシ監督に、日本家屋での生活を体験してから撮影に取り掛かって欲しかった。そうすれば撮影を予算節約のために台湾のセットで行うなんてことはなかっただろう。残念だ。


2017年1月12日木曜日

映画 「コロニア (デグニダッド)」

       


1973年チリ。理想の社会主義建設を目指して国民から選出されたアジェンデ政権は、ピノチェト将軍を頭とする軍事クーデターによって、暴力的に葬り去られた。クーデターには、裏で米国CIAによる民衆操作が行われていたことが、わかっている。米国CIAは 南米の左極化を恐れるあまり、アジェンデ政権を倒すために、「マルクス主義か、民主主義か?」を、上流中間層に訴えて、彼らを軍事政権を支持する勢力に作り替えた。その動きに対して、労働者は、工場連帯組織、農民組織、労働組合を中心に、アジェンデ大統領を支持したが、圧倒的軍事力による制圧によって、アジェンデの議会による社会主義社会建設は敗北した。アジェンデは、激しい空爆の下、大統領府から、「働く人々に必ず良い社会への道は開けるだろう。」というメッセージを残して、命を絶った。

サンチャゴ ナショナルスタジアムでの大虐殺、何万人という拉致され今だに行方不明の学生たち、目隠しをされパタゴニアの海に沈められた人々、コロニアル デグニダッドで拷問後、埋められた活動家たち、サンチャゴ市郊外のビジャグリマルデイ強制収容所には、現大統領バチェレも収容されていた。

この映画は、アジェンデ大統領が失脚し、ピノチェト将軍による軍事政権下で、血で血を洗う大粛清が行われたころの、一人の活動家のお話。彼は軍によって拉致され、入れば生きて帰ることはできないと言われた秘密監獄、コロニア デグニダッドに連行されたが、彼を追って潜入した恋人によって救い出される。この秘密監獄は、ピノチェトの崇拝者ポール スカフェルという、カルトの宗教的指導者によって作られ、秘密警察の役割を担っていた。活動は、ピノチェトが引退する2004年まで続けられ、軍事政権が崩壊したあと、この敷地からは、虐待と拷問で殺された数百体の死体が発掘された。

タイトル:「コロニア」 ドイツ、スペイン合作映画
監督: フロリアン ガレンベルガ―
キャスト
エマ ワトソン    : レイナ
ダニエル ブリュール : ダニエル
マイケル 二クビスト :ポール スキャファー

ストーリーは
4か月前にドイツからチリのアジェンデ大統領を支持するためにやって来たカメラマンのダニエル(ダニエル ブリュ―ル)と、スチュワーデスの恋人(エマ ワトソン)は互いに愛し合っていた。ピノチェト将軍の軍事政権に抗する運動は、世界中から集まってきた活動家を含めて盛り上がりを見せていた。しかしある日、活動家たちが隠れ住む街の一角では、軍による一斉検挙が行われ、密告を強制された元活動家によって、ダニエルは拘束されて、連行される。レイナは、必死でダニエルの行方を捜すが、活動家仲間は、彼が悪名の高いコロニア デグニダッドに連れて行かれたと言われる。そこには、宗教団体が組織する秘密監獄があり、一旦入れられると、生きて帰ることができない。

レイナは、ダニエルを探し出すために自ら、そのカルト宗教団体に入会し、コロニア デグニダッドに潜入する。過酷な集団生活と、農作業や土木作業が待っていた。レイナは他の女囚たちと一緒に耐え忍ぶ。ある日、アジェンデ将軍が、ポール スカフェルをねぎらう為に、コロニアにやって来た。将軍を迎えるために、収容者全員が庭に集められる。レイナはすっかり痩せて、障害者の姿になったダニエルを見つけて、そばに近寄る。ダニエルは、幾度も繰り返して電気ショックの拷問を受けたために、脳に障害がおきた男のふりをしていたのだった。二人は誰にも気付かれないように、手を握りあう。二人は密かに逃亡する方法を探った。地下道を見つけ、二人はついに脱出を決行する。恐ろしい警察組織の追手と狂暴な犬に追われながら、二人は高圧電流の柵を超えて逃亡。ようやくドイツ大使館に逃げ込むが、大使館までピノチェト将軍の息がかかっていて、二人を拘束しようとする。誰も信用できない。二人は、飛行場の滑走路を走り、レイナの親友だったパイロットが操縦かんを握る飛行機に飛び乗って、脱出に成功する。
というお話。

映画の中で、カルト教主で、ピノチェト崇拝者で、コロニア所長で、変態のペデファイルのポール スカファーを演じたマイケル 二クベストが、その気色悪さで、だんとつに冴えている。この役者はスウェーデンではアイドルで、高倉健のような存在。
彼は、自身が孤児院から弁護士と作家の両親に養子として引き取られた人で、成績優秀なため。17歳のとき交換留学生として渡米。そこでアーサー ミラーの芝居「セールスマンの死」を演じることになって、以来演劇熱に取りつかれ、本格的な役者に道に進むことになったという経歴の持ち主。
2008年にステイング ラーソン著書の「ミレニアム」が大ヒットする。スウェーデン中でこれを読んでいない人は居ないとまで言われた小説、すまわち「ドラゴンタッツーの女」、「火と戯れる女」、「眠れる女と狂卓の騎士」の三部作だ。日本でもこれらはベストセラーになった。これが映画化されたとき、マイケル 二クベストが主役を演じた。以来この人は、ヨーロッパの映画は勿論、ハリウッド映画でも沢山出演するようになった。その多くは、悪役。でかい体に人相が悪くて怖い。救いようのない悪の標本のようなポール スカファーを堂々と演じている。本当のカルト教主ポール スカファーは ピノチェト引退のあと、2005年に逮捕され、33年の実刑判決を受けて、2010年に獄死した。

映画の中で、この教主が、信者たちを陶酔させるシーンが出てくる。マイクを口にぴたりとくっつけるようにして最大ボリュームでハアハアとあえぐ声を会場一杯に流しながら、、「私を信じなさい、神はあなたを愛している、ハアハア、信じなさい、ハアハア、愛して、ハアハア」 とやると、信者たちが次々と酔っぱらって昏倒していく。「女は悪だ、セックスは罪だ、」 と教主がアジると、そうだ女は敵だ、と男達が狂ったように、引き立てられてきた女の顔を殴り、腹を蹴って殺してしまう。恐るべき声の力だ。カール   マルクスの「宗教はアヘンだ。」という言葉は こんなときのためにあったのか。おまけに彼は、ぺデファイル。幼い少年たちをシャワールームに誘ってレイプする。まったく気色悪い、これほど観終わったあとで、胸の悪くなるような、気分がふさぐ映画も珍しい。カルト教主の気色悪さをここまで表現、演技できる役者に脱帽。 こわうま役者。

最愛の恋人のためにスチュワーデスの仕事を捨て、信者を装って、このデスキャンプに潜入するエマ ワトソンが、健気で可愛らしい。小さな細い体に、コロニアの奇妙な制服を与えられ、農作業に駆り立てられる。でも毅然としていて、「わたし、思うけど、ハリーポッターは世界の悪と戦うために自分の命を犠牲にしているのよ。」 などと、今にも確信をもって言い出しそうだ。ラブシーンなど、ぎこちなくて見ていられない。彼女、、あまりにもハリー ポッターのハーマイオニ―役が適役だったので、大人になっても美少女から脱け出られないでいる。次から次へと男をだまして、すっからかんにさせて後は、銃で始末して海に投棄、などという悪女役は絶対に彼女には演じられないし、大人を笑わせるコミカルな役もちょっと難しそうだ。

エマ ワトソンに救い出されるカメラマンを演じているダニエル ブリュ―ルは38歳、スペイン生まれのドイツ人。いわばドイツの人気アイドル、アラン ドロンだ。2003年の「グッドバイ レーニン」、2009年「イングロリアス バスタード」、「ラベンダーの姉妹」などが印象的だ。もっと若い時は、とても綺麗な顔の役者だったが、太ってしまった。王子様役には良いが、秘密警察に追われる反政府活動家という緊迫感がない。「気の強い子供の様なエマ ワトソンに救い出される、おっとり坊ちゃん」 という感じで、なんか役と役者が一致しないような気がするのは、私の思い込みだろうけど、、。 でも、二人の逃走劇には、ハラハラさせてくれた。捕まれば即、殺されるとわかっている。

軍事力を背景にした恐怖政治と、カルト宗教とはよく連動する。救世主と、信じ込み全幅の信頼を寄せる信者を、政治目的に利用することは簡単だ。
チリではアジェンデ大統領による議会政権下における社会主義建設が葬り去られたが、これは1973年の話ではなく、イラクのサダム フセインへの死刑宣告と処刑、リビアのカタフィ大統領の惨殺、シリアのアサド大統領を失脚させようという動き、まさに世界中の「いま」に繋がっている。いつもこうした政権崩壊の裏に、米国が控えていて民衆を操作して煽動してきた。
それがわたしたちの歴史であり、これからの歴史でもある。

いま日本では「日本会議」という妖怪が跋扈している。
彼らは、憲法改正、皇室崇拝、天皇主義、元号法制化などを声高に叫んでいる。南京虐殺も従軍慰安婦強制連行もなかったと強弁し、近隣国に向けてヘイトスピーチを繰り返している。こうしたカルト宗教の信者を、国のトップ、首相の座に置いてい居る日本という国が、秘密裡にコロニア デグニダッドを持っていない、と誰が言えるだろうか。

2017年1月3日火曜日

映画 新海誠の「言の葉の庭」


                             

映画:「言の葉の庭」
英語題名:「GARDEN OF WORDS」
監督 製作:新海誠
音楽:大江千里 
歌: 秦基博

ストーリーは
15歳のアキズキ( 秋月孝雄)が他の高校一年生に比べて、大人びているのには理由がある。父の居ないシングルマザーの家庭で、母親はひとまわり若い恋人と家出中、兄も近々ガールフレンドと同棲するために家を出ていく。家事は全部自分でやっていて、料理も自然と上手になった。
彼は雨の日が好きだ。子供の時は、空はもっと近くにあった。空の匂いを連れてきてくれる雨が好きで、そんな日 彼は学校に行かず、新宿御苑に行って雨の音を聞く。

ある日、アキズキが雨の新宿御苑の自分の定位置、東屋にいくと珍しく先客が居た。見ると彼女はビールを飲みながらチョコレートを食べている。変な人だ。以降、何度も雨の日にはアキズキの居る東屋に彼女も来ていて、二人は自然と話をするようになる。アキズキの作って来たお弁当を二人で分けて食べたり、家事のできないらしい彼女の作った、出来損ないのお弁当を分け合ったりしながら、二人は互いに会話をすることが楽しくなってくる。ふだんは口の重いアキズキも、この女性ユキノ(雪野百香里)を相手にすると、自分が進学をせず靴を作る靴職人になりたいという夢を語ることができる。ユキノは 喜んでアキズキの靴のモデルになってくれた。彼女は、いろいろあって、社会の重圧から歩くことができなくなっていて、歩く練習をしているのだという。

アキズキは、まだ自分が子供で父親が居て幸せだった頃、父が母の誕生日に宝石のような美しい靴を贈り、母がことのほか喜んだときのことが忘れられない。靴が母を喜ばせたように、自分が将来 美しい靴を作って、人を喜ばせたい。次第とアキズキはユキノが歩きたくなるような靴を作って贈りたいと、願うようになる。雨の日には会える。二人は互いに雨の日を待ち望むようになる。

ある日、アキズキは学校でユキノを見つけて、驚愕する。ユキノはアキズキの通う高校の古典の先生だった。彼女は学年で女生徒から人気のあった男の先生と関係を持った、という悪意のある噂が流出して、登校できなくなって休職していたのだった。ユキノ先生は、自分のことは、学校で多くの人に知られていたので、アキズキも自分のことを知っていると思っていた。アキズキは、ユキノを不憫に思い、悪意の噂の元になっていた先輩に向かって行って、さんざんにぶちのめされる。

翌日大雨の日に、二人は再び御苑の東屋で出会う。台風が接近していて、突然の豪雨にあって二人はずぶ濡れになる。ユキノは、ぬれねずみになったアキズキを自分のアパートに連れてくる。服を乾かしている間、アキズキはユキノのためにオムレツを作り、ユキノは熱いコーヒーを淹れる。二人して雨の音を聞きながら、二人して自分が今世界一幸せだと思う。
アキズキはユキノに、好きだと告白する。でも、恋愛に臆病になっているユキノはそれをまっすぐに受け止めることができない。拒否されて、傷ついたアキズキはユキノを、激しく責める。アキズキの悲鳴のような言葉を聞いて、ユキノはいままで自分の押さえつけて来た気持ちが爆発してアキズキに抱きついて泣きじゃくる。
というお話。

この映画は、「君の名は」に比べると短編だが、ストーリーも絵も、こちらの方がずっと良い。
15歳の少年が、27歳のちょっと不良で挙動不審な女性に出会って、話をするうちに打ち解けて好きになっていく様子が、とても自然だ。恋をして、恋を失いそうになったときの一生懸命なヒリヒリと痛む少年の心が痛いほど伝わってくる。ポール 二ザンは、「20歳が美しいなどと誰にも言わせない。」と言ったが、若さは美しいどころか、みじめで苦難に満ちたものだろう。好きな人ができて、心が舞い上がり、それがバウンドをつけて突き落とされる恋を、だれもが経験しながら大人になってきたのではないか。アキズキの悲鳴のような叫びをあげ、ユキノの号泣のように大量の涙を流しながら。

アキズキは学校でははぐれ者だったし、自分の話をよく聞いてくれる人が必要だった。大人の女性が自分の靴職人になるという夢に きちんと共感し、支持してくれて嬉しかった。ユキノはユキノで、妻子ある教師との恋愛が原因で、職場でトラブルを起こし、傷ついて生きる目標を失いかけていたが、一つの目標にむかっていくアキズキとの出会いが、何よりの励ましになった。アキズキとユキノは互いを必要としていて、その求心力が愛情を呼び起こした。相手を必要とする互いを求める力は、純粋で自然なことだった。
社会の重圧から、食べ物の味がなくなり、職場に通えなくなり、歩けなくなったユキノのために、アキズキは靴を作り始める。そんなまっすぐな本心を告白するアキズキに、ユキノは、「靴が無くても一人で歩けるように練習していた。」と言って強がってみせる。社会の壁にぶつかり、教師としての制約を思い知らされ、人格を壊されていたユキノには、アキズキの心情をまっすぐ受け取ることができないでいる。泣きじゃくり、泣き続けることでしか自分の気持ちを伝えることができない。
そうすることが、ユキノの魂の再生への過程だった。

最後にアキズキは独白する。「歩く練習をしていたのは、あの人だけでなく僕もそうだったのかもしれない。いつかもっと遠くまで歩いていけるようになったら、あの人に会いに行こう。」 そこまで言える心境に達したアキズキの大人の態度が立派だ。まさに、
「雷神の少し響みて さし曇り 雨も降らぬか 君を留めむ」
「雷神の少し響みて 降らずとも我は 留らむ 妹し留めば」

画面の自然描写が例えようもなく美しい。
本当のことを’伝えるために少し嘘を使った方が本当に近くなる、という表現方法の例えがあるが、アニメーションという方法でここまで本当の雨を表現できるということに驚愕する。雨が降りはじめ、水たまりができて、水面に鮮やかな緑が映える。雨の音を聞いていると、雨から匂い立ってくる雨の匂いが呼び起こされ、雨を感じることができる。雨の音が強弱を繰り返し、緑の木々が揺れ、風を感じることができる。空から雨が落ちてくる様子が自然を写した本物のフイルムのように、生き生きしている。高層ビルに囲まれた新宿御苑の緑が雨に濡れ、鮮やかさを増し、生き物すべてに命を与えるように、輝き始める。雨に濡れて木々が息を吹き返すように、若い男女の魂も再生する。雨によって二人の命が生き返る姿が目に見えるようだ。
美しい映画だ。

映画 新海誠の「君の名は」

                          

東宝 日本映画
英語題名:「YOUR NAME」
原作 監督: 新海誠
音楽:RADWIMPS
声役: 神木隆之介:立花瀧
     上白石萌音:宮永三葉
ストーリーは
1000年ぶりに彗星が地球に接近している。
山村地方の小さな村で暮らしている女子高校生、宮永三葉は代々地元で継承されてきた神社の家に生まれ、いずれその神社を、亡くなった母に代わって受け継いでいかなければならない。母の死後、政治の世界に入ったために離縁された父親は、現市長の椅子に収まっている。神社の後継者としての教育は、祖母の宮永一葉によって、厳しく教え込まれている。三葉は、小さな田舎町で暮らし、逃げようのない跡継ぎといった立場に、我慢ならない閉塞感を感じている。

一方東京の団地で父親と二人で暮らす立花瀧は、学校生活とレストランでのバイトに精を出している。成績は良くもなく、悪くもなく普通。バイトの奥寺先輩に恋心を抱いている。
この宮永三葉と立花瀧とが、ある日、何の前触れもなく、眠っている間に、体が入れ替わる。 突然、眠っている間に互いの体が入れ替わるという現象に戸惑いながらも、二人は、互いに日記を携帯電話にデータとして残すことによって、体が入れ替わってもあわてずに対応できるようになっていく。互いに会ったこともなければ、互いに言葉を交わしたこともない。しかし、二人は特別のつながりで魅かれ合い、互いに、いつか会うことがあれば必ずわかるだろうと思うのだった。

彗星が地球に接近すると予測されていた夜は、村祭りがあって三葉は、友達と空を仰ぎ見ていた。ところが彗星は予測を裏切って、落下途中で二つに分かれ、その一つが三葉の住む村を直撃したのだった。被害者数、数千人。街は壊滅した。
瀧はその日から、もう体が三葉と入れ替わることがなくなった。しかし彼女のことが気になって仕方なくなって、夏休みに三葉のいた村に行ってみることにした。住所も村の正確な位置もわからない。瀧の描いた村の写生画だけが頼りだ。行ってみて、その村が3年前に、彗星の直撃によって壊滅した村だったことがわかった。死亡者名簿のなかに三葉の名前を見つけ出した瀧は、その彗星を、自分は東京で団地のベランダからのんきに眺めていて、その美しさに感動したことを思い出して、自分を責める。時間を巻き戻すことができるのだろうか。

瀧は三葉の神社の御神体が祀られている山に奥深く入っていく。この世とあの世の境目を超えて、三葉の命の半分といわれていた御酒を飲む。御酒の力で気を失った瀧は、3年前に戻っていた。彗星が村を襲う、あの夜だ。未来を知った三葉は、友達のテッシーとサヤカの協力を得て、村祭りに集まっている人々を高校の校庭に集めて避難させる。
たそがれどき、、、昼でも夜でもないいっときの間だけ、三葉には瀧が見える。二人は互いに初めて会うことができた。二人は互いに忘れないで、思い続けることを誓う。しかし 日が落ちて夜になると二人は世界で一番大切な人、忘れないと誓った人の名前がもう思い出せない。

数年後、瀧も三葉も高校の時に起こった不思議な体験を覚えてはいない。でも二人はともに何か、とても大切なことを忘れているという思いが強く記憶の底に残っている。誰かをいつも探している。誰かわからないが、出会えばきっと互いにそれがわかるはず。そう強く思っていたある日、二人は、、、、。
というお話。

日本で2016年の8月に公開されてからとても人気のあるアニメーション映画だったそうで、シドニーのアジア人が多く住むチャッツウッドの映画館で上映された。日本の映画が映画館で観られるのは、とても嬉しいことだ。行ってみると面白いことに、オージーでオタクっぽい日本漫画ファンの男連れが、たくさん来ていた。日本の漫画は物語性が強く、技術的に優れているので世界中で高く評価されている。「明日のジョー」、少年サンデー、少年マガジン、ジャンプで育ってきた団塊世代が、日本の漫画文化を 広めて大衆化してきたその原動力 恐るべし。
日本に休暇で帰国するごとに宿泊するのが新宿南口のルミネ前にあるサンルート新宿ホテル。宿泊中散歩するのが新宿御苑。買い物、食事もすべて新宿周辺という、暮らしかたを30年もやっているので、日本は知らない場所ばかりだが、自分が知っている新宿あたりの風景が実録フイルムのように鮮明に描かれていて嬉しかった。あれ知ってる。これ知ってる。わー。日本人であることが嬉しい。

瀧と三葉は不思議な出会いをするが、確かにこの世には科学で説明できない出来事に遭遇することが沢山ある。私も本物のお化けに出会ったことが何度かあって、そのときの音や空気とともにはっきりとした存在感があったことが忘れられない。また、人が死ぬときに、魂が体から抜けて離れていく姿も、実際体感したことがある。人の命の深遠さを、すべて科学で解明することはできない。だから不思議な体験をした人の話は、笑って済ませないで、ちゃんと聞いてあげたほうが良いと思う。
瀧と三葉には、いまは覚えていないけれど、以前に確かに会っていて、互いを世界で一番大切な人だと認識していた記憶が残っている。いつもその人を探している。顔も名前もわからない。でも会えば必ず互いにわかるはず。そんな人生の本当の片割れに出会えたら、どんなに幸運なことだろう。
だけど哀しいことは、ほとんどの人はいつも誰かを探している。でも、まあこれでいいか、と妥協してずっとは探し続けないことだ。

この映画を観て、とても良かったので次にこの監督、新海誠の「言の葉の庭」(「GARDEN OF WORDS」)を観た。 出だしの処で高校生に「たそがれどき」という言葉の意味を教えている古典の先生が、雪野先生だったのが あとでわかって嬉しかった。この監督は芸が細かい。

2017年1月2日月曜日

映画 「マリアンヌ」


      http://www.alliedmovie.com/                                                                             


ロマンテイック アクション アメリカ映画。
日本では2月10日公開。
邦題:「マリアンヌ」
原題:「ALLIED」
監督:ロバート ゼメキス
キャスト
ブラッド ピット  : マックス バタン
マリオン コテイヤール : マリアンヌ ビュセジョール

ストーリーは
1942年 フランス領モロッコ。
カサブランカも事実上ドイツ軍占領下にあった。フランス人レジスタンス活動家のマリオンは、カサブランカの社交界に深く侵入して、ドイツ軍上官たちの信頼を得ていた。そこにカナダ人で連合軍秘密情報部に所属するマックスが、送り込まれる。二人は新婚夫婦を偽装して、ドイツ軍高級官僚たちに近付き、ドイツ大使以下、占領政府の要人たちを殺害する。作戦は成功。首尾よくモロッコを脱出したマリオンに、マックスは結婚を申し込み、二人はロンドンで再会し、結婚する。

ドイツ軍による爆撃下にあるロンドンで、二人はそれぞれの仕事を続けながらも、幸せな家庭を持ち、マリアンヌは女児を出産する。ところがある日、マックスは連合軍秘密情報部に呼び出される。告げられたことは、全く信じ難いことだった。マリオンは、じつはドイツ軍の秘密情報員で、マックスが受け取っていた情報がマリオンを経てドイツ軍に漏洩している。モロッコのカサブランカでマックスとマリオンが殺害したドイツ大使らは、ヒットラーが処分する予定だった人物に過ぎない。マリオンと言う名のフランス人レジスタント活動家はすでに、前の作戦で亡くなっている。マックスは、72時間以内にマリオンと名乗るスパイを出頭させるか、処分しなければならない。というものだった。

マックスに与えられたのは72時間。マックスは、マリアンヌが出合った時から自分がマリオンに裏切られていたということが信じられない。マリアンヌの無実を72時間以内に証明しなけば、マリアンヌの命も、自分の命もない。
マックスは、懸命に昔のマリアンヌの同胞だったレジスタンス活動家を探し出す。ドイツ占領下のパリに飛んで、マリアンヌが、ラ マルセイーズをドイツ軍将校の前で、臆せず誇り高くピアノを弾きながら歌ったという過去の逸話を聞かされる。愛しい妻が本当のマリアンヌなら、ピアノが弾けるはず。ロンドンに帰ったマックスは、マリアンヌを酒場に連れて行き、ピアノの前に座らせる。すると、、、。
というお話。

美男美女のメロドラマというのは、良いものだ。
ブラッド ピットが何が何でも大好きという人とか、マリオン コテイヤールがどんな役でもいいから大好きという人のために作られたメロドラマ。

1940年代のカサブランカ。パリから来たレジスタンス活動家が、肩パッドのついた美しいシルクのドレスをまとい、真紅の口紅を差す。そんなマリオン コテイヤールの美しさ。 仕立ての良い3ピースの背広にネクタイをきちっとつけた立派な男が、歩きながら無造作にタバコをくわえる。真っ白なシャツに燕尾服で現れたかと思うと、連合軍空軍の制服を少しの隙もなく着こなして登場、美しい男とはこういう男を言う。53歳のブラッド ピットの無駄のない若々しい動きと、美しい着こなしに目を見張る。 砂漠から見る日没と夜明け。ひたひたと迫る恐怖政治の時代を背景に夢のようなメロドラマが繰り広げられる。

これらの映画の雰囲気は、古典名作映画の「カサブランカ」でおなじみだ。ハンフリー ボガードと、イグリット バーグマンの二人が醸し出した時代の郷愁、センチメンタルな甘い匂いが漂う。「カサブランカ」は今思えば、黒白映画だったが、この映画は独特のカラーで、この時代の一時の豪華、豊饒さ、艶やかな人々の姿がきらめく色彩で表現されていて、見事だ。画面が美しい。
ブラッド ピットも マリオン コテイヤールも良い役者だ。音楽も良い。

しかし内容は、、、困ったことに無内容。真実性に欠け、人としての誠実さが欠落して、愛とはいったい何なのか、と根本的な疑問が湧き上がる、何とも評価がクエッスチョン。
マリアンヌは、ドイツ国愛国者。殺されたレジスタント活動家に成り済まし、敵軍の男と結婚しても夫に送られてくる情報を、逐一ドイツ軍に送っていた。そのために命を失った連合国側の兵士は、数知らず、情報が漏れたために失敗した作戦も多数あっただろう。妻は、自分の名前も出生も、スパイとしての仕事も秘密にして、黙々と情報を収集していた。夫は、自分を通じて秘密情報が漏れていたことに気がつかず、うかつにも妻の思いのまま情報を垂れ流していた。その夫の軍人としての責任はどこにいったのか。まんまと騙されていたことの帳尻はどう取るのか。夫の持ってくる情報を盗み出すことによって成り立っていた夫婦関係では、家庭は妻にとって職場でしかなかったし、夫婦関係は仕事のための手段でしかなかった。

素性がわかった、事実が分かった、でも愛し合ってるから二人で手に手を取って外国に逃げて、幸せに平和に暮らしました とさ。というのはお伽噺です。
人には自分なりの信念というものがあり、達成したい目標をもち、仕事に就き、自分なりの仕事の仕方に少しばかりの誇りをもち、自分を育ててくれた社会や尊敬する人に囲まれ、自分の生き方に共鳴してくれるパートナーを持ち、ともに家庭を持って、そして老いていくものではないか。人を愛するというのは、そういったその人の信念や仕事やその人を取り巻く環境を含めて愛するということだ。その意味で、この映画は、真実性に欠けている。内容はペケです。

ブラッド ピットは長い役者人生を送ってきて性格俳優としても良い役者になってきた。この映画では妻を疑わなければならないという、悲しい夫として、本当に哀しい目で妻の後ろ姿を見る。妻の無実を証明しようとして狂ったように人を詰問する。うそだ。うそだ。うそだ。この映画の見所はといえば、そういった裏切られた男の哀しい姿だろう。そんな役をブラッド ピットは実に哀しい、哀しい姿で演じていて涙を誘う。
だけど、困ったことに、それだけなんだよね。この映画。

2016年11月26日土曜日

映画 「ファンタステイックビーストと魔法使いの旅」


                 
原作 脚本: J K ROWRING
原題:「FANTASTIC BEASTS AND WHERE TO FIND THEM 」
邦題:「ファンタステイクビーストと魔法使いの旅」
映画監督: デヴィッド イエッツ
キャスト
動物学者ニュート スキャマンダー: エデイ レッドメイン
米国魔法会議職員テイナ ゴールドステイン:キャサリン ウォ―ターストン
テイナの妹クイニ― : アリソン スードル
人間界の工場労働者ジェイコブ コワレスキー: ダン フォグラー
米国魔法議会長官グレイブス : コリン ファレル
米国魔法議会プレジデント、セラフィナ: カルメン エヨーゴ
孤児 クレデンス バルボーン: エザラ ミルナー
孤児 チャステイテイー バルボーン: ジェレ マリー
慈善家メアリー バルボーン: サマンサ モートン

魔法界の動物たち
二フラー: カモノハシに似ている嘴を持った有袋類で、光るものを自分のポケットに収集する
ボウトラックル: 緑の樹の枝のような姿でいつもニュートのポケットに居る
ヌントゥー:トラの様な姿でヘビ様の皮に覆われていて、吠えるとエリマキトカゲのように喉が膨らむ
オカミー : 鮮やかなブルーのヘビ様の生き物
デミグイズ: 白く長い毛を持つ歩くフクロウのような姿
ビリーウィグ : 青い色、ハチのような姿で、音を立てて空を飛ぶ
グラフォーン : 馬の様に大型動物で走るが、口の周りにヘビのようなものが沢山ついている
エランペント : サイを大きくしたような姿で、角が光って高熱を持っている
サンダーバード:巨大なタカを大きくしたような鳥
その他大勢

ストーリーは
ニュート スキャマンダーは、魔法学校ホグワース出身の動物学者で、世界中の魔法界の動物を、収集しながら旅をしている。保護した動物たちを研究した、その成果は、編纂されてホグワースの教科書になる予定だ。ニュートは魔法の世界と人間界とは平和共存できるはずだし、その存在を脅かすようなことをしなければ、どんな動物も 友好的で愛すべき獣たちであると、堅く信じている。彼は動物たちに深い愛情を持っているが、人間同士の付き合いが苦手で、人と上手に付き合うことができない。

1926年冬、ニュートは、アメリカ大陸に住む魔法界の動物を捕獲するために、ロンドンからニューヨークに到着した。ニューヨークでは、原因不明の不可解なビルの倒壊や道路破壊が頻発していた。目撃者によると、光る眼を持った黒い生物が、走り回って建造物を壊しているということだった。慈善家メアリー ベアボーンは、これらの一連の破壊事件は、魔法によるものに違いないと主張して、魔女狩りをしようと人々に訴えていた。彼女は孤児を引き取って、養子として育成していたが体罰を含む厳しい教育は、子供達に恐怖感や憎悪を生んでいた。

ニュートが到着早々、長旅の間ニュートのカバンの中で退屈しきっていた魔法動物の二フラーは、さっそく鞄から飛び出して街に出て行ってしまった。二フラーは光るものなら何でも収集せずにいられない。コインにカバンの口金、靴の飾りから犬の首輪まで、集めては自分のおなかの袋に保管する。あわててニュートは、二フラーを追いかけるが、お構いなしに二フラーは、銀行の金庫に入ってコインを集めようとする。その姿は人間界の人々には見えないが、通りかかった米国魔法議会の職員テイナには見える。米国では、このような動物を持ち込むことは禁止されていた。テイナは、ニュートを逮捕して、議会に連行する。米国魔法議会のプレジデントの前に引き出されたニュートは、動物たちの入ったカバンを皆の前で開けさせられる。ところが鞄の中身はパンだった。ニュートの鞄は、銀行で二フラーを追っている間に、人間界のジェイコブが自分のカバンと間違えて持って行ってしまった。ジェイコブは工場労働者だったがパン屋になることが夢で、資金を融資してもらうために銀行に来ていてニュートに会ったのだった。ニュートとテイナは魔法の鞄をもったジェイコブを探し回る。そして、みごとに破壊されたアパートの一角で、怪我をして倒れているジェイコブを見つける。魔法動物に噛まれた人間は、48時間、何が起こるかわからないので経過観察しなければならない。ニュートとジェイコブは、テイナの申し出に従って、テイナのアパートに、とりあえず落ち着くことになった。テイナには美しい妹クイニ―が同居していて、彼女は人の心を読むことができた。優しいクイニ―に、ジェイコブは一目惚れする。
ニュートはジェイコブを、自分の鞄のなかの動物の世界に連れていく。鞄の中には広い森があり、沢山の動物たちが住んでいた。ニュートは鞄から逃げ出していたエランペントをジェイコブの協力を得て捕まえて、鞄の中に戻してやる。

一方、街では次期大統領候補の上院議員だった男が衆人の前で黒い光る眼を持った動物に殺された。米国魔法議会では、ニュートの持っている動物が、犯人だと断定した。ニュートとテイナは逮捕されて、死刑を言い渡される。しかしニュートのポケットにいつも潜んでいるボウトラックルなど、魔法の動物たちに助けられて二人は脱出する。
頻発する街の破壊や議員の死などの不可解な出来事は、オブスキュラスという魔法界の生き物のせいに違いないが、それを誰が操作しているのか、米国魔法議会長官のグレイブスは孤児のクレデンスに調べるように命令する。クレデンスは、それが同じ孤児で妹のチャステイテイーだったことを知る。孤児たちは養母に暴力で支配され、体罰を受けながら虐められてきて、その恐怖心や憎悪心がオブスキュラスの原動力になっていたのだった。クレデンスは、自分もオブスキュラスになって街じゅうを破壊する。それを知ったニュートとテイナは、クレデンスがオブスキュラスになって、人々を傷つけることを止めさせ、改悛させようとする。しかし時遅く、クレデンスは米国魔法議会の警官に殺されてしまう。クレデンスを後ろから操作しようとしたグレイブス長官は逮捕された。拘束されたグレイブスは、見る見るうちに顔が変わって、実の姿は、闇の魔法使いグリンデルワールドになった。(グリデルワールドは、ハリーポッターでダンブルドア校長先生の親友だった。)

孤児クレデンスは殺され、グリンデルワールドは逮捕されて、破壊されつくした街だけが残った。
ニュートはサンダーバードを呼び寄せる。破壊された街を蘇らせるための魔法の薬を撒きながら、サンダーバードは空高く舞って、街をもとの姿に再生した。
ジェイコブは、記憶を消されて人の世界のもどっていった。彼は、ニュートと一緒に魔法の動物たちに餌をやり世話したことも、魅惑的なクイニ―に恋をしたことも、もう覚えていない、一介の工場労働者だ。

しばらくしてジェイコブは、どこかで見たような鞄を受け取る。中に銀の卵が入っていて、それを資金に彼は念願のパン屋を始める。彼が焼き上げたパンは、なぜか二フラーやエランペントや、ヌントゥーの姿をしたパンで、とても美味しいので、飛ぶように売れるのだった。
というお話。

これはファンタステイックビーストの第1話で、これからハリーポッターみたいに、ずっとニュートの旅は続いて、お話も続いていく。ハリーポッターでは、次々と紹介される魔法学校の魔法の術や、魔法の薬や登場する魔法界の人々が興味深かったが、今度の作品では魔法の動物たちが面白い。ニュートの鞄の中が大きな森のなかの宿舎になっていて、保護された動物たちが、のびのびと暮らしている。動物たちはそれぞれが強い個性と特徴を持っていて、共通して巨大になったり元の大きさに戻ったりできる。ニュートは全員の動物たちの親代わりだ。

仕事に忠実で真面目すぎるテイナに、引きずられっぱなしの人見知りするニュートが面白い。また工場労働者のジェイコブが、夢だったパン屋を開くために銀行に融資を依頼しに行くが、「いまどきパンなど機械で1分間にいくつも焼ける時代に手焼きパンなど誰が食べるか、」と、銀行支店長は取り付く島もない。憎々しい。非人間的な銀行員とその対象的な、人の良いジェイコブが鞄を間違えて持って行ったことで魔法界の人々に関わっていく筋道が、とても自然だ。動物が好きで優しい心を持ったどうしが、魔法界の人であろうが、人間界の人であろうが互いに魅かれ合っていく様子に、心がなごむ。そして、魔法界の動物たちの愛らしい事。

原作者が映画の製作に立ち会って、登場人物や登場動物のひとつひとつが彼女のイメージどうりに撮影されているかどうか、厳密にチェックしている。映画監督と原作者の共同制作と言って良い。1920年代のニューヨークの風景や人々の姿などを、明るすぎなくてセピア色に煙っているような画面に仕立てたところが見事だ。キラキラ太陽の下で、明るい画面だったら安っぽくみえただろう。
繊細で、人付き合いが苦手な学者のイメージに、エデイ レッドメインは適役だ。この役者の持ち味の良さで、今後のファンタステイックビーストシリーズを成功させていくことだろう。エデイは歌って、踊ることもできる、舞台俳優だ。アカデミー主演男優賞を受賞した「博士の彼女のセオリー」、「レ ミゼラブル」が代表作になるが、きっとこのシリーズで子供から大人までの幅広い層の人々を、不思議な動物とともに、今後も魅了させてくれることだろう。

マザーグース、グリム兄弟、アンデルセン、各国伝来の民話、デイズ二ー、PX、宮崎のジブリ作品など、数えきれない子供向けのファンタジーが作り出されてきたが、「ハリーポッター」や、「ファンタステイックビースト」シリーズを、読者が、同時代を生きる作者が作り上げる順に、読んだり観たりして堪能できて幸せだ。これらのシリーズがすべて、たった一人の今を生きる1965年生まれの女性の頭の中から生まれた、ということに改めて驚愕する。





2016年11月7日月曜日

映画 「ハクソウ リッジ」良心的兵役拒否者の沖縄戦

原題:「HACKSAW RIDGE」
監督:メル ギブソン               
キャスト
アンドリュ― ガーフィールド
サム ワーシントン
ルーク ブラッセイ
ヒューゴ ウィービング
レイチェル グリフィス
テレサ パルマ―
ビンス ボウグ
成瀬龍三郎 (シドニーで撮影が行われた為、私のギターの先生も日本兵になって出演している)
他、日本人出演者多数

この映画は第二次世界大戦の中で最も激しい戦闘が行われた沖縄戦で、良心的兵役拒否の思想から武器を持たずに兵役志願した青年が、戦闘の最前線から沢山の傷病兵を救い出したという実話を映画化した作品。反戦映画。
今年9月のベニス映画祭で、初めて上演され、10分間のスタンデイングオベーションを受けた。主人公デスモンド ドス(1919-2006)は、セブン アドベンテイストのクリスチャンとして、自ら兵役を志願したが、敵兵を殺すことも 武器を所持することも拒否して入隊し、グアム、フィリピンのレイテ島、沖縄戦に参戦した。
沖縄上陸後の地上戦で、75人の負傷者を最前線の戦闘場面から一人ひとり背負って救助した勇気と英雄的人道行為を高く評価されて、トルーマン大統領から、軍人として最も名誉あるメダルオブオーナーを授与された。彼は数々の戦闘に参戦し、結核を患い退役し、87歳で亡くなった。彼の少年時代から沖縄戦に至るまでのドスの半世紀が描かれている。

ストーリーは
ドスの父親は第一次世界大戦でメダルを’受賞された名誉ある帰還兵だったが、親しかった友人をことごとく目の前で亡くして その心の傷からアルコール中毒になって妻に暴力をふるうようになった。父親の暴力に怯えながらも ドスは兄と一緒に、自然豊かなバージニア州リンカベルの田舎で少年時代を送った。成長してから美しい病院の看護師に出会い、恋をして結婚の約束をするが、すでに太平洋戦争が始まっていた。

ドスは、パールハーバーで日起きた日本軍への怒りから、軍に志願して国の為に貢献したいと考えて、入隊する。新兵としての営巣生活が始まり、射撃訓練も始まった。しかしドスは、銃に触れることを拒否する。そのためにドスの所属する部隊は、罰を受けて上司たちからもっと厳しい訓練を科せられたり、新兵虐めにさらされるようになった。怒った仲間たちは、ドスを半殺しの目にあわせる。隊長をはじめ、上官たちは困惑する。
軍組織で上官不服従は、厳罰に値する。精神病医から精神鑑定を受けさせられたり、聞き取りや、カウンセリングが行われ、彼は懲罰房に入れられ、遂に軍規不服従で軍法会議にかけられる。しかし、英国を始め多くの国では、すでに良心的兵役拒否は合法とされていて軍として、志願者を拒否することはできない、という認識からドスは、希望通りに隊に復帰することになった。

1945年3月、沖縄の海はすでに連合軍の艦隊に包囲され、連合軍の沖縄本島上陸によって地上戦が開始されていた。日本軍は本土への連合国軍上陸を阻止するため、沖縄戦を全力をかけて戦闘に臨んでいた。ドスの所属する部隊は沖縄本島浦添の基地から、ホークソウ リッジと呼ばれていた120メートルの絶壁を登って、進軍しようとするが、日本軍の激しい攻撃にさらされ、昨日まで寝食を共にしていた仲間たちは次々と倒れる。余りの攻撃の激しさに、退却命令が出た。
しかし、ドスは目の前で親友に死なれて、どうしても退却することができず、ひとり最前線に戻る。沢山の仲間が傷を受けて動けずにいた。彼らは後で見回りに来る日本兵に、次々と銃剣で刺されて殺される。ドスは敵に見つからないように一人ひとり、けが人を背負って移動し、岸壁からザイルで負傷者に体を固定して120メートル下の基地に下ろした。こうしてドスは、敵兵に追われながら、75人の負傷者を、たった一人で保護、救出した。そんな武器を持たずに戦争に参戦した「腰抜け兵士」と言われてきたドスを、隊員たちは驚きと尊敬の念をもって迎えた。というお話。

ど迫力。
超リアル。
スゲー。
戦闘のリアリテイをこれほど画面で描写された映画を、他に知らない。
ヒューン ドス、ピューン ブスッと撃ち込まれる銃弾によって体に穴があき、みるみる銃創が開いて血が噴き出る。頭を少し上げただけで銃弾がヘルメットを貫通する。バビューンと砲撃を受け、土が跳ね上がり体が宙に浮き地面にたたきつけられた時には手足が吹き飛んでいる。シュッと手りゅう弾が飛び、地面に穴が開き、その土の上をバラバラになったからだの部分部分が落ちてくる。雨のように降って来る銃弾を避けて穴に飛び込んだら、そこは仲間の血にまみれた死体の山。体中に蛆がわき、ネズミが肉を食む。助け起こした男の背中を見ると蛆で真っ白。火炎銃で焼き尽くしても焼き尽くしても、恐れを知らない日本兵は突撃してくる。

映画「プライベート ライアンを救え」の最初のシーンが思い出される。ノルマンジー上陸を前に、海からボートで上陸しようとする連合軍兵が、次々と狙撃されて死んでいくトップシーンだ。敵は見えない。ボート上の兵士たちは上陸ををめざして、ただ前を見ているだけだ。陸はまだ遠い。隣に居た仲間も前も後も、ただ黙ってなすこともなく次々と撃たれて殺されていく。それでも生き残った者は、上陸し死体の山になっている海岸を死体を踏み越えて敵兵に向かっていく。衝撃的な映画の出だしだった。トム ハンクスが良い師団長を演じていた。しかし、このときの衝撃など、この映画の1%程度の衝撃度か。

この映画ほど戦闘場面の激しい描写を、他に見たことがない。何といっても、監督がメル ギブソンだ。うーん、、。彼のリアリズム描写には勝てません。もうお手上げ。
ギブソンの「パッション」、原題「THE PASSION OF THE CHRIST」2004年作品は、キリストの生涯を描いた作品だったが、ローマ人に捕えられてから、彼が死に至るまでの描写があまりにも聖書に忠実で残酷すぎて、暴力的映画だと、世界中のクリスチャンからブーイングされた。むち打ち刑と、十字架を背負ってゴルゴダの丘で命絶えるまで、延々と痛みと乾きと苦しみを画面いっぱい見せられて、そのあまりの長さと残酷さに私もクリスチャンでなくとも死ぬかと思った。

メル ギブソン、1956年生まれ、60歳の映画監督は、アメリカ生まれのシドニー育ち、オーストラリア唯一の俳優養成所NIDA出身だ。敬虔なカトリックで 11人の兄弟の6番目。自身の家庭も子沢山で、超伝統的カトリック教徒として、妊娠中絶も避妊にも反対している。
1995年「ブレイブ ハート」を監督主演して、アカデミー賞監督賞を受賞され、2006年には「アポカリプト」を、その時代のマヤの言語で役者に演じさせて、映画字幕をつけた。2004年の「パッション」も、キリストが居た当時のヘブライ語、ラテン語で映画が制作されていて字幕つきだ。彼の名が世界的に認められるようになったのは、監督として成功する前に、役者として「マッドマックス」1979年、「マッドマックス2」1981年で人気が出てからだろう。でも私は、メルの最も最初の頃の映画「ガリポリ」 が一番好きだ。若くてういういしい少年の、懸命に走る姿が、忘れられない。
メルも その後ハリウッドでたくさんのスキャンダルにまみれて、「パッション」では多くのキリスト教団体やユダヤ人団体から批判の嵐のさらされ、「アポカリプト」ではペルー国民をはじめ、南米現地の人々からこき下ろされて、アメリカに永住することになって、シドニーッ子からはオージー国籍を捨てた裏切者と言われ、いまやハリウッドの頑固者、石頭、偏屈者と呼ばれるオッサンになった。素晴らしい。

映画では、良心的兵役拒否者の半生が描くことによって、強い反戦へのメッセージが伝えられている。デスモンド ドスが子供の頃、兄とふざけていて取っ組み合いのけんかになって思わずレンガで兄を殴って、殺してしまうところだった。また、飲んで母に暴力をふるう父親に向かって銃をむけて、思わず父を殺してしまうところだった。このことからドスは、自分が人を殺すつもりがなくても、武器を持っていたら、人を殺すことができるということを、身をもって学ぶ。そこから彼は二度と武器は持たない、人を殺さない決意をする。その決意の強さは、軍事裁判に引きずり出されても、仲間から半殺しの目にあっても変わらなかった。その鉄の様な決心の強さが映画のタイトルに重なっている。

映画にアフリカンアメリカ人が一人も出てこない。インデイアン出身の志願兵が、その肌の色でみんなの前で隊長に馬鹿にされるシーンが出てくる。当時のアメリカ社会の差別が しっかり描かれている。

ドスを演じたアンドリュー ガーフィールドがとても良い。イギリス人でシェイクスピア劇団できちんと舞台俳優として教育を受けている役者だ。映画「スパイダーマン」でも感じたが、彼独特の舌足らずな話し方が可愛いけど 映画が聞き取りにくい。映画の中でドスのことを 隊長がスキニーボーイ(やせっぽち)と、愛情をこめて言うが、彼の様に背が高いが痩せた青年が、鉄を切るのこぎり(HACKSAW)のように強い、(RIDGE)背中をもっている。その背中に負傷者を背負ってひとりひとり最前線から運んで救助救命した姿に、心打たれない人は居ないだろう。彼は傷ついた日本兵さえ救助している。

日本軍の牛島司令官の腹切ハラキリ場面も出てくる。沖縄に無数に有るガマと呼ばれる洞窟の中を、はい回るシーンもある。激戦地で連合軍と日本軍との間で、どんな熾烈な戦闘があったかは描かれているが、そのときに女子供をふくむ非武装の沖縄住民がどのように追い詰められていたかについては、まったく触れられていない。

最後に良心的兵役拒否について
良心的兵役拒否は、徴兵制のもとで、個人の信念、信条、宗教的理由から兵役を拒否することを言う。聖書のマタイ26、52では、「あなたの剣をもとのところに納めなさい。すべて剣を取るものは剣によって滅びるのです。」 という教えがある。武器を持たない、人を殺さないことを主張するクエーカー教徒、やエホバの証人の多くは、この教えをもとに兵役拒否をしてきた。現在では多くの国で、徴兵制度が廃止され、良心的兵役拒否者も減ってきたが、過去には米国でも銃殺刑の前例もある、厳罰の対象だった。その後1948年国連の、思想 信条、宗教の自由は人間の権利でありそれを保障しなければならないという考えから、兵役義務のある国において良心的兵役拒否は、人間の権利として認めるようになってきた。英国では早くから兵役拒否が合法化され、第二次世界大戦では6万人のクエーカー教徒が兵役拒否をして、7000人余りが戦闘要員ではない任務にあたっていた。徴兵制が廃止される前のドイツでも、兵役の代わりに代替労働として市民公共サービスに奉仕することが取って代わられていた。
現在170か国のうち、67か国に徴兵制度があり、そのうちスイス、ノルウェー、デンマーク、フィンランド、ギリシャ、オーストリア、台湾では、兵役拒否が合法化されている。しかし他の多くの国では、建前で兵役拒否できても、代替労働が兵役期間よりも長く労役義務に就かなければならなかったり、現実にはイスラエルやトルコといった国では、今でも兵役拒否が審査の段階で認められなかったり、禁固刑に処されたり、就学就職で差別を受けることが多い。
韓国では、兵役拒否は法的に認められておらず、毎年700-800人が兵役拒否で有罪となり禁固刑に服している。その多くがエホバの証人の信者だ。2000年から2008年の間に役5000人の兵役拒否者が実刑を受けたという。今年2016年1月に、実刑判決を覆し、控訴審で無罪になった25歳と29歳のエホバの証人の兵役拒否者が、日本旅行のために来日した際、関西空港の入国審査で入国できず強制的に帰国させられるという事件が起きている。なんてことだ。

良心的兵役拒否は、旧日本軍や、日本社会にとって最も理解され、受け入れられる余地のない思想だったのではないだろうか。社会の中で個人というものが確立され、個人の思想、信条の自由が尊重されている成熟社会でなければ起こり得ない。
赤紙ひとつで戦争に駆り立てられ、有無を言わずに戦場に送られて、上官に従わなければ厳罰が待っている垂直型、縦割り社会の旧日本軍では、個人の自由を尊重し人間としての権利を認めるなどあり得なかった。かの大戦で、日本軍が最も沢山の非武装市民の命を奪った沖縄戦で、連合軍側の良心的兵役拒否者が日本兵を含む、沢山の負傷者を救助したという美談には、素直に感動する。

沖縄上陸後の地上戦では、連合国軍上陸部隊は7個師団、18万3000人、後方の兵士を加えると54万8000人の大軍が沖縄を取り囲んでいた。一方、日本軍は総勢11万6400人。沖縄出身の軍関係者の死者は2万8222人、一般市民の死者9万4000人に対して、本土から来た軍関係戦死者は6万6千人足らず。
記録されているだけでも800人の非武装の沖縄住民が、日本軍によって殺されている。沖縄県民の4人に一人は沖縄戦の犠牲者で。その数は、軍人の死者数を大きく上回る。非武装の住民たちは、自分たちの生活の場を日本軍に奪われ、連合軍に完全包囲されたあとは戦闘に巻き込まれ、白旗を上げて投降した婦女子は、住民を守る筈の日本軍から、後ろから撃たれて死んでいった。生きて辱めを受けるなと命令し、集団自殺を強いた日本軍人たちの非人間性は、どんなに糾弾しても糾弾し足りない。そんな中を司令官だけが切腹して逃げ切るなど、何の道徳も倫理観もない姿は、滑稽でさえある。何が日本の美だ。醜悪そのものだ。そして日本軍の例えようもない命の軽さ。

その同じ戦闘で、連合軍側では丸腰の救護兵が負傷者をひとりひとり肩に背負い、救出し、そのあと本国に無事送り返していた。何という軍隊の在り方の相違だろうか。
「命どう宝」沖縄の言葉の重さを考えて、ふたたび心の痛みを確認する良い機会だった。
とても良い映画だ。見る価値がある。


2016年10月25日火曜日

映画「シンゴジラ」駆除も捕獲も殺害もなしでゴジラは永遠なり






監督:廣野秀明 樋口真嗣
キャスト
内閣総理大臣補佐官:赤坂 :竹野内豊
内閣官房副長官:矢口蘭堂 :長谷川博己
米国国務省代表カヨコ アン パターソン:石原さとみ
環境庁自然環境局野生生物課長補佐: 尾頭ヒロミ
大河原総理大臣 :大杉蓮

ストーリーは
2016年11月 東京湾羽田沖で突然、大量の水蒸気が海底から吹き上げられると同時に、海底を通る東京湾アクアランドトンネルが崩壊する。何が起こっているのか。政府は緊急会議を開くが、大勢は地底火山の噴火と考えて政府の対策が後ろ手にまわる。内閣官房副長官、矢口蘭堂はネット上の人々の目撃証言や動画から、巨大生物の存在を示俊する。
時を経ずに巨大なこのヘビ状の生物は、東京湾から多摩川を遡上して蒲田に上陸、周辺地域を破壊しながら品川に達し、変態して2本足で歩き始め、また東京湾に姿を消した。そのたった2時間の間に、建物の破壊だけでなく死者、行方不明100人を超える被害が出た。
巨大生物はゴジラと名付けられ、政府は巨大不明生物特設災害対策本部(巨災対)を設置し、矢口蘭堂が事務局長に指名される。

一方漂流中の無人ボートが発見され、それがゴジラの生態を研究していた牧悟郎博士のものとわかった。博士は、「自分は好きにした、今度はお前たちが好きにしろ」、という謎のメッセージを残して姿を消していた。博士が残していたゴジラの遺伝子に関する暗号を解析するために、特殊専門家たちが招集された。ゴジラは驚くことに、体内に原子炉にかわる器官をもっていて、核分裂でエネルギーを供給していた。

その後、再びゴジラは、さらにその体を倍に増強して、鎌倉に現れた。
今度は前回出遅れた自衛隊が出動し、在日米軍の支援も要請し、航空機による爆撃、戦車の出動、米軍の大型貫通爆弾攻撃が行われる。傷を受けたゴジラは、驚くことに、口から火を噴き始め、近辺を炎上させ、避難途中だった総理大臣や閣僚を乗せたヘリコプターも炎上、さらにゴジラは、背中のとげから無数のレーザービームを出して応戦した。しかしエネルギーの大量消耗によって東京駅まで到達して、ゴジラはそこで動かなくなる。

2週間はゴジラは動けない。その間に対策を立てないと、日本の存続にかかわる。
ゴジラの尻尾から剥がれ落ちた組織や血液からゴジラは、人の遺伝子の8倍の遺伝子を持った完全体であり、無性生殖で自己増殖することができ、進化も早く、小型化、有翅化することもできることがわかる。ゴジラは日本だけの問題ではない。国連安全保障理事会の緊急決議で ゴジラを核攻撃で完全抹殺駆除する案が決定される。
東京都360万人の住民が立ち退き命令によって緊急避難した。日本の地に再び核兵器が使用されるのか。矢口蘭堂は、牧博士が残したゴジラの細胞進化を止めるための化学薬品を突き止めて、これを血液凝固剤と共にゴジラに注入することでゴジラの動きを止めることができるはずだと主張する。被爆国として、再び核兵器が使用されることを、何とか止めたい。彼の専門チームの熱い説得で、自衛隊と米軍が共同で動き出した。

弱ったゴジラに向けて、爆弾を積んだ無人新幹線をゴジラに激突させてゴジラの動きを止める。米軍による無人戦闘航空機によってゴジラは火を噴きレーザー光線を出し尽くし、力尽きて倒れる。横になったゴジラの口にポンプ車が何百キロもの血液凝固剤と冷凍薬品を注ぎ込む。ゴジラは何度も立ち上がり、抵抗するが遂に、立ちはだかって尻尾を振り上げる姿のまま凍結した。
というストーリー。

シドニーの大型劇場の最前列の真ん中で観た。30年あまりも外国に居て日本語の日本映画が見られるのは、とても嬉しいことだ。ここでもゴジラは人気ものなんだ。
暴れるだけ暴れると消耗して2週間ピクリともせず動けなくなるゴジラが可愛い。海から上がって来たばかりの幼生ゴジラのウツボとも、蛇とも、ウーパール―パーとも、深海魚ともいえない目がくりくりした姿も愛らしい。ドバー ビシャ―と エラから赤い海水か体液を噴出させながら蒲田や品川を破壊しまくった幼生ゴジラ自身に罪はない。
最後も歌舞伎役者が大見えを切るように、勇壮に尾を振り上げた立ち姿で、凍り付いた姿も忘れ難い。ゴジラの動きは狂言師の野村萬斎が監督したそうだ。さすがだ。

ゴジラは、米軍によって繰り返し行われたビキニ環礁水爆実験によって誕生した。米軍は実に1946年から1958年までの12年間に23回も原子爆弾を使った。とくに1954年の実験では、第5福竜丸など1000艘の漁船が死の灰を浴び、この船長は亡くなり、近隣の島民たちに大きな被害をもたらせた。いまだに放射線が強く、島民は帰島することができないでいる。この実験ではヒロシマ型の原爆1000個分の爆発が起こされ、海底には2キロ幅、73メートルのクレーターができた。
自然界を破壊した人間の奢りに対して、放射能をもろに浴びた海底生物は その遺伝子を破壊され、再生された時にはヒトの遺伝子の8倍の遺伝子を持つ完全個体になっていた。その細胞組織は無限に再生増殖することができる。寿命のない完璧な生物の誕生だ。ゴジラは神か。

今回の映画で嬉しかったことは、映画で一度も「怪獣」という言葉が使われなかったことだ。この巨大海中生物は、核分裂をエネルギーにして、えら呼吸をし、核分裂から起こる放熱を火炎射出や、背中からのビーム放熱で発散させて、海水で体を冷やしている。元素変換装置を持っているから細胞が壊れても再生も進化もできる。こんな発達した体をヒトは欲しかったのではないか。

ゴジラは、米軍による武器開発過程で生まれた 原子爆弾の副産物と言える。核分裂をエネルギーとして、生きる新生物だ。ヒトをできるだけ効率よく殺傷し、人類が何世紀もかけて築き上げてきた文化を破壊するために核兵器が開発され、兵器産業がゴジラを生み出した。ゴジラ自身にはヒトを傷つける意志などないし、ヒトを攻撃や戦闘する理由もない。
凍結されたゴジラは、放射能汚染水の流出を、地下水凍結で止めようとして失敗した東電のフクイチの姿に重なる。日本政府は、対策を練ることもなく、毎日900トンの汚染水を太平洋に流出させながらそれを止める技術も才覚も、指導力もなく世界の顰蹙をかっている。

文明の発展と経済活動を進める上で核開発は避けられなかった。私達はウランを掘り、ラジウムを医療に利用し数々の治療薬や検査薬を生み出し、核分裂させてエネルギーを作り出し、核の破壊力を利用して兵器を作って来た。もう後もどり出来ない。

核の使用前に人類全体として核をどう扱うか世界的な管理、倫理協定を持つことができなかった。その結果として世界は核によって滅び、地球は死滅するしかない。
わたしたちは凍結したゴジラを横に見ながら、より破壊力を持ったゴジラが再び動き始める、その日まで、何もなかったようにメシを食い、仕事を淡々と続けるだけだ。

+写真は、ゴジラが飲み残した急速冷凍凝固剤を、うちのアルちゃんが、ストローでちゅるちゅる飲んでいるところ。

2016年10月23日日曜日

映画 「インフェルノ」とダンテの世界を生きる私達


                                                          


原題「INFERNO」
原作:ダン ブラウン
監督:ロン ハワード

キャスト
ロバート ラングルトン教授: トム ハンクス
シエナ ブロックス女医 : フェリシテイー ジョーンズ
WHO議長エリザベス シンスキー:シセ バベット クヌッセン
ベルナルド ゾブリスト : ベン フォスター
ハリー シムス : イル ファンカン
クリストフ ブルーダー:オマー サイ

ダン ブラウン原作の「インフェルノ」が映画化され公開された。3年前に原作が出版されたときに、すでに映画化されると発表されていたので、予定通りで、待ってましたーという感じ。前回 「ダ ビンチコード」(2003年)も、「天使と悪魔」(2000年)も、ダンブラウン原作、ロン ハワード監督で映画化されてきて、この「インフェルノ」が、彼らの第3作目に当たる。「インフェルノ」の書評は、2013年12月24日に、このブログで書いたが、すっかり忘れているので、ここで映画評の後ろに付け足してみた。

ダン ブラウンの作品は、緻密な歴史的考証をもとにして書かれているので、映画化するのに向いている。でもキャストについていえば、主役のラングルトン教授をトム ハンクスが演じるのは、もういい加減最後にして欲しい。ラングルトンは博識で、紳士で、50代らしいがチャーミングで独身生活を楽しんでいる。毎朝大学のプールで かるーく千メートルは泳ぐことを日課にしていて、英国仕立てのハリスのツイードジャケットが似合う、いわば男の理想像みたいな学者だ。トム ハンクスが役者では、軽すぎる。今回の悪役、ベルナルド ゾブリストを べン フォスターにしたことも、完全にミスキャスト。遺伝子工学の世界的な権威で天才的なドクターでおまけに富豪という役は、もっとカリスマのある人が演じないと映画が生きない。アクション映画の端役ばかりをやってきたベン フォスターにゾブリストでは、荷が重すぎる。

原作では良い人のはずだったクリストフ ブルダー(オマー サイ)や、準主役のシエナ ブロックスが、映画では悪者になってしまったのは驚きだったが、ラングルトンに、ラブロマンスの香りを付け足したり、原作にない暴力シーンが多かったことに、とても驚いている。
ロン ハワードの3作の中で、この映画が最悪の評価をされているらしいが、実際「ダ ビンチコード」や、「天使と悪魔」にはなかった原作のいじり過ぎが目立つ。いつの頃からアメリカ映画には、暴力とセックスが無くてはならないものになってしまったのだろうか。おかしいではないか。誰もがそういった傾向を好ましいと思っているわけではない。映画は芸術だったのではないか。ひまつぶしではないはずだ。原作から脚本を作り、撮影し音楽を作る、その過程は2年も3年もかかる総合芸術を生み出すための制作過程だ。原作をいじって、暴力とセックスを付け加えるのに断固反対。原作は映画よりも上か。勿論だ。特にこの映画は失敗作。トム ハンクスの老いさらばえた顔を見るよりも、原作を読んで知的好奇心を満足させる方が良い。

この作品のテーマは、ゾブリストが命を懸けて人々に問いかけた人口増加問題にある。私たちは、いま正にダンテの時代を生きている。ゾブリストが言うように「ヒトという種は多産すぎる。」 人口は増加する一方だ。水もエネルギーも食糧も足りない。地球の温暖化は止められない。人々は泥船を漕ぎ出して自滅に向かっている。WHOは何をしている。人口抑制のために開発途上国に無料のコンドームをばらまくだけだ。しかしWHOの職員が立ち去った後を、倍の数の宣教師がコンドームを使うことは神の意志に反していると説いて回り、途上国のゴミ箱には未使用のコンドームで溢れかえっている。70億に達した歯止めの効かない世界人口の倍増を前にして 解決策はあるのか。そんなわけで、ゾブリストは今後人々が子供を産まないようになり、徐々に人口が3分の1になるような解決方法を見出した。しかしゾブリストの解決策が誤っているならば、破滅に向かうダンテの時代を生きる我々人類に、生存できる道があるのだろうか。こういった差し迫った人類に課せられた問題について、答えを見つけられないでいる現状を作家は嘆いている。共感できる。だから原作がおもしろい。ハッキリ言って映画を観るよりも原作を読む方が、100倍面白い。



「ダン ブラウンのインフェルノ」を読んで 
2013年 12月24日

ダン ブラウンが大好き。
彼の書くロバート ラングルトンが大好き。
尽きることのない豊富な知識、過去の歴史をそらんじていて、ラテンを含む数か国語に通じていて、難解な暗号を読み解く。ハーバード大学教授だが、象牙の塔にじっとしていられない行動派で、気が付くとインデイアナ ジョーンズなみに冒険の旅に出ている。フェミニストで、謙虚な紳士。いつもイニシャル入りの特注手縫いのハリス ツイードを着てローファーを履いている、男の魅力の塊みたいなロバート ラングルトンを生み出した作家、ダン ブラウンは1961年生まれのアメリカ人。父は数学者、母は宗教音楽家、妻は美術史研究者という。

2003年に「ダ ヴィンチ コード」の出版を機会に、世界的なベストセラー作家となり、その前に出版していたが売れていなかった、2000年「天使と悪魔」も 一挙にベストセラー入りした。ロバート ラングルトンシリーズ第一弾の、「天使と悪魔」は、キリスト教のイルミナリティ組織と、聞いたこともなかった科学技術の「反物質」が出てきたし、「ダ ヴィンチコード」では、レオナルド ダ ヴィンチの絵に隠された暗号を読み、イエス キリストの今まであまり語られることのなかった挿話が描かれた。2009年の「ロスト シンボル」では、フリーメイソン組織の秘密性を暴き出した。出版されたばかりの2013年「インフェルノ」は、ラングルトンシリーズの第4作目となる。2013年10月に出版され、11月末に日本語訳で出版された。

2015年には映画化が決まっている。またラングルトンをトム ハンクスが演じるらしいが、原作に描かれているラングルトンは トム ハンクスよりもずっと魅力的な男で、作者ダン ブラウンの姿に近い。作者はハンサムで実にチャーミングな人だ。だから熱狂的なラングルトンファンはそのまま ダン ブラウンファンになって、両者を常に混同する。彼はインタビューで私生活を一切語らないマスコミ嫌いだそうで、そのためファンは一層 想像力をかきたてられてダン ブラウンをラングルトン以上のスーパーマンかバットマンのように思いがちだ。最近のインタビューによると、実際の彼は、毎朝4時にはキーボードに向かって執筆する退屈極まりない日々を一年365日していて、10ページ書いては、1ページを除いて捨てるような地味な作家なんだそうだ。
今回の「インフェルノ」は、ダンテの叙事詩「神曲」第一部の「地獄篇(インフェルノ)」が、謎解きになって、地球の人口増加現象が語られる。ラングルトンは殺人者に追われながら フィレンツェ、ベネチア、イスタンブールを駆け回る。いつもの通り、美人の協力者と一緒だ。おもしろくてドキドキしながら650ページを一気に読める。

ストーリーは
ハーバード大学宗教象徴学教授ラングルトンは、目が覚めると頭に包帯、点滴でつながれてフィレンツエの病院に居る。どうして自分がイタリアに居るのか全く記憶がない。頭にぐるぐる巻かれた包帯は一体何だ。シエナ ブルックスと名乗る金髪の美しい女医に、自分に何があったのか、事情を聞いている内に、突然外が騒がしくなり病室のドアが開くと、シエナの同僚のマルコーニ医師が、突然闖入者によって撃ち殺される。とっさのシエナの機転で、ラングルトンはシエナのあとについて逃亡。バイクに乗った黒ずくめのプロの殺し屋の追跡をかわしながらラングルトンは、どうして自分が追われなければならないのか理由を考える。ラングルトンが何をしたというのだ。

シエナがラングルトンのジャケットの裏地に縫い込まれた円筒を見つける。ダンテの「神曲」を描いたボッチチェリの「地獄の見取り図」だ。しかし、おかしなことに、この見取り図には、原画にない暗号がついていた。ラングルトンとシエナは暗号が何を指示しているのか、知るためにヴェッキオ宮殿に侵入、ダンテのデスマスクを盗み出す。シエナは驚くべき高い知能を持った女性で、何度も彼女の知恵と機転に助けられながら逃亡、銃口から逃れながら、なぜ自分の命が狙われるのか必死で考える。デスマスクにはさらに謎の暗号が仕組まれていた。それを解くために二人はサンタマリア デルフォーレ大聖堂、ベネチアに飛んでサン マルコ大聖堂を彷徨った末、目的地が、意外にもイタリアではなく、イスタンブールだったことに気が付く。しかし、追っ手によって二人は分断されてしまい辛うじてシエナを逃がしたラングルトンは、敵に捕獲されてしまう。シエナは、先にイスタンブールに向かう。しかし、殺し屋と思っていたラングルトンの追っ手は、実は国際機関WHO議長ドクター エリザベス シンスキーとそのチームだった。シンスキーは説明する。

スイスの大富豪で生化学者ベルトラン ゾブリストは地球上の人類から人口爆発を食い止めるために、生物化学兵器ともいえる病原菌を仕掛けた。ダンテの熱狂的ファンでもあるゾブリストは暗号で病原菌を隠した場所を暗示するだけで、自から死んでしまった。彼は1300年代にペストがヨーロッパの人口の3分の1を死に追いやったことで、生き残った人々が豊富な食料を得てルネッサンスの原動力になった歴史的事実を、高く評価していた。そして世界人口がこのまま増加すれば 資源も枯れ葉てて世界は滅亡するの違いないので、世界人口を3分の2に間引くため病原菌を仕掛けたという。この科学者の残したダンテにまつわる暗号を読み解いて一刻も早く病原菌を回収しなければ人類の危機に陥る。3日前にWHOからラングルトンは、病原菌を隠した場所を示す暗号を解くように要請されていたが、事故で記憶を失っていたのだった。

ラングルトンらの一行はイスタンブールに飛ぶ。ラングルトンの協力者だと思われたシエナは ゾブリストのかつての恋人で、ラングルトンが解きかけた暗号を読んで、病原菌の隠された場所にすでに向かっている。ようやくのことで、ラングルトンが突き止めた病原菌の場所は、観光客に人気のスポットで、その夜はイスタンブール国立交響楽団がコンサートを開いていた。演奏曲目は、フランツ リストの「ダンテ交響曲」。病原菌がばらまかれるまで数時間しか残っていない。ラングルトンは、、、。
というお話。

ダン ブラウンを読ませる力は「知」への欲求だ。彼の本は、知の集積というか、ハーバード大学の講義を聴いているようなものだ。ラングルトンはいつも追われながら、世界各地にある建造物や美術品の歴史的価値や構造や特徴や現代における価値を説明してくれて、さらに今まで誰も述べてくれなかったような不可解な古代の象徴に秘められた暗号や、本当の意味や価値を読み解いてくれる。旅行者には興味があっても行ったり、触れたりすることができない奥の部屋や、地下や、からくりのあるドアや、天井の作りまで、ラングルトンが逃亡しながら足を踏み入れてくれるので、知ることができて、自分が前に訪れて、見て聞いた観光名所に さらに愛着が増す。

例えば、ミケランジェロのフィレンツエ、ヴェツキオ宮殿のミケランジェロの傑作「勝利」の像は、ローマ教皇ユリウス2世の墓を飾る為に作られたが、同性愛を憎んだユリウスの心情に反して、像のモデルはミケランジェロが長年愛したカヴァエーリという青年だった。ミケランジェロは彼のためにいくつものソネットを書いている。それを知った特注者は、ユリウスの墓からこの像を遠ざけた。というエピソード。
またヴェネチアのサン マルコ大聖堂を飾る4頭の馬は、漆黒のオランダ馬フリーシアン種がモデルで歴史上最も盗難にあった美術品といわれる。無名のギリシャ人によって製作されたがビザンチン帝国皇帝によってコンスタンチノーブルに持ち出された。その後十字軍がコンスタンチノーブルを陥落させるとヴェネチアに運ばれて、1254年にサン マルコ大聖堂に設置される。そして500年後にナポレオンがヴェネチアを征服すると、4頭の馬はパリに運ばれて凱旋門を飾り、ナポレオンが破られると再び、ヴェネチアに運ばれた、というようなエピソードは、実際、この巨大な4頭の馬を観て、印象が深かったので、たまらなく興味がわく。

ラングルトンが説明してくれたイスタンブールの「沈んだ宮殿」に上下さかさまに置かれているメヂューサの巨大な大理石でできた頭を一度見てみたい。360年に建造されて、東方教会となりモスクに変わり、いまはキリストも、アラーも、モハメドもいるという「アヤソフィア」も、是非訪れてみたい。こうして、ラングルトンが解説してくれる名所や建物は、本の出版後必ず人気の観光名所になるそうで、各国の観光相からどんなに感謝されてもしきれないだろう。
この本に出てくる、フィレンツエのサンタ マリアデルフォーレ大聖堂、天国の門、サン ジョバンニ洗礼堂、ダンテの家、サンタ マルゲリータ デイ チェルキ教会、ヴァザーリ回廊、、ヴェッキオ宮殿の五百人広間、ポルタロマーノ美術学校、ボーボリ庭園、ヴェキオ橋、ヴェネチアのムラノ島、サンタルチア駅、大運河、水上バス、などなどラングルトンの解説は 月並みな旅行解説本と違っていつも興味を倍増させてくれる。ラングルトンを、「走り回る旅行ガイド」と言った人が居たが、的を得ている。
とにかく面白い。
「ダヴィンチコード」に比べると、驚きは少ないが、充分満足だ。



2016年10月2日日曜日

オーストラリアの野鳥の様に

    


オーストラリアには800種以上の野鳥が生息する。
シドニー北部のノースショアと呼ばれる地域に20年近く住んで、最近そこから30分ほど西に行ったシドニー北西部に引っ越してきて、朝晩聞こえてくる野鳥の声が変わっていたことに気が付いた。以前のアパートはすべての部屋が、遊歩道のある林に面していたので、いつも煩いくらいに鳥たちがさえずってくれた。          

多くの野鳥の名前は 私にはわからないが、一番多かったのがマグパイ(magpie)日本名カササギツエガラス、隊長は20センチくらいで首のまわりを白くした小型カラスみたいな姿。小柄のくせにギャーギャー叫びまわってうるさい。それを大きくしたカラウオン(currawong)と呼ばれるフエガラスは、日本のカラスサイズで、野鳥を虐める人が居ないので全然人を恐れずに歩道橋の手すりなどに止まっている。マグパイは育児中は神経質になっていて、アパートのバルコニーの手すりに来て、バルコニーのソファでせっかく昼寝している我が家の猫クロエに向かって、けたたましい声でギャーギャー声で「ここに敵が居るぞ、あやしい奴がいるぞー!」と100メートル四方に聞こえる音量で警報を発して、クロエがこそこそ家の中に避難するまでそれを続ける。迷惑だ。

手の届く距離の、バルコニーの手すりに飛んできて、静かに地面を見て動く虫がいないかどうか観察しているのは、クッカバラ(kookaburra)日本名ワライカワセミだ。20センチくらいだが体の大きさの割に頭も嘴も大きくて、羽毛がふわふわで愛らしい。ブルーが勝った白色の胸に背は茶色、近所で見かける野鳥の中で一番可愛い。名前の様にカッカッと人の笑い声のような鳴き方をする。

バルコニーで猫と、まったりしていた時に、極採色のレインボーロリキート(rainbow lorikeet)ゴシキセイガインコが普通に飛び交っていて、ボトルフラワーの実をついばんでいったのには驚いた。真っ青な頭、グリーンの背、オレンジの胸というカラフルで美しい鳥が、動物園や東南アジアの森でなく、シドニーの住宅地に普通に生息していることには感動した。

ワイルドターキー(australian wild turky)までも普通の人々が暮らす場に共生していて、どこででも闊歩しているのには、まいった。雄は首に極彩色の袋を持っていて気味が悪い。でかい。こんな奴の肉はクリスマスでも食べたくない。私の腰の高さの身長で、ひょこひょこと歩き回って、私が野良猫に餌をやるのを見ていて、しっかりそのエサを猫の目の前でさらっていく。脅かすと近くの樹に飛んでいって枝に止まって人が去るのを待っている。
だいたいバードウオッチって、日本では小鳥ばかりではなかったか。こちらの野鳥はみな大きいので望遠鏡など要らない。

ノースショアからシドニー北西部に引っ越して来て、前よりもごたごたした下町風の街並みに移った。バルコニーに出ると、相変わらずマグパイが飛んできて、愛猫クロエがせっかく陽の当たる場所で昼寝しようとしているのに、ギャーギャー騒ぎ立ててくれる。それと、マグパイのギャーギャー声をさらにグエ―ギョエーガガーと書いてみると怪獣の様な声で鋭く鳴くコカトウ―(cockatoo)日本名キバタンが、ここではとても多い。30-40センチと大きく真っ白な体に黄色い冠を持っている。寿命は70歳と言うから,うるさいだけでなく貫禄もある。近くにパラマッタリバーと言う大きな河があるので、そのあたりを根城にしているのだろう。うるさくて、全然可愛くないが、日本ではペットとして大事に飼育されているそうだ。

それと前のアパートでは見たことがなかったガラ―(galah)日本名モモイロインコを屋根の上でよく見る。ピンク色の胸にグレーの背をもった大きめのハトかと思っていたら、インコと言う名の付くオウムだそうだ。ピンクとグレーのツートンカラーが美しい。ここでは野生だが、飼育されたものが日本では人気のペットだそうだ。人懐こいので可愛がられるだろう。

テレビでフットボールやサッカー中継を見ていると、緑のグランドに試合中でもたくさんの真っ白なコカトウ―や、アイビス(トキ)がグリーンの上で、虫をねらってたくさんやってきているのがわかる。試合で得点をめぐって緊張が高まっているときに、大きな野鳥や、ワラビー(小型カンガルー)や、大型のゴアナ(オオトカゲ)が試合を邪魔することも多い。こんなときスポーツアナウンサーは、あわてずに「ローカル(地元民)も応援に駆け付けました。」などと言って笑わせてくれる。

引っ越して目にする野鳥の種類も変わったが、住む人間も変わった。以前は北部のスノービーの住むアパートだったから、クラシック音楽愛好者や、ピアノを持つ人も多く、アパートではいつもピアノやフルートの音が聞こえてきた。私も普通に、朝からバイオリンやギターを弾いていた。また、ノースでは道は譲り合い、人とすれ違う時には微笑みを交わすのが普通。老婦人の中には、昔のイギリスからの良き伝統どおりに首飾りに帽子をかぶってデパートに来る人も多かった。最近裕福な中国人が土地を買い占めて、人種が変わってきているが、それでもノースの文化的様相は変わらない。

移ってきたところは基本的にはプアホワイトの土地。昔からオージー保守派の住んできた土地で、地価が安かった時期に大量のインド人など東南アジア人が移民してきたところだ。ショッピングセンターに行くと、若い子連れのインド人ファミリーが多く、あまり身だしなみを気にしないプアホワイトの老人たちばかりに出会う。プアホワイトの顔つきは、ノースのホワイトと全然違う。人と会っても笑わない。だいたい移ってきて8か月経ったが、クラシック音楽の音が聞こえてきたことがない。
日曜日にバイオリンを弾いていたら、翌日となりのインド人のおばさんに興味津々と言う顔で、「あなたギター弾くのね。」と話しかけられたが、そのついでに「お金貸してくれる?」と請われた。こわい。
楽器の音が全然聞こえてこない場所で、すこしだけ遠慮っぽくバイオリンとギターを弾いている。ギャォーギャーンゲャーと、100メートル四方に届くボリュ―ムで遠慮なく鳴きさけぶコカトウ―やマグパイがうらやましい。

写真はオーストラリアワイルドターキーと、コカトウ―