ページ

2024年2月3日土曜日

父の思い出 その3

普段、とうの昔に亡くなった父のことを思い出すことなど全くないのに、FBで親しくしていただいている方がその父上のことを語っているのを読むと、突然降ってきたかのように、自分の父親のことが思い出される。

深く考えてみるまでもなく、とても変な家で育った。
こたつで眠くなって、寄りかかって寝たらしい。目が覚めてみると寄りかかって膝枕になっていたのは見たことのない学生さんだった。夜中の2時ですよ。日曜になると、当たり前のように家に来る学生たちが居たし、遊んでもらう相手も普通に家にごろごろしていた学生や元学生だった。

お嬢さん育ちの母はそういった学生を普通に自分の家来のように電気器具の修理をさせたり、力仕事や庭仕事をさせていた。母は爺やと婆やが世話してくれるような家で育ち、2人の兄からはお姫様扱いされてきた東京の人だったから、家事も育児も大嫌い、淡路島で育った田舎者の父との結婚が嫌で嫌で仕方なかったそうな。
父は「東京湾の泥臭い魚など臭くて食えない。」と言い、瀬戸内海で取れた魚の美味を盛んに言っていたが、釣りが好きなので内房の上総湊に釣り小屋まで建てていた。自分と強制的に連れて行ったゼミの学生たちが釣った魚は泥臭くないらしく、魚屋並みに自分で3枚に捌いたり、皮を剥いだりしていた。上手に魚をさばき、美味しいみそ汁を作る学生には「よし!おまえは今期、Aをやる。」とか言って、、。好きでもない釣りに付き合わされ料理、洗濯、掃除に買い物、私の育児まで任された上、成績まで気を使わなければならない学生達は今思えば、気の毒だった。
母は海に来ないから、父と早稲田政経学部の学生達と過ごした夏は楽しいことばかり。山猿なみに飛びまわって、足の着かない深い海に浮かんで溺れかかったり、座れば足の届かない大人用自転車で、器用にこいでビュンビュン猛スピードで走り回って鉄条網に激突したりした。その時の太ももの傷跡はまだ残っている。

父は小説家になるのが夢だった。学生時代からずっと小説を書いていて大学最後の年に雑誌「新潮」の懸賞小説を投稿した。これで受賞したら一生小説家として生きていく覚悟でいて、作品は最後の受賞候補まで残った。しかし最終審査で受賞したのは、新田次郎だった。夢破れ、叔父の大内兵衛に頭を下げて就職を斡旋してもらい早稲田実業高校で英語を教えることになった。
父の夢をすっかり壊してくれた新田次郎の小説を、父は意地でも読まなかったが、私は大好きな作家のひとりだ。自分の若かった時代はデモに行くか、山を歩くかの2つだけだった。穂高、槍ヶ岳,、剣岳、立山、常念岳、白山三山、、、山のことを何でも知っている新田次郎を心から尊敬した。

私には7つ歳上の姉がいる。父の弟の娘だ。東大出の優秀な弟だったが結核で亡くなり、その娘を父が引き取った。実は父はその母親のことがとても好きだった。谷崎潤一郎の弟の血筋の人で、とても美しい人だった。独身だった父は、告白するのを準備中だったが、その間に父の弟がサッサとプロポーズして結婚してしまった。それを昨日のことのように、「先に取られてしまった。本当に綺麗な人だったのに、取られてしまった。取られてしまったんだよ。」とものすごく情けない顔で悔しそうに言う。私としては慰めようもない。
この姉が美しいことは、家に来る学生や元学生の表情でわかった。姉を見ると文字通りパッと顔が明るくなり、声が高くなるのだ。その横で私は相変わらず山猿かヒトか、、と疑われながら飛び回っていた。
年が経ち、その姉も今年80になる。いまだに美しい。その姉が出かけて帰りが遅いと、82になる夫が「浮気して来たんだろう。」と言って責めるそうだ。美人に生まれてくるのも難儀なものだ。