2013年10月31日木曜日

上野でオットと友達と

            

ホテルを移る。今のホテルに何の文句もないが 他のホテルも開拓してみようと思ってホテルニュー東北というサードニックスから歩いてすぐのホテルに、旅行前から予約を入れていた。サードニックスは娘がおととし台湾の友達と日本旅行した時にも、去年ボーイフレンドの居るマレーシアに行く途中日本に立ち寄ったときも泊まっていて、早くも来年の二月にまた日本に寄るときの予約も入れている。
ホテルニュー東北は3階建てなのにエレベーターがないと聞いていたので、一階のツインを予約してあった。ダブルベッドのツインで、部屋はとても広い。いかにも下町のおかみさんという感じのおかみが迎えに出てくれて、部屋を出てカウンターに座っているおかみの前を通るたびに話しかけてくれていろいろ世話を焼いてくれる。おかげで滞在中、明日の天気から、昨日のニュースから、朝ご飯に良いカフェのパンの種類から、晩御飯に一番近いレストランのトンカツの大きさまで事前にわかった。

今日は兄夫婦と姉夫婦に昼食に呼ばれていて、夕食は中学時代のクラスメイト夫婦に招待されている。オットには何日も前から、今日は、昼も夜もイベントがあって、昼寝なしのビッグデイだよ、と言い聞かせてある。このビッグデイを終えて、翌日一日休ませてオットの体力回復を待って、その翌日に、バスの一日旅行、「上高地日帰り」に、参加したいと画策している。
銀座「ハゲ天」でてんぷらをいただく。

中学時代のクラスメイト「ひろこちゃん」とのデイナーは、嬉しい会合だった。私の中学時代から唯一親しくしている人で、ご主人も穏やかな素晴らしい方だ。3人姉妹の真ん中。いつも自分のまわりの人を喜ばせることばかり考えている。子供の時から 彼女の作るクリスマスや誕生日プレゼントは、特別に手のかかった思いやりに満ちたものばかりだった。一年半前に来日したとき会って、オットもこの夫婦が大好きになった。ただそこに居るだけで癒すことができる人。いま彼女も私も孫の居る身になって 、なお友情が変わらずに続いていることを感謝しなければならない。
落ち着いた精養軒のビクトリア風の家具調度品に囲まれて、慇懃無礼なウェイターのよって運ばれる料理は、みな洗練された良いお味だった。素晴らしい夜。大切な友人が、彼女のために生まれてきたようなご主人と仲睦まじくしている様子が 何よりも嬉しい。彼女は人目を惹く美人だが結婚は遅かった。24回見合いをして、全部断った「つわもの」だ。それまでして、妥協なして本当に自分にあった結婚相手をみつけた。自分にあった人を見つける と容易く言うが、夫婦のマッチングは難しいものだ。

オットは自分で強い主張をしたり、意見を述べたりしない。几帳面で物静かで、きわめて扱いやすい。良く誰からも「いいひとね。」と言われ、「いい人」然としている。どちらかというと、「いい人」というよりは、「どうでもいい人」という感じの没個性人間だが、内部にはなかなか強情なところもある。昔、羊を何千頭も抱えるファーマーだったから、オーストラリアの農業を基盤にしている、最も保守の国民党の支持者だ。オーストラリアでは、労働党と自由党が交代で政権を取っているが、オットは、そのどちらも毛嫌いしている。ある日、中国人夫婦に招待されて中国新正月のパーテイーに招待されて二人で出かけた。中国人の中でも、私たちには場違いな、セレブの集まりで 出席者は上院議員や弁護士や政治家ばかり50人ほどだった。当時の首相ジョン ハワードがとなりのテーブルに居た。毎日テレビのニュースで見ている見慣れた顔だ。豪華な食事が終わり、人々が自分の席を離れて、名刺交換など始めたとき、ざっと見回してもオージー(コーカシアン)は、オットとジョン ハワードだけだった。あとは全員、私以外は中国人で「テルマエロマエ」風にいうなら「平たい顔族」だった。コーカシアンが他に居なかっただからだろう。ハワード首相は、席を立つと、まっすぐオットのところに来て握手の手を差し出した。オットはニコリともせず、手を出そうとしない。その場の雰囲気が凍り付いた。人々が息を殺してこちらを見つめている、、。緊張。しかし、さすが世慣れた首相、出した手を引っ込めて何事もなかったように別のテーブルに向かって歩み去った。オットには社交辞令が通じない。このときのオットは、とても大きく見えた。

こんなオットに会ったばかりのころ、家にデイナーに招かれた。
私は左利きで、それを子供の時はあからさまに笑われたり、「おかしな子」扱いされた。今では個性重視の時代になって「ぎっちょ、ぎっちょ」と馬鹿にされたりはしないが、マイノリテイーであることには変わりない。レストランに行くと ナイフとフォークがすでにセットイングされていて、食べるとき私は手をクロスさせて、右に置かれたナイフを左手に、左に置かれたフォークを右に持ち替えなければならない。オットが運んできた料理を食べようとすると、左にナイフが、右にフォークがあるではないか。オーマイガッ! 感動だ。オットとそれ以前に食事をしたことは1度か2度だったか、「ぎっちょ」について話したことは一度もなかった。しかしオットは見ていて、気が付いていたんだな。結構いい奴なんだ、とこのときオットへの評価を上げたのだった。

オットは今、年を取ってヨチヨチと幼児のように歩く。手も震えてきた。もう長生きできない とわかっている。そんなオットとこうして日本で、本当に心が通じる仲間達や友人との時間をたくさん共有できた、ということが本当に嬉しい。

2013年10月29日火曜日

上野でオットと仲間たちに会う



         


上野のサードニックスホテルから歩いて2分のところにある焼き鳥屋「とら八」で、教授が夕食の席を準備してくれていた。今夜は「短矩亭」こと教授、「スーヤグニール」、「FUNKA」と「テンパーテンパー」と会う。これらは、みんなMIXI名であって、これがフェイスブックになると、「短矩亭」、「MASAAKI SUDO」、「FUNKA」、「GREEN DESIGN WORK」となる。私たちは、色んな所で出会い、MIXIを通じて友情を深めてきた。教授は歩けないオットのために、ホテルから出て角を曲がれば良いところに、みんなを集めてくれた。カウンターと他に 数席分しかテーブルがない店に あふれるほどの人が飲みに来ている。焼き鳥の煙と人々の話し声と乾杯の歓声で、エネルギーに満ちている。

教授、「短矩亭」との付き合いはフィリピン時代からだから、もう20年になろうか。1988年、フィリピンのレイテ島貫通道路建設のプロジェクトマネージャーになった夫について、小学生の二人の娘を連れてレイテに3年、マニラに7年暮らした。マニラで夫にフィリピン人女性との間に家庭ができて離婚を余儀なくされて フィリピン生活10年のうち最後の3年間は 娘の通うインターナショナルスクールでバイオリンを教えるシングルマザーだった。
日本政府が送り込んだ外国で、夫が家庭を捨てて失踪するというような事態の中を 何とか持ちこたえてこられたのは、大人同士のやりとりに、いっさい感知せず、天真爛漫に学校生活を満喫してくれていた娘たちのおかげだ。大人の会話に口を挟まず、心配も不安も動揺もせず、全幅の信頼を母親に寄せてくれていた娘たちには、いま、どんなに感謝しても感謝しきれない。

教授は、そのころマニラの地元新聞社編集記者をして、インターナショナルスクールでバイオリンを教える日本人に興味を持って、取材にきたのが切っ掛けで出会った。彼は日本語で話ができる数少ない友人となり、当時13歳と14歳だった娘たちのよき話し相手にもなってくれた。敬虔なクリスチャンでフィリピンの貧困救済や、様々な活動に関わっている。いま彼は大学で教えている身だが、その学術的な価値については全然わたしにはわからない。
フィリピンのマルコス独裁政権下に発表を封じられた反逆の作家、私の尊敬するフランシスコ シヲニール ホセの親しい友人でもある。シヲニール ホセの作品「ポーオン」から「木」、「弟よわが処刑者よ」、「仮面の群れ」、「民衆」へと続く大河小説は、マルコス政権下では出版することができなかったが、いまはフィリピンの近代史、貴重な歴史的証言となっている。教授は「本の虫」でもある。彼の資料のコレクションは、ジャーナリスト大森実並だろう。毎日、フェイスブックで書き続ける彼の評論はいつも的を得ていて、シニカルで手厳しい。筆の辛さに反して、人柄は会って話せばただのオッサンみたいにあたたかい。マニラで会ったときは 生意気盛りだった13,14の娘たちが、いま社会人となり家庭を持っている、というのが全然信じられない、と繰り返して言っていた。本当に月日の経つのが速い。

「スーマー」ことスーヤグニールがやってきた。吟遊詩人、4弦バンジョーとギターを抱えて歌って暮らすアーチスト。横浜に居をかまえ。いろんな店で歌うシンガーソングライターだ。
伊藤慎一さんという方が「グラフィカ」という写真集を不定期的に出していて、2011年「島 02 グラフィカ 三陸」を出版して、このスーマーを紹介している。わたしはMIZIを通してスーマーのことを知って、彼の歌をユーチューブを通してで聴いていた。聴いているととても心が落ち着く不思議な力をもった音楽というか、「語り」だ。本人は、とても静かで謙虚な人、決して大声を出さない。自分の声で自分の言葉をギターとバンジョーに乗せて、語り掛ける。

一年半前にオットと初めて日本に来た時 初めてスーマーのライブを聴きに行った。それでオットはスーマーの大ファンになった。このときに、「短矩亭」も「テンパーテンパー」も聴きにきて、みんな仲良くなった。3枚のCDとスーマーのひとりごとを編集した小冊子をもらって、シドニーでよく聴いている。スーマーは 画家の瓜南直子さんと飲み友達だった。彼女が亡くなって以来、スーマーの歌は 心なしみんな哀しい。彼女のお通夜の二日前に訪ねて行ったそうだ。彼女の横でずっと酒を飲み、しまいには横でいびきをかいて朝まで眠ってしまった。翌朝玄関を出ると、白い猫が突然木から降りてきてスーマーをしばらく見つめて そして行ってしまったという。それをスーマーは、画家がねこに変ってスーマーにお別れを言いに来たのではないか、と、、、。
そんなスーマーは、福島にも歌いに行って、たくさんのことを感じて帰ってきたことと思う。3-11が起こったあと、彼は「こんなときに ひとつになれないなんて」と嘆いたが、その嘆きは3-11以降ずっと続いている。わたしたちは福島の死も、怒りも、悲しみも、ひたひたと迫ってくる放射能被爆さえも「ひとつ」になって経験することができないでいる。「こんなときに、ひとつになれないなんて」それで哀しいのはわたしであり、あなたであり、世界中にみんなだ。

「スーマー」が、「FUNKA」と彼のガールフレンドを連れてきてくれた。「FUNKA」は MIXIで彼の日記があんまりおもしろいので友達になってもらった。若いのに60年代70年代のロックを歌うシンガーソングライター。文学、詩、演劇、漫画、映画、ロック、写真、落語、歌舞伎など、すべてのアートに精通している。書くことも話すことも面白い。彼の良さは、何でも本物と顔を合わせて自分なりの理解をするところだ。怖いものなしの彼の行動性とフットワークの軽さは特筆すべきだ。好きな作家に会いに行き、本人から直接インスピレーションを受けてくる。写真家に直接会って、質問をして本当に知りたいことを掴んでくる。芝居もコンサートも落語も歌舞伎も直接聴きに行く。そういう態度、いいなあ。彼はダブル曼荼羅というバンドを作っていて、有形無形の仲間たちと自由自在に編成しながらロックを歌っている。毎週第4木曜日には、高円寺の地下カフェで、定期パフォーマンスを続けていて、そこにスーマーが加わったりしている。
こんな人が友達で居てくれて嬉しい。とても可愛らしいガールフレンド、、、歌舞伎評論家と言っていたけれど、ゆっくり話を聞かせてもらえなくて残念だった。カルバンクラインのシャツにジーンズ、、、なんてきれいな人だったことか。今度ゆっくりお話しを聴かせてほしい。

もう一人の焼き鳥屋であったのは息子の「テンパーテンパー」。これはMIXI名で、フェイスブックでは「グリーンデザインワーク」を主宰するデザイナーだ。建築物のデザイン、インテリアデザイン、広告のデザイン、自然保護をテーマにしたシャツやバッグを作って販売もしている。ウェブデザインもしていて、屋久島出身なので、屋久島の自然を紹介する素晴らしいヴィデオを作って公開している。
彼はわたしには大切な息子。出会いからもう10年になるが、公立病院の心臓外科病棟にいたとき、救急室のナースが、「ジャパニーズボーイが大怪我で大出血していて、モルヒネをどんなに使っても痛みが取れないでいる。」と言う。彼は、シドニーのマンリービーチで、事故にあいサーフボートが体に突き刺さって大出血する大怪我をした。22人の善意のオージーの血液をもらい、手術で助かったが、彼の体には何本ものピンとネジが埋まっている。会いにいってみると金髪で藤城清治の切り絵にあるような可愛い少年が Vサインをしていた。自然体でいつも笑顔の好青年。この息子もいま、生きていてくれているだけで嬉しい。彼は長いこと入院を与儀なくされたが、どのナースからも可愛がられた。しばらくして退院したあとも、整形外科のナースたちは、私を見れば必ず「ユーキどうしてる?」と聞いてきた。遠くの国から一人でやってきて、サーフィンで事故にあい死にかけた青年、長期間の入院の間、サーフィン仲間以外には面会者がなかったこの青年を ナースたちはみんな自分の子供のように思っていたんだな。こんどリタイヤするロビンに会ったら、「ユーキ結婚したよ。あなたと同じナースがお嫁さんだよ。」と伝えてあげよう。

みんなと楽しいお酒の宴。いつまでもこの素晴らしい人たちと一緒に居たいが、オットは3時間すわっているのが限度。昨日’カメラを無くしたけれど、こんな気持ちの良い仲間たちにしっかりと慰められた。1年半ぶりの再会だったが、またこんどみんなと再会できることを約束して別れた。
ホテルに着くなり、いびきをかいて眠るオット。良い日だった。ありがとう。

2013年10月27日日曜日

上野でオットと国立博物館へ


  

朝のうちだけ元気なオットをタクシーに乗せて、上野の山の今度は国立博物館に行く。
何の疑問もなく1200円の入館料を払って入ろうとすると入口の係り員が、「常設館だけの入館料なので、それだけでは京都のなんだかを展示しているなんだか館には、入れませんよ。」と注意される。常設館だけで充分。離れたところにある別館までは歩けない。
それで何気なく今、その時もらったチケットをよく見たら、小さい字で65歳以上の人は無料、と書いてあるではないか。ここもだ!。シドニーに帰ってきてから知った事実!何て親切な館員ばかりなんだ!

オットは本館で鎧や刀や槍や仏像ばかり見て、ばちばち写真を撮っている。そんな珍しくもないものが、オットには珍しかったのか。
穂高で荻原碌山(オギワラ ロクザン)の彫刻について触れたが、彼の作品「女」がここにはある。知らなかったが、彫刻を見て碌山の作品だとわかった。重要文化財に指定されている。手を後で縛られて、顔を天に向けている女のブロンズ像は碌山美術館にある「デスペラ」同様に、作者の女への絶望的な愛情を訴えていて、強力なインパクトを与えてくれる。素晴らしい作品だ。

アジア館でエジプトのミイラや石像を見る。子供たちが小さくて千駄木に住んでいたとき よく来たところだ。娘たちはエジプトの展示物が大好きだった。特に犬の顔をして人間の姿をしたエジプトの女神の石像に魅かれていた。素晴らしく美しい像だ。
展示物が、インドやアフガニスタンや中国の仏教遺跡から切り取り、持ち去ってきた成果であることが悲しいが、見る側からみると、紀元前の優れた歴史に触れることができて、ありがたいことだ。ロンドンの大英博物館は、世界中から盗んできた歴史的な遺物のコレクションでは世界最大規模を誇る。古代ギリシャの遺跡から持ってきたものはアテネに、エジプトの墓から持ちさって来た遺品はエジプトに、インドの遺跡から石を削り取ってきた仏像はインドに返却すべきだろう。あったものは、あったところに帰し、その地に発祥した文化に敬意を表して、現地に遺跡博物館を作るなどして、遺品を保護をすべきだ。

そんなことを考えながらソファに座って、大谷探検隊がエジプトから遺跡を発掘して遺品を隠して持ってくる当時の写真を見ていた。部屋にはほかに二人の男の人が展示を見ていた。ソファから 隣の部屋のソファが見えて、オットがくたびれて座っている。ハンドバッグとマフラーとカメラのストラップを持ったまま オットのいるソファに移った。そこでオットに声をかけ、あっと思った時、カメラのストラップがなかった。あわててもとの座っていたソファに戻ったが、カメラがない。ほんの2-3分のことだった。ストラップをもっていると思った私の手からカメラがソファに滑り落ちて、すぐカメラが持ち去られてしまったのだ。
撮った写真を全部無くしてしまった。
カメラを盗まれてしまった。
カメラには1000枚の写真が写ったセームカードが入っていた。そのほとんどは、孫たちの写真などでコンピューターにバックアップしてあるが、日本に来て撮った写真はバックアップしていない。剣岳をあれだけ苦労して撮ってきた。もうこの山を真近に見ることはないかもしれないと思って撮った立山、剣、北アルプスの山々の写真、弥陀ヶ原、黒部、安曇野の写真がみんなみんな無くなってしまった。

受付に走って行って、カメラを盗られたので「館内放送をさせてください。」と訴えるが、聞いてくれない。係り員が、カメラが落ちているかどうか、全館内をさがすので 探し終えるまで待ちなさいという。そうではない。ほんの5分前のできごとだ。カメラを取った人は それをポケットに入れて、まだ館内に居る。「カメラは要らないから、セームカードだけ返してください。写っている写真は他の人には価値はないが、私にとってはとても大切なものなのです。」「どうかお願い、カードだけは返してください。」と 館内放送してくれたら、盗んだ人にも心はあるだろう。聞いてくれたかも知れなかった。

私に大切なのはカメラではなく、中のカードなのに、何度説明しても係り員たちはわかってくれない。カメラの色とか、大きさとかを事務的に書いているだけだ。「夜になったら掃除の人が落ちているカメラを見つけるかもしれないので、見つかったら連絡します。」という。
ちがうんだってば。カメラを盗んだ人は 中のカードを捨てていくかもしれない。掃除の人に探してもらいたいのはカメラではなくて、カードなのだ。言っていることが通じない係り員たちを相手に、涙が勝手に出てきて、仕舞にはわんわん大泣きする。一人で大騒ぎしていて、オットなど怖がって遠くのほうに避難している。それでも悲しくて悲しくて、泣いても泣いても収まらない。撮った写真を全部失ってしまったのだ。はじめは同情していた係り員たちも、もう私に手を焼いて顔がひきつっている。「明日の朝、掃除の人がカメラの落とし物を見つけるまで待ちなさい。」を繰り返すだけ。
ちがうってば。
カメラは出てこない。無くしたカメラはまた買えば良い。中のカードを無くしたら永遠に撮った写真は無くしたままなのだ。わんわん泣いて、自分の声が頭骸骨のなかで響いてわーんわーんと鳴り響いている。吐き気までしてきた、、、。もう退け時か。

翌日、博物館に言われた番号に電話する。さんざん待たされて、担当者から担当者の間を回されて 待たされたあげく案の定、「昨日カメラの落とし物はありませんでした。」と言う。おい、ちがうだろー。

上野でオットと国立西洋美術館へ

    


山から帰ってきて、上野のサードニックスホテルでくつろぐ。駅から歩いて5分、昭和通り沿いにあるホテルで、無料の朝食がつく。トースト、ゆで卵、スープとコーヒーまたは、ホットケーキ、またはベーグルかホットドッグとスープ。ホテルで朝食が付くのはありがたい。起きて、食べてからゆっくり身支度をして外出ができる。それができないところでは 起きてカフェまでオットを歩かせて、食後、重くなったオットを椅子から引きはがし、ホテルまで歩かせると、もうオットはベッドに横になってしまう。トドのように横に伸びたオットを一休みさせてから外出するまで、冷えたエンジンをまたかけ直すのに、とても時間がかかるのだ。
日本では名が通っているかどうか解らないが、外国ではこのサードニックスホテル、結構、人気がある。ネットを通じてずっと先の予約まで入れられるし、予約日直前までキャンセル料を取らずに、安くて良い部屋が予約できるからだ。WIFIも、自由に使えるインターネットもある。バックパッカーでなくても長い滞在に、安くて便利なホテルはありがたい。

今日は上野の西洋美術館に行く。普通の人にとっては ホテルから美術館まで歩いて20分だが、オットを連れていくと、タクシーで30分かかる。上野動物園、不忍池、上野国立博物館、科学博物館あたりは、「うちの庭」だった。私は勤めていた新聞社を辞め、専門学校に行き、都立駒込病院に勤め出したので、病院から歩いて通える千駄木2丁目に一軒家を借りていた。二人の娘たちは、そこで生まれた。
休日には自転車で、前に次女、後に長女を乗せて、不忍池のカモにエサをあげに行ったり、東大の三四郎池に釣りに行ったり、上野動物園で一日中動物と遊んだりして過ごした。都心なのに 根津神社や須藤公園など、子供が走り回れるところがいくらもあり、夏目漱石図書館など、教育施設も豊富だった。二階家の屋上の物干し台から晴れた日には 富士山も見えた。西洋美術館は、よく子供たちを連れて来た。入館しなくても建物の前にオーギュスト ロダンの彫刻、「考える人」、「カレーの市民」、「地獄の門」のレプリカがあって、よじ登ったり、まわりを走り回ってよく遊んだ。

館内には松下幸次郎がヨーロッパで収集したドラクロア、クールベ、ミレー、マネ、モネ、ピサロ、ルノワール、セザンヌ、ゴーガン、ゴッホ、シニャック、などフランスを代表する画家たちの作品が常設されている。20世紀の作品では、マルケ、ピカソ、スーチン、レジェ、エルンストの作品もある。
行ったときは、「ミケランジェロ展」特別展をやっていて、システイン教会の天井画など、彼の代表作をフィルムでみせていて、自筆の手紙などが展示されていた。NHKが作ったフィルム以外に見るべきもののない、何か内容の貧しい展示だった。これで特別料金をとるなんて。

入口で、支えないと歩けないオットと二人して、エスカレーターは?エレベーターは?と 大騒ぎして入館する私たちを見ている係り員が、私たちから入館料とミケランジェロ特別展示入室料、2000円をむしり取ってくれたが、いま、このときにもらったパンフレットを見たら65歳以上は無料と書いてあるではないか。オットは65歳以下に見えるわけがない。どうなんだよ!!!
展示室ごとに、係員が一人ずつ座っていて来館者を監視している。グループできている高校生がちょっと絵に近付いただけで 飛んできて注意している。エレベーターを探して重い足を引きずっているオットに平気で、「まっすぐ50メートル行って右です。」とか言って、自分が座っている横の従業員通路のドアさえ開けてくれればエレベーターの入り口なのに、知らん顔をしている。人は職業を選べる。こういう仕事につかなくて良かったと思う。

作品の数は多いかもしれない。しかし、市民の憩いの場所になっているシドニーのNSW州立美術館の雰囲気とは天と地の違いがある。シドニーでは、子供たちが館内で床に寝そべったり、走り回ったり、ソファで熟睡している人もいれば、画の前に座り込んで模写している人もいる。フラッシュをたかなければ絵の写真も撮れる。
芸術は決して特別なものではない。人は誰もが描きたい欲求を持っていて、訴え、表現したい欲求を何かの形にしたいと思っている。出来上がった作品に、自由に触れ、味わい、感じることができないならば、何のための美術館か。

スペインからやってきた版画を特別に展示していたが、これだけが、ちょっと良かった。16世紀のイタリア、フィレンツェの版画家たちによるエッチングだ。オラツィオ スカラッぺリとか、バルトロメオ コルオラーとかの聞き覚えのない人や、ジョバンニ べネト カスとリーネとか、ジョバンニ バテイスタ テイアポロとか、聞き覚えのありそうな人たちの美しいエッチングに感心した。精密画でサンタクローチェ広場や、フィレンツェの街の様子が描かれていて美しい。

タクシーで上野の山を下りて、カフェでケーキとコーヒーを。カフェでタバコを吸っている人がいて、びっくりする。禁煙コーナーがあるようだが、煙は広がる。幼稚園くらいの子供を連れたお母さんが二組、二人ともお母さんがケーキを前にしてタバコを吸っている。欧米でもオーストラリアでも絶対見られない風景だ。新宿では、こんな光景は見なかった。上野だけか?
ホテルでオットを寝かせて、一人で街に出てみる。上野は、とてもとても下町だ。ごたごたしていて、人が多い。そしてファッショナブルな店が一軒としてない。ユニクロさえ、上野のユニクロに置いてあるものは田舎っぽい。20年前の昭和の時代に戻ったようなセンスだ。レトロで良いかもしれないが、買い物したいものがない。みつはしであんみつを食べ、下町の熱気にあてられて、何も買わずにすごすごホテルに戻る。

夜はホテルでサンドイッチを食べれば良い、というオットを叱咤激励して、焼き鳥屋に食べに出る。威勢の良いお兄さんがカウンターのうしろで 手際よく焼き鳥を焼いている。生ビール、おでん、焼き鳥、から揚げ、刺身、焼き野菜、銀杏、冷奴をたて続けに食べて、満腹してベッドへ。
この動けないオットを連れて、明日はどうするか、気になって一日旅行のパンフレットを検討する。もういちど山に行けるチャンスはあるだろうか。「日帰り上高地のバスの旅」というのが、素敵すぎる。朝はやく新宿からバスで、上高地まで行き、上高地帝国ホテルで昼食を食べて、そのへんを散策して、深夜帰ってくるという。そのためには、新宿のホテルに動かないといけないが、どうしよう、、。上高地から穂高を見上げる瞬間を想像するだけで、ドキドキしてきて眠れなーい!

2013年10月26日土曜日

山でオットと3日目:安曇野

        



標高2450メートルの室堂から黒部平1828メートル、そして黒部ダム1470メートルに下りてきた。泊まった「くろよんロイヤルホテル」は、下界への玄関口だ。館内にはレストラン「吉兆」まである格調の高いホテルだった。オットは朝食にクロワッサンを、私は勿論御飯と味噌汁と山葵漬けだ。落葉松に囲まれたホテルを出て、バスで一挙に安曇野に下る。途中、蓮華岳、餓鬼岳、針ノ木岳、赤沢岳、爺が岳が見える。

安曇野は北アルプスの山々から湧き出た梓川、黒沢川、鳥川、中房川によってできた扇状地、松本盆地の一部だ。安曇野の至る所から地下水が湧き出ていて、ワサビやニジマスの養殖に利用されている。いまはリンゴの季節で、真っ赤に色付いたリンゴがバスの窓から手が届きそうに実をつjけている。四方山に囲まれていて、晴れていれば常念山脈、槍、穂高、唐沢岳、乗鞍岳、御嶽山などなど、北アルプスの山々が全部見られるはずだ。今日は、曇りで手前の低山しか見えない。あつい雲の上の方に、いつ山がのぞけるか、遠くに目を凝らす。

高瀬川を渡って、穂高町に入りワサビ農園に案内される。ワサビは気温の低い、水の綺麗な清流でしか育たない。ボートに乗って、ワサビ農園に水を送る水路で水遊びをする。オットは透き通った冷たい水を農園に送り込む水車にいたく感動して、ボートから身を乗り出して写真を撮りまくっている。6人乗りのゴムボートが オットが動くごとにバランスをくずしてユラユラ揺れて、同乗者たちがハラハラしている。ボート遊びのあとは、ワサビバーガー、ワサビラーメン、ワサビビールのある売店で、ワサビアイスを食べたが、ちっともピりっとこなかった。色だけはワサビ色だったけど。

そのあとバスは「碌山美術館」の前を通る。
荻原碌山、1879-1910は、東洋のロダンと言われる穂高町出身の彫刻家だ。穂高東中学校のとなりに、彼の個人美術館が建っている。ここには碌山に関係の深い高村光太郎の作品もある。40年余り前に、この美術館に一人で来た。槍、穂高を縦走して山を下ってきた。駅の案内所で紹介された民宿に泊まった翌日、民宿のおかみに勧められてふらりと立ち寄った小さな美術館で、彼の作品「デスぺラ」、(絶望)を観たとき文字通り雷に打たれたように、感動で動けなくなった。木の床の小さな館の中心に据え置かれたこの ひざまずく女の彫刻を見て、みごとに絶望する女の姿と、孤独にさまよう自分の心とが合致したからかもしれない。この彫刻に出会うことが、槍、穂高を登る目的だったかのようにも思えたものだった。「デスペア」は、碌山が生涯愛した、たった一人の女性、相馬黒光への報われない愛の苦しみを描いた作品だ。相馬黒光は中村屋の創始者、相馬愛蔵の妻で、夫婦ともに芸術家でもあった。体をゆがめて地面に伏せ、うつむく女は、碌山の絶望を全身で表している。1909年の作品だ。碌山は報われない愛に苦しみながら31歳で急死する。
数日後、私とオットは上野の国立近代美術館で、偶然、碌山の作品、「女」に出会った。両手を縛られて、顔を天に向ける女のブロンズ像をみて、すぐに碌山を思い浮かべたのだから、余程「デスぺラ」の印象がまだ残っていたのだろう。

バスは、「ちひろ美術館」に停まる。岩崎ちひろは、国際的に有名な絵本画家で、親が穂高町出身だったそうだ。美術館のまわりは広い公園になっていて保育園の子供たちが保母さんに連れられて、お弁当を食べていた。館内には3000冊の絵本が閲覧できるようになっている。ちひろの絵がたくさんのカードになっていて、母親が子供に画を見せながら、画のイメージを親子で膨らませて、物語をつくることができるようになっているセットを、DVDと一緒に購入した。4歳の孫娘と2歳の孫息子のために 良いおみやげができた。 美術館の隣の旅館でランチを食べる。見た目にきれいなお弁当。おっとっと、、、!マツタケがあるではないか。さり気なく焼き野菜と一緒に並んでいる。口に入れて初めて、マツタケだとわかった。すごく得をした気分。

旅の終わりに長野県の名産品ばかりを集めた物流センターに、バスが止まる。みんなおみやげを両手いっぱい買っている。マツタケを入れた籠も売っている。巨峰の入った籠をひとつ買って、ホテルで食べることにした。夕方、バスは最終地点、上田に着いた。ここから新幹線に乗って東京に帰る。25人のツアーで、ほぼ全員と仲良くなった。ガイジンはオットだけだったので、皆から大事にしてもらった。人ごみで迷子と遭難を繰り返す私たちだったが、皆親切でありがたかった。感謝感激で、さよならだ。

新幹線で、上野に到着。上野駅に「アンデルセン」というパン屋工房ができていて、焼きたてのパンを売っている。飲み物とサンドイッチとパイを買ってホテルに向かう。このツアーが始まる前に泊まった同じホテルなので、置いてきたスーツケースは、もう部屋に運ばれているはず。前と同じレセプションの人が、笑顔で「お帰りなさい」と迎えてくれる。そんな心使いと言葉かけが何よりうれしい。
ビールにサンドイッチ、安曇野で買った巨峰ブドウを食べると もうオットは、風呂にも入らずにベッドへ。私は3日間分のたまった洗濯物をもってホテルのコインランドリーへ。洗濯物のドライヤーが回っている間、アンデルセンのパイで、ウィスキーをチビチビやりながら、撮った写真を見返して、深夜ひとり二マニマして顔を緩める。とうとう山に行って、帰ってきたんだ。

2013年10月25日金曜日

山でオットと2日目:室堂から黒部湖へ

     


翌日、弥陀ヶ原から高原バスで室堂に行く。
室堂は立山、剣縦走の拠点地だ。手前に、「雪の大谷」という雪の名所がある。毎年8メートルもの積雪があるここは雪の吹き溜まりで、時として20メートルもの深い雪が溜まる。除雪車で 両側に切り立った氷の道を作って、4月から6月までの間、観光客が500メートルもの長い、雪に囲まれた道を歩くことができる。それがすっかり溶けてなくなってしまった今は、室堂ターミナルは観光客と立山登山者とでごった返していた。

今日の室堂は強風が吹き荒れている。山の上のほうは大変だろう。素晴らしい眺めだ。昨日はガスがかかって見えなかった剣岳が立山の横からくっきりと頭と肩を出してそびえ立っている。立山連峰が全部見える。立山の主峰、雄山3003メートル、浄土山2831メートル、別山2880メートルが目前に聳えていて、大日連山、国見岳、天狗岳も立派だ。

ここには水蒸気やガスを噴き出す地獄谷があり、火山活動によって爆発した火口をみせていて、今もなお小さな爆発を繰り返している。学生のころ立山を登った時は、地獄谷のなかを自由に歩けた。硫黄のにおいに閉口しながら、ガスが噴き出て、まさに地獄のような岩場を歩いたものだった。もう一度、地獄を見られると思っていたら、今は、立ち入り禁止になっていた。3-11の東北大震災が起きたとき、地盤が変動して、きわめて有毒なサリンガスが噴出するようになったからだという。本当に山は生きているんだな。だから絶えず変化をしながら、人を惹きつけて止まない。

室堂で山岳ガイドについて1時間半かけて、みくりヶ池を一周するトレッキングに参加したかった。参加したかった。本当に参加したかった。早朝なので、みくりヶ池に映える立山、剣の絵葉書のようなみごとな写真が撮れるに違いない。しかしオットが室堂で高原バスを降りたところから一階まで上がって、外に出ることも、2階に上がって展望台に行くこともできない。ヒューヒュー喘息の息をしているオットを放って、ツアーのみんなは嬉々として山岳ガイドに付いて出かけてしまった。
階段しかない室堂ターミナルで 隣接する立山ホテルのカフェを見つけてオットを座らせる。コーヒー1杯で、1時間ねばるようによくよく言い聞かせて、脱兎のごとく地獄谷の方向にむかって走り出す。剣の写真を撮るために。だいだい山で、走っている人なんかいるわけがない。ひどい形相で転がるように走る私を不思議そうに見る人々、、、わー見ないで、見ないでー!風だと思ってください。
風が強くてなぎ倒されそうだ。強風に逆らってガシガシ走る。1時間でできるだけ剣岳が良く見えるところまで行って写真を撮らなければ、、。やっと、目的を果たして写真をバチバチとると もう1時間経っている。向うから大荷物を背負った青年がやってくる。ライチョウに会いましたか?と笑顔で話しかけてくる。大日岳からずっと縦走してきた、という。うらやましいぞ。
大急ぎでターミナルまで戻りオットの身柄を引き受けて、駅に隣接する立山自然保護センターに連れていき、ライチョウの生態のフィルムを並んで見る。大画面に映し出されるライチョウを追ったフイルムを見ただけで本当にライチョウに会ったような気になれる。しあわせ。

標高2450メートルの室堂からトンネルの中をトロリーバスで、立山を横切って大観峰2316メートルに行き、ロープウェイで黒部平1828メートル、黒部湖1455メートルまで下る。とにかく人が多い。トロリーバスもケーブルカーもたくさんの人が乗車の順番を待っている。乗り換えごとに、ツアーコンダクターは、ツアーの面々に付いて行けなくて、駅のど真ん中で遭難している私たちを、人込みの中から探し出して順番の先頭に押し出すことで大変苦労していた。ごめんなさい。

黒部湖で遊覧船に乗る というのがツアーの目玉のひとつだったが、強風で遊覧船は出ないことになった。標高1433メートルの黒部ダム0.8キロの距離を歩いて渡らなければならない。アルペンルートを富山側から来たのだから、長野県側に出なければならない。オットを支えて歩かせる。少し歩いては、甘いものを食べさせて、また少し歩いては飲み物を与える。何のことはない私のやっていることは動物の「調教師」と変わらない。
黒部ダムはこのオットではなく、死んだ夫が昔、熊谷組に居た時に建設に関わった。山が深く道がないので資材を運ぶ運搬ルートを整備することが大仕事だった、とよく聞かされた。ダムの側面に殉職者慰霊碑がある。黒部のダム開通までのドラマを映画化し、石原裕次郎が主演した「黒部の太陽」は、有名だ。見てないけど。
新田次郎の「点の記」は、剣岳が主役だが、映画化されてとても良かった。実際に、撮影のためにスタッフも役者たちも剣岳を登坂したというが、重いカメラをもった撮影班は大変だっただろう。今またこの時の映画監督、木村大作は、黒部で新しい映画の撮影に入っているという。「春を背負って」というタイトルらしい。楽しみだ。

黒部ダムからは、真正面に赤沢岳2678メートルがとても立派に見える。とおく後立山連峰が大きく広がり、白馬山脈につながっていく。ダムの上0,8キロをようやく渡り歩き、扇沢行のトロリーバスに乗らなければならない。40段の階段がそびえ立っている。関西電力が山を掘って、岩をぶち破って作った山の地下を走るトロリーバスだ。1段 1段 オットをなだめすかし、飴を与え,鞭で脅かして登る。そのあいだ、たくさんの人が、「大丈夫ですか」と聞いてくれる。大丈夫なわけないだろーが!秘境で山をぶち抜いて作ったダムを歩いているのだから、大変なのはわかる。しかし車椅子の人がアルペンルートに来られるようになるのは、いつのことだろうか。

扇沢からバスを乗り換えて、黒部ロイヤルホテルへ。落葉松に囲まれたモダンな洋館だ。夕食はフレンチ。
男女別の露天風呂まである。でもオットには大浴場は無理。外国では温泉に、水着を着て入る。ずっと前、私の友達が男同士で露天風呂に入っている写真をフェイスブックにアップした。アメリカンスクール育ちの娘は、ニッポンの中年男達が裸で露店風呂に入っている写真にショックを受けて、すぐにフェイスブック友達から外して絶交した。娘はニッポン人が温泉で酒を飲んだり、くつろいだりするのを全部裸でするものだ、ということを知らなたっかのだ。私も公衆浴場や温泉で他人とくつろぐ経験がない。どんなものか 覗いてみたが沢山の人がいるところに入っていく勇気がない。深夜、オットを寝かせて、そっと誰もいない巨大な檜の風呂にちゃぽんと入り、泳いでみて、露天風呂に浸かってみた。石でできた温泉は深さも十分あり垣根で外の風や雨を防ぐ工夫がされているが、遠くの山が見える訳ではなく、宿の庭が見られるようになっている。これが森林浴か?経験してみたが、肌は本当にスルスルになった。だから人気なんだな。なっとく。

2013年10月23日水曜日

いよいよオットと山へ、弥陀ヶ原





アルペンツアーに参加する。そのために上野のホテルに1泊した。
ツアーの名前は、「歩かなくても楽しめるアルペンツアー」、、ジャジャーン!歩かなくて山に登って紅葉が見られるなんて、そんなことを山の神様に許してもらえるのだろうか。宣伝文句の「足の弱い人でも大丈夫」、「荷物は無料で一足先に宅配します」、「歩かないで、3000メートル級の山々が目の前に、、、」という言葉につられて、ついふらふらと参加を決めてしまった。オットは沖縄に行きたい と叫んでいたというのに。ゴメンよー!

アルペンルートとは、北アルプスの山々の中でも、長野県の大町市から日本海側の富山市を結ぶ立山、黒部の山々を行くルートを言う。具体的には立山から美女平、室堂に登り、立山を観ながら黒部湖に降りてきて、黒部ダムを見て扇沢に下りる、2泊3日の山旅だ。
学生の頃、夏に立山、剣岳縦走を何度か試みた。同じコースで、トロリーバスで室堂まで行き、立山の雄山に取り着いた。立山3山には成功したが、2度とも天候が悪くて剣まで行けなかった。その時以来、剣岳は私にとって「登山不可能な山」、永遠に見上げて憧れる山になった。どこから見ても美しい。妥協のない完璧な美しさ。堂々として取り付きようがない。こんなに素晴らしい山が、立山よりも低いなんて信じられない。立山3003メートル、剣岳2999メートル。いっそのこと剣の頂上に高いケルンを積んで立山より高くしたい。

新幹線あさま511号に乗る。上野駅で待っていると、長野に行く白のボデイに赤いラインの入った新幹線や、山形行きの緑色の美しい新幹線や、真っ赤な美しい流線型の秋田行きの新幹線が次々と入ってきて目を奪われる。オットは夢中でカメラを向けているけど、シャッターを押したときにはすでに走り去っていて、ひとつも写真に映っていない。
新幹線で長野駅まで行き、バスで立山駅へ。そこから立山ケーブルカーに乗り、一挙に500メートルの高度をかせいで、美女平に行き、またそこから高山バスで弥陀ヶ原まで登るのが今日のスケジュールだ。
美女平までの立山ケーブルカーに乗るときの階段が大変だった。オットは死にかかった。私だけの支えでは足りなくて、ケーブルカーの係りの人が オットを背負うようにして叱咤激励して何とかオットを引き上げてくれて、やっとのことでケーブルカーに乗ることができた。ケーブルカーは急傾斜に止まっているから、乗り込む階段も急傾斜で、手すりも頼りの綱も鎖もない。下りるのも大変だった。半分死んだ顔で、美女平行きのバスに乗り込んで、やっと息を吹き返した。「歩かなくても楽しめるアルペン」なんて、真っ赤なウソを信じちゃダメだよ。山はそんなに甘くない。

反対に私は山に入れば入るほど生き生きしてきた。落葉松とぶなの林のなつかしい香り。山から吹き下ろしてくる乾いた風の心地よさ。山の滋養を全身に感じて体中の血液が浄化されるようだ。何て山は素晴らしいんだ。心が嬉しくて沸き立っている。山の風と一緒に飛び回っている。

高原バスで、標高1930メートルの弥陀ヶ原に上がるまでの途中、称名の滝を見る。350メートルの高さを豊かな水量が落下する。日本で一番長い滝だ。ちょっと沢登りしてきます、、、と言って取り付くようなスケールではない。
弥陀ヶ原は、紅葉の真っただ中だった。もんくなしの日本の秋に出くわした。ダケカンバの真紅、ヌマモミジ、チシマササ、オオバスノキ、アオモリトドマツ、ナナカマド。どれもが異なった赤さに染まっている。弥陀ヶ原は美女平と室堂の間に広がる東西9キロ、南北3キロの広い大湿原だ。春から夏のかけては山からの水でたくさんの水溜りが点在し、水芭蕉、ゼンテイカ、チングルマ等が咲く。今ごろの秋にはすっかり湿地が乾いて歩けるほどになるが、尾瀬のように木道ができていて木道から外れて高山植物を踏み荒すようなことは許されない。木道から、かなり離れたところで、ライチョウがダケカンバの実を食べにくる。それが証拠に、金魚のエサのような形の良い乾いた糞がところどころに落ちている。ライチョウ、、、なんて可愛い奴なんだ。姿は見えないんだけど糞を見ただけで満足。

弥陀ヶ原には私たちの泊まる弥陀ヶ原ホテルと国民宿舎があって、どちらも白い大きなモダンな建物だ。弥陀ヶ原ホテルの中二階にある大食堂からのながめが素晴らしい。四方ガラス張りの窓から紅葉した中大日岳が見える。他に獅子岳、鍬崎山、白山なども。遠くを見ると、下方には日本海と富山市まで見える。キラキラ街の火が光る、日本海側の夜景は絶景だ。
夕食に、富山でしか捕れないという白エビを大根おろしをつけて出された。ホタルイカや、なんとかのワタ漬けとか、なんだかの刺身など山海の珍味もたくさん。それで、お酒を飲んだ。室堂から引いた大きな温泉まである。3000メートル級の山々に囲まれて、絶景をみながら温泉に、お酒で、のんびりできる贅沢に、なんだか慣れない。山に居るという実感だけで、嬉しすぎて山でくつろぐのがもったいなくて仕方ない。山だ、山だ、山に居るんだぞー! と、心がはしゃいで止められない。ひとりでワーっと叫んで走り回りそうだ。

2013年10月22日火曜日

オットと名古屋へ




昨日一人でホテルから脱け出したとき、新幹線のチケットを買ってあった。名古屋に行くには新宿からでは東京駅より品川駅のほうが歩かなくて済むという。みどりの窓口は、いつも事務的だが親切だ。
3泊泊まった新宿のホテルを後にして、名古屋に向かう。大きなスーツケースは 名古屋から東京に帰ってきたときに泊まる、上野のホテルに宅配で届けてもらうので、2泊3日の名古屋には、小さなリュックサックひとつで向かう。息子に会うために。

この息子は、むかしむかしシドニーにワーキングホリデイで来た時に、病気で倒れて入院したときに付き添った。高学歴で、高収入の大企業をサッサとやめてサーフィンとサッカーをするためにシドニーに来た。背が高く、ハンサム、デイスクジョッキーなど、趣味も多岐に渡り、ちょっと甘えっ子のほかは、文句のつけようのない35歳の青年。こんな100点満点のような青年がいまだになぜ一人なのか合点がいかない。出来ることならば、本当に本当の母親になりたかった。

オットは新幹線に乗れるのが嬉しくて嬉しくてたまらない。朝から「わーい、わーい!!!」というはしゃいだオットの「心の声」が聞こえてくる。前回日本に来た時に、東京、京都間を乗ったときに、カートに飲み物やお弁当を乗せた売り子が来て、富士山を見ながらビールでお弁当を食べた感激を忘れていない。
ところが今回は名古屋までの自由席で、一番後ろの1号車。カートは前からくるという。1号車まで売りに来るのは名古屋に着くころでしょう と後ろの座席の人は言う。ホテルから新宿駅までオットを歩かせるのに駅から5分のところを30分かかった。そこから品川駅まで山手線に乗り、新幹線プラットフォームまで何とか歩かせるのに大汗をかいて、とてもお弁当や飲み物まで買って持つ余裕はなかった。車内で、5号車に自動販売機があります、という案内を見て行ってみたら、ぎょえー!ウォーターボトルだけの自動販売機だった。ありかよ!
ビールとベント―ボックスをひたすら待っているオットに、冷たいウォーターとリュックの底の底に残っていた1日前のぺちゃんこに潰れたクリームパンを食べさせる。空腹で不機嫌になったオットに、富士は見えるか、どころではない。

名古屋駅に着いた途端、駅ビルのなかにカフェがないかと探すオットの目が血走っている。私はきしめんが食べたい。味噌カツが食べたい。鶏手羽さきが食べたい。味噌おでんが食べたい。ひつまぶしが食べたい。スープスパゲテイが食べたい。お握りが食べたい。ういろうも食べたい。しかし、そのどれも食べられない。オットのために、見つけた駅ビルのカフェで、焼きたてのアップルパイを食べてコーヒーで一息つく。朝はトーストとコーヒー、昼はサンドイッチとコーヒー、夜はバーガーとビールで良いオット、何なら朝も昼も夜もサンドイッチで嬉しいというオット。何て奴と結婚しちまったんだ。全く腹が立つ。

息子と連絡がついて何年振りか、なつかしい息子がタクシー出迎えに来る。一緒にポルトガル料理屋へ。ますます立派になって、、、。名古屋で自立して生活している息子に こうして会えるなんて、何て嬉しいことだろう。息子がちょっとだけ触れる仕事の愚痴も、家族のことごとも、形の良い眉毛にカミソリでデザインを入れる独創性も、まっすぐ通った鼻筋も、力強い顎の形も、大きな手も、なにもかも嬉しい。生きて息をしていてくれて、それだけで嬉しい。私たち家族は、ワーキングホリデーで来たこの青年のことが本当に好きだった。シドニーに来たばかりで入院することになって、痛みをこらえて退院したときも、マンリーの海で溺れ死にそうになったときも、家探しや、職探しに苦労していた時も、忙しすぎてあまり力になってあげることができなかった。それが、いまは立派な職業人。眩しく見えるぜ!

次の日は名古屋城を見て、ノリタケガーデンを見る。昔は名古屋駅から名古屋城が見えた。大昔京都で逮捕されたドジな学生を身柄引き受けするために京都に向かう途中、名古屋駅から立派なお城が見えたので、いつか行ってみたいと思っていた。商業都市の中心名古屋は、今ではラシック、ナデイアパーク、名古屋パルコ、オアシス21、などなど超近代的な複合商業施設が林立している。美味しい食べ物屋さんも多い。高層建築のビルばかりで、もちろんもう駅からお城は見えない。
タクシーに乗って、昔は駅からお城が見えた、というと年配の運転手は、笑いながら肯定も否定もせず、「そんなときもありましたかねえ。」と感慨深げに言うだけだ。

夜、息子と観覧車に乗って、名古屋の夜景をながめる。
あとは焼き鳥屋で息子と一杯やる。味噌カツ、味噌おでん、ひつまぶし、手羽先、刺身、から揚げを次々と平らげる。名古屋のひつまぶしは、かば焼きを小さく切って載せたうな丼を、はじめは普通に食べ、2杯目にはネギ、ワサビ、ノリをたくさんかけて食べ、3杯目は混ぜ合わせた中身をお茶漬けにして食べる。うな丼を3回違った食べ方で楽しむ名古屋の名物だ。お茶漬けにする前に食べきってしまったので、あとでお茶を飲んだから、おなかの中でうまい具合に3杯目のひつまぶしをやっているはずだ。
頼もしい息子の腕で、タクシーにオットとともに押し込まれて、バイバイと、、、。遠ざかる息子の姿が小さくなっていく。ぼやけてよく見えないけれど。

2013年10月21日月曜日

オットと新宿で

        
念願の日本上陸から第2日目。
オットにビッグカメラでカメラと時計を買う。カメラと言ってもソニーのデジカメで4万3千円ほど。腕時計といってもシチズンの実用的なやつで、高級品とは程遠い、私たちにとっての日本上陸記念だ。
数年前オットに当時発売されたばかりの、ニコン5000デジタル一眼レフカメラを買った。オットが嬉しそうにこれを首から下げて写真を撮ったのは去年日本に来た時の一度きりで、それ以降は二度と使わない。重いのと、使い方が難しくなって使いこなせないままホコリを被っている。今回のは軽くて首に下げても重くないし、40倍にフォーカスできる。小さいカメラの中で一番レンズの質が良い、というセールスマンの勧めに従って買った。これだけのオットの買い物に朝、ホテルを出てから3時間、、、もう限度です とオットの息が上がっている。カフェでコーヒーとケーキを食べさせて、カメラ屋からホテルまでの300メートルの距離をタクシーで来たが、またタクシーで帰り、オットを寝かせる。全く2歳になったマゴより手がかかる。

シドニーを出る前にアマゾンに、30冊ほど本とDVDを注文して、ホテルに受け取ってもらってあった。他に乾燥食物まで注文してあったので大きな段ボールで3箱分、荷台に乗せてボーイが部屋まで運んできた。ネットで注文するときは次々とボタンを押すだけで簡単なのに、こんな大荷物になっているなんて、、、。中のものをより分けて、全部娘達宛てに郵便局から送る。外国にいても日本人は日本人。本が必需品だ。活字なしの生活ができない。エッサエッサと、ひと箱ずつ郵便局に運んで送り、荒い息で帰ってきた私に、「カステーラとか僕へのプレゼントもシドニーに送っておいてくれた?」とオットのたまう。「ねーよ、そんなもん!」全く2歳のマゴより手がかかる。

鬼の寝る間に、そっと音を立てずにホテルを出て、ルミネで自分のパンツを4本とシャツ10枚を買う。試着したのはパンツ1本とシャツ1枚だけで、買ったのは全部同じものを色違いで求める。パンツとジーンズだけは日本人体形に合った日本製でないと似合わない。シドニーで何着も買ったパンツが全部無駄になっている。オージーのお尻と日本人のお尻と、実際どうちがうのか、よくわからないが、不思議と日本製のパンツなら試着せずともうまく自分にフィットするのだ。ホテルに帰ってみると、眠っていたはずのオットが、ブーツをはいて、ジャケットまできちんと着て待っていた。ホテルで取り残されて、眠るどころか緊張して待っていたらしい。私が居ると寄りかかって自分では何もしないくせに一人きりになるととりつくろう性格。よくあるケースかもしれない。赤ちゃんを寝かしつけて、シメシメと、そーっと音をたてないようにお茶を入れて、お菓子を口に居れようとした瞬間に、寝たはずの敵がギャーと泣く、という感じ。全く 2歳のマゴより手がかかる。

すでに正装してしまっているオットと夕食のためにホテルから20メートル先にあるトンカツ屋まで歩く。サッポロ生をジョッキで2杯ずつ。これが美味しい。このために、はるばる日本にやってきたぜーい、と心から思える。ヒレカツの柔らかさにも感激。私がドボドボとカツにもキャベツにもソースをかけるのを顔をしかめて見ながら、オットは塩をパラリとかけるだけで、おいしそうに食べている。1年半前に来た時と、味が変わっていない。カラリと揚がったカツに、「良いお味ですね。」というと、若旦那、「前に来てくれたお二人さん、よく覚えていますよ。」と言われる。そう、あのころは、オットは支えなしでも自分ひとりでサッサを歩けた。80歳を超えると哀しいことだが自分でできないことが増えていく。ホテルに帰って、新宿の夜景を見ながら、ウィスキーの水割りグラスを傾ける。飲み相手、、これだけは2歳のマゴにはできない、か。

2013年10月20日日曜日

死ぬ前にもう一度日本に

    

死ぬ前にもう一度日本に行きたい、と突然言い出したオットを連れて日本を旅行してきた。
3週間かけて東京、名古屋、長野の山々を見て東京に戻り、懐かしい人々にも会い、二人して無事、病気も怪我もせずに、帰ってこられたので、ほっとしている。
もどってきたシドニーでは、明るい青空の下、紫色のジャカランダの花が咲き始めていた。出かける前は ようやく春を告げるワトルが、美しいゴールデンシャワーのように頭の上から垂れ下がるように咲き始めた頃だったから、居ない間にオーストラリアは春から夏に移行したことになる。

18歳で生まれて育った家を出た。あのころはベトナム戦争に反対するデモとストに明け暮れていて、閉鎖した大学内に住み着く活動家たちも多く、18の家出学生など珍しくもなかった。それからずっと時間がたち、18年という時間と同じくらいの時を シドニーに移ってきて、オットと過ごしたことになる。シドニーで大学を終えた娘たちも 立派に専門職について自立した。時の流れの速さに愕然とする。

2012年の4月に初めてオットを連れて日本を旅行した。桜が満開する前に帰ることになって残念だったが、オットは初めて見る東京、箱根、富士、京都、奈良に感激のし通しだった。帰って来て、3か月後に心筋梗塞の大発作を起こして緊急手術して命をつなぎ止めた。
今回の旅では、血圧計、狭心症の舌下錠、抗血液凝固剤、降圧剤、コレステロールの薬、膀胱筋弛緩剤、喘息薬、吸入器、3種類の吸入剤、緑内障点眼剤、黄変部変性点眼薬などなどを リュックに詰めて持ち歩くことになった。もともとサンタクロースのような体形のオット、運転で出かけるのは得意だが徒歩で歩くのは100メートルがやっと。左から支えるようにして抱えて歩くが、だんだん寄りかかってきて20メートル歩くころには、50キロで小柄な私に自分の体重を全部持たせかけてくる。旅行中ずっと、叱咤激励して歩かせる事を繰り返すことになったが、こんなことなら車椅子の人と旅行するほうがずっと楽だっただろう。

まず第一日目。日本航空便で成田に着いたのは夜。新宿駅から歩いて5分の距離にあるサンルートプラザ新宿ホテルに泊まることになっている。ホテルまで直接リムジンバスが行ってくれるので、助かる。途中、スカイツリーが、イルミネーションでさまざまな色で輝いていた。乗り物が大好きなオットは、飛行機に乗れるのが嬉しくて嬉しくて、はしゃいで機内食をすべてたいらげる、という信じられないことをして、リムジンバスに乗るときは 空港の自動販売機で買った缶コーヒーを握りしめて夜の光景に目を凝らしていた。
日本に着いて外国暮らしの日本人が、まずやりたいことの一つが、「自動販売機」に駆け寄ることではないだろうか。同じ一つの自動販売機なのに、ボタンひとつで、熱いコーヒーも冷たいお茶も出てくる。感激だ。缶コーヒーも沢山種類があって、こだわりの味を宣伝していて、どれも、美味しい。
もう一つ、外国暮らしの日本人が日本に着いて感激するのは、空港の座ると温かいトイレ。日本では空港でもデパートでも駅でも どこに行ってもトイレは洗浄器つきの温かい便座が当たり前だ。けれど欧米やオーストラリアでは洗浄器つきのシャワートイレットを知っている人が少なく、見たことのある人もわずかだ。このことを知ってからは、顔が綺麗なオージーが綺麗に思えなくなってくる。世界中で日本人ほどお尻がぴかぴかに綺麗な国民は他には居ない。みんなもっと自分たちのお尻を誇りにして良いだろう。

ホテルでやっと一息ついてベッドに入る。しばらくして やっとうつらうつらして来た頃に、オットがハートアタックみたいに胸が痛いと言い出す。眠いところを起こされて、「オイ、オマエ ただの食いすぎだよ。」と言って、くるりと背を向けて眠りたい本音をおさえて、血圧測定、脈をみて、狭心症の舌下錠剤を口に含ませてやる。本心ではなくて、ちゃんと優しい声で、「ちゃんと心臓動いてるよー。」と報告。安心したらしく、もう1錠舌下錠を服用させるとオットは すぐにスースー寝息をたてて眠り始める。
やれやれ。
第一日目から、これかよ!
死ぬ前にもう一度日本に行きたいと言い出して、娘たちには「去年日本に行かれて良かった。私の人生で最良の時だった。人生で一番幸せだった。」と遺言のように繰り返し言うので、、本当に、死ぬのかと思ってもう一度日本に連れてきてあげたけけれど、、、。この調子で毎年毎年、死ぬ前にもう一度、、、と言い出すつもりではないのだろうか。
眠るタイミングを失って、オットの気持ちよく眠る規則的な寝息を聴きながら、「まんまとだまされた。また、むこうが上手だった。だまされたー!」という感にさいなまれて全然眠れなくなった私。心穏やかでない第一日目の夜が明けていく。

2013年9月13日金曜日

映画 「イノセントガーデン」

 


サイコテイックスリラー、英米合作映画
原題:「STOKER」
監督:パク チヤヌク
キャスト
インデイア ストーカー :ミア ワシコウスカ
エベリン(母)       :二コル キッドマン
チャーリー(叔父)    :マチュー グード
リチャード(父)      :デルモット マルロニー
グエドリン(叔母)    :ジャッキー ウェバー

ドラマ「プリゾン ブレイク」の主演俳優、ウェントワース ミラーが脚本を手がけたことで、話題を集めた作品。脚本が高く評価されていたので、たくさんの映画監督が志願したが、選ばれたのは今までハリウッドで仕事をしたことがなかった 韓国人のパク チャヌク。この監督はソウル生まれの50歳。「オールド ボーイ」で、カンヌ国際映画祭特別賞を受賞した。この作品は日本の漫画を原作とした残酷シーンの多い復讐劇だが、クエンテイン タランテイーノから、高く評価された。
原題、「STOKER」、邦題「イノセントガーデン」は、オーストラリアでは公開されたばかりだが、日本では、5月にすでに公開されたようだ。キャストの二コル キッドマン、ミア ワシコウスカ、ジャッキー ウェバー等、映画の中心人物が そろってオージー俳優なのも、おもしろい。撮影中は、「グッダイ!」で、始まったんだろうな。「グッダイ、アウア ヤ?」(GOOD DAY、 HOW ARE YOU?)とかね。
ストーリーは
街からずっと離れた田舎の大きな屋敷にストーカー家の屋敷がある。父親、リチャードと、母親エベリンと、一人娘インデイアが、たくさんの使用人とともに住んでいる。広大な敷地には森も湖もあり、父親はハンテイングが趣味だ。愛娘のインデイは、幼いうちから父親から狩猟の手ほどきを受けていた。インデイは、誕生日に毎年新しい靴を父親から贈られるのが、習慣だった。

インデイの18歳の誕生日に、父親が車の事故で亡くなる。年頃で反抗期のインデイは母親との折り合いが良くない。父親を心から慕っていたインデイに、喪失感は大きい。そんな父親の葬儀の日に、インデイは初めて、一度も会ったことのなかった叔父を紹介される。チャーリーと名乗る、亡くなった父親よりずっと年の若い弟は、葬儀の日以来、屋敷にとどまり、以来不思議な3人の生活が始まる。ハンサムで優しいチャーリーに、母親エベリンはすぐに心惹かれていく。チャーリーはインデイにも優しい。美術学校に通うインデイは、友達の居ない変わり者。成績はとびぬけて良いが、誰にも心を許さず頑なな様子が、男の子たちの間では、からかいの対象になっている。チャーリーはインデイを学校の送り迎えを買って出るが、インデイはひたすらチャーリーを拒んで無視し続ける。不思議なことに、使用人たちが次々と居なくなる。遠方からわざわざ会いに来てくれた叔母も、チャーリーとの諍いの後で姿を消す。

インデイはつきまとう学校の男の子から、暴行を受けそうになって危機一髪のところでチャーリーに助けられる。チャーリーは当然のように、この男の子を殺害する。インデイは死体を埋めるのを手伝う。インデイが想像した通り、姿を消した女中や叔母も、チャーリーに殺されたのだろう。インデイは激しくチャーリーを憎みながら一方で、自身の理解を超えて異常な性的興奮を感じている。そんな危ない二人の関係を知った母親は、チャーリーをなじりとばし、反対に殺されそうになる。
そんなこんなで、インデイはついに、チャーリーの出現の真相を知って、、、。
というお話。

ストーリーだけを簡単にひとことで言ってしまうと、ストーカー家の異常性格者が次々と殺しまくるだけのお話だ。ただそれだけなので、どしてサイコスリラー映画に分類されている理由がわからない。推理や犯人捜しなど全くない。
しかし、映像作りが、とても凝っている。音の使い方が秀逸だ。シーンごとに聴覚、触覚、知覚をふんだんに刺激してくれる。
葬儀で美しい未亡人が人々に囲まれて、皆に慰められている。それを見ながら、18歳の反抗期真っただ中のふてくされ娘が、台所でガリガリ、ぐしゃぐしゃものすごい音をさせながらゆで卵の殻を割っている。音のない世界で、妖艶な未亡人がいつも人々の中心だ。一方で最大音で 娘が卵をガリガリ、メキメキ、、、。母と娘の対照的な心象風景を 交互に画面で対照的に映し出していて、みごと。上手だ。
だいたい、二コル キッドマンほど喪服とベール姿が似合う女優は他に居ないのではないか。古くは、ジャンヌ モロー、オードリー ヘップバーンなども、喪服の美人だった。二コル キッドマンは、彼女独特の気が強いくせに頼りなく、神経質ですぐにヒステリーを起こしそうな危ない雰囲気が、喪服姿にとてもマッチしている。彼女、夫の葬儀なのにイライラ ギリギリしていて 悲しみに心塞がれた未亡人と思えない。それが証拠に叔父が屋敷に住み着くと、すぐに尻尾を振って男の部屋に入りびたり。本当に悲しんでいるのは娘インデイだけだ。だから、こんな母親が、「こんなときだというのに、どうして私たち分かり合えないのかしら。」などと言ってくれても、娘としては無視するか、せせら笑うことしかできない。当たり前だよね。

ピアノの連弾シーンがある。インデイがピアノを弾いていると、チャーリーが後ろからそっと来て伴奏を始める。二人の連弾が手を交差しながら続けられ、鍵が鍵穴に カチャリと収まるように、二人の嗜好がぴったりと合う瞬間だ。この映画の一番の見せ所だろう。
画面がときどきスローモーションになったりする。そのことによって結構大切なメッセージが誰にでもわかるようになっている。その点、感の悪い人、裏読みのできない人、想像力に欠けていて暗示されていることが読めない人でも、なんかを感じ取れるようになっている。親切だ。

多感なテイーン、父親への憧憬、美しい母への反発、若い男になびく母親への軽蔑と憎悪、ちょっと変わった男への好奇心、過剰な性へのあこがれと嫌悪。これを 全然笑わない女優、ミア ワシコウスカが、いつもふくれ面で上手に演じている。毎年父が贈ってくれた靴が 実は父親からではなかった、という衝撃。靴への偏愛と異常性格者の関係ってわかりやすいかも。

映画の始めのシーンで、赤い花が出てきて、「花は自分で色を選んだりすることができない。」というインデイのナレーションがある。それが、最後の最後で白い花が 血しぶきが飛んで赤く染まるシーンで終わる。「ふむふむ、、なるほどね。」と いうふうにわかるようになっている。
花は自分で色を選べない。人は生まれを自分で選んで生まれてこれない。悪い血統の家に生まれれば その遺伝子は受け継がれていく。叔父の病は姪にバトンタッチされ、えぐい大量殺人は止まらない、というわけだ。
アートな映像、視覚、聴覚、触覚をフルに刺激してくれる画面作りには感服する。だけど、こういう映画が大好き というような人とはあまり友達になりたくない。

2013年9月12日木曜日

ラリアの関節痛よさらばの春

    

日本は暑い夏から ようやく秋めいてきた様子。日本の秋は一年のうちで最も美しい季節。
外国で暮らしていて、「あきこ」とは、どういう意味か、と問われることがある。私の「あきこ」は 文章の「あき」からきていて、先祖の淡路島の洲本にいた古東領左衛門の孫の孫あたりの古東章叔父さんからもらったものだ。素晴らしく美しい字を書く人で、文章も上手だった。でもそんなことを説明しても、外国人にはわからないから、アキは「秋」で、コは「子供」。オータム チャイルドという意味だよ、と。秋は日本では 山々が紅葉し、果物が実をつけ、高い山々には純白の雪を抱く、最も美しい季節なのだよ、と説明する。だから、私の職場では、ふざけて私のことを オータムチャイルドと呼ぶ人もいる。

南半球のオーストラリアでは日本のこの時期が、春になる。
今年は、いつの間にか木蓮が咲き始めたと思っていたら、梅も桃の花も桜も藤の花もいっせいに咲き出して満開になって、さっさと散っていった。街路樹のイングリッシュパイントリーも、杉も、樫も一斉に芽吹いて葉をつけた。そんな春の到来が 今年はことさら嬉しかった。冬の間、関節炎が痛んで、指も手首も腰も膝も顎まで痛くなり いつになっても改善せず、もうこのままずっと痛みを抱えていくのかと、暗澹たる気持ちになっていたからだ。

人の体は50年も60年も 何の問題もなく使えるように設計されていない。
人は、重い頭を支えて、何十年も立ったり歩いたりしてきたから、年を取れば誰でも 膝や腰が痛くなる。すり減って無くなった軟骨のあとに関節が変形してきて神経を圧迫して痛むから、まわりの筋肉を鍛えて、同じ動きをしても痛まないような迂回路をつくって、とりあえず炎症や痛みを回避することが大切だ。そのためには、1にも、2にもストレッチをすること、それだけが解決策と言ってよい。ステロイドの関節注射や鎮痛剤やマッサージや温泉などは、一時的には良いが、解決策にはならない。
一番こたえたのは指の第2関節の腫れと痛みだ。むかしヴァイオリンで酷使してきた。物をつかむのに力が入らない。人に握手されると 飛び上るほど痛い。錠剤を手のひらにとるが、曲がらない指の間をぬけて落とすばかり。コップを落として割る。ドアに鍵が入らない。夜中、痛みで目が覚める。

毎日、30分の自転車こぎ、30分のストレッチ運動を冬の間、ずっと続けた。指が動かなくなると困るので、ギターを始めた。自分で弾くだけでは続かないと思って、先生について習い始めた。薬指が曲がらないのでGコードもFコードもちゃんとした音が出ない。それでもレッスンは楽しく、ギターを背中に背負って電車で先生のスタジオに通った。
1にも、2にも ストレッチ。これを続けていけば必ず効果が出ると 確信しているくせに、努力が全然報われないのではないか、ずっとずっと痛いままではないのか、と自問自答の毎日。

ようやく、気温の上昇とともに関節の可動域が広がって、痛みが軽減してきた。1にも、2にも ストレッチ。人にいつも言い続けてきたことが、自分でもよくわかった。当たり前なことだけれども、努力は必ず報われる。痛みは必ず軽減する。月並みな言葉だけれど、真実だ。とても嬉しい真実。明けない夜はない。冬の後には、必ず春がくる。

写真は、ワラタ(WARATAH)の花。葉から2M以上の長い茎を持ち、その上に真紅の美しい花をつける。オーストラリアのネイテイブの花で、ラグビーチームの名前にもなっている。花(鼻)の下が2Mあるなんて、どんだけ女たらし!

2013年9月1日日曜日

メトロポリタンオペラ 「椿姫」

http://www.palacecinemas.com.au/events/metopera20122013season/

       

このごろ大泣きすることがなくなった。
14歳年の離れた最初の夫と一緒になった頃は、夫の居ないところで隠れてひっそり泣くことが、よくあった。ずっと年上の夫をもつと その人の世界が理解できなくて、ひとり置き去りにされたような気持ちで泣くものだ。今のオットとはもっと年が離れているが 全然泣かなくなった。自分が年を取ったうえ、この世に慣れて図々しくなったこともあるだろう。

久しぶりに心から大泣きしてみたくなって、オペラを観ることにした。オペラで一番泣くのは 文句なく 「椿姫」だ。オペラ「カルメン」では、カルメンの死は悲しいというよりも「むごい」。「リゴレット」の娘の死は、あり得ない悲劇だし、「ラ ボエーム」のミミの死は、しょうもない、みじめなだけだ。「蝶々夫人」の死は馬鹿げている。全然泣けない。泣くなら「椿姫」だ。
「椿姫」の悲しさは、やっと見つけた本当の愛の中で、若い恋人と幸せの絶頂にいるときに、男の父親に別れてくれと懇願され、諄々と諭されて、自分の幸せを諦める女が健気でいじらしくて、泣かされる。男に別れると言っても信じてくれない。他の男に心変わりしたと言って飲んだくれて遊び歩いても信じてくれない。一直線に愛を求めてくる恋人を、はねのけて、はねのけて最後まで男のために、自分を偽ろうとする女の姿に、大泣きせずにはいられない。うんと悲しい悲劇で泣きたかったら、やっぱり「椿姫」だ。

ニューヨークメトロポリタンオペラ「椿姫」、去年の公演をフイルムに収めたものを映画館の大画面で観た。今年はジュゼッペ ヴェルデイ生誕200年にあたる。彼はイタリア北部に生まれたが、そのころは、今日のようにイタリアはひとつの国ではなかった。イタリア統一は ヴェルデイ48歳のときだ。同じ年に生まれたワーグナーのように、パトロンが居たわけでなく、特別豊かでもなかったヴェルデイは、生活のために生涯 作曲し続けた。「椿姫」は 中でも彼が一番油が乗りきっているときに書かれた作品で、完成度が高く、素晴らしい曲ばかりだ。

指揮:ファビオ ルイズ
キャスト
ビオレッタ:ナタリー デユッセイ
アルフレッド:マチュー ポレンザー二
ジェルモン:ドミトリ ボロストスキー
ストーリーは
第1幕
パリ社交界の華、高級娼婦のビオレッタは 浮気者で人気者。結核を病んでいて、長生きできないことを自分で知っている。ならばと、うんと享楽的に遊び呆けて、男から男へと渡り歩いて派手に愉快に人生をやってきた。ところが若いアルフレッドに愛を告白されて、今までに味わったことのない胸のときめきを感じる。アルフレッドに惹かれている自分に自分で、ビオレッタは驚いていた。
第2幕
ビオレッタは生まれて初めて 純真な若い恋人アルフレッドとの幸せな生活に浸っている。社交界からは身を引いて、二人だけの幸せな生活。でも二人して暮らしていくために、ビオレッタは 自分の宝石や家具を売らなければならない。隠れて家具を売るところを知ったアルフレッドは、自分の世間知らずを恥じ、お金を引き出しにパリの家に帰る。アルフレッドの留守中に、老紳士が訪ねてくる。それはアルフレッドの父、ジェルモンだった。彼は 結婚する娘のために 世間体を繕わなければならない。家名を汚さずに済むように 息子とは別れてくれという。はじめは取り合わなかったビオレッタだったが、切々と説得する父親の話を聞くうち、遂にアルフレッドの将来のために自分が犠牲になって別れる決意をする。
第3幕
ビオレッタは心変わりしたという手紙をアルフレッドに残して、パリの社交界に戻る。他の男たちと遊び呆ける姿を見てアルフレッドは 逆上してビオレッタに金を投げつけて侮辱する。ビオレッタはただ泣き崩れるしかない。
第4幕
数か月後、結核に病むビオレッタは、死の床に居る。そこに、すべての事情を知らされたアルフレッドが駆け付ける。アルフレッドは、自分の無知を謝り、二人して田舎で暮らそうと言う。謝罪するために来た父、ジェロモンは、ビオレッタこそが、心の美しい本当に自分の娘にふさわしい人だと述べて、心から詫びる。しかしビオレッタにはもう それに答える力が残っていない。二人に見守られながらビオレッタは死んでいく。
というお話。

このオペラには男女合唱団による「乾杯の歌」をはじめとしてアルフレッドの「燃える心を」など、有名でテレビやコマーシャルなどででよく使われている曲がたくさんある。ビオレッタが始めから終りまでずっと舞台の上に居て、息を継ぐ暇がない。彼女の独白が多く、動きも激しい。独白やアリアは技巧的に難曲が多く、3時間余り、コロラドソプラノにとって、とても見せ場が多いが、過酷ともいえるオペラだ。マリア カラスが好んで歌った。

ビオレッタを歌ったナタリー デユッセイは、やせっぽちで小さな人だが、驚くほど豊かな声量で、気品のある美しいコロラドソプラノを歌う。彼女の「ラメンモールのルチア」を メトロポリタンオペラで見たことがあるが、いつも彼女の体当たりの演技には目を見張る。今回のビオレッタも、この人ほど役にふさわしい歌手はいないのではないかと思うほど役になりきっている。何度も失神してバタリと倒れるシーンがあるが、本当に体当たりで倒れるので 彼女の体は傷だらけではないだろうかと 本気で心配した。すごいエネルギーだ。

アルフレッドのマチュー ポレンザーニ、イタリア人らしく背が高く体も大きく見栄えが良い。芝居も上手くて、若くて世間知らずの坊ちゃんが、一人の孤独な女にのめり込んでいくのが納得できる演技だ。倒れたビオレッタを抱きしめながら 愛を切々と歌い上げながらボタボタ涙を ビオレッタの顔に落としていた。あわてて拭いていたが、失神しているはずのビオレッタは目を閉じていて、顔の上に ポタポタ涙が降ってくるのにじっとしていなければならなくて辛かっただろう。真迫力の演技だ。こんなシーンは、フイルムを見ている人にしか見えず、舞台で見ている人にはわからない。

しかし、このオペラでは何といってもアルフレッドの父親のバリトンに じっくり聴かせてくれる魅力が詰まっている。ジェルモンのバリトンがよく響きわたって、説得力をもってくれないと、どうしてこれが悲劇中の悲劇なのかわからなくなる。ビオレッタが自分の幸せを諦め犠牲になって、アルフレッドが嘆き悲しむ理由がわからなくなる。ジェルモンは、とて大切な役だ。これを歌ったドミトリ ボロストスキーは銀髪で出てきたが、本当はアルフレッドと同じくらいの年か、もっと若かったのかもしれない。バリトンなのに背が高く顔が良い。バリトンは背が低く、樽みたいな体形の人が多いから、こんなバリトンの登場がすごく嬉しい。こんな人に切々と訴えられ、懇願され、諄々と説得されたら、なんでも言う通りにしたくなる。

1853年に作曲されたこのオペラ、ヴィクトリア調の背景で屋敷も、どっしりとして華麗な舞台設定、ドレスは コルセットでウェストを絞った古典的な裾の長いドレスで出てくるのが常だったが、この舞台は現代風。全4幕で、舞台が回り舞台で 背景が変わったりせず、幕間にインターミッションが入ることもなかった。終始 簡素なひとつの舞台に 移動式の家具が出てきたり引っ込んだり 壁がドアになったり実に合理的に空間を使っていた。まず白壁で囲まれた舞台に巨大な時計がひとつ。限られた時間に生きるビオレッタの命の長さを表している。ビオレッタの衣装も、赤い短いドレスひとつだけで、着替えることもない。華やかな社交界で飲んで踊るシーンも、ダンサーも男女合唱団も みな男装して黒い背広姿だ。とても斬新な発想の舞台だ。

舞台が簡素で衣装などが単純になればなるほど 聴き手の関心は 3人の登場人物の役者ぶりと声そのものに集中する。そしてその期待が、裏切られることはなかった。3人3様の良さが合わさって 素晴らしいハーモニーを醸し出している。ソプラノの気品ある力強い声と、テノールの甘い語りかける声と、バリトンの圧倒的な説得力。まったく、よく泣かせてくれた。ビオレッタが嘆くたびに、アルフレッドが絶望するごとに泣かされた。本当に、オペラはやはり素晴らしい。

2013年8月26日月曜日

映画 「ランナウェイ 逃亡者」

    


原題:「THE COMPANY YOU KEEP」
原作:ニール ゴードンのスリラー小説「THE COMPANY YOU KEEP」
監督:ロバート レッドフォード
キャスト
ニック スローン:ロバート レッドフォード
シャロン ソラズ:スーザン サランドン
ミミ        :ジュデイー クリステイー
ベン セパード :シーア ラベロフ
オブボーン元警官:ブレンダン グリーソン
ストーリーは
妻に先立たれた弁護士 ジム グラント(ロバート レッドフォード)は、11歳の娘と ニューヨーク郊外のアルバニーで、二人で暮らしている。ある日、30年前に反ベトナム戦争運動にかかわって指名手配されていた極左組織のシャロン ソラズ(スーザン サランドン)が逮捕されたというニュースが流れる。彼女はFBIの捜査追及を 30年余りの間逃れて逃亡生活をしていたのだった。彼女は銀行強盗の際に爆弾で銀行のガードマンを殺害した容疑で逮捕された。この事件の主犯はニック スローンという男で、30年間指名手配されていて まだ逮捕されていない。

新聞記者のベン セパード(シーア ラベロフ)は、シャロン ソラズがニューヨークの弁護士ジム グラントという男に関係がある というFBIの極秘情報を得る。ベンはシャロンの逮捕を契機に 当時の反ベトナム運動の地下秘密組織に興味を持ち 指名手配されている逃亡者たちを追うことを ジャーナリストの使命だと考える。さっそく弁護士ベン セパードに会いに行き、どうしてシャロンの弁護を引き受けないのかと問い詰めても、ジムは質問をかわすだけ。疑問に思ったベンは、ジムの素性を調べる。すると驚くべきことに、ジム グラントという男はすでに死亡していて、現在弁護士として成功している男は、ジムになり澄ました誰かだ。30年前の秘密地下組織のファイルと指名手配中の顔写真を照らし合わせて見て、ベンは、ジム グラントと名乗る弁護士こそ、事件主犯で逃亡中のニック スローンであることを知る。大スクープだ。翌日の新聞は、ベンの記事が 大きなセンセーションを起こす。

1980年、ミシガン州で過激派が銀行強盗を行い、その際に’ガードマンが殺された。その容疑でFBIが30年余りも追跡していた男を一人の新聞記者が暴き出したのだった。ニックは娘を連れて逃亡する。今は大学教授だったり、材木商だったりする昔の仲間を頼りながら、逃亡し、遂にカナダ国境で、昔の恋人、ミミ(ジュデイー クリステイー)に会う。二人は昔愛し合っていて、別れた時にはミミは、妊娠中だった。ミミは口を閉ざしていて、ニックには、当時の事情がわからない。
一方、新聞記者ベンは 調べれば調べるほど自分が窮地に追いやってしまったニック スローンが、銀行強盗に関与していたとは思えなくなっていく。そこで初めて銀行強盗があった時に、最初に現場を捜査した元警官ヘンリー オズボーン(ブレンダン グリーソン)にインタビューを申し込む。そこでベンは彼の美しい娘レベッカ(ブリット マーリング〉に出会う。元警官は 予想通り強盗事件にニックは関わっていないと証言する。ますますベンはペンの力でニックを追い詰めてしまったが彼が殺人犯ではない確証をもち、自己嫌悪に陥る。

一方、ニックはミシガンの銀行強盗の主犯だったミミに、自首を勧める。シャロンが逮捕されたあと、ミミの逮捕も時間の問題だ。当時ミミは、恋人だったニックに罪を着せてまで逃げ延びなければならなかった。30年たったいまやっとニックは、ミミからニックとの間にできた子供が実は 事件のあと元警官ヘンリーのもとで育てられ、今は美しい立派な女性になっていることを知らされる。
警察の追手が迫った。ミミはボートでカナダに逃げる。ニックは警察の目をミミからそらすために反対方向に逃げ そして逮捕される。逃亡に成功したミミは しかし、あとで考えを改めて捜査隊に向かって行く。
記者ベンは30年前の事件を掘り下げて人々に事実を知らせることに、どんな意味があったのか、自分は無実の弁護士を追い詰めて傷つけただけだったのではないのか、何も知らずに元警官の家庭で育ち立派な社会人になっているレベッカの素性をさらし出し、傷つけることになっただけではないのか、報道の真実とは何だったのか、自問自答するのだった。
というおはなし。

総じて、ベビーブーマー以外の若い人にとっては 退屈な映画だ。どうしてこんなにオールドファッションの年寄りばかり出している映画に人が来るのか 若い人には理解できないだろう。私は若くもなくベビーブーマーで、まさにこの映画で語られる時代を、ベトナム戦争反対運動にも人並み程度に関わり、そのために資金調達に銀行強盗くらい やっても仕方ないよな、くらいの認識で駆け抜けてきたが それでもこの映画は退屈だった。
テーマが何なのか明らかでないからだ。
一つは ベトナム反戦運動してきた地下組織のメンバーにとって、当時の誤りを今、どう考えるのかというテーマ。ここでは殺人に至るテロは誤りだったから、潔く自首して罪を認めると 言っている。それも単純すぎるような気がする。
もう一つのテーマは、30年間秘密にしてきたことを 報道記者が暴き立てて「事実」を表にさらけ出すことにどんな意味があるか、というジャーナリストの良心に係わることだ。この映画では どちらのテーマも中途半端で見ている人に何も考えさせない、何も訴えないで終わってしまった。

40年前、アメリカには徴兵制度があった。アメリカが北ベトナムを爆撃し始めた1965年、ベトナム戦争はベトナム地域のことなどでは無く、全世界の緊迫する問題になった。アメリカの若者は強制的にベトナムに送られ、反戦デモを大学内で行っただけで学生が警察に撃ち殺されたりした。従軍を拒否した若者は刑務所で拘禁され暴行を受けた。沖縄ではベトナムでバラバラになった米兵の死体を、次々とつなぎ合わせて本国に送り返していた。ベトナムの独立を封じ、南ベトナム傀儡政権を作ってアジアの軍事拠点を作ろうとしていたアメリカに 若者が抵抗するのは、当然の流れだった。この当時、学生生活を送ったベビーブーマーには、100人100様のストーリーがあるだろう。問われれば答えるしかないが、他人のストーリーをいまさら聴こうとは思わない。
だから、ニックとミミが自首しろとかいや、しないとかベッドシーンの後で グダグダやっている姿にはげんなりだ。年寄りのベッドシーンなんか見たくない。ロバート レッドフォード77歳、ジュリー クリステイー72歳の裸など誰も興味ない。

 ロバート レッドフォードが良かったのは、「明日に向かって走れ」1969年、「夕日に向かって走れ」1969年、「ステイング」1973年、「華麗なるギャツビー」1974年、「愛と悲しみの果て」1985年、「モンタナの風に抱かれて」1996年までだ。年を取れば醜くなる。出しゃばるのを止めたり、醜い部分を修正したり、ぼやかしたり、隠したりするのは必要最低限のエチケットだ。
ただ、66歳のスーザン サランドンが逮捕され尋問のあとに、今、同じ状況になったら同じことをまたやるつもりか、と問われて、ためらわずに「私は同じことをするだろう。」と毅然と答えるところは良かった。

報道記者としての良心の問題。FBIからご秘密情報を盗み出し、犯人をあぶり出して、追いつめる、この記者は事実を知りたかっただけだ。それが結果としてたくさんの人を傷つけることになり、真犯人の逮捕につながり、封じていた過去の秘密が表に出た。ジャーナリストの使命と良心の呵責。これはジャーナリストにとって永遠の悩みだ。映画ではこれについて、踏み込んでいない。
映画としては、退屈な映画なので、日本公開はないだろうと思っていたら、10月4日、公開だという。

2013年8月23日金曜日

映画 「エリジオン」

               


映画:「エリジオン」
原題:「ELYSIUM」
監督:ネイル ブロンキャンプ
キャスト
マックス デコスタ:   マット デーモン
防衛長官ジェシカ:   ジュデイー フォスター
エージェント クルーガー: シャルト コプレイ
フレイ サンチャゴ:   アリス ブラガ

タイトルのエリジオンとは 理想郷、英雄が最後に達成して行き着く場所のこと。アメリカ映画。サイエンスフィクションのアクションスリラー映画。
製作、監督、脚本は、ネイル ブロンキャンプ。
ストーリーは
2154年、地球は人口の爆発的な増加や、資源の奪い合いによる各国間の戦争、度重なる自然災害によって、病弊し切っている。もはや国は無くなっている。人類は、持てる者と持たざる者の2つの階層に完全に分かれている。一方は、地球から離れてエリジオンに住むわずかなエリート。他方は貧困と餓えの蔓延した地球に住む圧倒的多数の人々だ。

エリジオンは巨大企業、アーマデインが創設した宇宙空間に浮かぶ人工的に作られた星だ。最高に発達した科学と文明を持ち、そこに住むわずかな住民には、もはや寿命も病気もない。贅沢に人々はスポーツに興じ、高い文化を享受している。
地球から 上空に浮かんでいるエリジオンが見える。指輪のような形をした銀色に輝く美しい星だ。ロスアンデルスの孤児院で育つマックスは、仲良しのフレイに、いつも自分が大きくなったらフレイを連れて必ずエリジオンに連れて行ってあげると約束していた。

マックスは成長して、いまではアーマデインの工場で働いている。フレアは看護婦になった。汚れ果てた空気の中で人々は貧困と病気に苦しんでいる。アーマデインが治安警察もすべて支配しており、人々はたくさんの警察ロボットに監視されて、暮らしている。ある日、マックスは工場で機械の誤作動のために高濃度の放射線を全身にあびてしまい、後五日の命、と診断される。時間がない。五日間の間にエリジオンと地球を往復する宇宙船を乗っとって、エリジオンに行かなければ命を長らえることができない。マックスは躊躇わずに地下組織に入る。そこで、地下組織で働く医師と技術者によって、人工頭脳を脳に埋め込み、人工神経を手足に装着する人体改造手術を受ける。

マックスはアーマデインの経営者の乗る宇宙船を乗っ取り、経営者の脳をすべて自分の頭脳にコピーする。そしてエリジオンに向かおうとするところで、フレアを人質にとられて、エージェント クレイガーの執拗な追跡に抗しきれず拘束されて、囚人としてエリジオンに連行される。そこでもマックスは戦い続けるが、力尽き、、、。
というお話。

強い男、マット デーモンがスキンヘッドになって、頭に人工頭脳を取り付けて大活躍する。寡黙で幼馴染の女の子との約束を果たすために傷ついても、死にかけても戦い続ける。マット デーモンが好きな人には見る価値あり。だけれどもサイエンスフィクションとしては、つっこみどころの多い子供向け映画か。
1: 寿命がなく、年を取らず永遠に生きられる社会が2154年にくるとは思えない。映画では、どんな病気もマシンに中に入ると治ってしまうことになっているが、すべての疾病は原因も異なれば、発病のメカニズムも異なる。単純な怪我ならば 特別なマシンに入って早く治すことができる時代は来るだろう。しかし遺伝病や自己免疫疾患のように複雑なメカニズムで発病した疾病をマシンで一瞬で治せるはずがない。また精神疾患はどうだろう。寿命が無くなって、永遠に生きられることになったら人は重篤な精神疾患に苦しむことになるだろう。人は機械ではないから、マシンに入ってたちどころに病気が治る時代がくる、ということはあり得ない。

2:映画では、一つの巨大企業が地球を支配しているが、資本主義社会では企業同士が競い合って巨大企業になるのであって、一つだけの企業が生き残って、全世界を牛耳ることは考えられない。
3:映画では人類をエリジオンに住む階層と地球人の階層とに2分しているが、永遠に生き続けるエリジオンの人口が変わらないならば、文明は衰退する。代わって地球では圧倒的多数の頭脳が大きな力を持つ。いくらロボット警察が監視していても安定した社会は構築できない。またエリジオンの食糧生産、エネルギーの生産はどうなっているのか。人の命が永遠である以上、食糧もエネルギーも永遠に生産可能でなければならない。
4:地球から見て、いつも同じところに浮かんでいる人口的に作られた星エリジオンは、地球と月と太陽との自転の関係では どうなっているのだろう。いつまでも浮かんでいられるものなのか、そのあたり宇宙物理学をやってる人でないと、よくわからない。

アメリカ人は世界で一番 他言語を習得することが苦手な国民がと言われているが、本当にそうだ。ヨーロッパのように地続きで異なる言語文化をもった外国人を持たないから、自然と自分の言葉と自分の世界が世界のすべてだと思い込んでしまう。この映画では、ロスアンデルスとエリジオンしか出てこない。出てくる人はみんなアメリカ人ばかりで、インド人もいなければアジア人も出てこない。世界人口の半分はインド人と中国人なんですけど、、。アメリカというか、ロスが世界だ ロスが地球だ、と、、こんな小さな世界でサイエンスフィクションで遊んでもらいたくない。
でもマックスの苗字が、デ コスタで、フレイの苗字がサンチャゴ というのは、おもしろい。会話もスペイン語と英語のミックスだった。伝統的なアメリカ人の氏は 2154年には絶え果てて、人々も言語もスペイン語圏の人々に乗っ取られていることを予見している。

マット デーモンがSFの主人公という不思議で意外な役柄。この前の映画「ビハインド カンデラブラ」では,意外や意外、、、同性愛のピアニストのペット、ビューテイフルリトルボーイの役をやったのもびっくりだった。芸達者だなあ。
ジュデイー フォスターが知的で冷血、防衛庁長官といった役どころを演じている。マーチン スコセッシの「タクシードライバー」で若干13歳で娼婦役を演じた頃からのファンとしては、彼女の口許の皴が悲しい。ハリウッドは一流の化粧係を抱えているのに、どうして彼女の皴をきちんと消してくれなかったんだろう。フレイを演じたアリス ブラガが若くて可愛らしい。二人の女性を比べても仕方がないが、やっぱり大写しの画面では年齢の衰えが鮮明に出て隠しようがない。

ブラッド ピットの「ワールド ワオーZ」、トム クルーズの「オブリビオン」、マット デーモンの「エリジオン」と、ハリウッドを代表する役者たちが それぞれSF映画を主演したが 総じて「どこがサイエンスなのか」「これでもサイエンスか」と一喝したくなるような、ストーリーの細部の詰めの甘さが目につく。医学知識の欠如、科学知識の不足、未来をイメージするイメージそのものの貧困さが、気になる。
しかし、頭にマイクロチップを埋め込んで、頭からコードを延ばして別人の頭につなげるとその人の頭脳をコピーできるし、人工神経を手足につけて戦闘ロボット並に強くなる、というのは 夢みたい。人として心をもったまま、ロボットのような機械人間になって、悪者をばたばたやっつけて、正義に味方になって戦いたいというのは子供のころ、だれもが、思い描く夢かもしれない。そんな子供の夢を、大真面目に、たくさんのお金をかけて映画にしてくれたのだから、かなり科学的にあり得なくても、つっこみどころ満載でも、それで良いのではないか。娯楽映画なのだから。


2013年8月12日月曜日

映画「ビハインド ザ カンデラブラ」


http://www.youtube.com/watch?v=TQ9OgbLCsUM
    



原題「BEHIND THE CANDELABRE」

オランダで、同性どうしの結婚が法で認められるようになって12年。現在のところ同性婚が認められている国は、パートナーシップを認めている国を含めると、ベルギー、デンマーク、ノルウェー、スウェーデン、フィンランド、スペイン、ポルトガル、カナダ、南アフリカ、アイスランド、ルクセンブルグ、アルゼンチン、ウルグアイ、ブラジル、メキシコ、、ドイツ、などなど。今年、英国議会で承認され、続いてニュージーランドに先を越されて、やっとオーストラリアでも同性婚法案が討議されるようになってきたが、承認されるまでには、まだ時間がかかる。
結婚は個人の嗜好に関わることで、結婚しようがしまいが、同性婚か異性婚か、他人が関わることではない。社会的責任を負う成人が結婚すれば、年金や遺産相続など、社会保障上の優遇措置も、異性婚、同性婚ともに等しく法的に保障されなければならない。当たり前のことだ。今まで法的保護されていなかったことのほうが異常だった。

映画「ビハインド ザ カンデラブラ」を観た。邦題はまだわからない。
「カンデラブラ」という言葉は、シャンデリアの複数形。だから原題を直訳すると、「シャンデリアの輝く後ろで」とか、「煌めくシャンデリアの背後で」というような意味になる。
マイケル ダグラスとマット デモンが同性愛カップルを演じた話題作。今年のカンヌ国際映画祭に出品された。ハリウッド映画の重鎮マイケル ダグラスと、アクション ヒーローのマット デーモンという、考えられないようなカップルのとりあわせの意外さに惹かれて見に行った。

監督:ステーブン ソダーバーグ
キャスト
リベラーチェ:マイケル ダグラス
スコット ソーソン:マット デーモン
ドクタースターツ:ロブ ロウ

ストーリーは
エルビス プレスリー、エルトン ジョン、マドンナやレデイーガガが、舞台のパフォーマンスで大爆発して人気が出る、その前の時代。テレビがやっと全米の家庭に普及したばかりのころ、世界の舞台で誰よりも人気を得ていたのは、ピアニストのリベラーチェだった。彼は一流のエンタテイナーとしてラスベガスのヒルトンを拠点にして、きらびやかで派手な演出で、ピアノを演奏していた。舞台には、きらびやかなガラス細工で覆い尽くしたピアノ。純白のミンクのガウンを羽織り、10本の指全部を純金の指輪で飾り、派手な衣装を身にまとったリベラーチェが舞台に上がると、熱烈な女性ファンたちは歓声を上げ、彼がダンス音楽を弾くと踊り狂い、クラシックを奏でると涙して静かに聴き入った。当時のアカデミー賞の舞台も、リベラーチェの演奏演出でリードされていた。
彼は、シングルマザーだった母親を大切にして、身の回りに、美青年を沢山はべらして、はたから見ると同性愛者だったが、それを決して認めることをしなかった。彼の自宅は 演奏の舞台をそのまま持ってきたように豪華絢爛、部屋のどこにでも特大のシャンデリアが煌々と輝き、家具調度品や食器に至るまでビクトリア朝、ベルサイユ宮殿をそのまま再現したように派手に飾り立てていた。

1977年、犬の調教師をしていたスコット ソーソンは 友人に誘われてラスベガスでピアニスト リベラーチェのショーを見たあと舞台裏を訪れる。ひと目でソーソンを気に入ってしまったリベラ―チェは 強引にソーソンを自分の秘書になってもらいたいと求める。父と子ほどに年齢が離れているにもかかわらず二人は愛し合うようになり、ソーソンはリベラーチェの身の回りの世話から ショーにまで一緒に登場するようになり、互いになくてはならない関係性を築き上げる。

リベラーチェは生来の気前の良さから自分が好んで身に着けている宝石や金銀と同じものをソーソンに与え、彼のために家を買い、養子縁組までして世話を焼く。若いソーソンは時として、自分の好きな時間に外出して、普通の人のように友達付き合いもするふつうの生活をしたい、今の生活には自由がない、と苛立つときもあるが、リベラーチェの情愛の深さに、自分もまた全力でリベラーチェにつくして生きようとする。二人の愛情生活は5年余りの間、続く。

しかしソーソンが 姉の葬儀のために田舎に帰っている間に、寂しさに耐えられなくなったリベラーチェは若いダンサーに心を移す。絶望するソーソン。リベラ―チェがすべてだったのに、と叫びながら耐え難い痛みから、ソーソンはアルコール中毒に身を落とす。
5年経った。ソーソンは自分を取り戻し、平穏な生活に戻っている。ある日、リベラーチェから電話がかかってくる。電話に応じて、ソーソンがリベラーチェを訪ねてみると、たくさんの使用人を抱えて豪華絢爛だった屋敷は見る影もなく、彼は死の床に居た。二人は溢れる思いで語り合う。そしてリベラーチェは人生で一番幸せだったソーソンとの生活の思い出に、自分がいつも身に着けていた指輪をソーソンに与える。ほどなくしてリベラーチェの死が伝えられる。エイズだったが、死因は発表されなかった。というお話。

監督ステーブン ソダバーグは スウェーデン系アメリカ人。
1989年「トラフィック」で、アカデミー監督賞受賞。史上最年少26歳の受賞だった。アメリカの暴力社会、人種差別社会や警察内部の不正を描いていて、良い映画だったので、社会派の監督かと思っていたが、このあとは、「オーシャンズ11」(2001年)、「オーシャンズ12」(04年)、「オーシャンズ13」(07年)で成功。2008年になって、チェ ゲバラのバイオグラフィー「チェ」を製作した。「チェ」は前篇、後篇と合わせると6時間あまりの長編映画。オーストラリアでは公開されなかったので、台湾でヴィデオを求めて、誰もいない日に、ソファのまわりに昼食、夕食、おやつ、飲み物を準備して一挙に観た。素晴らしい作品だった。今回のこの映画も、とても良い。芸達者な二人の役者がそれぞれとても良い味をだしている。

マイケル ダグラスは68歳。ベラルーシ出身でユダヤ系アメリカ人俳優、カーク ダグラスの息子。「ウォール街」(1987年)でアカデミー主演男優賞、「ローズ家の戦争」(1989年)、「ブラックレイン」(1989年)を主演、これは松田優作の最後の作品にもなった。
1979年に映画「チャイナシンドローム」を製作出演したが、これはマイケル ダグラスが反原発活動家として原発の危険を予告したという意味で、記憶に残る。ジェーン フォンダがこの映画を主演したために、ジェネラルエレクトリック(GE)は 怒ってすべてスポンサーから下りると、公言したことでも話題になった。しかし、この映画公開日、1979年3月16日から12日後に、ペンシルバニア、スリーマイル島で原子力発電所で、原子炉炉心がメルトダウンする事故が起こった。あたかも映画が事故を予言したかのような形になったことで、映画としては全然イケてない映画だったが 映画史上に残る作品になった。

マット デーモンは、頭脳明晰、正義のために戦う強い男か、立派なお父さんの役ばかり主演してきた。リベラーチェににじり寄られて毒牙にはまって、遂に心まで奪われていく心優しい青年の役を好演。全裸シーンが多いけれど68歳のマイケル ダグラスも40代のマット デーモンも若い体に感心。二人の男の関係がとても自然に描かれていて好感がもてる。表も裏もない純真な男と男の関係が、切なくて優しくて とても良い。
リベラーチェに限らず、シャンデリアのように輝くスターの生と死のストーリーは 輝いているときには美しいだけに悲しい。エイズで死の床にあってもなおソーソンの目からみるとリベラーチェは輝いて見えている。彼が棺に納められているときでさえソーソンには、舞台で輝いているリベラ―チェしか見えていない。本当に本当にソーソンには「リベラーチェがすべて」だったのだ。そして、二人は本当に愛し合っていたのだ、ということがわかってホロリとする。

マット デーモンははじめ動物調教師をしていたころは がっしりしてちょっと太り気味、顔も四角だったのがリベラーチェに望まれて 痩せて顔もシャープな顎の顔に変ってくる。ハリウッド映画の化粧係のテクニックにつくずく感心。どんな顔でも作れるんだなあ。びっくりだ。
この世では、あつい男と男の友情に涙する男がたくさん居るのに、男同士の結婚を嫌う男が多いのは どうしてだろう。全然理解できないよ。オーストラリアでも、日本でも早く同性婚を立法化するときだと思う。


2013年7月9日火曜日

映画「マン オブ スチール」 スーパーマン

   
    




脊損と呼ばれる脊髄損傷は、数ある病気や怪我の中で 最も患者にとって過酷な疾患と言える。
脊髄を含む中枢神経は、損傷を受けると二度と再生しない。どんなにリハビリテーションをしても回復することはないので、残った機能を最大限に使って日常生活ができるように指導されるだけだ。井上雄彦の漫画「リアル」を読んでいる人は もうみんな知っていると思うけど、患者にとって過酷なのは、頭は頭脳明晰なのに、体が動かないこと。バイク乗りやスポーツで事故にあうことが多く、患者が若い活発な人が中心だという意味でも 患者にとって過酷な疾患だ。
脊髄を包んでいる脊椎骨は、7つの頸椎(C1-7)、12の胸椎(TH1-12)、5つの腰椎(L1-5)と、仙椎、尾椎からなっている。腰椎を痛めると下肢麻痺になり下半身の感覚が失われ、歩くことも排尿、排便も自分でできなくなる。損傷が椎骨の上に行くほど、麻痺する範囲も広くなり障害も深刻になる。一般に、C2を損傷すると即死、C3を損傷すると呼吸するための横隔膜筋が麻痺するため自発呼吸ができなくなり、人工呼吸器装着なしに生存することができなくなる。

世界でたったひとり、C3から上を損傷したにもかかわらず、奇跡的に人工呼吸器なしに自発呼吸できるようにまでなり、特殊装置で話ができるようになって、映画に主演し、最後まで社会活動を続けた立派な人がいる。クリストファー リーブ。スーパーマンを主演した役者だ。
彼は、1995年に落馬事故に合って以降、四肢麻痺で、人工呼吸器に縛り付けられる寝たきりの苦しい状況を、懸命に支える妻子の期待に答えて、何度も感染症になりながらも、障害を一つ一つ克服してきた。呼吸をして、話ができるまでになり、映画「裏窓」を主演し、電動車椅子で自分で移動できるようになった。しかし、2004年10月、重度の感染症をおこして遂に 52歳で亡くなった。彼を支えてきた妻ダイアナも、肺癌で、44歳で夫の後を追うようにして亡くなった。

短い間だったが公立病院のスパイナル ユニット(脊損病棟)に居たことがある。婦長も年長の人格者だったが 独特の家庭的なあたたかい空気の病棟で、アンという60過ぎたナースが居た。3人の男の子の母親で、長身、がっしりした体格。「わたし、この職場が大好きで、離れられないわ。とても引退なんて考えられない。だって患者たちはいつも私のところに帰ってくるんだもの。」と言っていた。事実、患者たちは重度障害者として自宅に帰って生活しているが、感染症を起こしやすいので、頻繁に病院にもどってくる。高熱でふうふう言いながら「ママー また帰ってきちゃったよー。」と、救急車で搬送されてくる患者をいつもアンはしっかり抱きしめていた。おじさんもおばさんもテイーンの男の子も、みんなアンに抱きしめられて、幼児のように嬉しそうな顔で身を任せている姿が、忘れられない。

クリストファー リーブはコーネル大学を卒業し、ニューヨークジュリアードで演劇を学び、ロンドンに留学した末、パリでコメデイフランセーズに籍を置いていたこともある。1978年に映画「スーパーマン」に抜擢されて、4本のスーパーマンシリーズを主演した。
1995年の事故で脊髄損傷をしてからの9年間は、文字通りのスーパーマンとして世界中の脊髄損傷患者や家族たちの希望の星として生きた。彼の主演作は、

「スーパーマン」1978年
「スーパーマン2冒険篇」1981年
「ス―パーマン3電子の要塞」1983年
「スーパーマン4最強の敵」1987年

クリストファー リーブの「スーパーマン」1-4シリーズが終了して、彼の死後、2006年に「スーパーマン リターンズ」が公開された。新人ブランドン ルースがスーパーマン役で、ケイト ボスワースが相手役のルイス レーン記者になって、1から4までの前作のストーリーをそのまま継承し進展させた。すなわち、ルイス レーン記者が結婚して、喘息持ちのひ弱な息子を持っている。実は、その息子は、スーパーマンとの間にできた息子で、悪役レックス ルーサーに襲われたとき、危機一髪のところを潜在的パワーをもつ息子が 母親を守る。それなりに、良い映画だったが続編は作られなかった。

新しくクリストファー ノーランの発案で製作された「マン オブ スチール」3Dは、1978年以来の今までのスーパーマンのストーリーを 一切継承しない。全く初めから原作に立ち返って作られた。だから、あの有名な輝かしい曲、ジョン ウィリアムズの「スーパーマンのテーマ」音楽は 聞くことができない。
原作:ジョー シャスターと、ジョリー シーゲル
製作:クリストファー ノーラン
監督:ザック スナイダー
キャスト
クラーク ケント(スーパーマン):ヘンリー カヴィエル
実父ジョー エル         :ラッセル クロウ
養父 ジョナサン         :ケビン コスナー
養母 マーサ           :ダイアナ レーン
ルイス レ-ン記者       :エイミー アダムス
ゾッド将軍             :マイケル シャノン
ストーリーは
地球から離れた惑星クリプトンは、優れた文明と科学を持った社会だったがクリプトンの太陽は恒星としての寿命が近ついていた。クリプトンの科学者ジョー エル(ラッセル クロウ)は 危機が迫っていることを警告するが、軍を掌握するゾッド将軍に、政府に謀反を起こすために危機をあおって入ると疑われて、殺される。その前にジョー エルと妻によって生まれたばかりの赤子 カル エルは宇宙船に乗せられて超高速で地球に向かい、不時着する。カンザスの農地に激突して大破した宇宙船は、通りかかった老夫婦ジョナサン(ケビン コスナー)とマーサ(ダイアン レーン)に回収され、赤子は夫婦の養子として、クラーク ケントという名前を付けられて、大事に育てられる。しかし成長とともに、クラークは他の子供と違うことに気が付いて、悩みの多い学校時代を過ごす。養父が亡くなった後、ケントは、自分の居場所を探そうと家を出てひとり放浪する。

しかしジョー エルを殺したことで罪に問われて他の惑星に拘禁されていたゾッド将軍一味は、地球に送り出されたカル エルを探し出して地球を乗っ取ろうと画策する。宇宙船でやってきたゾッド将軍に対抗して、地球を救うためにスーパーマンは、、、。
というお話。

すさまじい破壊の連続にびっくりした。スーパーマンとゾッド将軍が一発殴り合っただけで 六本木ビルが20個くらいぶっつぶれて火に包まれる。殴られれば殴り返す。延々と破壊が続けられる。デスマッチをするなら ユタとかイエローストーンとか砂漠でやれよ、と言いたくなる。地球存亡の危機に、こんなことを言って申し訳ありませんけど、でもスーパーマンが投げ飛ばされるだけで高層ビルがいくつもいくつも潰れて壊されるって、何だろう。ビルの中にも下にも何百人何千人もの人が生活しているわけでしょう。スーパーマンもゾッド将軍もエイリアンなんだから 成層圏を超えた宇宙空間で殴り合って決着をつけてもらいたい。
アメリカ人は派手に ビルが壊れたりパトカーがひっくり返って火を噴いたり、橋が壊れて沢山の車が川に落ちたり、飛行機が不時着して火達磨になったりするのを見るのが好きかもも知れないけれど、度が過ぎる破壊を見るのが耐え難い。人間の英知の結晶のような文化が 一瞬のうちに破壊されるのをみて、すっきりした気分になれる人々って、かなり病気ではないだろうか。

新しいスーパーマンは、かなり個性派のハンサム。表情によって美男にみえたり醜く見えたりする。好き嫌いがはっきり分かれるだろう。
デイリープラネット紙のルイス レーン記者をエイミー アダムスが演じていたが これも原作のイメージとずいぶん離れる。この記者は仕事はできるが、おっちょこちょいで単語のスペルを間違えてばかりいる。ちょっと抜けているところが可愛い記者なのだが、今回のルイスはちっとも可愛くない、気が強いだけの女だ。
ラッセル クロウの実父、アイレット ゾラ ララローの実母、ケビン コスナーの養父、ダイアン レインの養母、デイリープラネット紙編集長のローレンス フィッシュバーン、ゾッドのマイケル シャノンの配役は良かった。ケビン コスナーの実直な農夫のお父さんぶりには感服。

総じてクリストファー リーブのスーパーマンを知らない世代の若い人たちにとっては 3Dだし、充分楽しい娯楽映画だ。

しかし脊損になっても戦い続け、戦いの末、力尽きて若くして死んでいった 永遠のスーパーマン、クリストファー リーブを知っている人にとっては、新スーパーマンは ごみ箱行きかもしれない。


2013年7月6日土曜日

映画 「ワールドウオーZ]

          
        


原題:「WORLD WAR Z]
原作:2006年に出版された、マックス ブルックスによる同名の小説
監督:マーク フォースター
キャスト
ゲーリー レーン:ブラッド ピット
妻、カレンレーン:ミレイユ イーノス
スピーク隊長  :ジェームス バッジデール
ネイビーSEALS隊長:マシュー フォックス
イスラエル女兵士 :ルーシー アハリシュ
ブラッ ドピットの映画製作会社、プランBエンタテ―メント製作
日本では8月10日に公開予定

映画の話から逸れるが、ブラッド ピットのパートナー、37歳のアンジェリーナ ジョリーが乳癌予防のために両乳房切除と乳房再建手術をしたと、発表をした。彼女のようなビッグネームの女性が、このような形で勇気ある発言をしたことによって、人々に乳癌予防や啓蒙をし、乳癌患者に勇気を与えることになった。とても立派なことだと思う。日本は先進国の中で、最も乳癌罹患率の低い国だが、アメリカでは昨年1年で、23万人の人が新たに乳癌の診断を宣告され、4万人が亡くなった。乳癌は、癌のなかで最も遺伝性が証明されており、遺伝子に「BRCA1」と「BRCA2」を持つ人は、乳癌に罹患する確率が87%。2等身以内の親族に50歳以下で乳癌に懸った人が多い場合は、確率はもっと高くなる。BRCA遺伝子を持つ人は、一般の人の10-19倍 乳癌に罹りやすい。私の仲の良い看護婦も BRCAを持っていて、いつかは必ず乳癌を発病すると分かっているので、結婚も子作りもしないと、決意している。でも、そんな人ほど、子供好きで、どこに行っても子供から好かれて、まつわりつかれたりしていて、見ていて悲しくなる。
このような人の場合、両乳房切除によって、乳癌罹患率を5%に下げることができる。欧米では、すでにたくさんの人が、アンジェリーナのように、切除にあたって、両乳頭も 乳輪も、乳房の皮膚も温存したまま切除して、乳房再建をしている。乳房のわきに切れ目が入るが、術創は前から見えないし、胸の開いた服を着ることもできる。アンジェリーナは、「子供たちの為に長く生きたい」と、手術を決断したそうだが、本当に勇気ある決断と、勇気ある発表だった。こういう人を、心から応援したいと思う。

さて、映画だが、ブラッド ピット主演、製作のゾンビ映画。
ストーリーは
国連の調査官、ゲイリー レーンには妻と二人の小学生の女の子が居る。ある朝、フィラデルフィアの自宅から、いつものように車で子供たちを学校に送る途中で、ひどい渋滞に巻き込まれる。車ごと身動きできなくなっていると、突然、人々が車を捨てて逃げ出し始める。凶暴なゾンビ集団が襲ってきて、次々と車が破壊され、人々が噛みつかれる。ゾンビに噛まれた人は いったん死んで12秒すると生き返り、凶暴なゾンビとなって人を襲い始める。ゲイリーは機転をきかせてトラックで 家族を連れて逃亡するが、途中、軍のヘリコプターに拾われて、海上に停泊する米軍の航空母艦に収容される。アメリカ大統領は、すでにゾンビに襲われて死亡、米国全土は ほぼゾンビに占領されていた。逃げ切ることができた人だけが海に浮かんだ航空母艦に居住する状態になった。

国連の特殊機関で働いているゲイリーは、軍の司令官から、ゾンビを放逐するために原因を探り対策をたてるように命令される。ゾンビは ウィルスが原因で、咬み傷から感染して、発病するらしい。最初にゾンビが発生した土地に行きゾンビに対抗できるワクチンを探さなければならない。ゲイリーは、まず海軍SEALSの担当官と一緒に、韓国に飛ぶ。どこに行っても、ゾンビが待ち構えている。危険に身をさらしながら、わかったことは、北朝鮮に武器を売り込もうとして入国した元CIAのアメリカ人が最初にゾンビに接触したことだった。より詳しい情報を得るために、ゲイリーは、次にエルサレムに飛ぶ。エルサレムでは、高いコンクリートの壁に囲まれた安全圏が建設されており、様々な宗教や異なる国の人々が収容されていた。しかし、安全圏の中の人々が一斉にお祈りを上げ始めると、急に安全圏外にいる何万人ものゾンビが凶暴化して、壁を破り安全圏になだれ込んできた。ゲイリーは イスラエル女兵士ひとりだけを連れて辛くも脱出、しかし 安全なはずの飛行機にも、新たにゾンビになった乗客がいて、みるみるうちにコックピット以外は、すべてゾンビに支配されてしまう。ゲイリーは機長とともに、ゾンビに破壊された飛行機を不時着させる。しかし、失敗して航空機は爆発する。

生き残ったゲイリーとイスラエル女兵士は、怪我をかばい合いながら、WHOにたどり着く。WHOの建物も、ゾンビに占領されており、ほんの数人の研究者が、一室に閉じ込められていた。WHOの生き残り研究者の話から、研究者が開発したゾンビウィルスを不活性化するワクチンが、開発中であることを ゲイリーは知らされる。しかし、ワクチンは 安全圏である部屋からは、遠い冷蔵庫に保管してある。どんなことをしても、ワクチンを保管庫から出して、ゾンビウィルスに対する免疫を作らないと人類は生存できない。このままでは、人類は滅亡してしまう。ゲイリーは、意を決して保管庫に向かう。しかし、凶暴なゾンビに囲まれてしまって、、、ゲイリーは、、、。
というお話。

世界中にゾンビウィルスが広がってしまって、非感染のまともな人間がほんのわずかしか居なくなってしまう。咬み傷によって感染し発病したゾンビは 凶暴化してあっという間に人々を襲ってゾンビウィルスをまき散らす。救命方法はワクチンだけ、という設定でストーリーが進行していって、ハラハラするが、どんどん人が死んでいく中、ブラッド ピットだけは、絶対死なない。さすがだ。
最後のほうになって、生き残ってワクチンを打った人々が、反撃に出て、何十万人、何百万人というゾンビをフィットボールスタジアムに追い込んでミサイルか原爆か、水爆化、化学兵器かなんかで ドキューンと皆殺しにするシーンがある。強力マシーンでバリバリとゾンビを殺すシーンも延々と続く。とても暴力的な映画だ。ゾンビは強力兵器で、完全に破壊殺害しないとね、、、。と、しかし、ゾンビはふつうの人間だった人たちでしょう。昨日まで、自分たちの親であり、兄弟だった人たちでしょう。それを球場に追い込んで一人残らず皆殺しにするって、どうなんだ。なんてことをするんだろう。仮に凶暴で襲ってくるにしても、ウィルスが原因で凶暴化した人を こんな風に処分してしまって良いのだろうか。見ていて、つらくなる。

余りに科学的でない、非現実的なストーリーなので 批判するよりもあきれてしまう。疑問点。
1)  病原菌が同じでも、人はそれぞれが異なるように、症状も異なって現れる。この映画のように咬まれて12秒後に 同じパターンで誰もが発病して凶暴化するという設定には無理がある。
2)  ゾンビに手を噛まれたイスラエルの女兵士を ブラッド ピットは その場で手を叩き切って命を救うが、咬まれた傷口から 感染ウィルスが血液を通して心臓や脳に行くのに1秒かからない。手を切り落とす前に すでに感染しているはずなので救えるとは思えない。また手を叩き切って、動脈を切っているから、映画でピットがちょいちょいと包帯したくらいでは、止血できると思えない。
3  )これほど情報化が進んだ社会で、世界中一つのウィルスで同時多発的に、ある日、突然社会がゾンビに乗っ取られることはあり得ない。地球には時差もあるんだし、、。映画ではいつものように家族が学校に行く途中ゾンビが降ってわいたように世界を制覇してしまい、その前に何の情報も前兆もない。あり得ない。
4)  ひとりが10人の人を噛んだとしても 世界中には68億人の人がいる。突然ゾンビが世界を乗っ取ることは、できなくて、もっと時間をかけてゆっくり感染、発病、波及していくはず。

似たような「宇宙戦争」原題「WAR OF THE WORLD」という2005年のトム クルーズ主演、ステーブ スピルバーグ監督の映画もあった。あれも、これも十分馬鹿っぽかった、B級映画だ。トム クルーズが、走らせればトムよりは 速く走れそうな7歳くらいの ダコダ ファニングをしっかり抱いて遅くなった足で エイリアンから逃げ惑う姿には笑ったが、今回も、ピットが大きな娘を抱いて逃げ回る。子供は抱かないで、走らせなさい、、、というか、自分が3歳の孫の世話を1日しただけで腰が痛くなってふらふらしているだけに、誰かが子供を抱いて逃げるシーンを見ただけで腰骨がきしみ出す。

この映画、ブラッドピットのゾンビ映画だから見た。これをB級恐怖映画と評するか、コミカル喜劇として笑うか迷う。
しかし49歳になったピット、いつもとてもナイスだ。家庭想いの優しくて強いお父さんの役を演じていて、実際のピットも 家でこんな立派なお父さんなのだろう、と思わせる。こんな映画でも、絶体絶命のとき「僕が戻ってこなかったら、家族を愛してるって伝えて。」などどいうシーンがあって、思わず涙を浮かべてしまう。ハリウッドが高いお金と、一流の役者を使って作ったB級映画。
まあ、だけど、ピットが出演してたくさん稼いで、そのお金がアンジェリーナ ジョリーの勇気ある手術や予後の医療に使われたり、彼らのプロジェクト、アフリカの婦女子教育に使われるのなら それはそれで良しとしよう。

2013年7月4日木曜日

映画 「マリーアントワネットに別れをつげて」

                                    


原題:「LES ADIEUX A LA REINE」
英語版タイトル:「FAREWELL MY QUEEN]
邦題:「マリーアントワネットに別れをつげて」
原作:シャンダル トマの同名の2002年ベストセラー小説
監督: フツワ ジャコー
キャスト
マリーアントワネット:ダイアン クレイガ―
シドニー朗読係:レア セドウ
ポーリヤック夫人:ヴィルジニー ルドワイアン

本当に本当のヴェルサイユ宮殿で撮影したフランス映画 ということで、是非観なければと思って観に行った。日本では、この映画、去年の12月に公開されたらしいが、シドニーでは今になってやっと、ハリウッドものでなくマイナーな外国映画を上映する小劇場で、短い期間だけ上映された。
ヴェルサイユを管理する公団が、この映画製作に全面協力し、2か月間休館日の月曜日と平日の日暮れ以降の夜間に、撮影が行われたという。ヴェルサイユの使用料金、、、1日2万ユーロなり。
ヴェルサイユは、パリを旅行したときに訪れたが、グループ旅行の悲しさで通り一遍見て、通り過ぎただけで、ゆっくり見る余裕がなかった。ルイの寝室に飾ってあった画をもう一度 フイルムで見られるだろうか、庭園の様子を当時の人々がどんな風に楽しんでいるだろうか、もう一度じっくり見たかった。映画製作にあたって キャストなどの人件費よりも、ヴェルサイユ使用料の方が 費用が掛かったのではないだろうか。 映画には、「ヴェルサイユ最後の3日間を、マリーアントワネットの朗読係シドニーの目から見た宮廷歴史物語」という説明がついている。

スト-リーは
1789年7月14日、バスチーユ牢獄襲撃の日から、この映画が始まる。この日、パリから遠く離れたヴェルサイユでは、王侯貴族たちは普段と変わりない生活を楽しんでいる。アントワネットは、お昼寝の時間に朗読係シドニーに本を朗読させるが、移り気な王妃は すぐに飽きてファション雑誌を取り寄せて、注文するドレスの相談をしている。アントワネットを敬愛するシドニーは、王妃のためなら何でもしたいと思っている。その気持ちはほとんど恋に近い思いだ。侍女にアントワネットが注文したダリアの刺繍を自ら引き受けて、心をこめて刺繍する恋する乙女だ。
王妃はポーリヤック夫人を特別に気に入っていて、自分の思い通りにしたいと思っているが、ポーリヤックは、それほど王妃に執着していない。そういった二人のやりとりを覗きみているシドニーは、王妃に同情を、ポーリヤックには嫉妬をしていて、心穏やかではない。

やがて蜂起したパリ市民は ヴェルサイユに処刑リストを送りつける。286人のギロチンリストを見て卒倒するものが続出する。勿論国王と王妃がリストのトップに挙げられている。宮殿は急に不穏な雰囲気に包まれる。浮足立って、夜の闇にまぎれて逃げ出す貴族たちが沢山いる。それを見てわれ先にと召使や近衛兵までもが 逃亡を始める。神父やシドニーに教育を施してくれた図書係のモリエール氏や 仕事仲間も次々と立ち去った。しかし、シドニーは 王妃に忠誠を誓っている。心から恋焦がれている王妃のために最後の最後まで付き従っていきたいという気持ちに揺ぎは無い。
しかし王妃はポーリヤック夫人がギロチンリストに入っていることに心を痛め、彼女を宮殿から脱出させ、オーストリアに逃す計画を立てる。シドニーを呼びつけて、ポーリヤック夫人の身代わりとして、彼女ののドレスを着せ、ポーリヤック夫婦には使用人の服を着せ、宮殿から脱出することを命令する。シドニーは、心敗れて、貴族の服に身を包み、愛する王妃に送り出されて、恋敵のポーリヤックの身代わりとして馬車に揺られて行くのだった。というお話。

ヴェルサイユ宮殿の あの豪華絢爛な鏡の間で、ルイ16世が貴族たちに危機的な現況を語る場面がある。シャンデリアが燦然を輝いている。アントワネットが自分のベッドでゴロゴロしながらシドニーに本を読ませるシーンや、暖炉のある寝室で、ギロチンリストを火に放り込むシーンもある。興味深いのは使用人たちの専用通路や、使用人部屋だ。当時は灯りが貴重だったので 廊下や調理室に窓の灯り取りがついているが、それでもとても暗い。暗い食堂に、使用人が交代でスープとパンの食事をとりにきて、情報を交換したりゴシップに明け暮れる。そんな暗いところを浮き足たった人々がごった返しててんやわんやになる雰囲気がよく伝わってくる。

ヴェルサイユ宮殿はルイ14世によって莫大な予算を使って建設された。宮殿建設に2万5千人、庭園に3万6千人の労役が投入された。どうしてそんなに大きな宮殿が必要だったかというと、ルイ14世は、10歳の時「フロンドの乱」で、貴族たちに命を脅かされた経験をもっていたので反乱を予防するために、貴族をヴェルサイユに強制的に移住させたからだった。単なる散財ではなかったのだ。しかし太陽王、ルイ14世の大盤振る舞い以降、ルイ16世即位のときにはすでに フランスは慢性財政難に陥っていた。にも拘らずルイ16世は、イギリスの勢力に対抗するためアメリカ独立戦争を支援し、財政を一層困難にする。三部会を招集し、貴族勢力に対抗する平民層に政治参加の機会を与えた結果が、市民蜂起の力を呼び起こす結果となった。

マリーアントワネットは、オーストリア大公フランツ1世とマリア テレシア皇后の娘で、当時敵対していたプロイセン王国の威勢からフランスとの同盟強化する必要があったために、人質として15歳で フランス王ルイに嫁いできた。ひとり外国に送られてきた孤独を紛らわせるためにギャンブルに興じたり散財を欲しいままにして浪費をした。お気に入りのポオーリヤック夫人に年金の下賜金として年間50万ルーブル(30億円余り)を与えていた。おまけに王権が剥奪されたあと、フランス王妃として誇りをもって市民の裁きを受けると、言っておきながら、オーストリア貴族の変装してオーストリアに逃げようとしてヴアレンスで捕まって(ヴェレンス事件)、完全に市民から憎しみを対象にされる。断頭台への道は、歴史の必然だった。

映画で、マリー アントワネットを演じたダイアン クルーガーは、クールビューテイーの役柄によく合った美人だ。2006年に ソフィア コッポラが「マリーアントワネット」という映画を作って、アントワネットにクリステイン ダンストを登用した。この品のない庶民の代表みたいな顔をした女優の登用には驚いたが、今回のクルーガーは、王妃らしくて良かった。しかし、主役の朗読係シドニーを演じたレア セドウーという17歳のフランス女優だが、なんと表現力のない大根女優であったろう。顔の表情もひとつしかなく、およそ喜怒哀楽も抑揚もない。王妃に恋をしているのに、恋敵の身代わりになって自分の身を危険にさらすことになった、恋心敗れる哀しい、絶望的な女の役だが、この女優は出てきた時から最後まで、重度のうつ病みたいな顔ひとつで通した。プラダの香水のコマーシャルに出ているらしいが、やっぱり笑っていないで 哀し気な顔をしている。一体何だ。役者としてやっていきたいならば、次回は喜劇でも演じてみて、表現するということの大切さを知って自分を磨いてもらいたい。

ヴェルサイユで撮影したフイルムということだが、本物のヴェルサイユだから一番良い映画ができるはずだと思ったら間違いだ。映画とはフェイクの世界だ。本物を使って本人が演じたら上出来かというと、そうではない。フェイクの役者が作り物のセットで演じた方が本物らしく出来上がるのはなぜか。それは、映像という手段によって、本物以上のものを効果的に見せようという監督の意思が通じるからだ。ドキュイメンタリーでない限り、映画は映像を通じて、どう表現したら人に本物以上の本物を伝えることができるか監督の手腕にかかっている。
この映画、本物のヴェルサイユで撮影したが、ヴェルサイユの豪華さや、歴史の重みを観て感じることができなかった。監督の力量不足ゆえだろう。

2013年6月24日月曜日

沢木耕太郎の「キャパの十字架」

          



うーん、この本には唸ってしまった。タイトルの後に こんなセンセーショナルな本の紹介がついている。
ー「世界が震撼する渾身のノンフィクション、、、戦争報道の歴史に燦然を輝く傑作「崩れ落ちる兵士」、だが、この作品はキャパのものなのか、76年間封印されていた真実が遂に明らかになる。」ー
私はキャパが好き。そして岡村昭彦も好き。二人ともベトナム戦争で不条理な戦争を告発するためにカメラをもって戦場に入り、キャパは帰ってこなかった。キャパの「ちょっとピンボケ」と、岡村昭彦の「兄貴として伝えたいこと」は、間違いなく私の愛読書に入る。

たった一枚の写真が人の生き方を変えてしまうことがある。実際に起こっていることを切り取った写真には、百の言葉や評論や解説や言い訳よりもインパクトが強い。強力なメッセージを含んだ写真は、起こった事実以上のものを人に訴える力を持つに至る。報道写真家の中で、従軍カメラマンの作品ほど事実を事実以上に伝えるものはないだろう。ちょっと思い返してみるだけで、報道されて有名になった何枚もの写真が思い浮かぶ。ベトナム戦争で米軍に拘束され、頭を撃ち抜かれる瞬間の少年を撮った「べトコン」の写真、ナパーム弾で家族も自分の着ていた服まで焼き尽くされて大やけどを負い、泣き叫びながら避難路を歩く全裸の少女。アフリカ、ソマリアの飢餓を撮った「ハゲワシと少女」。

そして、ロバート キャパの代表作、スペイン戦争の「崩れ落ちる兵士」。これはスペイン共和国兵士が、敵であるファシスト反政府軍の銃撃に当たって倒れるところを撮った作品とされていた。スペイン共和国が、やがて崩壊し、共和国を守るために従軍した兵士の栄光と誇りを象徴する写真として最も有名な戦争写真。アメリカの写真週刊誌「ライフ」にも掲載された、キャパが22歳の時の作品だ。この年だけでも50万人の死者を出したスペイン戦争の悲惨さは、世界中から共和国を守る為に志願して実際参戦した、作家のアーネスト ヘミングウェイや、ジョン オーウェル、アンドレ マルローなどによっても伝えらた。しかし、この共和国側に対して フランコ将軍率いるファシスト王党派が3年に及ぶ内戦で勝利し、共和国は崩壊する。当時、画家のピカソが、描いた「ゲルニカ」も、 このキャパの「崩れ落ちる兵士」の写真はスペイン戦争の悲惨さを世界に知らせる強力なメッセージだった。

沢木耕太郎は、1986年に、リチャード ウィーランの初めての本格的なキャパの伝記「ロバート キャパ」の翻訳を任される。それと同時にキャパの決定版写真集「フォトグラフス」も翻訳依頼される。その後、伝記は「キャパその青春」と「キャパその死」という2冊の本になり、写真集は「ロバートキャパ写真集、フォトグラフス」というタイトルで、日本語で出版される。沢木はキャパの生い立ちから死に至るまでの軌跡を調べるにつれて、キャパの代表作でカメラマンとしての契機になった「崩れ落ちる兵士」の写真が、いつどのような過程で撮影されたのか、疑問に思う。ネガが残っていないし、本人がこの写真についてだけは、問われても何の説明もしようとしなかった。

沢木は、キャパについて書かれたすべての書籍を検証する。2002年、アレックス カーシュウ「血とシャンパン」、2007年リチャード ウィーラン「これが戦争だ」、2009年J M ススぺレギ「写真の影」など。著者に会い、崩れ落ちる兵士の身元を確認するために当時、キャパが従軍していた戦地に何度も足を運び、家族の証言を得る。地元の郷土史家や、当時の学校の先生や、森林調査官らに会い調査した末、沢木はキャパが写真を撮った場所と日時に確証を得る。正確に「崩れ落ちる兵士」が撮影された日時に、その場所では戦闘はなかった。そこでわかったことは、「崩れ落ちる兵士」の写真は、戦闘を写したものではなく、軍の演習風景を撮影したものだということがわかる。「やらせ」だというのだ。

沢木は、同じ時に「演習」を撮影したほかの30枚の写真を徹底的に調べる。一枚一枚の写真が、どのようなアングルで撮られ、兵士達がどの方向から敵を狙い、敵がどの方向に居て、キャパはどこでカメラを構えていたのか。
当時まだ存命していた 作家、大岡昇平に、これらの写真をみせて、それらが実戦か演習の写真かを問うと、銃の構え方を見ただけで実戦経験のある作家が、たちどころに「演習ですよ。」と言い切るシーンは、印象的だ。また、連合赤軍で、懲役刑に服したことのある雪野健作に教わって、銃撃を受けた兵士が写真のようにのけぞって倒れるかどうか、を実弾の速さと重さから計算して、物理学的には、当時の銃弾に当たっただけで 写真のようにのけぞって倒れることはあり得ない、という結論を出すところも、感動的だ。

2010年に沢木は現地に飛び、郷土史家に会う。この人はキャパの写真が キャパのライカではなく、もうひとつのキャパのカメラ、ローライフレックスで撮られたものだという。2011年にも 沢木は再訪して、雲の動きや写真による影から、30枚の写真を撮った 順番を同定する。そして崩れ落ちる写真が撮られた時、同時に別の方向から同じ人物が撮られていることが確認する。写真は2台のカメラ、2人の人物によって撮られていた。カメラは、ライカとローライフレックスだ。カメラマンは、キャパと、その頃二人でいつも一緒にいたキャパの恋人ゲルダジローだ。
沢木はキャパが持っていたライカ3Aと、ローライフレックススタンダードを手に入れて、実際に同じところで何十枚もの写真を撮る。またパリに飛んで、写真の原板を掲載した当時の雑誌を、パリ国立図書館で探し、さらに渡米してマンハッタン国際写真センターで 当時掲載された雑誌を調べる。ニューヨークのカメラマンから ローライフレックスの特徴を聴くことで、写真はローライフレックスで撮られたことに確証が得られる。

そしてわかったことは、その日、軍事演習風景を、キャパとゲルダの二人が、ライカとローライフレックスで撮影していたこと。同じ場所、同じ構図で、カメラを構えていた二人の前で、坂道を銃を構えて行進してきた兵士の一人が滑って転んだ。キャパのライカは 行進する兵士とその横をまさに転びそうになった兵士を捉えた。しかし一瞬遅れたゲルダのローライフレックスは、滑って転ぶ一瞬を捉えた。、、、「崩れ落ちる兵士」は、ゲルダが撮った写真だったのだ。
当時の写真は、現実にどう映っているか 本人たちは確認できなかった。撮り終えたフィルムはロールのまま雑誌社に送られる。そこでどんな評価がなされるかは、戦地にいるキャパとゲルダは、知る由もない。

この時、キャパは22歳。ゲルダは、このあと戦場に残り共和軍の戦車が暴走してきた事故で命を落とす。26歳だった。遺体がパリに運ばれると、葬送に数千人の市民が付き添ったといわれる。キャパはこの写真で有名になった。しかし写真について説明を求められても、無言で通した。

キャパの「崩れ落ちる兵士」は、軍事演習中に、キャパの恋人ゲルダが、偶然シャッターを押してしまったために撮られた写真だった。すでに有名になってしまったキャパには ゲルダの死後、言い訳も、真実を言うことも許されなかった。黙り通しひとり十字架を背負って、戦争写真家として前に進むしか道がなかった。キャパは その後、日中戦争、第2次世界大戦ではヨーロッパで空襲下のロンドンを撮り、イタリア戦線に行き、ノルマンデイー上陸作戦では 第2次世界大戦で最大の死者を出した浜で次々に上陸する兵士とともに上陸して、無数のドイツ兵に背を向けて、有名な「波の中の兵士」を撮る。そして1954年フランスがインドシナに介入した際に「ライフ」の記者として派遣された北ベトナムで、地雷を踏んで死ぬ。享年40歳。

一枚の写真で人生が変わってしまうほどインパクトの大きな戦争写真の傑作が 「やらせ」でしかも「盗作」といえるようなものだった事実を解明して、沢木耕太郎が発表したことは、写真界にとってのタブーを侵したようなものだろう。スペイン人にとって受け入れがたい。ファシズムに抗して、スペイン戦争を戦った誇るべき歴史を考えれば、ピカソの「ゲルニカ」と、キャパの「崩れ落ちる兵士」は、スペイン戦争のイコンだ。侵してはならない聖域だった。

しかしキャパが偉大な戦争写真家だったことには変わりはない。ゲルダとともにスペイン戦争でファシストたちに蹂躙されていく人々の悲惨な歴史を、証人としてたくさんの写真で残した。キャパは 依然として高い評価をされるべきだ。ひとり十字架を背負って、いくつもの戦場で命をかけて、戦争の現場証人としてあり続けた。改めて、キャパの写真に見入る。しかし、沢木耕太郎も良い仕事をした。執念の数十年だったろう。