2007年5月1日火曜日

映画 「敬愛するベートーベン」


映画「COPIYING BEETHOVEN」クレモン オピアムで上映中。

べートーベンの名前を知らない人はいない。彼の作品は?というと、交響曲第5番「運命」の第1楽章の最初の4音をジャジャジャジャーンとやったり、エリーゼのためにの最初の2節を鼻で歌ってくれる人が多い。私はバイオリンでベートーベン弦楽曲には泣かされたので 暗い哀しいつらい難解 でも尊敬。

交響曲「英雄」「運命」「田園」、ピアノ曲「皇帝」「悲愴」「月光」「テンペスト」、オペラ「フェデリオ」、バイオリン曲「春」「クロイツエル」など 本当の作品名に ニックネームがついている作品だけでも こんなに沢山ある。それほど、ポピュラーな天才中の天才。

彼とドイツの森とは切っても切れない関係にあって、彼は毎日4時間も5時間も 森を歩いてインスピレーションが沸くと 曲にして作った。彼もまた恋をたくさんしたが、生涯結婚は しなかった。一生努力しながら、苦しみながら作曲し、莫大の量の交響曲、弦楽曲、ピアノソナタ、コンチェルトを作曲したが、未完の作品も膨大な量だった。

映画「COPYING BEETHOVEN」アメリカ、ドイツ合作映画を観た。AGNIESZKA HOLLAND 監督、ベートーベンに、エド ハリス(ED HARRISE)と、その楽譜コピイストのアナ ホルツ役にダイアン クルーガー(DIANE KRUGER)。 映画設定は 1824年、57歳晩年、死のちょっと前のベートーベンは すでに一世を風靡し、名声を得ているが、もともと貴族の出身でも、年給を保証してくれるパトロンがいるわけでもないベートーベンにとって、曲が完成しないと収入はない。期限までに、作品を収めなければならないプレッシャー、除じょに聞こえなくなっていく耳、健康上の不安、可愛がっていたピアニストの甥の裏切り、、、、創造を糧として生きるものの苦渋の満ちた生活だ。

コピイストとは作曲家が書いた曲を、オーケストラごとの楽譜にして、曲を書き写す職業で、自身も作曲家同様の専門知識と、繊細な注意力と集中力がないとできない。コピーマシンや 大量印刷製本技術のある時代ではない。楽譜は全部、手書きで、消しゴムがあるわけではないので、失敗できない。立派なコピイストを持つことは この時代の作曲家にとって右腕をもう一本持つようなものだ。

映画はウィーン音楽大学を主席で卒業したばかりのアン ホルターが 職を求めてベートーベンのコピイスト ベンゼル スケルマーを訪ねるところから始まる。

新しいコピイストとして抜擢されたアンが ベートーベンにとって必要な耳となり、手となり、友情がめばえたところで 彼女が 自分で作曲した小曲をベートーベンにプレゼントする。ここで すごく笑える。ベートーベンは彼女がどうして曲を持ってきたのかわからないまま、ピアノで弾いてみるんだけども それがすごく杓子道理の コチコチのバロック音楽なので 彼は思い切りはしゃいで曲をばかにして、ぶーぶーいいながら弾いて笑うのだ。それを泣いて怒ってくやしがる彼女とのやりとりがおかしい。

映画で かの交響曲第9番の初舞台、枢密卿、ヨーロッパ中の貴族達を前にして、ベートーベンは指揮をするのだが、すでに耳のきこえなくなっていた彼は アナをオーケストラ団員の間にすわらせて指揮をする彼女をみながら、指揮をとるのだ。映画では そこが見せ場だったみたい。これに近いことを計画的にやったかもしれないけど、実際にはありえない。初見で、第9の全曲を指揮できる指揮者はいない。70分、この時代なら1時間半くらい 初見ではカラヤンでもクライバーでもバーンスタインでもべームでもアシュケナージュでもフルトベングラーでもアバッドでも指揮できるわけがない。まあでも、映画だから許される。

ベートーベンがあの難解な弦楽4重奏を作曲中、ピアノでアンに聞かせると アンははっきり全然ダメ という。実際、サロンでも貴族達からは受け入れてもらえなくてコンサートが終わったときには誰も観客がいなくなっていて、しおれるベートーベン。創造者はいつの時代も 時代を先取りをしているから前衛の芸術が人々に受け入れられるには何十年も何百年も待たなければならなかったのだ。

映画のなかで、人々は文盲でも、ベートーベンの音楽は知っている。たとえ一日中 陽のささないアパートでもベートーベンの曲を王様より、貴族達よりも早く先に聞ける事に喜びを見出している 同じアパートに住む老人。森を歩きつかれて、入った酒場でベートーベンと飲んで騒ぎもする地元の男達。きっと、彼の毎日はこんなんだったんだろうと思いながら、うっとりして観ていた。

ロンドンフィルハーモニーが交響曲第6番を演奏しながら、ベートーベンがウィーンの森を歩き回っているすがた、とても良かった。ずっとそれだけを いつまでも観ていたかった。 

2007年4月22日日曜日

日本映画 「GO」

映画にはビデオで観て 面白い映画と、絶対 映画館の暗がりで大きなスクリーンで見なければならない映画とある。日本映画は だいたいにおいて ビデオに向いている。じゅうたんに転がって、ポテトチップスにビールで、一人笑ぃ転げたり 泣いたりしても、誰にも迷惑がかかららない。日本に帰っていたのを、契機に ビデオで日本映画を観てみた。

「ジョゼと虎と魚たち」、吉永小百合と渡辺健の「北の零年」、寺尾聡の「博士の愛した数式」、伊藤英明と加藤あいの「海猿」、吉岡秀隆と堤真一の「ALWAYS 3丁目の夕日」、妻夫木聡と長沢まさみの「涙そうそう」、山崎勉、窪井洋介と紫咲コウの「GO」などだ。

このなかで、「GO」がとりわけおもしろかった。原作金城一紀、直木賞と取った作品。読んだ本がすごく面白かったので、それを元にした映画も そのとうり よくできていることを期待したが、この映画は原作に忠実で、おまけに良い俳優が脇を固めていて、とても良かった。主人公クルパーの父親の山崎勉を観ているだけでものすごく笑える。映画を観ていて何度もおなかを抱えて笑ってしまった。在日外国人の胸の痛み、差別を跳ね返すパワー、そして家族愛、それでいて全然どん臭くない。

思い切り明るく これほどまで人種差別の厳しい 閉鎖社会である日本で、からっと在日外国人の泣き笑いを書いたものは ほかになかったのではあるまいか。
北朝鮮出身の親を持つゴリゴリのマルクス主義者で北朝鮮の金日成主席を神ともあがめる父が 突然妻をハワイ旅行につれて行くために「転向」して金日成バッチを返還しに朝鮮総連に行く。総連でももう とっくの昔にそんなものは 時代遅れになっていたというのに。で、ハワイ旅行で 広い世界に目覚めた父は がぜんスペイン語を勉強し始めて、今度はスペイン旅行に行くのだ。在日外国人に限らず、井の中の蛙だった日本人が 広い世界をみて あわてふためく様子が笑える。

一人息子は天然パーマの髪が天に向かって爆発しているのでクルパーと呼ばれている。プロボクサーだった父に 小さいときから訓練されているから めっぽう喧嘩に強い。朝鮮中学をやめて、普通高校に移った時から、学校で韓国籍を笑われ、陰湿ないじめにあうが、みるみるうちに学校きっての喧嘩のチャンピオンになってしまう。暴力団総長の息子の鼻柱を折ったことが契機で暴力団にまで いちもくおかれて可愛がられる。別の高校で好きな子ができて、告白するが、彼女の、お父さんが朝鮮人の血は汚いんだって言うの、という言葉に ゆきずまってしまう。

青春の哀しさ、ひりひりする痛みがよみがえってくる。

「インストール」、「蹴りたい背中」の綿矢りさ、「夜のピクニック」の恩田陸、そして「GO 」の金城一紀など、10代でものを書いて 文壇で認められるようになった人々の その才能は並みではない。

とても良かったので、本を読むのも(講談社文庫)、映画で観るのも お勧めー。

2007年4月17日火曜日

映画 「世界最速のインデアン」


とても若かった頃、出会ったときから 何かすごく気があって血がつながっているみたいに心安く ずっと信頼を置いていた人がいる。その昔 私がものを書いていた頃 彼も書いていた。4000キロほど離れていたが、バイオリンを弾いていた頃 彼も弾いていた。今はもっと離れたところで暮らしている。そんな人と 先日、本当に久しぶりで東京で会った時、この映画がとてもよかった と言ったのでうれしかった。

映画「THE WORLD FASTEST INDIAN」「世界最速のインデアン」。シドニーでは 余り 話題にもならず、メジャーの映画館では上映されなかった。 ニュージーランドとUSA合作映画。主演 アンソニーホプキンズ、監督、ロジャードナルドソン、2006年作。 キウイ(ニュージーランド人)のバート ムンロ(BURT MUNRO)が、64歳のときに、1920年代のインデアンという名のバイクをもとに自分で作ったバイクで アメリカ ユタで行われるレースに出場して 世界新のスピード記録を出したときの実際のできごとをもとにした映画。このとき1967年のスピード記録は いまだに破られていないのだそうだ。

長年、役者として功績を残し70代になっても現役のアンソニーホプキンズはサーの称号をもらったが、この映画では キングイングリッシュを捨てて、キウイアクセントに徹していた。64歳のバートは 長年のバイクの排気音で難聴、ニトログリセリンが手離せない狭心症、おまけに前立腺肥大で排尿障害も持っていて ぜんぜんかっこよくない。そんな彼がバイクレースに出るという目的だけのために、淡々と、そしてゆうゆうと一歩一歩目的に向かっていく姿をみているうちに 彼のうれしさが自分の喜びになり、彼の落胆が自分のつらさになり、すっかり共鳴して、彼が本当のヒーローに見えてくる。この男 すごくかっこいい。

NZランドからロスアンデルスまでの 船の旅費が十分でなく、乗船中は料理人、皿洗いなんでもやる。はじめはエプロン姿のおじいさんに 何だよ と言う感じが 人懐こい彼の言うことには含蓄があり、荒くれ水夫達の大に人気者になってしまう。

ロスに初めて着いて タクシーの助手席に乗り込もうとして運転手に どなられる。NZランドやオーストラリアでは 運転手などの肉体労働がホワイトカラーより貴重で大切にされるから 客は仲間意識をもって運転手の助手席にすわるが、アメリカではホールドアップを恐れて 客が助手席に座ろうとすると運転手はパニックになる。1分間も無駄にしたくない運転手と 田舎ものバートのやりとりがおかしい。

モテルに着いて受付で、あんたイギリス人と聞かれて、「え、ぼく、そんなにひどくないでしょう?」と答えるのも、彼のウィット。女性と思っていた受付の人が ホモセクシュアルの男性とわかっても 気にせずきちんと レデイとして扱う。

いよいよ ボロ車を買って修理して ユタのソルトレイクに向かうが、途中、バイクが破損してインデアンの老人に助けられる。湧き上がる彼との友情。美しい石でできたお守りのネックレスをかけてもらって、また出発。 バートの「 同性愛差別や人種差別を超えた 人類みな等しい、人に違いがあるとするなら 夢を持つ人と持たない人とがあるだけ 」という彼の意識が映画の随所で観られる。

本当に苦労しながら ソルトレイクのレース会場に着いて、もうレース参加の申し込み期間が過ぎていたり、バイク修理の費用に底がついて レースに出られないところだったり、と、いろいろなできごとがあるけれど、そのたびに彼の ひょうひょうとした魅力に周りの人々が 助けずにいられなくなって、人々の温情に助けられながら レースで世界新記録を出すのだ。

この映画はアンソニーホプキンズがやらなかったら、全然 成功しなかっただろう。ホプキンスがとても良い。彼自身、インタビューに答えて、この役になるのが じつに、楽しくて、自然に演じられた。と言っている。ホプキンズと言う人は 怪傑ゾロや、ハンニバルや 人食いレクター博士をやっているより、本当は自身がバートのような人なのではないか。

この映画は夢を持って生きる男達に改めて夢を見続けることの大切さを再認識させて、涙ぐませた。

映画には出てこなかったが、実際のバートが世界記録を出したとき スポーツ紙のインタビューで、200キロのスピードで走って 死ぬことが怖くないのか と聞かれて、「全然こわくない。ぼく、平穏に暮らしていくよりも、5分でも余計にバイクにのっていたいんだ。」と答えたそうだ。 うーん、64歳の男のことばにしては、悪くない!

2007年3月14日水曜日

映画 「THE GOOD GERMAN」



アメリカ映画、「THE GOOD GERMAN」、(良きドイツ人)を観た。 クレモンオピアム、デンデイーなどで、上映中。 主演、ジョージ クルーニー(GEORGE CLOONEY)と、ケイト ブランシェット(CATE BLANCHETT)、監督STEVEN SODERBERGH.脚本でアカデミー賞にノミネイトされていた。色のない白黒映画、カラーで撮影した後 色をぬいて白黒フィルムとして完成させたそうだ。

舞台はベルリン。1945年ドイツが降伏し、日本の広島に原爆が落ちる直前、政治の裏で、アメリカとドイツが原爆の製造技術を競い合っていた。ロシアのスターリン、英国のチャーチル、アメリカのトルーマンが戦後処理について、会談をしている。 ベルリンで、ケイト ブランシェットは ナチ時代の科学者の夫を、かくまっていて、何とか国外脱出させようとしている。ベルリンの戦後処理オフィスはロシア側とアメリカ側勢力がこの科学者の隠し持っている書類を奪おうと スパイを送りあい薄氷の上を歩くような緊張のなかにある。 一方、アメリカから送られてきたばかりのジョージ、クローニーは、昔の恋人、ケイト ブランシェットを探している。一人の科学者をめぐって ロシアとアメリカの冷戦が始まる前の緊張のきわにある力関係に、ドイツ秘密警察や、政治に無頓着なジャーナリストが絡まりあいながら、科学者の妻の内に秘めた強さが描かれる。

日曜版へラルドの映画評では、こんな映画をお金払って見にいかないで、ビデオ屋に行って「カサブランカ」と、「第3の男」を観なさい、と親切にも忠告してくれている。 確かに、ラストシーンは ハンフリーボガードと、イグリットバーグマンの 「カサブランカ」そっくりで、この歴史に残る名作の最後の泣けるシーンは俳優ならば誰しもがやってみたかったんだろう と私は、好意的に解釈した。夫だけを国外脱出させて、自分は残ろうとするバーグマンに ボガードが、「君は行きたまえ。僕は大丈夫、君がいてくれたという記憶だけのために僕は 生きていける。」といって彼女に背をむける あの有名なシーンだ。

「カサブランカ」は俳優達も、音楽も、映像も、ストーリーも映画として完璧。子供のときから何十回見たか数えられないが、観るごとに映画っていいなーと思う。 オーソン ウェルズの「第3の男」も素晴らしい。チター演奏の物悲しいテーマ音楽と オーソン ウェルズの監督、カメラワークは歴史的芸術品といえる。ともに、互いに心惹かれながら 決して和解しない、情に流されず 強い意志で対立したまま別かれていく男女の姿に世界中の何億人の人々が涙を振り絞ったことだろう。 こうした映画史に残る名作は多くの人の胸の中で、大切にしまわれていて、せりふの一つ一つを覚えてしまっている人も多いのだから、それに似た作品を作ろうとすると 下手をすればパロデイーやコミカルになってしまう。白黒フイルムのなかでも、ブランシェットは十分美しいし、クロー二ーも確かにハンサムだが、やはり、あの時代のボガードと 一番輝いていた頃のバーグマンの絶頂期の美しさには勝てない。それはもう死んでしまった過去の人だからだ。過去は美化される。

この映画をクロー二ーとブランシェットのファンがみたら、がっかりするだろう。爆弾で破壊されたベルリンの街は、アメリカで作ったセットだったそうだ。なぜか、音楽もさえなく、画面がチープな気がしてならないのは、いまどきの映画監督、白黒フィルムの使い方になれてないのじゃないだろうか。 色を使わないからこそ際立つ 白の白、黒の黒、そしてさまざまな白でも黒でもない中間色を陰影で上手に映し出す技術に長けていないと 白黒映画は成功しないだろう。 「カサブランカ」の漆黒の夜、ほの暗い街灯に光にうつるバーグマンの思いつめたような表情、、、 「第3の男」で、パリの下水道で追い詰められて、殺される前のオーソンウェルズの月の光を地下から求める絶望の表情、、、みごとな映像が記憶に残っているだけに 色抜きしたカラーでとったこの映画は、映像効果が成功したとは思えない。

ヘラルド誌の映画評は 辛らつで、あまり好きでないけれど、この映画については、彼が言うように、これを観にいくより、ビデオ屋で、「カサブランカ」と、「第3の男」を観たほうが 賢いような気がする。 ついでに、ジャン ギヤバンと ミレーユ バランの、「望郷」原題「PEPERE MOCO」と、ビビアン リーと、ロバートテイラーの「哀愁」原題「THE WATERLOO BREDGE」も お勧めする。

2007年3月5日月曜日

映画 「パフューム」



映画「PERFUME」を観た。ドイツ、フランス、スペイン3カ国合作映画。 ホイッツにて 上映中。 17世紀に実際に起こった事件を題材にして作られた映画。 主演、ベンウイシャウ(BEN WHISHAW)女優に、レイチェルハートウッド(RACHEL HURD-WOOD)、助演にダウテイン ホフマン (DUSTIN HOFFMAN)。

ベン ウィシャウは、孤児院で育ったが、大人になると、皮なめし職人に売られて 働いている。特筆すべきは、彼は天才的に嗅覚が発達している。においで、隣のうちの中で何が起こっているのか かぎ分けられるほど 嗅覚に敏感だ。 ある町で、彼は美しい乙女のにおいに魅せられて、後を追い、吸いつけられるようにして その乙女のにおいをかいでいるうちに、怖がって逃げようとする その処女を殺してしまう。かぐわしい 処女のにおいを自分になすりつけて 満足するが、香りは時がたてば 失われてしまう。どのようにして、香りを保存するのか知りたくて、偶然、出会った香水調合師に拾われて、修行することになる。

トラックいっぱいのバラの花を、蒸留 抽出してやっと、小さな香水びんを満たすことができるというような 過程を経て、彼は一人前の香水調合師となる。そして、次々と処女を拉致して殺しては、体に獣の脂肪をぬりたくり、それをナイフでこそげ落とした処女の香りを 抽出して香水にする。素晴らしい香水を作るためなのだから、彼には、殺人の罪悪感はない。12人殺して、12本の香水ができあがったところで、一番初めから心惹かれ、ねらっていた検事総長の娘をとうとう手にかける。この娘の香水に 12本の香水を混ぜた、13番目の 究極の香水ができあがったところで、彼は、逮捕される。

話としては おもしろい。映画も前半は,ハラハラ ドキドキ、とてもおもしろかった。香水作りの親方にダステイン ホフマンが出てきて、彼が映画にでてくると、映画の味が 本物っぽくなる。彼が 自分で創作した香水を試すために、絹のハンカチに香水一滴たらし、香りのよしあしを彼の あの大きな鼻でかぐ しぐさがとっても良い。

でも、話の筋も映画の後半、どんどん現実離れしてきて、見ているのが ばかばかしくなった。主人公が死刑台に立たされ、何百人もの見物人が 死刑の様子を 固唾と見守っていると、この殺人鬼は 13番目の香水をひとふりしただけで、みんなヨレヨレ、ひゃらひゃらになって、服を脱ぎだし、セックスを始めるところなどは、全然納得できない。私は、話の筋はきちんと終わってもらいたい性格だから、13人の罪のない処女を殺した殺人鬼が 香水ひとふりで、罰せらずにすんでしまったことが許せない。

だいたい処女の体臭が甘い、素晴らしい においだなどと、誰が決めたのか?全く 科学的でない。女性ホルモン エストロジェンや 男性ホルモンを刺激するフェロモンは 15歳くらいの 処女からは しぼっても出ない。日本の根暗社会では、処女の女子中学生や高校生のパンテイーを売買したり、彼女達のオシッコを高く買いたがる おじさんが増えていて、その種の店が大繁盛だそうだ。それはとても、異常な文化だ。暗いよ おじさん!からだの処女など、なんの意味もない。貴重なのは、心の処女性だろう。 人は まじめに働き、まじめに食い、まじめにクソをして、真正面から女性を見つめ まじめに愛情を交換してもらいたい。

私は この映画の根暗な、不健康さが嫌いだ。この映画を観に行く人は、前半だけ見て 後半はしっかり眠って 音楽だけを楽しむという見方をお勧めする。

2007年3月4日日曜日

映画 「ラブソングができるまで」


イギリス映画「MUSIC AND LYRIC」を観た。邦題「ラブソングができるまで」。ホイッツにて、上映中の ラブコメデイー。主役は、ヒューーグラント(HUGH GRANT) 相手役は、ドレュー バリモア (DREW BARRYMORE)。 ヒューグラントが 歌がうまいのに 驚いた。ピアノを弾きながら、語るように歌うのが、とても自然で、この人、どんな映画にでていても、肩肘はったところがなくて、気取らず、自然体、だから、全然じゃまにならない、、、というか、さわやかで、好ましい。中年になっても、見かたによっては、少年のような、体をしていて、可愛い。

映画のなかで、彼は、1970年代のポップスターで、今は、世の中から、ほとんど忘れられている。でも、同じ年頃のおばさんたちからは、いまだに人気があって、遊園地とかスーパーマーケットの片隅で、ショーを続けていて、日銭を稼いでいる。本当は売れない、作曲家。 華々しくもなく、みじめでもない。本当に、中年さかりのこの人に ぴったりの役だ。 彼のショーを 観に来ている昔のテイーンだった、おばさんたちがおもしろい。彼が、腰をひねるたびに キャーキャーいうんだけど、後ろのほうで、全くげんなりした顔で、子供を遊ばせながら、ショーが終わるのを待っている、旦那さんたちの姿がおかしくて、笑い転げた。

ヒューグラントの相手役の、バリーモアは、今年で、32歳になったそうだ。彼女は映画俳優になったのは、7歳のとき。スピルバーグの名作「ET」だ。 その後、9歳でタバコ、酒を覚え、10歳でマリワナ、12歳でコカインを吸引、14歳で俳優引退宣言して 自伝「LITLLE GIRL LOST」を出版した。14歳で、自伝を書く人も珍しい。子役でデビューして、そのイメージから脱出できずに、役造りで苦労する役者の話は、よく聞くが、 この人も、大人になってから、雑誌プレイボーイでヌードになって、スピルバーグに 服を着なさい、としかられたりしながら、歌手兼俳優として、カンバックに苦労したようだ。
映画のなかで、彼女が恨みの昔の彼氏と、バーで鉢合わせになったとき、ヒューグラントに、「あんな奴 人前で恥をかかせてやる!」と、鼻息あらく、彼の前にでたくせに、急に赤ちゃんみたいな話し方しかできなくなってしまうシーンでは おなかを抱えて笑ってしまった。すごく こんな時の女の気持ちがよくわかる。

昔のポップスターで、今は名もない作曲家というヒューグラントと、さえない素人作詞家のバリーモア、彼らに、曲を依頼してくる、人気歌手のコーラというセクシーな歌い手、この珍コンビネーションがすごく面白い。 ラブコメデイーは、なにも考えずに、仲の良い人と、一緒に観にいって、ただ笑って気分よく 帰ってくるのが良い。 疲れている人は、疲労を忘れ、さした理由もなく、鬱気味だった中年の人は、気分を上向きにもち直すことができ、ちょっと虫歯の痛い人は、痛みをわすれ、つまらないことで けんかしたカップルは けんかの原因を忘れてしまって また仲良くなれる。

2007年2月20日火曜日

映画「あるスキャンダルの覚え書き」


イギリス映画「NOTES ON A SCANDAL」を観た。邦題は、「あるスキャンダルの覚え書き」。 主役、ジュデイ デンチが、アカデミー賞と、ゴールデングローブ賞、双方の主演女優賞に、ノミネイトされ、もう一方の女優、ケイト ブランシェットが、アカデミー賞と、ゴールデングローブ賞の、助演女優賞にノミネイトされている。また、脚本家 パトリック マーバも脚本でアカデミーにノミネイトされた。

ロンドンの公立高校に 新しく美術の先生として職を得た ケイト ブランシェットは 若くて、美しく、夫と二人の子供をもっている。夫とは かなり年がはなれていて、息子はダウン症だが、あたたかい家庭で愛情に満ちた生活だ。 一方、この高校では引退に近いベテラン教師の ジュデイ デンチは厳しいので生徒達からは恐れられているが、同僚からも、生徒からも、信頼も尊敬もされていない。友達もなく、結婚の経験もなく、年老いた猫だけが孤独な友だ。

新人教師のケイトブランシェットと、古参教師のジュデイ デンチとの間には、同僚としての友情が芽生える。 しかし、よりにもよって ケイトは15歳のとびぬけて美術の才能をもった生徒と、関係をもってしまう。そして、彼女はじきに、家庭と、学校の日常の煩雑さからの逃避のように、恋におちてしまう。偶然、逢引の現場を目にした、ジュデイ デンチは 自分だけが知った秘密をたてに、自分が本当は ひそかに愛していた ケイトを、自分のものにしようとする。

ジュデイ デンチがとても、怖い。結婚したことのない レズの女教師って、こわいものだが、すごい迫力。巣を張り巡らせて、美しい蝶が舞い、人生を謳歌している様子をじっと観ながら、やがて、巣に絡まって死んでいくのを待つ 蜘蛛のようだ。蝶と蜘蛛の役に、ケイトと、ジュデイはものすごく はまり役、これ以上の適役は考えられない。この二人のイギリス英語のアクセントも、少年の、下町アクセントも良い。

ケイトの夫が 事実が明らかになり、ケイトが15歳の少年を関係をもったことで、少年保護法違反で裁判に引き渡されるとき、無言で、押し寄せるマスコミの渦のなかに、ケイトを押し出すときの、無表情が、良い。こういうとき 夫は、妻の裏切りの理由に、すこしでも自分に非があるかもしれないとは、考えないものだ。ただ、妻をせめるだけ、事実をうけいるられるようになるのには、時間が必要なのだ。それを、この映画の最後のほうでは、時間がたつにつれて、夫の心が変化していくことがわかる。この映画はこういった ひとつひとつの、シーンをていねいに、作っていて、好ましい。

ジュデイがロンドンの街中を、買い物籠を持って歩いている姿はまったく、普通のおばさん。教壇にたつと、怖い教師、ケイトに食事に招待されてあわてて 靴と服を買いに走り、美容院に飛んでいく姿はとても、自然。さすが、俳優の貫禄。  この人、007「カジノロイヤル」で、女王陛下の秘密スパイ組織のボスの役で出ていた。また、「ラベンダーレデイーズ」では、年老いた姉妹の妹で、海に流れ着いた青年に恋をする役で、すばらしい演技をみせた。

ケイトブランシェットは 大好きな女優、二人の子持ちで、演出家の夫とシドニーで生活していて、ラリアの若い役者の育成に貢献している。多くの、ラリア出身の俳優がちょっと有名になると、すぐニューヨークに移っていくのと全然、役者としての姿勢がちがう。メシよりも、演じているのが好きといっている。 シドニーのベトナム社会をテーマにした「リトルフィッシュ」では、カブラマッタの雑踏のなかを下町娘になりきって歩いていると、全く違和感がなかった。 アカデミー助演賞をとった、「アビエイター」は、本当にキャサリン ヘプバーンが乗り移ったような みごとなキャサリンだった。
ケイトと、ジュデイ、このふたり、この映画で、アカデミー賞でも、ゴールデングローブでも 一緒にとってもらいたいものだ。

2007年2月16日金曜日

映画 「THE LAST KING OF SCOTLAND」


イギリス映画 「スコットランド最後の王」を観た。ホイッツで上映中。

同じ、アフリカを題材にした映画「CONSTANT GARDENER」邦題「ナイロビの蜂」と、今、上映中の、「ブラッドダイヤモンド」のふたつの映画がとてもよかったので、アフリカ共通の問題と、過去の血の歴史を持つ ウガンダの現実に肉薄する映画かと 期待していたのに、とても、がっかりした。

「ナイロビの蜂」がケニア、「ブラッドダイヤモンド」がシエラレオーネ と、場所は異なるが、アフリカの貧困をもたらす経済構造と、欧州のエゴイスチックな搾取の結果、取り残された国々の政情不安、一部の豊かな特権階級と、圧倒的多数の国民の貧困、軍の腐敗などは、共通するアフリカの現実だ。

1970年代、イギリスから独立したウガンダでは、イギリスで教育を受けた軍人、イデイ アミンがクーデターを起こし強力な指導力のもとに、独自の外交 政治 経済お牽引した。しかし その残酷非道な独裁力は のち、国連から批判され、失脚した。当時、アミン大統領の専制、独裁は たびたび、ニュースで報道され、政敵を殺して、その人肉を食ってみせるような姿が、世界を震かんさせた。独裁政治による犠牲者は、30万人にのぼる。

これだけの男を映画にしようというのだから、映画監督も 相当覚悟が必要だった。「TOUCHING THE VOID ONE DAY IN SEPTEMBER」でオスカーをとった ケビン マクドナルドが 監督。 そのアミン大統領役の、フォーレスト ウィテカーは、今年のゴールデングローブ主演男優賞をとった。映画の台本は、アミン大統領に気に入られて、大統領付の医師になったニコラス ガーリガンによる手記をもとにしている。

大学の医学部を卒業ばかりのニコラスは、卒業記念に、どこか行ったことのないところに、行って経験を積みたいと考え、ウガンダに着任した。受け入れ先の 海外援助資金で細々と、やっている病院には アメリカ人医師が一人いるだけで、貧しい設備に、予算がなく、満足な治療もできない。理想も、希望も萎えかけたころ、偶然、アミン大統領に出会い、その場で気に入られて、大統領付のおかかえドクターとして、立派な家、メルセデス、イギリスにいたころと変わらない食事などを、提供される。

しかし、大統領の第三夫人に恋をして、関係をもち、最後には、発覚、婦人は手足をもぎ取られ、凄惨なリンチの末 殺されて、ドクターも、リンチをうけながら、奇跡のような形でウガンダから脱出する。

アミン大統領はいったんクーデターから政権を奪取すると、自分の協力者も含めて、30万人もの罪もない人々を 殺しまくった。しかし、この事実に対して、映画では、では何故、ウガンダがこのような怪物モンスターの指導力を必要としたのか という歴史的観点で、見る視点が いっさい ない。
この映画は、単に大統領の妻を寝取った男がひどい目にあった、といっているだけで、何の、メッセージもない。しかし、考えてもみてくれ。大統領が相手でなくたって、モスリム社会で妻を寝取った男は、当然 罪を犯したものとして制裁されるだろう。モスリム社会でなくてもだ。そのために、リンチをうけたって、それが何なのか?アミン大統領による政治が、アフリカにとって、なんだったのか、きちんと検証するべきだ。

この映画は、事実を矮小化している。そして、一番いけないことは、歴史を矮小化していることだ。 だから、この映画、わたしは、誰にも、すすめられない。椎名誠のエッセイ本で、「風に転がるような映画もあった」というのがあったが、そんな感じだ。

2007年2月13日火曜日

映画 「ドリームガール」


ビヨンセの 美しい顔を見て歌うのを聴きたくて、映画「ドリーム ガールズ」を見にいってきた。各地のホイッツで上映中。

ビヨンセは賞を取らなかったが、3人コーラスのうちの一人、ジェニファー ハドソンがゴールデングローブで助演女優賞を獲った。彼女、太り気味で、顔もちょっとだが、ソウルを歌わせると、すごい迫力で、のびやかな声がすばらしい。テレビ番組、アメリカンアイドルで、見出された人らしい。

こういうパワフルで、楽譜にすると転調がたくさんあって、フラットが4つくらい ついてる曲が、急にシャープ6つに変わったりして、歌うのが難しい曲を アフリカンアメリカンがいとも簡単に歌いこなしてしまうのが、もう、どうしてなのか、全然わからない。音楽大学で、4年とか6年とか、勉強しても、アフリカン スピリッツや、ソウルは歌えまい。アフリカンアメリカンは 生まれついて絶対音や、リズムの基本を身につけて生まれて来るのだろうか?

この映画は1960年から70年にかけて、活躍した3人の女性ボーカルグループのお話。 ダイアナ ロスが、シュープリームスというボーカルグループで歌っていたときの実話がベイスになっている。ダイアナ ロスは今は ドラッグでみじめだが、舞台に立っていたころは 美しくて、歌って踊れる、ピカいちのスターだった。

映画で、3人のドリームガールズは、はじめは、マネージャー(ジエイミーフォックス)に 認められて、スーパースター(エデイーマーフィー)のバックコーラスとして歌いだす。スターのうしろで、ババババーとか、ドウドウドウとかいうだけでなく、自分達の歌でステージを やりとげる自信たっぷりのボーカル(ジェニファーハドソン)は、いつかバックコーラスから抜け出て、自分が舞台の中心になり夢をみている。

3人のコーラスを従えて、R&Bを舞台狭しと踊りながら 歌うスーパースター役のエデイーマフィーがすごい。こんなことまでできるんだ とびっくり。彼は、1分間に一度は 聴衆を笑わせる、トークで、名をあげ、俳優としては刑事ものや、コメデイーで人を笑わせて、家族映画 ドリトル先生シリーズで子供からも人気をとりつけ、マルチタレントとして20年も活躍している。年をとったとはいえ、パワフルなステージは立派。まあ今になって、ローリングストーンズ、や、キッスや、ピンクフロイドが返り咲いて、歌っているのだから、エデイーマフィーが歌っても不思議ないのかもしれないけど。

ビヨンセは本当に美しい。顔もスタイルも歌も文句のつけようがない。プロデューサーの親の七光りでスターとして育った どうしようもない わがままおじょうさんという世間での評判だが本当に美しい。彼女が歌っているときの姿は光り輝いている。

こういうショービジネスを営々と継続してきたアメリカは つくずく娯楽のためになら とんでもない金額のお金をかけて、世界中の人々を喜ばせてきた どでかい国、とんでもない国だと実感する。こうした娯楽は、アメリカの金儲けのためなら なんでもする、マテリアリズム、物質主義、金権主義の金字塔のようなものだ。使っては、捨てられる。 ひと時の夢なのだ。 イラクで戦死したアメリカ人の兵が3100人を超えた今、アメリカはどこへ、行こうとしているのか。イランへの、攻撃を準備しているのか。喜びも、楽しみも大きいが、悲しみも、罪も深い国だ。

2007年1月13日土曜日

映画 「ブラッドダイヤモンド」



ああ! きみは、世界一平均寿命が長い国に生まれたが、シエラレオーネという国では 国民の平均寿命は34歳と聞いて、涙が浮かばないか?

レオナルド デカプリオ 主演の映画「ブラッドダイヤモンド」を観た。世界一、平均寿命が短い国、シエラレオーネが舞台のあたかもドキュメンタリーのような映画。

一年ほど前「CONSTANT GARDENER」という やはりアフリカで、アメリカを中心にした多国籍企業がもつ薬品会社が、アフリカで、難民を人体実験に使って、薬を開発しては、国連からの援助名目で、高く売りつけて、暴利をむさぼっているという事実を映画にしていた。 観ていて、アレ?こんなに 本当のことばかりを描いて良いの?CIAは介入しないのか?とびっくりした。 今回のブラッドダイヤモンドも、まことに本当の姿を描いている。それだけに、臨床感もあり、社会的に訴える力も強い。

映画を契機に アフリカの貧困は ダイヤ、石油、資源を吸い上げるアメリカを中心とした多国籍企業と、中間に介在する不正 腐敗した軍にあるということに もっと沢山の人々の目が注がれることを期待する。 マスコミのニュースでは内戦といい、アフリカ内部の紛争のように報じられているが、実際には石油、ダイヤ、鉱物の先進国主導の取り合い以外に戦争の理由はない。映画のなかで、デカプリオがいみじくも言う、「とっくの昔に神に見捨てられた土地」それがアフリカだ。

映画のなかで、アメリカ人 ジェニファー コネリーの報道陣としての良心は、ベトナムから帰ってきて、良心の呵責に苦しみ、新たな人生を生きるのに20年もかかった、父親にある。 一方、ダイヤモンドの密輸に手を汚す デカプリオは、アンゴラ紛争で、9歳のときに目の前で、両親を殺されている。

シエラレオーネの平和だった漁村で、漁師だったサイモンは、ある日、反政府軍に拉致されて、ダイヤモンド鉱山の採鉱夫にされてしまう。 そして偶然 希少価値の、数百カラットにもなるピンクダイヤモンドをみつける。 家族の命以外に何の価値も認めない、一転の曇りもない、お父さんとしてのソロモンの愛情の力が この映画のキーになる。 良心のもとであるコネリーのお父さん、父親へお喪失感に苦しむデカプリオ、家族のために何でもできる父性愛の塊のようなサイモン。3人の人間としての、真の価値が試される。 

腐敗した政府軍、さらに腐敗した反政府軍の子供狩り、残酷な少年兵教育、まわりをうろつく 沢山の先進国からのスパイ、ダイヤ密売人、国連軍、外国人報道団。 これらの物語は、1999年のシエラレオーネの話だけではない。今のスーダンであり、ソマリアだ。

レオナルド デカプリオの 演技を超えた演技がとても良い。アメリカンアクセントを捨てて、南アフリカンアクセント(ダッチイングリッシュ)で 役に徹底している。 この人、「タイタニック」、「キャッチミー イフ ユ ーキャン」、「アビエーター」最近では「デパーテッド」と、良い映画を主演して 大金をハリウッドにもたらしているのに、賞に不運で、無縁、何度もアカデミー主演男優賞を逃している。グラミー賞にノミネイトされたらしいが、今度こそ、なにか、この映画で大きな賞を取ってもらいたい。

2007年1月10日水曜日

映画 「フォーミニュッツ」


ドイツ映画「FOUR MINUTSU」(4分間)を観た。デンデイー、クレモンオピアムで、上映中。監督、クリス クラウス(CHRIS KRAUS)。

ピアノ教師と女囚、二人の女のお話。 80歳のピアノ教師に、モニカ ブレブリュー(MONICA BLEIBREU)、20歳の受刑中の女囚にハナ ヘルツプルグ(HANNAH HERZSPRUG)。

すさまじいばかりの個と個のぶつかり合い、自己主張と自己主張の衝突、強制と反抗、薄氷の上を歩くような仮の和解と、その後での、血みどろのぶつかり合い。観ていて ハラハラ、時としていたたまれない思いまでしながら映画を観終わった。

80歳のピアノ教師 トルーデイはクラシック音楽だけを愛して、長いこと刑務所付属の教会でパイプオルガンを弾き、受刑者にピアノを教えてきた。クラシック音楽以外の音楽をすべて、二グロ音楽といって、断固と拒否する差別主義者、レイシストでもある。若かったころ 一人だけ愛した人は、ナチスヒットラー政権下にあって、コミュニスト女性闘志だった。軍政下 密告を強制されて、最愛の女性を失なうという 罪深く、苦い過去から逃げられず、結婚もせずに、一人孤独に生きてきた。

20歳の女 ジェニーは幼いころから音楽専門家の父親に、抜群のピアノの才能を見出され、めきめき才能を伸ばしてきたが、家に帰れば 父親から性関係を求められる ゆがんだ家庭に育ってきた。母親はそれを知って、自殺。思春期に知り合ったボーイフレンドの赤ちゃんを妊娠するが捨てられ、その父親を殺した罪で、逮捕、受刑することになる。タフな女囚刑務所で生き残る方法は、無感情、無感覚になり、暴力で、他に負けない力を養うことでしか生存できなかった。他の女囚からのいじめ、そねみ、によるシゴキで ボロボロになりながら 手負いの虎のごとく 反逆していくジェニーの姿を見続けることがつらい。

自分が 一番の音楽理解者だと思い込んでいる 看守は、ピアノ教師の家を訪ねて 音楽を聴いたり、クラシックの話を聞かせてもらうことが唯一の楽しみだった。ジェニーがピアノレッスンを始めて教師の関心が移ったことが妬ましくて、許せない。ピアノ教師にこびへつらいながら、その後で、ジェニーを執拗に痛みつけ サデイステイックにいじめつける。

心を閉ざして生きるしかない者にとって、ピアノを弾くことが どんなに大きな意味をもっているか はかりようがない。音楽は、語りようのない体験をし、語るべき方法を奪われた者のためのものだ。ジェニーが口を閉ざし ベートーベンや、ショパンを弾くことによって、語られ表現される ジェニーの心の中は 自由への希求以外の何ものでもない。彼女の生命の叫びだ。

そのようなジェニーの音楽を、教師トルーデイは 生徒は従順でなければならない、態度が悪い、二グロのリズムは認めない、私に従うつもりならば、この手紙を食べてみろ、とまで、要求する。 抵抗、そして従順、反逆そして和解 を繰り返すなかで、教師トルードは 彼女自身の生き方 狭い刑務所での教師という権威に守られてきた彼女の偏狭な意識そのものが ジェニーによって 問いただされていく。コンペテイションにどうしても、ジェニーを出したいトルーデイに向かって、「ならば、これを食べてみろ」と、破った楽譜を差し出すジェニーを前に トルードの教えるものとしての本当の生きかたが問われる。

この映画は、人は生涯、学ばなければならない。何十年生きてきたとしても、どんなに経験が豊富でも、どんな権威を持ち、業績をもっていても、人と人は 等しく平等で互いに学びあうことができる、という、学問の真実を示している。

最後、ジェニーの 警官に包囲され銃を突きつけられながら、演奏する4分間のショパンの、パフォーマンスが圧巻。これを見せるためだけのために 監督はこの映画を作りたかったんだと思う。だから、この4分間の演奏を見るだけのために、この映画を観る価値がある。

2007年1月3日水曜日

映画 「バベル」


映画「バベル」を観た。
モロッコと、東京と、メキシコの3箇所で 同時に進行する それぞれ3つの物語が、実は 日本人旅行者が残してきた1丁の猟銃によってひきおこされる事件として全部が 関連してくる。見終わった後、思わず「だからいわんこっちゃない、成金日本人 世界中でトラブルの種ばらまいてくるんだから!」と言ってしまった。

ひとつの銃がモロッコの貧しい砂漠地帯で、わずかな草を求めて羊を移動させて生きる養羊家にとって 狼から羊を守るために必要な生活手段にもなれば、イスラムパワーのテロ嫌疑の元にもなる。日本人同様 金と暇をもち余し あれきたりのヨーロッパ旅行に飽きたアメリカ人は異国情緒を求めて古代遺跡のある砂漠にも、人里はなれた高地でもどこにでも行きたがる。そこが政治的に危険地域でも宗教的紛争地でもおかまいなしだ。そんな 電話もネットも通じない僻地を旅行する若い夫婦の心に安定はない。二人の子供との絵にかいたような幸せは、外観だけで、夫婦の絆は実にもろい。

東京で、昔 狩猟を楽しんだ後 猟銃をガイドにあげてきた男の妻は ろうあの娘を遺して自殺したばかりだ。娘は、大人になりかけているが、ろうあであるハンデイー、母に捨てられた気持ち、母を死なせた父への怒り、誰も、自分をわかって抱きしめてくれないという孤立感からぬけられない。

モロッコで銃による事故にあったアメリカ人夫婦の子供たちを世話しているメキシコ人家政婦は、息子の結婚式のために メキシコに帰らなければならない。夫婦の帰国が遅れて、ほかにだれも子供達を世話してくれる人がいないので、子供達を連れて、メキシコに帰る。行きは よいが 帰りが怖い。違法移民のメキシコ人が、アメリカ人の子供たちを連れて、アメリカに再入国する国境は 死を要求するほどに高い。貧しいメキシコ人移民の労働力なくして世界一豊かなアメリカ人の生活はありえないのに、何十年もアメリカで違法移民として働き、メキシコに残してきた家族の生活をささえてきた家政婦を アメリカ国境警備隊は法の名のもとに意図も簡単に見殺しにする。

バビロンの塔を 人は神のいる天にまで届かせようと,建てた。人間とは神を恐れぬ 愚かな生き物だ。神のいない人間社会では、誰一人として、幸せではない。いつも、死ととなりあわせだ。

現代社会を厳しく 切り取って見せた映画だ。良い映画だ。

ブラッド ピットも、ラリア人のケイト ブランシェットも 私の好きな俳優だ。三度のメシよりも演じるのが好き というブランシェットは、どんな端役でも 力を抜かずにきちんと演技していて好ましい。おととしのアカデミーで、主演女優賞を「アビエーター」で取ったのは 嬉しかった。 この映画の中で、キャサリン ヘップバーンの役をやったんだけど、身のこなしから、話し方、顔の表情まで オオー!!と思うほど 本物のヘップバーンだった。本当の顔は全然違うのに、映画の中ではで、へップバーンとしか見えない。これはすごかった。演技とはこういうことができるんだ、と感動した。ヒース レジャーとの主演で、ボブ デイランの一生を映画化する作品の撮影に入っているといわれている。楽しみだ。

2006年12月22日金曜日

映画 「テン カヌー」その2

「ものを創る人」の手を観ているのが好きだ。熟練した職人の手作業は芸術家を思わせる。糸を紡いで、機を織る人、壊れたものを修理する人、仕事をする人の手は一様に忙しく動き回り、美しい。

2006年オーストラリア映画祭で、アボリジニの作品「テン カヌー」が最優秀作品賞を受賞したが、この映画のなかで、アボリジニーが 道具をつくる作業が沢山出てくる。数人の男たちが樹の皮をはいでカヌーを作る。森に入った女たちが、コシの強い葉を編んで、入れ物を作り、採集した果物やイモをいれて運んだり、貯蔵したりする。若者たちが樹の枝で弓矢を作り、狩りをする。家族総出で樹の上に安全な家を作る。
そういった彼らの継承文化を見ていると、アボリジニーって 最古の人類として5万年前からやってきたことと、この映画で見せている200年前に彼らがやっていたことと、ほとんど変わっていないような気がする。
どの民族も、進化して道具を作り、村落共同体を形成して文化を形造ってきた。

「もの作る人々」と言えば、イランのマジット マジ監督による「赤い金魚と運動靴」原題「THE CHILDREN OF HEAVEN」を思い出す。これは10年程前に国際的に高い評価をされて日本でも話題になった名作だが、この映画の始まりが感動的だ。靴修理のおじいさんがお客である少年を前に 布製の古くてボロボロの赤い運動靴を修繕している。すりきれて穴の開いた小さな靴を丁寧にていねいに縫い直し 穴をふさぎ、しまいには 見事な手作りの運動靴が出来上がる。マジックを観ているようだ。この小さな 赤い運動靴は少年の妹のものだ。 物語はそこから始まる。そんなに手をかけて履けるようになった靴を 少年が大切に家に持ち帰る途中で、心ない人に盗まれてしまう。そのために妹は学校に行けなくなってしまうのだ。

子供の目から見た大人の社会の不理屈さ、不正、貧困、差別、、、今よりももっと言論の自由のなかったイランで正面から政府を批判できなかった 前衛映画監督が渾身の怒りをこめて創った作品だ。でも、わたしの目を奪ったのは 物言わぬ、この靴修理のおじいさんの あかぎれだらけの真っ黒で、大きな厚い手だった。この手をカメラで、じっと追うことで、この監督はものすごくたくさんのメッセージを発している。

また、話が飛ぶが、中国人映画監督、チャン イーモーの、「THE ROAD HOME」という映画があるった。 チャン ツイーという 今や「さゆり」「ヒーロー」などで国際女優になった女優の最初の映画。テイーンだったチャンツイーが 夏の朝に咲き始めた朝顔のよう、においたつように 美しい。 ここで、チャンツイーが片思いする学校の先生が、使ってくれたお茶碗が割れてしまって、泣いているのをみて、可哀想に思ったおじいさんが、粉々になったお茶碗を かけらを集めて膠でつけて、大変な時間をかけながら、張り合わせて、ちゃんと使えるように修理してくれるのだ。カメラがずっと 黙って、チャンツイーの目と一緒にそれを追う。仕上がって、チャンツイーのはじけるような 喜ぶ姿。この手作業が素晴らしい。もう本当に手品のよう。ひび割れた真っ黒な無骨なおじいさんの手が神の手に見えてくる。

こうして、人間は道具を作って、文化を継承して、社会を進化させてきたんだ、、、と、感動。 じーっと、自分の手をみる。おおっとーマニキュアが剥げかかってる。

2006年12月19日火曜日

映画 「テン カヌー」

映画「TEN CANOES」は、今年6月に観たが、この12月に、2006年 オーストラリア映画祭で最優秀賞を獲得、表彰式がおこなわれた。 初めての、アボリジニーの言葉による、アボリジニーの出演した映画だそうだ。

アボリジニーの年寄りによるナレーションに従って、物語が展開する。年寄りが若い成人したばかりの青年達に、カヌーの作り方や、家の作り方を練習させて、生活に必要な技術を伝えていく。話の中で、複数の妻を持つ実力者の、一人の妻が失踪し、人々は他の部族に誘拐されたと思い込み、相手方を殺してしまうが、これが誤解だったとわかり、実力者は、殺された仲間に復讐されて、殺される。年寄りは淡々と かつて あった事件の顛末を語り、正義のあり方を青年達に教えていく。というのがこの映画のストーリー。

監督は、PETER GJIGRR と ROLF DE HEER 。ヨーロッパ人が オーストラリアに定住する前の 先住民族の人々の生活のありようを描いた、という意味で、この作品には政治的なメッセージがこめられている。オーストラリア大陸が白人に占領される前の豊かな人々の暮らしぶりを映画にすることで、現在の白人優先、白豪主義のなかで、先住民族の文化が消滅していったことに、痛烈な批判をしている。

この監督は、自腹で映画を製作し、この映画を持って学校を回り、子供たちにアボリジニー文化を紹介して理解を深めようという地味な活動をコツコツとしている。良心のかたまりのような人だ。 映画撮影には人食いワニがウヨウヨしている河でおこなわれ、身の危険と隣りあわせだったそうだ。制作チームは4年前に「THE TRACKER」という映画を作ったのと同じチーム。このときの主人公の息子が今回の「テン カヌー」の主役で出演している。

「THE TRACKER 」は、白人警官によるアボリジニー虐殺がテーマで、やはりきわめて政治的メッセージがこめられた映画だ。サデイストとでもいうべき警官がアボリジニー集落を繰り返し攻撃、人々を虐殺するのを、警官のガイドのアボリジニー青年が神の名において警官を処刑するというストーリー。

ラリア映画で低予算ローカル映画の典型。でも映画としての完成度が低い割には、世界的に高く評価された。このガイド役のアボリジニー俳優、デビット ガルピルは、映画では 裸で素足、カーリーヘアに漆黒の肌で、典型的なアボリジニーの姿で出演したが、カンヌ映画祭に招待されて、タキシードで正装して 人々をアッといわせた。 とっても、素敵だった。現実には、彼はすごくもてて、女性問題とアルコール問題をずっとかかえていたらしい。

「テン カヌー」映画そのものは 詩情豊かで、すこし冗漫。しかし、こういう映画が手作りで、限られた予算の中で四苦八苦しながら、危険をおかしながら撮影されて、でもそれが きちんと評価される ということに意味があるのだと思う。世界中の先住民族が滅びつつある歴史の中で、政治的なメッセージが、きちんと伝えられ、受け止められいっている、ということが大切なのだと思う。

2006年12月13日水曜日

映画 「007 カジノロイヤル」


映画 ジェイムスボンドシリーズ新作「カジノロイヤル」を観た。 新しいボンド、ダニエル クレイグは、実によく走る。オリンピックの100メートルランナー、ベン ジョンソンのような美しいフォームで、命をかけて走ってばかりいた。それに、心から女を愛してしまうと、相手が裏切っていたと わかっても、まだ自分の心に忠実に相手を愛しぬく。そこが 今までのジェームスボンドと違う。2006年、やっと、鉄の男も、時代の流れに乗ってソフトに、本当の男の優しさを身につけてきたと言うべきか。

娯楽映画にあまり興味がなく、映画を 文学、物語、音楽、写真、舞台、舞台美術すべてを統合した、総合芸術ととらえ、根底は政治表明と考えてきた私には、映画を娯楽とは考えにくい。

しかし、イヤン フレミングのジェ-ムスボンドシリーズを読むのは。すごくおもしろい。彼の作品は推理小説、探偵小説、ハードボイルド すべてに大きな影響を与えてきた。小説の中の、ジェームス ボンドは、高学歴、上層階級出身で教養の高い、知識豊富で、マナーの良い、おまけに見かけもスタイルも良い、ユーモアのセンス抜群で、申し分のない男だ。心から英国女王に忠節を誓っているモナキストだ。 そんな いるはずのない良い男を映画にすると、ただの男で、がっかりするのは当たり前だが、人々をがっかりさせながらも、派手な格闘や、カーチェイスや、ガンさばき、ギャンブル、などで、大々的に映画館に観客を呼び込んできた。

チャッツウッド ホイッツ映画館に平日の朝 映画を見に行くと、広い 館内に私一人しか観客がいないときが よくある。ホラー映画をこれで観ると とても怖い。でも、ボンドの映画を見に行ったときは、平日朝なのに、他に30人くらい人が座っていたので驚いて、改めてボンドの人気を知らされた。

相手役のフランス人女優、エバ グリーンはとても美しい。その女に心底、惚れてしまい、スパイ稼業をやめて辞表をイギリス女王に送って、平民の暮らしをする決意をした、今回のボンドは、とてもよく走る。よく走り、良く跳び、よく銃を撃つ。ボンドのまわりを二重三重に取り巻いてモンテカルロのカジノで稼いだ金を奪い合うボンド以外の男達は、みな金のために生きている。ボンドは その金がイギリス王室の金であるから、いくら人を殺しても、何台 車を壊しても、いくつビルデイングを崩壊させてもいくら女を捨てても 良い事になっている。そのライセンスが007だ。 このシリーズはいつも ボンドがにっこり笑って、終わってくれるから、安心してみていられる。

しかし、こういう単純な映画が 単純な人たちに ただボンドが良いヤツで、東欧系、ロシア系スパイ、中東系ギャングは、皆、悪いヤツという図式で、インプットされてしまうと現実社会で、アルカイダとかチェチェンレベルと聞くと 偏見とか嫌悪感をもってしまって ちょっとまずいのではないだろうか。 そう思いながら、映画館からの帰り道、どうしてか、、、どうしても車のスピードを落とせず、カーブは、ギャギャギャーっといわせながら、ブワーン と爆音たてて アクセルめいっぱい踏んで、走って帰ってきてしまった。私も単細胞なので、ボンドが乗り移ってしまったのね。 

2006年12月3日日曜日

バレエ 「REVOLUTION」



オーストラリアバレエを観に、オペラハウスに行ってきた。 演奏は、オーストラリア オペラ バレエ シンフォニー。題は、「レボルーション」、3部に分かれて、それぞれにインターミッションが入る。

第一部は、「LES SYLPHIDES」妖精の踊り。 クラシックのなかの一番のクラシック。本当のバレエの真髄というべきか。18人の妖精と、王子様。ただただ 夢のように美しい。 18人の妖精が18人とも それぞれの指先からつま先 あごの線まで、訓練された体の動き、ゆき届いた神経、一つとして、無駄の無い洗練された踊り。フレデリック ショパンの曲に乗って トウシューズのトットットッ という乾いた音が聞こえる。文字どうり妖精、人と思えない。トウで立ち、トウで、飛ぶ、張り出した弓なりになった足の甲をささえる足指の痛み。変形した爪、血のにじむ爪のきわ、、、バレエは人が人をこえようとする痛みのうつくしさ。何百年も バレリーナは こうして人を超えようとしてきたのだ。

第2部は、「LE SPECTRE DE LA ROSE」 初めての舞踏会から帰ってきた少女が 持ち帰ったバラの花が、少女が眠っている間に、バラの精になって、踊りだす。素晴らしい跳躍力の男性のダンサーと、可愛い少女のデュオ。

第3部は、「シェーラザード」 アラビアンナイトのお話。19世紀のロシアの作曲家、ニコライ、コルサコフの交響曲シェーラザードの曲にあわせて、踊る。 王様 シャイヤーが狩りに行っている間に 妻のゾルベイデイは、ハーレムの 黄金に輝く、男奴隷の美しさに負けて、愛欲にはしる。他の奴隷達も はめをはずして、愛欲に呆けている。と、王様が突然、帰ってきて、怒り狂い、一人残らず奴隷を切って殺してすてる。それを見た妻は短刀で、自害するというストーリー。衣装も 舞台も美しい。アクロバテイックな 素足の踊り。 でも私はクラシックバレエで、トウを使わない踊りは好きではない。

アラビアンナイト 千夜一夜物語を知っているだろうか? 船乗りシンドバットの冒険や、アリババと46人の盗賊 などのお話はみんな お姫様のシェーラザードから王様に語りきかされたお話だ。 浮気な妻に裏切られ、人を信じられなくなった王様は毎晩、床を共にした妻を 朝になったら切り殺し、次の妻を迎える。 賢いシェーラザードは これ以上若い女性の命を無駄にできないと考えて、自分から妻を志願して、王様と床を共にして、ゾクゾクするような おもしろいお話を 毎晩話して聞かせた。そのお話が余りにおもしろいので、王様はシェ-ラザードに夢中になって、殺すのを忘れ、ついに人を殺してきた自分が悪かったと悟り、シェーラザードを正式の妻として新たにむかえて、自分は立派な王様になる。めでたしめでたし。  これがアラビアンナイトのシェラーザードのお話だ。

このモチーフに素晴らしい曲をつけたコルサコフは、 バイオリンの美しいメロデイーは、シェラザードが 王様にお話を 語り聞かせているところ。 その音をかぶせるようにトランペット、バスーンが わめくところは、王様がわがままを言っているところ。という風に曲の中で、二人に会話をさせている。 そういうことを知って、このバレー音楽を聴くとクラシックも、一段と楽しく味わうことができる。クラシックミュージックと、バレエの組み合わせはいつも 私を魅了させる。

2006年11月30日木曜日

映画「デイーセント」


映画「DESCENT」を観た。 ホイッツ各映画館で、上映中の、イギリス映画。 DESCENT は降りるとか下降するという意味。逆はASCENT。 「エイリアン」以来の 恐怖映画の再来と言われている。分類では、スリラーホラー映画ということになっている。

6人の仲良し女性グループがアメリカのなんとかいう山脈にある洞窟に探検に入る。
ちょうど1年前にこの冒険仲間は カヌーで河くだりを楽しんでいた。その帰途に、そのうちの一人、サラは、交通事故に会い、夫と娘を同時に亡くした。彼女は 一年たっても そのショックから なかなか立ち直れない。こんなサラを元気つけるためにも、仲間同士6人で、冒険旅行を誘い合ったわけだ。 女の子達はみな、ロッククライミングの技術を見につけていて、洞窟の中にどんどん降りていくテンポも早くて、小気味良い。チームワークも良く、そろって洞窟の奥深く 入っていく。

そのうちに、洞窟のずっと奥深くから、サラは亡くした子供が 自分を呼ぶ声を聞く。声に従って 奥へ奥へと入って行ったサラは、地図にない道を見つけて、皆を呼ぶ。それを、図に乗っておもしろがって行ってみようとする 一人のお調子者が先へ先へといってしまい、穴に落ちて膝のところで、上腿骨が飛び出す様なひどい複雑骨折をするのだけど、5人でそれを元に戻してしまうような荒治療で 添え木で歩けるようにしてしまうところがすごい。

でもそのころには、来た道が崩れて、元にもどれなくなっていることに、皆 気がついてパニック状態になる。と同時に どこからともなく現れたエイリアンに一人一人と襲われていく。エイリアンがどんな姿をしているのか 暗い洞窟のなかで よく見えないのに、ギャーという音がすると、一人また一人と 仲間が血だらけになって、食べられていく。音響効果と、洞窟の中にとじこめらて逃げ場がない映像効果で、ものすごい恐怖感!!

次々に仲間が襲われて、生き残ったのは、瀕死のサラの親友を含めて3人だけになってしまった。そんななかで、サラは 死ぬ寸前の親友から、残った仲間を信頼してはいけない、彼女はサラの夫と愛し合っていた、と知らされる。仲良しだった仲間が、次々と、ひどい殺され方をしていって、たった2人、生き残ったのに、一人がサラを裏切って夫の愛人だったと、こんな生死のギリギリのところで、知ることになるなんて、、、DESCENT していった6人がASCENT を夢みながら、夢尽きて、死んでゆく残酷さ。この映画はホラーといわれながら、優れて、人間ドラマになっている。そこが、ばかみたいな思想のないハリウッド映画と違うイギリス映画のゆえんだろう。

むかし、冒険家といわれる、オウダンさんという若者がよく家にきて、家族と食事しながらいろいろな話をしてくれた。日大の探検部を主催していた。彼は常にサバイバルテクニックを磨いていて、自衛隊の潜水班で、活躍したあと、海外建設プロジェクトに関わって東南アジア国々に飛んでいった。彼は、山に篭り、洞窟に一人、潜入して、光のはいらない奥深くの滝の底を潜っていくような、ゾクゾクするような 冒険話をよく聞かせてくれた。洞窟奥深くでは、視力が役立たないので、生物はみな 目が退化して、目のない魚や 目のない蛇や、えたいのしれない生き物が沢山いるんだよ。といっていた。
それで、この映画の予告編を観たとき、わー!! これは、みなくちゃあと思っていた。私は泳ぎも、潜るのも、岩のぼりもできないけれど、その臨場感だけでも、映画を通して、味わってみたかったからだ。

それで、映画を観て感じたことは、、、怖いのは、化け物ではなくて、人間自身だということだ。スリラーとかホラーとか、エイリアンとか、お化けとかいうけれど、人間はそれ以上に充分怖い存在だ。人は平気で信頼している人を裏切り、それを隠し続けて、平然としていることもできる 化け物以上の怖くて悲しい存在だ。

それと、サラを地中の奥へ奥へと呼び込んでいった死んだはずの子供の声、あれはなんだったんだろう。子供を亡くした母親の潜在的な自殺願望ではなかったのか?なぜなら、自分の子供を亡くす事以上の 耐え難い悲しみは 他にはないだろうから。 

いろいろな意味で、この映画は、怖いけど、ホラーではなく、正しくヒューマン映画だった。

2006年11月9日木曜日

映画「父親達の掲げた星条旗」


昨年、「ミリオンダラーベイビー」でアカデミー映画監督賞を受賞した、クリント イーストウッド監督の映画、「FLAGS OF OUR FATHERS」を観た。各地 ホイッツで上映中。

この映画は、1945年日米太平洋戦争の、硫黄島が舞台。
血を血で洗うような激戦の後に、若い兵士達が、硫黄島中央の茶臼岳の頂上にアメリカ国旗を立てたのは、ヒロイズムとちょっとした 茶目っ気の兵士達がやったことだった。それを見た軍の上層部が これはアメリカの良いプロパガンダに使えると考えて、カメラマンを連れて、別の兵士達に、最初に立てた旗より大きな旗を立てさせて、写真を撮る。

このときに撮影された、、6人の兵が山の頂上に国旗を掲げる写真は後にピュリツアー賞を受賞し、アメリカ中の 愛国心を燃え立たせ、破産しかけた軍に資金を提供することになった。 その後も厳しい戦闘が続き、このときの仲間は次々と死んでいく。 国の軍資金が欠乏する局面になって、生き残りの3人は、属していた隊からはずされ、故国に戦争のヒーローとして、帰還して、全国を講演してまわり、軍資金を集めることに利用される。 しかし、この3人は、仲間の屍を踏み越えて山頂に到達し、最初に旗を立てた仲間は その後の戦闘で死んでしまっていることや、自分達が写真撮影用の役者でしかなかった にも関わらず、全国どこに行っても、ヒーローとして熱烈に受け入れられるといった、ギャップに苦しむことになる。

とくに3人のうち、ひとりは、先住民族インデアン出身で、人々からヒーローとして、歓迎されながらも、先住民族の誇りと、アメリカ軍人としての相反する誇り、国を代表して英雄になった喜びと、本当は旗を立てて、死んでいった人々が英雄で、自分ではないという罪悪感から、逃れることができずに、酒びたりになってしまう。
戦争が終わって、彼は農場で、雇われて働らき始めるが、ある日 突然 銃の暴発で死ぬ。事故だったのか自殺だったのか、誰にもわからない。

もう一人のヒーローは、英雄視されていた間は、調子に乗って有頂天になっていたが、人々の熱が冷めて、忘れられてしまうと、ただの、時代の波に乗り遅れた 無学無能の男にすぎなかったことを知らされる。昔、出会った人をつてに、職を探すが、なんの特技も才能もないまま、掃除夫として生きていく。

3人のうち、最後のヒーローは、誰にも戦争のことは、いっさい 語らず、家庭をもち、平凡な人生を終えようとする。しかし、心臓発作をおこし、死ぬ直前に息子に この戦争で、自分が体験したことを、語って聞かせる。  彼は言う、「戦争に英雄なんて、いやしないんだ。それを必要とする人が勝手に作り出しているだけなんだよ。」と。
戦争に良い戦争の悪い戦争もない。正義の戦争も誤った戦争もない。ただ、大量兵器の消耗と人命損失があるだけだ。

ビュンビュン弾丸が飛び交い、大砲が鳴り、激しい戦闘で、手足や首が ちぎれて、飛んできたり、腸がはみ出したり、残酷なシーンが続くが、どこかで、こんなシーンみたような、、、そう、「SAVING PRIVATE RYAN」にとてもよく似ている。 あの ノルマンジー上陸シーンを見たとき、戦争のリアリズムを極限まで、追求している と思った。以来、この映画を超える戦争映画はなかった。クリント イーストウッドも同じこと考えたんだ。

イーストウッドは良い俳優だったが監督としても良い。私が子供の時は、毎週日曜日テレビの「ローハイドー」で、カウボーイ姿のイーストウッドを見て育った。青春時代は、ダーテイーハリーのキャラハン警部。彼の映画史は私の歴史でもある。

この映画はアメリカ側から見た硫黄島の激戦史の一コマだが、今度は、日本側からみた物語を「硫黄島からの手紙」という題で、映画を制作発表するそうだ。現在、編集中。 二つの映画を総合して歴史を検証しようという試み。と、言うから、こちらも観なければならない。宿題がまだ残っている。

2006年10月24日火曜日

ネロ

夏が来ると思い出す詩がある。

私が18のときにであった谷川俊太郎の詩、以来ずっと最も好きな詩のひとつ。
俊太郎が可愛がっていた犬が死んでしまったときに作った詩だ。18才の私と18のときにこの詩を書いた俊太郎の気持ちが みごとに一つになって深く心の奥で共鳴した。

この詩の中にメゾンラフィットの夏 という言葉がでてくるが、これは、作家マルタン デュ ガールの小説「チボー家の人々」という、全5巻の長編大河小説に出てくる フランスの避暑地。そこで、チボー家のジャックはジェニーと出逢って、初めて、お互いに心を躍らせるという物語の中で、大事な場所。その後、フランスはドイツと戦争を初め、反戦活動家のジャックは戦争をやめさせようと、 兵士たちは、戦うのを止めて、国に帰れ、というビラを飛行機から撒こうとして、撃ち落とされて、殺される。

この部分が、当時の軍国日本の最中、若者に影響を与えるということで、当時、日本では出版が禁止された。私の父を含めて、当時の若い人たちは、ジャックの行く末を自分達の生き方と重ね合わせながら、出版を待ったが、敗戦後になってやっと、物語の結末を知ることになる。父が愛着をもっていたこの小説が、俊太郎の詩にもでてくるということで、私には、二重に 特別な詩になった。


ネロ             谷川俊太郎

ネロ
もうじき又 夏がやってくる
お前の舌
お前の目
お前の昼寝姿が
今はっきりと僕の前によみがえる

お前はたった二回ほど夏を知っただけだった
僕はもう18回の夏を知っている
そして今僕は自分のや 又自分のでないいろいろな夏を思い出している
メゾンラフィットの夏
淀の夏
ウィリアムズバーグの夏
オランの夏そして僕は考える
人間はいったいもう何回くらいの夏を知っているのだろうと

ネロ
もうじきまた夏がやってくる
しかしそれはお前のいた夏ではない
また別の夏全く別の夏なのだ
新しい夏がやってくるそして新しいいろいろのことを僕は知っていく
美しいこと みにくいこと 僕を元気ずけてくれるようなこと
僕をかなしくするようなこと
そして僕は質問する
いったい何だろう
いったい何故だろう
いったいどうするべきなのだろう

ネロお前は死んだ
誰にも知られないようにひとりで遠くへ行って
お前の声
お前の感触
お前の気持ちまでもが
今はっきりと僕の前によみがえる

しかしネロ
もうじき又 夏がやってくる
新しい無限に広い夏がやってくる
そして
僕はやっぱり歩いてゆくだろう
新しい夏をむかえ 秋をむかえ 冬をむかえ
春を向かえ さらに新しい夏を期待してすべて新しいことを知るために
そして
すべての僕の質問に自ら答えるために

2006年10月16日月曜日

映画「デビル ウェア プラダ」


映画「DEVIL WEARS PRADA」は、とてもおもしろい、よくできた映画だ。
邦題はなんと言うのだろう?「プラダを着た悪魔」か、「悪魔プラダを着る」か、「悪女はプラダが好き」か? メリル ストリープの名演にはいつも感心する。 

彼女、ロバート レッドフォードと「アウト オブ アフリカ」を演じたときは、デンマークアクセントで、「ソフィの選択」のソフィを演じたときはイングリシュアクセントで、今回は、ニューヨークアクセントで、役柄を徹底していた。彼女はカメレオンか??美しい顔と醜い顔の使い分けも秀逸。他の女優には、絶対 まねできない。
この映画では、とっかえつっかえ、ブランド服に身を包み、つま先から頭のてっぺんまでスキのないオシャレ、服にあわせた、化粧のオンパレード。 ニューヨークをベースにするファッション雑誌編集長の彼女はデザイナー達に コレクション発表の内容を変えさせてしまう程のパワーを持っている。。またワーカホリックであり、雑誌のスポンサーからは絶大の信頼を得て、第一線で、20年も働いてきた。 彼女の右腕、ダイレクターが、ゲイのスタンレイ トツチ。

そのファッション雑誌編集長の秘書に仕事さがしで、応募してきたのがアン ハスウェイ。大学でジャーナリズムを勉強してきた新卒で、キャリアが欲しくて面接にくる。ファッション雑誌の会社の面接なのに、彼女のダサい服装に職場の人々はあっけにとられる。 メリル ストリープとスタンレイ トツチとアン ハスウェイ、3人のうまい役者達のやりとりだけで、すごく面白い。それぞれが役にはまっていて、実に生き生きとして役を演じている。 くわえて、名前を覚えておこうとおもってて、忘れちゃったんだけど、メリルの第一秘書の若い女の子の演技がすごく光っていた。メリルのお気に入り秘書であるために、トップファッションに身を包み、サラダしか食べない やせっぽちの美人で、次から次へとかわる衣装に合わせてアイラインの引き方から、髪型までかえて自由自在に オシャレを徹底するコーデイネーションには脱帽。(あとで、名前はエミリーブラントとわかった。「IRRESISTIBLE」に出ている。)

アンは、初めは おばあちゃんから借りてきたようなスカートに、カカトの低いドタ靴はいていたのだけど、サンプルの服や靴をもらう内、ブランドを着こなして、きれいにストレートパーマをかけて、念入りに化粧もするようになって、みるみるうちに きれいになっていく。そんな過程を見ていて とっても楽しめる。 本当にオシャレって素敵。女の子に生まれて幸せ!って、みんな 感じたのではないかしら。 

シドニーヘラルドお映画評では14歳から104歳までの女性が楽しめる映画だと描かれていた。 そんな風にして編集長の秘書として、パリファッションウィークでパリの一流でデザイナーたちと交流したり、有名なジャーナリストとラブアフェアがあったりするんだけど、雑誌の編集権をめぐるパワーゲームや、20年右腕だった仕事仲間を平気で、切り捨てたりする裏駆け引きに嫌気がさして、一人で、仕事をやめて、アンは ニューヨークに帰って来てしまうのね。

で、メリルににらまれたら、どの新聞社でも出版社でも雇ってもらえないと脅かされていたけど、ローカル新聞社に面接に行ってみると、その編集長は、メリルから、「あなたがこの子を雇わなかったら大バカよ。」といわれていて、採用が決まるところで、映画が終わる。  メリルは ただ残酷にアンをこき使って、使い捨てにしたわけじゃなくて、この新卒を それなりきちんと評価して 育てたわけね。文字どうりデビルなわけ。

役者としては メリル ストリープが勿論一番、二番が スタンレイ トッチとエミリーブラント、三番がアン。4人とも本当に演技がうまい。 アンは「プリンセス ダイアリー」でデビューして、「ブローク バック マウンテン」で、二人のゲイのうちの、片方の男の妻の役に出て、アカデミー女優助演賞をノミネイトされた。 この時ヒース レジャーの妻役をやった女優は、初々しい新妻から、やがて、お母さんになり、幸せな家庭を築いていたのに、夫が男の恋人と逢引するのをみて、狂ったように嫉妬する役を やってとてもよかったのに。この女優の20分の一くらいしか出番のなかったアンが助演賞にノミネイトされたので、びっくりした。確かに彼女にはすごくしっかりした存在感があって、夫がゲイだと認めることは 自分のプライドが許さないという 毅然とした姿が痛々しくも美しかった。良い女優になるだろう。先が楽しみだ。

そういえば このごろじっくり鏡をみてないな、とか、このところ新しい服も靴も半年くらい買ってないなあ、とかいう人は、この映画を観て、ちょっと刺激を受けたほうが良い。女の子同士で観て、すごく楽しめる映画だ。 これを 一緒にみて、一緒に楽しんでくれるような、男の子って私は好きだな。映画にでてくるような、19万円のプラダのバッグを買ってくれなくってもね!