2009年8月25日火曜日

映画 「COVE」(入り江)




映画「THE COVE 」を観た。
シドニーでは8月22日から 二つの劇場で公開が始まった。ニュータウンのデンディと、ダーリンハーストのシェベル劇場だ。全米でも7月から 公開された模様。
日本で公開されることを 切に願う。
2009年 ロバート レッドフォードのサンダース映画祭でオーデイエンス賞、カナダ(HOT DOGS)ドキュメンタリー最優秀賞、シドニー映画祭オーデイエンス賞、ブルーオーシャンフィルム最優秀賞受賞作。

和歌山県太地町のイルカ追い込み漁で 年2300頭のイルカが捕獲され、水族館に売られる一部を除いては、殺されて鯨肉として市場に出回るという。その様子をフィルムに納めたもの。

製作者は、リチャード オーバリー(RICHARD O"BARRY)。
1970年代に米国TV番組「フリッパー」(邦題「わんぱくフリッパー」)で主演したイルカ達の捕獲と調教をした人。マイアミの水族館で たくさんのイルカを調教して イルカショーを主催して人気を呼んだ張本人。テレビ局の思惑どうりにイルカを調教することに何の疑問も感じていなかったが、「フリッパー」の主役だったイルカが ストレスで弱り果てて リチャードの腕の中で息を引き取ったことで、考えを改める。以降、私財をなげうって、捕獲されたイルカを海に戻してやる活動に打ち込む。ハイチ、コロンビア、グアテマラ、ブラジルなどで水族館や劣悪な環境で見世物になっていたイルカを 大海に返す運動をしてきた。1991年には 国連の環境プログラムから、業績を表彰されている。著書に、「BEHIND THE DOLPHIN SMILE」1989年、「TO FREE A DOLPHIN」2000年がある。
WWW SAVEJAPANDOLPHINS.ORG

監督は ロイ シホイヨス(LOUIE PSIHOYOS)。ナショナルジェオグラフィック誌のカメラマン。優秀なダイバーでもある。「フューチュン」、「デイスカバー」、「GEO]、「タイム」、「ニューズウィーク」、ニューヨークタイムズ誌などの表紙カバーの写真を撮っている人。2005年に海洋保護協会を設立。

カメラクルーは 世界最高のフリーダイバーと言われる マンデイー ロー クラックシャンク(MANDY RAE CRUICKSHANK)。彼女は水深90Mまで 6分間息を止めて自力で潜って 上ってこられるそうだ。彼女とカーク クラツク(KIRK KRACK)が、ダイバーとして水中カメラをもって撮影に参加。

これに ハリウッドの特殊撮影グループ カーナーオプテイカル社(KERNER OPTICAL)が加わり 岩に埋め込んだ高解像度ビデオカメラで、崖の上から 追い込まれるイルカ漁の様子を撮影した。また、鯨の形をした飛行船を造り 遠隔操作で上空から イルカ漁の様子を撮影することに成功。一連の撮影を 特殊カメラのセンサーで 警備員達の妨害を 避けながらゲリラ的に撮影が行われた。

2007年に 環境保護団体「シーシェパード」に 太地町のイルカ漁が撮影され 世界に紹介されて以来 太地町では環境保護団体や外国人やフイルムクルーに神経を尖らせている。警備員を沢山雇い、撮影や見学にも介入して 妨害をしている。
撮影には大掛かりな撮影機具が要る。「オーシャンイレブン」ならぬ、かくし撮影チームが太地町に入ったとたんに、24時間の尾行、警備官による嫌がらせ、執拗な追跡と一挙一動への介入が入る。ものすごく人相の悪い私服警官ともヤクザともいえない男達。

イルカを追い込む入り江には、高い崖に囲まれた 小さな入り江で、トンネルを越えないと たどり着けない。イルカの追い込み漁が始まると、トンネルが閉鎖され、崖の上の公園も立ち入り禁止になり、人一人追い込み漁の様子を見ることが出来ない。
イルカ漁を 空から、崖の上から、海底からと、3方向から撮影する為に部隊が秘密行動を開始する。明かりもない深夜 岩に埋め込んだカメラを設置するために崖をよじ登るクルー、囲い込まれたイルカ達を海底から撮影する潜水クルー。そして、空から飛行船を飛ばすクルー。執拗に監視する警備員達から逃れながら行動する。

そして、撮れたフイルムは 血、血、血 の海だ。人と同じ 家族とそれの属するコミュニテイーを持って暮らしていたイルカが群れごと捕獲され 人と同じ豊かな感情を持ったイルカが 身動きできない狭い網に1昼夜囲われた末 一頭一頭 刺し殺されていく。水中カメラで捉えた赤ちゃんイルカ達の絶叫ともいうべき叫び声。親達を求めて泣き叫ぶ幼いイルカの声、、、とても、正視できない。
リチャード オーバリーが言う。日本には立派な環境保護団体や、科学者、良心的な海洋学者、グリーンピース、それを支持する人々がたくさんいる。WHERE ARE THEY?どこに行ってしまったんだ、と。
彼は何人もの日本人にインタビューする。毎年9月になると2300頭ものイルカが 殺されて食肉にされることを知っていますか?道行く人々、誰もが答えはNONだ。
IWCで、日本代表が 写真を見せながら ミンク鯨は年々増えています、、、と説明している。そのフィルムの前で、太地町のイルカの血に染まった海で男達がイルカを突き刺して殺しているフイルムを映し出したコンピューターを腹にくくって 躍り出るリチャード。これを即座に激写するニュースマンたち。
くりかえして言う。この映画の日本での上映を切に願う。


日本がクジラとイルカを捕獲していることについて 世界中から批判されて、孤立している状況を認識すべきだ。現状では、IWCで、日本は商業捕鯨を中止させられ 調査捕鯨についても 厳しく中止を求められている。しかし日本は札束にものをいわせて IWCの票を買って アジアやバハマ島などの小さな国から日本支持票を買い、辛うじて調査捕鯨を続けている。このことについて、先進諸国からは、厳しい糾弾を受けている。南極海での捕鯨については ワシントン条約にも違反するということで、毎年国際法に訴えるとの諸国からの圧力がかかっている。

西オーストラリアのブルーン市は イルカ漁に抗議して、太地町と姉妹都市であることを中止した。この8月 市議会が全会一致で 太地町がイルカ漁を続けるかぎり交流を中止することに決定。
ブルームは戦前から日本から潜水夫がきて真珠を取って地域の産業に貢献してきたが 日本の鯨とイルカ漁が問題になって以来 日本人墓が荒らされたり、日本人アタックが起きて問題になっている。日本人は 日本にいるかぎり何をやっても何を言っても安全と思っているかもしれないが 海外に住む日本人が 襲われたり 嫌がらせを受けるなど、被害が出ていることについて無視してもらいたくない。

南極海での日本の調査捕鯨にも、日本近海のイルカ追い込み漁にも反対する。

IWCでは一定程度の大きさの鯨を対象に保護基準を設定していて、大きさが違うだけで イルカは保護から外されている。イルカも鯨も鯨類(クジラ目)で、同じ大型野生動物だ。イルカは、社会のなかで、社会的役割をもち集団行動をとる 高度な知性を持つ。その生態や生息範囲など、まだわかっていないことも多い。
鯨もイルカも 高い知能と社会性をもった野生動物だ。人とともに生きてきた家畜とも ペットとも異なる。自由に大海に生きる 大型野生動物は 保護の対象であって、殺して食うものではない。
鯨とイルカの捕獲、食肉することに反対する理由は以下の通り。

1)他に蛋白源となる食品が豊富な日本で鯨肉を食べ続けなければならない理由がない。鯨肉を食べるのは日本の伝統文化だ というのはウソだ。都市に住む多くの日本人が鯨肉を食べ始めたのは戦後であり、鯨肉が日本人の蛋白源だったという歴史はない。

2)海は誰のものでもない。そこに生息する野生動物を 世界中のひんしゅくをかいながら捕獲 食肉すべきではない。鯨は家畜ではない。

3)殺生方法が残酷きわまる。日本側はIWCで 瞬時に殺しているというが、逃げ回る野生動物にモリで突き 力尽きるまで泳がせて引き上げて殺す鯨、岸に追い込んで一昼夜網で囲み、突き棒で一頭一頭突き刺して殺すイルカ。自由に大海を泳ぎまわっていた動物を瞬時に殺す方法があるわけがない。

4)調査捕鯨に毎年5億円の調査費が税金から仕払われているが それに見合う調査のフィードバックがない。 調査捕鯨の結果が国際的に権威ある英語論文雑誌に まったく成果が発表されていない。科学研究のために億単位の国庫補助を受けて調査捕鯨していながら 何ら研究発表が行われていない このことについて、IWCからも、先進諸国からも激しく批判されている。

5)調査捕鯨予算の多くは 捕獲した鯨を売りさばいた利益でまかなっていることが明らかになっている。これでは公正な調査ができるわけがない。賄賂を取り締まる警察部署で、その予算が賄賂をもらった金で運営しているようなもので 取り締まろうとすればするほど、賄賂をもらわなければならない という滑稽な図式になっている。

6)鯨やイルカなど大型海洋動物の肉は水銀汚染されていて、小児、妊婦などは 食べるべきではない。政府、厚生労働省でさえ、週40グラム以下に抑えるべきとしている。一食分の鯨肉カツレツで 約100グラム。危険とわかっている食べ物を、食べ物の選択肢のない子供に食べさせてはいけない。
以上。

重ねていうが、この映画、日本での上映を切に願う。

2009年8月20日木曜日

映画 「バリボ」


東チモールは1975年末 かねてからの約束どうりに ポルトガルから 平和的に独立を果たした。
しかし、ポルトガル兵が撤退すると、すぐにインドネシアからの侵略が開始される。国連からの視察を待たず、国際法違反を承知に上での スハルトを先頭とした 軍の独走によるものだった。1975年の侵略と 大虐殺によって 東チモール人の 虐殺された人の数は、183000人あまり。

このとき、オーストラリアのテレビ局 「チャンネル7」と「チャンネル9」から派遣されていた5人のジャーナリストが、インドネシア軍の侵攻と、住民の大虐殺開始の映像を捉え、世界に報道していて、インドネシア軍によって殺された。この5人の消息が絶えた時点で、5人の足跡を追って 事実を報道しようとした、新聞社、「オーストラリアン」の編集記者も、首都デリーで軍によって惨殺された。
バリボ:BALIBOとは、インドネシアと東チモールとの国境の街の名前だ。5人のジャーナリストが殺された現場だ。

監督:ロバート コノリー (ROBERT CONNOLLY)
キャスト
アンソニー ラパグリア ANTHONY LAPAGLIA
(ロジャー イースト:オーストラリアン編集記者)
オスカー アイザック OSCAR ISSAC
(ホセ ラモス ホルタ:東チモール独立政府顧問)
デモン ガメゥ DEMON GAMEAU 
(グレグ シャックルトン:チャンネル7報道官)
ナサン フィリップ NATHAN PHILIPS など

ストーリーは
1975年、バリボの海岸沖は、インドネシア軍の戦艦で埋まっていた。インドネシア軍の上陸と侵攻は、もはや時間の問題と思われていた。空からの独立抵抗軍にむけての爆撃攻撃は すでに始まっていた。国境の街は 空からの攻撃で破壊され 多数の死者が出ており、住民は 次々と避難していた。東チモール独立抵抗軍は、山から下りて果敢にも 強国インドネシア軍と戦っていた。

東チモール独立政府顧問 ホセ ラモス ホルタは、海外からのジャーナリストを呼び寄せて、現状を報道し 世界中の多く人々に 東チモールの窮状を知ってもらおうと奔走していた。彼は オーストラリアから来た「チャンネル7」と、「チャンネル9」の若いクルー5人が 前線の状況を報道するために、組織立てて護衛をつけた。5人は インドネシア軍が 国際法に違反して 隣国を侵略する様子を 映像に捕らえては フイルムを本国に送っていた。バリボの海岸沖を埋める軍艦を撮影し、爆撃された村々の惨状をフイルムの捉えて 避難民にそれを渡して オーストラリアに届けるよう依頼していた。遂に軍は 上陸を開始する。海岸に アリが押し寄せるように 上陸してきた軍を バリボの丘の上から、カメラに収めていた5人は インドネシア軍に追われて、次々と情け容赦なく 惨殺され、フイルムとともに、焼却される。オーストラリアの国旗を描き ジャーナリストであることを明らかにしていたにも関わらず 否、ジャーナリストだったからこそ、彼らは真っ先に軍によって口を封じられたのだった。

テレビクルーから フィルムが届けられなくなって いよいよ5人のジャーナリストが 失踪したことが明らかになった。首都デリの、ホテルを拠点にしていた新聞社「オーストラリアン」の編集記者ロジャー イーストのところに、ホセ ラモス ホルタが現れて 5人の失踪が知らされる。ロジャーは この5人のテレビ局ジャーナリスト達を探しに バリボに行くことを決意する。バリボにたどり着くまでに 空から爆撃を受けて壊滅した村々を通過しなければならない。ロジャーは ジャングルで 空からの機動爆撃に逃げ惑い、侵攻してきた地上軍からも逃れながら、生々しい、5人が殺された家の跡を見る。そして急いでロジャーは デリーに戻り 事の顛末をオーストラリアに送信しようとする。しかし、時すでに遅く デリーはインドネシア軍に包囲されていた。現状を国外に知らせようとして ロジャーは真っ先に連行されて殺される。指名手配されていたホセ ラモス ホルタは国外に東チモール独立政権を樹立するために 辛くも脱走、国外脱出に成功する。

ロジャーが滞在していたホテルオーナーの7歳だった娘が ロジャーが引き立てられ 殺されるまでの ありのままを目撃していた。その後、24年間たって、東チモールが 悲願の独立を果たしたときに、やっと、当時の真相究明のための証人探しがはじまり、この少女が重い口を開くことになる。この少女の証言によって初めて、消息不明だったロジャー イーストの死亡が 死後24年たって明らかになった。
というおはなし。

映画は これで終わるが、5人のジャーナリストの死も、当時の生き残りのレジスタンスの証言などから、やっと明らかになった。しかし、彼らの死に至る詳細は まだわかっていないことも多く、残された5人の家族らは現在も法廷で事実確認の裁判係争中だ。5人の銃殺に、インドネシア軍将校だった スハルト(のちの大統領)が直接 手をくだしたのではないか と言われている。事実、この映画のなかで、両手をあげて、オーストラリアから来た記者です、といっているジャーナリストに向かって 有無を言わさずピストルで撃ち殺した男の役者は 異常にスハルトに似ていた。映画監督もなかなか芸が細かい。

最前線を報道するジャーナリストは 常に危険に身をさらされる職業だ。が、情報と引き換えに 命を失っていった若いジャーナリスト達の死は余りにもむごい。無残だ。
つい最近も チェチェンのジャーナリストで人道活動家だった女性が ロシアのスパイに誘拐されて夫とともに惨殺された。優れたジャーナリストが たくさん たくさん たくさん 死んでいった。数え切れない。

しかし 時として、ジャーナリストの映し出す一枚の写真が 世界を変えてしまうことがある。ベトナム戦争で、ナパーム弾の嵐の中を全裸で火傷を負いながら泣き叫ぶ少女、、、銃殺される瞬間の北べトナム解放戦士、、、中東戦争のときのオイルまみれの海鳥、、、チベットでデモの末 川に浮かぶ仏教僧の遺体、、、ウイグルで自警団に襲われた少女達の写真。一枚の写真が人々の心をゆさぶる。その一枚のために、ジャーナリストは 戦場にむかう。

東チモールは オーストラリア人にとっては とても特別な存在だ。豊かな海底油田の眠っているチモール海を隔てて オーストラリアとチモールは 手を伸ばせば届く距離にある。
1999年の東チモール独立運動のときは、強力なインドネシア軍に毎日毎日 抵抗して殺されていくチモールの人々を見つめながら 歯噛みしながら与野党一体になって 国連軍派遣を 要求し続け、ようやく国連軍派遣が決議されると、いち早くオーストラリアとニュージーランドは鎮圧軍を チモールに派兵した。

その後 独立は してみたものの、次から次へと西側から送られてくるインドネシアの撹乱するための私兵や私服軍人達に 脆弱な生まれたばかりの国は その地位を脅かされてきた。インドネシア軍が引き上げるとき、東チモールの国家基盤 経済基盤の70%を 彼らは破壊していった。再建が、不可能なほどに。
長年インドネシアに抵抗し、20年の懲役刑に服していたシャナナ グスマオは 初代大統領となり、獄中の彼を支えてきたオーストラリア女性 キーステイー スワードは 大統領夫人に。国外で独立運動を推進し、ノーベル平和賞を授与されたホセ ラモス ホルタは 副大統領に。
現在 選挙によってホセ ラモス ホルタが大統領、シャナナ グスマオが首相に選ばれた。2008年には、反乱軍によって、大統領 ホセは銃撃をうけ、一時死亡と報道されたが、ダーウィンで 緊急手術を受け、九死に一生を得た。多難な行く末だ。絶え間ない 政権抗争、経済基盤の脆弱さ、一つの国が独立するということが、いかに大変なことか。

2000年だったと思う。シャナナ グスマオの講演を聴きに行った。シドニー大学の カーペットを敷いた小さな講堂だった。そこでは、彼と、キーステイー スワードとの間に 生まれたばかりの赤ちゃんの泣き声がときどき聴こえ、あたたかい なごやかな空気に満ちていた。雄弁でない、とつとつとした話し方で、これからの東チモールという新しい国造りへの抱負を語る シャナナは 誠実そのものだった。物静かで なんと謙虚なひとだったろう。子供のときから 強国インドネシアに立ち向かい ゲリラとして武器を取り 長い獄中生活にも負けず 独立を成功させ、建国の基となった人。なんて立派な人。
その人の話を聞きに集まった人たち、シャナナの一挙一動を あたたかく歓迎する人々の かもしだす空気もまた、感動的だった。 静かな拍手を送り、笑いかける人々、シャナナを支持するということが 声高に政治を語ることでも、スローガンを叫ぶことでも、敵を非難することでもなく こんなにも やわらかい空気に満ちた集まりで出会うことなのか と、目のさめる思いだった。政治集会や人権活動家の支援集会 講演会など、学生時代には 限りなく参加したり、主催したりもしたが、このときの シャナナの講演会のような 声高に語る人など一人も居ない あたたかく 優しい 濃密な 大人の集まりには出会ったことがなかった。あの、独特な静かで熱い空気が いつまでも忘れられない。

2009年8月11日火曜日

映画「パブリック エネミーズ」


アメリカ映画 「パブリック エネミーズ」を観た。
キャストは
ジョン デリンジャー:  ジョニー デップ
メルヴィン パーヴィス: クリスチャン べイル
女 ビリー:    マリオン コテイヤール
フーバー検察局長:  ビリー クラダップ

1929年大恐慌が始まり 30年代の経済低迷期には、アメリカ社会は病み 混乱を極めていた。失業者があふれ、飢えた人々の不満は膨れ上がるばかり。シカゴに根を張った ギャングによる凶悪事件は 止むことを知らず ジョン デリンジャー(ジョニー デップ)率いる、レッド、ハミルトン、ジョージ ネルソン、チャールズ フロイドといった面々は、次々と銀行を襲って強盗を繰り返していた。困りきった 検察局のフーバー(ビリー クラダップ)は これを機会に 地方警察の枠を超えて 全米範囲で凶悪犯を追い 捕らえることができる捜査組織FBIを作ろうと画策していた。フーバーは メルヴィン パーヴィス(クリスチャン べイル)を抜擢して FBI最初の大仕事 ジョン デリンジャーの逮捕を命ずる。デリンジャーとハーヴィスの 戦いが始まった。

デリンジャーは 何度も刑務所に放りこまれても 協力者を得て、脱獄を繰り返し 銀行強盗を繰り返す。極悪犯人でありながら、仲間を大切にし、仲間の命を守る為に 自分の危険を顧みない。一目ぼれした女 ビリーを自分のものにする為には何でもする。初めて ビリーに会って これからはどんなことがあっても、君を愛し一人きりにはしない と誓う 純情さも持ち合わせている。
しかし、FBIも すべての電話回線を盗聴し、次から次へと デリンジャーの協力者を力で屈服させて寝返らせた。遂に、デリンジャーの女ビリーを逮捕、拷問して デリンジャーを追い詰める。
というストーリー。

滅びの美、悪の華、がテーマ。それをどう人間味豊かな一人の 生身の男として映像で表現するかが、この映画の真髄。 若く、熱く 生きて死んでいく男は美しくなければならない。
不況、失業 飢えた人々の間で 火花のように華を咲かせて 権力者にたてついて 極悪犯として散っていった パブリック エネミーは 人々の不満の捌け口であり、希望の星であり、英雄だ。FBIが生まれることを 人々は決して歓迎していたわけではない。人々の心は 極悪犯の側にあった。
だから 映画を観ている人も、ジョニーデップの味方だ。危険な罠が仕掛けられるたびに デップに生き延びて欲しいとハラハラし、最後の最後までデップに 逃げろ、走れ、生きろ と心で叫び続けて、最後にビリーと一緒に、大きな涙をひとつ落とす。
ジョニー デップのベビーフェイスと、ちょっと間の抜けた感じが とてもデリンジャーらしくて良かった。

この映画、男向け、アクション映画に仕上がっている。このところハリウッドでは アクションになるとハンドカメラを使って 実況中継ふうに 揺れるカメラで撮るのが一般的になってしまった。はじめから最後まで ハンドカメラだけですべてフィルムを編集したような映画もでてきた。私はこれが大嫌い。 チャップリンは 動かないカメラの前で 俳優の方が大変な努力をしてアクロバット的な動きまで習得して映像を撮った。だから 特殊撮影で飛んだり跳ねたりする香港カンフー映画も ハンドカメラで追う暴力シーンも私にとってはニセモノにすぎない。

キャストに デリンジャーをジョニー デップに演じさせたのは、成功だった。そして、一方のFBI責任者 クリスチャン ベールも 大成功。クリスチャン べイルのような シャープでハンサムな男が 30年代の服を身に着けると 俄然引き立つ。彼のような 美男子には バットマンのお面を被ったり、ターミネイターの戦闘服よりも この1930年代の、白いワイシャツ、タイ、しっかりしたコートに帽子が良く似合う。きちんと折り返しのある純毛のズボン、ジャケットと、長くてがっしりしたコート。そしてソフト帽。ネクタイもピンクや水色や黄色なんかの軽薄な色でなくシックで落ち着いたタイ。1930年代の男達、なんと素敵だったのだろう。いまの男達 化繊のスーツに 色シャツ、頭はボサボサ、、一体男の美はどこへ、、、。オージーなんか 冬でも半ズボンで、カーボーイハットだもんね。

人々は映画を観ながら ジョニー デップに共鳴している。だからクリスチャン べイルは正義の側かもしれないけど 全然、誰も味方していない。それをわかっていて 演じるクリスチャン べイルって、いつも損な役回りだ。
「バットマン ダークナイト」では 彼は主役のバットマンだったが、ジョーカー役のヒースレジャーが この作品を遺作に28歳で事故死してしまったので この映画はクリスチャンべイルのではなく、ヒースレジャーの特別な映画になってしまった。
「ターミネイター4」では 彼が主役のジョン コナーだったが、この映画の話題と言えば アーノルド シュワルツネイガーが出たかどうか ばかり話題になって、クリスチャン べイルは2時間あまり戦っていたのに、数分間でただけのシュワちゃんに主役を奪われてしまった。
「ユマ3時10分決断のとき」では、悪役、ラッセル クロウを裁判所まで連行する 潔き 正しく 立派なクリスチャン べイルが正しい道をあゆんでいたのに 最後には見事に逃げられて、ラッセル クロウが 断然 輝いていた。
役者としては クリスチャン べイルは 役になりきる素晴らしい役者なのに、何故か不運が続いている。めげないで 「アメリカン サイコ」でショックを与えた 不気味なほどの美しくて、悪い奴を主演して欲しい。

最後に 映画で エージェントのひとり、ステイーブン ラングがデリンジャーの女ビリーに会いに来る。このシーンが良い。FBIの中でも いつもこの 目立たない中年捜査官は 他の捜査官のように突っ走ることも 罠を仕掛けて人を陥れることもなく冷静に事態に対処していた。
血の通った この男の「ひとこと」と、ビリーの「大粒の涙」。
これがすべてを語っている。心に残るシーンだ。

話題作で新作だから観た。
しかし、残念ながら 1967年の「俺達に明日はない」(原題「BONNIE AND CRYDE」)や、1969年「明日に向かって撃て」(BUTCH AND THE SUNDANCE KID」)には比べようもない。同じ時代のギャングを描いた映画だが、フェイ ダナウェイとウォーレン ビューテイー、ポール ニューマンとロバート レッドフォードにくらべ、輝きが 全然足りない。この時代に比べて フイルムの質も撮影技術も格段によくなっているはずだ。それなのに、60年代の映画を超えられていない。これらの優れた映画は 時代が作ったと言うのだろうか?

2009年8月8日土曜日

浦沢直樹「MONSTER」



浦沢直樹のコミック「MONSTER」全18巻(小学館)を読んで、とっても おもしろかった。

この人の作品、「20世紀少年」22巻と「21世紀少年」上下(小学館)の 計24冊を読んで この作者の構想の広がり方、登場人物を小まめに使いながら お話の枠を広げて大きくしていく独特の描き方にとても引かれた。この「MONSTER」も、読んでいるうちに どんどん話の筋に引き込まれていき 気が付いたときには18冊読み終わっていた。途中ダレることなく 一気に24冊とか18冊を 読ませる力を持っている この人は構想力のある とても頭の良い作者なのだろう。
彼の作品の終わり方も、独特で ひとつの結論を彼は出さない。だから人によって 最後の解釈が全然ちがってくる。

「20世紀少年」も、結論の読み方が 読む人によって 随分違ってくるのだろう。読んでいる間中 お面を被った「ともだち」が誰なのか それが知りたくて 知りたくて 読み進んできたが 最後の最後「ともだち」は ケンちゃん以外は 誰も名前さえ覚えていなかった影の薄い男の子だった。ケンちゃんが その子のことを 憶えていたのは自分がその子に ものすごく卑怯なことをしたからだった。その意味で 世界を破壊する「ともだち」は 自分自身のなかにある敵だった、と言うことも出来る。
「MONSTER」も、結論と解釈が人によって全然ちがったものになると思う。

ストーリーは
東西ドイツの間の壁が取り払われる前 1986年。東独から元貿易局顧問が妻と10歳になる男女の双子を連れて 西独に亡命してくる。しかし、その直後に 夫婦は殺され、男の子は銃撃をうけて半死状態で発見される。瀕死の男の子の手術を担当したのは デイュッセルドルフ私立病院の 天馬賢三医師。優秀な外科医。 卓越した技術と医師としての使命感 そして謙虚な姿勢で、同僚からも 患者達からも 信頼されていた。病院長の娘と結婚して 外科部長に抜擢されるところだった。
しかし、男の子の救命を優先したため、同じときに、院長に頼まれて 脳血栓で倒れた市長の手術が手遅れになったことで、怒った院長から 憎まれ、婚約者の娘も失うことになってしまった。

天馬医師が救命した少年ヨハンは 順調に回復する。両親は死亡。殺人現場で発見された 双子の妹アンナは 事件の衝撃で口が聞けない状態になっていて、同じ病院に収容されていた。しかし、ある日、突然、ヨハンとアンナは姿を消す。そして彼らの治療に関わっていた病院長や医師たちが、天馬を除いて 全員 毒殺死体で発見される。

9年たった。
ハンブルグで、ケルンで、ハノーバーで、4組の子供の居ない中年夫婦の死体があがる。そしてこの事件に関わっていた警察官達までが 毒殺されて発見される。

ハイデルベルグに10歳までの記憶のない 19歳の少女がいる。名前はニナ。飛び切り明るい快活な娘で 養父母に引きとられて幸せに暮らしている。養父母を本当の両親だと思っている。しかし心理学者ガイテル医師は 二ナの失った記憶が 何か途方もない恐怖によって閉じ込められたものに違いないと確信している。
そのニナに突然、20歳になった日に迎えに行く というメイルが入る。ニナは 漠然とした恐怖感に襲われながら 偶然、天馬医師と出会う。帰宅したニナを待っていたのは 最愛の養父母が殺害された姿だった。養父母の惨状を見て、二ナは一挙に 双子の兄、ヨハンの記憶を 取り戻す。

10歳のときに 両親を殺したのは兄のヨハンだった。両親を殺した後、銃をアンナに渡して 自分の眉間を指して ここを撃てと命令したのはヨハンだった、と天馬にいう。アンナはモンスターのヨハンを しっかり撃ったのに、どうして天馬医師は ヨハンを救命してしまったのか、と責める。そして、ニナ(アンナ)は ヨハンというモンスターを殺して殺人行為をやめさせられるのは自分だけだと考え ヨハンを追って旅に出る。

ヨハンの殺人行為に深く関わってしまった天馬はいまや 大量殺人事件の重要参考人 殺人容疑者だ。天馬は自分が殺人鬼モンスターの命を救ってしまった為に、沢山の犠牲者が出ていること知って、自分が責任を持って ヨハンを始末しなければならないと考え 自分もまた警察に追われながら ヨハンとニナの後を追う。

ヨハンは バイエルンに現れる。実業界の大物に近ずいて 彼の秘書に納まっている。この男の昔の愛人が ヨハンとアンナの母親の親友だったことが わかったからだ。母親がチェコスロバキアで 生きているかもしれないと知って、ヨハンはプラハに向かう。
昔、プラハに 政治犯の子供達だけをあつめた孤児院があって 様々な人体実験と教育実験が行われた という。そこで育った子供達や職員達は ある日、互いに殺しあって その場に居た全員が死亡するという事件があった。
すべてを読む 鍵は このキンダーハイム孤児院だ。
というお話。このあとも長いけど、ここまでしか言えない。

簡単に筋だけ触れたが ものすごく沢山の登場人物がいる。その人々それぞれが ドラマをもっていて 複雑にヨハンの過去にからみあっている。酒癖の悪い私立探偵、天馬の同級生のサイコセラピスト、無医村の医師、ジャーナリスト、極右団体、戦争犯罪人 昔の婚約者、天馬になついてしまった孤児、若い志を持った刑事、それらがみんな複雑に関わりあって話を重層的なものにしている。

しかし、この物語のおもしろさは、ヨハンもアンナも自分の過去を憶えていない というところにある。ずばぬけて秀でた頭脳を持ち 人を殺すことなど何とも思っていないヨハンが 自分の過去を探し出しながら 自分の過去に関わった人々や育ててくれた人たちを 次々と抹殺していく。それを追う アンナが彼女もまた10歳までの消えていた過去を 徐々に よみがえらせていく。またそれを追う天馬がヨハンの過去を洗いながら 追い詰めていく。天馬は 自分の無実の罪を証明する為にヨハンを追っているのではなくて ヨハンの命を奪うために追っているのだ。それをまた 執拗に追う、ルンケ刑事の執念。
読者は ヨハンの過去への旅とともに、殺人が繰り返されながら ひとつひとつの彼の過去を知っていくことになる。

どうしてヨハンが 殺人鬼となり 自分の過去を抹殺しなければならないのか、、、それは、ヨハンとアンナと天馬と ルンケ刑事が一堂にに 顔をあわせたときに 一挙に山場をむかえる。
最後 天馬ははどうなるのか 解釈は それぞれだ。
 
双子の兄妹がいる。そのうち 一人を母親が切り捨てなければならないとき 連れて行かれた子供よりも、時として それを見送らなければならなかった子供の方が 傷が深い場合もある。
ヨハンの自己破壊、自己消滅願望は 幼い妹を守りきれなかった 贖罪からくる と言えないことはない。

結末は、これで一件落着ではない。じつに多くのことを 語っている終末。ヨハンの旅は終わっていないのだ。
ただ、人は 空のベッドをみることができるだけだ。

本当におもしろいコミックだった。

2009年8月7日金曜日

ガールズコミック「そんなんじゃねえよ」和泉かねよし


顔が良いと 得をする。顔が良いと人から大切にされる。困っていると誰でも助けようとするし、自分から求めなくても友達がたくさんできる。面接で 高感度の高い印象を与えるから 思いどうりの就学も、就職もできる。職場でも優遇される。特に客扱いの営業などでは 引く手あまただ。顔がアトラクテイブだと 異性パートナーを選ぶにも無限のチョイスを与えられて 欲しい相手が手に入る。銀行から信頼され 融資設も受けやすいから 家などの財産も手に入れやすい。仮に 犯罪に手を染めても 顔が良くて 印象が良いと有罪になるかどうかで 極悪人の容貌を持った人に比べると はるかに軽い刑で済む。
従って 顔が良く生まれた人はそうでない人に比べると すべての面で優遇されて得をする。

というのは 私の考えではなく、「常識」なのでもなく、アメリカで 科学的に秩序立てて行われた社会学者たちによる調査結果だ。私は自分の体験から このような調査結果が 全く正しいと、確信する。

私の顔が良いのではない。
死んだ私の 最初のオットが顔が良かった。
若い人は知らないだろうが 岡田真澄と高倉健を足して二で割ったような顔だった。身長183センチ、一流国立大学卒、シャープな頭脳、洗練された動作、独特なオシャレなセンス。天はニ物を与えず というが、天からは何もかも もらって生まれて来ていた。これでチヤホヤされないわけがない。

電車に乗っていて、ジャイアンツの投手とまちがえられて、サインを求められたことが 一回2回ではない。初めて飲みに行ったバーから ほろ酔いで帰って ポケットを見たら ママのマンションの鍵と住所を書いた紙がでてきたこともある。結構有名なママだったが、、。道を歩くと必ず人々の目はオットに。これがオットですというと、大抵の女性はポッと顔を赤らめて俄然 目を輝かせたり、急にハイになって はしゃぎだす人が多かった。おもしろいのは、この男前のツマが それにつりあうほどの美貌ではなくて フツーの女だ、というのがわかると まわりの女達が 俄然がんばりだすことだ。こういう場面はどこにいっても 起こった。だから、私は 人々が とびぬけて顔の良い男に会ったときの対応をよく知っている。

顔の良い男に会ったとき、人の態度が変わる というとそんな馬鹿な。人は外見より 中身じゃないですか というへそ曲がりが必ずいる。でも それはウソだ。その人がとびぬけて美しい 超のつくハンサムな男に出会ったことがないから そんなことを言っていられるのだ。体験から断言できる。

例えば私の女友達が沢山居る。そこにオットを連れて行き 紹介するとたちまち女達は するすると服を脱ぎ捨ててオットの前で思い思いのポーズを取り始めるので困ってしまった、、、ということはなかったが、そんな感じに100%ちかい奇妙なフェロモンな空気になるのが常だった。また、例えば オットの職場の人や オットの友達が集まっているところに行って ツマが 初めて紹介される。で、皆がツマを見ると え???という顔になり、こんなツマなら自分は勝てる とばかり急に肉食獣になってオットに襲い掛かるのだった。
そんなだったから、年をとっても オットは女には困らなかった、というか、全く ホトホト女に 困りきりだった。

ところで、そんな奇妙な体験を持つ私が おもしろいガールズコミックを見つけてしまった。
「そんなじゃねえよ」和泉かねよし作、1-9巻、フラワーコミックス小学館出版。

これが顔の良い 二人のお兄ちゃんを持つ フツーの顔でどちらかというと地味な女の子の話だ。読んでいて 身につまされるというか、あ、そうそう こんなこともあった などと昔のことを思いだした。

背が高くて 頭が良くて 力が強くて けんかも強い スポーツもできて、とにかく顔が良い 真宮家の二卵性双生児、烈と哲。シングルマザーで看護婦の母は 美貌の女王様。そんな中で妹の静ちゃんだけは みにくいアヒルの子ばりに ごく普通のめだたない女の子だ。この静ちゃんから見た まわりの人々の兄達への態度 狂騒ぶりがおかしくて、静ちゃんに すごく共感してしまった。
軽快なしゃれたジョークがとびかう、的を得た会話。すっかり気に入って2回も読み返してしまった。

例えば 美貌の母に片思いして食事に誘う高校生に向かって 母は言う。
「あなた 女の口説き方わかってないのね。」
「そう、どうすればいいの?」
「簡単よ。20こえて 年収1千万以上になったら同じセルフを言うの。」

そんな母が 寝起きの悪い息子を見て
「寝起きの悪い哲ちゃん。顔がキレイに整ってる分 マネキンみたいね。こいつ裸にムイて紳士服のコナガにおいてきちゃおか。」

かと思うと長男の烈が
「俺にもしものことがあったら 誰が静を守るんだ」
「あんたの保険金じゃない?死ぬならくれぐれも わかりやすい事故死ね。不審死だと保険金おりにくいんだ。コレが。」
などと言う。

静が 好きな子に家に来られて
「しまった、、、この気合の抜けたリラックスウェア。トータルコーデイネイトで1万円以下。これでは彼氏を前に勝負服どころか試合放棄同然。たしかあたしの部屋には友達から押し付けられたレデイコミが、、この地雷地帯に踏み込まれたら、、、」
などと、悩む娘にたいして 冷酷にも母は、
「うるさい。ガキはガキらしく 小さな恋のメロデイ奏でてろ!」などと言う。母は強い。
とにかく愉快なコミックだ。

子供の頃は 少女漫画をおもしろいと思ったことがなかった。継母にいじめられる 可愛そうな少女だの 恨みを持った怨霊みたいな漫画ばかりでじめじめして気持ちが悪かったからだ。
ちばてつやの「明日のジョー」で育った世代だから、漫画といえば スポーツ少年ものばかり。
そんなだったのに、急にガールズコミックがおもしろくなった。
さあー 今日は、これから古本屋にガールズコミックをあさりに行ってこよう!

2009年8月5日水曜日

映画「わたしのなかのあなた」


アメリカ映画 「わたしのなかのあなた」原作「マイ シスターズ キーパー」(「MY SISTER"S KEEPER」)を観た。日本では10月に公開されるらしい。

監督:ニック カサぺトス
キャスト
アンナ:アビゲール ブレスリン
ケイト:ソフィア バシレバ
母: キャロン デイアス
父:ジェーソン パトリック
弁護士:アレック ボールドウィン

ストーリーは
消防士のライアンと、弁護士のサラとのあいだには、長男ジェシーと、2歳になる娘ケイトがいた。庭のある大きな家、愛らしい兄妹と 仲の良い夫婦、非の打ち所のない幸せな家庭が、突然、ケイトが白血病と診断されたことで、幸せの頂上から 奈落のそこへと突き落とされる。

ケイトの白血病の治療のためには マッチした骨髄提供者が 常時必要になる。しかし家族のうち 誰一人としてケイトと同じ型の 血液型や骨髄を持つものが居なかった。
夫婦は専門家と話し合ったすえ、遺伝子工学で ケイトと同じ遺伝子をもった赤ちゃんを人工授精で作ることにする。 そして生まれたのが、アンナだった。
アンナは5歳になったときから 姉のケイトのために輸血提供者となり、6歳からは 骨髄提供者として 頻繁に入院することになる。父親も母親も ケイトの命を救うことを優先して 妹のアンナが病院を嫌がって泣き叫んでも 押さえつけてドクターに娘を差し出すことをなんとも思わなかった。

両親がケイトの世話に夢中になっているうちに、放って置かれた兄ジェシーは 必要な親のサポートがなかった為 学校の成績がよくない。それを理由に両親はジェシーを特殊学校の施設に入れてしまう。それを契機にジェシーは学校が嫌いになって行かなくなってしまう。

アンナは11歳になった。徐々に 病状が悪化していくケイトには 腎臓移植が必要になってくる。腎臓提供者は当然アンナだ。両親は何の疑いもなくアンナに腎臓を提供させるつもりで居る。
アンナは ケイトとも兄のジェシーとも話し合い 腎臓を姉に提供することを 拒否することにする。アンナは 全財産($700)をかけて 凄腕の弁護士に会いに行き 彼をアンナの代理人として両親を訴えることにする。弁護士は アンナが持参した医療記録を見て 驚愕する。そして腎臓提供を強硬しようとする両親を訴えることに決める。弁護士自身がてんかんを持つ 身体障害者だったからだ。

母親も弁護士だから 負けていない。父も、母も 病状が悪化する一方のケイトを見ていて 何故 腎臓の提供を妹のアンナが法廷に持ち込んでまで拒否するのかがわからない。法廷でも サラはアンナに どうして姉の命を助けないで平気で居られるのか と、親の強権を見せつけ 未成年者は親に従うことが義務だ、とまで言う。これがアンナにとっては、自分の存在すべてをかけた基本的な存在権を主張していることに、盲目なままで 気付くことができない。 

一方、ケイトは病院で化学療法中に、同じ病気の男の子に出会って、恋をする。病院主催のダンスパテイーで、二人は愛し合う。しかし、男の子は 駆け抜けていった疾風のごとく、ケイトを置いていって 死んで行ってしまう。腎臓透析を繰り返しても 効果が得られない最終段階に入って ケイトは家族の一人一人にお別れを言って 死んで行く。

ケイトの死後 アンナのところに弁護士が訪ねてきて、アンナが勝訴したことを告げる。

ケイトが居なくなって 家族の隙間を埋め合わせるように 残った家族は 毎年ケイトが好きだった海岸にキャンプに来て ケイトを偲ぶことが 習慣になった。
というストーリー。

化学療法を受け始めたケイトが やはり同じ髪のなくなった少年に恋をするシーンが可愛い。二人がパーテイーで はしゃぎ回った末に愛し合うシーンが印象的だ。

兄ジェシーの孤独が痛々しい。親に見捨てられた子、両親から何の関心も示してもらえない子。親が病気の妹にかかりきりになっている間に、成績はふるわず、特殊学校に行かされてそのまま学校が嫌になって、離れてしまった。友達もなく、わかってくれる人もなく、寂しくて仕方がない。一日中、街でぶらぶらして、忙しそうに動き回っている人々を ただ眺めて過ごしている。時として、最終バスを逃して、ヒッチハイクと歩きで家に深夜帰ってたところで 両親はケイトしか眼中になくて、息子を叱ってくれるわけではない。理解者もなく 自信もなく ただ人生の傍観者のようになってしまった。
そんなジェシーが、小さな妹アンナが 初めて親に逆らって 弁護士に相談に行くことに決めると、自分の持っているすべてのお金を財布ごと 妹に渡してやる。
ジェシーの心の痛みがしみて 泣けてくる。安住できる場がどこにもない子供の心の傷が ぱっくりと大きな穴を開けて血を流している。

しかし、この映画はなんといっても 天才子役のアビゲール ブレスリンの演技に勝てる役者はいない。涙、涙、涙 のこの映画の中で 彼女自身は ほとんど涙を見せない。気丈に自分の足でしっかり立っている。そしてそれが末っ子の役割であるかのように 明るく飛び回っては まわりの人々を笑わせる。映画「ミス サンシャイン」で大笑いさせた キャラクターそのままだ。
けなげにも 自分の存在を 姉の故障修理のためのスペアパーツでないことで、証明しようとする。彼女もまた血も涙もあり、ケイトとは全く違う 人格をもった人間であることを証明しようとする。

ああ、それにしても何という 両親だろうか。母親役のキャメロン デイアスの顔が鬼に見えてくる。おまけに 妻の独走を止めるどころか 助走することしかできない気弱な父親の顔も鬼だ。白血病の子供を持った親の 悲しさは どんなにつらいか、想像しても余りある。しかし、遺伝子操作で ダミー人間を作り その血液や骨髄や腎臓を抜き取り 病気の娘を治療するなどということを 平気でやるアメリカという国、平然と それを実行する エゴイストな親達。
ダミーが口を利き ダミーが訴訟をおこしてまで 抵抗して初めて ダミーもまた人間だったことに、初めて気が付く親の愚かしさ。ダミーだって自分が産んだ子供なのに。

本当にあったことを 基にして作られた映画だそうだ。
映画で家族が食卓を囲み、にこやかに語り笑いあうシーンがたくさん出てくる。最後もケイトが居なくなって 海辺で仲良く 波と戯れる兄妹、両親、、、これって ウソ臭くないだろうか。
ケイトが居なくなって 家族を繋ぎとめているものがなくなって、兄ジェシーは 家を出て街のギャング団に入り 強盗に明け暮れる、、、ケイトのスペアパーツだったアンナは 両親との同居を拒否して 好きでもない中年男と同棲始めたり、寄宿舎に入ってしまって、親が会いに来ても面会しない、、、といった形で収まる方が 自然ではないだろうか。

親に疎まれた子供は その後 反省して態度を変えた親に もどってこられても、「幸せな家族」を演出することなどできない。親に愛されなかった子供には それがよくわかる。子育ては「やりなおし」が効かない。ということは、育つこどもにとっても やりなおしが 効かない。

親の押し付けを拒否し、親の強権と、愛という名の暴力を拒否した11歳の娘の勇気は まことに 賞賛に値する。子供からの親離れを 見事に果たした この、アンナに共鳴する人は多いのではないだろうか。それは、その人もまた傷を持っているからだ。

2009年7月30日木曜日

映画「ココ アバン シャネル」 と、「シェリー」




偶然だったが、パリを舞台にした女性を描いた映画を 2本続けて観た。
ひとつは フランス映画「ココ アバン シャネル」(「COCO AVANT CHANEL」)、もうひとつは イギリス映画「シェリー」(「CHERI」)だ。フランス映画の ココの方は ガブリエル シャネルの伝記映画で、彼女がファッションデザイナーとして成功するまでの 前半生期を描いたもの。
監督:アンヌ フォンテーン
キャスト
ココ:オードレイ トトゥ(AUDREY TAUTOU)
男爵:ブノワ ポールブールド(BENOIT POELVOORDE)
ボーイ:アレサンドロ 二ボラ(ALESSANDRO NIVOLA)
女友達:エマニュエル デボス(EMMANUELLE DEVOS)

ストーリーは
ココは 幼い時に 父親に孤児院に連れられてくる。母親の記憶はないが 父親のことを とても愛していて孤児院に入ってからも ココは毎週日曜日になると 玄関で父親が迎えにきてくれるのを待っていた。しかし、父親は二度と 娘の前に姿を現わさなかった。
やがて成長して孤児院を出たココは 昼間はお針子として働き、夜はキャバレーで歌手として出演したり男達の相手をして 貧しい自活生活をしていた。

孤児院時代から ずっと一緒だった親友が キャバレーで知り合った身分の高い男に見出され結婚したことを契機に ココは金を持った男に取り入ることなしに 貧困から抜け出す方法がないことを知る。そこでココは仕事を辞めて、知り合ったばかりの男爵家に 飛び込む。屋敷の入り口から玄関まで 馬車で数キロ 走らなければならないような 大地主で 豪邸に住む男爵は 社交とブランデーとたわいのない上流階級の生活に飽きていたから、ココの来訪を 驚き喜んで迎える。ちょっと風変わりな小娘の出現は 刺激に富んだ悦びだったが、キャバレーからきたココをいつまでも 屋敷に滞在させることはできない。ココは 男爵に出て行くように言われたときに、 男爵のキャビネットから 沢山ある服を次々と出して切り裂いて 自分用の乗馬服を作り、馬に跨って、乗馬ピクニックをしている男爵とその友人達の環のなかに 飛び込んでいき、社交界デビューを果たす。ウェストのくびれた裾の長いドレスに帽子にパラソル、馬に横すわりで乗る当時の女性の乗馬スタイルからはかけ離れたココの姿を上流階級の人々はおもしろがって拍手で迎える。
そして、ココはお針子としての技術を生かして 従来の女の服とは全く違う 斬新な服を身に着けて 男爵の取り巻き達の目を見張らせた。

そうしているうちに、男爵の取り巻きの一人 ボーイとよばれているイギリス人と出会って ココは恋に陥る。ボーイは 男爵のように ココに 手荒な扱いはせずに、ありのままのココを受け入れてくれるのだった。ライバルが現れると 男爵は急に ココを手放すのが惜しくなる。さんざん迷った末 男爵は結婚を申し込む。
初めての恋を知って、ココはボーイに夢中。そのボーイにはロンドンに婚約者がいて 貴族間の財産を維持するための約束事のために結婚しなければならなかった。彼はココに 「ココのようにユニークな人は一生結婚せずに自分の仕事を持って生きるべきだ」と、言って聞かせる。
ココはボーイの信頼と資金援助を得て、パリに帽子屋をオープンさせる。しかし、その恋も、ボーイの自動車事故によって終わりを告げる。
というストーリー。
ココが事業を成功させるまでの前半生を描いた映画だ。

ココは当時、女性が職業を持つということのなかった時代に、裕福なパトロンを得て 一生結婚せずに職業女性のパイオニアとして生きた。結婚したくても出来ない立場にあって やむを得ない事情であったにしろ 勇気ある生き方をした。
ココ シャネルのナンバー25は 好きな香水のひとつだが、その事業の創立者ココが 孤児院育ちで、貧困からの脱却を貴族の愛人になることで果たしたという半生は 知らなかった。いま、着ている服以外の何一つ自分の持ち物がないような状態で 貴族の心を掴んで しっかり自分の場を構築してしまう したたかさは、何も奪われるものを持たない貧しいものの強さだろう。
ココを演じた オードレイ トトゥが、いくつになっても可愛くて とても良い。

もう一つのパリを舞台にした映画は「CHERI」シェリー。
20世紀初頭に活躍した女性作家 コレット女史原作の「CHERI]の映画化だ。
監督:ステファン フレアーズ (STEPHEN FREARS)
キャスト
リー:ミッシェル パイファー(MICHELLE PFEIFFER)
シェリー:ラパート フレンド (RUPERT FRIEND)

1906年のパリ。LA BELLE EPOQUE ベル エポックと呼ばれて 貴族達が 最も華やかに その富を誇りに 贅沢三昧にふけり 豊かさを謳歌した時期のおはなし。
ストーリーは
高級娼婦だったリー(LEA DE LONVAL)は、愛人から莫大な遺産を受け継いで 何不自由なく贅沢な暮らしをしている。昔は職業上のライバルだった友人宅に招待されて そこで 昔は愛らしい子供だった友人の息子シェリーに出会う。彼はもう19歳。子供のときから 美しいリーが大好きだった。二人は 親子ほど年が離れているのに 互いに惹かれあって 恋に陥る。シェリーはそのときからリーの家に一緒に住むことになって そのまま6年という歳月がたってしまった。

25歳になったシェリーは 母親の勧めに従い 結婚することになった。リーは悲しみながらも シェリーを送り出して別れることにする。シェリーは 若い花嫁をもらい 新居に落ち着くが 何も知らない新妻にイライラするばかり、心の安らぎも 愛情も感じることが出来ない。
リーも 失って初めてシェリーの存在の大きさを思い知って 気がふさぐばかり。旅に出て 若い男と遊んでみても気が晴れず、シェリーのことばかりが思い出される。半年の長い別れの末、遂にシェリーは 耐えられなくなって リーのもとに帰る。

リーは シェリーが本当に何もかも捨てて 自分のところに帰ってきたと思い込むが、しかし、シェリーは家庭を築きながら 心のささえとしてリーとの関係を維持したかったのだ。それがわかって、リーはシェリーに言う。こわがらないで自分の足で立って歩いていきなさい。振り返ってはいけない、と。

コレットの小説は みなそうだが登場する男女のやりとりばかりで、時代の社会背景とか深刻な社会問題とかは、いっさい描写がない。
この映画も 画面いっぱいに、ベル エポックの貴族達の豪華な生活ぶりがでてきて、きれいで楽しい。ただそれだけの映画だ。男は皆 シルクハットにステッキ、三つ揃いを着て姿勢が良い。女達はレースをふんだんに使ったロングドレスの 大きな帽子やベール姿だ。家具調度品もビクトリア調の装飾の多い品々で贅沢だ。

50歳すぎても美しいミッシェル パイファーがとても良い。それにラパート フレンドの美しさには目を見張る。黒いロングヘアーにギリシャ彫刻のように鼻筋が通って、青く深みのある目、美男とはこういう男を言うのだというお手本みたいな顔、姿。そんな美しく若い男が 怒ったり、泣いたり、笑ったりする。全くもって鑑賞に値する。

2本とも20世紀初めのころのパリに生きる女を描いた映画。裕福な男の力なしに自分の足で立つこともかなわなかった時代に できる限り社会の枠にとらわれることなく生きた 現実にいた女性のお話だ。
こうした映画を観て 何を考え、何を得るか 人によって様々だろう。

いまは 21世紀。女性兵士も女性宇宙飛行士もパイロットも増えた。女性官僚も当たり前だ。
ところが日本では結婚して専業主婦になりたい女性が増える一方なのだ という。なんかが ゆがんでいるのかもしれない。

2009年7月25日土曜日

オペラ 「アイーダ」



今年の後期オペラシーズンが始まった。最初の出し物が ヴェルデイ 作曲の「アイーダ」。
豪華絢爛、大スペクタクル、どでかい規模でオペラのなかで最大のスケールのオペラだ。毎年 エジプトでは 本物のピラミッドを背景に 野外で上演されるこの「アイーダ」は エジプトの国の誇りともいえる。スエズ運河が開通したときの記念に 当時のエジプトが国の偉業を讃える為に 作らせたオペラだ。

そんなオペラだからか、今年のオペラオーストラリアの出し物の中で まちがいなく一番お金がかかっている。狭いオペラハウスの舞台を所狭しと、70人近いコーラスと、20人のバレエダンサーが 踊り 歌い とにかく華やかだった。オーケストラも入れると 総勢150人あまりになるだろうか。衣装が豪華で美しい。キラキラ ピカピカ。こんな服を着て おひめ様ごっこ やりたーい、と言う感じの衣装が次々とでてきて とても楽しい舞台になった。

指揮:リチャード アームストロング
監督:グレイム マーフィ
配役
エチオピア王女 アイーダ:タマラ ウィルソン (ソプラノ)
ラダメス将軍:ドングオン シン (テナー)
エジプト王ファラオ:デヴッド パ-キン (バス)
ファラオの娘、アムネリス:ミリヤナ ニコリック(メゾソプラノ)
エチオピア国王 アイーダの父:マイケル ルイス(バリトン)

ストーリーは
アイーダは エチオピア国王の娘だが、強国エジプトに捕らわれ 連れてこられて 奴隷にされている。しかし、エジプトの若い武将ラダメスと アイーダはひそかに愛し合っていた。ラダメスは エチオピア討伐の将軍に任命されて、戦場に行こうとしている。ラダメスが無事に 戦いに勝利して帰国すれば エジプト国王の娘、アムネリスと 結婚することになっている。アイーダは成就することのない恋と、自分の国の人々への祖国愛との板ばさみになって、苦しい思いをしている。

戦場に向かうエジプトの兵士達の男声合唱は素晴らしい。エジプトを讃える 勇壮な行進曲を 50人あまりのコーラスが力いっぱい歌う。

そしてラダメス将軍は 兵士達と共に凱旋してくる。エジプト国王ファラオも、王女アムネリスも 有頂天だ。ファラオの前に、捕虜となったエチオピア兵士達が引き出されてくる。そこで アイーダは、戦いに敗れ捕虜となった ボロボロの姿の父、エチオピア国王と 対面する。アイーダは、泣きながら 戦勝国エジプトのファラオに 父親の命乞いをする。ラダメス将軍も アイーダの気持ちを察して、一緒になって助命の嘆願をする。このときの5重奏が 美しい。ファラオ、ラダメス将軍、エチオピア国王、アイーダとアムネリスの5人が それぞれの気持ち おもいのたけを訴えるシーンだ。

期待どうりに命ながらえたアイーダの父は しかし密かに エジプト攻撃をするための兵士達を待機させていて、アイーダとラダメス将軍をそそのかして エジプト川の守備配置を聞き出して、一挙に攻撃しようとしていた。父の野望を知ったアイーダは、父親への愛情と、アムネリスと結婚してしまうラダメス将軍への愛情に引き裂かれて 打ちひしがれる。

そこにラダメス将軍が現れる。そして、アイーダに心からの愛を誓い ファラオにアイーダとの結婚を願い出るつもりだと言う。それを隠れて聞いていた、アイーダの父は、ラダメス将軍に、アイーダが本当に欲しいのならば 一緒に3人で逃げて エチオピアの王子として受け入れるから 警備配置を教えるように と迫る。いったんは 断るが、アイーダに、一緒に生きて欲しいと、言われて、とうとうラダメス将軍は 拒みきれなくなって逃げ道を教える。

こんなに愛しているのだから、、と、切々と歌い上げる 二人のデュエットが 泣かせる場面だ。
3人が逃亡の相談をしているところを ファラオに見つかって、ラダメスは、自分が盾になって、アイーダと父親を逃がし、自ら逮捕されて 反逆罪で死刑の判決を受ける。

ファラオの娘アムネリスは、裏切られたのに ラダメス将軍をあきらめきれなくて 助命を懇願するが、ラダメスは死を覚悟していて アムネリスを退ける。
ラダメス将軍が、自ら死を心に決めて、地下牢に向かっていくと そこには逃げ延びたと思っていたアイーダが待っていた。二人は永遠の愛を誓いながら静かに 息絶える。
というおはなし。
最後のデュエットは、とてもとても美しい。悲しい悲恋物語だ。

アイーダのソプラノを歌ったタマラ ウィルソンは 柔らかく透き通るような 豊かな声だ。かなり太め(体重100キロくらい)だったが、敵の武将を愛してしまった 可憐な娘の役を とてもよく演じていた。アイーダの恋敵 同じ男を愛するファラオの娘アムネリスを演じた ミリヤナ ニコリックは ベルグラードから来たセルビア人だそうだが 背が高く、抜群にスタイルの良い黒髪の美女で堂々としていて 声も良い。三角関係の頂点 ラダメス将軍 これが期待していたイタリア人の ロザリオ スピナが風邪でダウンして、急遽西オーストラリアオペラから借りてきたテナーに変わったのは、残念だった。でもそれなり声も良く それなりにハンサムで それなりに役をこなしていた。

ファラオのデヴィッド パーキンは 写真にもあるように、とびぬけて背が高く立派な体格。このファラオと 王女アムネリスとが並んで立つと エジプト王国の貫禄があって まさに適役だ。その威勢堂々とした王と姫の前で、背の高くない かなり太めのアイーダとラダメスが愛を誓い合う という構図が ちょうど記念写真を取るみたいに よく収まって マッチしている。

舞台に花を添える オーストラリアバレエのダンサー達も、兵士になったり、ファラオの御付になったり、ナイル川の妖精になったりして 忙しくも しっかり舞台回しをしていた。舞台と観客席との間の突き出しのところに、2メートル位で、舞台の端から端まで 浅いプールが造ってあって、これが、ナイル川、ということになっている。ここを、アイーダが 素足で浮かれて水と戯れながら 愛の歌を歌ったり、エチオピアから捕らえられてきた捕虜が水を求めたりする。ナイルの妖精たちが 泳いで遊ぶシーンでは バレリーナたちは 上半身何も身に着けていなかった。どうせ、クラシックバレエの踊り子達は 胸はぺっちゃんこだから、それで踊る姿も可愛らしくて良いのだけど、 ウーン バレエもここまで見せるか、、、と ため息 ひとつ。

総じて、声も良く、舞台もきれいで、本当に楽しめるオペラだった。こんなに楽しいオペラは久しぶり、とても満足。 

2009年7月7日火曜日

映画 「ラスト ライド」


オーストラリア映画「LAST RIDE 」を観た。
タイトルの「ラスト ライド」は 最後の乗車とか、最後の旅とかの意味。殺人を犯した 根からの極悪 粗暴な男の、破滅に向かって、地獄への逃避行 といえば、一言で この映画を 説明できてしまう。

映画のはじめでは それがわからない。序じょにゆっくり 真実がわかっていって、一挙に破滅にむかっていく。
こんな風に 映画の結末の二分の一ほどを明かしてしまっても、これから観る人が怒る必要はない。結末がどうあれ、映画の良さは その過程にあるので 最後に男が死のうが死ぬまいが 観るだけの価値がある。

日本人のやっている映画評でよくわからないのは、ネタバレ とかここからネタバレなので映画をもう観た人だけ読んで とかいった扱いがあることだ。そんなことを言えば、カルメンといえば 三角関係の末 殺される女の話だし、椿姫は 好きな男がいるが 病死する女の話だ。だれもがストーリーの結末を知っているが、もう筋がわかっているという理由で、これらの不朽の名作オペラを観にいくことを止める愚か者はいない。

長い 抒情詩のような 本当に美しい映画だ。

監督 :グレンデイン アイビン (GLENDYN IVIN)
カメラ:グレイグ フレーザー (GREIG FRASER)
キャスト
トム ラッセル(TOM RUSSEL)CHOOK役
ヒューゴ ウィービング(HUGO WEIVING)KEV役

ストーリーは
ケヴ(KEV ケビンの愛称)は、10歳の息子 チョック(CHOOK 雛鳥とかヒヨコの愛称)を連れて オーストラリア中央部の小さな町から 南オーストラリアに向かって旅をしている。
寡黙な父親は 何故、そしてどこに向かって旅をしているのか 息子に言わない。息子も もうそれが長年の習慣ででもあるかのように 何も聞かず 従順に父親のあとを付いて行き あるときは公園のベンチで眠り 長距離バスを乗り継ぎ 町をでてからは、野宿をして 火をおこし、撃った野うさぎを食べる。砂漠では野生のラクダに起こされて、ラクダに飲み水のありかを教わる。セントラル オーストラリアの広大な荒野と、どこまでも広がる砂漠。

砂漠に突然 出現する塩湖 レイク エイラ どこまでもどこまでも続いている浅い湖を彼らは車で横断する。9500平方キロの大きさの湖のその美しさは 例えようもない。
ケヴは 車を奪い 金を盗み、飲んだくれて喧嘩をしてパブから放り出され、ガソリンスタンドで強盗をして、罪を重ねていく。そうしながらも、ケヴは息子チョックには男親らしく、湖で泳ぎを教え、キャンプの仕方を教え、遊びに付き合い 冗談を言い、息子の良い父親 保護者であろうとする。わずかな親子の会話から、ケヴが子供だったころ 荒っぽい父親に連れられて やはり同じようにして父親から育てられたこと、チョックの母親は チョックがまだ赤ちゃんだったときに 刑務所行きを繰り返すケヴを捨てて出て行ったが、アデレードに住んでいるらしいこと がわかる。父と子の心の交流 逆らうことの出来ない 絶対的な存在としての父に対する 息子のひたむきな心が しみいるようだ。

しかし旅が、湖の只中に達したときに 突然 チョックは 残酷な事実を知る。心から慕っていたマックを 父は殺してきたのだった。チョックは渾身の憤怒をこめて 父親を罵倒して父を憎む。

マックは、たったひとりの父ケヴの親友だった。ケヴが刑務所にいたときは マックが父親代わりだった。マックがくれた車の玩具は チョックのたったひとつの宝物だ。短気ですぐに暴力をふるう父親とちがって マックはいつも優しくしてくれた。マックは天涯孤独なチョックにとっては母親のような存在だったのだ。そのマックを父は殺して、金と車を奪って逃亡してきたのだった。
チョックのベッドに下着姿で入っていたマックを 父親はぺデファイルと勘違いして酔った勢いで殺してしまった。チョックは マックが何も悪いことをしていないのに殺した父親を 許すことができなくて、警察に通報して、父から離れていく。それを知った父ケヴは、息子に、正しいことをした、と褒めて 息子が一人去っていく姿を見送る。
というお話。

最後にしっかり抱き合う父子を見て、映画のはじめから チョックが 誰からもしっかり抱きしめられるシーンがなかったことに気付いた。10歳の子供にとって 大人にしっかり抱きしめられて育つことが どんなに大切な 必要なことだっただろうか。しかしそうした経験のない父親には息子の抱き方がわからない。

マックが チョックのベッドに忍び込んだことで 父親はマックを殺したが 母親代わりのマックに抱かれたチョックは それを不思議に思い 心休まるような感触を感じていた。チョックには 思いもかけない父親の怒りが理解できない。チョックには優しいスキンシップが 必要だったのだ。マックが殺された後となっては マックの不思議な行動は誰にも説明できない。マックは 可愛さの余り チョックを抱いて眠りたかったのかも知れないし、それが序序に発展していって性行為に結びついていったかもしれない。まあ確実に そうなっていただろう。その意味で父親の行為は正しい。(殺すことはなかったが。)レイプは 必ずしも 暴力を伴わない。もともと性行為は慰めであり、優しさの交歓でもあるからだ。
母と交わり、父を憎む ギリシャのオイディップス王が、ここにも居る という言い方もできる。

悲しい 本当に悲しい映画だ。
父親のケヴは 本来悪い人間ではない。自分は幼い時から 暴力的な父親に育てられ 何度も刑務所暮らしを繰り返しながら生きてきた。息子のベッドにマックが居るのを見て逆上したのを見てもわかるように、自分が幼いときに ぺデファイルの被害者だったこを如実に語っている。チョックが母親恋しさに、盗んだ車にあった口紅をつけて化粧してみたときも 父は怒り狂って息子に暴力を振るう。それが昔の自分の屈辱の過去の姿でもあったからだ。

そんな父親ケヴが 自分の息子だけは 自分が育ってきたよりは良い環境で育てたいと願い 息子を不器用ながら 守ろうと必死でいる。暴力のなかで生きてきたが、自分と息子を捨てていった 妻をいまだに愛していて 成長した息子を対面させたいと願って 旅をしている。
息子が何よりも大切だ。しかし、不器用で どのように息子のやわらかい心に触れて良いのかわからない。自分が親からも 人からも 優しくされたことがないからだ。

しかし、息子が父を見限るとき、それが息子の 自立の瞬間だ。
この映画は それを みごとに表した。
10才の子供が 父のライフルを奪い、唯一の宝物だった車の玩具を捨てるとき チョックは もうチョック(雛鳥)ではない。父を許さない、誰にも依存しない たった一人で生きていく心の決意が見えている。
その息子の決意を読み取ったうえで、父は息子を心から愛していると言って硬く抱きしめる。息子も心から愛しているといって、去っていく。
すごい男のハードボイルドの世界だ。 なんという孤独。
こんなふうにして、男は男になっていくのだろう。
現実には きっと、10歳のチョックは警察に保護され、母親のところに引き取られるか、施設に送られるのだろうが、彼の父親からの 心の自立の仕方が、本当に無残で悲しい。


長い抒情詩のような、美しい映像と言ったが、荒野で 月も星もない夜に チョックが、無心に 花火を持って踊って遊ぶ場面がある。漆黒になかで、花火の火の美しさと、はかなさには、息をするのもためらわれる。
また、湖の中ほどで、360度見渡す限り 水だけという 静けさのなかで、チョックが 一人しゃがみこんで 声なく泣く姿も、どんなに言葉をつくした詩よりも美しく悲しい。映画にはこんなふうに人に訴える力があったのか。

悲しい男の話を、ものすごく美しい雄大なオーストラリアの自然のなかで 映し出している。カメラワークが素晴らしい。オーストラリアがどんなに大きな大陸だったが 実感できる。

2009年7月1日水曜日

わたしのマイケル ジャクソン


マイケル ジャクソンが亡くなって 悲しい。
それも、大好きだった ヒース レジャーと同じように鎮痛剤のオーバードーズで、呼吸が止まってしまった という、そんな亡くなり方が、とても悲しい。
でも、亡くなった彼のために、翌日 議会で上院、下院議員全員が起立して黙祷をささげる姿を見て、アメリカ議会も粋なことをする と ちょっと見直した。 だって、日本の国会で、例えば 木村拓哉が死んだとして、国会議員のおっさんたちが 1分間の黙祷をするだろうか? まあ、マリナーズのイチローが死んでしまったら みんな文句なしに 黙祷するかもしれないけど。

肌の白いコーカシアンに生まれてくることは 偶然の結果だが それが自分で勝ち取った特権でないに関わらず、白人であるという特権を白人は絶対に捨てようとしない。過去においても、現在においても どんなに法が整備されて、人種や肌の色での差別が禁止され、同じ人間として扱われるようになっても 白人であることは 就職、住宅環境の選択、教育、結婚すべてにとって 有利であることに、変わりはない。

以前、公立病院の心臓外科病棟に勤めていた。病棟には33人のナースがいたが、私を除いて すべてが肌の白いコーカシアンだった時期がある。あとで中国人や ジンバブエの人や インド人の看護婦も 入ってきたけど、とにかく みんな肌が白い オージー、カナダ人、アメリカ人、スコットランド人だけだった時期、私は断じて言うが、彼らに差別されたことはなかった。みなプロに徹した ものすごく優秀なナースばかり、心臓のスペシャリストが4人もいた。普通は一つの病棟に一人だから、いかにできる人ばかりで、仕事に誇りを持っていた人たちの病棟だったか 今思うと しみじみわかる。

ある日、みなが「賭け」を始めた。何に賭けているのか知って 仰天した。折りしも マイケル ジャクソンと、デビー ロウの間に 赤ちゃんが産まれたということだった。みんなは 産まれて来た子供の肌が 黒いか白いかを 賭けていたのだった。みんな目の色を変えて 「ブラック? ホワイト?」と、ニュースに釘付けの姿を見て、思い切り しらけた。長いこと感じてきた同僚意識、できるナースへの尊敬の気持ちが すべて音を立てて崩れ落ちる感覚。

白人はマイケル ジャクソンの肌が白くなったことを 決して許そうとしない。それは 自分たちの特権崩壊につながるからだ。誰もがお金の力で 白い肌をもつことができるようになったら 自分たちの有利さが失われてしまうからだ。 民主主義、弱者救済、平等、差別撤廃 これらの言葉が白人から発せられるとき それは自分が白人であることを前提に言っているに過ぎない。 差別を受けてきた者にとっての民主主義、弱者救済、平等、差別撤廃と、それは全然別のものであること、それがわかっているのは、白人以外の人々だけなのかもしれない。

マイケルを思うと、あの日のナースたちの 興味津々の残酷で卑しい目と、「ブラック? ホワイト?」という言葉を思い出す。
ブラック?ホワイト? どっちでもいいじゃないか。
本当に どっちでもいい、と言い切れる自分が、ちょっと、誇らしい。

2009年6月30日火曜日

映画 「恥辱」




映画「ディスグレイス」(恥辱)を観た。
原作:南アフリカ人作家でノーベル文学賞受賞者 クツツエー(J M COETZEE’S)。
監督:ステーブ ヤコブ。
脚本:アンナ マリア モンティセりー(監督の妻)
キャスト:ジョン マルコビッチ (デビッド ローリー教授)      
    ジェシカ ハインツ (娘ルーシー)

ストーリーは
アパルトヘイトが撤廃された 南アフリカが舞台だ。
ケイプタウンで イギリス人大学教授デビッド ローリー52歳は 古典文学を教えている。詩人バイロン 後期の生き方に共鳴していて 自堕落でデカダンな日々に自分の晩年の日々を重ね合わせている。2度の離婚を経て 愛を求める心に変わりはないが 退屈で満たされることのない生活。家に帰れば 趣味の作曲など、嗜んでいる。

ある日、教え子のなかで ひときわ目立つ生徒メラニーを、半ば強引に誘って関係を持つ。メラニーは同僚の大学教授の娘だった。デビッドは関係を継続させようとして、メラニーが授業に出てこなくなっても、来ている様に 出席簿を改ざんする。事態が表面化してきて、当然ながら、学生達からバッシングされる。ついに、大学管理委員会から 召喚されて事情説明を求められるが、バイロン信奉者のデビッドにとっては、ラブ スキャンダルも 姦通罪も 懲戒免職もこわくない。何の未練も 反省も後悔もなく サッサと潔く大学を立ち去ってしまう。

おさまらない学生達からのバッシングに ちょっとだけ傷ついて、デビッドは イースタンケープの田舎で 友達と暮らしているという娘に会いに行く。
行ってみると、予想外に 都会から離れた田舎で 娘のルーシーは たった一人で犬たちと生活していた。ナチュラリストのルーシーは 堆肥を作り、野菜と花を栽培して市場で売って、細々と生計を立てていた。若い娘が一人、無用心な家に、犬の世話をしているアフロアフリカンのぺトラを自由に出入りさせている娘の様子に驚愕したデビッドは、娘が心配で仕方がない。アパルトヘイト撤廃後 南アフリカは無秩序、無警察社会になっていて、田舎でも危険極まりない。にも拘らず、この田舎の人々は 昔のままの生活を維持しているのだった。

そしてデビッドの悪い予感が的中して ある日、3人のアフリカーナのギャングに襲わて暴行される。ルーシーは3人のギャングに輪姦され、デビッドは石油を浴びせられ 火をつけられて半死状態で助けられる。圧倒的多数のアフリカンの国で 僅かに生き残る白人社会。長いアパルトヘイトの歴史の抑圧がなくなったばかりの時期に 白人社会が無事でいることは、難しい。デビッドは必死でルーシーに、離婚して別れたルーシの母親が暮らしているオランダに 行くように忠告する。 しかし、ルーシーは 暴力を受けても、暴力で跳ね返すことも、警察など第3者の介入を求めることも、外国に逃亡することも 拒否する。デビッドの助言や忠告や懇願に、聞く耳をもたず、ナチュラリストとして 自分に与えられた土地で大地を母として、生きていく という。

デビッドは娘が性的に辱められ 自分も暴行されて 初めて、自分が学生に関係を強要したことの罪を知る。そして、心から謝罪するために かつての同僚の家に行き ひざまずいて許しを請う。
ルーシーは 3人のギャングによる輪姦の結果、妊娠する。彼女は それが何の結果だったにしろ、母として命を受けたものを産み育てて その土地で生きて死んで生きたいと言う。
そんな娘を 自分とは考えが違っても、デビッドは父親としてささえて生きていく決意をする。
というストーリー。

テーマは、人種差別、男女間の性暴力、女の自立 など、重い現実の課題すべてを含んでいる。 まず、南アフリカが アパルトヘイトがなくなって、民主化したというきれいごとと同時に 大量の教育を受ける機会のなかったアフリカーナが抑圧から解放され自由になったことによって、力と武器が支配する暴力社会に 一挙に後退したこと。今まで搾取してきた白人大規模農園主が追われたあと、土地問題を政府がコントロールできていないこと。くい止めることの出来ない ジンバブエや 他の内戦から逃れてきた難民、貧困の蔓延、アフリカーナの中での貧富格差の拡大、労働人口の30%がエイズ感染者という現状、こうした中で、南アフリカは 世界一治安の悪い国になった。

力と武器が支配する暴力社会で、人が人たる生き方をするために 何を犠牲にしなければならないのか。 ルーシーは 何年も苦労して作ってきた 唯一の生計である菜園をつぶされ 可愛がってきた人生の伴侶の犬たちを殺され、輪姦され、妊娠させられ、自分を守ろうとした父親を半死の目にあわされた。長年信頼していた作男のぺトラが 3人のギャングを誘導した共犯だった ということも知った。過疎地では警察の力もあてにできない。 それでも 四面楚歌のなかで女ひとり 大地を母として、自分の足で自然とともに生きて行こうとしている。 ものすごいパワー。頑固者、自己満足にもほどがある。 しかし、考えみれば、女にとって安全な場はあるだろうか。あると思うのは幻想にすぎないのではないか。 ルーシーの頑固なまでの自立は、南アフリカの白人の姿そのものではないか。貧しいオランダで食うに食えず アフリカに入植して根っこを張った南アフリカの白人のパワーそのものなのかもしれない。

ルーシーが イングリッシュ テイーを飲みながら 読んでいるのは ディケンズ。それをみて笑うデイビッドは バイロンの詩集を肌身離さず持っている。デイビッドが運転する車では 最大ボリュームの音響で オペラ「ナブコ」のコワイヤーが鳴り響いている。彼もまた自己耽美派の個の強い 南アフリカの白人なのだ。

ルーシー役のジェシカ ハインズも良いが、やはり この映画はジョン マルコビッチのテイストでこそ 成功している。マルコビッチの ひとり舞台のようなものだ。 気の進まないワインの相手をして はっきりと嫌がっている女学生を高級レストランに誘い バイロンを口ずさんで ベッドの強引に引きずり込む嫌味な男の役も マルコビッチがやると 本当にムシズがはしる。大自然の中で 娘の強い生き方に啓発される気の弱い男の役を マルコビッチがやると 本当に哀れで 寂しげで消え入りそうだ。でも娘の生きかたにすこしでも寄り添って生きたいと 心に決めるマルコビッチは 最後には抱きしめてやりたくなる。気弱な男から、極悪人まで 上手に演じ分けることの出来る 稀な 立派な役者だ。
見ごたえのある映画だった。 

2009年6月28日日曜日

映画「サンシャイン クリーニング」


映画「SUNSHINE CLEANING」を観た。
サンダース映画祭でグランドジュリー賞にノミネイトされた映画。 サンダース映画祭は俳優で監督の ロバート レッドフォードによって、若い独立プロの映画人を育成する為の教育の一環として開かれている映画祭。

監督:クリステイン ジェフ
キャスト: エイミー アダムス(ローズ役)      
エミリー ブラント(ノーラ役)       
          アラン アーキン (父)
ストーリーは
高校時代は チアガールのキャプテン 人気者だったローズ ローコフスキーは、いまや30代のシングルマザー。小学生の息子をかかえて、掃除婦として生活に四苦八苦している。 妹のノーラも 30近くなっても、ウェイトレスや様々な仕事が身に付かず、いまだ父の家から 自立できずに居候している。男やもめの父は、いつも新事業の成功を夢みて 試みるが うまくいかず失敗ばかりしている。そろいもそろって、人生負け組家族の面々だ。 ローズとノーラが まだ幼かった頃に 女優だった母親が自殺してしまって、母を失くした事で 3人は3様の心の傷をかかえている。

ある日、掃除婦ローズは 自殺した人の家の掃除 後片付けを頼まれて、いやいや血の飛び散った家を掃除した後、それが法外な収入になることを知らされる。その経験に触発されて、犯罪現場の清掃業をはじめることにする。妹を誘って 必要道具をそろえ、車を買って プロの清掃業社 その名を、サンシャイン クリーニング。

ローズもノーラも はじめは鮮血の飛び散る部屋や、たっぷり血のしみこんだベッドなどにひるんでいたが、度胸もついてきて、身内の死なれて、残された人々を慰めてあげられるだけの度量もついてくる。また犯罪に巻き込まれたり、自殺した人々の姿を 想像することで、死んでいった人々の心のありようも 見つめることができるようになっていくのだった。新しい仕事について、様々な人と出会い 失敗も重ねていって、、、。 というおはなし。

コメデイーということになっている。 たしかに 新事業を思いついて即、のめりこんでは 失敗ばかりしている懲りない父親は笑わせる。またシングルマザーのローズと 落ちこぼれノーラが おどろおどろしい犯罪現場で格闘すればするほど おかしくてすごく笑える。

しかし本当の映画のテーマは「心の癒し」だ。3人は3人とも 自殺してしまった母親が恋しくて 悲しくて仕方がない。母親を失った心の傷を 犯罪現場で死んでいった人々の心に共感して、死者の心に寄り添うことによって 埋めようとしている。死者が残していったものをきれいにして、処分することによって 死者の尊厳をとりもどしてやっている。残された家族のとなりに座ってあげることによって 家族だけでなく自分の心もまた なぐさめているのだ。

そうったヒーリングプロセスが 笑いながらも心に響く。

人はみな心に見えない傷をもっている。年をとるということは 小さいときに作った傷に 傷を重ねて大きくしていくことにすぎない と言うことも出来るし、傷を自ら癒し 治していくことが人生だ ということもできる。癒す、治す と簡単に言うが 傷から自らを解放してやることが どんなに大変なことか、、。

ローズ役のエミー アダムスが、裕福な暮らしをしていることが一目瞭然の昔のハイスクールクラスメイトたちに会って、自分の職業が掃除婦だと言えずにいる時や 怒ったり泣きたくても 笑顔をみせる様子が けなげで泣かせる。シングルマザーのがむしゃらぶりが とても良い。

ノーラ役のエミリー ブラントイギリス女優だが、「プラダを着た魔女」でデビュー、演技派若手女優の注目株だ。こんどは、「ヤング ビクトリア」という新作で ビクトリア女王の大役を演じる。ビクトリア女王は シドニーの街の中央 タウンホールの横に数百トンの銅像になって鎮座しているが、彼女のイギリスの歴史になくてはならないドラマチックな人生を演じることになって、俳優としては、とても嬉しいだろう。この映画では いくつになっても母親が、恋しくて母親が身に着けていた羽毛で頬をなで、母親が吸っていたタバコの吸殻を口にして、自分の弱気に耐えているノーラの姿に しんみりさせられる。

総じてコメデイーだが二人の娘達のがんばりがおかしくて、哀しくて ほろ苦い。
小作品だが、心に訴える力をもっている。

2009年6月20日土曜日

映画「カチン」


ポーランドの巨匠 アンジェイ ワイダ監督による 2007年制作 映画「KATYN」を観た。
1939年に起きた「カチンの森 虐殺事件」を描いた作品。
ポーランド軍の大尉だった ワイダの父親も この事件で虐殺されている。ワイダは 長い監督生活のなかで沢山の作品を紡ぎ出したが 彼がずっと溜め込んでいた、一番言いたかったことを この映画で 全部吐露した感がある。

カチンの森の事件が明るみに出たのは 虐殺60年後、21世紀にはいるころだ。真実を語ったものは KGBによって、命を奪われ 監禁され、口を閉じさせられてきたからだ。

第二次世界大戦が始まると、独ソ不可侵条約を結んだ ナチスドイツと、ソビエト連邦は 1939年8月 ポーランドを侵略占領し 分割統治した。1万2千人もの ポーランド軍将校達と、その家族は、ソ連軍の手に引き渡されて ソ連領カチンの森で 秘密警察KGBによって殺された。
しかし、1943年に、ナチスドイツが ソ連に侵攻すると、ソ連はポーランド軍将校達虐殺跡を掘り返し、 これがナチスドイツによる犯罪だ、と報道して 反独のプロパガンダに利用した。生き残った現場の証人や、事実を知るものたちは ソ連の秘密警察によって徹底的に弾圧され、口を封じられてきた。 したがってポーランド人や大多数の人々はカチンの森の大量虐殺事件は、ナチスドイツによる戦争犯罪のひとつとして理解されてきた。クレムリンが 責任はすべて当時のスターリンとKGB秘密警察にあることを認めたのは 最近のことだ。それまで ワイダ監督の父親は「行方不明者」だったわけだ。

映画は、1939年 秋に始まる。 前方からは ドイツ軍による攻撃で追われ、後方からは ソ連軍の侵攻に追われ、市民は大混乱に陥っている。 包囲されたポーランド軍は 武装解除され、1万2千人もの将校などの上級兵だけが集められて、列車でソ連に連行されていく。
次々と占領された建物に翻る紅白のポーランド国旗は 切り裂かれ、半分に残った赤旗だけを 建物に取り付けていくロシア兵たち。野蛮な顔つきのソ連兵達が 旗から取り去った白地の布で靴を磨いているシーンを カメラは淡々と写していく。
映画では架空の2組のポーランド家族を通して ストーリーが進められていく。一組は 父親を連れて行かれた妻と幼い娘。もう一組は 息子を連行された母と幼い妹だ。
映画はドキュメンタリータッチだが 画面が美しい。残された女達、妻、母、娘が みな毅然としている。戦争中でも ワルシャワの町は風格のある かつての古いポーランド王国のたたずまいを残している。女達は きちんとした装いをして 姿勢正しく 決意を表すかのように 硬い音をたてて石畳の街を歩く。毅然とした姿が 貴族達の肖像画を観るように 堂々として輝いている。
二度と帰ってこない父、夫、息子たちを待つ女達が 鋼のような強さで ソ連進駐軍下にあるワルシャワで 真実を追究していく。逮捕されても脅されても 全くひるまない。 スターリン主義に反旗を翻すレジスタンスの青年も まっすぐ前に向かって走っていく。追われて レジスタンスをかくまう 女子高校生の澄んだ目。つかぬ間の淡い恋。若い命が飛び跳ねるような 躍動感。

暗い事件を扱っているのに 画面が暗くない。将校達も一人一人 残酷なやり方で殺されていくのに ただ悲惨なだけではない。最後の最後まで 妻に残すための日記を書き続ける青年将校も 惨めではない。画面が色であふれている。 映画全体に漂う気品。上品で貴族的な空気。かつてのポーランド王国の誇りとヨーロッパの乾いた空気が感じられる。これがワイダの映画なのだろう。抵抗の芸術家、ポーランドの英雄。
ポーランドは 戦争中ドイツ、ソ連、スロバキア、リトアニアの4国に分割占領されていた。1945年にヤルタ会議で かつての領土を取りもどしたが、ソ連による実質支配が 続いた。個人財産はすべて没収され、国有化されて 人々の民主化 自由が日の目をみるには1989年まで 長いこと待たなければならなかった。 ポーランドは何と悲しい国だろう。大国に侵略されてばかり。

ショパンは 愛国者だったが 戦乱のため39歳で亡くなるまで 二度と母国に帰ることができなかった。死後、彼の心臓だけが遺言どおり 故郷に帰って 教会に埋葬された。 ジェイ チョウの、「十一月のショパン」なんという曲もあるけど、、、。 私は ショパンの「軍隊ポロネーズ」が大好き。ちょっと 大仕事をする前、ひるみそうになったり、引っ込み思案になりそうなとき この曲は勇気を奮い立たせてくれる。ショパンの繊細だが しなやかで強い。古典的だが華麗で新しい。気品があって 美しい。

そんな ポーランドのことを考えながら ニュースを見ていたら、6月18日、北アイルランドで ルーマニア人20家族が 人種差別極右グループに襲撃され、警察の保護のもと、長年住んでいた家を捨て 避難地に移住した と報じられた。極右に つけ狙われているので 避難先は極秘だそうだ。そもそも 地元のサッカーゲームで ポーランドがアイルランドに勝ったことが、反ポーリッシュの暴動を起こす契機になったらしい。ポーランド人もルーマニア人も見分けがつかない脳の足りない極右サッカー狂が ポーランド移民やルーマニア移民を襲撃したようだ。警察のものものしい警備のなかで、20家族の脅えた移民たちが 大型バスに乗り込んでいく様子をニュースで見て 言いようのない怒りを感じた。

もとにもどるけど、抵抗の芸術家、ポーランドの英雄、アンジェイ ワイダ。世界中で存命する映画監督のなかで 最も尊敬すべき巨人。1926年生まれ。 1954年作品「世代」、1956年「地下水道」、1958年「灰とダイヤモンド」以上を抵抗の3部作といわれる。

ワイダは、第二次世界大戦では 反独レジスタンス活動家、戦後のソ連進駐下で、反ソレジスタンス活動家、1981年の戒厳令で職を奪われ国外脱出して、映画制作を続けた。 2000年、民主主義と自由を求め続けた芸術家としてアカデミー特別賞を受賞した。現在もまだ現役。
印象に残る「大理石の男」1976年、「鉄の男」1981年など 多いが、やはり 最初にもどって「地下水道」と 「灰とダイヤモンド」が忘れられない。白黒画面が、強烈なインパクトで 人の命の強さと弱さを訴えかけてくる。すごい迫力。

生涯を通じて 権力を恐れず 映画という武器をもって その力と戦い 権力者を糾弾することを止めなかった 孤高の巨人。心から 敬意をこめて この美しい映画「カチン」に拍手を送りたい。

2009年6月11日木曜日

映画「ターミネーター4 サルべーション」







映画「TERMINATOR4 SALVATION 」を観た。
日米豪とも同時公開だったようだ。 「天使と悪魔」も、この「ターミナーター」も、日本と ここラリアと同時公開だったが、作品によっては随分と公開日が ずれる映画もある。「グラントリノ」、「愛を読む人」、「レボリューショナリーロード」など、みな1月末に観たが、日本では公開が遅れたみたい。今年に入って観た映画のなかで、私は「グラントリノ」が 一番好き。何度観ても、泣けて泣けて仕方がない。
日本では ハリウッドものと同時に他の外国映画も入ってきて より多様で幅の広い分野の映画が楽しめるのが うらやましい。日本映画、韓国映画など 年一度のシドニー映画祭で1-2度 上映されるだけで 一般の映画館で公開されることはない。6月のシドニー映画祭で、話題の中国映画 三国志を描いた「レッドクルフ」が来るらしい。

「ターミナーター」は、アーノルド シュワルツネッガーを一躍有名にした 現カルフォルニア州知事にとって、記念的な作品だ。この映画無しに 彼の今の地位はなかっただろう。

1984年、「ターミネーター第一作」では、稲妻とともに タイムマシーンに乗って 地球に送り込まれた カイル リースは サラ コナーと出会う。人よりも優れた人口脳を持った機械軍が 地球に侵入を始めていて 地球をターミネートさせるためのサイボーグ:シュワルツネッガーがサラを殺す目的で 地球にやってくる。カイルとサラとの間に生まれるはずの子供が 将来 機械軍に抵抗するレジスタント リーダーになるので、彼が生まれる前に始末しようとする。そしてカイルはサラを守る為に命を落とす。

1991年、「ターミネーター第二作」では、カイル亡き後 サラが産んだ子供 ジョン コナーはまだ小学生だ。執拗に 送り込まれてくるターミネーターから逃れて、サラは ジョンを守りきる。
ここではシュワルツネッガーは、サラの味方のロボットとして 次々と攻撃をしかけてくるターミネーターと戦って 破壊される。

2003年;「ターミネーター第3作」は スカイネットと呼ばれる軍事コンピューターの機械軍に、サラと少年ジョン コナーは立ち向かうが 人類は壊滅的打撃をうけ、サラは殺される。

どうして「ターミネーター」第一作と第二作が 爆発的にヒットしたのかというと、シュワルツネッガーの ちょっと人間離れした機械的で四角い顔と巨体、ドイツ語なまりの変な英語を話す役者が いかにも未来から地球を滅ぼすためにやってきたサイボーグ役に よくハマっていたからではないだろうか。それが ごく普通の生活をしている女性を襲って殺そうとするのが 限りなく恐ろしかった。サイボーグだから血も涙もない。矢継ぎ早にサラを殺そうと 冷酷無比に攻撃してくる。逃げる方が 必死で逃げれば逃げるほど 怖さが増してくる。そこに地球の将来がかかっている、というストーリーの展開がおもしろい。 サラは 天使ガブリエルに啓示をうけて 処女懐妊してキリストを産むマリアのようだ。

そして、遂に、「ターミネーター第4作 サルべーション」だ。
ジョン コナーはやっと大人になった。抵抗軍のリーダーとして たくさんの世界に散らばるレジスタンスの希望の星として、活躍している。
監督: マックG 配役 
ジョンコナー:クリスチャン ベール   
機械人間マーカス:サム ワーシングトン

ストーリーは
地球は スカイネットによる最終戦争で破れ、壊滅的な被害を受けた。わずかな生存者は、地下に潜伏して 機械軍によるパトロールから逃れ、武器をもって抵抗している。生存者 レジスタンスにとって 指導者ジョン コナーの 電波を通じて 送信されてくる指令は 何よりも勇気を鼓吹してくれる 唯一の励ましだ。抵抗軍の中枢司令部は 海底深く沈んだ潜水艦だ。
サンフランシスコは今や、機械軍スカイネットの中心で、機械工場では ロボットが大量生産されている。次々と生産された ターミネーターたちは、パトロールで人を捕まえては 捕虜にして人質として利用している。

ある日 死刑囚マーカスは 自分の体を人体実験に使われて 体は機械になるが頭脳までは従来の洗脳方法で洗脳されず 人の心をもって再生されてしまった。記憶を喪失していて、地球を彷徨っているところを レジスタンスに拾われる。レジスタンスの様々な人々と出会い、体は機械でも、心は人間のマーカスは ゲリラの女性に恋をする。 ジョン コナーは マーカスが サイボーグであることを知ったが、敵として断定できないまま、スカイネットを破壊する為に 機械軍中枢に侵入するマーカスを 見放すことが出来ない。 そのマーカスは、スカイネットに帰って、自分が何者であるかを知って、、、 というお話。

体は機械なのに 自分では人間だと思っている優しい男、マーカスを演じたのは 新人サム ワーシングトン、33才のオージーだ。
ニコル キッドマンや メル ギブソンや、故ヒース レジャー同様 ラリアで唯一の俳優養成所NIDA出身。 メデイアでは この映画をもって、久々の大型新人登場、、、といっているが ラリアでは 10年前からあちこちで見かける。私が初めて彼を見て 注目するようになったのは、10年前の映画「BOOTS MAN」だ。ニューカッスル炭鉱の街で タップダンスを踊りまくる男達の映画だった。このローカル映画で彼は 主役のハンサム男をだしぬいて、演技で賞賛された。
このとき、どうして役者になったのか、と メデイアに問われて、パースからガールフレンドが俳優になりたくてNIDAの入学オーデイションを受けるので ついてきたが、時間つぶしのために 自分もオーデイションを受けてみたら ガールフレンドは落ちたのに、自分は合格して ふられてしまったので役者の道を歩むことになった と飾りも気負いもなく 言っていた。体ばかり大きくて、田舎っぽくて どこといって特徴のない好青年といったところか。ヒュー ジャックマンのように、洗練されていくかどか 疑問だけど 良い役者ではある。

この映画、主役、ジョン コナーをやっているクリスチャン べイルのアクションがすごい。
もう息をつく暇もなく 人と機械との戦争だ。敵は 巨大ターミネーターになったり、水中タ-ミネーターになったり、バイクターミネーターになったりして、次々と攻撃してくる。

そして、最後の方では、「で で でたーーー!!!」と言う感じで、アーノルド シュワルツネッガーのロボット登場。クリスチャン ベールが 破壊しても破壊しても 再生して攻撃してくる。迫力満々だ。 アクションの好きな男の子にとっては 最高の映画だろう。男の子でもアクション好きでもないが、怖くて思わず キャーキャー言いながら すごく楽しんで観た。

律儀にこの20年間 「ターミネーター」を第一作から 続けて見てきた。昔の作品を観てない若い人たちでも、わかる内容になっている。この4作目から、5,6と、続いて3部作になるのだそうだ。このさき10年かかって、完結するというのなら、もう、乗りかかった船だから、ずっと最後まで 観て応援してあげようじゃないか と思う。

 

2009年6月8日月曜日

映画 「天使と悪魔」







超一流 第一級のスリラーというのは こういう作品のことを言うのだと思う
ダン ブラウン原作、ロン ハワード監督によるアメリカ映画 「天使と悪魔」130分を観た。
2006年「ダ ビンチ コード」に続いて ダン ブラウンによる作品の映画化。作品としては 「天使と悪魔」の方が 2000年に 「ダ ビンチ コード」が2003年に刊行されて 全世界でベストセラーとなった。

主人公は ロバート ラングトン教授。二つの作品を読み比べてみると「天使と悪魔」のときは まだ若かったからか ヘリコプターから飛び降り 空から落ちてきたり、水底に潜って溺れる人を救ったり、何度も全力疾走したり 007並みの大活躍だが、「ダ ビンチ コード」になると 少しだけ肉体派から脱却して 知性の塊となって中年教授の渋みが出てきている。それにしても、ラングトン教授の博識には いつもながら感心、感動、私は大ファン。

監督:ロン ハワード
製作総指揮:ダン ブラウン
音楽:ハンス ジマー
キャスト
ラングトン教授:トム ハンクス
カルメンゴ:ユアン マクレガー
ヴィットリア:アヤレト ズーラー

ストーリーは
ハーバート大学象徴学者のロバート ラングトン教授のところに 突然 スイスにあるヨーロッパ原子核研究所機構から 使いが派遣されて、スイスに招聘される。世界で初めて生成に成功した「反物質」が盗まれ、その「反物質」を作り出した学者が殺された。
無残にも学者の胸にはイルミナテイの紋章が焼印されていた。反物質とは 新しいエネルギーで 放射線の100倍のエネルギー効率を持つ。原子核研究所機構のセットから外されて 盗まれた反物質は 24時間以内に 研究所のセットに返さない限り 爆発する。24時間以内に回収できなかったら 爆発をくい止める方法はない。

時を同じくして バチカンに イルミナテイから脅迫状が届く。「反物質」をバチカンに仕掛けたという。何世紀も前に絶滅したはずの イルミナテイという秘密結社が ヴァチカンのローマ法王の突然死した直後に バチカンを一瞬の内に 跡形もなく吹き飛ばすほどの威力のある新型爆弾を仕掛けた。おまけに 次期ローマ法王候補のうち、もっとも有力候補だった4人の枢機卿が誘拐されており、イルミナテイはその一人一人を一時間ごとに公開処刑する という。
イルミナテイは カトリック教会に身代金を要求しているわけではない。脅迫でもなく、これは宣言であり、何世紀ものあいだ イルミナテイを迫害してきた教会にたいする復讐なのだった。

イルミナテイとは17世紀にできた哲学、科学者の間で作られた組織で、彼らは カトリック教会から迫害されて 地下で秘密組織化されたが、すでに消滅したと考えられてきた。ラングトン教授は イルミナテイの主要メンバーだった 科学者ガリレオが残した著書にヒントを得て 4人の枢機卿が公開処刑される場所を同定して、救助しようとする。反物質の生成を成功させ殺された学者の娘 ヴィットリアも一緒だ。

ガリレオは科学者だったが 敬虔なカトリック教徒でもあった。科学は神の存在を脅かすものではなく むしろそれに説得力を与えるものだと考えていたが 時の権力者 カトリック教会は ガリレオを異端者として裁き 迫害した。イルミナテイの会員のうち4人の科学者は 生きながら胸に十字の紋章を焼印されて公開処刑された。何世紀もたった今、イルミナテイは この恨みを晴らそうと、復讐にでた。

ガリレオは 沢山の著書を残しているが 科学的事実で公表を許されなかった論文や出版社に焚書されたものが多い。ラングトン教授は ガリレオの出版を禁止された著書に、ガリレオの友人で同じくイルミナテイの会員だった 作家ジョン ミルトンの4行詩が書き込みされているのを見つける。 

悪魔の穴開く サンテイの土の墓より
ローマに縦横に現る神秘の元素
光の道が敷かれ 聖なる試練あり
気高き探求 天使の導きあらん

この詩に 誘拐された4人の枢機卿が公開処刑される場所が 隠されている。イルミナテイは 科学の4大元素を 一つずつ4人の枢機卿の胸に 生きたまま焼印を押されて殺す予定だ。4大元素とは 土、空気、火、水。イルミナテイは 午後8時から1時間ごとに 4人の法王候補者を公開処刑して、深夜12時には 反物質が爆発をしてバチカンが跡形もなく爆破される。ラングトン教授とヴィットリア、バチカン警察、スイス警備隊は 猛烈なプレッシャーのなかで 爆弾の発見と 枢機卿の救出に走り回る。

とびきり頭の良いイルミナテイと、時間の限界のなかで これまた天才的な頭脳と行動力を持ったラングトン教授の対決と知恵比べが ものすごくスリリングでおもしろい。時限爆弾が仕掛けられているので 刻一刻、爆発の時が迫っている。もう、気は気ではない。  

法王の死去にともない 新しい法王を選出するコンクラーベ(選挙)までの間 死去した法王の秘書だった若い牧師、カメルレンゴの肩にのしかかった 重大責任と苦悩。カメルレンゴの複雑に 絡み合って解けない 法王への絶対的な愛情と憎しみ。この作品のラングトンに次ぐ 主人公カメルレンゴも、魅力的に描かれている。

読者または観客は 時限爆弾を抱えたまま 暗号を読み解きながら ローマ市内をラングトン教授とともに 走り回る。土、空気、火、水のヒントを探して 意外にもイルミナテイの会員だったベルニーニが彫刻や教会に残した意味を説き解いていく。ローマの地図を頭に描きながら 一通り市内観光をしてしまう。スリル満点。映画の完成度は、「ダ ビンチ コード」より この作品のほうが 高い。
映画を観た人は 本を読むことをお勧めする。本を読んだ人には映画を観ることをお勧めする。とにかくおもしろい。

ダン ブラウンという人、1964年ニューハンプシャー生まれで、45歳。父は数学者、母は宗教音楽家、妻は美術史研究家だそうだ。
「天使と悪魔」、「ダ ビンチ コード」に続く第3弾「THE LOST SYMBOL」が脱稿され、ことしの9月に出版される。
ワシントンを舞台に、フリーメイソンをテーマにした作品らしい。
フリーメイソンは 中世のヨーロッパでギルト社会を守る為に作られた組織だった。それが今でも続いている。チャーチルも ケネデイーも会員だった。入りたくて入れる組織ではない。世界で一番 入会審査の厳しい 今も現存する組織だ。この組織をラングトン教授が どう暴いて解き解いてくれるのか。またまた教授が どう活躍してくれるのか 楽しみだ。出版される日が 待ち望まれる。

2009年6月3日水曜日

娘が結婚したー!


















次女が結婚した。
5月31日 クイーンズランドのハミルトン島で。

娘が もう長いこと この相手と一緒に暮らしていて、彼のいびきがうるさいことも、ちょっと厳しいことを言うと すぐに すねることも、必要なときにフラッと出て行って居なくなることも よくわかっていた。

背ばかりが 高くて ヒョロっとした こんな無知で無教養で、碌な仕事に就いているわけでもなく 金もない 図体ばかりの男のどこが良いのかわからないが、

いつなんどき 瀕死の患者が飛び込んでくるか わからない救急動物病院の救急医を勤める娘には 居心地の良い大きな枕が必要なのか と思い、

ああ、娘はそんなにもストレスにまみれて働いているのか と、不憫に思っていた。

初めて 娘の口から 結婚の言葉が出たときは、腰をぬかして、あせりながら、「あんな奴でいいのか?」と、思わず 男の悪口を100以上並べ立てたが、

後日 再び 娘から 話題が出たときには 覚悟ができていた。

まあ、教養の塊で、責任感があり、立派な仕事を持ち コツコツ貯めた貯金額が高いからといって、必ずしも娘がくたびれているときに 疲れを癒してくれるわけではない。
娘のように スポーツも一通りやり、絵を描き、ヴァイオリンやチェロを弾き、オペラや芝居をよく理解し、詩とたしなみ、様々な芸術作品を紡ぎ出す そんな男が居たとしても、それで、娘をウマが合うとは 限らない。

気が付かないうちに 私も このウドの大木を愛しているみたい。可愛い奴。

そうこれでいい。

結婚おめでとう。

2009年5月27日水曜日

映画「X-MEN オリジンズ ウルバリン」


映画「X-MEN オリジンズ ウルバリン」を観た。この映画、日本では 9月に公開されるみたい。

1963年に 原作 スタン リー、作画ジャック カービーによってマーベルコミックから刊行されたコミックを映画化したもの。 X-MENシリーズは アメリカンコミック史上で 第一位のベストセラーだ。コミックブックだけでなく、映画、テレビアニメ、と対戦格闘ゲームなど、多くの派生作品を生み出した。

この映画は 107分。南アフリカ出身の ギャビン フッド監督。
お話は、前3作の前に さかのぼってくるもので、筋としては ウルバリンの過去と、彼がX-MENの一員になるまでを描いた作品だ。 

「バットマン」も 3作 作られて人気が出てから「バットマン ビギンズ」といって、バットマンの子供のころの生い立ちや バットマンになる契機が語られて それをクリスチャン べールが演じてとても良かった。
トーマス ハリスの「羊達の沈黙」、「ハンニバル」も、映画化され話題になってから、ずっと後になって「ハンニバル ライジング」が 発表されて、迫害され薄幸だったハンニバルの少年時代や 血塗られた学生時代が 映画で描かれた。ハンニバル博士が決して 猟奇的な殺人鬼や、血に飢えた異常者なのではなくて、一人の人間として理解できるようになっている。 「BOURNE ULTIMATUM」も、シリーズで お話が終わった後で、主人公がどうして軍やCIAを敵にまわすことになてしまったのかが、わかる仕組みだ。 ヒーローの人気が出てから ヒーローになる前の過去の物語を映画化するのが 流行っているのか。

X-MENとは 突然変異によって超人的な能力をもって生まれたミュータント集団のこと。
超能力があるために 人類からは差別され、恐れられ 嫌われている。プロフェッサーX こと チャールズ エグゼビア教授は ミュータントが一般人と同等に、権利を認められ ミュータントが誇りを持って生きられる社会にするべきだ という考えに基いて 人類を悪の世界から守る為に X-MEN を組織した。

一方、マグニートは むかしはプロフェッサーXと親友だったが、ホロコーストの生き残りであり その過酷な経験から人を憎み、人類よりも優秀なミュータントは 人を支配してミュータントのための社会を作るべきだという信条をもっている。今回の映画では アクションが大盛り大サービスで、スピード感ある戦闘場面が圧倒的に多い。

ストーリーは
ウルバリンは病弱な少年だった。兄 ビクターと暮らしている。ある日 父親がアルコール中毒で粗暴な男に銃で撃ち殺される。それを見て 怒りにふるえていると、ウルバリンの手から爪が飛び出してきた。思わず爪で男を刺し殺してしまう。人を殺してしまったミュータントのウルバリンとビクターは、追ってくる人達から やっとのことで逃れる。ウルバりンは自分では知らなかったが、兄も自分もミュータントだったのだ。

二人は 国の為にアメリカ市民戦争を戦い、第二次世界大戦に従軍し、ノルマンデイー上陸で戦果を挙げ、ベトナム戦争では、今度ベトナム女性に乱暴をする米兵を殺して、またしても追われる身となる。 ふたりは 肉体再生能力があるので年をとらない。

ある日、秘密情報機関にリクルートされて、ほかに5人の特殊な超能力をもったミュータントたちと一緒に仕事をすることになる。ウルバりンは、超人兵士製造所で 絶対に 壊れることのない超金属アダマンチウムを全身の骨格に移植されてアダマンチウムの刃でできた爪を両手に持つことになった。これで自在に爪を立てれば 車でもヘリコプターでも簡単に潰せるように改造された。秘密情報局は 次々とウルバリンたちを 紛争地帯に送り込み 戦果をあげた。しかし、彼らの 一般人をも巻き込んで殺戮する残酷な兵法に嫌気が差して、ウルバリンは チームから脱退する。

ウルバリンは アラスカの山の中で林業従事者として働き 出会ったエマ フロストという女性と二人きりの 平和で普通の人と同じ静かな暮らしを営んでいた。しかし、チームに脱退は許されない。執念深い兄は エマを殺し 弟をチームにもどすように仕向ける。また、バラバラになっていた5人も それぞれ死の脅迫を受けて 戻ってくる。
仲間同士の激しい争いが繰り広げられ ウルバリンは情報局の本部に乗り込んでいって 司令塔を倒さなければ ミュータントどうしの戦いをやめることが出来ないことを知る。本部に乗り込んでいったウルバリンを待っていたものは、、、 という ストーリー。

XーMENは ヒュー ジャックマンの役者としての輝かしいデビュー作だ。このオージー俳優はXーMENを契機に ハリウッドのアクションスターとして成功、ミュージカル「オズから来た少年」で ブロ-ドウェイ進出、今年はアカデミー賞の舞台でホストという大役を務めた。長身、嫌味のない顔、厚い胸板、肉体派アクションもできるし、歌って踊って良し、スマートなプリンス役もできる マルチタレントの役者だ。同じオージー俳優のメル ギブソンよりも大型で 幅の広い俳優になるかもしれない。

XーMENのおもしろさは 色々なことのできるミュータントが 次々と登場して超能力をみせてくれることだ。いわば、「ドラえもんのポケット」。それぞれがみんな 人間の願望の現われかもしれない。
ウルバりンは 肉体再生能力で年を取らないし 怒ると両手から超合金でできた爪が出てくる。兄のビクターも、年を取らず、狼のように敏捷で、強力な爪を持っている。
プロフェッサーXは 今回の映画ではチラとしか出てこないが テレパシー能力があり、人の心を読んで 操作することが出来る。
サイクロップスは 両目から破壊光線、オプテイック ブラストを発射する。サングラスを外すと 見たものすべてを焼き尽くしてしまう。 悪者マグ二ートーは 磁力を繰り あらゆる金属を意のままにできる。核爆発でも壊れない電磁バリアを張ったり、地球の地殻変動や 火山の噴火も自由自在に起こせる。

今回大活躍の5人のうち エイジェント ゼロは狙撃手で、相手が何人でも 移動しながら確実に敵を倒し 的を外すことはない。ジョン ライスはテレポーターで、自分の体を消して 自由に移動テレポートすることができる。 傭兵 ワイド ウィルソンは 抜群の刀捌きで、飛んでくる銃弾でも矢でも鉄砲でも刀で弾き飛ばすことができる。  クリス ブラッドリーは 磁力があり電気がなくても電流を体から流して電気をつけたり、機械を動かすことが出来る。ガム ピットは 触ったもの すべてを爆発させることができる。
そんなそれぞれ超能力を持ったミュータント同士が 格闘する場面の連続だ。コミックが映画になり ゲームになって男の子達が夢中になって画面に釘付けになるのがわかる気がする。

戦闘の合間にも、ウルバりンとエマとのラブシーンや、情報局にリクルートされた仲間同士の友情、兄弟間の愛情と嫌悪も描かれている。
「スーパーマン」、「バットマン」、「スパイダーマン」、「ファンタステイックフォー」、「ハルク」、「X-MEN」、みな、コミックから映画化された作品だ。私が一番すきなのは、やっぱり 「スーパーマン」と「バットマン」だ。

それにしても どれもがみんな ユダヤ人が作者という事実、、これをどう捉えるべきなのだろう。

2009年5月15日金曜日

ラリアは秋




オーストラリア生まれの高校生の娘を持った 日本人の友人が「母の日」に 白い菊の花束を 娘からもらって くさっている。もう充分生きたじゃない と思わず自分の心境を言ってしまって もっとへこましてしまった。

白い菊の花を見ると 悲しかった肉親の葬式をイメージして線香のにおいまで感じてしまうのは 日本人だけらしい。 普段 シドニーでも 花屋で菊の花は余り見ないのに、母の日だけは、どの花屋も、白い菊の花束でいっぱいだ。菊は英語でクレサンチマムといい、最後のマムが 母親のことだから、母の日に贈る事になったらしい。母の日にカーネーションを贈るのは 北半球の限られた国だけなのかもしれない。

母の日には 娘達それぞれから花をもらった。ふたつの花束のバラが満開で部屋中に香りが漂っている。二人が自立して家を出て行って久しいが、彼女達が巣立っていく前に すでに一生分の親孝行をしてもらっている。娘達の成長が日々、嬉しく 笑い声が生きる活力となってくれた。娘達のおかげで半世紀余り 喜びに満ちて生きてきた。この世の どの母親より幸せだったと思うから、これ以上 辛気臭い親孝行は してもらいたくない。
もう 親など振り返らずに 自分たちの道をどんどん切り開いて 前に進んでいって欲しい と思う。

今は秋。ぶどう、柿、みかんが美味しい。
ぶどうは 大粒のグリーンの種無しと、小さめの赤い種無しが甘い。柿も、みかんも ものすごい勢いで移民して増えてきている中国人が栽培していて、この2,3年は普通の果物屋でも買えるようになった。

今年は 何十年ぶりかで「巨峰」を食べた。韓国人食材店で、見つけたもので、韓国人が自分の畑で栽培して 今年初めて実がなったのだという。普通のぶどうの5倍くらいの値段だったが 久しぶりに食べて感激した。日本で最後に巨峰を食べたのは 家族で沖縄に転勤する前、娘達が 保育園にいたこ頃のはなしだ。離乳食など何も食べてくれないくせに 巨峰ならば、皮をむいてやると いくらでも食べた。

その頃 病院の輸血科で、高速血液分離採血機を操作していた。白血病の子供たちに、血液提供者から 2000MLから4000MLの血液を採血しながら、血小板だけを取って、あとを体に返す、当時としては新しい治療に参加していて、病院ではこの機械を操作できる唯一のナースだった。 
秋に輸血学会があり、東欧のドクターたちや、地方からの医学関係者の前でこの採血機を 操作してみせることななった。機械を取り囲むように、見学者が立っているところを、緊張した面持ちで 血液提供者が到着した。さて、静脈に針を刺して、採血を始めますから ご注目ください、といって、針を入れる瞬間 ハッと皆の息を飲む音がして、人々の目が 私の手に釘付けになった。
てへへ、、、わたしの手の指の爪が真っ黒だったのだ。ちょっと前まで やんちゃ坊主が泥遊びしていて 手も洗わずに飛んできたみたいに。 ち、ちがいます。皆さん これは汚れではなくて 毎日 巨峰の皮をむいては うちの赤ちゃん達に食べさせてたのでーす。巨峰の皮のシブで爪が黒く染まってしまっただけで、手はちゃんと洗ってきれいです。などと、言い訳するのもシャクなので、そのまま 見学者達が私の爪の汚さに腰をぬかさんばかりにあきれているのを尻目に 仕事を続けた。
そんなこともあったっけ。数えてみると28年も前のことだ。 久しぶりに巨峰を食べて、うん、、、おいしい訳だ。

写真は住んでいるアパートの入り口。プラタナスの葉が 色付いて 落葉する冬を待っている。

2009年5月6日水曜日

映画「ディファイアンス」


アメリカ映画「ディファイアンス」、原題「DEFIANCE」を観た。
第二次世界大戦中、ナチドイツに占領されていたべラルーシュで、ナチと戦ったレジスタンス、ビエルスキー兄弟の実話をもとにして 作られた映画。
当時余り知られていなかった 歴史的事実がこうして映画となって世界中の人々に知られることになって 歴史が再評価されることは、価値のあることだ。人は過去から学ぶことができるからだ。手記を読み、映画を観ることによって その場に自分を置いてみて、人としての生き方を考えることができるからだ。
恐らく百人百様の戦争体験があり、人々に知られていない戦争秘話もたくさん埋もれているに違いない。戦争体験を持たない私達は 真摯な気持ちでそういった ひとつひとつの話に耳を傾けるべきだ。

今年に入ってドイツ ナチをテーマにした映画が 次々と公開されている。ケイト ウィンスレットが主演女優賞をとった「愛を読む人」(「THE READER」)、トム クルーズの「ワルキューレ」(「VALKYRIE」)、ジョン ボイン原作の「縞模様のパジャマの少年」(「THE BOY IN THE STRIPED PYJAMAS])、そして、このエドワード ズウィック監督による「デイファイアンス」だ。タイトルは しぶとい抵抗、とか、頑強な挑戦とか言う意味。この映画はリトアニアで撮影されたそうだ。

監督エドワード ズウィックは 1999年に「ブラッド ダイヤモンド」で、シエラレオーネの内戦と、それに群がるダイヤモンド密売人と死の商人を描いた。まさに何故アフリカで内戦が止まないのか、何故人々が飢えるのかを 問い正していくと 必ずぶち当たる先進国の利益とエゴを描いた力作だった。
その前は「GLORY」で、アメリカ市民戦争で、使い捨てにされていった黒人兵を描き、「COURAGE UNDER FIRE」では、湾岸戦争の不条理を描いた。一環して戦争と人をテーマにしている監督。私は大好き。

監督:エドワード ズウィック
キャスト
トゥビア :ダニエル クレイグ
ズシュ  :リーブ シュレイバー
アザエル :ジェミー ベル
ストーリーは
1941年 ナチドイツがべラルーシュを占領。次々とユダヤ人は、虐殺され、ゲットーに収容されていった。ビエルスキー家の両親は ドイツ軍の襲撃にあって 殺され、長男トゥビアの妻子も殺される。
ドイツ軍のユダヤ人狩りや そのお先棒を担ぐ地元警察の追求をかわしながら 4人の兄弟は、逃げ場を求めて リビクザースカの森で合流する。森には虐殺から逃れてきた生存者達があちこちで 彷徨していた。トゥビアは、そんな人々をまとめ、森の中で、コミュニテイーを作りあげる。

トゥビアの 指導力によって、食料を分かち合い、共同で仮小屋を建て、武器を手に入れて自衛する。兄弟は、ゲットーに侵入し、話し合いを持って 留まりたい人を残し、脱出希望者を手引きして森に救い出す。空からの爆撃に逃げ惑い、執拗に繰り返されるナチと地元警察によるユダヤ人狩りに抵抗しながら コミュニテイーをささえる。

長男トゥビアと、次男ズッシュとは 意見の対立があり、ズッシュは森の中で逃げ回るだけでなく 一人でもドイツ兵を殺し復讐する道を歩む。彼はロシアのレジスタンス軍と合流して、勇敢にドイツ軍と戦うことになる。
トゥビアは、次の弟、アザエルを右腕にして コミュニテイーの中の不満分子を押さえ 強力な指導力で住民達を守る。 アザエルの結婚、トビアの恋、などをまじえながら 冬の寒さや飢えをのりこえて3年余りの耐乏生活が続けられる。

メンバーは拡大していき 最終的には1200人のユダヤ人が生き延びることを成功させた。戦争が終わったとき べラルーシュの森から1200人のユダヤ人が出てきた という。

何といっても 007ジェームス ボンドのダニエル クレイグが良い。長男といっても 初めから家族やコミュニテイーのリーダーとして生まれてきたわけではない。たくさんの不幸を目の当たりにして傷つき、絶望を乗り越えた者が、徐々に人々の上に立つことを学んでいくのだ。トゥビアのリーダーとして悩むすがたが とても人間的だ。

弟のアザエルが、ういういしくて可愛い。映画「リトルダンサー」(原題「ビリーエリオット」)で、細いからだで バレエを踊っていた少年、あの映画から10年余り。
ここでは 父親を殺されて 泣きじゃくっていた少年が度重なるドイツ軍との交戦を経て、またコミュニテイーの難題のぶち当たりながら 男として 成長していく。後半では、顔つきまですっかり変わって 決断力のある一人前のリーダーに育っていく様子が 頼もしい。

当時 ドイツ軍と交戦していたロシア人パルチザンの獰猛 果敢な姿、しかし、その中にあってさえ 存在するユダヤ人差別にも、監督の目は見逃がさない。
とても良い映画だ。

2009年5月4日月曜日

映画「ドラゴンボール」







ハリウッド映画「ドラゴンボール」を見た。
1984年から1995年まで11年間にわたって少年ジャンプに連載された鳥山明による人気漫画だ。


集英社で単行本として新書版で 全42巻で出版されたあと、一回り大きなA5版で全34巻が出版された。発行部数1億5千万部、全世界で3億5千万部売れたそうだ。

ドラゴンボールが連載されていた その間は私達家族はフィリピンで暮らしていたので このコミックがテレビアニメとして11年間も続いて 平均20%の視聴率を維持していたということは、全く知らなかった。また、映画にもなっていて 東映漫画17作が上映されて 総動員数4900万人にのぼった。ビデオカセットが3万セット売れて、テレビゲームになったのは40本以上、これが150万本売れた。 アニメ「ドラゴンボール」はアメリカでもフランスでも人気番組になりフランスではアニメ放映中 テレビ視聴率87,5%まで記録し、鳥山明の名前は フランスで最も有名な日本人になったという。
「ドラゴンボール」の主人公は悟空、7つの黄金の玉を集めると どんな願いでもかなえられる。「西遊記」からヒントを得て 作られた作品。こんな日本の国民的人気もの悟空が ハリウッド映画になった。
キャスト
悟空:JUSTIN CHATWIN
亀仙人:CHOW YUN FAT
ブルマ:EMMY ROSSUM
ヤムチャ:JOO PARK
ピッコロ大魔王:JAMES MARSTERS
チチ:JAMIE CHUNG
ゴハン:RANDAL DUK KIM
スパイ マイ:ERIKO TAMURA
さてハリウッド版「ドラゴンボール」のストーリーは
悟空は ちょっと冴えない高校生。強くてかっこよい同級生達からは いじめられっこ。厳しく武道を教えてくれる おじいさんグランパ ゴハンから 学校で友達を相手に武道を使ってはならないと 言われているので、いじめられても 暴力をふるわれてもやり返すことができない。好きな女の子 チチのことも、遠くから見つめていることしかできない。

家に帰れば 毎日毎日、グランパ ゴハンの猛特訓が待っている。しかし長年の厳しい訓練のおかげで、悟空の実力は徐々にゴハンに近ずいてきた。 悟空は誕生日にゴハンから これは大切な宝だといわれて 黄金に輝く玉をもらう。しかし、その夜、悟空が家に帰ってみると、家は崩壊、全焼していて、ゴハンが家の下敷きになって 虫の息でいる。ゴハンは、死ぬ前に 悟空に、亀仙人と一緒に、黄金の玉を集めて世界征服しようとしている悪者と戦うように言い残して亡くなる。

旅立ちのしたくをしているうちに 崩壊した家に盗人が入る。やはり、黄金の玉を捜し求めている ブルマだった。話しているうちに 意気投合して悟空は ブルマとともに亀仙人を訪ねる。その途中 夜盗ヤムチャと出会い 仲間に入れる。ヤムチャはブルマに恋をする。一方、砂漠で悟空も、憧れの娘チチにであい、彼女がただの可愛い高校生ではなく 武道の達人であったことがわかり、ともに 敵と戦う決意をする。悟空 亀仙人、ヤムチャ、ブルマ、チチ、の一行は 行く手をピッコロ大魔王に阻まれる。悟空は黄金の玉を 狡猾に潜入したピッコロ大魔王のスパイで奪われてしまう。おまけに、ピッコロ大魔王との大決戦で亀仙人は殺されてしまう。

怒り狂った悟空は ピッコロ大魔王と戦ううち、自分が別の惑星に住む サイヤ人で 満月を見ると大猿に変身することを知る。変身するとピッコロ大魔王に限らず 敵味方関係なく すべての生き物を破壊殺生せずにいられなくなってしまう。 しかし、チチやブルマの前で、自分の本能に必死で逆らって、悟空はまたもとの悟空にもどる。 そしてピッコロ大魔王から奪い返した7つの黄金の玉で、神龍を呼び出して ひとつのお願いをする。それは自分の身代わりになって死んでしまった亀仙人を生き返らせることだった。  そして、願いがかなったとたんに、7つの黄金の玉は世界に飛び散って去ってしまった。 そこで、また振り出しに戻って、孫悟空、亀仙人、ヤムチャ、ブルマとチチは世界に散らばった黄金の玉を求めて 旅立つのだった。
というおはなし。

B級映画にはB級映画なりのおもしろさがある。 「縞模様のパジャマの少年」のような 重いテーマの映画のあとに、気晴らしになるし、演じている俳優の意外な顔が見られたりする。

この映画のキャストでは一番 名高いのは、中国人のチョウ ユン ファだろう。中国映画のヒーロー、日本でいう昔の三船敏郎だ。武術に長けて、人を統率し、徹底して自分の筋を通す男 かと思ったら お茶目で どこか間の抜けたところもあって可愛い。中国では国民的スターだ。「カリブの海賊」では ジョニー デップを相手に 怖い幽霊船のキャプテンになったし、ツァン イー モー監督の映画には、監督の奥さんゴング リーとともに、必ず共演している。

ブルマ役のエミー ロッサムは 映画では髪を染めているが、本当は22歳、金髪の美人だ。ミュージカル映画「オペラ座の怪人」では、か細いが、きれいな声で、怪人に誘拐されて幽閉される悲劇のオペラ歌手の役を演じていた。また、「ポセイドン」では、船が沈没して みんなみんな死んでしまうのに、勇気あるお父さんが命をかけて守った娘の役を演じていた。

主人公の悟空の役は、25歳のカナダ人、スタントマンをやっていて これが初めての主役だそうだ。青い目の悟空がカメハメハをやるところなど、この漫画のファンだったら怒るかもしれないが この映画はこれで良いと思う。

冴えない男の子が たった一人の保護者だったおじいさんを殺されて 敵に戦いを挑む途中で出会った人々と 硬い友情で結ばれて 一人前の男に成長していく。恋もする。自分がサイヤ人で 破壊を生きがいとする人種だったと、わかっても、自制して友達は裏切らない。この物語は、特別なヒーローのお話ではなくて、ごく普通の高校生の男の子が成長していく過程を描いたお話なのだ。洋風ドラゴンボールは これで良いのだと思う。これでよいのだ。