2009年2月28日土曜日

映画 「愛を読むひと」




映画「THE READER」、邦題「愛を読むひと」を観た。
ドイツの小説家、ベルナルド クリンク原作。
ステファン ダルトリー監督。
俳優:ケイト ウィンスレット:(ハンナ)    
   デビッド クロス:(15歳のマイケル)    
   ラルフ フィネズ:(マイケル)
ストーリーは
1958年 ベルリン。15歳のマイケルは学校の帰り 気分が悪くなってアパートの入り口で吐き気に襲われる。アパートに住む中年の女に介抱されて 家に帰ることが出来た。後で しょう紅熱にかかっていたことがわかる。数週間後、すっかり病気が治ったマイケルは花を買って、女のところに行く。女は路面電車の車掌だった。初めはマイケルを「KID」(坊や)と呼んで 相手にもしてくれなかったが きれい好きだが 無口で頑固な一人暮らしの女も、マイケルが何度も 訪ねてくるうちに心を開いて、笑顔を見せるようになっていく。やがて、二人は大きな年齢の隔たりにもかかわらず、恋に落ち、互いに愛し合うようになる。恋するマイケルは 有頂天になって、学校帰りに 女のところに寄らずには居られない。

女はハンナといった。自分の過去にはぴったり口を閉ざし、何も語ろうとしない秘密めいた女だった。いったんマイケルが文学好きで、朗読が上手だとわかると ハンナは毎日 マイケルに本を読んで欲しがって、語られる物語に夢中になった。ハンナに読んでやるために マイケルも、前にも増して勉強を熱心にするようになり、望まれるままギリシャ神話から ロマンス、「チャタレー夫人」や、コミックにいたるまで読んできかせた。そんな二人の関係は誰からも秘密の関係だった。 しかし、ある日、突然女はアパートを引き払い 姿を消す。マイケルは混乱し、絶望する。

マイケルは数年後、大学で法学を専攻している。ゼミナールの教授について法廷を傍聴することになった。そこで、マイケルは法廷の被告席にいるハンナを見出す。ハンナは42歳。ゲシュタポのもとでユダヤ人収容所の監守だったという。毎日、収容所からガス室に送る人の人選をしていたことと、教会に600人のユダヤ人を閉じ込めて火を放ち 死に追いやった罪で、収容所生存者の証言をもとに、元監守だった女達が裁かれているのだった。 中でも ハンナの発言が注目を集めていた。ハンナのまじめすぎる愚直は答え方が 郡を抜いて 目立っていたからだ。

ハンナは どうして収容所から収容者をガス室に送り込んだのか、と問われて、「毎日新しい収容者がどんどん送られてくるから 古い収容者は処分するしかないではないか。」と答え、「燃える教会から逃げようと収容者がドアに殺到しているのに どうして外から鍵をかけて皆を死に至らせたのか と問われて 「ドアを開ければ 人々が飛び出してきて収集がつかなくなるではないか。」 と答える。収容所の監守としての責任を全うすることしか考えられないハンナにとって 監守の義務が正しいことだったのかどうかを考える頭脳はない。教育のないハンナにとって 与えられた仕事は絶対服従であり、他の選択肢はない。 その結果何が起こったのかを、考える能力さえない。
 
他の被告達が全員、監守としての義務を果たしたのは、それをしなかったら自分が殺されていたから 仕方がなくてやったのだ、と、自己弁護する。自己保身も自己弁護もできないハンナは 被告席の中で 人々の憎しみを一身に背負うことになってしまう。そのうちに、仲間だったはずの被告達が一斉にハンナを指差して、この女が収容者をガス室に送り込んだ責任者だった、教会に火を放ったのもこの女だった、と言い出す。そこで、裁判長は、証拠品となった虐殺報告書を書いたのは、ハンナか、問い正す。法廷の衆人の注視のもとで、筆跡を確認するために、紙とペンを出されて、ハンナは言葉を失う。そして、虐殺報告書を書いたのは、「私です」と、ハンナは答える。そのために、ハンナは殺人罪に問われて 終身刑を言い渡される。

そして、このときになってマイケルは 初めて ハンナが文盲だったことに思い当たるのだ。15歳のときの二人の愛の日々、ハンナはいつも本を読んでもらいたがった。自分からは本を見ようともしなかった。カフェでメニューを渡されても 見ようともしなかった。マイケルは法を学ぶ学生でありながら 自分が愛したたった一人の女が 真実からかけ離れた誤認のために 人々の憎悪を一身に負って罰を受けていく姿を 黙って見ていることしか出来ない。 字を読むことも書くこともできない 貧しい境遇に育って、与えられた仕事だけを生真面目にやりとげてきた 無教養の女は、ゲシュタポを憎む人々の生贄にされてしまった。ハンナは自分を恥じるあまり 衆人の前で自分が文盲であることを さらけ出される屈辱に甘んじるよりは 終身刑を受けて自分の体面を保つことを選択したのだ。
15歳でハンナに出会ったマイケルはここで再び ハンナを失うことになった。

時がたち、マイケルは結婚し、娘ができて、離婚をし、弁護士になっている。誰にも心を閉じて 親しくなることができない。誰にも言うことの出来ない 抱えている秘密が重すぎたからだ。 一人きりになって マイケルはハンナのために 物語を読んでテープに吹き込んで獄中のハンナに送り始める。昔読み聞かせて、ハンナがお気に入りだったロマンスや物語を次々と吹き込んで送ってやる。ハンナは獄中でマイケルの なつかしい声を聴く。そして、、、 というお話。

この映画でケイト ウィンスレットはアカデミー主演女優賞を獲った。主演男優賞は 予想どうり「ミルク」のショーン ペン。
この「愛を読むひと」を観たあとは、ケイト ウィンスレットの相手役を演じた ラルフ フィネズと、デビット クロスの二人に主演男優賞をあげたい。そう思うほど 3人が3人とも 真迫の演技で印象深い映画になった。映画は映像の美しさ 音楽、そして演技がものいう総合芸術だが この映画では3人の役者の演技が特別光っている。15歳のマイケルをやった デビッド クロスがとてもせつなくて泣かせる。気の強い 強情で無学な女に振り回されながらも愛に満たされて 少年がひとりの大人になっていく姿を見ることが出来る。

そして、ラルフ フィネズ。この人の 深い深い悲しみをたたえた瞳がとても良い。適役だ。心の傷の痛みにじっと耐えながら 誰にも悲しみを打ち明けることなく一人きりで立っている。彼は「イングリッシュ ペイシャント」「ナイロビの蜂」(「コンスタントガーデアン)の主演をしたが 物静かで繊細、貴品があって優雅だ。役だけでなく、実際の人柄もそんな感じの人なのだろう。

ケイト ウィンスレットも、頑固で無知なドイツ女の役が適役だ。実に良い演技だった。死ぬまで、自分の姿が見えないままだ。無学であることは悲しい。ものの考え方を総合的に捉えることが出来ない。物事の善悪を判断することができない。間違っていたと、指摘されても どうして自分が間違っているのかわからない。そんな哀しい女を とても哀しく演じて涙をさそった。

2009年2月22日日曜日

オーストラリア チェンバーオーケストラ 定期公演




今年度初めての オーストラリア チェンバーオーケストラの定期公演を聴いた。

彼らは今年も年間7つの公演を行う。一つの公演を、シドニーではオペラハウスとエンジェルプレイス、ニューカッスル、キャンベラ、メルボルン、アデレード、パースなど各地を回りながら、多いときは14回演奏するから、年に100日近くを国内で公演している。
その上、毎年一カ月間 海外遠征をして外国の音楽家達と共演するので少なくとも、年の半分は 舞台の上で演奏していることになる。

彼らは演奏中 チェロ以外全員が練習時もリハーサル時も 立ちっぱなしの起立姿勢だ。毎日リハーサルで 団員の一人が間違えると、全員でまた初めから練習やり直しをして 繰り返し練習するのが 団長、リチャード トンゲテイのやり方だそうだが、いかに、プロと言えども団員の苦労が偲ばれる。 アシュケナージが今年主任指揮者になったシドニーシンフォニーでも、故岩城宏之が永久名誉指揮者だったメルボルンシンフォニーでも これほどプロとして厳しい鍛錬しているグループは他にないだろう。結婚して子供もできたのに 全く脂肪のつかない体、頬の肉などこそげ落ちたような厳しいトンゲテイの顔を見ていると 断食で悟りを開いた求道僧のように見えるときがある。そんな彼が 本当に美しい音楽を聞かせる。
定期公演では毎回ゲストがあって ゲストを囲んでチャンバーオーケストラ17人が一緒に演奏をする。
団長のリチャード トンゲテイが使っているのは 1743年 グルネリ デムゲス、セカンドバイオリンプリンシパルのヘレン ラズボーンが弾いているのが 1759年 JB ガダニー二、チェロのベッキオ バルグが弾いているのが 1729年ジョセッぺ グルネリだ。

コンサートプログラムは
1: オーストラリア現代音楽家、JAMES LEDGER のRESTLESS NIGHT

2: モーツアルト シンフォニー29番 モーツアルト18歳のときの作品。弦楽に4人のホーン、2人のバスーン、2人のオーボエが入る。当時の重い交響曲に比べて 斬新な手法でシンコペーションやテーマの繰り返しを歌うなど、若くて、新しくて驚きに満ちた交響曲。

3: 今回のゲストミュージシャン、ソプラノ歌手 ダウン アップショウの歌 。 オズワルド ゴリジョブ作曲のアルゼンチンの曲、べラ バルトク編曲のハンガリア民謡、リチャード ストラウス作曲のドイツ曲。どれも一定の型のあるクラシックといわれるジャンルの曲ではなくて、主にジプシーの悲しい曲だったが、難しい曲をとてもきれいな声で、情感たっぷりに歌っていた。

4: モーツアルト シンフォ二ア コンセルタンテ 作品364番。 バイオリンとビオラのための協奏曲。モーツアルト17歳のときの作品。そう、この曲を聴くために ここに来たのだった。2人のオーボエ、2人のホーン。ホーンは当時の古楽器を使っていた。

バイオリンソロは勿論 リチャード トンゲテイ、ビオラは クリストファ モーア。クリストファは このチャンバーに加わって3年くらいだと思う。若くて、フットボールで鍛えたような体格、モヒカン刈りのトサカを金色に染めて 後ろの長い髪を三つ編みしてたらしている、一見 暴走族、、、そんな彼が見かけによらずデリケートな優しい音を出す。 この曲は 好きな人が自分と同じように弦楽をやる人だったら死ぬまでに一度は その人と一緒に弾いてみたいと思うに違いない曲。オーケストラをバックに バイオリンがメロデイーを弾くと すかさず後からついてきたビオラがそれを繰り返し、またバイオリンが帰ってくると ビオラが対話する。異質な音が絡み合い 同調したり反発したり仲直りしながら共に歌い上げる美しい曲だ。二人が本当に息が合っていないといけない。トンゲテイとクリストファ モーアは親分と弟子の立場だが とてもうまくやっていた。

パールマン(バイオリン)と ズッカーマン(ビオラ)が この曲を弾いているビデオを アメリカ人の家で見せてもらったことがある。素晴らしかった。音が素晴らしいだけでなく、小児麻痺で足が不自由なパールマンのバイオリンをビオラと一緒に持ってきて 彼の椅子や楽譜を用意してやったり、音合わせをしながら冗談ばかり言って とびきり和やかな空気を作ってから 息のあった演奏を始めるズッカーマンの魅力に完全に まいってしまった。二人の組み合わせの良さが 曲の美しさを倍増する みごとな演奏だった。

アマチュアオーケストラでは いつもビオラ奏者が少なくて、仕方がないので バイオリン弾きが 嫌々ビオラに回されたりすることが多い。バイオリンの高い音に嫌気がさしてビオラに凝ったこともあるが、サウンドボックスが一回り大きくなっただけで、重くて 音の振動の幅がおおきくなる。顎の力で楽器を持ち上げている間 振動幅の大きな音が 顎を伝わって直接頭に響いてくるから 長い間演奏していると 頭が割れそうになって吐きそうになる。バイオリンだと何時間弾いていても疲れないのに、ビオラでは楽器が重くて 手を伸ばしきりなので 貧血を起こしそうになる。だからフルサイズのビオラを小さな女の人が弾いているのを観ると、無条件で尊敬してしまう。

それにしても こんなに美しい曲を17歳で作って、自分もビオラを演奏していたというモーツアルトと言う人は なんという素敵。誰がなんといってもモーツアルトがいちばん。なにがなんでも、モーツアルトが絶対、一等だ。 とても満足したコンサートだった。

2009年2月16日月曜日

映画「レボルーション ロード」


映画 「レボリューション ロード」(原題REVOLUTION ROAD)を観た。 原作 リチャード イエッツ。

監督:サム メンデス
俳優:ケイト ウィンスレット(エイプリル)                          レオナルド デ カプリォ(フランク)
これで、ケイト ウィンスレットは ゴールデングローブ主演女優賞を取った。受賞の挨拶で壇上から レオナルド デ カプリォに、13年間ずっーと愛してきたわ、と言って、投げキスを送り 彼からもキスを返されるという微笑ましいシーンがあった。 二人は 「タイタニック」から11年目のコンビ。「タイタニック」は空前のヒットで、ハリウッドに最大収益をもたらせたのに、何の賞をもらえなかった。ケイトは以降 5回も賞にノミネイトされながら これが初めての受賞となった。レオナルドも5回 主演男優賞にノミネイトされながら、いまだ、何の賞も受けていない。ユダヤ人が 力を持っているアカデミーなどの諸賞では、左翼的アイリッシュは不利なのかもしれない。

ストーリーは
1950年代のアメリカ コネチカット。 フランクとエイプリルは 誰もがうらやむ美男美女の若いカップル。自分達は 何にも縛られない 自由で他の人たちとは全然ちがう 特別なカップルだと思っていた。女優のエイプリルは 女優として努力すれば 何にでもなれる自信を持ち、フランクもエイプリルに自由にさせてやれる度量をもっていた。フランクは兵役をしていたとき、ヨーロッパの各地を巡ってきていて、アメリカ以外の国を知っていただけに 自分が 生きているという実感を得られる生き方を いつもしたいと思っている。 そして、自分もエイプリルも 普通とは違ういつも、時代を先取りした特別な存在だと思っていた。そんな二人に 将来に不安のかげりもなかった。

しかし、二人がレボリューション通りに、家を買ったとこから、事態は変わってくる。フランクは定職に就き 車で駅まで、駅からシテイーまでの長い通勤時間に耐えなければならず、エイプリルは 子供を産み、専業主婦になった。輝いていた将来は、色あせ、日々退屈で平凡な生活が繰り返される。エイプリルは子供の世話に明け暮れ、近所とのうわべだけのお付き合いに無駄な時間を費やさなければならない。

エイプリルは むかしフランクがパリの話をしたとき 眼を輝かせて夢のようなところだと言っていたことが忘れられない。現状を打開するために 自分がパリのアメリカ大使館ではたらけるように、準備を始める。今からでも遅くない。家族でパリに移住して再び新しい 既成に捉われない自由な生き方の挑戦したい、とエイプリルは言って、フランクを説得する。フランクも賛成して、仕事を辞めて家をたたんでパリに行く と、同僚や友人達に言っても、夢物語だと、笑われるだけだ。

そんなある日、フランクは職場の上司から 高級と高いポジションの提供を申し出られる。「男なら 一流のビジネスマンとして、男を上げろ」、とはっぱをかけられ、フランクは自分が本当になりたいのは そんな一流の男であって、パリで夢を追いかけるような男ではなかった、ということに気がつく。しかし、エイプリルはもう主婦から抜け出してパリに行くことしか 頭にない。どうやって、妻の決意を返させるか、、、。

彼らには 精神病を患っている数学者の友人がいる。意表をつくことを遠慮なく言うこの友人に エイプリルは好感を持っていた。しかし、ある日、この男にフランクの心の中を、すっかり暴かれてしまって フランクは怒りを爆発させて、、、。

というお話。
この夫婦の特異なところは 何でも言語化して表現し、とことん話し合うところだ。問題を二人でつきつめて、ここまで言うか? というくらい 互いの言葉で互いを裸にし合う。理屈っぽくて 言い合いが辛らつで 激しい。 普通の夫婦では、ここまでは言わない。言わないことが沈黙のルールだし、言っても仕方がない。所詮相手は他人で 言ったからといって 自分の思うようには 相手は変わってくれない。しかし、フランクとエイプリルはとことん言い争う。もう、、、だから、この映画 とても疲れる。夫婦喧嘩は犬も食わない というけれど、全く食えない。 でも、この夫婦が 必死で、まじめに生きていて まじめに互いに向き合っていることはよくわかる。互いに傷を深め合うところも。

1950年のアメリカ。まだ、大半の女性は 高校時代に結婚相手を決めていて、すこしでも、将来性のあるハズバンドを獲得することが一生で一番大事なことだった。結婚、専業主婦が当たり前の閉鎖社会。エイプリルはすこし、早く生まれすぎたのだ。女が 大手をふって外に出て 好きな相手と同棲したり別れたりできる時代が もう、目前に来ている。自立と解放のためのうめき声が この映画を観ていて聴こえてくる。

「タイタニック」から 11年ぶりのケイトとレオナルドの俳優としての 成長ぶりが よくわかる。また 作家、イエッツの好きな人、またこの時代の女性史や社会の変化に関心のある人にとっては、この映画も良い映画だ。これを観て 夫婦喧嘩に強くなるコツがわかるかもしれない。

2009年2月15日日曜日

映画「チェンジリング」


クリント イーストウッド監督による 映画「チェンジリング」(原題CHAGELING)を観た。140分。

主演アンジェリーナ ジョリー。これで彼女はゴールデングローブにも、アカデミー主演女優賞にもノミネイトされた。

ストーリーは
1928年のロスアンでルス。実際に起きた出来事を映画化したもの。 電報電話局で働く シングルマザーのクリステイン コリンズ(アンジェリーナ ジョリー)は 9歳の息子、ウオルターと二人暮し。ある日、いつもの帰りの電車を逃して 送れて家に帰ってみると 待っている筈の息子がいない。必死で探し回るが 見つからず 警察に失踪届けを出す。

失意の母親のところに 5ヶ月たって、ロスアンデルス警察署長(ジェフリー ドノバン)が、息子が見つかったと連絡してくる。警察と一緒に迎えに行ったクリステインの前に 現れたウオルター コリンズと名乗る子供は 息子ではない。警察に この子は自分の子供ではないと申し立てても 警察は この事件は解決したと宣言してクリステインの言い分を全く受け入れようとしない。 クリステインの息子ウオルターよりも3インチも背が低く 見覚えのない手術跡のある少年は 自分がウオルター コリンズだと名乗り、クリステインを混乱させる。

この頃 ロス警察の腐敗を告発してきた クリスチャン グループ(ジョン マルコビッチ)が 息子でない少年をクリステインに押し付けて 事件が解決したと 主張する警察に注目し クリスチャンの言い分に耳を傾ける。クリステインは この少年がウオルターではないという小学校の先生や小児科医の証言を取り、ロスアンでルス警察を告発しようとしたところで、警察の呼ばれ、そのまま精神病院に 強制入院させられ外部からの連絡を絶たれてしまう。クリステインを応援しようとした クリスチャン グループが必死で探しても、クリステインうを見つけることが出来ず、やっと彼女を見つけて救出くるころには 数週間もかかったのだった。 クリステインは精神病院に収容されている女性達が病人でもないのに ロス警察から目をつけられているというだけで、警察に収容するよりも簡単に強制入院というかたちで無法の征伐を受けさせられている現状を見て、自分が救出された後は ロス警察を告発する。これが契機に、精神病院は 開放される。

一方、ロスから 人里はなれた農家から おびただしい数の子供の人骨が出てきて、大量殺人事件が明らかになる。それで、沢山の子供の失踪事件をきちんと追求しなかった 警察の怠慢が人々から 糾弾されることになる。そして、逃亡から成功して生き残った子供の証言からわかったことは、、、。 というストーリー。

やはり、無駄のない映像、たるみも伸びもなく140分間、観客の退屈させずに一挙にみせる映画監督クリント イーストウッドの力に感銘を受ける。 アカデミー主演女優賞にノミネイトされたアンジェラ ジョリーの演技が とても良い。終始、彼女は息子以外 誰とも挨拶でも抱き合ったり キスしたりしない。握手さえしないで、誰の体とも触れ合わない。9歳の子供を持つ シングルマザーとはそういうものだと思う。やせて、清楚、きちんとした服装をしているが 地味で目立たない。 警察に精神病患者扱いされて、言い分を誰にも聞いてもらえない 一人で戦うしかない女。耳を傾け 力を貸しているジョン マルコビッチの救いの手を受けても、ひっそりとお礼を言って 一人帰ってくる。そんな かたくなな女の姿に共感を覚える。

1928年 こんな時代 シングルマザーで仕事を持ち続けるには、余程の覚悟が必要だったろう。女の真の強さをジョリーは とてもよく演じている。男よりも、女の人に人気のある女優だというのが 納得できる。 同じ頃に制作され発表された映画「グラントリノ」のようなユーモアとヒーローの大活躍はないが とてもよく完成された映画だ。80近い クリント イーストウッド、これからも、いくつも良い映画を作り続けて欲しい。

2009年2月12日木曜日

オペラーストラリア公演「魔笛」




今年度、前期のオペラオーストラリアの興行が始まった。

昨年のオペラの出し物が 押しなべて低予算興行で 印象に残るものがなかったので、嫌が上にも今年の出し物に 期待をつなぐ。もし、今年の興行も低調だったら、もうオペラオーストラリアとは おさらばだ。毎年10万円だして、自分の席を確保してきたが、団員達が努力しないのならば 観にいく意味がない。カラスとドミンゴのDVDを観ていた方が 余程気が利いている。

いつも、行く度に腹が立って叫びだしそうになるが シドニー名物のオペラハウスにはエレベーターもエスカレーターもない。長い階段を年寄り達が 死ぬ気になって手すりにつかまって上がっていかないと たどり着けない。非常識で、反社会的だ。

2千人収容の会場に 舞台装置を運ぶ為の 荷物用のリフトがあるきりだ。身体障害者や長い階段を歩けない年寄りは この貨物用のリフトで 会場に案内される。着いた先から、やはり、階段をいくつかは 登らなければならない。内部が全席 階段状になっているからだ。職員がいつも二人がかりで 車椅子の人を大汗かいて運び上げている。膝が悪く 喘息持ちの夫とオペラに行くたびに、これがもう夫にとって最後の機会かもしれない と思いながらゼイゼイ言いながら階段を登る夫を見ている。

モーツアルトのオペラ「魔笛」を観た。
2幕、2時間40分。3月19日まで。
ストーリーは、
見たこともない不思議な生き物達が生息する不思議な森で、王子タミーノは 道に迷って途方にくれている。突然、大蛇が現れて、気を失ったところを 「夜の女王の国」の3人の侍女に救われる。侍女たちは、美しい王子をみて、夜の女王を呼びに行く。タミーノが気がついてみると 横にパパゲーノがいて、大蛇が死んでいるので、彼が助けてくれたのだと思い、友達になる。パパゲーノは女王に献上する鳥を捕まえる為に森にきていたのだった。

そこに、3人の侍女が女王を連れて、やってくる。夜の女王は、娘のパミーナ姫が 「ザラストロの国」に誘拐されてしまったので、助けて欲しいと、懇願する。パミーナ姫の絵姿を見て、タミーノは一目で恋をする。そこで、タミーノとパパゲーノは、勇んで姫を救い出す為に ザラストロに向かう。

ザラストロの神殿に着いたタミーノは パミーナに出会って、二人は同時に恋に陥る。二人をみながらザラストロは、 悪いのは太陽をさえぎってこの世を闇で閉ざしている夜の女王だ、という。タミーノは パミーナにふさわしい王子かどうか ザラストロの与える試練の儀式を受けることになる。

庭にパミーナが眠っている。そこに奴隷頭のモノスタトスが来て タミーナを自分のものにしようとする。すんでのところで 夜の女王がやってきて、娘を救い、娘を連れ去ったザラストロに復讐する為に 剣を渡してザラストロを殺すように命令する。
言われたとおりに パミーナはザラストロの前に出るが 彼にこの国の神聖な殿堂で、復讐などという愚かな考えは なくすようにと言って、パミーナを諭す。

パミーナは 恋するタミーノに会いに行くが タミーノは沈黙の修行をしている最中で、パミーナが話しかけても返事もしてくれない。パミーナはそれを見て 彼が心変わりしたのだと思い込んで、母のくれた剣で自殺しようとする。そこを、3人の童子がかけより、パミーナをタミーノのところに連れて行く。タミーノは 今度は水の試練と火の試練を受けるところだった。パミーナは タミーノとともに、この試練をくぐりぬける。
ザラストラを裏切って夜の女王の僕となったモノスタトスが夜の女王とともにザラストラの神殿を襲撃してくる。しかし、ザラストラの光の強さに打ち負かされて 夜の女王は去っていく。ザラストラは太陽を讃え、タミーノとパミーナを祝福する。
というハッピーエンドのおはなし。

このオペラの見所は 極端な高音と極端な低音だ。
夜の女王のコロラトーラソプラノはオペラのなかでも最高音をコロコロと鈴がなるような豊かなソプラノで歌わなければならず 難曲中の難曲と言われている。 そして、その対極となるザラストロの最低音 バッソプロフォンドだ。彼の曲もこれ以上低い音を出すのは不可能、というような低音を王者の風格と威厳をもって歌う。 可憐な娘パミーナと、美少年タミーノをめぐって 夜の女王の狂わしいばかりの高音と ザラストロの落ち着き払った低音とが交差するところが オペラのおもしろさだ。 またパパゲーノのバリトンが このオペラの舞台回しの役割を果たしている。

夜の女王のコロラトーレ、パミーナ姫のソプラノ、タミーノ王子のテノール、ザラストラのバッソプロフォンド、モノスタトスのテノールがかもしだすハーモニーに対して、パパゲーノのバリトンが、全体を引き締めて、まとめていく形になる。 以上の重要登場人物以外に、3人の侍女、タミーノの道案内になる3人の童子(ボーイソプラノ)。パパゲーノの恋人パパゲーナ(ソプラノ)、3人の僧侶(テノールとバリトン)もなくてはならない役柄だが、その上のコーラス合唱隊も入る。登場人物が多く、オペラの中でも、ぜいたくな お金のかかる出し物だ。

この「魔笛」はモーツアルトが死ぬ前に 最後に完成させたオペラ。曲が いかにもモーツアルトらしく 格調高く美しい。迫り来る死の影に脅えながら 貧困の極にあったモーツアルトの どこにこれほど優美で美しい旋律が作曲できる力があったのか。あふれるほどの才能を持ちながら余りに若くして亡くなっていった天才モーツアルトの不遇な一生を思うと いつも泣きたくなる。

夜の女王を歌った エマ パーソンは ラリアのパース生まれ、28歳で、シドニーで大学を終えたあと、奨学金を得てドイツに留学して あちらで活躍していた人。このオペラが初の凱旋公演になる。コロラトーラを 難なく歌っていた。将来が楽しみだ。 3人の童子 ボーイソプラノは声量は ないが透明な美しい声を出していて、舞台に花を添えていた。

今回の出し物で、特筆すべきは 役者達の声の良さ、難曲を上手にクリアして美しく歌っていただけでなく、そろいもそろって美形だったことだ。タミーノとパミーナの若いカップルは、美男美女で、特にタミーノのテノールは高音がよく伸びて美形が美声で歌うオペラの良さを充分見せてくれた。 夜の女王も 今が花盛りの28歳の美女、ザラストロが2メートルの背丈、がっしりした美男で役柄と外形とがぴったり一致していた。 オペラは声だけでなく役者の素材も役者ぶりも 見ごたえがあるものでなければならない。 去年の「ラ ボエーム」は最低だった。主役の夢見がちな若き画家が、オールバックの髪、小太りの中年中国人のオッサンだった。それがブーツを履いていれば ゴム長履いた魚屋の親爺にしか見えない。声が良くて高い声が出るからといって オペラは舞台なのだから 演じてくれなければならないし、演じる前に外観もとても大切だ。天は二物を与えずというが、オペラをやる以上 外観も声も演技もすべてそろっていなければならない。

また、この幻想的な御伽噺の舞台を盛り上げたのは 「LEG ON THE WALL」だった。不思議な生き物、名の知れぬ動物達が動き回っている夜の森を この人たちが アクロバットで木に引っかかっている鳥になったり、ジャングルをうごめく動物になったりして神秘的な夜を演出していた。体の柔らかな人たちで、街の高層ビルをよじ登ったり 様々な新しい演劇の試みに挑戦している若い演劇グループだ。注目に値する演劇グループだ。今後も、オペラにこの人たちが出てくれたら 舞台が生き生きして楽しくなるだろう。

2009年2月11日水曜日

ブッシュ ファイヤー3


2月11日 朝7時現在、ビクトリア州のブッシュファイヤーによる死者:183人、全焼家屋 796。 50人余りが行方不明だが、避難する場がないため、行方不明者は、絶望と思われている。
7000人がいまだに避難しており、いまだ火は燃え続けている。 一方、ニューサウスウェルス州のブッシュファイヤーは 完全に鎮火した。

日本の国土の22倍の広大な土地を、日本の人口の6分の1の人々がヨーロッパから入植して 土地を開拓してきた。国土の80%は砂漠。 農地として開墾した土地も 強風で表土が奪われ、地下水の層が浅いため、塩の層が上がってきて、塩害による農地の砂漠化が進行している。 また、10年来の日照り、旱魃で牧草が消失、家畜農家の被害は広がるばかりだ。ラリアの国土は、急速に砂漠化が進行している。

一方、私達のまわりはこの土地従来の乾燥に強い木、ユーカリがどこにでも生えている。この木は脱皮することで大木になる。剥がれ落ちた幹は 下草や落ち葉と一緒に土を覆い隠す。またこの木は特有のガスを発生させて燃えやすく、いったん火が出ると、地面を覆っている下草とともに、一気に燃え上がる。私達は、自分たちのまわりに、弾薬庫を抱えているようなものだ。

ビクトリア州とニューサウスウェルス州で、ブッシュファイヤーが コントロール不可能な勢いで燃え上がった悪魔のような週末だった。  日曜、月曜と、被害地に留まって人々を励ましてきたケビン ラッド首相は、火曜日になって、会期中で予算編成期だった国会にもどってきて、家を失った人々には新しい家を、燃えた学校には新しい校舎を、消失したコミュニテイーは必ず、もとどうりに戻すまで援助をやめない、と約束した。

自然がいっぱいのラリア、世界遺産のグレイトバリアーリーフ、エアーズロック。そんな遠くに行かずとも、私達が住むシドニーやメルボルンのビジネス中心街から 15分車で走れば海があり、森があり、旅行者が絶えない。 しかし、この国の農業は塩害と旱魃で、苦しんでいる。おまけに何年かごとに繰り返す大規模なブッシュファイヤー。

この国土に未来はないのかもしれない。
他に希望のある土地が 地球上に残っているとすれば、だが。

2009年2月10日火曜日

ブッシュ ファイヤー2


2月10日 朝7時の時点で、ビクトリア州のブッシュファイヤーによる死者173人。
750家屋全焼、5000人が家を失った。
この週末に起きた山火事は オーストラリア史上 最大の自然災害となった。

日曜日から36時間の間に $20ミリオンの寄付金が集まり、6000人の献血が 集まった。消火作業のボランテイアは 何千人にも上る。

メルボルン北東部のキングスレイクでは、街そのものが消失した。死者のなかには、ブライアン ネイラーというニュースアナウンサーもいて、彼による 山火事のニュースをテレビで見た人も多いと言うのに、彼は仕事の後 家に帰って 家族と共に帰らぬ人となった。

最後まで自分の家を守ろうとして、消化作業をしていて、火がまわったときには 道路が倒れた大木で封鎖され 逃げられなかった人夫婦が 覚悟を決めて、家族に携帯電話で、さよならを言ってきた という話も。

着の身着のまま 逃げて 避難所で 残してきた馬や、犬を気使う人びと。財布も持たず、猫だけを連れて 家を後に避難した家族。

焼け爛れた牧場を、放心したように 歩き回る 羊や牛たち。 せっかく生き残ったのに、銃で安楽死させるのだそうだ。焼けた野原を歩き回り、足の裏に火傷を負っているので、そこから感染して 苦しむことになるので 先に楽にしてやるのだそうだ。

人々は喪に服している。

異常乾燥と40度を越える熱風と、放火犯の3つが、被害広げた。 助け合いが当たり前の健全な社会が わずかな異常者のために、破壊される。放火犯は 厳罰されるべきだが、多くの放火犯は 自分で気がついているかどうかわからないが、精神病者だ。小さいときから暴力が 日常だった生い立ちや、環境の劣悪が 精神病の引き金にもなる。一見 愉快犯といわれる犯罪も、犯罪がおかされる前に治療できていれば、未然に防げる場合もある。放火対策は、精神病対策として、きちんと社会で捉えられなければならない と思う。

今日は 雨だ。

2009年2月9日月曜日

オーストラリアのブッシュ ファイヤー


ビクトリア州も、ニューサウスウェルス州も燃えている。
たったこの1日半の、ブッシュファイヤーといわれる山火事で、今現在、わかっているだけでも死者108人。750軒の家が全焼。 車の中で亡くなっている人の数や、確認できた人だけで、死者108人のため、これから焼けた家の中で 発見される遺体の数を考えれば、死者は 170人を越えそうだと言う予想だ。

真夏のいま、40度を越える暑い日が続いていた。 風が強く、気温が高くなると、ラリアならどこにでも生息していて、青いガスを発酵するユーカリの木が 燃え始める。火は風に乗って、100メートルを 簡単に飛んでいって、飛び火する。車で避難しようとする人々を、火の通り道になった アスファルトの道路が あっという間に車ごと人々の命を奪っていく。

ビクトリア州ではメルボルン北部がいまだ30箇所で、燃え続けていて、ニューサウスウェルス州では セントラルコースト、南海岸地域46箇所で、火の勢いは衰えていない。

ニューサウスウェルス州の別々の場所で、34歳と、15歳の放火犯容疑者が逮捕された。 一人殺せば殺人、沢山殺せば英雄、全部殺せば神様だ、、、という言葉を 初めて聞いたのは チャップリン、二回目に聞いたのは ゴダールだった。君は神になりたかったのか?

たった1900万人の人口の国で、一日で108人死亡者が出るということが、どんなことなのか。

窓を開ければ、黒い燃え殻が風にのって部屋の中に入ってくる。家のずっと遠くでは、まだ燃えているのだろう。 どうぞ、死なないで、これ以上、死なないで、と祈ることしかできない。

2009年2月3日火曜日

映画「グラン トリノ」




男が 多少の危険を伴うが、どうしてもやらなければならない と、いう仕事が出来たとき、何をしてから 出かけていくだろうか。

頑固一徹の老人 ウォルト コワルスキー(クリント イーストウッド)は 庭の芝を刈り、散髪屋に行き、風呂にゆっくりつかり、棺おけに入るときのために 背広をあつらえて 愛犬を隣に預けて、、、そして出かけていくのだ。

映画「グラン トリノ」を観た。良い映画だ。
クリント イーストウッド主演 監督の映画だ。今年になってから、この一ヶ月で、観た映画は11本。繰り返しみたいと思う映画はなかったが、この「グラン トリノ」は、別々の日に、3回観た。そして、同じところで 派手に笑い 同じところで、たっぷり泣いた。人のことをよくわかっていて、喜怒哀楽のつぼを心得ているイーストウッド監督にとって、観ている観客は 手のひらの上で 泣き笑いする たわいのない幼児のようなものだろう。
フィルムにまったく無駄がない。どの場面も、どんな会話も、ストーリーにとってなくてはならない必要最小限が 計算されつくしている。彼の制作する2時間のフィルムが洗練されているのは 無駄がそぎ落とされているからだ。

イーストウッドは 俳優として、私の子供の頃からのヒーローだ。日曜日の連続テレビ番組「ローハイド」ではハンサムなカウボーイ、「マカロニウェスタン」で暴れまくり、「ダーテイーハリー」で、銃を連射するキャラハン刑事だった。
監督としても、「ミステイックリバー」、「ミリオンダラーベイビー」でとても良い仕事をしている。

映画のストーリーは、
ウォルト コワルスキーは、若いときは コリアン戦争で出兵した退役軍人、デトロイトのフォード自動車を定年退職し、妻を失ったあとは、同じく年取った ゴールデンレトリバー犬と暮らしている。独立していった二人の息子達との関係は冷え切っている。家の修理をし、朝夕 家の前のカウチで新聞を読み、夕方には 通りをながめてビールを6本ほど、、。 3週間ごとに散髪に行き、昔からの床屋と悪態を付き合うのと、たまに古い友人達とパブで冗談を言い合う以外は 人々とのわずらわしい関わりを持たず、悠々自適の生活に満足している。

デトロイトも、この20年ほど 車の市場を日本車に奪われ、景気は後退するばかり、失業者があふれ、ギャングがはびこり、隣近所の人々はどこかに移っていって、気がついてみると ウォルトの家は、中国人の住宅ばかりに囲まれていた。前庭の手入れをしない となりの家の中国人家庭も、腹立たしいが、独居生活の父親の老人ホームの入居をすすめる息子も腹立たしい。

ある日 ガレージに賊が入り込み、ウォルトが大事にしている1972年フォード車グラントリノを盗まれそうになる。隣の家の 息子タオが、従兄弟のギャングに脅されて 忍び込んだのだった。もちろん、タオは失敗する。翌日、ギャングは タオにヤキをいれようと、連れて行こうとするが、母親やしっかりものの姉やおばあさんは、タオに しがみついて離さない。ギャング達が年寄りや女性に暴力をふるう様子を見て、ウォルトは黙っていられず 介入する。
それを契機に、ウォルトと隣近所のモン族の人々との 交流が始まる。

モン族は 中国、ラオス、タイ国境山岳地帯に住む少数民族で、政治的、宗教的に迫害され、このデトロイトに亡命してコミュニテイーを築いたのだった。人々は礼儀正しい よく互いに助け合う人々だったが、差別されている少数民族だけに アメリカ生まれの2世のなかには差別や失業から、ギャングが形成されて、人々は困り果てていたのだった。

隣の家は 高校生の姉とタオと、母親、おばあさんの一家だった。タオをギャングから 引き剥がしてくれたことで、モンの人々はウォルトが断っても断っても、恩人扱いして料理などを 届けてくる。姉のスウがしっかりしているのに、父親のいないタオは、内気で社会的訓練が全くできていないのを見て、ウォルトは タオを一人前の男にしてやらなければ、と思う。タオに隣近所の家の修理や 街路樹の手入れの仕方を教え、道具を与えて、大工仕事まで紹介してやる。

しかし、モンのギャングは、ウォルトが介入したことで、益々 タオ家族への嫌がらせも攻撃的になってくる。暴力がエスカレートしていった先には、、、。
というお話。

映画の内容は 差別社会、若者の暴力、銃所持、少数民族差別、失業などの社会問題を扱っていて 深刻だ。しかし、映画で、会話が 機知に富んで ユーモアたっぷりで笑わせてくれる。 まず、ウォルトの頑固親爺ぶりが、徹底している。終始、ウォルトの息使いが音になって 映像とともに流れるので、 若い女の子のヘソ出しファッションや、タオが失敗するごとに、ウォルトの深い深いため息が聞こえてきて、笑ってしまう。その効果で、観客はウォルトの眼で、映像を見ることができる。

妻が死ぬ前に ウォルトの心の支えになって欲しいと、言われていた牧師が、ウォルトを頻繁に訪ねてくる。ウォルトは それがわずらわしくてならない。 モンのギャングに襲われたウォルトは、牧師に、「どうして警察を呼ばないのか」と詰問されて、「コリア戦争では状況は一挙に悪くなったりする。殺される寸前に おまわり呼んで、来てくれるか?」とまじめな顔で言い返す。「牧師さんは 高い教養を持ちすぎて人生経験のない子供みたいなもんだ。そんなに人の生と死をわかりたかったら赤ん坊でも産んでみてくれ。」などとも。 また、「男なら、何をすべきか、神様が教えてくれなくたってわかってる。放っといてくれ。」と言う。 これが一番 彼が言いたかったことだ。

イタリア人床屋との悪態のつき合いもおかしい。
タオが 何か家の修理でも手伝いたいと家に来ると、ウオルタは、家の前の木を指して、実を取りにに来ている鳥の数を数えていろ、と命令しておいて、自分は ひょうひょうと横で、芝を刈り 庭を整備して草木に散水しているのも おかしい。タオが好意を持っている女の子に話しかける勇気がないのをウオルタが からかうシーンも笑える。このユーンという女の子の名前が ウオルタはどうしても覚えられなくて、最後までミャウミャウ(ねこの鳴き声)だ。

深刻な社会問題、出口のないアメリカの病巣を扱った映画なのに、不思議と明るい。 過酷な抑圧された少数民族で、自由のアメリカに亡命してきても 差別と暴力に蹂躙される若い人々の 押しつぶされそうな魂にもイーストウッド監督は、限りなくあたたかい目 をむけ 希望を指し示している。 観客は 映画を観て どんな暴力の嵐の中にあっても自分を失わないで生きたいと思うだろう。
何度みても、この映画 大泣きしてしまう。

2009年1月28日水曜日

映画「ミルク」







映画「ミルク」(原題:MILK)を観た。
アメリカで初めて自分がゲイであることをカミングアウトして市議に選出され暗殺された実際の政治家ハーベイ ミルクの半生を描いた映画だ。 この映画は、12月にアメリカで公開されてすぐに、沢山ある各種の映画賞すべてにノミネイトされてしまった。その勢いで ミルクを演じたショーン ペンが 2009年アカデミー賞で、最優秀主演男優賞を取るに違いない。

オスカーにノミネイトされたのは、「ビジター」のリチャード ジェンキンス、「NIXON」のフランク ランジェラ、「レスラー」の ミッキー ルーク、「数奇な人生」のブラッド ピットと この「ミルク」のショーン ペンの5人だ。

この1月に アメリカで初めてアフリカンアメリカンの大統領が誕生したが、オバマを選出したのは 今まで投票所に足を運んだこともなかった人々だ。これほどアメリカ人が自分の国の政治に注目し、かつての公民権運動に関心を示したことはいまだかつてない。そんな時期だから、この映画は、もうすでにたくさんの賞にノミネイトされていて、あとは、オスカーを受け取る為に壇上に上るだけだ。

監督:ガス バン サント
俳優:ハーベイ ミルク=ショーンペン    
スコット    =ジェームス フランコ    
フェニックス  =エミール ハッシュ    
    ジャャック    =デイエゴ ルナ      
   ダン ホワイト =ジョシュ ブローリン

ハーベイ ミルクは ニューヨークで、1970年 40歳の誕生日にスコット スミスに出会って恋に落ちる。意気投合して、二人でサンフランシスコにやってきて、カメラ屋を始める。店の名は 通りの名前をとって、カストロカメラ。

まだゲイが市民権を得ていない70年代 ハーベイは 自分がゲイであることを公表して ゲイの権利獲得の為にデモに参加したりするうち、カメラ屋は、ゲイの人権獲得運動の拠点になる。また、地元の店主達で組織されたカストロ ブレー協会の事実上の代表者となって 住民の権利獲得のために 市役所と話し合いや 交渉をすることになる。

ゲイはぺデファイルと混同されたり、一般の人からは 精神病の一種だと平然と言われていた時代だ。政治家や教会関係者と公開討論をしたり、ゲイの教職員解雇の破棄や、ゲイ差別撤廃のためのデモを組織したりしながら、彼は カルフォルニア州サンフランシスコ市の市議選に出馬する。 1973年75年と落選するが、選挙のたびに支持者を増やしていって ついに1977年に市議となる。パートナーのスコット スミス(ジェームス フランコ)は、ハーベイが政治にのめりこんでいく過程で パートナーを解消することになるが ハーベイが死ぬまで良き相棒だった。ハーベイは スコットを失ったあと、ジャック(デイエゴ ルナ)と同棲するが 市議選で多忙を極めている最中 寂しさに耐え切れなくなったジャックは自殺してしまう。

ハーベイは市議会の同僚に ゲイの私生活を笑われて、「僕は過去に4人の男と関係を持った。そのうちの4人は死んで もうこの世にはいないんだ。僕にとってゲイであることは冗談ではないんだよ。」と 真剣な顔で言う このシーンは迫力がある。 また、カルフォルニア州議会議員選挙に立候補して 投票数33000票を集めたとき 彼は集まってきた支持者達に向かって「君達は帰郷できるんだよ。みんな育ってきたところから離れて今、ここに居るけど これからは胸を張って故郷に帰ることが出来るんだ。」と、感動的なスピーチをする。ゲイに理解のない土地を追われてきたゲイにとって、帰る場所はなかったからだ。

市議になって、11ヶ月 カストロカメラの仲間はみんな サンフランシスコ市議の部屋に移動して、活動を広げ、市の同性愛権利法案を後援し労働組合と連帯するなど 活動途上だった。 そんなとき、財政的に破綻し、政治的に挫折した元市議ダン ホワイトは、自分の辞職も不幸も すべて市長とハーベイが悪いからだと、考えて 銃を持って、市庁舎に入り込み 市長を射殺、続いてハーベイを銃で殺した。1978年11月27日のことだ。享年48歳。ハーベイは市議になって1年足らず。ゲイの権利運動の殉教者は、このようにして亡くなった。ゲイであることがリスクだとしても、スキンヘッドや右翼や差別主義者に殺されるのではなく、長年共に政治を志し 家族付き合いもしていた身近な友人に 市庁舎で 銃殺されるとは、誰にも予想できなかっただろう。

ハーベイはかねてから ゲイであるための危険性を充分察知していたから、死んだときのために いくつものスピーチをテープに録音していた。伝えたいことが 語っても語っても尽きない やるべきことが多く、越えていかなければならない厚い壁が大きくて、いつも時間が足りないと感じていたのだろう。途上で殺されて、どんなに無念だっただろうか。 殺人者ダン ホワイトは市長とハーベイを殺害して、たった7年の禁固刑を宣告されただけだ。この評決に激怒した人々によってサンフランシスコでは自然発生的に大規模な暴動が起きる。のちにホワイトナイト ライオットといわれる200人の負傷者を出した暴動だ。 ホワイトは5年間服役し、釈放され その後自殺した。

映画は40歳のハーベイが、スコットに一目ぼれをしてキスするところから始まって、このときの二人の姿にもどって 終わる。最初見たときは 二人の会話を聞き流していたが、最後に繰り返して見せられて、ハーベイは スコットに 今日40になったけど50までは生きないよ、といっていた。その会話を見せることによって 48歳 志半ばで殺されていったハーベイの行き急いで逝ってしまった姿を印象付けている。

ところでフイルム編集の技術はよくない。ところどころドキュメンタリーフイルムが入るが、70年代のものだから画面が’ぼやけて、映画のフイルムとのつなぎあわせ方が雑だ。 しかし、ハーベイの真摯で、時代の壁を破った勇気に感動する。 殺される前夜 ハーベイは初めてプッチーニのオペラ「トスカ」を観る。恋人を失い、自らも命を絶つトスカの絶唱に心打たれて 眠れなくて 深夜ハーベイはスコットに電話をする。このときの むかし愛し合った二人の会話のシーンが良い。最初のキスのシーンも好きだが 電話で心と心を通じさせるふたりの姿が何て素敵なんだろうと思う。

ショーン ペンは役者として「ミステイックリバー」、「21グラムス」では強い男、「アイアム サム」では知恵遅れの身障者役、この映画ではゲイの役 何でもこなす。どこからみても100%ゲイになりきっている。役者としても監督としても 高く評価されて良い。

スコットを演じた ジェームス フランコがものすごく可愛いい。この人の笑顔ほどチャーミングな笑顔を他に 見たことがない。この人が出てくると 条件反射的に頬の筋肉がゆるんでしまう。ジェームス デイーンに そっくりで、「スパイダーマン」でハリーをやった。この映画では素裸でプールで泳いで見せたり、ショーン ペンとのラブ ベッドシーンも多い。彼なら何をしてくれても可愛い。

ハーベイの政治活動の後継者になる仲間に、フェニックス役の エミール ハッシュがいる。ショーン ペンが監督をして好評だった「イン トゥー ザ ワイルド」や「スピードレーサー」の主役をやっている。彼なんか、歩き方から話の仕方 しぐさや表情まで、100%ゲイだ。 
スコットが去ったあとハーベイのパートナーになる デイエゴ ルナもすごい。ハーベイに夢中で、どんな新婚の若妻よりも色っぽい。

それにしても、ゲイでは絶対ない ショーン ペンや、ジェームス フランコや、エミール ハッシュや、デイエゴ ルナが、本物のゲイよりゲイにしか見えないゲイを演じるって、すごいことではないか。 こういう姿をみると、演技をする役者ってえらいなあ と思う。

オスカー受賞に賛否両論 いろいろも意見あるだろうが わたしは この映画が好きだ。ハーベイ ミルクのことは 30歳以上のアメリカ人なら皆 知っているだろうが、外国ではあまり知られていないかも知れない。オバマが 大統領になったからといって小浜音頭を踊っているよりは アメリカの公民権運動をよく知る為に この映画を観た方がためになる。 

2009年1月26日月曜日

映画「ワルキューレ」







かつて日本軍は 第二次世界大戦時 オーストラリアを何度も攻撃して多大の被害を与えている。わかっているだけでも、1942年2月19日のダーウィン攻撃で約250人の死者、2月29日のブルーム爆撃で民間人約70人の死者、同年5月31日には 特殊潜航艇がシドニー湾に侵入、魚雷でフェリーを沈めて21人死亡、6月8日潜水艦がニューカッスルを砲撃している。 それ以外にも シンガポール陥落などにより日本軍に捕虜になったオージー兵を日本軍はビルマ鉄道建設などの労働を強制し8000人の捕虜が炎暑と厳しい強制労働で亡くなっている。

戦後のオーストラリアにとって 日本人旅行者は 一時は年間80万人にも達し、日本人は 気前良くお金を落としてくれる上客だ。しかし、この国の人々は 被害者側だから、日本人をいまだに好戦的な軍人国家のイメージで捉える人は多い。歴史の浅い この国の人々にとって 国を守る為に 戦争に行ったベテランと呼ばれる退役軍人は 国の誇りだし、国のアイデンテイテイーの元になっている。

仕事先で ゴリゴリの保守国民党支持の年配看護婦に 戦争中わたしの家族は何をしていたのか 聞かれたことがある。私の父は病弱な大学院生だったから学生をしながら、高校生のために教壇に立っていたけど、大叔父と叔父は リベラリストだったので政治犯扱いで刑務所に入っていた、と答えたら、看護婦は「日本にも戦争に反対する人は居たのか、信じられない。」といって、とても驚いていた。
どの国にも どんな状況でも 立場、職業、年齢、男女の別なく 戦争に反対する人々はいた。当たり前だ。

トム クルーズの映画「ワルキューレ」を観た。原題「VALKYRIE」。英語読みだと「ヴァルカリー」。
ワルキューレとは、ワーグナーのオペラの題名だ。芸術に広い知識をもっていたヒットラーが ナチの さらなる対外膨張政策のために 予備軍を前線に送り出す為の作戦につけた名前だ。この作戦の予備軍を利用して 軍隊内でクーデターを起こし SSを拘束し、戦争を終結させようとしたのが クラウス ボン スタフェンベルグ陸軍少佐だ。あれだけ強力な権力を欲しいままにしたヒットラーを爆死させようとして、失敗、銃殺された。ドイツの国民的英雄といっても良い。

ストーリーは
スタフェンベルグ陸軍少佐は、アフリカのチュニジア戦線で、爆撃にあい負傷し、片目と右手の指を失って、前線から帰ってくる。時に36歳。呼び戻されたベルリンでは 連合軍によって 空爆が始まっており、妻や3人の子供達と会っている余裕もない。

ヒットラーはワルキューレ作戦によって、戦争を拡大させようとしていた。これの歯止めをかけようと、トレスコウ陸軍少将を中心に秘密組織ができていた。スタフェンベルグもメンバーとなり、ヒットラーの暗殺を計画する。彼らは、SSの拘束と解体、アウシュビッツなどユダヤ人強制収容所の閉鎖、ユダヤ人の解放、連合軍との停戦交渉を、考えていた。入念に準備をしてヒットラーの主催する戦略会議場を爆破するが、爆弾の威力に欠けた為 ヒットラーの暗殺は失敗する。爆破が一応成功したため、暗殺が成功したと思い込んで、クーデターを起こした新軍指導部は、ことごとく処刑された。映画は 彼の銃殺刑による死で終わる。

スタフェンベルグは、ロイヤリストで愛国者の軍人だったが、ヒットラーの一党独裁に反対した。彼らの計画したヒットラー暗殺が、成功していたら、第二次世界大戦は もっと早く終結していただろう。ナチ独裁政権に反対して殺されたドイツ人1万6千人。軍法会議で死刑と言い渡され処刑された ドイツ人レジスタンス3万人。このなかには、ミュンヘンのハンス ショールとゾフィー ショール(1943年処刑)も居る。ゾフィーについては、ここで、2006年8月17日の映画評「白バラの祈り」で、述べたことがある。
これらの記録は ベルリン近郊にドイツ反戦記念センターに保存されている。 センターには 毎年10万人の訪問者があるそうだ。
歴史的事実は私達に、どんなに強力な恐怖軍政を布いても 人々の意志を捻じ曲げることはできない。人々の良識は 暴力の力よりも強いからだということを、教えてくれる。
ドイツ軍というと、悪の権化みたいに 悪魔のように扱われているが、スタンフェンベルグのような軍人もいたし、徴兵の拒否して公開で首をはねられたフランツ ヤゲルスタッターのような純朴な農民もいた。忘れないで居る ということが、とても大切だと思う。
アメリカ版の映画、スタフェンベルグに、ドイツからは、自分達の英雄を ハリウッドアクションとして 扱って欲しくない という批判が集中しているようだが、このような形でも、若い人々が知らないことを知る機会になるならば、良いと思う。トム クルーズは、実際の36歳のスタフェンベルグより年を取っているくせに いつまでも子供みたいで、高い声を出して、貫禄に欠けるけれど。

彼が ワルキューレ作戦の書類のサインをもらいに、ヒットラーを避暑地に訪ねていくが、そのオーストリア ザウスブルグの山荘(イーグルネスト)を 娘とヨーロッパ旅行したときに見てきたばかりだ。山々の頂上に立つ、絶景を観ながら 暖炉の前でジャーマンセパード犬をなでているヒットラーが、実際に見てきた記憶のなかで、一致する。こんなシーンひとつみても、この映画、よく歴史の考証をしているように思える。
観てよかったと思う。

2009年1月23日金曜日

映画「レスラー」




映画「THE WRESTLER」、邦題「レスラー」を観た。
ゴールデングローブの、最優秀主演男優賞を 主役のミッキー ルークが 獲得し、ベネチア国際映画祭でも 最優秀賞の金獅子賞を獲得した作品。

ストーリーは
ランデイーは、(ミッキー ローク) ラムという愛称で呼ばれ ラスベガスのスタジアムを何万もの熱狂的なファンでいっぱいにして、かつて一世を風靡したプロレスラーだ。リンクの上に 仁王立ちして 床にのびている相手の上に体ごと飛び降りて カウントに持ち込むのが彼の必殺技だ。1980年代の熱い男達の英雄的レスラーだった。

さて、20年たった今でも、ラムは小さな街の小さなリンクで、レスラーをやっている。もちろん八百長もやる。試合中に剃刀で 自分を傷つけて血を流しながら 戦うのもショーのひとつの見世物だ。観客達は 流血を見て、興奮してそれに熱狂する。しかし、試合が終わって、彼が帰る家は 惨めな貸しトレーラーだ。興行でもらった金は ボロボロの体を何とか維持する為の 鎮痛剤や、ホルモン剤と、アルコールに消えてしまう。

そんな彼が、試合の直後に、心筋梗塞で倒れる。 バイパス手術をして彼を救命した医師は「生きていかったら二度とリンクには上がらないように」とラムに忠告する。プロレス以外の世界を知らないラムは 途方にくれて、ストリップダンサーのマリサ (マリサ トメイ)のところに行く。9歳の子を持つシングルマザーの ストリップダンサーは、ラムに、「それならば、プロレスをやめて、家族のところに帰りなさい」と言う。 すっかり忘れていた、17歳の娘にあわてて会いに行くが、勿論 長いこと 連絡を絶っていた父親を 娘は受け入れない。紹介された肉屋で店員として働き始め 娘との関係も修復につとめ、やっとのことで娘の かたくなに閉じた心を開かせることに成功するが、生きる目的をどうしても見出せないラムは、このままずっと店員を続けていくのではなくて、本当に自分のやりたいことに、自分を賭けることにする。 というお話。

悲しい男のお話だ。ショービジネスで いったんヒーローになってしまうと 死ぬまで そこから抜け出すことが出来なくなってしまう男の悲哀。救いのない老醜。うらぶれた男のロマン。

53歳のミッキー ロークは、長いことハリウッドから忘れ去られていたが、去年コミックを映画化した「シンシテイー」で、カンバックした。この映画、白黒映画で、余りに残酷で切ったり 殺したり 刻んだり 暴力性が激しくて 気分を害し吐きそうになって私は映画の途中から出てきた。この映画の大男の殺し屋が ロークだった。 このニューヨーク出身のハングリーなボクサー上がりの俳優は、1980年代には、アメリカのセックスシンボルと言われ、大変な人気だった。彼の20代のころの写真をみると、同じ人とは到底信じられないほどハンサムだ。今回、老醜をさらけ出しての熱演に、たくさん賞がもらえて嬉しいだろう。

映画のなかで、敵味方で憎悪むきだしで戦っていたのに、試合が終わると レスラー同士がとても仲が良くて 互いに気を使いあったりする様子が おもしろかった。
うちとけない娘の前で、「寂しくて仕方がないんだ。」と、大きな男が大きな涙を落とすシーンも良い。彼からプロレスを取ってしまったら 何も残らない、ただのわがままな赤ん坊のような、どうしようもない男をよく演じている。もしかすると、この役者そのものの姿なのかもしれない。

ストリッパーのマリサ トメイが 良い味を出している。この人が出演している映画をいくつか観ているが、いつもストリッパーだったり、身持ちの悪い女だったりして、この人が服を着て 画面に出てきたことがない。44歳で、とても美しい体をしている。裸でセクシーなポールダンスをさせたら 本場の本物より上手だ。口をすぼめてしゃべる様子や、長い乱れ髪で男を遠くを見るような目で見つめられたら 大抵の男は クラッとくるだろう。

体が資本で 体を張って生きるしかない孤独なレスラーと 孤独なストリッパーの悲しい映画のなかで、唯一、17歳の娘を演じた エヴァン レイチェルウッドの硬く純粋な美しさが 際立っている。汗と血とアルコールで汚れた掃き溜めに突然、真白の鶴が舞い降りたように、色白で可憐な 薄幸の娘だ。父親から長いこと忘れられていた娘の孤独は、プロレスラーやストリッパーの孤独よりも深く 痛々しい。

この映画 熱い男の浪漫とか言ってしまって、男は賞賛してしまいがちだけれども、私はこんな「浪漫」は 好きになれない。大体どうして 男は格闘技に惹かれるのか。格闘技のボクシングもレスリングもスポーツではない。殴り合いではないか。ボクシングなど、ヘルメットをした上で どうして頭を殴りあわなければならないのか。
映画では、大きな体で、小さなおつむの赤ん坊のようなレスラーを ストリッパーは支えてやろうとしたが、そんなレスラーとストリッパーを理解しようとして、もっと傷つくことになってしまった娘の方が、人間として はるかに立派だと思う。
最後に昔のロックンローラー ブルース スプリングステイーンが 歌っていて、それが とっても良い。

2009年1月20日火曜日

ゴールデングローブとオスカー




今年のゴールデングローブでは、主演男優賞には、「レスラー」のミッキー ルークが獲り、助演男優賞に、バットマン「ダークナイト」のヒース レジャーが受賞した。ヒースの受賞が何より嬉しい。
28歳の若さでヒースが事故死して、この1月22日で丁度1年。 ヒースの死は 映画界にとっても オ-ストラリアの演劇界にとっても 大きな損失だ。ロスアンデルスの 授賞式には彼に代わって、「ダークナイト」の監督クリスノーランが賞を受け取って、「みんなが彼の演技に魅せられた。名優ヒース レジャーは 決して忘れ去られることはないだろう。」と述べた。

ヒース レジャーが映画に登場してから 彼独特の雰囲気にひきつけられてきた。ダークナイトのジョーカーの役は、怪優ジャック ニコルソンの後任でもあり、どんな風に、精神分裂症の根っからの悪の権化を、演じるのか 注目していたが、バットマンシリーズのどのジョーカーよりも 良かった。劇中のジョーカーの殺気立った笑い、瞬きする間に いとも自然に次々に仲間を殺していく無表情、大笑いして人々の憎しみを背負った瞬間の哀切極まりない表情。他の人にまねできない。 彼ほど自分を無にして、役にはまり込む俳優は他に居なかったのではないだろうか。また、彼のように、老成した役者も珍しい。 たった28歳で 亡くなってしまうなんて。 ヒースは ゴールデングローブだけでなく、オスカーにもノミネイトされている。二つとも取れたら、とてもうれしい。

主演男優賞「レスラー」のミッキー ルークもオスカーにノミネイとされている。ほかに、「数奇な人生」の ブラッド ピット、「ミルク」のショーン ペンが推選されている。オスカーは、ショーン ペンが取るだろう。

「ミルク」とは、アメリカ史上 初めて自分がゲイであることをカミングアウトした政治家、ハーベイ ミルクの半生を描いた映画だ。1970年代の ベトナム反戦、人種差別やゲイの市民権獲得の運動の激しいうねりのなかで、ミルクは銃撃されて殺される。このとき彼の死をニュースで見て 当時のことは、よく憶えている。ゲイ差別を人権獲得運動として捉えようと 努力していた。ほとんどの人々は どう捉えてよいのかわからないでいたし、社会は変わり者が 突然出てきて殺されたという程度の理解だった。いまでは ゲイなど珍しくもないし、自分の心の中のゲイは、だれでも持っている。そんなミルクのことが映画化されて、オスカーの対象にまでなって、嬉しい。

アメリカ社会が やっと黒人大統領を迎えるまでに成長し、やっと、ハーベイ ミルクを失ったことを追悼している。やっと、ここまできたのか、、と感慨深い。
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2009年1月19日月曜日

怖い話


真夏のこの時期、シドニーでは 白桃が盛りで出回っていて 一番美味しいころになる。
白桃も白いネクタリンも、外から触って実が少し柔らかくなったところを ナイフで半分に切れ目を入れると、ぱっくりと2つに分かれて 手を汚さずに そのまま食べられる。ちょっと前まではそれが、黄桃と黄色いネクタリンだった。

それと、茹とうもろこしが とっても美味しい。取れたてのスイートコーンに、塩をふってかぶりつく美味しさは、特別。ここでは一年中、収穫できるので、食事の肉や魚の付け合せにする為に、皮付きを買ってくる。皮をむいて売っているものは 新鮮な甘みが 失われているので、皮付きを買うに限る。

とうもろこしの皮をむく段になって 私は二重に手袋をつける。薄い台所用の手袋と、トイレ掃除に使うような厚いゴム手袋を 両方つけて、ごみ袋を用意して、おもむろに皮をむく。とうもろこしの先の穂のあたりの実の柔らかいところに青虫がいることがあるからだ。この虫が、居るかも知れないと想像するだけで 怖くて怖くて 緊張する。ちょっとでも虫の居る気配がすると、心臓が氷つき、全身に鳥肌がたち、頭から冷や汗が出て止まらない。本当に失神しそうになるが、勇気をふるって、とうもろこしの先を包丁で切り落として、ごみ袋に入れて、すぐに、エアシューターで、建物の外のごみ集配所に直行させる。以前、切り落としたとうもろこしの先をゴミ箱にいれて、そのまま調理を続けていたら、青虫が ゴミ箱のなかから、這い出てきたのだ。そのときの地球が破壊されたときのような 心臓がもぎ取られたような恐怖感を、忘れられない。スーパーマーケットの売り場で、コーンの山の上を この青虫が這っていたのを見て、足がすくんで、全身大汗をかいて、動けなくなったこともある。

子供のときから 足のあるカミキリ虫やクワガタや、羽のある蝶や蛾は平気なのに 足のない青虫、蛆虫など幼虫が異常に怖い。夜、家のトイレにも一人で行けなかった。そんな私を兄姉は 笑ったり非難したりしたが、父は「怖がるのは いいことだ。それだけ想像力があるということだ。それでいいのだ。」と悠然としていた。それでいいのだ。しかし、そのまま年をとってしまった。

昔の友達に向島の大工の棟梁に一人娘がいた。チャキチャキの江戸っ子、体も声も大きく弱いものを助け、どんな大きな相手でも間違っていればひるまず向かっていく。正義の味方で人格者、立派な女性だった。そんな人がねずみを怖がる。当時私はハツカネズミをペットにしていた。その話をするだけで、ガタガタふるえて、じっとり汗をかいて、貧血をおこして倒れそうになる。はじめは冗談かと思ったが、本当に怖がる姿を見て、ぴったりネズミの話は避けるようにした。

怖いものは 人によって異なる。何が一番怖いか、人と会って、話を聞くとおもしろくて、それぞれが全然違うので、人に対する興味が湧いてつきない。
一般に 人はお化けを怖がる。私は怖くなかった。 フィリピンで 何度もお化けにあった。
一度目はマニラの最初の家で、二階で眠っていたら 異様に大きな足音が、階下から上がってくる。ドカン ドカンと 余程大きな男が 二階に上がってくるものだ と、半分眠った頭で聞いていると、ドスーンドスーンと、私の寝室のドアの前で、足音が止まった。その瞬間、私の足元で眠っていた犬がドアに向かって猛然と吠え掛かった。午前3時だった。大きな私の犬は しばらく吼え続けていた。抱き上げると、ガタガタ震えていた。翌朝、階下に行ってみると、メイドたちと運転手が青い顔で、「で、で、出たー。」と騒いでいた。 日本のように 音もなく出てくる 足のないお化けではなくて、フィリピンバージョンは、いやにうるさいのが特徴らしい。

その後も このお化けは 姿は現わさないが、メイドや他の人たちを怖がらせた。 来客用の寝室のトイレには鍵がなかった。むかし、鍵が壊れたので取り外して、トイレのドアには 飾りのドアノブがついているだけで、鍵はかからなかった。にもかかわらず、夫の秘書が泊まりに来たとき、彼女はトイレのドアの鍵がかかり 開けられなくて一晩中トイレに閉じ込められていた。運転手の妹が 泊まったときも同じことが起きた。かぎがないので、閉まるわけがないドアに鍵がかかって 開けられなくなるのは、不思議な出来事だったが、この家に住んでいたお化けは お茶目で 若いフィリピン女が 夫のまわりをヒラヒラ舞っては誘惑しようとする姿を ちゃかしていたのではないだろうか。かわいい奴ではないか。

この家だけでなく、フィリピンでは、他の移った家でもお化けがやって来た。このときも ものすごく大きな ドカーンドカーンという音で お化けは台所に入ってきて、冷蔵庫を開けて バシーンと、家が壊れるくらい大きな音で閉めて 出て行った。翌朝、メイドが怖がるので、牧師に来てもらって、お払いをしてもらった。二重三重の鍵をかけ、安全対策を講じている家で メイドもガードマン代わりの運転手も住み込んでいるから 泥棒や強盗は簡単には入れない。どうやって 馬鹿でかい音とともに 家にお化けが 入ってくるのかわからないが、お化けにはお化けの事情があったのだろう。
不思議と、娘達はお化けの音に目を覚まさなかった。娘達が怖いのは、お化けではなく、ゴキブリだ。

今のところ、シドニーでは、お化けに会ったことがない。一番 怖いのは、やっぱり とうもろこしについてくる青虫だ。
そういえば、掃除用の厚いゴム手袋、古くなってきているので、買い足しておかなければならない。

2009年1月14日水曜日

もう マックは食べない


モーゼに率いられた 奴隷ヘブライ人たちは エジプトを脱出する際に、その条件として十戒を守ること、エホバを民族神として信仰することを約束した。エホバは転地を創造した全能の神だから 他の神を信じることは 固く禁じられた。従って ユダヤ教は唯一神エホバのみを信仰する宗教で、ユダヤ人だけが神に選ばれた民族として 救済されるという選民思想が元になっている。

第2次世界大戦の 600万人のホロコーストは、ユダヤ人のシオニズムに火をつけた。シオニズムは2000年のヨーロッパにおける受難の歴史を克服しようとしたイデオロギーだ。この強固さに比べたら、ドイツ、ナチズムのゲルマン人純血思想など、シオニズムの裏返しでしかない。シオニズムの断固としたユダヤ純血主義思想、この狂信。この盲目的なサデイズム。

イスラエル首相の収賄事件を隠蔽するために、強い指導力を国民に見せ付ける為に ガザを攻撃する政治の愚かさ。これは戦争ではない。一方的なパレスチナ難民に対する虐殺だ。学校が爆撃され、病院が襲われている。ここにも正義はない。ここにも神はない。ガザで1000人の罪のない市民が殺されて、やっと国連議長の視察ですか?

ーー「神は死んだ」? ニーチェは「末人共が神を殺した」と言っているのであって、あえていうなら「殺したつもり」にすぎない と言っているのだと思う。だから「ツアラトストラ」を書いたのではないか。ーと、親友ゴンの弁。 ならば、希望はあるのか?あるんだろうか。

もうマクドナルドも、コカコーラも、スターバックも止めようと思う。シオニストを援助することになるのだから。パレスチナ難民の頭の上から ばらまかれるクラスター爆弾の資金になるのだから。

2009年1月9日金曜日

映画「地球が静止する日」







映画「THE DAY THE EARTH STOOD STILL」邦題「地球が静止する日」を観た。1951年に、ロバート ワイズ監督が作った映画のリメイク。

50年以上前に作られたサイエンス フィクションが再び 21世紀に、映画化されるって、すごいことではないか。ラブロマンスや、三角関係が引き起こした殺人事件の映画が、50年後に、別の人気俳優によってリメイクされるのなら わかるが、SFのリメイクだ。 この50年の間に、科学技術は飛躍的に 発達発展した。50年前に わからなかったことが解明され、私達の生活様式も きわめて早い速度で近代化 便利化してきた。大学時代にプレハブの部活で、かじかんだ手指に息をはきかけながら鉄筆で書いたアジを、一枚一枚ガリ版印刷して、学内を配って回ったなどと、言ってもわかってくれる人は少ない。いまでは電車の中で、小型PCでタイプした文章を 簡単に印刷できる。楽譜も 昔は手書き。オーケストラの楽譜をコピーをするのは 大変な作業だったが、今ではコピーから 転調 編曲までコンピューターで自由自在だ。こんなに何もかも、進歩してしまった今、50年前に 人を感動させたSF映画のリメイクで、現代人を再びびっくりさせることができるのだろうか。

監督:スコット デリクソン
配役:クラトウ:キアノ リーブス    
    ヘレン:ジェニファー コネリー    
    息子:デイデイン スミス
ストーリーは、
地球に謎の物体が接近してきた。緊急事態に、大統領は全米の科学者をペンタゴンに召集する。その中に、細胞科学専門家のへレン(ジェニファー コネリー)もいる。しかし、対策を講じる前に、すでに、すさまじい速さで、謎の物体 宇宙船は、地球に達して、ニューヨークのセントラルパークに、着陸した。軍と警察が包囲する中を、宇宙船から出てきたのは、40メートルもの高さの大きなロボットだった。その中から、出てきたエイリアンにたいして、混乱して指揮統制が一致しない軍が、一方的に発砲してしまい、エイリアンは 傷ついて倒れる。直ちに エイリアンは病院に運ばれて、医師達によって治療が始まる。この未知の生物は、大きな 卵のようなジェルに包まれていた。医師達は傷を探してメスを使う。ドロドロの白いジェルを切り開いて 出てきたのは まさしく人間の姿をしたエイリアン、クラトウ(キアノ リーブス)だった。

彼は 傷口に救急処置だけされると 大統領と軍の指揮者に囲まれて、自由を拘束されて、電流を体につながれて、尋問される。しかし、エネルギーを自在に使うことができるクラトウは、逆に尋問官に、電流を逆流させて、情報を手に入れ、軍機関から脱出する。しかし、銃で撃たれた傷のために 宇宙船のあるところまで 弱ってたどり着けないでいる。そこを、科学者ヘレンに出合って 助けられる。ヘレンは やみ雲に発砲したり、暴力的に尋問する軍のやりかたに反感をもっていたので クラトウを 車に乗せ、5歳の息子と一緒に、軍の追跡を逃れる。ヘレンは 逃亡して、父のところに身をよせ かくまってもらう。父はノーベル賞受賞者の数学者だが、彼に解析できなかった数学理論を クラトウに教わったりして、心の交流をするが、軍の追跡から、安住できる場はなかった。

一方、息子は、クラトウがいったん死んだ人にエネルギーを注入して蘇生させることが出来るところを見て、ヘレンの目を盗んで、クラトウを死んだ父親の墓に連れてきて、父親を生き返らせて欲しいと、懇願する。
ヘレンは、クラトウが地球にやってきたのは、人類を救う為ではなくて、地球を人類から救う為に来たのだと言うことを知って、子供を殺さないで、と懇願する。そうしているうちにも、ロボットのパワーで、地球上の建物も人々も、次々を攻撃されて破壊されていく。そんななかで、クラトウの決断は、、、 というお話。

反抗期で なまいき盛り、5歳のくせに母親のヘレンにたてついてばかりいる息子が 母親からかくれてクラトウを墓地に連れて行って クラトウに 「ねえ、お願いお願いだから、、」といって、死んだ父親を生き返らせて欲しいと お願いする姿には、涙をさそわれる。子供の言葉に 意表をつかれて、「物質は時間の経過とともに変化するものだから」と説明するが、息子には全く理解できず、言葉を失うクラトウ。ただただ、懸命に 真剣な眼差しで、クラトウに懇願する子供と、そこにいて、ただ頭をたれることしかできない美形のキアノ、このシーンは、絵になる。

エイリアン役のキアノの感情に流されない、冷静沈着で、端整な顔がとても良い。とても美しい顔と姿が、人間離れした美しさで、エイリアン役が良く似合う。最初の 彼の出現が 衝撃的だ。ドロドロ、ぬるぬるのジェルの厚い中から出てきた 美しい少年のような全裸姿。ここで、キアノ リーブスのファンは、必ず「マトリックス」のネオの生誕シーンを思い起こすことだろう。不思議なドロドロ、ねばねば、グチャグチャの釜の中の繭から生まれ出てきた 生命体誕生のシーンだ。「マトリックス」の映画のために、キアノは 髪の毛から体毛から すべて剃りおとして全身ツルツルになって 繭から生まれ出るところを撮影したのだそうだ。俳優も大変な家業だ。

クラトウは 地球の人々より遥かに文化も科学水準も高い処からやってきた。彼は 地球の人々が 余りにも愚かで、争いを止めず、土壌を汚染し、自然を破壊し続けるので、地球という星を守る為には、下等な地球人類を全部滅ぼすしか方法はないと考えている。そのクラトウと直接 触れ合いコミュニケイトできたのは、ヘレンとその息子だけだ。クラトウが 地球の人々を絶滅させて地球を救うのか、このままにして人々が地球を破壊し続けることを許してしまうのか、判断は、クラトウ次第だ。人の生死をどう捉えるのか、世界をどう理解するのか、キアノ次第、というところも、「マトリックス」に似ている。ストーリーからいって、キアノ以外に 適役はなかっただろう。

完璧といってよい美しい容姿のキアノに対して、主演女優のジェニファー コネリーが全く美しくないのが残念。5歳児の子供をもった 第一線で働く科学者という設定、こんな眉毛ボサボサの痩せた女でなく もっと、きれいな女優を確保して欲しかった。 子役のデイデイン スミスは、ウィル スミスの息子、「幸せのちから」で、活躍し、実力を証明された。本当に可愛い。

映画で、クラトウが発する数少ない言葉が 興味深い。ヘレンがあなたは どうして地球に来たの?と聞くと彼は「TO SAVE THE EARTH」と答える。その言葉だけで、「私達を救いにきたんじゃないのね。」と、理解できるヘレンはさすが、頭が良い学者さんだ。   また、軍による暴力的な尋問で、「ARE YOU A HUMAN?」(おまえは人間か?)の質問に、「MY BODY IS」と答え、電流で拷問されながら「DO YOU FEEL A PAIN?」(痛いか?)と問われて、「MY BODY DOES」と答える会話も、人とエイリアンとの対話を 効果的に際立たせていて、おもしろかった。

このキアノ 日本に映画の宣伝のために来たらしい。記者会見で、地球最後の日に、あなただったら何を食べたいか、と聞かれて、ステーキ、シザースサラダ、ワインにチョレートケーキと答え、「できるだけ ゆっくり食べたいね。」といって会見者達を笑わせたそうだ。 ステーキ、サラダなど、最も一般的で アメリカ人が毎日食べている そんなものを キアノも食べているんだろうか。俳優家業も長く、34歳、少しも贅肉がついていない永遠の少年のような姿、、、立派です。
それを見るだけのために この映画、見る価値がある。   

2008年12月31日水曜日

映画「数奇な人生」




映画「THE CURIOUS CASE OF BENJAMIN BUTTON」邦題「数奇な人生」を観た。
「華麗なるギャッピー」を残した現代アメリカ文学の F.S.フィッツジェラルドが、書いた小説を 映画化したもの。
自分が監督する映画には必ず ブラッド ピットを起用する「セブン」や「ファイトクラブ」のデビッド フィンチャーが監督。
早くも、主演のブラッド ピットが オスカー主演男優賞のノミネートされると、予想されている。 とにかく ハリウッドで一番セクシーな男優 ブラッド ピットと、世界で一番美しい女優、ケイト ブランシェットの組み合わせだから、配役に もんくはない。

80歳で、生まれて 年を重ねるごとに 若返る男の数奇な一生を描いた作品。この男、ベンジャミンが 生まれてくる前に あるできごとが、あった。 あるところで、時計職人が幸せな結婚をした。息子が生まれ、家族仲良く暮らていたが、息子が大人になった頃 戦争に駆り出され、遺体になって帰ってくる。時計職人は息子の死を嘆いて、市から依頼されていた 中央駅に掲げる大時計を、時間が反対に過去にむかって進むように作って、駅におさめる。人々は 驚きあきれるが、息子を失い その死を嘆き 時間を逆にもどしてしまいたい父親の気持ちを理解してやる。

そんなときに、ある職人の家で 赤ちゃんが生まれる。 母親は難産にために、亡くなる。生まれてきた赤ちゃんは しわだらけ、目は白内障だし、体中の関節は関節炎で腫れている。小さな醜い 気味の悪い老人にしか見えない赤ちゃんの出現に動転した父親は、赤ちゃんを養老院に捨てて、立ち去る。養老院で働く若夫婦は、信心深い 人格者で、赤ちゃんを 自分達で育てることにする。アフリカンアメリカンの母は、赤ちゃんをベンジャミンと名付けて、実子同様に可愛がって育てる。

ベンジャミンは やがて、養老院におばあさんを訪ねてやってくる ひとりの美少女 デイジーに恋をする。少女も、ベンジャミンおじいさんが 大好き。二人は、とても気があって、一緒にテーブルの下で、本を読んだり、仲良く遊んで過ごす。  やがてベンジャミンは、歩行器がなければ歩けなかった おじいさん時代から、壮年時代に入り、船員として職を得る。デイジーは、プロのバレリーナとして成功していく。舞台裏にデイジーの花束を届けに 会いにくるベンジャミンを 会うごとに若くなっていく姿に驚きながらも、デイジーはいつまでも心の交流を続ける。

その後、交通事故でプロのバレリーナの道を閉ざされたデイジーにとって、帰ってこられるのはベンジャミンのところしかなかった。ともに、30代のころの二人は、愛し合い、一緒に暮らして 幸せのいっときを共に過ごす。
デイジーが40代にはいって、子供向けのバレエ教室が軌道にのって、ますます幸せな生活に満ちているなかで、デイジーは 赤ちゃんを産む。ベンジャミンは、子供が育っていくに従って、自分が益々若くなっていくことに、不安でしかたがない。いつか、子供のために、身をかくし、父親らしい父親を見つけてこないとならないと、考えている。 そして遂に ベンジャミンは財産も何もかも デイジーに残して、消息不明になる。それから、また10年たって、、、、そのまた10ねんごには、、、というふうに、お話は続く。

時計職人が 時間が逆にまわる時計を作ったことがきっかけで、年とともに若返ってしまう一人の男の悲劇的な一生を、描いた作品。ありえないお話ではあるけれど、それを良い役者が演じていて、なかなか見ごたえのある映画だった。出てくるごとに 若くなるブラッド ピットが、スリルだ。テイーンのころもブラッド ピットの しわひとつない 可愛い顔、うーん、負けそう。本当に40代ですか?

ケイト ブランシェットの神々しいまでの、美しさ。透き通るような肌に、完璧なプロポーション。舞台でバレエを踊る姿も、レオタードの練習風景も、どの本物のバレリーナよりも、美しい。5年とか10年とかバレエを習っていただけでは、あれだけのテクニックを踊れない。この女優、なんでも、本物だ。3人の男の子のお母さんだなんて、誰が信じるだろうか。改めて、女優って すごい、、、と思う。うっとりケイトの姿ばかり、見ていた。

子供は親より早くは 死なないでいるということが、何よりの親孝行だ。どんなことがあっても、先に死ぬことは、許されない。この映画の時計職人が息子を戦争で亡くして 時間を止めて、過去にさかのぼる時計を作った気持ちがよくわかる気がする。

クリストファー リーのスーパーマンも、悪と戦っているうちに、恋人が事故死することを食い止められなかったが、そんな自分の非力を悔いて、地球を反対に回して、時間を過去にもどして、恋人を助ける。そんなことができたら良い。過去に帰って 謝りたい人や、やり直したいことがたくさんある。そういうスーパーマンも、続編を編集中だと聞く。楽しみだ。

2008年12月30日火曜日

映画「フォーホリデイ」




オーストラリアの人口は 2100万人。
日本の6分の1、アメリカの15分の1、EUの24分の1だ。

英国からの移民で成立して以来 積極的に移民を勧めてきたこの国では、クリスマスシーズンになると 国の半分ほどの人々が それぞれの国に帰国、帰郷してしまうので、街も道路もガラガラになる。

わたしは、クリスマスイブも、クリスマスデイも 大晦日も元旦も 仕事だ。職場まで10分位、普段は最も交通量の多いパシフィックハイウェイを走るが、このところ、車でヒップホップを踊り運転しながら走れるほど、道路は私だけのもの、行きも帰りも ひとつの車にも会わなかった。

文京区千駄木に住んでいた頃も、家の屋根に物干し台がこしらえてあって、東京のど真ん中のそこから 正月には雪を頂いた富士山が くっきりと見えた。通勤通学の車がなくなるだけで、東京の空気がきれいになったのだ。 クリスマス 年末に故郷に帰る習慣は、世界中 鮭が産卵のために川を登るように、自然なことなのかもしれない。

ハリウッド映画「フォーホリデイ」原題「FOUR CHRISTMAS」を見た。 リース ウィザースプーンと、ヴィンス ボーンのラブコメデイー。 心理療法士のケイトと、技師のブラッドは、恋人同士。愛し合っているが、結婚など、まっぴらごめん。二人が仕事をして、楽しく暮らせればそれが一番と思っている。ニューヨークに暮らすヤングセレブの典型的なカップルだ。

クリスマスホリデイには、みんなのように、「クリスマスは帰郷して親と過ごす」ということだけは、絶対にしたくない。南海の島に遊びにいこうと それぞれの親たちには 嘘の言い訳を作って、クリスマスに帰郷できないことにして、勇んで家を出る。ところが飛行場が深い霧に包まれて、すべてのフライトはキャンセル。飛行場で その姿をテレビニュースで、インタビューされて、全国にニュースで流されてしまったので、家族に嘘がばれてしまう。 仕方なくふたりは それぞれが離婚している両親4人を訪ねてクリスマスを過ごすことになる。

訪ねていった、ブラッドの父親の家では、ブラッドの二人の兄も来ていて、その兄達はブラッドを見れば すぐに蹴り上げ 羽交い絞めにして子供時代に いじめ遊んでいたままのことを いまだにする能しかない。散々、痛い思いをして、今度は、ケイトの母の家へ。
彼女はカルト宗教に凝っていて、祖母、母、姉の女ばかりの家庭に迎え入れられて 二人とも奇妙な宗教体験をさせられる。 次に訪れた ブラッドの母の家では、ブラッドの同級生で親友だった男が 母の愛人として暮らしている。クリスマス定例の食事やゲーム遊びの最中にも 二人ののろけ話を聞かされてブラッドの頭には血がのぼる。ケイトの父は孤独に、暮らしているが、ケイトの悩みを聞いてくれるほどの包容力はもうない。

どの家も、まともな家族など一人も居ない。楽しいクリスマスとは程遠いが、なんとか、ふたりとも 親のてまえ、社交上手にその場を切り抜けては、二人きりになったとき 大喧嘩になって、傷付け合う。 この映画のおもしろさは、初めは 親兄弟のことを忘れて、南海の小島に遊びに行くと、宣言して、職場の人からあきれられたり、うらやましがられたりしながら、完全に人々の流れから浮き上がっていた二人が、 ニュースキャスターにつかまって、嘘がばれたために、地獄に突き落とされる思いをするところにある。それだけはしたくなかった「クリスマスは両親と過ごす」 ということが、現実になってしまって、本当に地獄のようなクリスマスを過ごすわけだ。

帰ってみれば、故郷、年を取った親や、兄弟姉妹たちが、昔のままの姿で 心優しく 待っていてくれるわけもない。処は変わり 人は老いる。3組に1組は 確実に離婚するアメリカの「現在」は、こんなものなのだろう。 ラブコメデイーとして、単純で、ひねりも知性も品格もない。人を泣かせることは簡単だが、人を笑わせるには、哲学、知性、品格を備えていないとできない。帰って、新聞の映画評価を見たら、10分の4という最低の点数をもらっていた。

救いは、アカデミー主演女優賞を数年前にとった、リース ウィザースプーンが、とってもかわいい。相手役が、この暑苦しいヴィンス ボーンなどではなく、ジェイク ジーレンハッドとか、ロバート ダウニージュニアなんかだったら、素敵だっただろう。

2008年12月29日月曜日

OFFな私


DINTAI FUNG ディンタイフォンという台湾で有名なレストランが シドニーシテイーの中心 ワールドスクエアにオープンしたのが この5月。ニューヨークタイムズで絶賛されて 広まって日本にもチェーン店ができているらしい。 ジューシーな小龍包が、売りで 本当に美味しい。椅子に座ってから 結構待たされるのは、注文を聞いてから コックさんが具を丸めて包んで蒸すので、時間がかかるからだそうだ。ウェイターでなく、白い服を着たコックが、熱々の蒸篭をテーブルまで持ってきてくれる。

この店が出来た頃、同じ系列の経営の、ケーキ屋「85度」も開店した。
日本のケーキ屋さんにとても近い。きれいなケーキがずらりと並んだウィンドーを見ているだけで、幸せな気分だ。買わずに いつまでも嬉しそうに 見ているだけのわたしを いつも店の人は 変に思うだろうが、かまわない。 何故って 家に持って帰ることが出来ない。生クリームをふんだんに使ったババロア、プデイングなどは、日持ちしないので その日のうちに食べなければならない。10個以上買わないと 箱に入れてくれないので、それ以下では、持ち運ぶことができない。店のなかに、腰掛けて、食べて行けるスペースもない。
それに、夫は、伝統的な 固いパンのようなケーキしか食べないので、家に持って帰っても私しか食べる人がいない。大体、私が シテイーの人ごみに出かけていくのは 2ヶ月に一度くらい 古本屋「ほんだらけ」に行くときくらい。おのぼりさんのように シテイーに出れば 古本で重くなったバッグを抱えて 電車の乗り降りだけで ふうふう言って ケーキ持ち帰り どころではない。

その憧れのケーキ屋さん「85度」が、近所のチャッツウッドに 昨日オープンした。わーい、ばんざい。チャッツウッドの一番人通りの多いビクトリア通りの真ん中。昨日は すごい人だった。85%OF という 赤い広告の紙を 30人くらいの赤いシャツのお兄さんが 駅の前から配っている。85%OFって!!! 私はといえば、夢にまで出てきたケーキ屋さん、幻のババロア、コーヒーゼリー、憧れのクリームブリュレ、100%栗でできたモンブラン。それが85%のお値段ですか? 夢ではないかしら。
人ごみをかき分けて中に入るとパンも売っている。まあ、パンならば 生クリームやババロアが苦手な夫でも食べるし、冷凍保存しておくことも出来ると思い、トレイいっぱいのパンを持って、長い列のレジに。で、支払いのほうは、普通??? え? え?「85%OFF」ではなくて、「85%OF THE PRICE」だったのです。ということは、85%割引ではなくて、15%割引だったのでした。 当たり前か。考えてみれば。
見ていると、英語に弱い私だけでなく、買っている人 みんなみんな、支払いの段で、え? という顔になって、レシートを見ている。「OFF」と、「OF」を間違えるなんて。なんだ、赤ちゃんのころから英語で育った皆さん、あなた方が、夢中になってお店に押しかけて 狂ったように買いあさっているものだから、私まで、、、。
おい、オージー、 君の英語は大丈夫か? しっかりしろ。


家に帰って、顛末を話したら、「同じような 失敗をしたことがあるじゃない。」と夫に言われてしまって、思い出した。
毎週土曜日に 一週間分の食料を買いにショッピングセンターに行くが、その途中、ペルシャンカーペット屋さんがある。機械織りの大量生産した絨毯から、本物の手織りの家宝にするような 芸術品というようなじゅうたんまで、いろんなものを置いている。とても車の行き来の多い場所で駐車場がない。その店に行くためには 横に路上駐車するしかないが、2台分しかスペースがなく、いつもそこには車が駐車している。2台停まっている内 どれかが出て行きそうなとき、停まって それが出て行くまで待つと、両車線の沢山の車の流れを止めてしまうことになるので、心臓の弱い私には なかなかできない。

車の中からいつも 店先につるしてある絨毯をながめていた。ひとつは赤い機械織りの絨毯で、$50と大きく値札がついている。家では、同じような絨毯を テレビとソファーの間に敷いている。ねこが遊ぶので、端がほつれてきている。
すると、そのとなりに同じサイズで、白地にくすんだブルーと灰色の上品な とても手の込んだ模様の絨毯が70という値札をつけている。初めて店の前をと通ったときは、え? $70、、、と通りすがりに見て驚いた。次の週に前を通る時は、ゆっくり運転して 値段を確かめる。欲しい。どうしても買いたい。でも、車を停めることができない。ショッピングセンターに車を停めて 歩くには遠すぎる。 家に帰ると リビングルームに そのブルーの絨毯が広がっている様子が目に浮かぶ。来週こそは、どうしても、買わなければ、と心に決める。

そして、遂に その日がきた。テクテク歩いて、息をきらして、$70握り締め、とうとうやってきましたペルシャン絨毯屋さん。腹の出た店主、ニコニコして「マダム、あなたはラッキーね。70%OFFだから、たった$890だよ」と。 返す言葉もない。
となりの赤い絨毯は50の札がついて、$50だけれども、ブルーの絨毯は70の札がついて、70%値引きしても$890の代物だったのだ。

「OFF」 と「OF 」との歴然たる違い!
何度失敗したら、賢くなれるのかしら。 

2008年12月15日月曜日

映画 「オーストラリア」




オーストアリア国民の悲願で、完成させることが国家的大事業だった、映画「オーストラリア」が、遂に この12月に完成して劇場公開された。 2年前に、撮影のために アウトバックにあった本当の農場を借り切って映画作りが行われている ということで、国民は その仕上がりを今か今かと期待に胸を膨らませて 待っていたわけだ。1億3000万ドルかけて作られた 超大作、3時間の映画だ。いわば、オーストラリア版「風と共に去りぬ」。この映画を完成させることが国家的事業であったから、公開されて、観にいかないのは、国賊扱い、と言うわけだから観に行った。

監督:バズ ラーマン
俳優:ニコル キッドマン    
   ヒュー ジャックマン
ストーリーは 英国貴族アシュレイ サラ(ニコル キッドマン)は、新開拓地オーストラリア北部に 広大な牧場を所有していた。
その牧場は ベルギー一国ほどの大きさで、夫が管理している。しかし、サラは 夫がこの未開地に長らく留まったまま 帰ってこないので 業を煮やしている。彼女は、オーストラリアに行って、牧場など、処分して 夫を連れ戻してくるつもりでイギリスを発つ。

着いたところは、オーストラリア最北の港町 ダーウィン。ここで、サラは イギリス政府から派遣されている官庁の役人達の丁寧な歓迎など 素通りして、荒くれカウボーイのドローバー(ヒュー ジャックマン)の運転する車で 牧場に向かう。 しかし着いた屋敷でサラを待っていたのは 槍で襲撃されて死亡したばかりの 夫の横たわる姿だった。家には 年をとった会計士と、中国人の料理番とアボリジニーの家政婦がいるだけ。サラは 家政婦の息子ヌラ(ブランドン ウオルター)と友達になる。
会計士と話していて、わかったことは、牧場のマネージヤーは、ダーウィンの牛肉業界のボスの婿養子で、不正を働き、牧場の牛を計画的に盗んでいたことだった。サラはただちに マネージャーを首にする。しかし、それは、ダーウィンから遠く離れた牧場で サラが たったひとり孤立してしまうことを意味していた。 それを知ったサラは、カウボーイのドローバーに、すがって、1500頭の 牛をダーウィンに売却するため移動させて欲しいと、懇願する。20人のカウボーイが必要な牛の移動を 3,4人で、できるわけがない。彼は いったん断るが サラの窮状を見ぬふりで去ることができない。 また、アボリジニーの子供ヌラが 当時の白人同化政策のため、ミッションスクールに強制収用するため、連れ去られそうになっているところを 自分の子供として育てる決意をするサラを見て、ドローバーは、サラのために、人肌脱ぐことにする。

カウボーイのドローバーと、サラと、アボリジニーのヌラと 年老いた会計士、数人の身の回りの世話をするアボリジニー家族だけで、1,500頭の牛を移動させる過酷な旅は、苦渋を極める旅となる。不正をして解雇されたマネージャーは、執拗に追ってきて サラとドローバーの牛の移動を妨害する。何度も 死線をかいくぐりながら 少年ヌラと、それを遠くから見守るアボリジニー長老のキングジョージの不思議な 自然と一体化したようなパワーに助けられながら、遂に一行は、ダーウィンに到着する。 初めは、サラはイギリスから持ってきた絹のドレスや帽子などまでを持たせて移動していたが、荒々しい砂漠で、何度も命に関わる経験を経て自分がどんなに 世間知らずだったかを 思い知る。その過程で、不可能な旅を可能にしてくれた ドローバーのカウボーイとしての能力や 人間としての幅の広さを認識して サラはドローバーを愛するようになる。同時に子供が苦手だった自分が、孤児になったヌラを引き取ることによって 人間としても成長する。
サラはダーウィンに着いて 牛を売り払い、牧場を処分してイギリスに帰る予定だったが それを取りやめて ドローバーと二人で牧場を経営して ヌラを引き取って暮らしていくことを決意する。しかし幸せは長く続かない。日本軍が、パールハーバーを攻撃して戦争が始まった。ヌラは、警察に拘束され、ミッションスクールのある島に送られてしまう。サラが ダーウィンの市庁舎で、通信業務を手伝っているときに、日本軍の攻撃にあい、沢山の死傷者をだして、街は混乱し、人々はパニックに襲われて、あわただしく避難を開始する。サラも、死んだと、伝えられる。 混乱のなかで、ドローバーは 船に乗って ヌラが連れ去られたミッションスクールのある島に行き 爆撃から生き残ったヌラと他の子供達を 連れ帰ってくる。その途中で、日本軍兵士と銃撃戦になって、ドローバーは 自分の弟を亡くす。 ダーウィンに子供達を連れ帰ったドローバーとヌラの目の前に 市庁舎の崩壊とともに焼死したはずのサラが 立っていて、、、。というお話。

アメリカ ハワイのパールハーバー(1941年12月7日)では、日本軍によって 殺された人:2403人。171機の飛行機、21艘の船が破壊された。
1942年2月19日のオーストラリアへの攻撃では、たった5000人の人口のダーウィンで、243人が死亡、350人の負傷者が出た。

パールハーバーに比べると、ダーウィンでは、被害の規模は 少ないが 攻撃を全く予想もしていなかったため、人々の衝撃は、小さくなかった。60年たった、今でもダーウィンの住民による反日感情は大変強い。それは、事実。また、当時の日本軍の対外政策は間違っていた。日本軍はジュネーブ協定など無視して残酷非道なことをした。日本軍は悪い。これも事実。 しかし、だからといって 歴史にないことを映画で作ってしまっては いけない。この映画には 事実義認がある。日本軍はダーウィンを空から攻撃したが、いかなるオーストラリア領地も、占領していない。攻撃の直後に、陸軍がダーウィン付近の島に上陸して、ミッションスクールを探索したり、子供を救いに来たオーストラリア人を取り囲んで殺したりはしていない。 この映画は 世界大戦という激動の時代を背景にした、人間ドラマで、歴史スペクタクルなのだから、歴史にないことを作ってはいけない。調べれば 簡単にわかるような歴史検証をせずに シナリオを作ってはいけない。3時間ちかく、ふむふむ、と気分良くみていて、ここのところで、全くしらけてしまった。わたしは、こういう小さな嘘がきらいだ。

それにしても、雄大な北部オーストラリアの山々、川 そして砂漠。広大な大地。その中で アボリジニーの長老:キングジョージ(デビッド ウェンハム)が すごく良い。この俳優、たくさんの映画に出て、活躍しすぎて 一時酒と女で、悪い男だった時期もあったそうだが、いまは、枯れて 本当にアボリジニー社会で、裸で伝統的なブッシュ生活しているようだ。 今回の映画では、アボリジニーの13歳の少年ブランデン ウオルターが、断然スーパースターだ。ものすごく可愛い。まつげの上に重い万年筆を載せても落ちない。びっしり生えて、ながーい睫毛にぱっちりした大きな目。彼らが画面に出ると、デジュリドウーが鳴り出し アボリジニー風の音楽が流れて これがオーストラリアだ という確かな感覚がある。アメリカ映画で、インデイアンが 付け足しみたいに出てくるのとは かなり違う。この映画、アメリカでも公開されて、けっこう高く評価されているらしい。大画面で、観ても損はない映画だ。