2007年7月30日月曜日

映画 「バラ色の人生」


79歳で死んだ私の母は、大正生まれのモガ(モダンガール)らしく、歌と言えば シャンソンばかり歌っていた。死ぬまで フランス語の勉強を続けていて、読書量もハンパではなかった。 彼女の若いときの写真があるが、銀座をオープンカーで乗り回し、冬は竹製のスキー、夏は葉山でパラソルの下で日光浴、戦争直前まで 上高地でテニスをやっていた。

その母に連れられて 観にいったエデイット ピアフの映画は白黒で、パリの街角で歌を歌っては 投げ銭をもらう可愛い女の子の物語だった。私は7歳くらいだったが、そこで、ピアフの歌う 本当のシャンソンを聴いて、初めてわかったことがある。母は 完全に音痴だったのだ。

映画「バラ色の人生」(LE VIE EN ROSE)を観た。この映画は、今年のシドニー映画祭の前夜祭で初めて公開された。今、デンデイー、クレモンォピアムなどで、上映中。フランス映画、英語字幕つきのなのに、珍しく オーストラリアでも評判になっている。オリビア ダン(OLIVIA DAHAN )監督。シャンソン歌手 エデイット ピアフの薄幸な一生を描いた映画だが、ピアフを演じたのがマロン コテイラッド(MALON COTILLARD)。

両親に捨てられ、売春宿を棲家とし、貧困のどん底で学校教育と無縁に育った少女時代、酒場で歌を歌っては、アルコールびたりの、救いのない青春時代。すごく暗い。 事実では、ピアフはドイツに占領されたパリでレジスタンスだったはずだが、この映画では、そうした社会状況は全く触れられていない。ワンシーンだけ、映画の中で、ニューヨークの舞台で歌い終わった ピアフにマレーネ デイトリッヒが逢いにきて、「あなたは、本当のフランスの誇りよ。」と言って去るところが、印象的。デイトリッヒは、パリを占領したヒットラーの度重なる 懇願にも 脅しにも答えず、ドイツを去り二度と帰国しなかった。

つかの間の心休まる時期、ピアフは世界ボクシングチャンピオンの、マルセル セルダンを愛するようになる。そのころ彼女が歌う「バラ色の人生」が とっても良い。しかし、彼を飛行機事故で失った後 ピアフは、生涯黒い服しか身に着けず、酒とドラッグに溺れて、死んでいく。なんか、酒、ドラッグに身をやつすと、こんなことになりますよ、という政府のキャンペーンみたいだ。

全体が、暗い映画で、ピアフの人生が幼児期にいったり、死ぬ直前になったり、そうかと思うと また幼児期になったり、画面がめまぐるしく 編集がわかりにくい作品だったが、女優がすごい。こんなに演ずることに 徹底して演じる女優も少ない。ラッセル クロウと共演した「THE GOOD YEAR」の女優だったとは、新聞の映画コラムを読んで 初めて知ったが 始めは信じられなかった。「THE GOOD YEAR」で、若いピチピチした美しい 豊かな髪の女性と、酒とドラッグで髪も抜け 醜い顔になったピアフとの落差がすごい。どの映画評を読んでも、この女優がピアフが乗り移ったように そっくりで、本当にピアフが生き返ったのかと思ったと 言われている。完璧なピアフになるために、役造りを、ものすごく集中して勉強したのだろう。シャンソンも、この女優が本当に歌っているとしか思えなかった。役者魂のあるひとに違いない。つぎの、彼女の作品で、彼女、何に化けるのか とっても楽しみ。

2007年7月19日木曜日

グルネリのバイオリン

オーストラリアチェンバーオーケストラ(略してACO)に、ジュゼッペ グルネリが 1743年に製作したカロダス という名のついたバイオリンが貸与されることになったのは、今年のビッグニュースだった。この、10億円の 歴史あるバイオリンを所有するアメリカ人の収集家が、ACO監督のリチャード トンゲッテイに貸与することに決めたのだ。

アントニオ ストラデイバリと、バルロメオ ジュゼッペ グルネリの二人は17世紀終わりから18世紀はじめにかけて、イタリアのクレモナでバイオリンを製作し、自らも優れたバイオリン奏者でもあった。いま、二人の残したバイオリンは 世界遺産、国宝級の扱いをされて、本当に選ばれた奏者だけが、所有したり、貸与されて、演奏することができる。

現在 世界中で ストラデイバリが、600、グルネリが100くらい残っていて、すべて、登録されている。で、この、カルダスという名のついたバイオリンは、パガニーニの愛用したバイオリンと、同じ樹から作られたものだそうだ。OSSY RENARDYというバイオリニストに所有されていたものが、彼が事故死したあと、50年間 だれにも弾かれないまま収集家のもとに保管されていて、やっと、ふさわしい演奏家に貸与され、日の目をみることになった。

バイオリンは木でできているが、可愛がり いたわり 演奏し使いこなしているうちに 生き物と同じように、呼吸もし、良い音が出るようになる。良い弾き手がいる限り 死ぬことはない。

リチャード トンゲッテイが チャンバーオーケストラをたちあげて、10数年、団員、20名あまりのちいさなチェンバーオーケストラが 100名の交響楽団よりも、豊かで、良い音を出す。政府の援助金を得て、団員が給料をもらっている、シドニーシンフォニーオーケストラの頭をかすめて、リチャード トンゲテイにグルネリのバイオリンが貸与されたことが、単純にうれしい。

彼はこのバイオリンをお披露目するために、ベートーベンのバイオリンコンチェルトと、べートーベンの、交響曲「英雄」をコンサートで演奏した。ACOは、どんな長い曲でも、全員 ずっと立ったまま演奏する。奏者の緊張がそのまま聴き手の心に染みとおっていく。クラシックは伝統だが、弾き手は常に現代を弾かなければ意味がない。今を生きている私たちの心の痛み、鬱屈した圧迫感、心の叫びを表現してくれる優れた今を弾く弾き手でなければならない。ACOの音はいつも新しい。

ACOは 定期コンサートでは 毎回ゲストを呼んで 共演するが ゲストが詩人だったり、アコーデオン奏者だったり、リコーダ奏者や民謡歌手だったりして、常に新しい共演にチャレンジしている。また、年に一度、1-2ヶ月かけて海外に公演旅行にでかけて 世界各地のさまざまな音楽家たちと共演 交流している。世界のどこからも離れた南半球の 井の中の蛙にならないためだ。これが若いオーケストラメンバーのは辛いらしく、育児や出産のために、海外遠征できず 辞めていく団員も多い。

にもかかわらず 自分がハンドルできるサイズのオーケストラで、自分の信念をずっと、通してきたトンゲッテイは えらいと思う。音楽にたいして、あくまでも真摯で誠実な態度が好ましい。また、いつまでも、少年のような 外観、立ち振る舞いも、好ましい。 グルネリのバイオリンで演奏される これからの、コンサートが楽しみだ。

2007年7月17日火曜日

映画 「ハリーポッター」THE OREDER OF PHOENIX


映画 「ハリーポッター」シリーズ第5巻「THE ORDER OF THE PHOENIX」、イギリス映画、デビット イエッツ(DAVID YATES)監督、を観た。

どの映画館でも上映中。チャッッウッドのホイッツなど、朝9時から、1時間ごとに上映していて、平日の朝 観に行ったのに、席は半分埋まっていた。子供も大人もなく、いったん読みはじめたら必ず夢中になる「ハリーポッター」シリーズの人気がよくわかる。

今回の映画は、第5巻で、もう、第6巻の映画の撮影が始まっているそうだ。また、最終回の第7巻は、すでの作者、ローリング(JOANNA KATHLEEN ROWLING、1965年生まれ)に書き終えられ、金庫にしまわれているそうだ。作者は、離婚したシングルマザーで、生活保護を受けながら、赤ちゃんに語り聞かせていた物語が このハリーポッターの作品化の契機だったことは、周知のこと。 彼女は このシリーズが爆発的に世界中でヒットしたために、もうお金のことを心配しないで書くことに集中できて嬉しいと、率直に言っていたが、また、「私の本が子供達にビデオゲームを忘れさせ読書に夢中にさせていると、聞かされれとき一番幸せで光栄に思った。」と、言っている。立派な人だ。

俳優は、ハリーポッターに、DANIEL RADCLIFF,ハーマイオニーに、EMMA WATSON,ロンに、GARY OLDMAN. 10歳だったハリーとハーマイオニーとロンの3人組が 毎年作品が発表されるごとに、確実に 大人になってきている。第5巻のいま、3人は15歳。 毎回映画を見にいく毎に、3人とも背が180センチとかになってしまってないか、心配だが、まだ、3人とも背の高さも、姿も15歳にとどまってくれている。実際のハーマイオニーは17歳らしいが、まだ、15歳の 頭が良くて生意気でがんばりやの役に良く合っている。この先 6巻、7巻と、同じ俳優で通してくれると良いんだけど、次の巻でハリーの全裸シーンがあって、デビッド ラドクリフが演ずるのを拒否したと言われている。 最後まで、同じ俳優の素晴らしいチームワークでやってもらいたい。

今回の新しい登場人物は、ダンブルドア魔法学校に、政府から送られてきた官僚で、美術教師のイメルダ スタントン。彼女はダンブルドア校長先生や、マクゴナガル副校長らを無視して、ダンブルドア学校に厳重な規律や、体罰を持ち込んで ことあるごとに、ハリーをいじめつける。前回、闇の世界に連れていかれて ヴォルデイモートに 目の前で親友セドリックを殺されたことで、ハリーは 法を犯したとして検察から呼び出されて犯罪者になるところだった。ハリーが片思いしている、チョウチャンは ボーイフレンドだったセドリックの死によるショックからまだ立ち直れないでいる。それは、セドリックを守りきれなかったハリーとて同じで、彼は、悪夢にうなされてばかりいる。

闇の世界で、体をなくして、力を封印されていたはずのヴォルデイモートが生き返って、力を拡大していることを、自分の目で見て知ったハリーは、自分達を守らなければならないと考えて、危機感の薄い学校のなかで 何とか、有志を集めてダングルドアで「軍隊」を隠れて組織する。チョウチャンとの、切ないファーストキス、しかし、彼女の裏切りでダングルドア軍隊は 美術教師に発覚されてしまう。ハリーは失恋の悲しみにくれる暇もなく 闇から送られてきた 殺人鬼たちと戦わなければならない。といった、ストーリー。

ハリーの意地悪なダーズリー一家、食べるこことと、ハリーをいじめることにしか興味がない従兄弟のダドリーと巨腹叔父さん叔母さんも、健在。 ロン ウィーズリーの優しい家族、ハリーを心から思ってくれるロンのお母さん、魔法省のお父さん、ロンの双子のお兄さん、たちも、健在。 威厳ある心優しいダンブルドア校長先生、マクゴナガル副校長も変わりなく、大男 森番のルビウス ハグリッドも健在。 ダンブルドア魔法学校には沢山の生徒が出てくるが、数少ない東洋系の子供の中で、優等生でハリーが片思いしていたチョウチャンの裏切りは残念。前回初めて出てきて、目がクリクリして可愛かったのに、今回は、おたふく風邪ですか?と、いうくらいに太っていて、残念無念。それと、新入生に、不思議な静けさをもった、美少女ルナ(EVANNA LYNCH)が初登場して、ハリーの軍隊の一員にもなったが、この子がこの先ハリーのガールフレンドになりそうな気配。

ハリー、ハーマイオニー、ロン 3人の結束の仕方がとても良い。この堅い結束、1巻から5巻までの3人が体験してきた休む間もない冒険と試練の物語の結果で、本当に3人信頼しあっていることがよくわかる。とても、良い雰囲気。 世界中の子供達が、ビデオゲームを忘れて、夢中になった、理由がよくわかる。本当に読んでおもしろい。映画で観て面白い。135分間があっという間だった。

2007年7月6日金曜日

映画 「ザ デッド ガール」


映画「THE DEAD GIRL」 カレン モンクレッフ 監督の、アメリカ映画を観た。各地ホイッツ映画館と、デンデイー映画館で上映中。

女が5人出てくる。 トニー コレット、ローズ バーンと、マリー べス ハート、マルシア ガイ ハーデンと、ケリー ワシントン そして最後に死んだ女の子、ブリッタニー マーフィーの5人。このうち、トニー コレットと、ローズ バーンは、オーストラリアを代表する女優。 5人の女は、それぞれ、「ストレンジャー」、次が、「シスター」、「ワイフ」、「マザー 」そして最後に「死んだ女の子」が出てきて、はじめの4人の女たちのできごとが、死んだ女の子を元に みな つながっていたことがわかる。

はじめのトニー コレット。彼女は 住み込みの看護婦、幼い時から、小児虐待されてきて、一個の女性としての自信も誇りももてずに、中年にさしかかっている。彼女は、家の庭で少女が乱暴され殺された死体を発見する。そのことで、街で、注目をあびることになり、以前から好意をもっていた店の男に、デートに誘われるが、自虐、自傷行為でしか、快感を得られなくなっている彼女の、異常性が明らかになる。

次は、ローズ バーン。彼女は司法解剖医師の助手をしているが、15年前に姉が失踪したことによって、壊れかけた家庭で育ってきた。失踪中だった、女の死体が運ばれてきて、姉と同じところにある生まれつきのアザを見つけて、動揺する。

第3話は、マリー べス ハート。子供のない中年夫婦の間にうまれた溝は広がるばかりで、毎晩出かけて 朝まで帰ってこない夫を待つ妻は、いらだっている。偶然、家の倉庫から、血のついた女の下着や、バッグや、靴などが出てきて、遂に 15年前に失踪した女の子の運転免許証が隠されているのをみつけて、夫が連続殺人犯ではないか、という確信に至る。しかし警察に密告する決断ができないまま、すべての証拠物件の血まみれの服、靴、持ち物の膨大なコレクションを焼いてしまう。

第4話は、マリア ゲイ ハートで、警察から呼び出しがきて、何年か前に家出した娘の死体が 郊外の家の庭で見つかったことを、知らされる。警察からの帰り道、母親はたまらない思いで、娘が死ぬ前に住んでいたというアパートを訪ね、娘が売春婦で薬物中毒だったことをしらされるが、家出の契機は義理の父親からレイプされたことだった、と知って、それに気がつかなかった自分を責める。そんな、娘が子供を産んでいたことをしって、子供を引き取って育てる決意をする。

最後の 殺された少女は、ブリッタリー マーフィー。「ボーイズ ドントクライ」で良い演技を見せていた女優。彼女は、自分の生んだ子供の誕生日に、贈り物を届けようとして、ヒッチハイクして、運悪く、通りかかった殺人者の車に拾われて、無残に乱暴され、殺される。

5人の女の暗く、無残で 重い映画だ。オペラハウスの横の、キーウェストデンデイーで、平日の朝 一人で見たんだけど、珍しく、中年や壮年の女の人ばかり 20人くらい これを観にき来ていた。 映画の最中や、映画の後で、離れて座っていた女の人たちが あちこちで鼻をかんでいる音がした。

こういう映画は男の人には わかんないんだろうな、と思う。また、カップルでは見ないほうが良い。お互いよく理解しあっているつもりでいても、こういう映画をめぐって男と女が話しすると、受容体の違いと言うか 感覚の差が明らかになって、イライラする。

知らないで足を踏んだ男に、踏まれた側の女の痛みはわからない。男女差別が制度として撤廃され、男女平等社会が定着している。しかし、物理的に男の方が体も大きく、体力もあり、攻撃されれば、女は ひとたまりもない。制度が整備され 教育が普及し、マナーが重視されても、依然として、多くの場合女が暴力の被害側であることに 変わりはない。

この映画を観ていて、2年くらい前に観た「クラッシュ」という映画を思い出した。サンドラ ブロックなんかも出ていて、アカデミー賞の何か、をとったはず。やはり、話が4つくらいに分かれていて、それぞれ違う短い4つの話が、最後に関連していたことがわかるという同じ手法をとっていたが、こちらは、人種差別がテーマだった。やはり、重くて、暗く 悲しい映画だった。ばらばらだったものが、最後に整合性をもち、意味をもってくるとき、人は、ウーン と、うなるしかないんだ。うーん!

2007年7月3日火曜日

軍人は何を守るのか?

ニューカッスルの田舎で働いている娘が 先日の集中豪雨で車ごと流されて、死ぬところだったという経験をした、と思ったら、今度は運転中、軍用ジープに一方的に車をぶつけられ大破するという災難にあった。全く、気が気でない。

軍用ジープが2車線の道路の右側から、車の流れを無視して左折したため、左側車線を走っていた娘の車がつぶされた。直後にジ-プに乗っていた二人の制服軍人は、つぶれた車の中にいる娘を怒鳴り飛ばした という。娘はそれにひるまず、運転見ミスは 軍用ジープ側だと主張すると、相手はもう2人加勢を呼んできて、4人の制服軍人が たった一人の一人の小さな女の子を取り囲んで 自分達の主張を言い張ったという。

事故を起こしていながら、4人の軍人が たったひとりの市民を取り囲むなど、それだけで立派な暴力ではないか。暴力とは、殴ったり蹴ったりすることを言うのではない。パワーをもった軍人が 何の武器も持たない市民を取り囲み恫喝することを、暴力と言うのだ。

現場に到着した女の警官は、現場検証もする前から、悪いのは あなたかもね、、、と娘に言ったという。失言、というには、お粗末すぎる。悪いのが誰かを決めるのは、警官ではない。両者の主張を証言にとり、現場検証をし、複数のジャッジによって、公正に判断結果がでるのであって、現場に来たばかりの若い女警官の主観など、現場にいる被害者に言うべきではない。警察官は、市民を守らないで 一体何を守るためにいるのか?

軍人こそ 市民を守らないで いったい何を守るのか? 税金で飲み食いし、頼んでもいないのにイラクにでかけて、イラク市民を殺し、自分の国で 平気で交通違反し、市民の車を壊した末 責任を相手にかぶせて逃げようとする。それに輪をかけたように、警察官まで、その場を取り繕おうとする。

私たちは毎日まじめに働き、収入の36%を税金にもっていかれて、働いても働いても、家など買えないでいる。その税金で、生活し、その税金で 給料をもらっている、軍人たち、警官たち、君たちは一体 何を守ろうとしているのか?

君たちのその おそまつなおつむで、何を考えているのか?  オーストラリアで活躍する日本人の専門家が増えて、日本人ドクター、日本人フィジオ、日本人カウンセラー、日本人オプトメトリスト、日本人ナース、日本人歯医者、日本人公認会計士、日本人建築士、日本人獣医も出てきた。頼もしいことだ。しかし、まだ足りないのは、日本人の人権を守るために戦ってくれる弁護士ではないだろうか?

2007年7月2日月曜日

パリ オペラ座バレエ団 その2


それで、、、初めてやってきたパリオペラ座バレエ団が公演したのは、「白鳥の湖」の9ステージと「ジュエルズ」の5ステージのみ。「ジュエルズ」を観た。

振り付け ロシアうまれのアメリカ人 ジョージ バレンテイン、衣装は クリスチャン ラクロ。踊り子達を宝石にたとえて、第1部はエメラルド、音楽はガブリエル フォーレ。第2部は ルビーで、音楽は、ラフマニノフ。第3部は ダイヤモンドで、音楽、チャイコフスキー。衣装が目を見張るほど、美しい。エメラルドの深い緑の美しい衣装、ルビーの燃えるような真紅の衣装、そして、ダイヤモンドの純白。舞台の幕が上がるたびに、観客からワーっと歓声があがる。 一人一人の踊り子が 宝石のように輝いている。特に、最後のダイヤモンドでは、16組、32人の踊り子と、プリンシパルのペアで 全員白の衣装に身を包んで踊る、華麗な舞い。

そして、踊り子達の細くて小さいこと。繊細で壊れそうな姿で 絶え間なくハイジャンプ、回転を軽々とこなしていく。高いところから着地するときも、コトリと乾いた音がするだけ。飛び上がるたびに ドスンドスンと音がするオーストラリアン バレエと全然違う。デリケートなガラス細工のような美しさ。

筋の通った物語がないことが悲しかったけど。3部作といわれても、ストーリーがないので、どうしても舞台が散漫になる。それと、シドニーリリックオーケストラの音に奥行きがないこと。ちょっと、がっかり。このオーケストラはパリバレエ団のために、急遽編成された楽団で,指揮者だけを パリから連れてきている。PAUL CONNELLY というパリオペラバレエ団の指揮をやっている人。バレエの指揮は 舞台の動きのあわせて棒を振らなければならないので とても大変な仕事。ひと呼吸遅れたり 早まっただけでタイミングが狂って 踊り子が足を挫いたり、骨折事故だって起こりうる。優秀な指揮者を連れてきているけれども、オーケストラの音の奥行きを創ることができなかった、ということだろう。

パリオペラ座バレエ団、もう、オーストラリアに来ることはないだろう。 ネットでチェックして、日本に帰ったときに、ゆっくり、観たいと思う。

2007年6月27日水曜日

パリ オペラ座バレエ団

THE PARIS OPERA BALLET =パリ オペラ座バレエ団が 初めてオーストラリアにやってきた。世界最古の歴史を誇るバレエ団。 このバレエ団の歴史は1661年 ルイ14世が 創設したロイヤル アカデミー オブ ダンスに、さかのぼる。ルイ14世は政治にもすぐれた手腕をもったが、芸術家としても、秀でていて 自らバレエを踊って楽しみもした。太陽王とよばれてもいたので、知っている人も多いだろう。

この世界のバレエの出発点とも言うべき歴史をもつバレエ団が、オーストラリアの歴史上 初めて100人の団員を連れて シドニーにやってきた。彼らがこの国に滞在すること たった2週間。6月13日は、開幕前のガラパフォーマンスが オペラハウスで行われた。それに続くパフォーマンスは、「白鳥の湖」9公演、「ジュエルス」5公演のみ。プレミア席 $195。キャピタルシアターにて。 値段に関係なく たった14回の公演に限られるため、チケットは発売同時に完売した。

手にしたチケットは、「白鳥の湖」2枚、「ジュエルス」2枚。はじめに 夫と、バレエを習っていた娘が「白鳥の湖」を観て来た。帰るなり、夫いわく、今まで何百も 僕が見てきたバレエはバレエじゃなかった。今日生まれて初めて 本当のバレエを観た!と、感動さめやらず、目がウルウル。 娘も、本当に美しい、どの白鳥も、人間ではなく本当の白鳥に見えた。といっていた。

「白鳥の湖」作曲=チャイコフスキー、振り付け=ルドルフ ヌレエフ、音楽=シドニーリリックオーケストラ、指揮=エストニア出身のヴエロ ポーン、白鳥オデット姫=MARIE AGNES GILLOT、王子ジークフレッド=HERUE  MOREAU だったのが、第二幕から、足を痛めて、KARL PAQUETTEが、出演。

振り付けのヌレエフは 1993年パリオペラ座の芸術監督を勤めていたが、1993年パリでエイズで亡くなった。直前まで、「僕の故郷は楽屋。僕にはバレエがすべて。」といっていた。 バレエ発祥の地で 世界最古のバレエ団の監督として、誰にもまねのできない華麗な舞台を作り上げた偉業は 世界のバレエ史に特筆される。

ヌレエフ、1938年 ソビエト生まれ、キロフバレエ団のソリストだったが、1961年 相手役のバレリーナと手と手をたずさえ ヨーロッパ公演中に舞台裏から逃れ 自由な表現を求めて西側に亡命。イギリスロイヤルバレエ団に迎え入れられる。以後、マーゴ フォンテイーンのパートナーとして世界を魅了した。23歳だった、ヌレエフに対して、もう母親ほどの年齢だったフォンテイーンとの共演は、フォンテイーンが踊れなくなるまで続き、今でもバレエのお手本になっている。 1961年のヌレエフの文字どうり 命をかけた亡命事件は  当時厚い鉄のカーテンにしきられていたソビエトと、アメリカとの政治的緊張関係にさらなる緊張を強いた。東ドイツから逃れようとした市民がバンバン壁の前で撃ち殺されていた頃の話だ。当時の緊張感は、子供だった私にも忘れられない。ロシア革命で国を捨て 逃れて来たロシア人、小野アンナにバイオリンを習っていたので ロシア人芸術家の姿が他人事ではなかった。

ヌレエフは、ヨーロッパに移ってから ロシアで自分が踊っていた「白鳥の湖」を 大幅に振り付けを変えた。人でなく白鳥に恋をして、かなわぬ思いに苦しみながら死んでいく王子ジークフレッドの美意識、この世を生きるのではなく 彼の理想は美の極致、極限の世界でしか得られない。そのためには命を懸けなければならない、といった彼自身の美意識を投影した大胆な振り付けだ。王子の役に生命を吹き込んだ、と言えよう。より、高くジャンプし、より早く飛び、華麗に舞い、美のために命を捧げる という完璧な舞台を彼は求めていたのだ。

17世紀のルイ14世が世界に残したものがバレエという芸術遺産だったとするならば、ヌレエフはその遺産を引き継いだ たぐいまれな天才だった。彼の振付けた舞台が 別のダンサー達に受け継がれ、それを、今、私たちが見ることができることに、感謝したい。

2007年6月22日金曜日

映画 「テラビシアにかける橋」


オーソン ウェルズが監督、製作した映画「市民ケーン」(CITIZEN KANE)で、最後に億万長者の新聞王が「バラのつぼみ」という謎の言葉を残して死ぬ。難解な彼の謎に満ちた一生を描いた映画だったので、あとで、バラのつぼみが何だったのか、、、彼が子供のとき母と雪遊びしたときの橇の名前だったのか、あるいは、唯一愛した若いオペラ歌手のつぼみを咲かせてやれなかった悔いの気持ちを表したのか、と、いろいろ観た人の間で議論したことがある。

バラのつぼみは、満開のバラより美しい。開花する直前の緊張と、はりつめた輝きを内に秘めているからだ。 10代はじめの頃の少年、少女の美しさはバラのつぼみに似て輝かしい未来を予感させる。無邪気な幼さと、背伸びした自意識。自然体の美しさに本人が気ずいていない。そんな、頃の少年少女を描いた物語を見ると こわれやすいバラのつぼみの心に ほろ苦い感傷がつきまとう。

映画「テラビシアにかける橋」を観た。ウォルトデイズ二ー製作。原作 カサリン パターソン。彼女はこの作品で、児童書に与えられるニューベリー賞というのを、もらっている。 繊細な心をもつ いじめられっこの少年ジェスに、ジョルジュ、ハッチャーーソン。隣に引っ越してきた、元気な女の子レスリーに、アンナ ソフィア ロブが、演じている。ジョルジュ ハッチャーソンは、「スペースアドベンチャー」に、アンナ ソフィア ロブは、「チャーリーエンジェルとチョコレート工場」に出ていた。

ジェスは、二人の姉と妹にはさまれた、家族で唯一の男の子。家計のやりくりが大変な家庭で、家庭菜園をまかされて忙しく、厳しい父親からは 常に叱咤されていて、自分は誰からも愛されていないと思い込んでいる。妹の世話が行き届いていない、野菜畑から被害が出た、と、家族はジェスを責めるばかりで、靴が小さくなって もう履けないのに、姉のピンクのお古の靴で学校に行かされる。学校では軟弱者と、いじめっこに もてあそばれる。唯一のなぐさめは、絵を描くこと。 そんなとき、同じ年の素敵な女の子が転校してくる。お金持ちの家の一人っ子で、芸術家の親の影響で、家でテレビを見ない読書好き。自分だけの想像の世界をもっている。

自由に想像して絵を描く少年と、目を閉じれば空想の世界が無限に広がる少女とが出会って、クリークを綱で渡って 森の中で自分達のテラビシア王国を作り上げる。樹の上に小屋を造り、空想の巨人や、鳥の軍団や、影の敵を作り出して、二人きり夢中になって、森をかけめぐって遊ぶ。
レスリーの すばやく走り回る体のしなやかさ、くりくりした輝く目、前向きで恐れ知らず、負けず嫌いの生意気さ、本当に可愛い。ジェスのちょっと頼りなくて、内向的、傷つきやすい少年の魂が、レスリーの行動力によって、ときほぐれて、開放されていく様子がよくわかる。この映画の一番良いところだ。目を閉じて、心の窓をあけてごらん。ほら、テラビシア王国がみえてくるよ、という、レスりーの言葉が良い。

美しいバラのつぼみは、疾風のごとく少年を揺り動かし、そして、立ち消えていってしまった。それだけに最後に、何もかも失った少年の心の塞ぎようには、胸が痛む。人生は、失うことばかり。しかし、それを通して、人は成長していく。ジェスという少年の絶望から、心の再生が 最後に描かれる。

10代はじめの頃は、誰もが自分は価値がないのではないか、とか、家族や友達から愛されてないのじゃないかとか、自分をわかってくれる人なんか一人もいない、とか、思いがちだ。その頃の出来事がトラウマになって、心の成長ができないまま大人になる人も多い。また、この頃に性的被害に逢う子供も残念ながら、多い。バラのつぼみの時期にいる子供達を大切にしてやりたいと思う。そして、いつまでも、目を閉じ 心の窓を開ければ、空想の世界がどこまでも、広がるような大人でいたいと思う。

2007年6月14日木曜日

ミュージカル 「プリセラ」



ミュージカル「PRISCILLA」を観た。スターシテイー、リリック劇場で、ショー継続中。プレミア席 $96.

1994年、オーストラリア映画「プリシラ」は、その年のアカデミー賞17部門でノミネイトされ、大ヒットとなったが、衣装デザイン賞だけを受賞した。ステファン エリオット監督。 俳優は、「コレクター」のテレンス スタンプが、性転換者のバーナデッド、「ロードオブザリング」「リトルフィッシュ」の ヒューゴ ウィービングが、バイセクシャルの、ミッチ役、「メメント」の ガイ ピアーズが、歌って踊れる若いミュージシャンの、フェリス役をやった。この、すごく豪華な顔あわせで、3人がドラッグクイーンを演じた。 この、映画が素晴らしかった。ヒューゴ ウィービングの女装した、輝くような美しさと 優しいしぐさに、はじめはどうしてもドラッグクイーンだとは信じられなかった。私の最も好きなオーストラリア映画のひとつだ。

今回は、この映画のミュージカル版。 舞台は豪華絢爛、本当に楽しいミュージカルだった。ミュージカルの良さは、オペラと違って、普段着で出かけていって 役者の口からでるジョークに笑い転げ、ヤジを入れたり、アイスクリームをなめながら、観られる気楽さだ。 この日 台風でNSW州は荒れて ニューカッスルでは9人の死者が出たり、そのとばっちりで、娘がシドニーに出て来れなくなったりしたというのに、劇場は満席だった。シドニー唯一のカジノの中にある 劇場なので 地方から遊びに来ている おのぼりさんや、外国からの旅行者もたくさん 観に来ていたようだ。

この、「プリセラ」では、物語が進行している舞台の上で 天井から吊り下げられた3人の女性歌手が、歌を歌っていた。3人ともすごく声量があって、アバや、ビレッジピープルの 80年代のデスコミュージックを、劇場の隅から隅まで 響き渡る美声で 歌い続けていた。 歌って踊れるフェリシア以外の2人の歌は、この3人の歌手が歌い、ベルナデッドと、ミッチは口をあわせているだけだった。まあ、そういう役なんだけど。ミュージックはとても、迫力があって、よかった。

ベルナデッドとミッチと、フェリシアの3人は パブで女装して歌を歌うドラッグクイーンショーをやっている。ミッチは故郷のアリススプリングに残してきた 妻子が気にかかってしかたがない。娘が父親に会いたがっていると、聞いて いてもたってもいられなくなり、ベルナデッドとフェリシアを誘って ショーをしながら、アリススプリングまで バスで行くことにする。バスに名前がプリセラ号と名付け、シドニーを出発する。

旅にでてから、ミッチは初めて、この旅の本当の目的を2人の仲間に告白するところが笑える。「実は、ぼくは昔 結婚してたんだ。」 それを聞いたベルナデッドとフェリシアが おなかを抱えて笑い転げる。フェリシアが「ついでに 子供もあるなんて言い出すんじゃないの?」といって、二人はまた笑い転げるのだが、うちひしがれたミッチの様子を見て、 冗談じゃないとわかって、ベルナデッドはあわてて、なぐさめる。性転換者と、バイセクシャルと、ホモセクシャルの、微妙な行き違いだ。

また、 バスが最初の町、ブロークンヒルに着いて、パブでドラッグクイーンの舞台を始めようとすると、鉄鋼と鉱山の町ブロークンヒルは、19世紀のウェスタンの様相、男はマッチョ、女も男と見間違えるような荒くれものばかりで、およそ、ドラッグクイーンのきらびやかなドレスや、ポップミュージックの雰囲気ではない。その文化の違い 大きなギャップに あわてふためく両者の様子がすごく おかしい。

苦労しながら、アリススプリングに着いた一行は、ミッチの妻子から、心あたたまる受けいれかたをされる。妻の経営するパブでのショーも成功し、恋人と、ここに残ることにしたベルナデッドをおいて、ミッチと娘とフェリシアは、シドニーに向かうところで終わる、ハッピーエンド。

舞台のきらびやかさ、次から次へとダンスと歌と 軽快なジョークがとんで、本当に楽しい舞台だった。男の女装は 妖艶’で、美しい。フェリシア役をやった、俳優は 素晴らしいダンサーで 良い歌手だった。ミュージカルのために生まれてきたみたいな人。名前を忘れてしまったけれど、今度、憶えておこう。

性のかたちは、100人のひとがいれば100の性のかたちがある。それがどんなかたちであっても、どんなに未熟であっても、キリスト教的倫理にあわなくても、人はそれを理由に責めたり 辱めてはならない。性のかたちは、根源的で人間の尊厳に直接関わっているからだ。 3人の美女たちの行き方に、共感をし、一緒に笑い、ほろっとしたりして、帰ってきた。

2007年6月12日火曜日

映画 「シュレック」


映画「SHUREK THE THIRD」を観た。 各ホイッツ映画館で上映中。6月にどっと、子供向けの映画がやってきて、娘達がアメリカンスクールに通っていたとき 6,7月が休みで、8月が、二学期に始まりだったことを思い出した。ハリウッドも、6月は子供むけの映画しか作らないらしく、「スパイダーマン」も、「カリビアンの海賊」も、「シュレック」も「テラビシアにかける橋」も アメリカの子供達の夏休みに合わせてやってきた。

シュレックは、児童作家ウィリアム スタイグの短編絵本「みにくいシュレック」をもとにした物語。ドリームワーク社の、製作者ジェフリー カッツンバーグは、人目を気にせず自分らしい生き方をするシュレックの姿を通して 大人も子供も楽しめる映画を 作りたかったと言っている。

声優が楽しい。シュレックに マイク マイヤーズ、ドンキーにエデイ マーフィー、フィオーナ姫に キャメロン デイアス、長靴を履いた猫に アントニオ バンデイラス、新登場のアーサーにジャステイン テインバーレイク。もう、エデイーマフィーの声なしに、この映画 成功しなかったかも、と思うくらい彼が良い。彼は俳優としても声優としても天才的。

緑の怪物シュレックは 沼で一人 平和な満ち足りた生活をしていたのに ファークアード卿に頼まれて 火を噴くドラゴンが守るお城の塔に幽閉されているフィオーナ姫を助け出すが、二人は恋に落ち結婚する。これが第1話。
第2話は、長靴を履いた猫が出てきて、一緒に敵を戦い、猫とドンキーとシュレックの友情は、堅く結ばれる。
第3話では、フィオーナのお父さんの蛙の王様が亡くなり、跡継ぎをシュレックに任命するが、王になりたくないシュレックは 次の後継者にあたる、いとこのアーサーを探しに行く。シュレックがいない その隙に、おとぎ話の悪役が団結して、城を攻撃する、というお話。

相変わらず、白雪姫と7人の小人、眠れる森の美女、シンデレラ、ピーターパン、ピノキオ、3匹のくま、蛙の王子、狼と赤頭巾ちゃん、美女と野獣、ジンジャーブレッドマン、など、みんな出てくる。 アンデルセンや、グリムのおとぎ話では、お姫様は王子様に救われて、結婚して幸せに暮らしましたとさ、、、で、終わるけれども、オーストラリアでも、4組の夫婦に1組は、離婚する時代、結婚が幸せと同義語でないことくらい、離婚の被害者 子供達のほうがよく知っている。現代に合わせたおとぎ話が必要な今、シュレックのように、お姫様はもらったけど、地位も名誉もいりません、過労死するかもしれない王様業などまっぴらごめん、というマイペースの生き方のほうが、ずっと、信頼できる。フィオーナに赤ちゃんができたと、告白されて、うれしいと、口ではいっても、赤ちゃんが押し寄せてくる悪夢にうなされるシュレックが現実的でおかしい。 この映画、2時間 楽しく笑ってこれはこれで良い。

「スパイダーマン3」、「カリビアンの海賊3」、「シュレック3」と、続けて観たけれど、「スパイダーマン」と、「カリビアンの海賊」が良かった。 「スパイダーマン3」は、第1作のころから 彼が少しずつ大人になってスパイダーマンであることの重みに耐えかねる姿や、それなりの成長を描いていたし、第3作では、コンピュータテクノロジーを使って戦闘場面など、スピーデイーで 3作目でも新鮮で 新しい感動があって観られた。 「カリビアン」も、第3作が一番お金をかけたと思われる。デイズにーでなければこれほど、大規模な舞台を作れなかっただろう。3人の主役たちの演技も素晴らしい、目をみはるものだった。ひとつとして、つまらないシーンがない。3時間、人をエキサイトさせておくだけのパワーのある映画だったと思う。これらは サウンドエフェクトのある大きな劇場で見なければ意味がない。 さて、次は、「テラビシアにかける橋」だ。

2007年6月10日日曜日

救急医は自分を救えるか?

6月8日から9日にかけて、36時間あまり NSW州 ニューカッスル近辺が、30年ぶりの強風と集中豪雨に見舞われて、9人の死者を含む、大被害がでている。 シドニーも、3日間 止まらぬ雨と、強風で停電、浸水地帯も出て 倒れた木などで道路、家屋に被害が多く出た。 ニューカッスル海岸には225メートル58000トンの貨物船が座礁し、100単位のヨットなど小型船に被害がでた。洪水で 車ごと押し流されて、8人が死亡確認され、少なくとも3人行方不明。停電と断水で、10日の朝までに、10万人の病人けが人が、援助を待っていた。急遽 病人などシドニーに搬送されたが、5000件の救急車要請の電話に、ニューカッスルの公共機能は麻痺寸前だった。

集中豪雨で道路が遮断され、行方不明者が出ている、という6月8日の夕方、ニューカッスルに住む 獣医の娘は 救急病院に出勤する途中、坂の上にある病院の手前で、滝のように流れてくる豪雨にタイヤがスリップして、先に進めず、タイヤの上まで浸水してくる水に 車ごと流されかけて、かろうじて引き返し帰ってくることができた。しかし、この嵐によって、怪我した犬や猫の患者が絶えることなく、出勤を要請され、ひどい嵐の中を、再度出かけ、夜9時から、翌日午後まで、休むことなく、仕事に追われた。
娘のする手術介助のナースは、洪水のなか、車に4時間閉じ込められたあと、車を捨て、歩いて病院まで来たという。

生きていればこそ、後になって、あんなこともあった、こんなこともあった、と笑って、話ができる。娘が無事でいてくれて、うれしい。 でも、救急医は、救急患者のために、自分の命を余りに 安売りさせられすぎているのではないか?  死者がでて、STAY HOME! STAY IN DOOR! と緊急ニュースで言っているのに 出勤しなければならない人々の命は 誰が守るのか?  答えの簡単には出ない 宿題は残された。

2007年6月8日金曜日

映画 「ゾーディアック」



DNAテストが検察側の証拠として裁判で採用されて刑事犯の犯行が立証されるようになって久しい。この検査が手軽に行なわれるようになっっために、何年も前の犯行が立証されて、被疑者が逮捕されたり、逆に実刑に服していた受刑者が無実となって、釈放されたりしている。 NSW州では、このDNAテストを法的証拠とするための規制があるために,立件されるべき事件が解決できない状態にあるそうで、この時代遅れのNSW州の法を改正するように、警察や識者が圧力をかけているそうだ。というニュースを聞いて、初めて、NSW州は 他州に比べて、とても、法規に関しては遅れているらしいと、知った。DNAサンプルは、本人である確立が99パーセントだそうで、ほとんど、確実と、みられている。

映画「ゾーデイアック」(ZODIAC)を、観た。各地、ホイッツで、上映中。 DAVIT FINCHER 監督のアメリカ映画。  主演 JAKE GYLLENHADが、サンフランシスコトリビューン紙の政治漫画家、ROBERT DOWNEY JNR,が、新聞記者、MARK RUFFALOが、刑事を演じている。 サンフランシスコで、実際60年代に起きた話。ゾーデイヤックと名乗る連続殺人犯を追う 3人の男達が 自分達の家庭 私生活まで犠牲してまで、追い詰めていく様子を映画化したもの。

ゾーデイヤックは無差別に、罪のない若いカップルや、深夜まで働いているタクシー運転手や、赤ちゃんをもった若いお母さんにまで、犯行に及び、殺人の報告の手紙を新聞社に送りつけてくる。この、愉快犯は、電話でも自分が病気であることを認め、人を殺したくて殺したくてたまらないと告白して、サンフランシスコの市民を恐怖に陥らせて面白がっている。 運の悪い時に運の悪い所にいたとしか、言いようがないような罪のない人々が、次々と殺されていくのが、可哀想で、痛ましくてならない。

犯人は、ぺデファイルで職を失った元教師、今は機械工として働いている。その犯人に違いないと追い詰めたのに、脅迫状の筆跡鑑定が、別人という結果が出て、逮捕することができない。担当刑事は、ほかの部署にまわされ、新聞記者は、ゾーデイヤックを追い詰めることを放棄した新聞社に愛想をつかせて、アルコールに溺れて自分を失ってしまう。漫画家のGYLLENHAAL だけが執念の鬼になって、家族から去られ、自身の命を危険にさらせてまで犯人を追い続ける。

去った妻が様子を見に来て、あなた、まだ、ゾデイヤックに夢中なの、と聞くと、彼が振り向きもせず、背を向けて仕事しながら、「ぼくのこと、きみ、しってるでしょ」 というところが、自然で良い。長く一緒に暮らしたんだから、ひとつのことに夢中になると、止められない性格なのを、知ってるはずでしょう、と言うわけだ。私も、昔 勝手な男に 全く同じ言葉を同じ調子で、言われたことがあったので、思わず笑ってしまった。 どうしてどうして、犯人を見つけたいの?見つけて どうするっていうの?と、聞かれて、彼は、言う。「犯人をみたいんだよ。彼の目をただ見たいんだ。」と。

そして、現実に遂に彼はそれを実現する。訪ねていって、男を ただ、言葉もなく、じっと、目をみつめて、そして、帰ってくる。自己完結したのだ。後はもう、それで満足して、彼はもとの生活に帰る。 犯人は決定的な証拠がないために、結局野放し。33年後に、DNAテストがマッチして、逮捕状を取ろうと言う段になって、担当の刑事が心臓発作で死亡、その後、犯人は、偶然の事故で死ぬ。結局、犯人は、最後まで、愉快犯だったという現実も怖いが、映画もとっても、怖かった。

2007年5月28日月曜日

映画 「パイレーツ オブ カリビアン」


映画「PIRATES OF THE CARIBBEAN」を観た。第一作が、「呪われた海賊たち、」第二作が「デッドマン チェスト」、そして今回の 第三作が、副題「ワールドエンド」だ。ウオルトデイズ二ー製作。ゴア バヴィンスキー監督。
おなじみ海賊船ブラックパール号のキャプテン ジャック スパロウを、男優ジョニー デップ、その船を乗っ取ったキャプテン バルボサに オージー俳優ジェフリー ラッシュ。海賊だった父を捜し求める、まじめな青年ウィル ターナーに、オーランド ブル-ム、彼に恋するエリザベス スワンに、キーラ ナイトレイ。第一作のときは彼女は19歳だったが、第三作で22歳になったそうだ。

第三作で新しい登場人物は、中国人俳優の大御所チュン ユンファが シンガポール地域の海賊王の役で出てくるが、あっけなく殺されてしまう。もう一人キャプテン ジャック スパロウのお父さんが出てきて、それをローリングストーンのキース リチャードが貫禄あるお父さんを演じている。ジャックのことをジャッキーと、赤ちゃん呼び名で呼んだので 笑ってしまった。また ジャックが ママは元気?聞いたら、お父さんが彼女のミイラになった頭を腰にぶら下げていて、それを見たジャックが「SHE LOOKS GREAT!」というのも、笑えた。

最初の頃のシーンで風紀を取り締まるために 海賊行為に関わったたくさんの人が軍隊によって絞首刑におくられていくんだけど、中で、一人の少年が死ぬまぎわに 銀貨をこすりながら海賊の歌を歌う。9人の海賊の首領が世界には居て、それぞれがコインをもっていて、誰かが危機にあるときコインをこすりながら歌をうたうとそれが合図で海賊評議会が招集される。実際に海賊の首領を集めたのは海の女神カプリソ。

カプリソのちからで、第二作でイカのモンスターに殺されたキャプテンジャック スパロウは黄泉の世界から、カニに背負われてブラックパール号にのって帰ってくる。

ウィル ターナーとエリザベス スワンはジャックを助け出すために シンガポールの海賊首領にところに助力を得るために行くが、軍隊と組んだフライイングダッチ号のキャプテン デビ ジョンズの攻撃を受ける。 デビ ジョンズは、昔、海の女神カプリソを愛していたが、彼女は彼を裏切った。きっと、彼女はジャック スパロウを愛していたのではないか?ともかく、カプリソはデビ ジョンズを愛さなかった。それで、9人の海賊首領たちによって封印されていた。だから、人間の姿をしている。デビ ジョンズは フライイング ダッチマン号に乗って海で死んだ人をあの世に送り出す仕事を任されていた。しかし、仕事をさぼって、イカのお化けの顔にされてしまった。永遠の命を持っていて、死ぬことはないが、心臓をくりぬいて箱の中に保管している。これを、軍隊に盗まれてしまったので、軍隊の言うままにされている。

ウィル タナーはエリザベス スワンをやっと、心がひとつになって、デビ ジョンズと戦っている最中に求婚し、承諾を得るなでにこぎつけたのに、デビ ジョンズに胸を刺されて倒れる。本当はキャプテンジャック スパロウはデビ ジョンズの箱に入った心臓を刺して、自分が不死身になって、フライイングダッチマン号のキャプテンになりたかった。でも、デビ ジョンズに刺し殺されたウィル ターナーを、生き返らせるため、死ぬ間際のウィルに デビ ジョンズの心臓を突き刺させて、ウィルは永遠の命を手に入れる。ウィル ターナーはフライイング ダッチマン号で、父親と、一緒に死者を葬る航海を続け、10年に一度エリザベスに会いにくる。

カりプソは 9人の封印を解かれ、海にもどり渦となって 心臓をウィルに刺されて永遠の命を失ったデビ ジョンズを飲み込む。この女神がカニのおばけになって、海に帰るところは、怖い。彼女の作り出した渦によって、ブラックパール号と、フライイング ダッチマン号は軍隊をやっつける。東インド会社の親分も軍隊のベケット卿も敗北する。

これでやれやれ、、なんだけど、キャプテンジャックが陸に上がって、飲んだくれている間に またまた、ブラックパール号は、出航、またしても取り残された彼は 可愛らしい手漕ぎボートで、後を追う、というところで映画はおわり。

話がわかりにくくて、第一作、第二作を見ていないと全然筋が読めないだろう。でも とにかく おもしろくておもしろくて、画面に釘付けになる映画だ。話の筋を追うのではなくて、ただ、映像を楽しめばよいのだ。

3時間近い長さの映画が とっても短く思えた。 ジョニー デップは素晴らしい。本当に気に入った作品にしか出演しない、個性の強い俳優だそうだが、役つくりに とてもこだわって、自分にしかできないキャプテンジャック スパロウを作り出した。この役のために ものすごく凝ったアクセサリーや衣類を自分で持ち込み 入れ歯 一本入れるにも、自分の考えを通したらしい。 第3作でお話が終わるような気がしない。うわさでは第6作まで続く、などという声も聞こえる。どうなんだろう?第三作の興行成績次第なんだろうか? だったら、みんな観て観て観て。すごく、おもしろいよー!

2007年5月25日金曜日

映画 「ゲド戦記」


スタジオジブリ製作、宮崎吾朗監督によるアニメーション映画「ゲド戦記」を観た。原題「TALES FROME ARTHSEA」。 日本では1年前に上映されていて、それのついての賛否両論がでていたが、もう忘れられているのかもしれない。でも、オーストラリアではこれが、初めての上映。
シドニーでは、ニュータウンのデンデイー映画館で、5月中旬の10日間だけしか上映されなかった。新聞で、映画案内に小さく「TALES FROM ARTHSEA」と出ていただけで、絵が出ていたわけではなかったので、それがスタジオジブリの「ゲド戦記」のことだとはわからなくて、見逃すところだった。それでなくても、ニュータウンのデンデイーのようなメジャーでない 小さな映画館を知らない人が多いだろうから 見たかったのに 逃した人は多かったのではないだろうか。大人も子供も スタジオジブリの作品を好きな人は多いのだし、一昨年はアカデミー賞も取っているのだから、もう少し宣伝するなり、新聞に紹介記事を載せるなりして、多くの人に知らせるべきだったと思う。中国映画、スペイン映画、フランス映画などに比べて、日本映画の取り扱いはここではとてもマイナーだ。

「ゲド戦記」は 「指輪物語」と「ナルニア物語」と並んで、世界の3大ファンタジーのひとつといわれている。アメリカ人作家、アーシュラ グウィンの作品。 映画監督の宮崎吾朗は、スタジオジブリの創始者の息子、今回の映画が初めてのデビュー作。

EARTHSEAでは 国が乱れ、穀物が枯れ収穫ができず、家畜は疫病で死に、人々は飢え、人の世界を支えていた2匹の竜が争いをはじめて、世界の均衡がくずれてきていた。ゲト戦士は、その原因を探し出そうと旅にでて、アレンという少年に出会う。 アレンは ENLADの国の王子だったが自分でコントロールすることができない凶暴なパワーを持っていて国王の父親を殺して、逃げている。途中、アレンは、顔に火傷のあとのあるテルという少女に出会う。テルは魔法が使えるので、街で迫害されている。テルはアレンの凶暴を憎むが 一緒にゲド戦士と戦うように説得する。 ゲド戦士は、世界の均衡が崩れたのは、永遠の命を取ろうとしている蜘蛛COBのせいだとつきとめて テルとアレンとで 蜘蛛と戦う。というのがおはなし。

この宮崎吾朗の初めての作品が、いままでの多数の宮崎はやおの作品と大きく違うのは、これには原作があって、それを基にしているということ。だから、宮崎はやおの 豊かなイマジネーションの賜物である、さまざま多様で楽しいキャラクターは出てこない。はやおの作品は物語が単純でも、彼独特のイマジネーション、「千と千尋、、」の、巨大な赤ちゃん、豚になる両親、名無し、くも男、「もののけ、、」の森の神、走る狼、いのしし、「ハウルの動く城」の 年寄りになる魔法、かかし、歩く城、おばば などなど、意表をつく、楽しい登場者が 物語のどこそこにもちりばめられていて、物語に奥行きを作っている。筋に関係なく ただ見ているだけですごく楽しい。それが 宮崎はやおの作品の魅力だ。

宮崎はやおの作品は、常に、子供がひたむきに前に進む勇気、くじけずに前を見る澄んだ目、苦難を通して成長する姿 を描いてきた。「千と千尋、」では、豚にされた両親を助け出すために、ひとつひとつ目の前に現れてくる障壁に くじけず戦う少女の姿が感動を呼んだ。「ハウル、」でも、「もののけ、」でも これでもかこれでもかと、与えられる難関にしり込みせずに前に向かっていく勇気ある子供の姿を描いていた。

その片鱗はこの作品にもあって、これはアレンとテルの心の成長を描いた作品といえる。テルが、アレンに言う言葉が良い。「心の不安はだれにでもある。みんな不安だし、みんな死ぬことが怖い。でも、人は永遠を生きることはできない。死があるからこそ 人はよく生きられる。終わりがあるからこそ しあわせがあるのだ。」という言葉だ。

この作品では 始めにアランが国王の父親を殺すが、動機がいまひとつ明らかでない。不安で仕方がなくて 自分で制御できない凶暴な力、自分の影に操られて親を殺したと言っているが 父親殺しの償いはどうなるんだろう。映画では悪に勝って、自分の国に帰る決意をするところで終わるが、国王殺しにどう責任を取っていくんだろう、と原作の終わった先まで心配するのは、私だけかしら?

父親殺しはギリシャ神話のエデイップス王の時代から フロイトに言われるまでもなく、男の子にとっては、避けて通ることのできない永遠の課題だろうが、この作品で、親が立派すぎるだけに、息子の作はでこそこない、と けちょんけちょんにけなされた、宮崎吾朗の一番やりたかった本心だったりしてね! 

2007年5月15日火曜日

映画 「プライスレス」


フランス映画「HORS DE PRIX 」を観た。クレモン、オピアムで、上映中。 英語タイトル「PRICELESS」、邦題は、まだわからないが、「プライスレス」か。お金に替えられないほど貴重品という意味。

主役オードレイ タトウ(AUDREY TAUTOU)と、相手役にガト エルマレ(GAD ELMALEH)。ピエール サルバドリ監督。とっても オシャレなコメデイー。

オードレイは、高級娼婦。お金持ち紳士の同伴者として避暑地リビエラを旅行している。絶え間なくおねだりをして、装飾品を買ってもらう。下着からドレス、持ち物まで最高級のブランド品を身につけていないと気がすまない。
ある夜、酔って寝込んでしまったパトロンを部屋に残して ホテルのバーに下りてきた彼女は若いバーテン ジーンに出会う。ここで彼女はしたたか酔い、ジーンを バーテンと知らず客の一人と誤解したままベッドインしてしまう。寝過ごして パトロンに見捨てられ、ジーンも 一介のバーテンに過ぎないと知って、オードリーはあわてるが、もうすっかり惚れてしまったジーンは有り金すべてをつぎ込んで彼女をコートダジュールのホテルに誘う。ジーンの積立貯金から、年金、生命保険まで解約してつぎ込んだお金も、彼女の浪費、一流のホテルにレストラン、ドレスに靴にあっという間に消えて、彼女は 去っていく。

残されたジーンは、ホテル代が払えなくて、警察に突き出されそうになったところで、億万長者の未亡人に拾われる。ジゴロとなったジーンは 金で買われた未亡人のペットだが、恋するオードリーのことがあきらめられない。
オードリーも、新しいパトロンと同じホテルに現れ、このふたりは、お互いのパトロンの目をごまかしては、二人で、深夜のビーチピクニックをしたり、二人だけの時間を持つようになり、遂に、オードリーは、パトロンを捨てて、ジーンのもとに行く。ハッピーエンドのラブコメデイー。

オードリータトウーのすきなひとにはたまらない映画だろう。スリムで 次々とグッチのドレスを着て現れる 完璧なプロポーション。よくクルクルと動く大きな瞳。表情豊かな 愛らしい顔。小悪魔なしぐさ。 彼女の「アメリー」「A VERY LONG ENGAGEMENT」は、彼女が演じたから、成功だった。「アメリー」はもう10年前の映画だが、いまだにすごい人気。オーストラリアで、今までの映画のなかで、一番好きな映画という人気投票をしたとき、「アメリー」がトップ、3の中に入っていて、すごくびっくりした。日本でなら、まだわかるが、フランスとかパリとかが、大の苦手の田舎者オーストラリアで、だ。 「アメリー」をやった、オードリーの不思議な魅力と独特の可愛さがこの映画でも健在。それだけに、「ダビンチコード」では、トムハンクスの相手役やらされて、彼女の良さが全然でていなくて、可哀想なくらいだった。やっぱり、フランス人は、アメリカンコーヒーでなく、カフェオーレでないとダメなんじゃないか。

この映画で、ジゴロになるガトエマニエルが、恥ずかしがりやの冴えない、全然男の魅力がない青年役ですごくおかしかった。ジゴロの彼と レストランで鉢合わせになったとき、オードレイが、買ってもらったばかりの宝石をじゃらじゃらさせながら、ねえ、未亡人に何を買ってもらったの?と聞くんだけど、彼が 「豪華な朝ごはん、パンケーキのおかわりもらっちゃったんだよー」、とうれしそうに、無邪気に答えるところなんか、すごく笑える。それが、ダイヤつきローレックスとか、バイクになっていくんだけど、そういった億万長者のお金の使い方も、観ていて楽しい。 気軽で、楽しいコメデイーだ。

2007年5月14日月曜日

映画 「CURSE OF THE GOLDEN FLOWER」



ツアン イーモー(ZHANG YI MOU)監督の中国映画「黄金の華の呪い」、原題 「CURSE OF THE GOLDEN FLOWER」を観た。チャッツウッド マンダリンセンターで上映中。 主演、ゴングリー(LI GONG)と、チョーユンファ(CHOW YUN FAT)。

AD 928年の中国皇帝と皇后とその3人の息子達による血を血で洗う 権力争いを描いた映画。 菊の紋章を家系とする皇帝は、部下だった武将に倒され、皇帝の娘は、新しく皇帝になった武将の妻に迎えられて皇后となる。当然、仲の良い夫婦ではない。夫は、父を倒して権力を乗っ取った仇だ。この皇帝夫婦には 先妻とのあいだに、長男、そして夫婦の間にできた男の子が二人いる。皇后は、夫の後継者となる長男を 自分の味方につけておきたいので、肉体関係をもって自分の意のままに繰っている。また彼女は 自分の実の息子、次男を後継者にして、父の家紋 菊の存続を図っている。 しかしそんな皇后の思惑など とっくの昔に 見破っている皇帝は妻を毒殺するために、毎日健康に良いと偽って薬茶を妻に飲ませている。 チャンヤン祭(CHONG YANG FESTIVAL)という、日本の盆にあたる、先祖の死を悼むお祭りの日に、次男は、皇后を擁護して皇帝を倒そうと、万の兵が皇居に向かって反乱をおこすが、敗れて、自死。長男は三男に殺され、三男は父に嬲り殺されて、ついに、世継ぎは誰もいなくなった。皇后は、最後の毒杯を飲み干すように追い詰められる。

こうした歴史映画のおもしろさは、この時代の人がどんな服装で どんな生活様式をし、どんな風に考えていたのか、なかなか本を読んだだけでは 実感としてわからないものが、映像で描き出されると、時代の空気が生き生きと感じられることだ。ローマ時代を、「十戒」や、「ベンハー」で 実感できるように、中国の皇帝も、この映画や、「ラストエンペラ-」「ヒーロー」などで、知ることができる。

それにしても、この20年というもの、中国映画といえば、チャンイーモー監督、女優といえば、ゴングリー。この二人は夫婦だが、6億人の人口をもつ中国に、映画関係者はこの二人しかいないのだろうか?いまだに、ゴングリーは美しく咲く 大輪の花だから良いけど、ツアンイーモーの堕落、大衆路線は、痛ましい。

ツアンイーモーが製作した映画は、1987年の「赤いコーりャン」、それに続く「レッドランタン」、「THE ROAD HOME」、「TRANDOT」、「HOUSE OF FLUING DAGGERS 」、「ヒーロー」、「CROACHING TIGER HIDDEN DRAGON」など。彼の、はじめのころといえば、芸術家や、知識人による民主化運動が厳しく制限されていて、さまざまな制約をはねのけて映画を作ることに 大変な勇気と、ただならぬ反骨精神がなければできなかった。それだけに、初期の作品には、自由への渇望がみなぎっていた。

しかしこの監督が国に認められて、現代中国文化の大御所として とりこまれ、国民的英雄になってしまってからの彼の作品は ただの娯楽作品だ。まあそれも良い。時代は変わるし、人も変わる。

この映画は、莫大な資金と、万人規模の役者を自由に使って、壮大な資金の浪費をして作られた。ただただ、スペキュタクラー!!! どっどっどっと、地響きをたてて、何万人かの謀反の軍団が、皇居を埋め尽くしたかと思うと、つぎには、そのせ数倍にあたる人数の、政府軍がワーっとやってきて、全部殺して、、、すると、とっとっとーと、掃除人夫が 全部死体をかたずけて、それから、さっさっさー、と たくさんの 花をもった女達がその上を、きれいな花で埋めてしまう、あっという間の手際の良さ。ウーン。まいった。

しかし、ゴングリーは いまだに美しい。20年あまり、中国を代表して、トップを走り続けている。「芸者さゆり」では、若いチャンツイー(ZHANG ZI YI )の美しさと、互角で張り合っていた。この人の若々しい体と 30代はじめとしか思えない美しさは、いったい何なんだ。秘訣を教えてほしい。

2007年5月8日火曜日

映画 「スパイダーマン 3」


史上最高金額6億ドルをかけて製作された 映画「スパイダーマン3」は 世界中で同時に封切られ、あっという間に全米映画興行収入で史上1位を記録した。

映画が好きな人 観なくちゃダメだよ。 スパイダーマンが正義のヒーローなんかではないこと、間違いもするし、馬鹿もやる、普通の成長過程にある青年だということがよく描かれている。

人が生きることは、正しいことと間違っていること、この2つしかない訳ではない。もともと、スパイダーマン、ピーター(TOBY MAQUIRE)は、まじめだけど どちらかと言えば、さえない物理学を学ぶ大学生、両親に死なれ、貧しいけれども誠実な叔父夫婦に育てられた。学費のたしに写真を撮って、新聞社に買ってもらっている。 誤って 遺伝子組み換えされた蜘蛛に咬まれて、自分の体の異変に気つき、蜘蛛のように糸をつたって飛んだり 戦うスーパーパワーをもったことを知る。

幼い時から心をよせていた隣に住んでいたMJ(KIRSTEN DUST)は女優志望の売れない歌手、何度も怖い目にあって スパイダーーマンに助けられて、キスを契機にスパイダーマンの正体を知ってしまう。 幼馴染のピーターと、MJと、ハリーは大の仲良し。でも実は ハリーは悪の世界ゴブリンの息子で、スパイダーマン2で、ハリーの父はスパイダーマンとの戦いで殺されてしまったことで、ハリーはピーターを憎んでいる。

ピーターのお父さん代わりベン叔父さんは ピーターを車で待っているときに 強盗犯にカージャックされて殺されてしまう。ベン叔父さんはピーターに、「大きな力をもったならば それだけの責任を持たなければならないんだよ。」と言い残したが、この叔父さんを殺した極悪人が脱獄して、逃げる途中 放射線をあびてサンドマン(砂男)になってピーターの前に戻ってきたことから、ピーターは復讐に燃える。でも実は砂男が叔父さんを殺したわけではなかった、また、彼は心臓の悪い娘の手術費を捻出するために強盗せざるを得なかったことがわかる。

今回のスパイダーマンの教訓は、安易に復讐してはいけない。悪にも理由や、事情がある。人には悪に手を染めるか そうせずにいるか 選択の自由があるが それに伴う責任を避けて通ることができない、ということ。最終的にはピーターは砂男を容赦する。スパイダーマン3の、テーマは「ゆるし」だ。

スパイダーマンがおもしろいのは ピーターが普通の男の子で、スーパーパワーを持ったために 間違いもたくさんして、人を傷つけたり、パワーに慢心して観衆のまえで 飛んで見せたり 女優とキスして見せたりするところ。人気絶頂をいいことにマスクを脱いでからも、調子にのって、せっかく理解してくれているMJが失業して歌手としての希望を絶たれているのに、聞く耳をもたない。べノムの黒い魔の手に侵されブラックスパイダーにならなくてもピーターは普通のおばかさんなのだ。だって、まだ20歳そこそこの普通の大学生でしょう。当たり前。そんな彼が 立ち返るところは、亡くなった叔父さんの教訓であり、変わらずに心を支えてくれる伯母さんの言葉だ。調子に乗ったりどん底におちたりしながら戦いでボロボロになりながら 彼の心の成長の軌跡がていねいに描かれている。そこが、おなじ、ニューヨークを拠点に活躍する スーパーマンや、バットマンとちがうところだ。

スパイダーマン3で、ピーターの親友で実はゴブリンの息子というハリーがすごく良くて、泣ける。この俳優(JAMES FRANCO)って、スパーダーマンでしか見たことないけど、故ジェームスデイーンにそっくり。で、それだけで泣ける。ハリーは大金持ちの父が発明したたくさんの殺人兵器をもっていて 空飛ぶスケボーでピーターと戦う空中戦がすごくかっこ良い。 記憶を失ったハリーが目覚めて、親友ピーターとMJに見せる笑顔は、ものすごくチャーミング。ジェームスデイーンの笑顔にそっくり。これを観るだけのために この映画に$15 払う価値がある。 大きな屋敷にたった一人暮らす孤独なハリー、悪の権化だった父はかつて 親友ピーターを高く評価していて十分自分は父に愛されたかどうかという自信がない。でも父への愛は不滅。父の期待に報いてスパイダーマンに復讐攻撃するが敗れる。

ハリーは、ピーターに MJを救うために一緒に、ブラックスパイダーと、砂男をやっつける力を貸してくれ と言われて、苦しんで、悩んだ末 ピーターのために助っ人に行く。 ピーターと、手を取り合って スケボーで夜空を飛び回るハリー。スパイダーマン3のヒーローは間違いなくハリーだ。この映画では、ピーターの心の成長もハリーの心の成長も描かれてれている。ピーター、ハリー、MJ この まだ青い愛と、友情のありかたにちょっと涙が出る。

新聞社の編集長と 彼の高血圧をコントロールする秘書、それから、ピーターの下宿の親父とちょっと知恵が足りなそうな その娘など、スパイダーマン1,2からのおなじみの 愉快なキャラクターが華を添えていて 毎回笑える。

2007年5月1日火曜日

映画 「敬愛するベートーベン」


映画「COPIYING BEETHOVEN」クレモン オピアムで上映中。

べートーベンの名前を知らない人はいない。彼の作品は?というと、交響曲第5番「運命」の第1楽章の最初の4音をジャジャジャジャーンとやったり、エリーゼのためにの最初の2節を鼻で歌ってくれる人が多い。私はバイオリンでベートーベン弦楽曲には泣かされたので 暗い哀しいつらい難解 でも尊敬。

交響曲「英雄」「運命」「田園」、ピアノ曲「皇帝」「悲愴」「月光」「テンペスト」、オペラ「フェデリオ」、バイオリン曲「春」「クロイツエル」など 本当の作品名に ニックネームがついている作品だけでも こんなに沢山ある。それほど、ポピュラーな天才中の天才。

彼とドイツの森とは切っても切れない関係にあって、彼は毎日4時間も5時間も 森を歩いてインスピレーションが沸くと 曲にして作った。彼もまた恋をたくさんしたが、生涯結婚は しなかった。一生努力しながら、苦しみながら作曲し、莫大の量の交響曲、弦楽曲、ピアノソナタ、コンチェルトを作曲したが、未完の作品も膨大な量だった。

映画「COPYING BEETHOVEN」アメリカ、ドイツ合作映画を観た。AGNIESZKA HOLLAND 監督、ベートーベンに、エド ハリス(ED HARRISE)と、その楽譜コピイストのアナ ホルツ役にダイアン クルーガー(DIANE KRUGER)。 映画設定は 1824年、57歳晩年、死のちょっと前のベートーベンは すでに一世を風靡し、名声を得ているが、もともと貴族の出身でも、年給を保証してくれるパトロンがいるわけでもないベートーベンにとって、曲が完成しないと収入はない。期限までに、作品を収めなければならないプレッシャー、除じょに聞こえなくなっていく耳、健康上の不安、可愛がっていたピアニストの甥の裏切り、、、、創造を糧として生きるものの苦渋の満ちた生活だ。

コピイストとは作曲家が書いた曲を、オーケストラごとの楽譜にして、曲を書き写す職業で、自身も作曲家同様の専門知識と、繊細な注意力と集中力がないとできない。コピーマシンや 大量印刷製本技術のある時代ではない。楽譜は全部、手書きで、消しゴムがあるわけではないので、失敗できない。立派なコピイストを持つことは この時代の作曲家にとって右腕をもう一本持つようなものだ。

映画はウィーン音楽大学を主席で卒業したばかりのアン ホルターが 職を求めてベートーベンのコピイスト ベンゼル スケルマーを訪ねるところから始まる。

新しいコピイストとして抜擢されたアンが ベートーベンにとって必要な耳となり、手となり、友情がめばえたところで 彼女が 自分で作曲した小曲をベートーベンにプレゼントする。ここで すごく笑える。ベートーベンは彼女がどうして曲を持ってきたのかわからないまま、ピアノで弾いてみるんだけども それがすごく杓子道理の コチコチのバロック音楽なので 彼は思い切りはしゃいで曲をばかにして、ぶーぶーいいながら弾いて笑うのだ。それを泣いて怒ってくやしがる彼女とのやりとりがおかしい。

映画で かの交響曲第9番の初舞台、枢密卿、ヨーロッパ中の貴族達を前にして、ベートーベンは指揮をするのだが、すでに耳のきこえなくなっていた彼は アナをオーケストラ団員の間にすわらせて指揮をする彼女をみながら、指揮をとるのだ。映画では そこが見せ場だったみたい。これに近いことを計画的にやったかもしれないけど、実際にはありえない。初見で、第9の全曲を指揮できる指揮者はいない。70分、この時代なら1時間半くらい 初見ではカラヤンでもクライバーでもバーンスタインでもべームでもアシュケナージュでもフルトベングラーでもアバッドでも指揮できるわけがない。まあでも、映画だから許される。

ベートーベンがあの難解な弦楽4重奏を作曲中、ピアノでアンに聞かせると アンははっきり全然ダメ という。実際、サロンでも貴族達からは受け入れてもらえなくてコンサートが終わったときには誰も観客がいなくなっていて、しおれるベートーベン。創造者はいつの時代も 時代を先取りをしているから前衛の芸術が人々に受け入れられるには何十年も何百年も待たなければならなかったのだ。

映画のなかで、人々は文盲でも、ベートーベンの音楽は知っている。たとえ一日中 陽のささないアパートでもベートーベンの曲を王様より、貴族達よりも早く先に聞ける事に喜びを見出している 同じアパートに住む老人。森を歩きつかれて、入った酒場でベートーベンと飲んで騒ぎもする地元の男達。きっと、彼の毎日はこんなんだったんだろうと思いながら、うっとりして観ていた。

ロンドンフィルハーモニーが交響曲第6番を演奏しながら、ベートーベンがウィーンの森を歩き回っているすがた、とても良かった。ずっとそれだけを いつまでも観ていたかった。 

2007年4月22日日曜日

日本映画 「GO」

映画にはビデオで観て 面白い映画と、絶対 映画館の暗がりで大きなスクリーンで見なければならない映画とある。日本映画は だいたいにおいて ビデオに向いている。じゅうたんに転がって、ポテトチップスにビールで、一人笑ぃ転げたり 泣いたりしても、誰にも迷惑がかかららない。日本に帰っていたのを、契機に ビデオで日本映画を観てみた。

「ジョゼと虎と魚たち」、吉永小百合と渡辺健の「北の零年」、寺尾聡の「博士の愛した数式」、伊藤英明と加藤あいの「海猿」、吉岡秀隆と堤真一の「ALWAYS 3丁目の夕日」、妻夫木聡と長沢まさみの「涙そうそう」、山崎勉、窪井洋介と紫咲コウの「GO」などだ。

このなかで、「GO」がとりわけおもしろかった。原作金城一紀、直木賞と取った作品。読んだ本がすごく面白かったので、それを元にした映画も そのとうり よくできていることを期待したが、この映画は原作に忠実で、おまけに良い俳優が脇を固めていて、とても良かった。主人公クルパーの父親の山崎勉を観ているだけでものすごく笑える。映画を観ていて何度もおなかを抱えて笑ってしまった。在日外国人の胸の痛み、差別を跳ね返すパワー、そして家族愛、それでいて全然どん臭くない。

思い切り明るく これほどまで人種差別の厳しい 閉鎖社会である日本で、からっと在日外国人の泣き笑いを書いたものは ほかになかったのではあるまいか。
北朝鮮出身の親を持つゴリゴリのマルクス主義者で北朝鮮の金日成主席を神ともあがめる父が 突然妻をハワイ旅行につれて行くために「転向」して金日成バッチを返還しに朝鮮総連に行く。総連でももう とっくの昔にそんなものは 時代遅れになっていたというのに。で、ハワイ旅行で 広い世界に目覚めた父は がぜんスペイン語を勉強し始めて、今度はスペイン旅行に行くのだ。在日外国人に限らず、井の中の蛙だった日本人が 広い世界をみて あわてふためく様子が笑える。

一人息子は天然パーマの髪が天に向かって爆発しているのでクルパーと呼ばれている。プロボクサーだった父に 小さいときから訓練されているから めっぽう喧嘩に強い。朝鮮中学をやめて、普通高校に移った時から、学校で韓国籍を笑われ、陰湿ないじめにあうが、みるみるうちに学校きっての喧嘩のチャンピオンになってしまう。暴力団総長の息子の鼻柱を折ったことが契機で暴力団にまで いちもくおかれて可愛がられる。別の高校で好きな子ができて、告白するが、彼女の、お父さんが朝鮮人の血は汚いんだって言うの、という言葉に ゆきずまってしまう。

青春の哀しさ、ひりひりする痛みがよみがえってくる。

「インストール」、「蹴りたい背中」の綿矢りさ、「夜のピクニック」の恩田陸、そして「GO 」の金城一紀など、10代でものを書いて 文壇で認められるようになった人々の その才能は並みではない。

とても良かったので、本を読むのも(講談社文庫)、映画で観るのも お勧めー。

2007年4月17日火曜日

映画 「世界最速のインデアン」


とても若かった頃、出会ったときから 何かすごく気があって血がつながっているみたいに心安く ずっと信頼を置いていた人がいる。その昔 私がものを書いていた頃 彼も書いていた。4000キロほど離れていたが、バイオリンを弾いていた頃 彼も弾いていた。今はもっと離れたところで暮らしている。そんな人と 先日、本当に久しぶりで東京で会った時、この映画がとてもよかった と言ったのでうれしかった。

映画「THE WORLD FASTEST INDIAN」「世界最速のインデアン」。シドニーでは 余り 話題にもならず、メジャーの映画館では上映されなかった。 ニュージーランドとUSA合作映画。主演 アンソニーホプキンズ、監督、ロジャードナルドソン、2006年作。 キウイ(ニュージーランド人)のバート ムンロ(BURT MUNRO)が、64歳のときに、1920年代のインデアンという名のバイクをもとに自分で作ったバイクで アメリカ ユタで行われるレースに出場して 世界新のスピード記録を出したときの実際のできごとをもとにした映画。このとき1967年のスピード記録は いまだに破られていないのだそうだ。

長年、役者として功績を残し70代になっても現役のアンソニーホプキンズはサーの称号をもらったが、この映画では キングイングリッシュを捨てて、キウイアクセントに徹していた。64歳のバートは 長年のバイクの排気音で難聴、ニトログリセリンが手離せない狭心症、おまけに前立腺肥大で排尿障害も持っていて ぜんぜんかっこよくない。そんな彼がバイクレースに出るという目的だけのために、淡々と、そしてゆうゆうと一歩一歩目的に向かっていく姿をみているうちに 彼のうれしさが自分の喜びになり、彼の落胆が自分のつらさになり、すっかり共鳴して、彼が本当のヒーローに見えてくる。この男 すごくかっこいい。

NZランドからロスアンデルスまでの 船の旅費が十分でなく、乗船中は料理人、皿洗いなんでもやる。はじめはエプロン姿のおじいさんに 何だよ と言う感じが 人懐こい彼の言うことには含蓄があり、荒くれ水夫達の大に人気者になってしまう。

ロスに初めて着いて タクシーの助手席に乗り込もうとして運転手に どなられる。NZランドやオーストラリアでは 運転手などの肉体労働がホワイトカラーより貴重で大切にされるから 客は仲間意識をもって運転手の助手席にすわるが、アメリカではホールドアップを恐れて 客が助手席に座ろうとすると運転手はパニックになる。1分間も無駄にしたくない運転手と 田舎ものバートのやりとりがおかしい。

モテルに着いて受付で、あんたイギリス人と聞かれて、「え、ぼく、そんなにひどくないでしょう?」と答えるのも、彼のウィット。女性と思っていた受付の人が ホモセクシュアルの男性とわかっても 気にせずきちんと レデイとして扱う。

いよいよ ボロ車を買って修理して ユタのソルトレイクに向かうが、途中、バイクが破損してインデアンの老人に助けられる。湧き上がる彼との友情。美しい石でできたお守りのネックレスをかけてもらって、また出発。 バートの「 同性愛差別や人種差別を超えた 人類みな等しい、人に違いがあるとするなら 夢を持つ人と持たない人とがあるだけ 」という彼の意識が映画の随所で観られる。

本当に苦労しながら ソルトレイクのレース会場に着いて、もうレース参加の申し込み期間が過ぎていたり、バイク修理の費用に底がついて レースに出られないところだったり、と、いろいろなできごとがあるけれど、そのたびに彼の ひょうひょうとした魅力に周りの人々が 助けずにいられなくなって、人々の温情に助けられながら レースで世界新記録を出すのだ。

この映画はアンソニーホプキンズがやらなかったら、全然 成功しなかっただろう。ホプキンスがとても良い。彼自身、インタビューに答えて、この役になるのが じつに、楽しくて、自然に演じられた。と言っている。ホプキンズと言う人は 怪傑ゾロや、ハンニバルや 人食いレクター博士をやっているより、本当は自身がバートのような人なのではないか。

この映画は夢を持って生きる男達に改めて夢を見続けることの大切さを再認識させて、涙ぐませた。

映画には出てこなかったが、実際のバートが世界記録を出したとき スポーツ紙のインタビューで、200キロのスピードで走って 死ぬことが怖くないのか と聞かれて、「全然こわくない。ぼく、平穏に暮らしていくよりも、5分でも余計にバイクにのっていたいんだ。」と答えたそうだ。 うーん、64歳の男のことばにしては、悪くない!