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2006年12月22日金曜日

映画 「テン カヌー」その2

「ものを創る人」の手を観ているのが好きだ。熟練した職人の手作業は芸術家を思わせる。糸を紡いで、機を織る人、壊れたものを修理する人、仕事をする人の手は一様に忙しく動き回り、美しい。

2006年オーストラリア映画祭で、アボリジニの作品「テン カヌー」が最優秀作品賞を受賞したが、この映画のなかで、アボリジニーが 道具をつくる作業が沢山出てくる。数人の男たちが樹の皮をはいでカヌーを作る。森に入った女たちが、コシの強い葉を編んで、入れ物を作り、採集した果物やイモをいれて運んだり、貯蔵したりする。若者たちが樹の枝で弓矢を作り、狩りをする。家族総出で樹の上に安全な家を作る。
そういった彼らの継承文化を見ていると、アボリジニーって 最古の人類として5万年前からやってきたことと、この映画で見せている200年前に彼らがやっていたことと、ほとんど変わっていないような気がする。
どの民族も、進化して道具を作り、村落共同体を形成して文化を形造ってきた。

「もの作る人々」と言えば、イランのマジット マジ監督による「赤い金魚と運動靴」原題「THE CHILDREN OF HEAVEN」を思い出す。これは10年程前に国際的に高い評価をされて日本でも話題になった名作だが、この映画の始まりが感動的だ。靴修理のおじいさんがお客である少年を前に 布製の古くてボロボロの赤い運動靴を修繕している。すりきれて穴の開いた小さな靴を丁寧にていねいに縫い直し 穴をふさぎ、しまいには 見事な手作りの運動靴が出来上がる。マジックを観ているようだ。この小さな 赤い運動靴は少年の妹のものだ。 物語はそこから始まる。そんなに手をかけて履けるようになった靴を 少年が大切に家に持ち帰る途中で、心ない人に盗まれてしまう。そのために妹は学校に行けなくなってしまうのだ。

子供の目から見た大人の社会の不理屈さ、不正、貧困、差別、、、今よりももっと言論の自由のなかったイランで正面から政府を批判できなかった 前衛映画監督が渾身の怒りをこめて創った作品だ。でも、わたしの目を奪ったのは 物言わぬ、この靴修理のおじいさんの あかぎれだらけの真っ黒で、大きな厚い手だった。この手をカメラで、じっと追うことで、この監督はものすごくたくさんのメッセージを発している。

また、話が飛ぶが、中国人映画監督、チャン イーモーの、「THE ROAD HOME」という映画があるった。 チャン ツイーという 今や「さゆり」「ヒーロー」などで国際女優になった女優の最初の映画。テイーンだったチャンツイーが 夏の朝に咲き始めた朝顔のよう、においたつように 美しい。 ここで、チャンツイーが片思いする学校の先生が、使ってくれたお茶碗が割れてしまって、泣いているのをみて、可哀想に思ったおじいさんが、粉々になったお茶碗を かけらを集めて膠でつけて、大変な時間をかけながら、張り合わせて、ちゃんと使えるように修理してくれるのだ。カメラがずっと 黙って、チャンツイーの目と一緒にそれを追う。仕上がって、チャンツイーのはじけるような 喜ぶ姿。この手作業が素晴らしい。もう本当に手品のよう。ひび割れた真っ黒な無骨なおじいさんの手が神の手に見えてくる。

こうして、人間は道具を作って、文化を継承して、社会を進化させてきたんだ、、、と、感動。 じーっと、自分の手をみる。おおっとーマニキュアが剥げかかってる。

2006年12月19日火曜日

映画 「テン カヌー」

映画「TEN CANOES」は、今年6月に観たが、この12月に、2006年 オーストラリア映画祭で最優秀賞を獲得、表彰式がおこなわれた。 初めての、アボリジニーの言葉による、アボリジニーの出演した映画だそうだ。

アボリジニーの年寄りによるナレーションに従って、物語が展開する。年寄りが若い成人したばかりの青年達に、カヌーの作り方や、家の作り方を練習させて、生活に必要な技術を伝えていく。話の中で、複数の妻を持つ実力者の、一人の妻が失踪し、人々は他の部族に誘拐されたと思い込み、相手方を殺してしまうが、これが誤解だったとわかり、実力者は、殺された仲間に復讐されて、殺される。年寄りは淡々と かつて あった事件の顛末を語り、正義のあり方を青年達に教えていく。というのがこの映画のストーリー。

監督は、PETER GJIGRR と ROLF DE HEER 。ヨーロッパ人が オーストラリアに定住する前の 先住民族の人々の生活のありようを描いた、という意味で、この作品には政治的なメッセージがこめられている。オーストラリア大陸が白人に占領される前の豊かな人々の暮らしぶりを映画にすることで、現在の白人優先、白豪主義のなかで、先住民族の文化が消滅していったことに、痛烈な批判をしている。

この監督は、自腹で映画を製作し、この映画を持って学校を回り、子供たちにアボリジニー文化を紹介して理解を深めようという地味な活動をコツコツとしている。良心のかたまりのような人だ。 映画撮影には人食いワニがウヨウヨしている河でおこなわれ、身の危険と隣りあわせだったそうだ。制作チームは4年前に「THE TRACKER」という映画を作ったのと同じチーム。このときの主人公の息子が今回の「テン カヌー」の主役で出演している。

「THE TRACKER 」は、白人警官によるアボリジニー虐殺がテーマで、やはりきわめて政治的メッセージがこめられた映画だ。サデイストとでもいうべき警官がアボリジニー集落を繰り返し攻撃、人々を虐殺するのを、警官のガイドのアボリジニー青年が神の名において警官を処刑するというストーリー。

ラリア映画で低予算ローカル映画の典型。でも映画としての完成度が低い割には、世界的に高く評価された。このガイド役のアボリジニー俳優、デビット ガルピルは、映画では 裸で素足、カーリーヘアに漆黒の肌で、典型的なアボリジニーの姿で出演したが、カンヌ映画祭に招待されて、タキシードで正装して 人々をアッといわせた。 とっても、素敵だった。現実には、彼はすごくもてて、女性問題とアルコール問題をずっとかかえていたらしい。

「テン カヌー」映画そのものは 詩情豊かで、すこし冗漫。しかし、こういう映画が手作りで、限られた予算の中で四苦八苦しながら、危険をおかしながら撮影されて、でもそれが きちんと評価される ということに意味があるのだと思う。世界中の先住民族が滅びつつある歴史の中で、政治的なメッセージが、きちんと伝えられ、受け止められいっている、ということが大切なのだと思う。

2006年12月13日水曜日

映画 「007 カジノロイヤル」


映画 ジェイムスボンドシリーズ新作「カジノロイヤル」を観た。 新しいボンド、ダニエル クレイグは、実によく走る。オリンピックの100メートルランナー、ベン ジョンソンのような美しいフォームで、命をかけて走ってばかりいた。それに、心から女を愛してしまうと、相手が裏切っていたと わかっても、まだ自分の心に忠実に相手を愛しぬく。そこが 今までのジェームスボンドと違う。2006年、やっと、鉄の男も、時代の流れに乗ってソフトに、本当の男の優しさを身につけてきたと言うべきか。

娯楽映画にあまり興味がなく、映画を 文学、物語、音楽、写真、舞台、舞台美術すべてを統合した、総合芸術ととらえ、根底は政治表明と考えてきた私には、映画を娯楽とは考えにくい。

しかし、イヤン フレミングのジェ-ムスボンドシリーズを読むのは。すごくおもしろい。彼の作品は推理小説、探偵小説、ハードボイルド すべてに大きな影響を与えてきた。小説の中の、ジェームス ボンドは、高学歴、上層階級出身で教養の高い、知識豊富で、マナーの良い、おまけに見かけもスタイルも良い、ユーモアのセンス抜群で、申し分のない男だ。心から英国女王に忠節を誓っているモナキストだ。 そんな いるはずのない良い男を映画にすると、ただの男で、がっかりするのは当たり前だが、人々をがっかりさせながらも、派手な格闘や、カーチェイスや、ガンさばき、ギャンブル、などで、大々的に映画館に観客を呼び込んできた。

チャッツウッド ホイッツ映画館に平日の朝 映画を見に行くと、広い 館内に私一人しか観客がいないときが よくある。ホラー映画をこれで観ると とても怖い。でも、ボンドの映画を見に行ったときは、平日朝なのに、他に30人くらい人が座っていたので驚いて、改めてボンドの人気を知らされた。

相手役のフランス人女優、エバ グリーンはとても美しい。その女に心底、惚れてしまい、スパイ稼業をやめて辞表をイギリス女王に送って、平民の暮らしをする決意をした、今回のボンドは、とてもよく走る。よく走り、良く跳び、よく銃を撃つ。ボンドのまわりを二重三重に取り巻いてモンテカルロのカジノで稼いだ金を奪い合うボンド以外の男達は、みな金のために生きている。ボンドは その金がイギリス王室の金であるから、いくら人を殺しても、何台 車を壊しても、いくつビルデイングを崩壊させてもいくら女を捨てても 良い事になっている。そのライセンスが007だ。 このシリーズはいつも ボンドがにっこり笑って、終わってくれるから、安心してみていられる。

しかし、こういう単純な映画が 単純な人たちに ただボンドが良いヤツで、東欧系、ロシア系スパイ、中東系ギャングは、皆、悪いヤツという図式で、インプットされてしまうと現実社会で、アルカイダとかチェチェンレベルと聞くと 偏見とか嫌悪感をもってしまって ちょっとまずいのではないだろうか。 そう思いながら、映画館からの帰り道、どうしてか、、、どうしても車のスピードを落とせず、カーブは、ギャギャギャーっといわせながら、ブワーン と爆音たてて アクセルめいっぱい踏んで、走って帰ってきてしまった。私も単細胞なので、ボンドが乗り移ってしまったのね。 

2006年12月3日日曜日

バレエ 「REVOLUTION」



オーストラリアバレエを観に、オペラハウスに行ってきた。 演奏は、オーストラリア オペラ バレエ シンフォニー。題は、「レボルーション」、3部に分かれて、それぞれにインターミッションが入る。

第一部は、「LES SYLPHIDES」妖精の踊り。 クラシックのなかの一番のクラシック。本当のバレエの真髄というべきか。18人の妖精と、王子様。ただただ 夢のように美しい。 18人の妖精が18人とも それぞれの指先からつま先 あごの線まで、訓練された体の動き、ゆき届いた神経、一つとして、無駄の無い洗練された踊り。フレデリック ショパンの曲に乗って トウシューズのトットットッ という乾いた音が聞こえる。文字どうり妖精、人と思えない。トウで立ち、トウで、飛ぶ、張り出した弓なりになった足の甲をささえる足指の痛み。変形した爪、血のにじむ爪のきわ、、、バレエは人が人をこえようとする痛みのうつくしさ。何百年も バレリーナは こうして人を超えようとしてきたのだ。

第2部は、「LE SPECTRE DE LA ROSE」 初めての舞踏会から帰ってきた少女が 持ち帰ったバラの花が、少女が眠っている間に、バラの精になって、踊りだす。素晴らしい跳躍力の男性のダンサーと、可愛い少女のデュオ。

第3部は、「シェーラザード」 アラビアンナイトのお話。19世紀のロシアの作曲家、ニコライ、コルサコフの交響曲シェーラザードの曲にあわせて、踊る。 王様 シャイヤーが狩りに行っている間に 妻のゾルベイデイは、ハーレムの 黄金に輝く、男奴隷の美しさに負けて、愛欲にはしる。他の奴隷達も はめをはずして、愛欲に呆けている。と、王様が突然、帰ってきて、怒り狂い、一人残らず奴隷を切って殺してすてる。それを見た妻は短刀で、自害するというストーリー。衣装も 舞台も美しい。アクロバテイックな 素足の踊り。 でも私はクラシックバレエで、トウを使わない踊りは好きではない。

アラビアンナイト 千夜一夜物語を知っているだろうか? 船乗りシンドバットの冒険や、アリババと46人の盗賊 などのお話はみんな お姫様のシェーラザードから王様に語りきかされたお話だ。 浮気な妻に裏切られ、人を信じられなくなった王様は毎晩、床を共にした妻を 朝になったら切り殺し、次の妻を迎える。 賢いシェーラザードは これ以上若い女性の命を無駄にできないと考えて、自分から妻を志願して、王様と床を共にして、ゾクゾクするような おもしろいお話を 毎晩話して聞かせた。そのお話が余りにおもしろいので、王様はシェ-ラザードに夢中になって、殺すのを忘れ、ついに人を殺してきた自分が悪かったと悟り、シェーラザードを正式の妻として新たにむかえて、自分は立派な王様になる。めでたしめでたし。  これがアラビアンナイトのシェラーザードのお話だ。

このモチーフに素晴らしい曲をつけたコルサコフは、 バイオリンの美しいメロデイーは、シェラザードが 王様にお話を 語り聞かせているところ。 その音をかぶせるようにトランペット、バスーンが わめくところは、王様がわがままを言っているところ。という風に曲の中で、二人に会話をさせている。 そういうことを知って、このバレー音楽を聴くとクラシックも、一段と楽しく味わうことができる。クラシックミュージックと、バレエの組み合わせはいつも 私を魅了させる。

2006年11月30日木曜日

映画「デイーセント」


映画「DESCENT」を観た。 ホイッツ各映画館で、上映中の、イギリス映画。 DESCENT は降りるとか下降するという意味。逆はASCENT。 「エイリアン」以来の 恐怖映画の再来と言われている。分類では、スリラーホラー映画ということになっている。

6人の仲良し女性グループがアメリカのなんとかいう山脈にある洞窟に探検に入る。
ちょうど1年前にこの冒険仲間は カヌーで河くだりを楽しんでいた。その帰途に、そのうちの一人、サラは、交通事故に会い、夫と娘を同時に亡くした。彼女は 一年たっても そのショックから なかなか立ち直れない。こんなサラを元気つけるためにも、仲間同士6人で、冒険旅行を誘い合ったわけだ。 女の子達はみな、ロッククライミングの技術を見につけていて、洞窟の中にどんどん降りていくテンポも早くて、小気味良い。チームワークも良く、そろって洞窟の奥深く 入っていく。

そのうちに、洞窟のずっと奥深くから、サラは亡くした子供が 自分を呼ぶ声を聞く。声に従って 奥へ奥へと入って行ったサラは、地図にない道を見つけて、皆を呼ぶ。それを、図に乗っておもしろがって行ってみようとする 一人のお調子者が先へ先へといってしまい、穴に落ちて膝のところで、上腿骨が飛び出す様なひどい複雑骨折をするのだけど、5人でそれを元に戻してしまうような荒治療で 添え木で歩けるようにしてしまうところがすごい。

でもそのころには、来た道が崩れて、元にもどれなくなっていることに、皆 気がついてパニック状態になる。と同時に どこからともなく現れたエイリアンに一人一人と襲われていく。エイリアンがどんな姿をしているのか 暗い洞窟のなかで よく見えないのに、ギャーという音がすると、一人また一人と 仲間が血だらけになって、食べられていく。音響効果と、洞窟の中にとじこめらて逃げ場がない映像効果で、ものすごい恐怖感!!

次々に仲間が襲われて、生き残ったのは、瀕死のサラの親友を含めて3人だけになってしまった。そんななかで、サラは 死ぬ寸前の親友から、残った仲間を信頼してはいけない、彼女はサラの夫と愛し合っていた、と知らされる。仲良しだった仲間が、次々と、ひどい殺され方をしていって、たった2人、生き残ったのに、一人がサラを裏切って夫の愛人だったと、こんな生死のギリギリのところで、知ることになるなんて、、、DESCENT していった6人がASCENT を夢みながら、夢尽きて、死んでゆく残酷さ。この映画はホラーといわれながら、優れて、人間ドラマになっている。そこが、ばかみたいな思想のないハリウッド映画と違うイギリス映画のゆえんだろう。

むかし、冒険家といわれる、オウダンさんという若者がよく家にきて、家族と食事しながらいろいろな話をしてくれた。日大の探検部を主催していた。彼は常にサバイバルテクニックを磨いていて、自衛隊の潜水班で、活躍したあと、海外建設プロジェクトに関わって東南アジア国々に飛んでいった。彼は、山に篭り、洞窟に一人、潜入して、光のはいらない奥深くの滝の底を潜っていくような、ゾクゾクするような 冒険話をよく聞かせてくれた。洞窟奥深くでは、視力が役立たないので、生物はみな 目が退化して、目のない魚や 目のない蛇や、えたいのしれない生き物が沢山いるんだよ。といっていた。
それで、この映画の予告編を観たとき、わー!! これは、みなくちゃあと思っていた。私は泳ぎも、潜るのも、岩のぼりもできないけれど、その臨場感だけでも、映画を通して、味わってみたかったからだ。

それで、映画を観て感じたことは、、、怖いのは、化け物ではなくて、人間自身だということだ。スリラーとかホラーとか、エイリアンとか、お化けとかいうけれど、人間はそれ以上に充分怖い存在だ。人は平気で信頼している人を裏切り、それを隠し続けて、平然としていることもできる 化け物以上の怖くて悲しい存在だ。

それと、サラを地中の奥へ奥へと呼び込んでいった死んだはずの子供の声、あれはなんだったんだろう。子供を亡くした母親の潜在的な自殺願望ではなかったのか?なぜなら、自分の子供を亡くす事以上の 耐え難い悲しみは 他にはないだろうから。 

いろいろな意味で、この映画は、怖いけど、ホラーではなく、正しくヒューマン映画だった。

2006年11月9日木曜日

映画「父親達の掲げた星条旗」


昨年、「ミリオンダラーベイビー」でアカデミー映画監督賞を受賞した、クリント イーストウッド監督の映画、「FLAGS OF OUR FATHERS」を観た。各地 ホイッツで上映中。

この映画は、1945年日米太平洋戦争の、硫黄島が舞台。
血を血で洗うような激戦の後に、若い兵士達が、硫黄島中央の茶臼岳の頂上にアメリカ国旗を立てたのは、ヒロイズムとちょっとした 茶目っ気の兵士達がやったことだった。それを見た軍の上層部が これはアメリカの良いプロパガンダに使えると考えて、カメラマンを連れて、別の兵士達に、最初に立てた旗より大きな旗を立てさせて、写真を撮る。

このときに撮影された、、6人の兵が山の頂上に国旗を掲げる写真は後にピュリツアー賞を受賞し、アメリカ中の 愛国心を燃え立たせ、破産しかけた軍に資金を提供することになった。 その後も厳しい戦闘が続き、このときの仲間は次々と死んでいく。 国の軍資金が欠乏する局面になって、生き残りの3人は、属していた隊からはずされ、故国に戦争のヒーローとして、帰還して、全国を講演してまわり、軍資金を集めることに利用される。 しかし、この3人は、仲間の屍を踏み越えて山頂に到達し、最初に旗を立てた仲間は その後の戦闘で死んでしまっていることや、自分達が写真撮影用の役者でしかなかった にも関わらず、全国どこに行っても、ヒーローとして熱烈に受け入れられるといった、ギャップに苦しむことになる。

とくに3人のうち、ひとりは、先住民族インデアン出身で、人々からヒーローとして、歓迎されながらも、先住民族の誇りと、アメリカ軍人としての相反する誇り、国を代表して英雄になった喜びと、本当は旗を立てて、死んでいった人々が英雄で、自分ではないという罪悪感から、逃れることができずに、酒びたりになってしまう。
戦争が終わって、彼は農場で、雇われて働らき始めるが、ある日 突然 銃の暴発で死ぬ。事故だったのか自殺だったのか、誰にもわからない。

もう一人のヒーローは、英雄視されていた間は、調子に乗って有頂天になっていたが、人々の熱が冷めて、忘れられてしまうと、ただの、時代の波に乗り遅れた 無学無能の男にすぎなかったことを知らされる。昔、出会った人をつてに、職を探すが、なんの特技も才能もないまま、掃除夫として生きていく。

3人のうち、最後のヒーローは、誰にも戦争のことは、いっさい 語らず、家庭をもち、平凡な人生を終えようとする。しかし、心臓発作をおこし、死ぬ直前に息子に この戦争で、自分が体験したことを、語って聞かせる。  彼は言う、「戦争に英雄なんて、いやしないんだ。それを必要とする人が勝手に作り出しているだけなんだよ。」と。
戦争に良い戦争の悪い戦争もない。正義の戦争も誤った戦争もない。ただ、大量兵器の消耗と人命損失があるだけだ。

ビュンビュン弾丸が飛び交い、大砲が鳴り、激しい戦闘で、手足や首が ちぎれて、飛んできたり、腸がはみ出したり、残酷なシーンが続くが、どこかで、こんなシーンみたような、、、そう、「SAVING PRIVATE RYAN」にとてもよく似ている。 あの ノルマンジー上陸シーンを見たとき、戦争のリアリズムを極限まで、追求している と思った。以来、この映画を超える戦争映画はなかった。クリント イーストウッドも同じこと考えたんだ。

イーストウッドは良い俳優だったが監督としても良い。私が子供の時は、毎週日曜日テレビの「ローハイドー」で、カウボーイ姿のイーストウッドを見て育った。青春時代は、ダーテイーハリーのキャラハン警部。彼の映画史は私の歴史でもある。

この映画はアメリカ側から見た硫黄島の激戦史の一コマだが、今度は、日本側からみた物語を「硫黄島からの手紙」という題で、映画を制作発表するそうだ。現在、編集中。 二つの映画を総合して歴史を検証しようという試み。と、言うから、こちらも観なければならない。宿題がまだ残っている。

2006年10月24日火曜日

ネロ

夏が来ると思い出す詩がある。

私が18のときにであった谷川俊太郎の詩、以来ずっと最も好きな詩のひとつ。
俊太郎が可愛がっていた犬が死んでしまったときに作った詩だ。18才の私と18のときにこの詩を書いた俊太郎の気持ちが みごとに一つになって深く心の奥で共鳴した。

この詩の中にメゾンラフィットの夏 という言葉がでてくるが、これは、作家マルタン デュ ガールの小説「チボー家の人々」という、全5巻の長編大河小説に出てくる フランスの避暑地。そこで、チボー家のジャックはジェニーと出逢って、初めて、お互いに心を躍らせるという物語の中で、大事な場所。その後、フランスはドイツと戦争を初め、反戦活動家のジャックは戦争をやめさせようと、 兵士たちは、戦うのを止めて、国に帰れ、というビラを飛行機から撒こうとして、撃ち落とされて、殺される。

この部分が、当時の軍国日本の最中、若者に影響を与えるということで、当時、日本では出版が禁止された。私の父を含めて、当時の若い人たちは、ジャックの行く末を自分達の生き方と重ね合わせながら、出版を待ったが、敗戦後になってやっと、物語の結末を知ることになる。父が愛着をもっていたこの小説が、俊太郎の詩にもでてくるということで、私には、二重に 特別な詩になった。


ネロ             谷川俊太郎

ネロ
もうじき又 夏がやってくる
お前の舌
お前の目
お前の昼寝姿が
今はっきりと僕の前によみがえる

お前はたった二回ほど夏を知っただけだった
僕はもう18回の夏を知っている
そして今僕は自分のや 又自分のでないいろいろな夏を思い出している
メゾンラフィットの夏
淀の夏
ウィリアムズバーグの夏
オランの夏そして僕は考える
人間はいったいもう何回くらいの夏を知っているのだろうと

ネロ
もうじきまた夏がやってくる
しかしそれはお前のいた夏ではない
また別の夏全く別の夏なのだ
新しい夏がやってくるそして新しいいろいろのことを僕は知っていく
美しいこと みにくいこと 僕を元気ずけてくれるようなこと
僕をかなしくするようなこと
そして僕は質問する
いったい何だろう
いったい何故だろう
いったいどうするべきなのだろう

ネロお前は死んだ
誰にも知られないようにひとりで遠くへ行って
お前の声
お前の感触
お前の気持ちまでもが
今はっきりと僕の前によみがえる

しかしネロ
もうじき又 夏がやってくる
新しい無限に広い夏がやってくる
そして
僕はやっぱり歩いてゆくだろう
新しい夏をむかえ 秋をむかえ 冬をむかえ
春を向かえ さらに新しい夏を期待してすべて新しいことを知るために
そして
すべての僕の質問に自ら答えるために

2006年10月16日月曜日

映画「デビル ウェア プラダ」


映画「DEVIL WEARS PRADA」は、とてもおもしろい、よくできた映画だ。
邦題はなんと言うのだろう?「プラダを着た悪魔」か、「悪魔プラダを着る」か、「悪女はプラダが好き」か? メリル ストリープの名演にはいつも感心する。 

彼女、ロバート レッドフォードと「アウト オブ アフリカ」を演じたときは、デンマークアクセントで、「ソフィの選択」のソフィを演じたときはイングリシュアクセントで、今回は、ニューヨークアクセントで、役柄を徹底していた。彼女はカメレオンか??美しい顔と醜い顔の使い分けも秀逸。他の女優には、絶対 まねできない。
この映画では、とっかえつっかえ、ブランド服に身を包み、つま先から頭のてっぺんまでスキのないオシャレ、服にあわせた、化粧のオンパレード。 ニューヨークをベースにするファッション雑誌編集長の彼女はデザイナー達に コレクション発表の内容を変えさせてしまう程のパワーを持っている。。またワーカホリックであり、雑誌のスポンサーからは絶大の信頼を得て、第一線で、20年も働いてきた。 彼女の右腕、ダイレクターが、ゲイのスタンレイ トツチ。

そのファッション雑誌編集長の秘書に仕事さがしで、応募してきたのがアン ハスウェイ。大学でジャーナリズムを勉強してきた新卒で、キャリアが欲しくて面接にくる。ファッション雑誌の会社の面接なのに、彼女のダサい服装に職場の人々はあっけにとられる。 メリル ストリープとスタンレイ トツチとアン ハスウェイ、3人のうまい役者達のやりとりだけで、すごく面白い。それぞれが役にはまっていて、実に生き生きとして役を演じている。 くわえて、名前を覚えておこうとおもってて、忘れちゃったんだけど、メリルの第一秘書の若い女の子の演技がすごく光っていた。メリルのお気に入り秘書であるために、トップファッションに身を包み、サラダしか食べない やせっぽちの美人で、次から次へとかわる衣装に合わせてアイラインの引き方から、髪型までかえて自由自在に オシャレを徹底するコーデイネーションには脱帽。(あとで、名前はエミリーブラントとわかった。「IRRESISTIBLE」に出ている。)

アンは、初めは おばあちゃんから借りてきたようなスカートに、カカトの低いドタ靴はいていたのだけど、サンプルの服や靴をもらう内、ブランドを着こなして、きれいにストレートパーマをかけて、念入りに化粧もするようになって、みるみるうちに きれいになっていく。そんな過程を見ていて とっても楽しめる。 本当にオシャレって素敵。女の子に生まれて幸せ!って、みんな 感じたのではないかしら。 

シドニーヘラルドお映画評では14歳から104歳までの女性が楽しめる映画だと描かれていた。 そんな風にして編集長の秘書として、パリファッションウィークでパリの一流でデザイナーたちと交流したり、有名なジャーナリストとラブアフェアがあったりするんだけど、雑誌の編集権をめぐるパワーゲームや、20年右腕だった仕事仲間を平気で、切り捨てたりする裏駆け引きに嫌気がさして、一人で、仕事をやめて、アンは ニューヨークに帰って来てしまうのね。

で、メリルににらまれたら、どの新聞社でも出版社でも雇ってもらえないと脅かされていたけど、ローカル新聞社に面接に行ってみると、その編集長は、メリルから、「あなたがこの子を雇わなかったら大バカよ。」といわれていて、採用が決まるところで、映画が終わる。  メリルは ただ残酷にアンをこき使って、使い捨てにしたわけじゃなくて、この新卒を それなりきちんと評価して 育てたわけね。文字どうりデビルなわけ。

役者としては メリル ストリープが勿論一番、二番が スタンレイ トッチとエミリーブラント、三番がアン。4人とも本当に演技がうまい。 アンは「プリンセス ダイアリー」でデビューして、「ブローク バック マウンテン」で、二人のゲイのうちの、片方の男の妻の役に出て、アカデミー女優助演賞をノミネイトされた。 この時ヒース レジャーの妻役をやった女優は、初々しい新妻から、やがて、お母さんになり、幸せな家庭を築いていたのに、夫が男の恋人と逢引するのをみて、狂ったように嫉妬する役を やってとてもよかったのに。この女優の20分の一くらいしか出番のなかったアンが助演賞にノミネイトされたので、びっくりした。確かに彼女にはすごくしっかりした存在感があって、夫がゲイだと認めることは 自分のプライドが許さないという 毅然とした姿が痛々しくも美しかった。良い女優になるだろう。先が楽しみだ。

そういえば このごろじっくり鏡をみてないな、とか、このところ新しい服も靴も半年くらい買ってないなあ、とかいう人は、この映画を観て、ちょっと刺激を受けたほうが良い。女の子同士で観て、すごく楽しめる映画だ。 これを 一緒にみて、一緒に楽しんでくれるような、男の子って私は好きだな。映画にでてくるような、19万円のプラダのバッグを買ってくれなくってもね!

2006年10月2日月曜日

映画「麦の穂ゆらす風」



ケン ローチ監督の映画、「THE WIND THAT SHAKES THE BARLEY」を観た。邦題「麦の穂ゆらす風」。
現在、クレモン オピアム、一時資金繰りが苦しくて閉鎖したが、熱烈なファンの要望にこたえて復活したパデントンのシェベルで、上映中。

2006年カンヌ映画際の平和賞受賞作。ケン ローチと言えば、「マイ ネイム イズ ジョー」、「スイート シックステイーン」など 一貫して人間の良心を描いてきた、今、最も優れたスコットランドの映画監督。作品を見渡してみて、社会派というべきか。

タイトルのBERLEYは大麦、大麦畑を揺り動かす風、とも、大地ゆさぶる風、とも訳せる。 風とはイギリスの圧制から自由を求めるアイルランドの人々の動きを言う。
1920年、一人の青年医師はイギリス軍による暴政をまじかに見て、アイルランド独立運動のゲリラ部隊に入隊、何度も死線をかいくぐりながら、ゲリラ活動を継続する。しかしイギリスとアイルランド間の合意協定で、南アイルランドの独立が認められると、仲間の一部は、それでよしと政府の懐柔策に妥協して、IRAアイルランド共和国軍に合流する。
しかし 青年医師は北アイルランドの独立なくして勝利はないとして、これらと対立、ゲリラを続ける。が、ついに捕らえられ、銃殺処刑される。

実に800年にわたるアイルランド独立の戦いの歴史のひとコマだ。1920年のドキュメンタリータッチの映画だが そのまま現在にいたる北アイルランドの状況を見れば、この映画はそのまま今の話である。
独立獲得の戦いが本当の敵、イギリスよりも、内部の敵、妥協の産物、との戦いになり、路線の違いで、同じ独立運動の同士が殺し合わなければならない青年達の苦渋、愛憎をケンローチは淡々と映像化していく。

オーストラリアはイギリスからの、移民でできた国なので、アイルランド人が多い。上映中、逮捕されたゲリラの隊長がイギリス軍に拷問にかけられ、生爪をはがされるシーンがあったが、隣で映画をみていた老夫婦がたまらず席を立ち、出て行った。アイルランドの苦渋に満ちた歴史の痛みを自分の痛みのように感じている人も この国では多いのではないか。
銃殺される青年医師 CILLUAN MURPHY は優れた俳優だ。別のケイト ブランシェットの映画でもレジスタンス役をやっていた。

ケンローチはプロの俳優を使わず、自分のイメージに合う素人を 町で拾って、映画を作るという 手法で有名だが、今回はみなプロを使っており それが皆、すごく良い味を出していた。地味な映画だけれども、いつもケンローチの映画には、「ほんもの」」 がある。
惜しいのは、アイリッシュアクセントが強くて、劇中、会話を聞き取るのが至難の業だったこと。彼は、スコットランドのグラスゴウを舞台にした作品を多く作っているが、スコットランドなまりがつよくて、イギリス人に理解できないため、字幕がついている。この映画にも英語の映画だが、英語の字幕をつけて欲しかった。

2006年9月25日月曜日

オペラ 「リゴレット」


ベルデイのオペラ、リゴレットを観た。原作はビクトリアユーゴ。

リゴレットは公爵の使用人で、とりまきの一人だが、せむし(これは差別用語か?ならば脊椎湾曲症で歩行障害のある人)でいつも取り巻きからは ばかにされ からかわれてばかりいる。彼は美しい娘、ジルダを自分の命より大切にしている。

一方公爵は女好きで、人妻であろうと誰の妻であろうと、人前であろうとなかろうと かまわず口説いて自分のものにしないと気がすまない。ジルダは箱入り娘で、教会以外には出かけるのを許されていないが、実は、教会で会った男に恋をしている。ある日、その人に 愛をうちあけられて純な乙女心は、天にも昇る思い。男は貧乏学生と名乗るが、実は、公爵。

ある夜、公爵の取り巻きたちが酔った勢いで、ジルダをリゴレットの愛人だと誤解して 彼女を誘拐して、公爵宅に閉じ込める。そこでジルダは 貧乏学生に出会う。娘を取り戻そうと 怒って公爵宅に乗り込んできたリゴレットにむかって、ジルダは意外にも 貧乏学生 すなわち公爵を愛していたと、告白する。こんな男によりにもよって、、、と、りゴレットは あきらめさせようと、ジルダを娼婦宿に連れて行って、公爵が娼婦と遊び呆けているところを見せる。それでも公爵をあきらめられない娘のために リゴレットは遂に殺し屋を雇って公爵を殺害するように依頼する。で、殺し屋がナイフで、約束を果たし、死体をいれた小麦袋を渡す。

ここが、最後の泣き場な訳だけど、リゴレットは死体を確認しようと袋を開けると、出てきたのは公爵の身代わりになった虫の息のジルダで、お父さん ごめんなさい。でも私は心から公爵を愛しているの、と言い、父は父で、もうこの世は終わりだ、命より大切な娘が自分の仕掛けた罠にかかって、死んでしまうといって嘆く。

このリゴレットのバリトンと、ジルダのソプラノのデュエットで、泣かない人はいない。公爵のテノールも素晴らしかった。新人だが、オーストラリア生まれのイタリア人。とても良くて、すっかり泣かされた。

オペラは美しい。豪華な舞台。よく訓練されたパワフルなボイス。ミュージカルと全然ちがう。オペラがバイオリンとすると ミュージカルはギターかな。ギターは自己流でも弾けるし、弾くためにそれほで集中力を要さない。が、バイオリンは専門のトレイナーについて、音が出るようになるのに10年、オペラ歌手も同じ、声が出るようになるのに10年。基礎を作るために時間もお金もかかる。オペラもバイオリンもバレーもそうだが 美とは時間をかけて基礎をつくりあげた上での努力の結果なのだ。

こういった古典はこれからだんだんと時代とともに支持する人々を失い、衰退していくことだろう。素晴らしいオペラを観た後、満足感だけでなく、わずかに もの悲しい痛みを感じるのは滅び行くものたちへのレクイエムを予感するからだ。

2006年8月17日木曜日

映画 「白バラの祈り」


ドイツ映画「SOPHIE SCHOLL」を観た。
クレモンのオピアム、オペラキー、ダりンハーストDNYで上映中。邦題は「白バラの祈り」というタイトル。
37歳のマルクテムント監督による映画。タイトルのゾフィー ショールとは、実在した反戦活動家の名前で、21歳の若さでゲシュタボに逮捕されて、処刑された女性。

ゾフィーは、1943年のミュンヘンで、ヒットラーの末期的現状を訴えるビラをまいて 兄とともにゲシュタポに現行犯で逮捕される。それから地下組織 白いバラのメンバーとして処刑されるまでの5日間をカメラが追った映画だ。

兄は、医学生なんだけど、前線で、兵士たちが士気を失っている悲惨な状況をみて、ドイツはこの戦争に勝てないと判断、非戦を訴えるため地下組織にはいる。ゾフィーは、ヒューマニストの町長だった父がゲシュタポから迫害されるのをみて、また町の精神病院から患者たちが処分されるのを見て、ナチズムは間違っていると考え、地下組織で兄に合流する。


この映画の素晴らしいところは、ゾフィーが取り調べ刑事や、裁判官の厳しい尋問に答えるうちに、ナチズムの純血主義や、ドイツ優越主義が 案外 もろい何の根拠もない思想であり、ゾフィーの人間の良心にそった、人道主義の深さと堅固さを ゾフィー自身が正しい と確信を深めていくところにある。
たった5日間のうちにゾフィーの心の成長が映像を通してみられるのだ。逮捕、尋問、処刑という流れの中で、偏狭な考えの刑事や人の理論を押し付けるだけの裁判官の醜悪さが明確になって 誇りをもってギロチン台にひかれていくゾフィーが 圧倒的な存在感をもって迫ってくる。


処刑直前に かけつけた両親の向かって、ゾフィーは「DO NOT WORRY. I DO SAME.」といって、微笑む。どういうことかって言うと、 これは よく 学校で悪い事をした生徒が両親をよばれて、先生のまえで、ごめんなさいもうしませんDO NOT DO AGAINと言わされる。でも、ゾフィーは、「I DO SAME」と言う。この期に及んでも、ウィットに富んだゾフィー。 それを聞いて、父は、一瞬 笑いかけるんだけど、「お前を誇らく思うよ」といって、ゾフィーを抱きしめる。このシーン泣ける。わーと泣いてしまった。
そして、刑場にひかれていきながら、最後に兄にむかって、「TOMORROW THE SUN WILL BE SHINING」と言う。自分たちが いま処刑されても 明日は 必ず戦争は終わり 人々は自由を取りもどすだろうという信念を失わない。

いつもこういう映画を見ると 私だったら皆が右を見ているときに、勇気をもって前をまっすぐ見ていられるだろうかと自分に聞いてみる。
エイゼンシタインの戦艦ポチョムキンで 一斉に銃をかまえる軍隊に、ストライキの責任者は誰だ? 全員の死か?責任者一人だけの死か?と問われて、「責任者は自分ひとりです」」、と前に出て、死んでいった水夫になれるだろうかといつも自分に問ってみる。

2006年7月25日火曜日

オペラ 「トランドット」


昨夜オペラ、「トランドット」(「TURANDOT」)を見た。 オペラオーストラリア定期公演、オペラハウスにて。音楽:オーストラリアオペラバレエオーケストラ。

毎月 税金36%を給料から引かれて、気が狂いそうになっている貧民が 月に2度もオペラ観るなんて尋常でないが、たまたま1年のうちで観たいオペラが この時期が重なってしまっただけ。



トランドットは 笑わない冷血残酷無比のプリンセスの名前だ。絶世の美女、ということになっている。征服欲の強い彼女は 次々現れる求婚者に 3つの質問をして正解でないとブーっとブザーを押す、、、 という訳ではなくて、無慈悲にも首をはねる。戦争を仕掛けて 近隣諸国の国々を攻めて、征服した国の国王を 野に放して野たれ死にさせる。

しかし、そんなかつての国王の息子プリンスが こともあろうにトランドットに心を奪われてしまう。彼は3つの質問に挑戦して みごとに夫となる資格を得る。

ひねくれプリンセスはどこの誰かわからない名も知れぬ男など婿にできないと、名を聞きだそうと必死になる。そこで 彼に心を寄せる乙女を 取り捕まえてきて 拷問して死なせまでするが、名がわからない。やきもきしているうちに、この男に プリンセスは 唇を奪われてしまう。そして、その男の熱いキスで、氷の心がとける。

で、名前を聞かされた彼女は 夫となる男が、敵国のプリンスだったとわかるが、父親の国王に 婿の名を聞かれて、トランドットは 胸を張り 誇らかに彼の名は「LOVEよ」と言う。ハッピーエンドのオペラだ。

このオペラで プリンスが トランドットを前に、愛を請う美しいアリアは、冬季トリノオリンピックの開会式で、パバロテイが歌ったし、スケートで金メダルを取った荒川静香がこの曲で滑ったので皆 有名になった。

実際オペラは、敷居が高いように思われるかも知れないが、中で歌われている歌は、皆が知っている曲が多い。本当はプッチーニもロっシー二も ビゼーもワーグナーも私たちの身近にいる訳だ。

オペラ嫌いになる人は その道の通みたいなのが、**のテナーはA音が出てなかったとか、ミラノのどこどこの劇場は 音響が悪くてフォルテが効かないんだとか、誰にもわからんような意味不明のことばかり言って、ごく普通の清く正しく食い寝て稼ぎ、たまに舞台も観たいという正しい生活している人に、正しいオペラの案内ができる専門家がいないからだと思う。数学嫌いとか毛虫嫌いと同じ。

オペラの舞台のおもしろさは、特別。毎回驚きがあって楽しい。今回の舞台ではトランドットが NHK紅白歌合戦の小林幸子の衣装借りてきたみたいな服で歌った。 絢爛豪華な服を身に纏った 巨大なガスタンクみたいな 体の大きなプリンスが、歌っているうちに可憐な少女に見えてくるところが 観ていて本当におもしろい。 合唱団も 少年少女合唱団も総出演で豪華な舞台だった。3人のピンパンポンも、とても声が通って、美しいテノール、バリトンを聴かせてくれた。


テナーの主役が風邪で倒れて、急遽、西オーストラリアのパースから借りてきたプリンスだった。 で、、、そのプリンス 動きが少なくて、オイコラーお前、つっ立ってるだけで女に惚れられると思うなよと、どなりそうになった時もあったけど総じて、声ののびが素晴らしく、とてもよかった。