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2009年3月30日月曜日

ペッカのバイオリンを聴く



オーストラリア チェンバーオーケストラ(ACO) 今年第2回定期公演を聴いた。団長のリチャード トンゲッテイは 出演せずに、代わりに フィンランドを代表するバイオリニスト ペッカ クシストがACOを監督 指揮した。

プログラムは
FORD作曲: BRIGHT SHINERS
バッハ作曲 : ブランデンブルグ コンチェルト第3番
シベリウス作曲: 弦楽4重奏曲 親しき声

バッハ作曲: バイオリンコンチェルト第2番
ALAKOTILA: フォークソングより
以上

ペッカ クシストについては 去年の日記にも一昨年の日記にも 演奏会後記を書いている。「少女漫画から出てきたような 美しい細身の少年」と表現したが いまだに、そのイメージに変わりない。ミルクのような北欧の白い肌に、プラチナブロンド あどけない少年の姿のままだ。バイオリンを肩に載せて、あごで挿んでいない。弓も根元の握る場所から ずっと弓の中心にちかいところを持っている。スタンダードで常識的なバイオリンの持ち方からすると はるかに常識離れしたスタイルで弾く。そんな姿で、いったん弾き始めると オーケストラをバックにしても、ソロの音がマイクなしで 会場中を響き渡る。澄んで 太い 大きな音だ。それなのに繊細きわまる音。
こんな人を天才というのだろう。素晴らしい。生きた天才を間近で観て聴くことができるとは なんて素敵。もう彼の演奏会も4度目。幸せ。

今回ペッカが率いて ACOは、ニューカッスル、アデレード、キャンベラ、パース ブリスベン、メルボルン、ウーロンゴン、シドニーと、12回の公演をした。最後の公演を聞いたことになるが ACOのメンバーは穏やかな いつもの雰囲気を持ちながらも いつもと違う 神経を張り詰めているのがわかった。トンゲッテイ団長のいない間のペッカによる監督で、短時間に集中的な火の様な 燃えるような厳しいリハーサルを繰り返してきたのだろう。それだけに ACOの音もすごかった。とても感動的な公演だった。

バッハのブランデンブルグ コンチェルト第3番は 私達母娘3人にとって、忘れられない曲だ。3人でバイオリンとビオラで何度も何度も演奏したものだ。
東京生まれの娘達は父親の仕事先について 3歳から17歳まで 沖縄 レイテ島、マニラとバイオリン抱えて移動してきた。マニラでその父親をなくした後も バイオリンは続けてきて、しっかり成長して 大人になってくれた。どんなに そんな娘達を誇りに思ってきたか 言葉では言い尽くせない。
ブランデンブルグ コンチェルトは バッハの代表作、快活で明るく、生命力あふれる曲だ。私の歓びを 代弁してくれるかのようだ。

バッハは1717年から1723年にかけて これを作曲した。この頃 バッハはレオポルド公に仕えていた。彼の宮殿にある 美しい庭園で17名のオーケストラを従えて楽長として 作曲 演奏していた。全6曲のコンチェルトは、ブランデンブルグ領土のルートヴィッヒ侯爵に 献上された。バッハは 音楽をクリスチャンのシンボリズムと考えていたから「礼拝と同じく音楽もまた神によって ダビデを通して秩序だてられるべきだ。」と言っている。音楽の構造 構成が秩序立っていなければならないという強い信念から、クルスチャンの3という 聖なる数にこだわって 3つの楽器で、3つの高、中、低音により、3連音符を連らねて 3楽章に分かれた曲を作った。

ペッカがコンサートマスターを勤めながら指揮した ブランデンブルグは 驚くほど速く、驚くほど一つ一つの音が 明確で 鋭い それなのに軽やかで 現代的だ。5人の第一バイオリン、5人の第二バイオリン、3人のビオラ、3人のチェロとコントラバスが、本当に一体になっていた。ブラボーだ。観客も、床を踏み鳴らし ブラボーの連呼、、、会場はとても沸いていた。

シベリウス 弦楽4重奏 作品56「親しき声」というタイトルが付いて、1908年に作られた曲。
シベリウスは フィンランドを代表する作曲家だ。フィンランドは100年もロシアの圧政下にあった。彼の作曲した交響詩「フィンランデイア」は、フィンランド人の愛国心を鼓吹するという理由で、ロシア政府から弾圧を受け、演奏することを禁止された。ロシアから解放され、独立を求める人々にとって、「フィンランデイア」は 心のよりどころとなり、抵抗の音楽ともなった。彼が92歳で亡くなった時は、国じゅうが喪に服し 彼は国葬にされた。

シベリウスは7つの交響曲を残した。そしてたくさんの交響詩を書き、一生を通じて 劇音楽 声楽曲を絶え間なく作曲している。歌曲はフィンランド詩人 ヨハン ルートヴィック リュ-ネべりの詩を用いている。余り彼の声楽曲が一般的でないのは フィンランド語だったからだろうか。交響曲も7番まで作れば 当然8番への期待が集まるが 本人もプレッシャーを知っていて、「何度も完成した」と言い、「燃やしてしまった」という言葉を残して、楽譜は残さなかった。死後、出てきた組曲には、「出版しない」と書いてあったが じつは素晴らしい作品だった、という話もある。気難しい 完ぺき主義者だったのだろう。彼が 笑っている写真など見たことがない。

ペッカにとってシベリウスは 当然 身内のような感じだろう。1年の半分以上 雪に埋まっている極北の国のバイオリニストが 南極に一番近い国で 極暑 酷暑 太陽の黒点の真下にすんでいるオージーオーケストラに どんなシベリウスを演奏させるのか。じつに興味深い。

バイオリン協奏曲 作品47の没頭に、シベリウスは 自身でこんなことを書いている。「極寒の澄み切った北の空を 悠然と滑空する鷲のように」。
ペッカとACOの 弦楽4重総曲もまさに シベリウスの言葉どうりだった。驚くことに 初めの一小節 4音で、バッと、広大な雪景色が眼前に広がった。ペッカのオーケストラの音で まさに北欧の極寒の澄み切った空、雪に埋まった白樺の林、どこまでも広がっていく大雪原が 見えてくるようだ。これは、フィンランドの音だ。乾いて、清涼で 冷たく 軽やか。こんなにも 監督 指揮がフィンランド人だと オーケストラ全体がフィンランドになるなんて なんというマジック。

シベリウスもペッカのような若手の音楽家が 自分の仕事をきちんと引き継いでいてくれて きっとうれしいだろう。苦虫をかみ殺したような 陰鬱なシベリウスの写真の顔も、こんな演奏のあとでは すこしやわらいで見える。
割れるような 拍手。彼はラリアでは 特別人気者だ。良い仕事をしている。拍手が鳴り止まない。
最後にペッカは フンランド民謡を2曲弾いた。心に残る音だった。

2009年3月20日金曜日

憲法に異を提えるオバマ大統領を支持する


初のアフリカンアメリカンのアメリカ大統領、オバマは空前の人気と人々の支持を保っているが 崇高な理念だけが先回りして 議会の根回しや、金融界の守銭奴達に手を焼いているように見受けられる。

未曾有の不景気、失業率上昇、貧富格差の拡大、医療体制の貧困、アフガニスタン派兵による出口のない戦い、、、。アフガニスタン介入は はっきり愚かで間違っている。
しかし、こうした中で なんだ、理想が高くても人は飢える一方ではないか、という世論操作がなされて、理念が理念倒れになることを、危惧する。

彼はすごく良いことを言っている。
彼の人権擁護政策の理念を示す例としてセクシャルマイノリテイーの人々に対する対策が明記されているのがそれだ。これは立派だ。100%支持したい。保守的クリスチャンが多く、人種差別、ジェンダー差別の強いアメリカで、このような政策理念を はっきり示すということは 立派で、勇気ある提言だ。

ホワイトハウスのホームページに明記されている「LGBT:セクシャルマイノリテイーのためのサポート」によると、

LGBT:レズビアン、ゲイ、バイセクシュアル(両性愛)、トランスジェンダー(性同一障害者)の人権はすべての人が尊厳と尊敬をもって平等に扱われなければならない。

1)セクシャルマイノリテイーを攻撃したり、嫌がらせをすることはヘイトクライム:犯罪行為であり 罰せられなければならない。

2)セクシャルマイノリテイーを理由に雇用差別をしてはならない。 性的嗜好や性自認による雇用差別法を支持する。その上、同棲するカップルは結婚した男女カップルと同じ法的権利を擁する。

3)LGBTカップルをサポートするために社会保障をする。健康保険の扶養者として認定したり、所得税の配偶者控除を受けられたり、夫婦としての財産所有権を認めるなどの保障をする。

4)同性結婚を禁じる憲法に反対する。

5)軍隊内「DO’NT ASK」や「DO’NT TELL」 のポリシーを撤回する。入隊時にゲイやレズビアンであることを聞くのも 自分から言うのも止めて黙っていることは、かえって、明白な差別になる。カミングアウトしても問題なく軍隊内部で受け入れられるようになるべき。

6)すべてのカップルに 養子縁組の権利がある。セクシャルマイノリテイーであるかどうかに関わらず 望むカップルが養子縁組ができるべきだ。

7)セクシャルマイノリテイーがHIV・AIDSの関連で差別をもたらすことがないように配慮する。 エイズを予防し、HIVを減らし、コンドームの使用を推奨し、使用済みの注射器を再使用しないように、使い捨ての注射器を 必要とする人に支給する。

8)女性のHIV感染を予防する為に 抗ウィルス予防薬開発を促進する。

以上 素晴らしいではないか。100%支持する。
男と女は まったく対等な存在だ。相手が男であろうが女であろうが、愛情にかわりはない。パートナーとして一生ともに生きていく相手が男であっても女であっても良い。
戸籍に父と母と子といった記録をする必要はない。ともにパートナーと生を分かち合うことに意味がある。そして子供が家族の宝として 大切にされ、愛されて育つことが優先されるならば、生物学的な精子が誰のものであろうが、卵子が誰のものかは、重要ではない。どんな愛の形であっても、大切なことは人が自分の愛する相手を尊重して共に生きていける社会を作ることだ。

そのために宗教的固定概念を捨て、現状に即した法を整備すべきだ。教会グループはこれを絶対つぶしにかかる。しかし、セクシャルマイノリテイーにとっては、教会で結婚を認められる一般夫婦の存在こそが、差別を助長してきたことに、目を向けるべきだ。 憲法に異を提える大統領の LGBTに関する理念を全面支持する。

2009年3月17日火曜日

オペラ「ムチェンスクのマクベス夫人」




ドミトリ ショスタコビッチ作 4幕 3時間のオペラ「ムチェンスクのマクベス夫人」を観た。
原作は、ニコライ レスコフの同名の小説。

このオペラを 1934年にショスタコビッチが レニングラードとモスクワで、同時に発表したときには、26歳の新鋭の作曲家の登場に おおむね評判は良く 人々から受け入れられた。ヨーロッパにもアメリカにも紹介され、好評を得た。しかし1年半後、1936年がターニングポイントとなる。

1936年1月、たまたまオペラを観に来たスターリンは、内容に激怒して途中で退席した。その2日後「プラウダ」で、このオペラをケチョンケチョンに批評する文が無署名で掲載され、事実上これが上演禁止の絶対命令と解釈された。スターリンの直接介入である。何百万人もの人々がスターリン圧政下で粛清され、シベリアに送られた。ショスタコビッチも 身の回りのものを鞄に詰め いつ逮捕されてシベリアに送られても良い様に鞄を横に眠らなければならなかった。

1963年にショスタコビッチは このオペラをもとに、「カテリナ イズマイローバ」という題名で ベッドシーンを削り、かなり内容の変更をして発表上演した。しかし、もとのままの「ムチェンスクのマクベス夫人」の再上演は、1979年まで待たなければならなかった。

彼は リアリストで皮肉屋で 過激だったのだ。
はじめ、ショスタコビッチは ドイツのワーグナーの「ニーベルングの指環」のような長編の大きなオペラ4部作を作曲するという壮大なプランをもっていた。明確な人民の意志を持った力強いロシア女を描く構想も、正義を芸術に求めるスターリンの力によって破壊された。彼はこのあと、国外脱出もままならず スターリンの粛清の脅えながら、作曲を続けるが、オペラは作らなかった。

出演
カテリーナ:スーザン ブロック(ソプラノ)
愛人セルゲイ:サイモン オニール(テノール)
夫ジノーヴィ:デビッド コクララ(テノール)
父ボリス  :ジョン ウェグナー(バス)
オペラオーストラリアコーラス オペラバレエオーケストラ
指揮:サー リチャード アームストロング

そのスターリンを激怒させたストーリーは
第1幕
裕福な商人の妻、カテリーナは、父親に絶対服従で 妻には思いやりのない夫に不満で退屈な日々を送っている。夫の出張中、裏庭で使用人たちが 一人の女を集団暴行に及んでいる。中心人物は 女たらしで悪名たかいセルゲイだ。カテリーナは男達の間に入って 乱行をやめさせる。でもセルゲイに魅力を感じてしまう。その夜、セルゲイはカテリーナの寝室に忍び込み、カテリーナと結ばれ、二人は愛し合う。

第2幕
息子の妻が使用人と不貞を犯したことを知った父親、ボリスは激怒するが、カテリーナはすばやく ボリスを毒殺する。 カテリーナとセルゲイが愛し合っているところに 帰宅した夫ジノーヴィは、二人に撲殺されて、地下室に隠される。

第3幕
カテリーナとセルゲイは結婚する。幸せいっぱいの日に、酔っ払いがウォッカを探しに地下室に入り込み 死体を発見して事態が明るみに出る。 第4幕 カテリーナとセルゲイはシベリアに送られて強制労働に就いている。こんなところでも、セルゲイの女あさりは 止まらない。傷心のカテリーナの前で これ見よがしにセルゲイは新しい恋人ソニエッカと愛し合っている。カテリーナは そんな男のために殺人をしてきた自分に耐えられなくなって遂にソニエッカを海に突き落とし 自分も後を追う。 というおはなし。 ショスタコビッチの描いた「ロシアの強い女」カテリーナは 欲情に負けて夫、夫の父親、さらに邪魔な女も殺す。全く人間としての恥も プライドも 倫理観も 社会観もない女だ。

スターリンは第1幕の 一人の女が労働者に集団暴行を受けるシーンでショックを受け、直後のカテリーナとセルゲイのセックスシーンにダブルショックを受け、第2幕の父親殺しで もう我慢できず席を立ったのではないだろうか。音楽的評価はともかく、わたしも同じ思いだ。どんな状況であっても、それがちょっとした悪ふざけであっても、多数の男が一人の女をいたぶって面白がるシーンに耐えられない。たしかに、この時代の教育のない労働者にとって気晴らしといえば、酒と女だ。ひとりの女たらしが連れてきた女を 沢山の男で からかうのは面白いだろう。しかしこれを 舞台でやられるのは たまらない。

また 家に忍び込まれたカテリーナにとって、男の選択の余地はなかった。情欲を愛情と勘違いして ダブル殺人をやってのけたカテリーナは 実は強いロシア女などではなくて、可憐な女であり、被害者だ。原作者は 簡単に3人殺してのける女 カテリーナに「マクベス夫人」と言う名をつけた。手を血で汚したシェイクスピアの「マクベス」からきている。しかし、シェイクスピアのマクベス夫人も 殺人をせざるを得なくなり、嘆き、おのれを呪う哀しい女だ。

スターリンの怒ったオペラの内容はともかく、音楽は生き生きとして良かった。100人のコーラスが抜群に良い。コーラスも沢山でてくると、音に厚みができて、すごく良い。ソプラノもテノールも上手だった。

ショスタコビッチは13歳でぺトログラード音楽院で ずば抜けて才能あるピアニストとして注目をあびた。しかし、早いうちに父親に死なれて、経済的には苦労が絶えず、貧困の中で映画館で無声映画の音を即興演奏して生活していた。26歳でオペラを発表すれば スターリンに粛清の脅しをかけられ、スターリンが死ぬまで脅えながら作曲しなければならなかった。

交響曲を1番から15番まで作曲している。弦楽4重奏も1番から15番まで作り、業績はこのシンフォニーと4重奏で現代音楽作曲家として不動の地位を得た。シベリウス、プロコフィエフに並ぶ作曲家として 高く評価されている。重く、暗く、難解な弦楽4重奏。演奏者にとってはチャレンジであり、おもしろいかもしれない。でも自分はやめておく。

2009年3月13日金曜日

100万円消えたー!




100年に一度あるないかの経済不況のなかで 米国サプライムローン問題以降、株式相場は下落を続けている。
アメリカでは この2月だけで、651000人が職を失い、失業率は8.1%になった。
オーストラリアでは 同じ月に前月に加えて36800人が新たに職を失って、合計54万人、失業率は4.8%に上昇した。

こんな中でもアメリカのオバマ大統領は 過去最高の選挙投票率を記録しながら 人々の支持と期待を得て、次々と新しい政策を発表して人気をつないでいる。
ラリアのケビン ラッド首相も 先週の世論調査で国民の支持率54%という高率を維持している。去年、自由党のジョン ハワードから労働党のケビンに変わって すでに1年余りたつのに ケビンは何一つ大きな失敗もせず、スキャンダルもなく、答弁の読み間違いもなく、不況対策でも 失業対策でも卒なく答えて仕事をこなしている。210人もの 死者を出すことになったビクトリア州の山火事も、クイーンズランドも大洪水も 迅速な対応と、誠実 実直な発言で、人気を保ってきた。

彼は景気刺激対策として、去年12月には 年金生活者と、育児中の家庭に 1000ドルずつ生活支援金を送った。子供一人につき1000ドルだったから 子沢山の家は助かったろう。クリスマス前に 支援金を受け取ったお年寄りが ニュースで嬉しそうに 孫にプレゼントが買ってあげられます と言う姿が印象的だった。日本の景気刺激対策で ばらまかれたお金が一人、1万2000円だったから、ラリアの10万円は、大きいと言えるかも知れない。

これに加えて、この3月 今週から 年収8万ドル以下の すべての人に向けて $900ドルの小切手が郵送され始めた。夫婦ともに 低収入ならば 倍で1800ドル、さらに子供一人につき950ドルずつ支給される。このような 一時的な景気刺激対策は 根本的な不況対策ではないが、ラリアには日本のようなボーナスがないので これを長いこと安給料で働いてきた報奨として捉えれば もらえる人は素直に嬉しいだろう。

ところで私達の年金は 給与の9%を 雇い主が2週間ごこに 本人が希望する年金会社に振り込んで 自動的に貯蓄されていく。それが老後の蓄えとなり、65歳になると それを月ごとに受け取るか、一括で受け取ることもできる。すべての勤労者の給与の9%が自動的に貯蓄されるわけだから 集まったお金はそれぞれの年金会社が 投資をして運営している。年金会社は たくさんあって、医療従事者に強い会社もあれば、半官半民だった会社もある。

私はAMPという会社に、ラリアで初めて働き出したときから 雇用主に私の年金を入れてもらっていた。契約のときに、沢山の会社のリストがあって、自分のお金を どの会社に投資するかを選ぶように言われて、地下資源の豊富なラリアでは 鉄鋼会社なら潰れないだろうと思って、適当に選んでおいた。それが今回の不況で 年金会社が投資した会社の経営不振で、私のこつこつ貯めてきた年金から100万円ほど、目減りした。2年分の貯蓄が消えたことになる。

今回経済不況、株の下落で おびただしい数の年金生活者が年金を失った。プロのマネーアドバイザーと言われる立派な教育を受けてきた人に 退職後 楽に暮らせるように すべての年金の運用を依頼していた沢山のお年寄りが 今回 全財産を失ったりしている。

私は自分の給与の9%が年金として積み立てられ それが年金会社によって どんな企業に投資されどれだけ損したり得したりしているのか、3ヶ月ごとに送られてくるレポートで知ることが出来た。まめな人はネットで毎日でも株のやり取りを見ることが出来る。自分のお金がどの会社に役立っているのか ろくでもない会社に投資して赤字を出しているのか知ることが出来たのに、きちんと監視せずに 放って置いて、100万円損害を受けるままにした自分がうかつだったのかもしれない。

まったく腹立たしい限りだが、日本の方が もっと怖いのではないだろうか。日本では 給与から自動的に引かれて 貯蓄されていく年金がどのように運用されているか、自分ではわからない仕組みになっているようなのだ。日本では すべての年金は「年金積立金管理運用独立行政法人」(GPIF)という一行政法人が、厚生労働相の委託を受けて すべてのお金を運用している。昔の名を、年金福祉事業団。この法人は積立金150兆円のうち、役80兆円を金融市場で運用、そのうち、7割が国内債権、3割が外国株、国内株を運用している。で、この公的年金をまかされた法人が、いくら不良債権を買ったか、どれだけ赤字株で失敗したか、公表する必要がないので、一般勤労者は知らせれないままなのだそうだ。これって、すごく怖いのではないだろうか。

私は 投資や株のやりとりに みごとに興味がない。ギャンブルが大嫌いだ。そんなふうに ギャンブルが嫌いで投資も株も嫌いな人って多いのではないだろうか。働けるうちは 働いて、自分が稼いだ分だけを蓄え、体が動かなくなったら その貯蓄で暮らしていければ幸せだ。それ以上のお金は要らない。けれど 年金会社の都合や、訳のわからない事情で 蓄えが無くなるのは困る。

毎日、テレビではスーパーヒーローのオバマ大統領が「大丈夫、景気後退はあるけれど、失業もあるけれど、がんばってやっていこう 明日は明るいぞ」と言っている。ケビン ラッドも「苦しい時期だ でも希望をもっていこう」と言っている。暗いのに スーパースターが輝いてみせている。
なんか、奇妙な時代だ。

2009年3月10日火曜日

「鼓童」と「TAIKOZ」のパフォーマンス


去年の7月に、和太鼓「TAO」のマーシャルアート オブ ザ ドラムというパフォーマンスを ステート劇場で観た。

九州をねじろに共同生活をしながら体を鍛えて演奏していて 海外にも遠征ししているエネルギーの塊のような若者達のパフォーマンスだった。大地震の前触れかとも思うような地響きを伴った ダイナミックな和太鼓のリズムに とても深い印象を受けた。

先日「鼓童」と「TAIKOZ」の太鼓集団のパフォーマンスがあったので、同じ人たちかと思って 行ってみたら 全然ちがうグループの人たちだった。

「鼓童」は、新潟県を拠点にして和太鼓や踊りや歌を披露しているグループだっだ。1981年ベルリン音楽祭でパフォーマンスをして以来、3100公演を世界各地でしてきた という。アメリカ、イタリア、スペインなど巡業し、新日本フィルハーモニーと 共演もしているようだ。

また、オーストラリアに太鼓集団「TAIKOZ」と言うのがあるということも、今回初めて知った。
監督のイアン クレワース(IAN CLEWORTH)さんは、1997年にこのグループを作ったひと。シドニー交響楽団のパーカッション奏者を20年も務めた人だ。19歳のときに日本で和太鼓に出会って練習をはじめたという。

今回は日本から5人の「鼓童」の中心メンバーと、「TAIKOZ」からは7人のメンバーの共演だった。太鼓だけでなく、歌や踊りも入った2時間のパフォーマンス。 前回の太鼓集団「TAO」には とても感激したが、今回は余り心を動かされなかった。理由ははっきりしないが、前回のような新鮮な驚きがなかった。日本から来た方々が みんな初老の方々ばかりで、エネルギーの爆発が感じられなかったのかもしれない。

彼らの特徴は、佐渡を拠点にしているけれど、佐渡の伝統芸能に固執するわけではなくて、様々な地方の民謡などを取り入れて 新しい歌や踊りを作り出しているところだ。出し物はみな、彼らのアレンジだ。従って歌も踊りも国籍不明の現代風 音楽となって、再生されている。日本からやってきているこのグループの 主要メンバー5人の名前がプログラムではローマ字になっているので、日本人の名を ローマ字でここに書くのは失礼かと思って、ネットで見てみたら ブログでも メンバー紹介はローマ字になっていた。海外で活躍することを、主に考えているからかもしれない。

「NISHIMONAI」は秋田の歌だそうだ。
「OWARIYARE」は山形。
「HANAHACHIJOU」は 伊豆八丈島。
「YATAI-BAYASHI」は埼玉県の歌 と紹介されて、披露された。
神社の女官みたいな ギリシャのビーナスみたいな 国籍不明の服を着て、創価学会が使うみたいな 小さな太鼓を叩きながら 歌われたのは、アイヌの子守唄だそうだ。

海外に住む日本人にとって、日本の民謡や伝統芸能は、わかりにくい。「OWAIYARE」が、どんな漢字があてられるのか どういう歌なのか、全然わからない。「NAGAURAJINNKU 」も、「NISHIUNAI」も申し訳ないけど、お手上げだ。 日本人だからといって、解説を求められても困る。
また 先住民族の文化については、オーストラリアに限らず どの国も、非常に神経質だ。アイヌの子守唄を 舞台で太鼓集団が こんな風にして歌っても良いのか、よくわからない。

県立沖縄交響楽団のなかで、バイオリンを弾かせていただいた時期がある。沖縄の歌がとても好きだ。あの独特の音階、独特のリズムは ウチナンチュウにはまねできない。独立国 琉球としての独特の文化を 心から尊重するから、もしこの人たちが 見世物として琉球民謡を和太鼓で、演奏したら、きっと傷ついていたと思う。日本から来た 和太鼓集団を見ながら いろんなことを考えてしまった。

ま、でも、パフォーマンス、OMOSHIROKATTA YOー。

2009年3月3日火曜日

映画「フローズン リバー」


映画「FROZEN RIVER」を観た。邦題未定。「フローズンリバー」か、「凍った河」か。

主演女優 メリッサ レオ(MELISSA LEO)が、今年のアカデミー賞、最優秀女優賞にノミネイトされた。予算の限られた独立プロが作った映画が、アメリカでヒットして、中年で地味な女優が主演女優賞に推薦されるというのも 大変珍しいことだ。晴れやかなアカデミーの舞台に これほど似合わない女優も少ないだろう。 この映画で、初めてメガホンを握って アカデミー監督賞にまで 推選されたのは、コートニー ハントという女性監督だ。

ストーリーは
極北の冬、ニューヨークの北の端 川を挟んでカナダと国境を接しているモホークという町に住んでいるレイ(メリッサ レオ)は、15歳と5歳の男の子のお母さんだ。パートタイムで、近くのスーパーに勤めている。家を買ったばかりなのに、その購入資金を ギャンブル狂の夫に すべて持ち逃げされてしまって、途方にくれている。

そんな時、乗り捨てていった夫の車を運転している女を見かけて、必死で追いかける。女は モホーク町のインデアン自治地区に住んでいる 先住民族のライラという女だった。車は乗り捨てられていたので もらったのだという。ライラは車さえあれば、大金が稼げる良い仕事がある、とレイに言う。レイは初めは相手にしなかったが、家のローンを取り立てに来る不動産屋の圧力にまけて、仕事を引き受けるために ライラを訪ねていく。 仕事とは 凍結した河と車で渡って カナダからアメリカに密入国する人を運ぶという危険きわまりない仕事だった。いつ、どこで 氷を張った河が 割れるかわからない。走行中 氷が割れれば 車ごと ただちに全員の死が待っている。氷の厚さを心配すれば 荷物を減らすしかないが トランクに入るだけの密入国者は運ばなければならない。夜間運転で方向を間違えても、車がエンコしても、命に関わる。車は ぼろい普通乗用車だ。国境警備隊の眼からも、逃れなければならない。

ライラは 私生児を産んだために 赤ちゃんを 親に取り上げられて、家を追い出された女だった。お金を貯めて自分の赤ちゃんを取り戻したい と思っている。レオとライラは 二人で危険な仕事をしなければならないことに、怒りと憤りを感じている。しかし、二人とも 自分たちの子供のために 違法な仕事を続けなければならない。互いに憎みあっていた 二人は 命知らずの仕事を 共にやっているうちに 憎悪はやがて理解に、そして、共感に変わっていく。二人は、車のトランクに中国人やアフガニスタン人を忍ばせて密入国者を運び続ける。 そして、ある日、、、。 というお話。

吹雪の舞う、極寒の凍結した河の上を車が走るごとに、ハラハラし通しだった。まったく とんでもない映画だ。 男運のない女達の 母親としての強さ、けなげな母親の捨て身の子供達への愛情。まことに女は子供のためなら何でもできる。

レオの15歳の息子がとても良い。彼にとっては 父親はヒーローだ。全財産を持ち逃げして、自分を捨てて去っていったなどとは 信じられない。父親は家の修理や 車の修理を いとも簡単にやってのける立派な男だ。そんな父親を悪し様にののしる母親が許せない。父親をギャンブラー呼ばわりするのも許せない。それでも母親なしに 生きていくことができない。母親に対して 憎み反発しながら それでも寂しくてならない難しい年頃の息子の姿には ホロッとさせられる。

映画の最後がとても良い。自分の子供のためだけに 無鉄砲な違法行為を続ける女が 自分の子供だけでなく 他の子供も不憫に思い そのために自分を犠牲にするとき、女は一段上の人間性を獲得する。 とても良い映画だ。

独立プロの小さな映画が人の心を感動させ アカデミーという最も華やかな舞台に引き上げられた、そのことに大きな意味があると思う。ハリウッドの 商品として売れ行きの良い 人々の好みの迎合するような映画でなく 独立プロで、どうしても言っておきたいこと どうしても主張したいことを映画にした若いエネルギーを高く評価したい。