2010年10月28日木曜日

「ウィキリーク」と映画「ミレニアム2火と戯れる女」


イラク戦争に関する米軍軍事機密をハッカーして、公表したウィキリークは、現代のヒーローと言って良い。今回 公表された機密事項は 40万点。
米軍が発表したよりも はるかに多くのイラク市民が 米軍とその連合国軍によって殺されていたことも、極めて残酷な国際法で禁止されている拷問を 捕虜に行っていたことも 証拠と共に明らかにされた。
事実を隠蔽して国家としての体裁を保とうとする国と、事実を国民に公表するハッカーとの間で、今後、ますます情報合戦が激化していくだろう。
隠されていた事実が 人々の目にさらされることによって、歴史も変わってくることだろう。
ウィキリークを始めた人は クイーンズランド タウンズビル生まれの38歳、JULIA ASSANGE オージーだ。これからは、新聞を読むよりも 先に、「WIKILEAK」を読む人が増えてくるだろう。

映画の邦題「ミレニアム2 火と戯れる女」、原題「THE GIRL WHO PLAYED WITH FIRE」を観た。コンピューターハッカーの女のお話だ。
スウェーデン映画。ベストセラー小説の映画化で、ミレニアム3部作のうち、2番目の作品。「ドラゴンのタットーをもつ女」の続編。
本で読むほうが、絶対おもしろい。でも映画もすごくドキドキする。2時間あまりの映画の間 心臓がずっと早鐘のように鳴りっぱなしだった。
第1作「ドラゴンのタットーをもつ女」の映画評は、下記につけておく。

http://mixi.jp/view_diary.pl?id=1468298751&owner_id=5059993

スウェーデンは北欧福祉社会国家のモデルといわれ、ゆりかごから墓場まで国民の暮らしが 政府のあつい福祉政策で保護されている。その分だけ税金に給料の半分以上をもっていかれ 福祉社会特有のドラッグ アルコール中毒、暴力など社会の秩序を乱す犯罪は多発している。冬が長く、雪に閉じ込められる時間が長いため、精神病の発病や、家庭内暴力も多いが 徹底した個人主義のため犯罪が表に出にくい。

プロのコンピューターハッカー:リスベットと、ミレニアム編集長ミカエルはコンピューターを通じて知り合った。かつて死線を二人して掻い潜ってきた二人の間には 男と女の愛情や友情以上の 強い信頼関係が築かれている。
第1作「ドラゴンのタットーをもつ女」で、リスベットとミカエルは 人種差別に凝り固まった異常性愛の人殺しに 翻弄されたが、第2作では 国際犯罪のセックスワーカーの人身売買組織に狙われる。2つの作品を続けてみることで、リスベットが どんな悲惨な少女時代を送ってきたか なぜ彼女が無口で誰も信頼せず かたくなに孤独を守ろうとするのか、誰が彼女の本当の敵なのかが、わかってくる。

この3部作のおもしろさは パンクなハッカー女と、まじめな正義感あふれるジャーナリストのミカエルとのとりあわせの「不釣合いぐあい」にある。リスベットは一人で生きる女だから 誰も理解者も友達も協力者も必要としない。それを知っていて、ミカエルは リスベットの後を追わずに居られない。結果としてリスベットは ミカエルに助けられたり助けたりするのだけれど、そういったことでべつにリスベットは 嬉しくも何ともない。だ、けれども 居ても居なくても邪魔じゃない。そんな ふたりのコンビネーションが、とても良い「味」になっている。

ストーリーは
ロシアや東欧から送り込まれてストックホルムで働かされている セックスワーカーの人身売買を調査してきた 若いジャーナリストが ミカエルが編集長をしているミレニアムの仲間に入ってきた。若い正義感に燃えた 優秀なジャーナリストだ。
人身売買は、裏の世界で繁盛を極めているが、なかなか表に出てこない。それは 政府高官や 財界の大物が関与しているからだ。何十年も前に存在していた秘密警察まで これに関わっている。この犯罪組織を 告発することはミレニアムにとっても 命がけの大仕事になる。ミカエルは 持ち前の正義感から、熱心に組織の解明に取り組む。
ようやく、記事が仕上がったという連絡を受けたミカエルは、若いジャーナリストの家に 原稿を取りに行く。しかし一瞬の遅れで ミカエルは2人の記者の射殺死体を発見することになる。続いて リスベットの後見人の死体が上がる。死体の横に、リスベットの指紋つきの拳銃が置かれていた。

リスベットは3人の殺人容疑で指名手配される。ミカエルは リスベットの無実を確信しているが 証明することができない。リスベットは自分を破滅させようとしている犯罪組織に自分から近付いていく。なぜ、3人の殺人の罪を着せられたのか、、。巨体で先天的障害のため痛みを全く感じない 異様な殺人者に 追いつ追われつ 細身の一人の女の活躍ぶりに 息をつくひまもない。とても緊張する。
ストーリーは スリラーなので、これから読んだり観たりする人のために 話の筋をこれ以上言うことは出来ない。

映画でおもしろかったので、本を読む人も多いだろう。
パンクなハッカーが 細腕で活躍する しかもスウェーデン語で書かれた小説が どうして世界中でベストセラーになって 映画化されて高い評価をうけているのか。
ひとつには 取り上げている事件が「現代」をよく映し出しているからだと思う。コンピューター、ドラッグ、パンク、人身売買、ぺデファイル、猟奇殺人、何でもありだ。それと、国や大企業という巨大すぎて個人が太刀打ちできない力に対して、薄幸な少女時代を送った女が一人きりで 立ち向かっていく姿に魅かれるからだろう。

男に媚びない女の潔さ。
第1作の映画のなかで 好きな場面がある。リスベットが自分からミカエルのベッドに入り込み関係を持ったあと、何日かして、男のベッドで眠るリスベットの体に手をかけるミカエルに、リスベットは手を払いのけ 歯をむき出して怒る。「じゃあ、どうして自分のべっドで寝ないの?」と聞くミカエルに背を向けながら居座るリスベットを、ミカエルが優しい目ざしで笑うシーンだ。君がいてくれてもいい。居てくれなくていい。邪魔じゃない程度に居てくれるのが快適、というくらいが、理想的な関係だろうか。

男にしか出来ない仕事も、女にしか出来ない仕事も もうなくなってきた。同性婚も、異性婚も 子供を持つにしても実子も養子も そう遠くない将来全く同じ権利を法で守られることになるだろう。そうなれば男と女の結びつきも変わってくる。
あなたなしに生きられない、とか 愛に生き愛に死ぬ などというのは、オペラの世界でしか生き延びられないかもしれない。

第3作「眠れる女と狂卓の騎士」が楽しみだ。日本ではもう限られた劇場で公開されているらしい。
3作目のシドニーでの公開が待ち遠しい。

2010年10月18日月曜日

女性総督、女性首相、レズビアン閣僚




オーストラリアは世界で初めて女性に参政権を与えた国だが、それから116年もたって、今年になってやっと 女性の首相を迎えた。
労働党内部に対立があり、ケヴィン ラッド前首相との確執があり、連邦下院選挙では、与党労働党:74議席に対し、野党自由党:73議席という、たった1議席差で 辛うじてジュリア ギラード首相の首がつながった。74議席といっても 内容はグリーンの1議席と 無所属議員2人を含めての 与党主流派だから、今後も労働党だけで突っ走ることはできず、波乱ずくめだろう。
それにしても、ようやく女性首相が誕生したことを嬉しく思う。

オーストラリアは 英国国王エリザベスを元首とする 立憲君主国家だ。
憲法では英国国王の代理である「連邦総督」が 議会の開会,休会,解散、議会を通過した法案の承認、拒否、修正要求。行政の執行権、閣僚の任命、解散権、国軍の指揮権をもっている。現在の連邦総督は 初めて女性が選ばれた、クエンテイン ブライス(QUENTIN BRYCE)。彼女は、女性かくあるべしという女性の見本のような 人だ。教養高く、気品のある容姿、立ち振る舞い、身に纏っているカラフルな美しいスーツ、、、彼女の趣味の良さと、気品あふれる姿は、ダミ声、どかどか歩きのエリザベス女王とは比べものにならない。月とスッポンだ。本当に素敵な女性。

国の連邦総督が女性、首相がジュリア ギラード、そして加えて、ニューサウスウェルス州の知事が クリステイーナ カネリ、二人の男の子のお母さん、オーストラリア育ちのアメリカ女性だ。そしてまた、シドニーシテイー市長が これまた女性のクローバー モア(CLOVER MOORE)だ。

シドニーに住む私は 女性がボスの政治機構の中で生活していることになる。
連邦総督:クエンテイン ブライス
首相:ジュリア ギラード
NSW州知事:クリテイイーナ カネリ
シドニー市長:クローバー モア。
これって、すごいことかもしれない。日本だったら、女性天皇、女性首相、女性東京都知事、女性区長のもとで生活するのと同じことだ。こういうことは、今後実現しない。アメリカでも実現しない。女性大統領、女性州知事、女性町長。

そのジュリア ギラード首相が 第2次ギラード内閣を正式に発足させたが、任命式が連邦総督府で行われた。
任命された首相をはじめとする14人の閣僚が それぞれ奥さんとかパートナーとかを連れて 次々と車で総督府に到着して 式に向かう様子が ニュースで映し出された。ジュリア ギラードは独身だが、長年のパートナーがいる。仲良く、手を繋いで式場に向かった。

前環境相のペニー ウォンは 今回 「予算、規制緩和相」になったオーストラリア生まれの中国女性だが、ガールフレンドを連れて式場に入った。大勢のカメラマンのフラッシュに 驚きながらもペニーの後をついて式場に向かうオージー女性の姿を見ながら こういう光景を 日本で見ることはまずないだろうと思った。同様に、アメリカでも まず同じことは起こらない。
レズビアンの閣僚が 就任式にガールフレンドと共に式場に現れる ということが、当たり前に行われて、それを誰一人として オーストラリアでは注目しない自然さが、とても快かった。

そういえば先ジョン ハワード首相政権下で 野党だった3党の全部:労働党、グリーン、国民党の党首が3人とも ゲイだったことがある。いまでも、グリーンの党首 ボブ ブラウンはゲイだが、とても人望がある政治家だ。彼なしに、ジュリア ギラード政権は発足できなかった。
こうしてみると、オーストラリアは 改めてジェンダーに優しい 新しい国だということができる。それが とても自然だ。
そんな国に住んでいる。そのことが とてもうれしい。

写真は
連邦総督クエンテイン ブライス
シドニー市長クローバー モア
予算相ペニー ウォン

2010年10月14日木曜日

映画「リミット」、原題「BERIED」



こんなに おもしろい映画 近年観なかった。すごい。
低予算。出演者一人。95分の間 たったひとりの役者が ほとんど身動きのできない状態で棺桶に入れられたまま どう救出してもらうか格闘するというお話。

邦題「リミット」 原題「BERIED」。
スペイン人監督:ロドリゴ コルテス
キャスト:ライアン レイノルズ

襲われて気を失った記憶がある。
気がついてみると手足を縛られて 猿ぐつわをかまされて棺桶の中に押し込まれ土に埋められている。暗闇のなかで、何も見えない。これでパニックに陥らない方がおかしい。最低の状況だ。

可能な限り手足をばたつかせて 両手を自由にする。猿くつわを外し 足の紐を外す。手探りでポケットの ジッポライターを取り出して 棺桶の中を見渡してみる。押しても引いても棺桶の木箱はびくともしない。大声で叫んで助けを求める。しかし帰ってくるのは 漆黒の闇だけだ。

突然、足元に転がっていた携帯電話が鳴る。恐怖で全身がケイレンする。狭い箱の中で 苦労して それを足で蹴って 手元まで持ってくる。アラビア語表示の携帯電話だ。応答すると、落ち着いた男の声が、この携帯電話で自分の姿を ヴィデオを撮って、身代金を出すように米軍に懇願しろ、と言う。彼は500万ドルの身代金の為に誘拐されたのだ。携帯電話の電池は半分しか残っていない。時間がない。

彼はポール コンロイ(ライアン レイノルズ)、民間企業に雇われたトラック ドライバー。イラクで 物資運送中に襲われた。彼は携帯電話を使って 991緊急呼び出しに電話するが、電話交換手は冷たく、アメリカ国内以外の緊急には対応できないと すげなく電話を切られる。所属する会社に電話するが留守番電話でメッセージ対応。自分が住んでいたオハイオ警察に電話する。また、FBIに電話する。助かるために 次々と電話するが、どの電話も自分の陥っている緊急事態をわかってもらえない。自宅に電話するが またしても留守番電話。さんざん電話を使っても 助けが来ないと 思い込んで 認知症になって もう自分のことを憶えていない老人ホームにいる母親に さよならを言う為に電話したりもする。

持っているものは ジッポライター、携帯電話、鉛筆、ポケット容器に入ったウィスキー、蛍光棒だけ。絶望、焦燥、生への渇望、混乱。

出演者ひとり、撮影場所は 棺桶の中だけ、照明はジッポライターか 蛍光棒、携帯電話の光源だけ。役者が嘆き、笑い、絶望し、期待し、怒る。良い役者だ。最悪の状況になかでの、喜怒哀楽を 限られた動きの中で 巧みに演じていた。
埋められた棺桶の中で 外界と自分を繋ぐ唯一の命綱が携帯電話だ。真っ暗闇の中で聞くと、電話の声から人々の生活する様子が 手に取るようにわかる。自宅に電話して 子供の声から 夫をイラクに送り出した妻の様子や留守宅のありようが ありありと見えてくる。FBIの事務的な対応から FBIが いかに人命救助からかけ離れてた仕事をしているか、が よくわかる。ようやく受信されたヴイデオから、事情がわかって米軍の担当官が出て、説得力のある話し方で、その人の人柄も見えてくる。たったひとつの携帯電話を通じて 驚くほど広い世界の 様々な役割を持った人々に姿が見えてくる。息を殺して、暗闇で聞いていると、今まで見えなかったものまで 見えてくる。実に 効果的な音の使い方だ。

この映画をみて むかし見た怖い映画「激突」、原題「CRUSH」を思い出した。この映画は どういうお話か というと。
都会に住むセールスマンが 仕事で南部に出張することになった。初めての土地を車で走るうち、一本道の退屈なハイウェイ、道を走る車も 余りない。何気なく前を走っていた 大型トラックを追い越す。すると、このトラックは 意地になって追い越してくる。追い越しておいて それでいてわざとゆっくり走って、イライラさせる。そこで、また追い越すと今度は後ろから追い上げてきて ぐいぐいと後ろから車を押してくる。
そんな調子で はじめは車の追い越し合戦のおふざけだと思っていたセールスマンは これは冗談でなく、本気でトラック運転手が 彼を殺すという明確な殺意を持っていることに気付く。

セールスマンは 北部の人間だから知らなかったけれど、北部のプレートナンバーで 南部の道で、南部の車を追い越すようなことは、してはいけなかったのだ。面子をつぶされたトラックドライバーは セールスマンが どこまで逃げても逃げても隠れても 必ず見つけて追ってくる。警察や人に助けを求めても お構いなしにトラックごと襲ってくる。トラックは背が高いから どんな男が運転しているのか 顔が見えない。太い腕が運転席の窓から見えるだけだ。最後まで この殺人者の顔はわからない。顔のない追っ手から 逃げても逃げても逃げ切れないセールスマンのあせりと 恐怖感が伝わってきて 本当に怖い映画だった。子供の時に 汗びっしょりかいて 怖い思いをした映画は忘れられない。

大人になって あとからこの映画を作ったのは スピルバーグだった、とわかって、ウーン なるほど と思った。監督として初めての作品だったのだ。初監督作品。スピルバーグの才能がきらめいている。

最後に気になったのは、この映画のタイトルは、「BERIED」なのに、邦題が「リミット」だ。どうして原題どおりにしないのかわからない。
詩だって、外国の詩の題を翻訳者が勝手に変えたりしないだろう。題名には 監督ひとりだけでなく、映画製作者全体の意志が篭められているのだ。原題「BERIED」「埋められて」または「埋められた」あるいはべりッドで 良いのではないか。
他に 変な例を挙げると 原題「TAKEN」が、「72時間」になって、原題「UP」が「カールじいさんの空飛ぶ家」になって、原題「マイ シスターズキーパー」が「わたしのなかのあなた」になる。原題「コンサート」が 「オーケストラ」になったのは、なんかなあーと、、、。それにしても「リミット」などというタイトルにして欲しくなかった。日本語のセンスを疑う。

それにしても、実によくできた映画だ。
すぐれた反戦映画でもある。反戦へのメッセージが きちんと伝えられている。
この監督の才能に、注目していきたい。

2010年10月12日火曜日

映画 「食べて祈って恋をして」




原作は エリザベス ギルバートの自伝小説。700万部 売り上げたベストセラーを ジュリア ロバーツが演じてヒットしている映画。

女性むき映画ということになっている。
腹立たしい。女なら 馬鹿でもいいということか。
ジュリア ロバーツが美しいことは認める。42歳になって、3人の子供の親になっても なお可愛らしくて笑顔など 大輪の牡丹の花のように美しい。人気なのに 子育てに一生懸命なところが好感をもてる。だから 我慢して2時間余り無内容な 画面を目で追っていた。一言で言って アンリアル。非現実的。

こんな友達 持ちたくない。天上天下唯我独尊、ジコチュー、セルフィッシュ、周りを引きずり回して 精神的未発達児、ないしは ただのわがまま女。世界一物質的に豊な国で、良い仕事に恵まれて 理解ある夫に恵まれた人のお話だ。ドル危機も 10%を越えたアメリカの失業率も、ジハドもテロアタックもイラク、アフガン戦争も4000人を越える戦死者も 全然関係なーい世界のお話だ。

ストーリーは
ニューヨークでジャーナリストとして働いているリズ(ジュリア ロバーツ)は 平凡な教師の夫(ビリー クラダップ)との暮らしも8年となり、もう喜びや 新鮮な感動を感じられなくなっている。一大決意をして、家を出て、友人宅(ヴィオラ デイヴィス)に身を寄せているうちに、若い恋人に出会う。恋人デヴィッド(ジェームス フランコ)は、ヒンドゥー教の信者で、二人して同棲して道場に通うが、リズには どうしても心が満たされない。35歳のリズは、28歳の恋人が止めるのも聞かずに 心の平安を求めて海外旅行することに決断。離婚と恋人との別れで すっかり失ってしまった食欲を取り戻す為に、とりあえずイタリアへ。

手始めにイタリアで 4ヶ月、美味しいワイン、パスタにピッザでしこたま脂肪を蓄えたあとは、インドのヒンドゥー道場へ。リサは 道場で心の平安を祈るが 早起き、道場の床みがき、粗末な食事の日々に 心の平安も望めない。ここで結婚を控えているインド人の女の子と、アメリカ人(リチャード ジェンキンス)と友達になる。彼女の結婚式に呼ばれて 幸せそうな若いカップルをみて、自分が離婚したのは自分が精神的に大人になっていなかったからだと悟って、ちょっと寂しい。リチャードのほうは、自分が妻子を捨ててきたことを リサに涙で語り、アメリカに帰っていく。リサも、これで充分とばかりに、インドネシアのバリ島へ。

バリではヒンドゥーの高僧の家に通って 教えを得る。好々爺とした高僧は リサに優しく、バリヒンドゥーは、インドのヒンドゥーのように厳しくない、自分らしく心を平静にもっていれば良いと。リサは 瞑想とヒンドゥーを学ぶ日々。リサが怪我をした時に世話になった 民間医師が 身寄りのない子供を育てていることを知り、ネットを通じて 友達から募金を集めて その子に 一軒家をプレゼントする。そんなある日 島のガイドをしているブラジル人(ハビエル バルデム)に出会って恋をする。しかし、その男に一緒にバリで暮らすことを提案されて、そんな急なことを、と、逆上。アメリカに帰国する決意をして、最後の日。お別れに行った高僧に、心の平静はいつも保てるわけじゃない。時として恋で平静でいられなくなっても、それでよいのだ、と言われて、恋人のところに 飛んでいく。というお話。

夫に満足できず、恋人にも飽き足らず、別れてしまって 仕事を1年休暇とって豪華な海外旅行。場所が変われば、もっといいことが あるかもしれない と旅に出る。数ヶ月セックスレスの生活をしたあと バリでちょっとセンチメンタルで大人の男に出会って恋をする。しかし、これでハッピーエンドなわけがない。こんな女はじきに「心の平安が得られなくなって」つまり、飽きてしまって別れるに決まっているからだ。

この映画のアンリアル
1)働き盛りのアメリカ人が10%以上の失業率に泣いている現状で ニューヨークのジャーナリストが1年の休暇を取ったあと復職できるのは 非現実的。

2)友達にネットで 可哀想な家のない子のために基金を募っただけで すぐに5万ドル:500万円集められる と思わない。何度もチャリテイーでお金を集めたことがある。無条件で1万円の小切手を切ってくれる友達が500人、、すぐにそれを送ってくれることは あり得ない。

3)バリのヒンドゥー高僧は、りサの手相をみて予言する。?。ついでにカード占いでも やったらどうか?

4)欧米人にとって ヒンドゥーは安直な癒しでしかない。座禅を組めば 心の平静が得られるか。

5)インドでは英語が公用語。アメリカ人は会話に不自由ないはず。どうして現地の人とまったく交流しないのか。

世界遺産の60%がイタリアの集中している。文化発祥の地、芸術の国イタリアで、リズは、ただ英語を話せる限られた友達と食べるだけ。これではイタリア人も落胆するだろう。インドでは祈って 結局同じアメリカ人男から 涙の告白を聞かされただけ。そんな後では、バリで1年ちかく 干されていた「LOVE」に、どんな男も良くみえるだろう。

「鎌倉!!!流行のミニワンピでスウィート探し。かくれアンテーク見つけちゃった!!!ちょっとオシャレなフレンチも!!!見ーつけた!!!ビタースウィート。ミニ知識サイチョー クーカイってなあに?」というような ヤングの女性週刊誌を見せられたような感じ。

だいたいリサは 何が欲しいんだ。何が問題なのか、まったく初めから正そうとしない。物事の本質を全く追求しようとせずに、場所だけ変えて 男だけ変えて それでよしとする。何も変わらない。いい女だから 「自分へのご褒美」に「自分探しの旅」というわけだ。
いつまでも「自分自分」と叫び回りながら まわりを引きずり回しながら 心の平静を主張しまくっている。ところが、最後には 平静でなくてもいいんだ、、と言われて、サッサと1年間の修行を忘れて男の胸に飛び込む。知恵も心もない。そんな程度の心の平静で良かったのか。女ってこんなもんだよ、という男の声が聴こえてきそうで腹立たしい。
彼女の生き方に共鳴 共感し、感情移入できたりする女って、何なんだろう。場所を変えても、男を変えても 何も変わらないのですよ。一生 青い鳥を探して夢を見ていてもいいけど、私の周りには来ないで。

この作者は 「本当に自分でこの男のために今 死んでもいい」と決意できるような本当の恋をしたこともなければ、「この仕事 どんなことがあっても他の誰にも取られたくない」と しがみつきたくなるほどの本当の仕事をしたこともなければ、「神様、この人のために心の平安を下さい」、と真に神に祈ったことも したことがない人に違いない。なぜなら、このストーリーに それらが何ひとつ ないからだ。

2010年10月7日木曜日

ブルームの真珠養殖場



シドニーの家を出て、北部準州ダーウィンから西オーストラリア キンバリーを 2週間かけて旅行している。オーストラリアのなかでも アウトバック、秘境といわれるところばかりを旅行してきて、やっと、観光地ブルームについたところ。この旅の終わりが近ずいている。

ブルームの街を歩く。
街には真珠を売る宝石屋が ひしめいている。海岸沿いに広がった海辺の リゾートタウンには 宝石屋とパブと食べ物屋くらいしかない。ガソリンスタンドの横に ATMがあるのを見て、開けた街まで やっと来たことを実感する。いままで、アウトバックにいて、現金を使う機会もなかった。
せっかくだから、宝石屋を見てみる。お客がある程度 入ると 主人が真珠ができあがるまでの 説明をしてくれる。やはり、高いものは良い。とても手がでない。宝石屋もピンからキリまであって、ちょっと遊びに来て 友達や家族にお土産を、と思って手がでるくらいの値段の真珠は みんなブルームで獲って加工したものではなく 中国製だ。

街から 白砂の海辺が広がる ホテルのあるケーブルビーチまで バスで10分。ケーブルビーチクラブリゾートというホテル。ファイブスターだ。
そこからバスを出してもらって 真珠養殖場を見物に行く。バスで30分あまり 赤土のでこぼこ道を揺られて 小さな養殖場に港に着く。砂は真っ白なサンドストーンで、海は白濁したミルキーなエメラルドグリーン。カルシウムが多いために海の色が透き通ったグリーンでなくて、ミルキーな優しい緑色になっている。遠浅の海には アシやヒルギが蔽い茂り、ワニも海鳥も たくさんいる。陸には野生の馬までいた。鳥では、シラサギとトビが目立つ。足の長い優雅な鳥たちが 魚を獲り 巣を作っている。

船に乗り込み しばらく沖にいくと、海中に網が張り巡らされていて ひとつの網を引き上げて見せてもらうと 大きな真珠貝が6つずつ きれいに収まっている。真珠貝の大きさは15センチ四方くらい。2年かけて、真珠貝を大きく育てるのだそうだ。
真珠貝は上皮から唾液のような内分泌液を分泌する。貝の生殖器に核を埋め込むと その分泌液で核を大きく育てる。いったん、核入れのために貝をこじ開けられて 核入れをされた真珠貝は また6個いりの網に収まって 海に戻され波にゆられて 何度も位置を変えられ転がされて約1年 丸い形に育つように工夫されながらで育つ。 

核入れをする技術が一番難しいそうだ。優れたテクニシャンは1日に1000の核入れをするという。このへんのところを ミキモトは特殊な技術を持っていて、マル秘中のマル秘らしくて、日本のテクニックを盗もうとする 業界スパイが暗躍しているらしい。プロの潜水士を雇って 日本の真珠養殖場のサンプルを盗んだり そのへんは もう007の世界らしい。
でも、私が見物したノーテンキの真珠養殖場では、真珠貝をこじ開けて 核入れするところも見せてくれたし 見学者の中から やりたい人にもやらせてくれた。これがうまい人は85%の核の定着率だそうだ。ということは、15%は無駄になる訳だけど、、、。

核入れスペシャリストは とても良いお金で雇われて 短期の間にちょっとしたお金持ちになれる。説明してくれたお兄さんも その一人で、「ぼく85%の成功率」と自慢する。「3ヶ月で 1年分の稼ぎをもらってしまったたあとは どうするの?」と聞いたら 3ヶ月フィージーでサーフィンやって、3ヶ月カジノで遊んで、3ヶ月メイト(友達)とパブでビール飲みながらフットボールみるんだよー。と言っていた。じつにオージーらしい 国民平均的模範解答だ。

というわけで真珠貝の核入れの成功率が85%。その後 同じ貝に2度目、3度目の核入れをする。それごとに貝は成長して大きくなっていくから、できる真珠も大きくなる。しかし貝も若くはなくなるので、4度目のときには 成功率は落ちていって 5%くらいまでになる という。直径10ミリくらいの真珠は3回目の核入れでできたもので、成功率40%というから、やはり大きいものほど高価になる。直径15ミリくらいの 今人気の真珠は 一粒300ドルとかいう値段になるそうだ。

養殖場を見学してからボートを降りて 港にある養殖場の経営する店の中を見て回る。ここで見学者達は お茶とケーキを ふるまわれて 安楽椅子で休んだ後は、店の宝石を見せられて ついつい買い物をしてしまうことになる。
うっかりして私も 娘達にイヤリングを買ってしまった。一緒にボートに乗った人たちは、一粒15ミリの大きさの真珠のネックレスを思わず 何を血迷ったことか ついつい買ってしまっていた。良い商売だ。
ミキモトも こんなことをやっているのだろうか。そちらにも行ってみたかった。

真珠養殖場から帰って、ケーブルビーチを歩く。インド洋に沈む太陽を見ながら フィッシュ アンド チップスを食べる。ラクダに乗って海辺を歩く人たちが一列になって、ゆっさゆっさと進んでいく。一日 すっかり日焼けして ほってった体にビールが美味しい。

今日で旅を始めて2週間。
明日は最後の日。朝、海岸を散歩して 荷物をまとめて飛行期に乗る。ブルームからパースに飛んで、そこで乗り換えて、パースからシドニーへ。着くのは夜だ。明日の夜は 2週間の旅行を終えて、なじみのある枕で眠ることができるはずだ。
オーストラリアの北の先 ダーウィンから キンバリーを見てブルームまで下りてきた。
良い旅だった。
明日もビールが美味しいだろう。

2010年10月5日火曜日

ブルーム日本人墓の破壊と捕鯨



年間250万人の観光客で賑わい、日本人にも人気のあるブルーム。
目線を変えれば 別のブルームが現れる。
1942年、3月3日 この港に日本軍が爆弾を落として70人あまりの人々が亡くなった。
日本軍は ダーウィンを空襲して243人死亡者を出し、ブルームでは70人、シドニーにも特殊潜水艇が侵入して 魚雷でフェリーを攻撃して21人死なせ ニューカッスルにも潜水艦が市内を砲撃して 建物や住居に被害を出している。タウンズビルにも ラバウルを基地とする飛行艇が空軍基地を爆撃している。こういう事実は 攻撃した方は忘れているし、今の日本の若い人は知らない人のほうがずっと多い。
しかし 日豪間に起こった歴史の中で 本当に起こったことは 知っていれば知っているほど良い。決して無視してはいけないのだ。なぜなら戦争は過去に起こったことでも、現在に通じている道だからだ。

たとえば ブルームには日本人墓がある。
昨年8月に映画「COVE」(邦題「入り江」)が上映された直後、ブルーム市議会は 姉妹都市だった和歌山県との姉妹都市関係を継続しない決議がなされた。それと同時に、この日本人墓が荒らされて、墓石が割られ、破壊された。
映画は和歌山県大地町の イルカ追い込み漁のドキュメンタリー作品で、アカデミードキュメンタリー賞を受賞した。この映画については 何度も言及してきたが、またアタッチする。
http://dogloverakiko.blogspot.com/2009/08/blog-post_25.html

映画は、ブルーム市議会の決議、日本人墓の破壊と いろいろな波紋を投げかけた。いかに、オーストラリアでは海洋保護の立場から 日本の捕鯨、イルカ漁に否定的な立場に立っているかがわかるだろう。墓荒らしというのは、西洋では死体を焼かずに そのまま埋葬するだけに、とても重い罪になる。にも関わらず ブルームに貢献して亡くなった何の罪もない日本人の墓を荒らすということが起きた。簡単には犯せない罪なのに それが行われた ということを日本人は深刻に捉えなければならない。
墓荒らしは、大地町でイルカをつきん棒で殴り殺す日本人、世界中の批判をあびながら なおも調査捕鯨という名の商業捕鯨を続けている日本に対する「報復」なのだ。野生動物保護の立場から いま、沿岸イルカ漁も 調査捕鯨も中止するべきだ。

707基、919人の 日本人の墓が葬られている。
グループツアーから離れて、個人で日本人墓を訪ねる。ブルームの街から20分。バス停留所から10分歩いて、着いた墓は よく整備されていた。古いものは 1880年代から 130年も前から真珠業に携わっていた日本人の名と出身地が 墓石に彫ってある。沢山の人が溺れたり、潜水病やサイクロンで亡くなった。30代 40代で亡くなった人が多い。入り口にある記録によると もとは小さな墓地だったものを 1983年に 日本船舶振興会の笹川良一氏の基金と 参議院議員玉置和郎氏の努力によって、修復されて、現在の墓地になった と書いてある。事実、墓石は御影石が多く、日本風の石が使われて立派なものが多い。つい最近の真新しい墓もある。今年 亡くなった人の墓もあった。

一度 破壊され、割られた墓石を いくつもいくつも見る。無残だ。修復されているが、いったん割られた石だということが一目瞭然だ。哀しくて 写真にとることができない。日本とオーストラリアの交流に貢献し、この地で真珠業を助け、命を落とした人々を、せめて、静かに休ませてあげられないものだろうか。
国と国の摩擦のために、亡くなって 土になってもまだ蹂躙される。もの言わぬ 707基の墓。
こんなときほど異国に暮らす者として、孤独感、寂寥感を感じることはない。

日本人にとっては 戦争も終わっていないし、捕鯨問第も解決していない。現在は過去に しっかりとつながっている ということを再認識させられて、ブルームの墓地で ひとり悄然とする。
ホテルに帰って ビールでも飲もう。

キンバリー12日目ダービーからブルームへ




人口1500人のフィッツロイから ダービーを通過する。
ダービーはキンバリーのは一番古い町。港町として羊毛と鉱石を輸出するための港だった。鉱石を運搬するためのトラックは 50メートルの長さ、84のタイヤがついている。こんな大きなトラックが鉄や亜鉛を満載して船に載せるために 右左折したり 方向転換できるように道路も驚くほど広い。なにもかもが ジャイアントな町だ。
真珠の養殖も 漁業も盛んで バラマンデイー、サーモン、泥カニがとれる。

このダービーの町には 有名な「プリズン トリー」がある。
囚人の木とは、アボリジニーの囚人を 繋ぎとめておいたバオバブの木のことだ。よくオーストラリアの観光ガイドブックに 写真があるので、見覚えのある人も多いだろう。
これは、130年も前の頃、白人入植者たちが クヌヌラやホールスクリークやフィッツロイからアボリジニーの若者を誘拐して、ここまで歩いて連れてきたところで、鎖でつないだ木だ。こうして奴隷としてつれてこられたアボリジニーの若者達は ここからボートに住まわされて、真珠を取る為に強制労働させられた という。こうしたアメリカ南部の奴隷制度と同じことが ここでも1880年代まで行われた。首に縄を巻かれ、何十人ものアボリジニーの若者達が数珠繋ぎにバオバブの木につながれている 痛ましい写真が木の横に展示されている。

入植者がやってくる前のオーストラリアには 100万人のアボリジニーが住んでいた。それが 過酷な入植者たちの「開拓」と「文明化」のために アボリジニーの人口は6万人にまで減少した。現在人口は35万人にまで回復したが、アボリジニーが 入植者と同等の人権を認められ、公民権を持ったのが1962年。アボリジニーの平均寿命は ノンアボリジニーの平均寿命より「17年」も短い。この差がなくなるまで、この国に平等はない。

ダービーからブルームに向かう。
その途中で 携帯電話がメッセージ受信のベルを鳴らす。感激。
ダーウィンを過ぎてから 12日間旅を続けてきて携帯電話もインターネットも通じなかった。したがって、娘達の消息もわからないが、私たち老夫婦がどこで彷徨っているかを 娘達に伝えることが出来なかった。険しい山々のキンバリー地区から 一挙に観光地ブルームに到着したのだ。携帯電話にたくさんのメッセージが届いていた。何という文明の恩恵、そのありがたさ。
自分の家から私のところに留守番に来てくれて 猫のめんどうを見てくれている娘の報告を聞く。我が家の気難しい 家出経験のある黒猫クロエと、他にアパートの軒下に住み着いた2匹の捨て猫たちを4月から面倒見てきたが これら全部の猫たちを、仕事で忙しい娘が世話してくれている。みんな元気と聞いて ほっと安心。
地の果てのようなキンバリーまで来て、雄大な自然に感動しながらも 携帯電話なしに 生活することが不安な自分のちっぽけさ。

ブルームは人口15000人。真珠の街だ。
日本と最も縁のある場所。ミキモト真珠はみんな この島からきている。世界中の真珠の85%がここで取れる。真っ白な砂の海岸、インド洋に沈む大きな太陽。10キロも続く白い砂のケーブルビーチには 年間250万人の観光客が訪れる。
世界のトップ5ビーチのひとつだそうだ。
長旅に 咽喉が渇いた。
今日もビールが美味しい。

写真1,2は囚人の木。3はブルームの真珠産業に貢献した日本人の記念像

2010年10月4日月曜日

キンバリー フィッツロイのゲイキ渓谷




西オーストラリア キンバリー地区のアウトバック、ホールスクリークからまた別のアウトバック タウン:フィッツロイに向かう。400キロメートルの距離。キンバリー地区は 厳しい気候による土壌の浸食によって 古代から切り立った山岳地帯が多い。北部の峡谷地帯では 無数の岩山が聳え立ち 土壌がラテライトで占められるので雨期には 水がたまり交通不能になる。

一本道のハイウェイの両側に広がるのは 赤い土と青い空。走っていて、行けども行けども サバンナというか、砂漠ともいえる赤い不毛な土壌に、ユーカリの木々、数え切れないほどのターマイト(シロアリ)のアリ塚が続く。そこにバオバブの木が あちこちに立っている。ユーカリの木もバオバブの木も 水のないところに平気で自生する。バオバブは 幹が地面近くの下に行くほど太くなる。たくさんの葉をつけているものもあるし、まったく裸のバオバブもある。来月には、もう雨期になる。雨が降り出したら 新しい葉をつけるのだろう。

ターマイト(シロアリ)の巣はキンバリーの旅行が始まった日から 目に付いていた。赤土が盛り上がって どれもその形が異なるのだが 高いものは1メートルを越す。中では社会性を持ったアリ達が 一匹の女王の為に生き 戦い、子孫を増やしている。新しい巣は赤土の真新しい色をしているが、古い巣はもう白くなっているが ちゃんと中では女王がセッセと働きアリや 兵隊アリや 子育てアリをこき使って大きな女王専制社会を維持しているのだそうだ。

着いたフィッツロイのモーテルは、そのむかしマクシーンという名のシドニーで弁護士をしていた女性が牧場主と恋に落ちて住み着いた家だったという。1886年のことだ。牧場主は スコットランドからの移民ウィリアム マクドナルド氏だ。二人して人里離れたフィッツロイで牧場を始めて事業を成功させ 現在ここ一帯の土地は すべてこの家族のものだ。牧場を始めるにあたって、ニューサウスウェルス州から数万頭の牛を 10ヶ月かけてこの町まで移動させたのが 始まりだそうだ。美しいフィッツロイ河があり、雨期には一帯が洪水になり 後で栄養分の富んだ牧場地になる。フィッツロイのモーテルには ウィリアムとマクシーンの写真や肖像画が所狭しと 飾られていた。

モーテルを出て、ゲイキ渓谷に向かう。フイッツロイ河の豊な水が 切り立った岩山を切り裂いて その間を流れている。350キロメートルの両側ライムストーンの山々に囲まれた渓谷をボートで見る。これで渓谷をボートで見るのは5つ目だ。北部準州キャサリン渓谷、キンバリーのクヌヌラでオード河、エル クエストでチェンバーレイン渓谷とエマ渓谷を、そしていまゲイキ渓谷を見ている。どれもそれぞれ 趣きのある渓谷だ。ゲイキ渓谷が一番おだやかな渓谷といえる。両側の絶壁も岩壁も他の渓谷に比べると それほど高くない。豊かな水、鳥や魚が多く、ヒルギ林が茂って緑が多い。

ダーウィンから旅をしてきて11日目。 ひどい喘息持ちのオットが シドニーでは 吸入器を持ち歩き その肥満体と関節炎と喘息で100メートルと歩けない。それが旅を始めてから 一度も喘息発作を起こさず、他の旅行者と一緒に名所から名所へと、よく歩いている。よくやっていると思うが、褒めると調子に乗るので叱咤激励、鬼の監督を続けている。

モーテルのレストランで 他の旅行者と会話するのも楽しみのひとつだ。ドイツから来ている30代のカップルは アリススプリング、エアーズロックから ダーウィンのカカドウ国立公園を2週間かけて見てきたあと キンバリーをまた2週間旅行している。キンバリーのあとは パースからアデレードまで先を旅行する予定だそうだ。ドイツの「すずしくて ここち良い夏」から いきなりオーストラリアの灼熱の世界に飛んできて冒険旅行に魅惑されている、と言う。

スコットランド人の二組の夫婦は、奥さん同士が中学校で仲良しだったが 片方がオーストラリアに移民してしまった為 数年に一度ずつ 同じツアーを申し込んで 一緒に旅行して旧交を温めているのだという。ウィットに富んだ とても素敵な老夫婦だ。オランダから来ている二組の夫婦、イングランドから 別の2人組、南アフリカからも。
みな「常識」というものが 年寄りの間でしか常識でなくなってしまった現代のなかで、礼儀正しく、何かちょっとした手違いで嫌なことがあったり、待たされたりしても、決して文句を言わず ユーモアで乗り越える 大人の生き方の できる人たちだった。サービスが悪いとすぐ怒ったりする日本人の大人げのないマナーを思い出すと、まことにヨーロッパ人は立派だと思う。
今日もビールが美味しい。

ゲイキ渓谷の はじめの写真で中州の岩の上に、ワニの子供が居る。

2010年10月3日日曜日

キンバリー10日目 ホールスクリーク




アーガイルダイヤモンド鉱山から350キロメートルの距離を走る。着いたところは ホームズクリーク、アボリジニーの町だ。
1885年に金が発見されて 牧畜ばかりでなく鉱山として栄え、ゴールドラッシュで、一挙に人口が増えた。今は人口4000人。


町に行く途中に、「チャイナ ウォール」という奇観をほこる名所がある、と言うので行ってみた。なるほど1000メートル近い岩壁の先端だけが白くギザギザになっていて、切り立っている。それが見ようによっては、中国の万里の長城に見える。岩岩の白い先端は、クオートストーンで、自然に山の侵食をくりかえすうちに、露出したものだという。カメラに収めて 険しい岩壁と砂漠のなかの ちいさな町に戻る。

ホールスクリークの町は よく整備されていて、学校も職業訓練校もある。小学校には25メートルプール、病院、スーパーマーケットもあるし、パブも2軒ある。
公園は広々としていて、ヴィンセント イヤーリの銅像が誇らしげに立っている。彼はアボリジニーの英雄。アボリジニーの公民権獲得のために大掛かりなストライキを戦いとって、キャンベラまで行って アボリジニーの人権抑圧を訴えた人だ。となりには、金鉱で、昔使われていた掘削機や蒸気によるピストンなどが、展示されている。木陰には アボリジニーの老人達が座り込んで のんびりしている。

今までオーストラリアの北端ダーウィンから西オーストラリア州キンバリーをリ旅行してきて、ホールクリークは いちばん「アウトバック」といわれる 文明のどこからも一番遠い、田舎の過疎地だ。しかし、ここのモーテルで出された食事が一番 本格的な料理で、それが今までに無く とても美味しかった。オーストラリアはイギリス人の移民で出来た国だから、料理には何も期待できない、と言う事実が常識だ。肉は焼くだけ、野菜はクタクタに茹でるだけ。生ぬるいビールと砂糖の乗った馬鹿でかいケーキのデザート、これが典型的なオージーデイナーだ。

このモーテルのレストランは、まず外見からしてファンシー。赤一色の壁と椅子とテーブル、テーブルナプキンまで深紅。壁にはジェームス デイーン、フランク シナトラ、マリリン モンロー、サミーデイヴィス ジュニアなどの写真が一面に飾られ、ジュークボックスには、プレスリーが、、、。
ビュッフェの料理は チキンのパイ皮包み、薄切りビーフのレバーロール、ビーフストロガノフに、ポトフー、野菜もサラダが5種類選べる。ケーキは昔々おばあちゃんが焼いてくれた硬いパンプキンケーキの砂糖乗せ とかいうのじゃなくって、柔らかくて甘すぎない上等のマンゴーケーキとチョコレートケーキだった。久しぶりの料理された料理に 大満足。どんな田舎にも、ハリウッドファンは居る。そしてファンシーな趣味、良いテイストをもった人たちはいるものなのだ。

翌朝、職業訓練学校を覗かせて貰う。
40人の若い人たちが ここで職業訓練を受けている。ビジネスコースと鉱業コースとがあって、将来ダイヤモンド鉱山や その他の鉱山で働く人を育成している。アートコースもあって、見学を許された。たくさんのアボリジニーの絵画や 壁飾り、ガラス細工などの作品が無造作に積み上げてある。3-4人の生徒が キャンバス ペインテイングを製作中だった。
作品を交渉次第で購入することもできるかもしれない と聞かされていた。若い生徒達に絵画を教えている年配の女性の説明を聞いて 彼女自身の作品を見せてもらった。なかで、赤い土色に、湖を描いた絵が とても気に入った。絵の値段を聞いてみたら 300ドルという。財布を探ってみると 手持ちは200ドルとコインだけ、、。失礼を承知で、「あなたの絵が欲しいけれど これしかない。」と言って財布を見せると 彼女 優しい笑顔で、持って行きなさい と絵を包んでくれた。

絵は赤土の大地に5つの湖がある。ここがわたしの生まれたところなのよ と、穏やかな笑顔で説明してくれた。年のころなら60くらいだろうか。THELMA MOGINTY という彼女の名前が表の絵の下にサインされている。アイリッシュの苗字を持っている。アボリジニーの子供達の多くは キリスト教育を施すために 子供の時に白人家庭や教会施設に入れられて 実際の親と引き離されて育った。そのためイングリッシュネイムをもつアボリジニーが多い。
とても細かい 手の込んだ 時間をかけて描いた作品だ。アボリジニーの絵を その本人から手に入れることができた、ということが とても嬉しかった。一緒に見学した人たちから 買ったばかりの絵を見せて、見せて と請われて、うらやましがられる。他の人たちは アートクラスのマネージャーを通して絵や作品を買おうとしたが 高価な値を言われて 買うことが出来なかったそうだ。わたしが、クラスに中に入っていったとき、絵を売ってくれた人と目が合って、自然と彼女と会話ができたのだったが、そうして絵を買うことが出来たのは 幸運だったようだ。とても嬉しい。うちの家宝ができた。
きょうもビールが美味しいはずだ。

写真は、1)購入した絵:オイルペインテイング 2)バオバブの木の実に彫刻:アボリジニーアート3)チャイナウォール

2010年10月2日土曜日

キンバリー アーガイルのダイヤモンド鉱山




西オーストラリア州キンバリー地区のエル クエストで2日間 渓谷を見て遊んだあとは、4輪駆動のコーチに乗ってアーガイルに向かう。グレートオーシャンハイウェイを320キロメートル。世界中のダイヤモンドの35%を採掘している アーガイルダイヤモンド鉱山を見る為だ。このアーガイル ダイヤモンド鉱山は リオ テイントが所有している。そしてリオ テイントの最大株主は エリザベス女王だ。

鉱山の3時間見学コースと いうのに 50人の見学者とともに入った。 皆オージーだが、鉱山の見学に興味深々だ。厳重な警備をしている山の入り口で、案内役のアボリジニーの青年が 私たちの乗ったバスに乗り込んできて、案内してくれる。
とんでもなく大きな敷地に7台の大型トラックが 山を削って掘って採掘した鉱石を運び出している。ダイヤモンドは 16億年も昔 火山によって、噴火して急速に冷却した鉱物が固まったもので、1980年から掘り始めて、もうすでに7千800万トンのダイヤモンドを掘ってきたそうだ。現在400キログラムの掘った岩にひとつの割合でダイヤモンドが採掘されている。20キロから30キロほど 地下を掘って 出した鉱石をテニスボール大に砕いて ベルトコンベアーに乗せ センサーを通じてその硬度から、ダイヤがあるかどうか 調べるのだそうだ。年間7トンのダイヤモンドが採掘されている。

働く人は皆 1日12時間 シフトワークで、それを2週間続けて、2週間休むことが出来る。鉱山が人里離れたところにあるので、ワーカーは みな寮住まいだ。2週間1日12時間労働をしたワーカーは 寮を出て、2週間実家に帰って休養する。
2020年には この鉱山は操業を止めて 掘ったところは人口湖にして、土地を自然に返すのだそうだ。
採掘されるダイヤモンドのうち 75%は産業用で、残りが宝石になる。この鉱山では シャンパンカラーといわれるイエローダイヤモンドと、世界でも極めてまれなピンクダイヤモンドが採掘される。装飾用イエローダイヤモンドは インドに送られ、ピンクダイヤモンドはパースに送られて、削ったり カットされたり磨かれたりするという。いまは、ピンクダイヤモンドが一番人気があって、価値も高いそうだ。

見学と説明が終わると どうぞご自由に、と職員食堂に通される。ホテルのビュフェスタイルの食堂でセルフサービスだ。コールドサラダはローストビーフやチキン、シーフードサラダなどがきちんと並んでいるし、メインの肉も魚も何でもある。コーヒーは エスプレッソもカプチノもあって、果物も豊富。みんなはしゃいで、さっそく食べ始める。オットは 脂ぎったベーコンや肉に齧り付いている。肉食人種だなあ。
アイスクリームが 20種類も並んでいるのを見つけた。「わー、ヴァニラもクッキー入りアイスも チョコレートクラッシュも、ラム入りも、ナッツ入りも、カフェオーレ味も、イチゴシャーベットも、メロンも、バナナも、レモン味も、わー、マシュマロ入りも、わーわーわーマーブルチョコをトッピングできるよー。」と、思わず うれしくて叫んで、全部の種類を大きなどんぶりに一口ずつよそっていたら、他の人たちも寄ってきて、同じことをする人の群れで 長い列ができた。50人の見学者たち、全然可愛くない、お菓子の家を見つけたヘンゼルとグレーテルになっってしまった。

こうして設備の整った寮、申し分のない食堂、清潔な職場を見学すると とても良い職場だな、と思うが 働いている間中 モニターで監視され、自分の自由がない2週間ごとのシフトワークは 私には無理かもしれない。セキュリテイーガードは 6ヵ月毎に 全く新しい人に入れ替わるそうだ。癒着とか汚職とかをなくす為らしい。
24時間操業、12時間シフトということは、今でも この建物で、誰かが寝ている訳です、と言われてしまうと 宝石展示室を見ても、あれがいい、これがいいとか、大騒ぎ できなくなってしまった。食べ終わったあとの見学では、急に静かになる私たち、、、。

いま旅行しているキンバリー地区のキンバリーは、南アフリカのダイヤモンド産地のキンバリーに地形や景観が、似ているから ついた名前だそうだ。見せてもらったダイヤモンド鉱山は 2020年に閉山されるそうだが、探せば まだまだ近くからダイヤが出てくるだろう。近くの油田からは 原油が採掘されているし、沖合いからは天然ガスの採掘も見込まれている。ニッケル、亜鉛 ウランなど キンバリーには探せばいろいろまだ出てくる可能性に満ちている。キンバリー地区は 古い大陸だけに、宝ものでいっぱいだ。
今日もビールが美味しいだろう。

2010年9月30日木曜日

エル クエスト 滝つぼで遊ぶ




キンバリー7日目の旅。
エル クエストに着く。エル クエストはとても素敵なところなので、特別な思いが残っている。
規模の大きさも そこにいたる道のりの遠さも、ぜんぜん違うが、エル クエストは 戦前の開発前の 上高地のようなところではないだろうか。戦前の上高地といっても 私はまだ生まれてないけれど。母から聞いた上高地のイメージにぴったりなのだ。
母は 大正生まれのモガ(モダンガール)だった。結婚前はベレー帽にカーリーヘアで、スカート姿でスキーをしたり、オープンカーで銀ぶらをしたり、軽井沢でテニスをしたり、2人の兄たちと上高地を散策したりしていた。私が穂高から下山してきた と言ったら 普段は無口なのに、珍しく目を輝かせて、昔の上高地の様子を話し出したので びっくりしたことがある。そんな母の思い出の詰まった上高地は きっとエル クエストのように輝いていたのだろう。

エル クエストは四方 高い岩山に囲まれて 渓谷があり、泉があり、滝がある。植物層も豊かで 鳥も多い。
テントに2泊した。夜でも猛禽類だろうか、鳥の声がする。朝には様々な鳥たちの声で にぎやかでとても寝坊していられない。テントには、簡単なバスルームも水洗トイレも ついているが、シャワールームに カエルが居た。うすい茶色の5センチくらいのカエルで とてもフレンドリー というか 中に入って シャワーを浴びても逃げようとしない。カエルと一緒に水浴びをしたのは、初めてだ。
テントから出て、バンガローに食事に行く。朝から強い太陽が激しく照り付けているが、山から吹き降ろす風が心地よい。バオバブの大きな木の根元に 地下水を引いている水場がある。水筒の水を一杯にする。

テントから岩山を歩くこと2キロ。
ガイドの後をついて、大きな岩をつかんでやっこらさ と登るような急な山道だ。情け容赦ない太陽に焼かれながら、岩を登って たどり着いたところは エマ渓谷の滝つぼ。エメラルドグリーンの素晴らしいプールがあった。まわりは数百メートルの岩で囲まれた自然のプールに いくつかの滝が流れ込んでいる。岩から沢山のツルが下がっていて 映画ターザンの出てくるみたい。競技用のプールを2つ合わせたくらいの大きさだ。うっそうと緑のコケや植物が生い茂る岩壁の美しさ。文字通りのエメラルドグリーンの水。ガイドについて ここまで来た10人くらいの人々はさっそく岩場に隠れて水着にかえて、ジャポーン。岩に囲まれた滝つぼ、、、さぞ水は冷たい、と恐る恐る水に入ってみると20度くらいに 水は温まっていた。岩がコケでぬめるが足が立つところだけで、バシャバシャやって、とても満足。滝の真下までは 泳いでいく勇気がない。帰りは大満足で きつい岩下りも鼻歌まじり。

エル クエストは ここ20年ほどで開発された休養地だ。もとは アボリジニーの人しか住んでいなかった。深い山林を切り開いてテント村が作られて 一般の人が滞在できるようになっている。このエル クエスト全部の、山奥の広大な土地を所有するのは たった一人の人。その所有者の家は 厳しい警備と山林で囲まれていて 山道からは 屋根がちょっと見えるだけだ。所有者とそのゲストはヘリコプターでアクセスする。インターンネットで予約すると 所有者とそのゲストが使わない時は 一般人も宿泊できるそうだが、1泊$1700もするそうだ。

翌日エル クエストのチェンバーライン渓谷を観にいく。
50人乗りのグラスファイバーボートに乗って、渓谷を見て回る。赤い切り立った岩山が両側にそびえる。深い緑色の水の上をボートが走る。操縦士も説明する人もアボリジニーだ。
河の中ほどに来た時、船が止められて、みんなに魚のエサが配られた。エサを指でつまんで水にかざして エサを落とすまねをしてごらん と言われる。やってみると、びっくり、寄ってきた魚が次々と 口から水をピューと、勢いよく飛ばすので 水にかざしていた手が びっしょり濡れる。あちこちから 驚きと嬉しい悲鳴。口の中から勢いよく水を飛ばして 飛んでいた虫を落として食べる魚、アーチャーズフィッシュという魚だそうだ。ヒゲをもったキャッツフィッシュも出てくる。

魚が水を飛ばす騒動が治まると、操縦士が今度は勢い良くシャンパンの栓を抜いて、グラスが配られる。おまけに新鮮なメロン、パパイヤ、スターアップル、スイカ、マンゴスチンなどの果物まで。サービス満点だ。趣のあるアボリジニーの語り手で案内されたボートで、緑の水、赤い岩山、青い空、シャンパンに 甘みのある果物、、、他に何が要るだろう。ぜいたくな水あそびの午後、、、。
今夜もビールが美味しいだろう。

2010年9月29日水曜日

キンバリーの旅 第6日目ペリーラグーン




今、旅をしているのは 西オーストラリア州のキンバリー地区とよばれるところだ。キンバリーは面積にして434,517平方キロメートル、西オーストラリアの6分の1を占め、日本の1,1倍の大きさがある。北にチモール海、西にインド洋に面しており、西オーストラリア州で一番暑く 雨期の始まる11月にかけては 37度、内陸部では40度にもなる。

今日は ペリーラグーン、干潟、湿地帯に入る。何千、何万という鳥が湖やまわりの木々に羽を休めている。
シドニーでも よく観られる騒がしい白い大きなインコ:サルファークレステッド コカトゥー。
愛らしいキングフィッシャー:カワセミは体に比べて 頭が大きくて可愛い。
ジャビルーというアボリジニーの愛称でよばれる足が赤く 体が白と黒のコウノトリ。黒くて長いくちばしで魚を取っている。
ブラックコカトゥー(黒インコ)は、全身黒いのに尾だけが赤くて とても大きい。
ブラミーカイトというトビは 白い胸に茶色の羽で悠然と飛んでいる。立派なので はじめはこれが 海の王様、シーイーグルだと思っていた。
シーイーグルは美しい白い胸に黒い翼で雄大、さすが王様の貫禄。ブラックブッチャーバードというモズもペリカンもガチョウまでいる。

鳥を見るための遊歩道と展望台が定められていて、それ以外のところを歩くことは禁じられている。ワニがいるからだ。
ワニには淡水ワニと海水にいるワニの2種類がいる。湖に居るワニは小型で人を襲わないが、海のワニは人でも動物でも何でも食べる。ワニを食べる地元のアボリジニーでも うっかりすると ワニに食べられる。
数年前、3人のアボリジニーの青年がキャンプをしていて、2人の見ている前で一人がワニに襲われて食べられた。二人は 立ち木に登って難を逃れたが、他のワニたちにとりかこまれて3日間 木から下りてくることが出来なかった。3日間、木に掴まって助かった青年達も偉いが、3日間人があきらめて落ちてくるのを待っていたワニも我慢強くて執念深い。

ペリーラグーンから アボリジニーの町 ウィンダムに入る。
人口1000人。かつて 人々は牧畜と食肉加工に携わっていた。屠殺した牛や羊の肉は冷凍処理をして外国に輸出したり他州に発送する。用のなくなった肉や骨は河に捨てられる。その血の匂いでワニが集まってきた。ところが近年では 牛も羊も生きたまま インドネシア、エジプト、サウジアラビア、中東の国々に輸出するのが主流になった。モスリムの国では生きたままの家畜を買い取り お祈りをしながら殺した肉しか食べないからだ。
これがまた、オーストラリアの動物愛護団体からクレームがついて、毎年のように問題になっている。生きたままの食肉牛が狭い船のなかで横になるスペースもない状態で運ばれる為死亡率が高いからだ。いまでは徐々に 運送中の環境が改善されてきた という。
今日も一日晴天で 暑かった。
ビールが美味しいはずだ

2010年9月28日火曜日

バングルバングルを飛ぶ




北部準州ダーウィンから 500キロ走ってキャサリン渓谷を見て、また500キロ飛ばして、西オーストラリア州 キンバリー地区のクヌヌラに来てアジル湖 オルド河下りをした。
今朝は5時に クヌヌラから150キロ走って小さな飛行場に来た。ここからパーヌル国立公園、バングルバングル山脈を上空から見る。

パーヌル国立公園は 世界自然遺産に指定されている。パヌールとはサンドストーン(砂岩)という意味。バングルバングルと言う非常に珍しい奇観を誇る山脈をもつ。横縞もようの釣鐘型の山々が 23万ヘクタールという途方もない広さで広がっている。デボン期 3億6千万年前に形造られた自然奇観だ。サンドストーンと微生物に侵食された鉄を多く含んだ岩の層とが地殻変動と水と風による侵食をくりかえして 山々の横縞もようを作ってきた。

ここが発見されたのは つい25年ほど前の話だ。それまでは この山々を知っているのは 地元のアボリジニーと、近くのダイヤモンド鉱山に働く限られた人だけだった。雨期の11月から3月までは ここに至る道が閉鎖されるため 1年のうちの半分 乾期にしか入れない。乾期でも 道が険しいので4輪駆動のジープに、ガイドつきでないと入れない。一般的なのは 小型飛行機で国立公園内まで入り、そこからジープで見て回る方法だ。

5人乗りの小型飛行機で クヌヌラを発つ。ここから550キロも距離を 上空500キロから3500キロの高さで、飛ぶ。乗っているとエンジンの音が ものすごくうるさい。ごつい航空用イヤホンをつけて、狭い椅子にすっぽり入り込み、キャプテンパイロットの指示に従う。
朝日が昇ったばかり。今日も晴天。ヒョイと、飛行機は空に浮かんだ。
アジル湖の緑、オルド河の青、一面灌漑で潤された農地の緑、赤い大地、青い空。

30分たったところで 飛行機は急にガスに囲まれる。キャプテンが「今日は バングルバングルを飛ぶには雲が多すぎるよ。ダイヤモンド鉱山だけ観て帰るかい?お金は半分返すよ。」と、、。キャプテンの声は良く聞こえるが 私たち乗客の声はキャプテンには聴こえない。ジェスチャーで、「いやだ。いやだー。帰りたくないー。」「バングルバングルまで曇っていてもいいから 飛んで、飛んでー!」と必死で訴える。他の3人も 悶えんばかりに行きたい行きたい行きたいと ジェスチャーで斉唱する。その勢いに折れて、キャプテンは雲の中を飛ぶ。横を見ると 同じ頃飛び発った 他の客を乗せた小型飛行機が 雲のずっと下を飛んでいる。それならば、、、と、こちらのキャプテンも グンと機体を低くして 地上500メートルを飛んでくれた。

雲の下、バングルバングルの山々の頂上スレスレを飛んでもらって 見た山々の素晴らしいこと。ただただ見惚れる。
山々の美しい 渦巻き模様、重なる山脈の模様の色合いは 山ごとに異なって それぞれの美しさを競っている。3億6千年前から侵食を続けてきた山々の大きさ。自然の形造る芸術作品に、感動する。バングルバングルの上を何度も何度も旋回してもらう。
そのあとアーガイルダイヤモンド鉱山の上を飛んでもらって、クヌヌラに帰る。

帰り道 ガスのなかをキャプテン 後ろを見たり横を見たり キョロキョロして、私に「他の飛行機どこだろ?」を聞くのには びっくりした。え?私たちが他の飛行機がどこを飛んでいるか 探さなければならないの? ガスのなかで、突然目の前に他の飛行機が現れた時では、もう遅いのではないでしょうか。空中衝突。
ということはなく、無事に飛行場に着陸。
とても良い飛行だった。
バングルバングルは 予想以上の美しさだった。
きょうもビールが美味しいはずだ。

2010年9月27日月曜日

州境を越えて キャサリンからクヌヌラへ




旅をはじめて第4日目
北部準州のキャサリンから さらに500キロメートル車を走らせて、州境を越えて 西オーストラリア州に入る。
州境では 厳しい荷物検査がある。リンゴや蜜柑、ローストしてないナッツ、植物、昆虫などは、すべて取り上げられて棄却される。生ものに付いているかもしれない農作物に害になる害虫の卵などを 西オーストアリア州に持ち込ませないためだ。

到着した町は 西オーストラリアで一番新しく出来たばかりの町、クヌヌラ。
1960年にオルド河かんがい工事をするために、人口が増えて、町になった。山々と渓谷から落ちてきた水を貯めて 人工的に湖に変えたのが アジル湖(LAKE ARGYLE)。オーストラリアで一番大きな人工湖だ。豊かな湖の水はオルド河に流れ、水力発電に使われ かんがい用水として牧畜、農業に使われる。また、毎年のように新しく発見される鉱物資源の発掘にも使われている。
鉱物資源というと、必ず名前が出てくるのが リオティントとPHB、世界最大の地下資源を牛耳っている。これがオーストラリアの経済基盤を握っていて景気の上下を左右している。採掘しているのが 金、ダイヤモンド、亜鉛、ニッケル、銅など。世界で産出されるダイヤモンドの3分の1を ここで産出している。農業では、バナナ、マンゴー、メロン、麦、大麦など、近年では、サンダーウッドの植林が主流になってきている。

クヌヌラでは こういった開発が始まる前は 長いこと デュラックファミリーが牧場を経営していた。彼らは、まず土地を買い、所有した1万2千平方メートルの土地に5万頭の牛を持って牧場を始めた。
オーストラリアが 50万年前に、南極大陸から分離して以来、厳しい自然のなかで 火星同様の表土を持つ砂漠ばかりのオーストラリアで 岩と渓谷から流れ落ちた水で湖を作り、灌漑施設を作り、牧場と農業を確立したイギリス人開拓者たちの努力と開拓者精神の強さに思いを馳せる。

現在1万4千平方メートルの土地が 灌漑工事によって潤され、牧畜、農業、鉱業を成功させ、オーストラリアを支える経済をこの一番新しい人口たった6000人の町が代表しているわけだ。
クヌヌラの町を歩いてみる。あるのは しょぼい銀行、スーパーマーケット、酒屋など。滞在したホテルはバンガロー風。アジル湖、オルド河に作られた水力発電で、電気はあるものの おせじにも一流ホテルとはいえない。年間平均気温が35度。もともと西オーストラリアは オーストラリアの中でも一番 年間平均気温の高いところだ。ここには住みたくないが、家を買うとすると平均的安つくりの3寝室の家で7千万円、と聞いて驚愕する。鉱山開発で、次から次へと新しい鉱物資源が見つかり、農業も順調で人が足りなくて 家も足りなくて家がものすごいスピードで値上がりしているのだそうだ。

北部準州の地図を広げてみると、その多くが グレーの色に塗り分けられていて、アボリジニーの土地ということになっている。5万年も前から 元来アボリジニーの土地だったオーストラリアに イギリス人が入植して以来 砂漠ばかりだった土地に水を引き、農業、牧畜を持ち込み人が住めるようにして、さらに地下資源を確保してきた。
そのあとで、公民権の認知を経てアボリジニーが土地所有権を主張して、裁判では かなりの土地がアボリジニーに返還されてきた。しかし、現実には狩猟で生活をしてきたアボリジニーは、白人入植者たちの経済活動に協調して生きていくしか他に方法はない。土地所有権は返されても 近代生活の中で 農業、牧畜、鉱業に、雇われて給料生活者となり 折り合っていくしかない。

一方、北部準州の20%あまりの土地を占めるアーネムランドが 残されており この広大な未開発の土地には 完全なアボリジニー社会が残っている。ここには部外者は立ち入ることが出来ない。許可されたものだけが出入りできて、完全なアボリジニーだけの世界が残されている。
現実と、あるべき姿としての理想、この2つが何とか折り合いながら やりくりしている姿が 現在のオーストラリアの姿だ。
500キロメートルあまりの移動。
今日もビールが美味しい。

写真は、アジル湖、湖畔の木にとまる蝙蝠、灌漑農地

2010年9月26日日曜日

キャサリン渓谷を見る





北部準州のダーウィンから キャサリンの町に向かって スチュワートハイウェイを南下する。距離は450キロメートル。

スチュワートハイウェイの名前は ジョン マクドナルド スチュワートという南オーストラリアからダーウィンまでオーストラリア大陸縦断を初めて走破した冒険家の名前からくる。また、向かう先のキャサリンという町の名は このスチュワートの大陸縦走を資金面で支えた南オーストラリアの大富豪家 ジェームス チェンバーの娘の名前だ。ジョン マクドナルド スチュワートの偉業は 大陸縦断のみならず、電信通信網を施設するための予備調査をして オーストラリアの南と北を結んで通信網を確立したことにある。彼は行動力も判断力もあり 探検隊長として、部下一人として失わずに全員を生かして帰した。立派な冒険家だったが、後半生はアルコール中毒で惨めに死んでいった。彼の葬式に参列したのは たった7人だったという。4人が親戚で、3人がナショナルジェォグラフィックの社員だった、と。なんて、素敵な奴なんだろう。

450キロメートルのダーウィン、キャサリン間を私たちを乗せた車は時速150キロで飛ばしていく。この北部準州では 3年前まで 車の時速制限がなかった。北部準州は人口もわずかで3分の2がアボリジニーだ。なかでも町と呼べるのは アリススプリング、エアーズロックとダーウィンくらいだ。広大な土地にわずかな人口しかいないので 地元の人は車をとばす。この州で 事故を起こすのは85%が観光客だった。自動車事故で亡くなる人が他州の人ばかり、、、ということで批判が集中して ついに北部準州でも道路スピード制限が制度化されて 2007年から最高速度が130キロと、決められた。その結果、今度は事故を起こすのが地元の人ばかりになった。130キロなんて、トロトロ 人一人いない赤土の大地を走っていると 退屈で退屈でハンドルを握りながら 眠ってしまうからだ、という。

まあともかくダーウィンからキャサリンまで スチュワートハイウェイを 400キロあまり走ったところで、キャサリン渓谷に到着。
キャサリンの町は人口1200人。

鉄分を含んだ激しく赤い色をした岩山を越えて 渓谷を渡るグラスボートに乗り込む。両側を切り立った屏風のように聳え立つ岩の間をボートが渡っていく。両側の岩は1000メートルちかい。何千年も時間をかけて雨期と乾期を繰り返しながら 岩を侵食してできた自然の渓谷だ。空が青い。岩が赤い。水が真緑だ。気温が36度で 太陽が情けも無く照りつける。荒々しい赤い岩壁と岩壁のあいだを、キャサリン河とヴィクトリア河が流れていく。迫力満点。2時間あまり、グラスボートを乗り換えて、二つの渓谷を渡って また戻ってきた。河をわたる風が心地よい。

6000年以上前のものと言われるアボリジニーの壁画を観た。高い壁に描かれた数人のアボリジニーの仲間の絵だ。ボートから20メートルほど高いところに 描かれているので写真に取ったが、あまりはっきり見えないのが残念。6000年の月日がたって、今なお人の心に訴えてくる壁画の威力に圧倒される。

グラスボートを降りたところで 「アイ ラブ ツーリスト」と言って口を大きくあんぐり開けているワニの立て看板をみて 思わず笑う。「ワニに注意」とか、「泳ぐな!」とか命令調の注意書きより ずっと気が利いている。
今日もビールが美味しいはずだ。

2010年9月25日土曜日

北部準州ダーウィン 第二日目




気温35度、日中の日差しが強くて ちょっと街と海辺を散策しただけで たちまち真赤に日焼けした。ダーウィンの街は こんがり日焼けした若者であふれている。世界中からやってきたバックパッカーたちだ。街にはマックも コールススーパーマーケットも ユースホステルもある。しかし海は ワニとクラゲがいるので 波乗りや遊泳などはできない。テントを載せてキャンプして移動しながら ダーウィンからカカドウ国立公園を見て回る四輪駆動ジープの旅をする若者達の顔は 冒険者達の顔だ。良い顔をしている。

ここ 北部準州(ノーザンテリトリー)の議会と博物館を見る。
博物館は美術館も兼ねていて アボリジニーのキャンパスに描かれたみごとな絵画がたくさん並んでいる。アボリジニの絵画は それぞれの土地の泥とか植物を顔料に使っているので 描かれたときと同じ状態に温度と湿度を維持するのが とても難しい。アボリジニーの作品は維持費が他の絵に比べて 何倍もかかるし、維持するのが大変だと、美術館のアボリジニーのスタッフが言っていた。

博物館の中に 1974年のクリスマスイヴに ダーウィンを襲ったハリケーン トレイシーに関する一角がある。このハリケーンでダーウィンの70%の建物が崩壊して、50人の死者を出した。このときの風速150キロというとてつもない殺人的な風の音を 来館者に体験させるための小部屋がある。真っ暗な部屋の中に入ると 風速150キロが襲う風の音を再現してくれて、ハリケーンの恐怖を体験させてくれる。一人で入ったので、とても怖かった。

ダーウィンというと、必ず1974年のハリケーン トレイシーの話が出てきて、ついでに1942年の日本軍ダーウィン爆撃の話がでてくる。これはもう、セットメニューのようなもので、避けて通れない。1941年12月 日本軍はパールハーバーを攻撃したあと、1942年2月には ダーウィンを 242機の戦闘機で爆撃したため 湾内にいた6隻の大型船が沈められ、市庁舎、病院などが破壊、243人の民間人、軍人が亡くなった。パールハーバーとちがうところは、一回だけの攻撃ではなくて、日本軍はここを1943年までの間に、何度も繰り返して空襲したことだ。したがって、いまだにダーウィンでは 日本人の受けが良くない。

ダーウィンにはたくさんの岬があるが、先端はみな軍事基地になっていて、立ち入ることが出来ない。イラク、アフガニスタン、スリランカなど、内戦状態にある国々から、ボートでオーストラリアに難民としてやってくる人々が押し寄せるからだ。ブラックマーケットが インドネシアにあって、人身売買のプロが 難民受け入れの時期を読みながら 小さな漁船で 一人200万円とかを取り立ててボートでやってくる。世界で戦争がある限り、また富める者と 何も持たない者がある限り 難民として自分の国を捨てる人は後を絶たない。欧州でも米国でもオーストラリアでも日本でも 難民受け入れは 簡単に解決することのできない難題だ。

明日から ダーウィン発キンバリーの旅のグループの一員になる。キンバリーというと、西オーストラリアの秘境といわれるところだ。たくさんの山と渓谷と湖がある。一般観光地ではない。来る前に、調べてみたがあまり この地域の旅を紹介するものが見つからない。プロの写真家の写真集ならある。で、図書館の司書に、「キンバリーの本をみたい。」と言って 探してもらおうとしたら、北部準州の項で探している。「ちがいます。西オーストラリアです。」と、言ったら司書に睨まれた。詳しい地図とか、ガイドとかが見つからなかったので、行って見るしかない。そんな旅もいいかもしれない。
今日も 冷えたビールが美味しい。

写真は、北部準州議会、日本軍爆撃による被害者の墓地、アボリジニーの絵画 

チモール海に沈む太陽を見る




オーストラリアの北の果て、ダーウィンに到着。
日本からダーウィンには ただ経度をまっすぐ下に 下りてくればよい。地図で見てみると 日本に一番近い街だし、南極に向かって まっすぐ下がったところにある。しかし 日本からの直通便はない。いったんケアンズとか、パースとか メルボルンとかに行って 国内線に乗り換えなければならない。

このトップ エンドと呼ばれるダーウィンは沖縄より緯度で10度 距離にすると1000キロメートルも赤道に近い。南緯12度から15度にあって 南回帰線(南緯23度27分)と、赤道の真ん中にある。熱帯サバンナ気候で 雨期と乾季がはっきりしている。街の名前は チャールズ ダーウィンがビーグル号で立ち寄ったと言われているので、そのまま街の名前になった。

空港から車でダーウィンの町に入る。
海岸線沿いにある 広々とした公園の木陰では 円座を組んでたくさんのアボリジニーの人たちが のんびりとくつろいでいる。彼らのリラックスした穏やかな表情は シドニーでは決して見られないものだ。

海岸に向かって建てられたホテルのバルコニーから 日没を見る。
チモール海に沈む 大きな南国の太陽。西側はインド洋だ。
みごとな日没にビールが美味しい。

2010年9月11日土曜日

北北西に進路をとるのだ




旅にでることにした。
3交代勤務の職場で働いているので、年に6週間有給休暇がある。10年間 同じところに勤めていると その6週間の上に さらに1ヶ月有給休暇がご褒美でもらえる。けれど、それは まだ先のこと。
年6週間の休暇を どう過ごすかというと 大抵のオージーの同僚は海外を旅しているようだ。「オージーの4人に1人は海外生まれ。」という、移民で形作られている国なので 多くに人は 休暇で自分の生まれた国や親戚のいる国を訪ねる。ご多分にもれず私も 父が元気な内は 二人の娘を連れて毎年日本に帰っていた。しかし、98歳で、記憶を失くした父に会いに行くのは つらい。今年の1月に帰国しているので、残った有給休暇を 国内旅行で過ごすことに決めた。

オーストラリアに住むこと15年にして、初めての大がかりな国内旅行だ。北上することにした。オーストラリア大陸のほとんどは 乾燥した砂漠だ。人は住めない。大陸を一周する海岸線の一部に緑と水のある豊かな土地が散在しており大部分の人がここに集中して住んでいる。シドニーという一番人口が多く、進歩 繁栄している街にいると、オーストラリアが もともとはアボリジニの国だったことを忘れそうになる。
だから日常から非日常への旅は 思い切り文明から離れた土地に行ってみるのが 良い。そこに砂漠、湿地、荒野といった 本当のオーストラリアの姿が見られるかもしれない。アボリジニの人々の本場に足を踏み入れてみよう。

北北西に進路をとって、行く先は トップエンドと呼ばれるオーストラリア大陸の先端 一番日本に近い点、ダーウィン。

ダーウィン地域は 熱帯モンスーン気候だ。明確に乾季(5-10月)と、雨期(11月ー4月)に分かれている。ここで4万年前から暮らしてきたアボリジニにとって 季節は6つに分かれる。すなわち 1-2月のモンスーン期、3-4月の収穫期、5-6月の冷涼期、7-8月の乾燥期、9-10月の灼熱期、11-12月のモンスーン期の6つだ。灼熱のダーウィンを歩くことになった。

ダーウィン カカドウ国立公園は 四国全部の大きさ。アボリジニが4万年前から暮らしてきた伝統的な生活と 今もあまり変わらない生活を 続けている。自然が豊かな土地で、1600種の植物、1万種の昆虫、60種の哺乳類、132種の爬虫類、290種の鳥がいる。人類史上最古といわれるアボリジニの壁画(ロックアート)がたくさん残っていて、豊かな動植物が繁殖していることで、ユネスコから世界遺産に指定されている。

先住民族アボリジニは 約4万年前に(5万年前と言っている学者もいる) インドネシアからカヌーでやってきて大陸に住み着いた人々だ。地球が氷河期にはいったのは 5万年前と2万年前が最後と言われているが 気温が下がり 地表の水分が凍ったため海面が今から比べると100メートルくらい低かったので カヌーによる大陸どうしの行き来ができたらしい。

アボリジニは 文字を持たない人々だ。語る言語は部族の数だけある といわれていて600くらいあったらしいが、今では200くらいになって、ひとりの人が 4つも5つもの方言を話すことができるようだ。年寄りが若い人に知識を語る口頭によって伝承文化が 維持されてきた。

人類最古の壁画といえば、学校の教科書ではスペインのアルタミラ洞窟の壁画や フランスのラスコー洞窟画が 紹介されていて、記憶に新しい。赤茶けた岩に バッファローの絵が描かれていて、それが1万7千年前の作品とは思えない迫力だ。しかしアボリジニの壁画は それらの絵よりももっと古い、少なくとも2万年昔に描かれたものだそうだ。鉱石や土、植物の樹脂などを混ぜ合わせて造られた顔料や、焚き火の木炭で 人やカンガルー 魚、カメなどが描かれている。

中でも興味深いのは ナマゴン NAMARRGON というライトニングマンの絵だ。これは雷をおこす神様のことで、雷を持った人の姿をした絵だ。また、2000年前の作品では、レントゲン画法といわれて 人や動物の姿を ものの内部を透かしてみたときの骨組みを描写したものもある。 アボリジニのアートは とても豊か。シドニーではコピーしか見られないので、本物を観てこようと思う。
とっても楽しみ。

2010年9月2日木曜日

メトロポリタンオペラ 「ばらの騎士」を観る



ニューヨークメトロポリタンのオペラを ハイデフィニションフィルムに収めたものを 映画館で観た。同じハイデフィニションフィルムを日本でも、限られた映画館で上映しているそうだ。日本で上映しているフィルムのなかには、歌舞伎も狂言も文楽もあるらしく、そういったフィルムを ここでも観られたら どんない良いか、、、と思う。
オペラは リチャード シュトラウスの「ばらの騎士」、原題「DER ROSENKAVALIER」、「デル ローゼンカヴァレル」というドイツオペラ。リチャードを日本では ドイツ語読みにしてリヒャルドといっているみたい。ウィンナーワルツの ヨハン シュトラウスとは関係ない ゴリゴリのドイツ人作曲家。

初演は1911年、ドレスデンロイヤルオペラハウス。3幕 3時間30分と、長い本格的オペラで、リチャード シュトラウスの代表作とされている。他に彼は「サロメ」、「エレクトラ」など とても前衛的なオペラを作曲したが 「ばらの騎士」が大ヒットしたため これが彼の最高傑作といわれている。初演時から人気が出て、ヨーロッパ各地から このオペラを観る人達のために 特別列車が仕立てられ「ばらの騎士列車」とよばれたそうだ。ウィーンの香り高い 優雅でモーツアルト風の繊細さに満ちている。吉田秀和が オペラの中で モーツアルトを除けば これが一番好きだ と どこかで書いていた。

「ばらの騎士」というと、手塚治の「りばんの騎士」を思い浮かべてしまうけど ウィーンの貴族の間で当時 婚約の契約に際して 相手に銀の薔薇を送る習慣があり、その薔薇を届ける使者のことを薔薇の騎士と呼んだ。
シュトラウスはソプラノの声を一番愛していて、世界で一番美しい音だと言っていた。このオペラでは テノールを歌う王子様や恋を語る男はいない。銀の薔薇を届ける美青年の騎士オクタビアンは メゾソプラノを歌う男装の麗人 女性だ。昔はカステラートが 歌っていたのだろう。カステラートは、高音を歌うために睾丸を除去された歌い手のことで これについては5月26日の日記で書いたので繰り返さない。

このオペラでは 極端にアリアがなく、合唱もない。メゾソプラノの薔薇の騎士オクタビアンと ソプラノを歌う彼の愛人と恋人の3重唱が 多くて みごとに美しい。歌のどれもが重唱だ。繊細だが難曲ばかり。音程も次々と転調し 演奏するオーケストラはどんなに大変か と思う。頼まれても演奏したくない。安楽椅子で聴く分には 実に贅沢な喜び。立場が違えば 天国と地獄だ。
舞台設定が マリア テレシア時代のウィーンなので ロココ調の家具や衣装で、それを舞台に再現するとものすごくお金がかかる。お金も時間も しっかり掛かる 重いドイツオペラ。絶叫型アリアの多いイタリアオペラと比べると、何と違うテイストだろう。

しかし ハイビジョンフイルムを映画館で観て $24もするけれども得をした気分になれるのは、2回ある幕間の休憩時間に、フイルムが止まることなく 幕の内側で、舞台セットを組みかえるために何十人もの作業員が 次の舞台を作る様子をずっと見せてくれることだ。これは オペラより面白いかもしれない。クレーンで階段がつるされて、背景を描いたパネルが次々とはめ込まれていく。魔術をみているようだ。
またプレシド ドミンゴの 出演者へのインタビューまでサービスされていて、舞台裏で歌手達の素顔が見られるのも、うれしいオマケだ。

ニューヨークメトロポリタンオペラオーケストラ
指揮:エド デ ワート
キャスト
マルシャリン元帥夫人:レネ フレミング
騎士オクタビアン  :スザン グラハム (メゾソプラノ)
ソフィー      :クリステイン シャファー (ソプラノ)
オックス男爵    :クリステイン シグマドソン(バスーン)
ソフィーの父ファニル:トマス アレン (バリトン)

ストーリーは
ウィーンにある屋敷で マルシャリン元帥夫人と 17歳の美青年オクタビアンは愛し合って暮らしている。
そこに夫人の従兄弟に当たるオックス男爵が訪ねてくる。彼は俗物で、ケチで野卑で臆病者で好色漢だ。ファニルという新しく貴族に昇格した裕福な成金の娘、ゾフィーを妻に迎えたい意向をもっている。そこで、マリシャリン元帥夫人は オクタビアンを婚約成立のための薔薇の使者に立ててやることにする。
純白の美しい衣装を身に着けたオクタビアンを先頭に オックス男爵はファニルの屋敷に到着する。銀の薔薇の花を 娘のゾフィーに手渡して口上を述べるオクタビアンは しかし一目で可憐なゾフィーに恋をしてしまう。ゾフィーも美しくて立派な騎士オクタビアンを一目で愛してしまう。
そこに登場するオックス男爵は 無作法な上、すでにゾフィーの主人になった気で強引にことを運ぼうとする。たまりかねて、ゾフィーは オックス男爵と結婚しない、と父親に宣言して、 オクタビアンに助けを求める。しかし父親は娘のわがままを許そうとはしない。オクタビアンは いやがるゾフィーを無理に 連れ出そうとするオックス男爵を 止めさせようとして剣を抜くが、オックス男爵は からきし臆病で剣は使えず オクタビアンに肘を突かれて怪我をして大騒ぎをする。

オクタビアンは策略を練る。召使を使って オックス男爵に 女からの偽の手紙を渡して密会におびき出すことにした。いかがわしい宿屋に、オックス男爵が 約束どおりにやってくる。現れたのは 女装したオクタビアンだった。男爵が熱心に口説き始めると、ゾフィーも、ファニナルも、警官や おまけに元帥夫人までが現れて、大混乱。あまりの醜態に、元帥夫人はオックス男爵に 貴族としての自覚をもって、立ち去るように命令する。
そこで元帥夫人とオクタビアンとゾフィーの3人になる。オクタビアンは 元帥夫人に未練はあるが、ゾフィーを放っておくこともできない。そんな 混乱してうろたえるオクタビアンに向かって、元帥夫人はやさしく、若い二人で幸せになるように、と言い置いて自分は去っていく。というお話。

気品があり、風格も備わっている元帥夫人のソプラノと、若くて可憐、初々しいゾフィーのソプラノに オクタビアンのメゾソプラノが加わって みごとな3重唱になる。オクタビアンを愛しているのに、自分はもう若くないのだから 愛を捨ててあげましょう と嘆きながらも力強く愛を歌いあげる元帥夫人と、ただ一途にオクタブアンを愛していますと訴えるゾフィーのソプラノが オクタビアンの低音にからみあって、とても美しい。
この3幕の3重唱には、シュトラウスにとっても とても愛着のある曲だったようで、彼が亡くなったとき遺言どおりに、この3重唱が演奏されたそうだ。