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2021年12月30日木曜日

2021年の終わりに「AULD LANG SYNE」(蛍の光)を

2021年の終わりに「AULD LANG SYNE」(蛍の光)を歌ってみた。
スコットランド民謡。日本では卒業式や図書館とか美術館の閉館を告げる目的に使われるが、原曲は昔の友達に再会できた喜びを歌った曲だ。ニューイヤーのカウントダウンに、新年に希望を託してこの歌を歌う。

1940年の映画「哀愁」(WATERLOO BRIDGE)では英国軍大尉(ロバートテイラー)とバレリーナ(ヴィビアンリー)が、ロンドンテムズ川に架かるワーテルロー橋で出会い、恋をしてこの曲でワルツを踊る。その姿は二人が互いになくてはならない存在となり、底なしの悲劇に向かっていく予兆のようで、優美ながら哀しい。ロバートテイラーにとってもヴィビアンリーにとっても、この映画が自分が主演した作品の中で一番好きだったと語っている。自分にも忘れられない映画だったので、ロンドンを旅行した時、感慨深くこの橋に立ち、映画の一コマ一コマを反芻しながら歩いて渡ったものだ。

2020年1月29日、英国のEU離脱協定案が可決されたとき、EU議会では、すべての議員が立ち上がり、これを歌った。去る側の英国議員のなかにも、まさかこんな結果になるなんて、と思いながら歌った議員も多かったろう。

  親しい友よ 古き昔のことも記憶から失せていく
  古き良き友のために 乾杯しようではないか
  我ら二人は丘を駆け上がり 可憐な雛菊を折った
  古きむかしから時は過ぎ
  我らは遠く離れて彷徨っていた
  いま親友の手がここにある 手を取り合い友情の盃を
  古き昔のために 乾杯しようではないか
I am singing [ Auld Lang syne ], Scotland Folk song. The text is a Scots poem written by Robert Burn in 1788. This is traditionally sung at the conclusion of New Years Eve.
Movie stars Robert Taylor and Vivian Leigh had dance with this music, that was unforgettable and beautiful in the movie tilted[ Waterloo Bridge] directed by Meriyn Leroy in 1940. The story is Army captain and ballerina met on the Waterloo Bridge during WW1, loved each other however end up in tragic.
on 29-January 2020,this song was sang by members of the European Parliament when the Brexit withdrawal agreement was passed, ending the UK membership in EU. Probably many members felt to be betrayed by people's choice of UK.
Many people will listen this song at the end of 2021 on count down, hoping new year will be better, healthy and joyful 2022.



2021年12月23日木曜日

オアシスの「怒りをもって振り返るな」とマンチェスター自爆テロ

オアシスの「怒りをもって振り返るな」を歌ってみた。
作詞作曲「オアシス」のボーカル、ギタリストのノエル ギャラガーによる1996年の作品。バンドは2009年に解散したが。2017年5月22日オアシス結成の地、マンチェスターで起こったイスラミスト自爆テロの時に人々の間で、この歌が蘇った。

この事件はまだ記憶に新しい。当日マンチェスターアリーナでは米国シンガー、アリアナ グランテのコンサートが行われていたが聴きに来ていた若い聴衆のうち22人が爆発で死亡、120人が受傷した。犯行はリビア難民の両親のもとにマンチェスターで生まれた22歳の青年によるもので、米国による空爆で殺されたシリアの子供たちへの報復だった、と解釈されている。
事件直後、犠牲者のために集まってきた人々の間で、自然発生的に誰かが歌い出した、この歌が一挙に広がり、その数日後の慰霊祭では、5000人の市民の間で大合唱された。この歌でマンチェスターの人々の心がひとつになったように、「怒っても振り返るな」というタイトルは、「辛くても前に進め」、「悲しくても後ろを見ずに前を向け」といった励ましを意味するようになった。歌がいかに人々に力を与えるかがわかる。

 心の中で探してごらん  きっとみつかる
 もっと楽しいところが そんなところはないと君は言うけど
 眼で見てきたものなんて すべてゆっくり消えていく
 僕はベッドから革命を起こす  君は僕をうぬぼれというけど
 真夏の真っ盛りだぜ そんな暗い顔して
 暖炉にうずくまってないで 出てこいよ そんなじゃ
 僕の心は冷えちゃうぜ サリーは待てる
 でもほんとは もう手遅れって わかってる
 でも怒りを持ったまま振り返るな どこへだって
 連れて行ってくれ 昼だろうが夜だろうがロックやってようが
 お前の人生、他人に振り回されるなよ

[Don't look back in anger] is a song by English rock band;
The Oasis, written by band guitarist, Noel Gallagher released on 1996. The band dissoluted on 2009, but this song returned on 2017 : Manchester Arena Bombing 22 young music funs were killed and 120 injured by terrorist. Manchester was home town of the Oasis. The citizen of Manchester 5000 gathered and proud of singing together for the bombing victims to show the city's spirit. [ Don't look back in anger] means ; We can't be looking backwards whatever happened. and we have to look forward to the future.





2021年12月16日木曜日

フェルデイナンド カルリのエチュード

フェルディナンドカルリ(1770-1841)作曲のエチュードを弾いてみた。
カルリはイタリア人でギタリスト、生涯に400曲余りのギター曲を作った。どの曲も哀調に満ちて美しい。
バイオリンは激しくエネルギーを消耗する全身運動で、健康で柔軟な体がないと音が出せない。昨年、自分が弾いたバイオリンの音に絶望してから、二度と楽器を手にしていない。しかしギターは主に指先運動で何とか音が出る。初心者ギタリストにとっては良いが雑音なしに弾くのが難しい。
この曲はカルリの教本の初心者用テキストの、ほんの初めの方の曲だ。400曲、カタツムリのようなスピードで少しずつ練習している。

もうじき1月が来る。オーストラリアに移住して26年、その間に娘が大学を卒業して家を出て行き、もう一人も自立して出て行き, オットが死んで、可愛がっていた愛猫16歳を昨年安楽死させ、一人暮らしの身になった。
今月末に72になるが、今だにフルタイムでナースをしている。日本人旅行者が居なくなったので医療通訳の仕事はなくなったが、今の職場に戻れば気心の知れた仲間がいた。しかし 一番仲の良かったナースは、香港の民主化運動に身を投じる、と言って去年帰国し、今は音信不通。もう一人の仲良しは先月眠っているベッドで亡くなっていた。徐々に友達が減って、寂しい限りだが、生涯続けていける職業に関りを持ち、後輩を育て、さらに芸術に関心を向き続けて、ずっと続けていける趣味を大事にしていきたい。

I am playing guitar etude written by Fernando Carulli ( 1770-1841), Italian guitarist and composer. He composed more than 400 guitar music. I'm doing practice little and little,,, but 400 etudes,, ,long way to go!



2021年12月8日水曜日

ビートルズの「インマイライフ」

ビートルズの「IN MY LIFE」(1965)を歌ってみた。
「いろんなことを思い出すんだけど 
僕の人生にも変化があって  永遠に変わってしまったところとか  なくなってしまった場所とかがあるけど  今もなお続いている場所もある  みんな、その時は特別だった  むかし愛した人とか 友だちとか  みんなちゃんと思い出せる  死んでしまった奴とか  生きてる人も  僕の人生で出会った人みんな愛してる  だけど  今まで出会ったどんな人と比べても
君みたいな人は他に居なかった  だから昔のこと 昔の記憶が遠く思える  この湧き上がる新しい愛  今も昔の思いは忘れないよ  立ち止まって昔のことに想いをはせる  だけど 今は 君のことをもっと愛していく   僕は今  君のことを もっともっと愛していく」

なんかとても初々しい恋の歌とも、若者の旅立ちの歌とも思える。ジョンレノンは「過去に愛した人や昔の友達へのセンチメンタルな思いを書いたんだ。」と言っている。ビートルズの曲213曲のうち、70%は、ジョンレノンとポールマッカートニーの作詞作曲で、二人共同のクレジットになっている。

ビートルズは1962年のレコードデビューから1970年の解散までの短い間に、どれだけ音楽の世界だけでなく社会に強い影響を与えたか語りつくせない。
自分は、彼らの歌を聞きながら、1968年に大学に入るなり、反安保、反ベトナム戦争運動の巨大なうねりに飛び込んでいった。この時期は社会での自分の立ち位置を決めるための重要な時期だったと思う。

[ IN MY LIFE ] is a song by The Beatles, written by John Lennon and Paul McCartney released on 1965.
The Beatles commenced recording from 1962, and they broke out on 1970. Only very short period they had worked together, however they effect huge influences not only to music but to society all over the world. For myself, I became university student on 1968 and immediately became a radical activist for anti-Vietnam war and anti US and Japan treaty. That 1960-70's were great period and that made me now.



2021年12月2日木曜日

最新スマホのCMにオールドヒットソング「I WANT IT THAT WAY」

アメリカンボーイズバンド:「バックストリートボーイズ」のヒットソング「I WANT IT THAT WAY」を歌ってみた。マックス マーチン作詞、アンドレアス カールソン作曲、1999年作品。

先週テレビを見ていたら サムサンのスマホ、ギャラクシーのコマーシャルにこの曲が使われていたので、ちょっと驚いた。

コビッドが、この2年間人々の生活をすっかり様変わりさせてきたが、そのうちのひとつに、1人1台のネット環境のスマホが必要不可欠になったことが挙げられる。シドニーでは牛乳1本を買うにも、スマホを通して店のQRコードを登録し、ワクチン証明書を見せないと、店に入れない。図書館にも学校にもどこにも入れない。私の職場では仕事前に、スマホでQRコードを登録し、ワクチン証明書を提示し、PCRテスト結果を見せ、勤務表を見せないと仕事も始められない。コロナによる失業手当も、休業手当もスマホを通して申請すると、その5分後には銀行口座に振り込まれていた、と聞く。便利だが、今や買い物も、公共料金支払いも、みなスマホを通してだ。
全世界の地球人が携帯電話の奴隷になった感がある。24時間スマホの微弱電磁波を浴びながら、右往左往している。私たちは、自分たちの親の生きた平均寿命を生き延びることができるのだろうか。

I am singing [ I want it that way ] released by American boys band [
Backstreet Boys] on 1999, written by Max Martin and Andreas Carlsson. Last week when I was watching TV, I found this song was used for commercial for SumSang Galaxy: the latest mobile phone.
It's interesting old hit song used for the latest high tech phone,, ,any way I don't want it that way.



2021年11月24日水曜日

「夏の思い出」とブッシュファイヤーと気候サミット

「夏の思い出」を歌ってみた。作曲:中田喜直、作詞:江間章子、1949年作。
これから本格的な夏にむかうシドニー。ああ、またブッシュファイヤー(山火事)の時期になるのかと思うと恐ろしい。
2019年10月からオーストラリア全土で5か月間燃え続けたブッシュファイヤーでは、33人死亡、770万ヘクタール消失、焼失家屋2500軒、400人余りが煙害、有害微小粒子による喘息で死亡。同じころブラジルで山火事が起きて話題になったが、その面積の5倍の面積が燃えた。その後2月に降り始めた豪雨が1週間続き、大規模な水害を起こしながら、燃え続けていたブッシュファイヤーは消火された。
シドニーに住む自分の家にも燃えがらが沢山飛んできたし、空が昼も夜もオレンジ色に覆われる姿には、この世の終わりか、と思い、喘息もちには24時間呼吸が苦しい日々が続いたし、その後の豪雨では、浸水で車が被害を受けた。

この11月グラスゴーで、1980年代からの新自由主義による野放しの資本主義が地球のCO2を破滅的に急増させた、という前提にたって、気候サミットが開催された。世界中の国々が2050年までに地球上のCO2を減らし気温上昇を止めるために、いかに脱炭素社会を作るかについて、話し合われた。そして、予想通り石炭火力発電をゼロにするという、最も基本的な合意が反故された。
インド、米国、オーストラリアがゴネた。黙っていた日本も姑息なことに、石炭火力発電所をこれからも、新規建設する予定を変えていない上、インドネシアやバングラデイシュに発電所を輸出する予定だ。オーストラリアも資源国だから、石炭輸出に経済を支えられている。みんなカンニング国家、チーテイング常習国ばかり。グレタ トウンバーグら若い人々が怒るのが当たり前だ。

地球上の水分は総体的に変わらない。地球の一方で日照り、山火事、砂漠化が進んでいれば、一方では洪水、豪雨、地滑りで被害が出ている。
暑い時、寒い時、地球の反対側で暮らしている人たちは、いまごろどうしているのだろうか、と、いつも考えをめぐらすことができる人間で居たいと思う。
I am singing Japanese old song[ Memories of Summer ] written by Yoshinao Nagata.



2021年11月17日水曜日

「スタンドバイミー」とマゴと燕

ベン E キングが歌っている「スタンドバイミー」を歌ってみた。
原作スチーブン キング、監督ロブ ライナーによる1986年の同名の映画のテーマソング。ひと夏の12歳の子供たち4人の甘辛な冒険物語。映画史に残る永遠の名画。
これから、本格的に夏に向かうシドニー。毎年この時期には渡り鳥の燕が、うちのアパートのガレージに巣を作る。ガレージは半地下で出入り自由になっているので、その天井に巣が6つほど出来ていて、それぞれ3,4羽のヒナがいる。彼らはエサを運ぶ親鳥を待ち構えていて大騒ぎ、喧しいほどだ。

ニューサウスウェルス州では、コビッドワクチンを2回接種した人口が州人口の94%を超えたので、やっとロックダウンが緩やかになって、半年も会えなかった娘たちとマゴ達が、訪ねてきた。半年も会えずにいてウカウカしている間に、マゴ娘に身長を越されていた。
この日、マゴが、巣から落下した2羽のヒナを見つけた。気温は22度なのに冷たい強風が吹きまくって体感10度の寒い日だった。冷たいコンクリートの暗い隅で震えている。「触るな、落ちたヒナをうちに連れ帰ってはいけない。まだ赤ちゃんで人からは食べ物を受け付けられず死なせることになる。」と獣医の娘は、激しく言う。
なんかシュンとして、みんなよく眠れない夜が明けて、マゴたちは、どっかから誰かさんの、高くまで登れるハシゴを勝手に持ってきて、2羽のヒナを巣にもどすことに成功。巣の中でちゃんと親が運んでくるエサをピーピーいいながら待っているのを確認。ああよかった。ああ嬉しい。

その日の午後、娘一家が帰る時、巣の横に駐車していた車を出そうとしたら、2羽の親鳥がチョコンと横に張られた電線に並んで、こちらに向かって姿を見せた。彼らのありがとうというメッセージをしっかり受け止めて、マゴたちは帰っていった。6か月ぶりに二人の娘とマゴ達に会えたこと、2羽のヒナを救命できたこと、それはそれは、しみじみと良い日だった。
I am singing [ Stand by Me] by Ben E Smith ; the theme song of same titled movie. The film is a 1986 American film directed by Rob Reiner, based on Stephen King's novel. River Phoenix and other three 12 years old boys go on a adventure trip, bitter and sweet story, that is unforgettable, one of the best movie.



2021年11月11日木曜日

ベストフレンドの葬儀の日に「ハレルヤ」

レオナルド コーエンの「ハレルヤ」1984を歌ってみた。コーエンはカナダ出身のユダヤ人、詩人でシンガーソングライター。

この歌の歌詞って、ちょっと訳せない。旧約聖書に描かれている逸話をよく知っている人にも難しい。歌詞の第1番では、古代イスラエル王ダビデ(デビッド)が月明かりの中で沐浴している美しいバドシェバを見て、言い寄って自分のものにして子供まで作ってしまったことで、神がダビデを罰するお話しがちょっと出てくる。
歌詞の第2番では、ヘブライ人で怪力サムソンを、ペリシテ人のデリラが、その力を奪うために誘惑して怪力の秘訣である髪を切って無力にしてしまう逸話に触れている。第3番では大理石にヘブライ語で刻まれた神の戒めについて語られる。で、神への賛美が繰り返し歌われている。

先週、職場で一番仲の良かったナースを亡くした。
私より少し年上のドイツ人で、がっしりした体、歩くのも、仕事も、判断も私より早く、趣味はぴったり一致。同じオペラ、同じシンガー、同じ美術館めぐりが趣味。映画を見たり本を読んだりして、良かったものは必ず彼女とシェアして話し合ってきた。
72歳になるというのに、このコビッドで戦争のような医療現場でどうしてフルタイムでナースをやっているの、と人に聞かれると、「私より年上の彼女が居るから辞められないよ」、と答えていた。 亡くなる1週間前まで働いていて、つい先週彼女が帰るところを呼び止めて、30分もおしゃべりしたところだった。
一人暮らしで連絡がないので娘が訪ねて行って、ベッドで眠るようにして、亡くなっていた。悲しくて、喪失感が大きすぎて辛いが、私たちが仲が良かったことを知っている職場の人たちが、急に、私にはれ物でも触るように親切になった。そういう気使いもつらいので、わがままを承知で1週間休暇を取っている。
I am singing [ Hallelujah ] written by Leonard Cohen: Canadian singer song writer on 1984.



2021年11月4日木曜日

ジョン メイヤーの「燃える部屋でゆっくり踊れ」

ジョン メイヤーの「SLOW DANCING IN BURNING ROOM」(燃える部屋でゆっくり踊れ)を歌ってみた。選挙結果をみると、こんな気分だよね。

 燃える部屋でゆっくり踊れ ふざけてる訳じゃないよ
 嵐の前の静けさとも違う  僕らが行き着く先のことさ
 誰もあなたを助けに来ない
 僕たちは何度も何度も助けを呼びすぎたからね
 僕たちは落ちていく  わかってるね それが運命さ
 僕らは燃えている部屋で ゆっくり踊ってる
 あなたは雌犬みたいに僕にひどいことができる 
 僕を殴り、傷つけ 辛い思いをさせる 君にはわからない
 僕たちは落ちていく
 泣けよ さけべよ どしてそうしないのかい

オーストラリアは、600日間の「鎖国」を解いて、この11月1日に「開国」した。コビッドが外国から持ち込まれる危険対策として一昨年12月から、国民の海外渡航を禁止、外国からの来豪を禁止し、事実上の鎖国をしていた。
オーストラリアはニュージーランドとともに他国に類をみない厳しい水際作戦を取ったため、たまたま仕事や冠婚葬祭で外国に居た6万人以上のオージーが、自分の国に帰れなくなった。移民によって形成されている国だ。国民の4分の1は外国生まれ。母国ブリテンからアフリカ、チベットにもアンデスの山奥にも世界中にオージーは散らばっている。
私の職場だけでも 旧ユーゴスラビア、独国、ガーナ、シエラレオーネ、ネパール、タイ、フィリピン、香港、中国、チモール、チリ、インド、バングラデイシュ、サモア、フィージー出身者がいる。みなオージーだ。外国で帰国できず、600日間ただただ帰国便を待っていた人々は本当に出費も、生活も大変だっただろう。

シドニーのあるNSW州では、16歳以上のコビッドワクチン接種率が95%に達しつつある。3回目のブースターも始まった。PCRテストも、医療施設に行かずとも普通にスーパーでキットを買って、自宅で検査できる。ワクチン接種率が上がり、州境も半分だけ開いて、シドニー、キャンベラ、ビクトリア州の州境を、隔離期間なしで、行き来できるようになった。またシドニーとNSW州の地方をも行き来できるようになって、100キロ離れたところに住む娘家族に、やっと会いに行けるようになった。クリスマスを家族で祝えるようになりそうで、ほっとしている。
I am singing[ Slow Dancing in burning room] by John Mayer.



2021年10月28日木曜日

香港アムネステイ事務局閉鎖、「HARD TO SAY I’M SORRY」

香港アムネステイインターナショナル事務局が閉鎖される。
この10月31日で事実上、40年の活動の歴史に終止符が打たれる。理由は、新法である国家安全法によって中国政府の介入で、自由な人権保護活動ができなくなったため。文字通り中国の強権に屈して退却することになった。これによって現場からは、香港の人権被害を調査、告発することができなくなる。

アムネスティは、人間の尊厳や人権について教育をし、人権侵害の事実がないか調査をし、それが疑われる場合はキャンペーンを国際規模で広め人権回復に努める組織だ。香港事務局はバンコク支局とともに、中国、台湾、日本、韓国、北朝鮮、ミャンマーなどアジアの国々とオーストラリア、パブアニューギニアなど太平洋諸国まで広範な国々を担当していた。過去に香港に死刑制度を廃止させた実績もある。

私の香港人の親友は、シドニーで長いこと一緒に働いてきて、立派な家を建て、息子たちを大学にやり、優秀な息子たちは、すでに研究職につき家庭も持った。何不自由なくシドニーで隠居できるのに、彼女は2019年、逃亡犯条例改悪が持ち上がった時、4万人デモに参加するために休職して香港に飛んだ。そして弾圧されている活動家達を支える「母親の会」を立ち上げた。その後、逃亡犯条例どころか、死刑つきの政権転覆罪、国家安全法までが履行されることになった。デモ参加者が顔識別カメラでとらえられ数日後に大学で連れ去られる、ザック背負っで歩いていたら私服のデカにバッグの中を探られる、と彼女はワッツアップでこぼしてきた。
頻繁に連絡しあってきたのに、このごろ返事がない。盗聴されているだろうから、へたなメッセージが送れない。彼女の安全が心配で心配でたまらない。職場で10年、二人で辛い時に支え合ってきた。いま彼女は一人きりで苦しんでいるのかと思うと、声をあげて泣きたくなる。

「素直になれなくて」(HARD TO SAY I’M SORRY)1969を歌っている。バンド「シカゴ」のピーターセテラに歌われた。
  僕は謝るのが下手なんだ あなたは少しの間離れてみようと                    
  あなたと一緒に居たいだけなんだ
  君と約束した通りに努力してみるよ
  本当にぼくが悪かった  どこにも行かないで
I am singing [ Hard to say I am sorry ] 1969, is a song written by Peter Cetara, a basist and vocalist for the group: Chicago". The band produced by David Foster.



2021年10月21日木曜日

ポールサイモンにとっての「ホームワード バウンド」(帰郷)

ポール サイモン作詞の「ホームワード バウンド」(帰郷)を歌ってみた。作曲者不明。
  駅で僕はギターを抱え、これから演奏旅行にいくところ            
  夜ごとに街から街へ移動して歌って歩くんだ
  本当はすごく家に帰りたい 
  家に戻れば苦しくないし ゆっくりできるし
  自分の音楽やってられるし 恋人だって待ってる
  毎日僕はタバコと雑誌で時間をつぶし
  どの街も映画館と工場ばっかり 人々もみんな同じ顔 
  今夜僕はまた自分で作った歌を歌う 約束通りにね
  だけど僕の吐いた言葉は自分に帰ってくる
  凡庸で、空虚な歌 こんな僕を慰めて欲しい
  本当はすごく家に帰りたい
  家に帰れば苦しくないし ゆっくりできる
  自分の音楽やってられるし、恋人も待ってる

ポール サイモンが無名時代に恋人と別れてデビューするために家を出て行った時に作ったという曲。後から考えると彼にとっての家は、恋人と住んでいたエセックスではなく、自分が生まれ育ったニューヨークのユダヤ人街のことだったのかもしれない。あるいはもっと掘り下げて、ホームとは、お母さんの子宮に戻りたいと言う、人の根源的な願望を言っているのかもしれない。人はみな自分がひどい失敗をしてしまったり、みじめな時、もう一度お母さんの子宮に戻って、はじめから生き直したいと思うものだ。
住んでいるアパートの隣が教会で、その入り口に電光掲示板がある。夜になると聖書からの言葉なんかが出てきてピカピカ光っているが、昨日のは、「R U OK?」だった。(アーユーオーケー?)あなた 大丈夫?というわけだ。コビッド禍が2年近くに及んで、精神的にダメージを受けていない人は居ないだろう。
若くて無名だったサイモンは、自分の才能を信じて家も恋人も捨てて、家に帰りたいよーと叫びながらも振り返らず、前に進んで成功を掴んだ。苦しい時自分の感情をため込まないで、外に放出する。黙っていないで、文章や歌や語ることで、傷ついた心を表現することが、とても大事なことだ。
I am singing [ Homeward Bound ] Lyrics written by Paul Simon, composed by unknown and recorded by Simon & Garfunkel.



2021年10月14日木曜日

「真夏の果実」とコビッド現況

サザンオールスターズの「真夏の果実」を歌ってみた。熱い恋の歌だと思っていたら「マイナス100度の太陽みたい」な失恋の歌だった。
ニューサウスウェルス州シドニーは、3か月余り続いた厳しいロックダウンが一昨日から条件付きで解除になった。16歳以上のワクチン接種者が91%、2回のワクチン接種を終了した人口が76%に達したため。3か月ぶりに開いたレストラン、パブ、ショッピングセンター、ヘアサロン、映画館などに、ダブルワクチン接種証明書を見せ、QRコードを登録すると入ることができるようになって、4か月ぶりに髪を切ってもらってホッとした。
国境、州境閉鎖は変わらず、メルボルンを州都にするビクトリア州では、いまだ300日近い、世界一長い厳しいロックダウンが続いている。FBを見れば、台湾の友達は仲の良い家族同士で誘い合い山に湖にキャンプを楽しみ、日本の友達も演奏会、映画、観劇、オペラを楽しんでいて、なにか別世界か、異次元世界をのぞき見るような思いだ。
公式累計数をみるだけでも米国70万人、ブラジル60万人の死者数に比べるとオーストラリアは人口比の死者は、比べ物にならないくらい圧倒的に少ない。隔離と閉鎖で感染を徹底的に封じ込めてきた。幸い医療現場で、患者の自宅待機や、救急車のたらい回しや、機材不足や医療崩壊は起きていない。医療従事者不足を、エイジェンシー、医学生、看護学生、引退者などに頼っているのも事実だが、感染した医師や救急隊員やナースを休ませても現場を何とかやりくりしている。それは、現場がとても頑張っているからだ。
デルタの感染力は今までヒトが経験したことがなかった速さと、致死率で伝播している。ウィルスの致死性と、毒性にはワクチンで、それを弱毒化するしか方法はない。12歳から老人まで可能な限り免疫力をつけることが唯一の予防でもある。
スペイン人に侵略された南米マヤの人たちが、持ち込まれた伝染病のために抵抗もせずに敗北し、ピラミッドを作り素晴らしい金細工作る高い技術を持った民族が根こそぎ失われた歴史を見れば、感染症は決して軽く見てはいけない.
ロックダウンが緩和されて無邪気にワクチン証明書をかざして、パブで乾杯し、買い物に繰り出す人々の群れを、横目でみながら、これから急増するだろうワクチン未接種者の重病化への対応、クリスマス前後に聞かなければならないとだろう人々の悲鳴を予想して、心の準備をしている。
I am singing [Manatsuno kajitsu] ( Mid Summer Fruits) 1990, written by Keisuke Kuwata, and recorded by his rock group: Sothern All Stars. The song tells bitter sweet memory of a mid Summer love.


 


2021年10月8日金曜日

「You raise me up」とケルト文化

「ユーレイズミ―アップ」を歌ってみた。
ノルウェーアイリッシュ人のブレダングラハム作詞、ロルフラブランド作曲、この二人組デイユオ「シークレットガーデン」によって2002年に発表された。
 落ち込んで心が疲れてしまった時 
 何もかもうまくいかなくて 心に 重荷を背負ってしまった時  
 ここであなたを待つ あなたが横に座ってくれるまで
 あなたがいるから 山の頂まで登って行かれる
 あなたに寄りかかっているから 嵐の海にむかっていける 
 飢えるって命があるからでしょう
 心臓は休むことなくうち続けてくれる あなたが居てくれて永 
 遠を見ているような気がする
 あなたが居るから 山の頂に行ける 
 あなたの力を借りて嵐の海に向かっていける
 あなたが居るから 今以上のわたしになれる

この歌がディュオによって曲を発表された時は、注目されずにいたが、ダニエルオドネルや、ケルテイックウーマンなどに歌われて、徐々にポピュラーになった。それは、「消滅」されたケルテイック文化への再認識、ブリテンからのスコットランド独立への動きに伴って、ケルトの血をひくもののアイデンテイテイが大きく取り上げられるようになったのも一因だろう。この曲で歌われている「あなた」とは全知全能の神様とか、あまり頼りにならない夫のことではない。歌詞にゴー マウンテンと、聖書の言葉があるが、ジーザスのことではなく「あなた」とは個人のアイデンティティのことだと考える。自分が育った土地、言語、文化すべてによって培われた自分の信条のことを指している。
紀元前1500-400年青銅器の時代に中央アジアの草原からヨーロッパに渡来したインドヨーロッパ語族、ケルト語派と呼ばれる人々を古代ローマ人は「未知の人」ケルトと呼んでいた。ギリシャとエトルリアから学び鋭利な鉄でできた武器を持ち、馬に引かれた戦車に乗っていた。ケルト戦士は剣と槍で戦い、その勇猛さは、戦闘は始まるや否や衣類を脱ぎ捨て金の首輪や腕輪だけの姿で戦ったという。討ち取った敵兵の首を自分の馬にぶら下げて自慢する狂暴な獣だった、とローマ人は伝えている。
「ルビコン」をこえたジュリアスシーザーによってケルトは侵略され500年もの長い間強力な支配下に置かれるが、じつはシーザーが生まれるずっと前、BC390年、ローマはケルトに7か月間のあいだ 侵略された。そのころローマは、すでに下水道完備、法が整備された共和制の布かれた文化都市だったが、蛮族ケルトに侵略され食糧庫を焼き壊されたため食料が無くなり、水道に死体を投げ込まれ飲料水がなくなり、そのため疫病が蔓延して自分達も含めて飢餓に苦しんだ。そのためローマ人は7か月後に300キログラムの金を引き換えにケルトの撤兵を願い出た。ケルトが引き上げた後、完全に破壊された文化都市を取り戻すのに、ローマ人は40年かけて再建したという。この間のことは塩野七生の「ローマ人の物語」全43巻(新潮文庫43巻!!!)に詳しい。
その後ジュリアスシーザーによってBC50 年代に、フランス、スペイン、ドイツ、ブリテン諸島などに広がっていたケルト族もローマ軍に占領される。ここはシーザー著による「ガリア戦記」に詳しい。
その後500年経って、ローマ帝国の衰退にともない、アングロサクソンによってイングランドが侵略され、ケルト語がゲルマン語にとってかわられる。しかし同じブリテン島でもスコットランドやアイルランドはアングロサクソンの支配が充分に及ばず、ケルト語は生き残った。現在でもケルト語を話せる人は、アイルランド、スコットランド、ウェールズで何万人もいる。
基本的に文字を持たない文化は消滅することを免れないが、ケルト文化の復権運動が起きて、言語がいまでも大切に伝承されていることは嬉しいことだ。この歌もケルト語で、ケルトの血を引く人たちによって歌われることに価値がある。
[ You Raise me up]
I am singing this song written by Brendan Graham, composed by Rolf Lovland in 2002, and recorded by Norwegian-Irish Duo: Secret Garden.



2021年10月1日金曜日

「椰子の実」をめぐる島崎藤村と柳田国男

「椰子の実」を歌ってみた。1901、島崎藤村が出版した詩集「落梅集」に収められている。作曲大中寅二。
舞台は愛知県渥美半島。島崎藤村の友人、柳田国男が大学生2年生で、ひと夏を過ごし伊良湖岬の海岸を歩いていたときに、椰子の実を見つけた。それを聞いた島崎藤村が、それを詩にした。

のちに民俗学者となる柳田国男が、椰子の実を見て、黒潮に乗って南洋諸島からその実が流れてきたように、日本民族も南洋から渡ってきたのではないかと考えた。柳田は、これを契機に日本人がどこから来たのか考察するが、仲の良かった島崎は、椰子の実をセンチメンタルな旅人の心に託して歌を作った。椰子の実ひとつについて語り合った二人が、そののちに民俗学者と文学者になっていったことは興味深い。
歌詞は古い日本語なので、日本で教育を受けていない娘たちに藤村の詩は、スペイン語で聖書を読むより難解なので現代語にしてみた。吉丸一昌の「早春賦」を歌った時も???だったから。
 名も知れない遠い島から 流れ着いた椰子の実
 故郷の岸を離れて どれほど長い旅をしてきたのか
 実のなっていたもとの樹は 今もなお 茂っているか 
 枝はなお 影を作っているか
 わたしは波の音をききながら ひとり旅をする人
 椰子の実を胸に当てれば 旅人の憂いが身にしみる
 海に沈む夕日をみれば 故郷を思い涙ぐむ
 遠い旅路で思いをはせる いつの日か故郷に帰りたい

I am singing " A Coconut" written by Toson Shimazaki and Toraji Daichu in 1936.
A traveler found a coconut fruit drifting on the surface of water in the seashore in Aichi prefecture. That fruit might be arrived from South West Island and traveling days and months. Like the coconut fruit the traveler has been traveling alone. His sentimental memory flushed back, then he decided some day he will back to his place where he came from.






2021年9月29日水曜日

ちいさな医療現場からコビッドを考える


この1年半のあいだ、医療現場で走り続けてきた。
公立病院でも、ICU勤務でもない、年寄りばかりの施設でのんびりしているから71歳のナースでもフルタイムで働けるんだろうと、思われるかもしれないが、となりに建つ北部最大の公立病院から急性期を越えたばかりの患者や、リハビリ期にある患者や、障害者も送られてくるし、精神病院の入院患者よりも悪化したアルツハイマー患者も送られてくる。特にこの1年半のあいだは、公立、私立ともに病院がコビッドに振り回されているので、こちらも多忙を極めた。

ワクチンが政府からリリースされてすぐ50人の患者と40人余りの職員は全員2回のワクチンを受け、施設は厳しいロックダウンとし、患者への家族面会禁止、職員のうちホットスポットと言われるコビッド陽性者が出た地域から通ってきている職員には3日に一度PCRテスト、2か所以上の職場で働く職員には1か所だけで働くようにさせ、とにかく50人の患者をコビッドから守ることに専念してきた。オーストラリアで昨年のコビッド死者100人(1000人ではない)のうち80%が、メルボルンのあるビクトリア州の老人ホームから犠牲者が出たことから、その二の舞はしてはならないと考えてきた。

冬に年寄りは亡くなる。いくつも既往歴をもっていて免疫の弱い年寄りは、軽い風邪や尿路感染で冬になるとあっという間に亡くなる。しかしコビッドが流行し始めてから肺炎で亡くなる人はいなくなった。毎日まめに検温し、熱発や風邪っぽい人はすぐに 隔離してPCR検査をして抗生物質などを投与して処置したからだ。そうして、50人の患者をコビッドから守ってきた。

自分がコビッドをは運んではいけないから、この1年半の間、どこにも行っていない。休暇で日本旅行する予定はキャンセル、海のリゾートで家族そろって過ごす予定もキャンセル、愛するマゴたちには毎日でも会いたいのに、1年半の間に会えたのは、6回だけ。シドニーのロックダウンと再びロックダウンされる僅かな隙間を縫うように、何とか工夫をして去年のクリスマスとマゴの誕生日に会うことができただけ。日々成長が激しく、会うたびに身長の伸びに驚愕する。そんな子供たちの成長を見届けることができないのは、何よりも悲しい。

この間、親しくしている若い職員が二人も脳出血で倒れた。一人は救命できたが障害が残り職場復帰できない。ストレスが原因だ。医療従事者は、みな喜んでこれほどのストレスにさらされる現場に居るわけではない。病気で休職中や、辞めて行った職員も多い。
自分も、大学でマスコミを学び、大学卒業後、新聞社に勤めた。その後、夫の赴任先のフィリピンではインターナショナルスクールでバイオリンを教えていた。医療現場以上に興味のある職場があったら、そこに行く。ナースが天職だなどと思ったことは一度もない。そう言いながらこの職場にもう15年も務めてきた。いま、コビッドで健康な若い職員が脳出血で倒れるほど激しいストレスのもとで働かなければならないのは、コビッドの悪魔性もあるが、人々の無理解にあると考える。

感染症の感染を止めるには、人と人との接触を止めるしかない。
自分の住むシドニーのあるニューサウスウェルス州では、デルタ型コビッドが入ってきてからロックダウンとなり、すでに14週間それが続いている。州人口の80%が、2回のワクチンを済ませないとロックダウンは終わらない。それを州知事は14週間言い続けてきたが、なかなか80%に達しない。
世界人口の44%という膨大な数の人口が、すでにワクチンを打っているというのに、ワクチンで死んだ人の方がコビッドで死んだ人より多い、とか、ワクチンは毒だ、とか、製薬会社の陰謀だ、などと言う者がいまだに居る。

ワクチンは集団免疫を作らない。そんなことはわかっている。小説に出てくるような強力な警察国家が人口99%に、大人にもに子供もワクチンを強制しなければ集団免疫などつかない。しかしワクチンは、感染重症化を予防する。ワクチンは自分がウィルスを運んで、ワクチンが打てない、免疫不全の人や、子供や、障害者に感染することを最小限に止める。自分がウイルスを運ばないように、弱い人々の命をまもることが大切なのだ。

ワクチンを打つかどうか、ロックダウンを守るかどうかは、個人が選択すべき「自由」だという人がいる。自分が赤ちゃんの時に母親が、予防接種を受けてきたゆえに、結核にもならず、小児麻痺で障害も受けず、百日咳で呼吸困難にもならずに生きてきたことを忘れている。自分が恩恵だけ受けて、ワクチンを打たずにマスクもせず、ロックダウンも守らず「自由」に出歩いて叫びたて、デモで警官にツバを吐いた男が、翌日救急車で運ばれてコビッドで病院で治療を受けている。「自由」は、単なるわがままや、子供じみたエゴイズムではない。自由の概念は、そんな安っぽいものではない。

政府は12歳から16歳の子供にワクチン接種を勧めている。「自由」に判断して自分だけでなく自分の子供にもワクチンを打たせない母親たちは、ドクターの予約を取り、子供がきちんとワクチンについて医師と話し合い、学校の先生とも話し合ったすえにワクチンを打つかどうか、自分で選択する自由を与えて欲しい。子供を私物化しないでもらいたい。
自分はコビッドには感染しないからルールを守れないと言う人は、是非、ENDURING GUARDIANS(自分が意識不明や昏睡状態になった時に、どうして欲しいのかを明記する書類)にサインして、自分はコビッドに感染しても救急車の世話にも病院の世話にもならない、と約束してからワクチン拒否、マスク拒否、ロックダウン拒否をしてもらいたい。

守るべきは、州知事が言ったことや政府が罰則を布いて、決められたことにただ従うことではない。自分が考えて自分の倫理に従って、弱者は誰なのか、誰を自分が守らなければならないのか、考えることが倫理なのだ。
きちんとした科学知識を持ち、にも拘らず自分の信念 信心をもってワクチンに反対する医療従事者もいる。それはそれで仕方がない。今年の12月には、ワクチンを打った人も打たない人も、ワクチン人口が80-90%に達したら、「自由」に出歩けるようになる、と宣言した州知事の決断には賛成だ。
「平等」に人々が苦しんでいるのだから。

2021年9月22日水曜日

豪国の原子力潜水艦建設に反対する

豪国の原子力潜水艦建設に反対!

今、豪国はフランス大使が召還されてしまって、マクロン大統領に「裏切者」「後ろから攻撃する卑怯者」「米国の愛玩犬」「下品で粗野で残忍な奴」と攻撃されている。仏国だけでなく、EU議長からも、豪国との信頼関係は絶たれた、真摯な態度で説明をしないでいるとEU全体との外交問題となる、と言われている。
事の発端は9月15日に渡米中の豪国スコットモリスン首相が、突然米英豪3国共同軍事協力を約束し、米国の技術で豪国で原子力潜水艦を建設すると発表したことによる。
寝耳に水の仏国が怒るのは当然だ。7年前から独仏日の入札、交渉の結果、やっと仏国から動力型潜水艦を、900憶ドルで買う契約を済ませている。両国で数千の雇用で経済効果が約束されていたのを、一方的に契約破棄され、その損害賠償だけで4億ドル。代わりに、米国製の長距離極超音速巡航ミサイルが搭載される原子力潜水艦が建設される。このため今の豪国の軍事予算GDPの2.1%を超える史上最大の出費が予想される。
豪国は、EU と仏国だけでなく、隣のニュージーランドからも非難されている。核兵器も原子力発電も拒否してきた非核のニュージーランドは、原子力潜水艦の入港も領海に侵入することも許さないとアダーン首相は言い、近隣国との協調を目指すことが大切であると強調した。
シドニーはいまコビッドで、厳しいロックダウンの13週間目に入った。自宅から5キロ以内の距離で生活必需品を買いに行くか、エクササイズ以外外出禁止、誰を家に入れることも訪問することも禁止、学校もオフィスも自宅でリモート、おかげで倒産、失業、自殺数は、連日記録を更新している。そんなときに国は、900憶ドルの仏製を買うのをやめて、4億ドルの契約違反金を海に捨て、さら何倍もの金額の原子力潜水艦を買うと言う。
強力な武器で近隣諸国を威圧しなければならないとしたら、それは外交に失敗していることになる。私は25年間この国で働いてきて給料の35%を税金に取られている。他国よりも短時間にたくさんの人を殺せる武器を作ることに税金を使うことは許せない。武器増強は「安全」の抑止力にはならない。何のための核武装か。子供じみた軍備競争はやめなければならない。米国を基にする武器、死の商人の言うままになってはいけない。
原子力潜水艦という「漂流するチェルノブイリ」「海底のフクシマ東電」を作ってはならない。
武器を持たないことが、最大最強の武装である。
Scott Morrison Australia PM announced the US, Britain and Australia made a historic new partnership, and decided to built nuclear powered submarine by US technology in Australia.
It's long range hypersonic missile technology and undersea drones, against China's escalating militarisation of South China Sea.
It means Australia dumped the contract to buy $90 billion submarine from France, after negotiation and planning program the past 7years and promised thousands jobs. Cancellation for contract with France costs $4billion. A furious France Emmanuel Macron recall Ambassador and he blamed Scott Morrison "poodles of the US", "brutal, graceless, inelegant" and " stabbed from the back".
Australia should maintain healthy tie with China, the biggest economy power in the world. The continuing arm race and power projection in the region should be stopped. The Nuclear powered submarine is " floating Chelnoyble", and " Deep sea HIROSHIMA".
Arm racing doesn't bring peace and never stop a war.
No arms are the best arms.



2021年9月21日火曜日

ビートルズの「ノーウェアマン」

ビートルズの「ノーウェアマン」を歌ってみた。1964、ジョンレノンと、ポールマッカートニーによって作られた。ジョンは、新曲を作るために5時間も苦しんで、何もアイデアが浮かばずにいたが、たった一人でどこに行く当てもない、アイデアもない、何をしてよいかわからない自分の姿に自分で気がついて自分のことを曲にしてみた、とあとで語っている。
ビートルズによるアニメ―ション映画「イエローサブマリーン」に使われている。
訳詞は、自分よりも達者な、娘の書いたものがあったので、それを書いてみる。

あいつはほんとのノーウェアマン
誰もいない国に住み  誰の役にも立たないことを考える
 生きている意味がわからなく
 どこへ行くのかも知らない
 まるで君と僕みたいだ
ノーウェアマン 聞いてごらん
君は大事なことを忘れてる  世界は君の思い通りになるんだ 
 何もみていないようだけれど
 自分の見たいものは見てる  僕のことも見えてるかい
あせらなくてもいいよ
自分流儀でやれよ
困ったら誰かに手を貸してもらえよ
 ものの見方がわからなく
 何をしていいかもわからない  まるで君と僕みたいだ
ノーウェアマン 聞いてごらん
君は大事なことを忘れてる  世界は君の思い通りになるんだ
 あいつはほんとのノーウェアマン
 誰もいない国に住み  誰の役にも立たないことを考えてる

I am singing [ Nowhere Man] 1965 written by John Lennon and recorded by The Beatles. John wrote about himself after rache said. This music used for [Yellow Submarine] animation movie made by The Beatles.






2021年9月16日木曜日

ポールマッカートニーの「ヘイジュード」

「ヘイジュード」1968 ポールマッカートニー作詞、作曲を歌ってみた。
ジュードとは、ジュリアンの愛称。ジョンレノンとシンシアが離婚して、ジョンがオノヨーコのもとに走った時、ジョンの息子ジュリアンは、5歳だった。ポールはジュリアンのことを赤ちゃんの時から可愛がっていたので、事態を知るとすぐにロンドンからジュリアンとシンシアのところに飛んで会いに行って、ジュリアンを慰め、力になろうとしてこの歌を作った。

ジューと言えば、独語でユダヤ人のことだが、それをポールは知らなかった。一般的にジューと、ユダヤ人に限らず誰でも気軽に「きみ」と呼びかけるときに使われることもあるので、自分もこの歌は、気弱な男の子が、好きな彼女に言い出せないでいるのを、叱咤激励している恋の応援歌かと思っていたが、あとで前妻のシンシアの書いたものを読んで、ジュリアンのことだったんだと知った。
5歳の子供に向かって、がっかりするなよ、君のお母さんはお前が夢中になるほど素敵な人じゃないか、何でも分かってくれるよ、君はやせ我慢なんかせず泣いてもいいけど、お母さんが一緒だぜ。元気出せよ。と言っている。

ジョンレノンは、レノンでアイドルグループから第一線を走るアーチストとして生きるために、オノヨーコが必要だった。オノヨーコの美術展に行ったことがあるが、キューレーターから説明を受けなければ訳のわからない作品が多かったが、それでも彼女のほとばしる才能と、独特の宇宙観に手触りを感じた。
ニューヨークで、ヨーコの白い壁に釘が沢山あって、どこに釘を打ってもいいと、かなずちが置いてあった作品の前で、ジョンが釘を打ちつつ初めてヨーコと出会い、会話して、その時からジョンがひきずり込まれるようにヨーコに惹かれていった、というエピソードがとてもわかるような気がする。ジョンはこのときミュージシャンではなく、本物のクリエイターになりたかったんだと思う。

何か新しい局面にぶち当たった時、どうすべきか。一番弱い立場に居る人の側に立ってみる。被害者、突き落とされて傷つき悲嘆にくれる人、自分に何が起こったのか分からなくなって混乱し、言葉を失っている人、そうした弱い立場に立っている人と同じ側に立って物を見るということが大切だと思う。

今でこそロンドンニューヨーク間は、直行便で8時間で飛べるが、60年代ではその倍もかかっただろう。ジュリアンの気持ちを思って仕事を放り出して、ジュリアンに会いに行ったポールの気持ちを思うと、胸の中があたたかい思いでいっぱいになる。
I am singing [Hey Jude]1968 、written by Paul McCartney. Jude is nick name of Julian, son of John Lennon and his wife Cynthia. After John left his family for Yoko Ono, Paul came from London to visit Cynthia and Julian. Then he wrote [Hey Jude] as way of consoling little Julian...." And anytime you feel the pain, hey Jude refrain, Don't carry the world upon your shoulders".... poetic words sing to a confused and hurt 5 years old little boy and some of the most empathetic lyrics ever written. Cynthia later wrote that Paul was the only person who dared anger John, by visiting her and Julian in their time of need.





2021年9月9日木曜日

「五番街のマリーへ」と男社会

「五番街のマリーへ」1973作詞:阿久悠、作曲:都倉俊一を歌ってみた。

1950年の終わりから60年にかけて、プレスリーが歌いながら腰を振るのは、公共秩序に反し道徳と教育に悪く、若者の非行を助長するという理由で、警察が出動して、彼が腰を揺らしたら即、逮捕という条件でステージで歌わなければならなかった。
ビートルズが世に出た時、人々は長髪の男たちの登場に顔をしかめ、「不良」のレッテルを張り、PTAなどこぞって、彼らのレコードを公衆の場で踏みつけ叩き割った。
今では冗談のようだが、これが事実であって私も歴史の証人だ。

18で大学に入りすぐベトナム戦争、安保反対闘争に突入、家を出て、当時学生が占拠していた学生会館をに根城にして、毎日ガリ版でビラを作って蒔き、集会でデモを呼びかけ、連日デモり、せっせと敷石をかち割り、逮捕者を救援する、一緒に活動する仲間と思っていた活動家と称する男たちは、ほとんどが女を「同志」と考えず、俺の女とか、誰それの彼女という範疇でしか存在を認めようとしなかった。
逮捕された警察署で「お前らPは、」と言われて、意味が分からず聞き返したら、マルクスは俺のものはお前のもの、お前のものは俺のものと言っている。だからお前ら女子学生は、誰とでも寝る売春婦を同じだ、と言われた。2度目の逮捕の時は、もう囲まれていて逃げようがない場で、重装備の機動隊に「女のくせに生意気」と飛び蹴りされて、地面に倒れたところを数人の機動隊に殴る蹴るの暴力を受けた。左翼の多くも、ポリと同じ封建時代、明治男の頭だった。冗談のような話だが、事実だ。

リベラルな家庭に育って、父も叔父たちも母方の叔父たちも皆、戦争に抗した大学教授だった。しかし家庭では、父は平気で、「女は馬鹿だ」と言い放ち、私の2歳上の兄だけを「世継ぎ」として甘やかした。戦後貧しい中でも四谷大塚のような塾に通わせ中学で下宿までさせて、東大に行かせようとし、その後就職まで面倒を見る親ばかだった。父は死ぬ前、とても甘えてきて何かと頼りにしたが、財産の大半は兄に残して死んだ。家のアルバムに私の写真はほとんどない。兄の小さなころからの笑顔ばかりが張り付けてある。冗談のようだが、これも事実だ。

「五番街のマリーへ」は、昔マリーを捨てた男が、何年かしてマリーに思いをはせる、センチメンタルな歌だ。自分がマリーを懐かしく思うと、マリーの方も自分を懐かしく思ってくれていると信じて疑わない、うぬぼれた思い込み。俺がマリーを捨てた時、マリーの方も別れたがっていたかもしれないし、思い出したくもないかも、あるいはすっかり忘れているかもしれないとは決して思わない男の身勝手と自己過信。マリーに悪いことをしたと思うなら反省して、匿名で小切手でも送りなさい。黙って、そっと力になる、ということがどうしてできないのか。勝手に自分と他人との過去を装飾して、ノスタルジアと自己愛にふけるのは、やめたほうがよろしい。
どうして女は怒るのか。
答えは簡単だ。男が甘やかされすぎていて、未熟なまま成長し、大人になれないまま死んでいくからだ。(笑)
I am singing [ 5 th Avenue's Mary ] written by Aku Yu and Tokura Shinichi in 1973 and recording by Pedro and Capricious



2021年9月2日木曜日

「赤とんぼ」と「おぼろ月夜」

「赤とんぼ」三木露風作詞、山田耕筰作曲と、「おぼろ月夜」高野辰之作詞、岡野貞一作曲を歌ってみた。
日本はこれから「赤とんぼ」の季節に入り、自分が住むシドニーはこれから「おぼろ月夜」を迎えることになる。日本の秋とこちらの春は、気温が同じくらいで、一年で一番自然が美しい時期だが、あいにくシドニーは、ロックダウンが10週間目になる。国境封鎖、州境封鎖、訪問者禁止でどこの家を訪ねてもいけない。1日1回1人だけ5キロ以内に、マスクをして食料などの買い物に行けるが、店に前でQRコードを入力しなかったり、5キロを超えて外出すると$5000の罰金。どこにも行けず、誰とも会えない。学校は閉鎖され、オフィスはリモートワークのみ。これが2か月続いていて、さらに、2か月延長されるもようだ。

職場のナースたちは、3日に一度PCRテストして、外出許可証をもって職場に来ている。仕事中、マスクをしたうえで、プラスチックのフェイスシールドを付け、ガウンを着て働いていると、自分の吐きだしたCO2を吸って動き回っているので、呼吸が苦しくなって死に物狂いの形相で働いている。
近代医療は感染症との闘いだった。細菌感染では抗生物質で治療を途中でやめたり、多用すると、MRSAメチシリン耐性黄色ブドウ球菌のような耐性菌ができ、さらに強力な抗生物質が必要になってくる。ウイルスは細菌より小さく細胞膜がないので抗生物質が効果ないのでワクチンしか治療法がない。初め接触感染で弱かったコロナウイルスが、デルタ株が世界中に波及してからは、1人が感染すると家族4人に感染させ、2日後には100人を超える感染力を持つ。伝染を止めるためには人と人の交流を止め、ロックダウンするしかないという論理はEUをはじめ世界各国が経験してきたことだ。患者隔離、PCRテスト、QRコードで徹底した個人の行動を追跡して感染者を隔離、下水検査、国民の80%までワクチンを打つこと、これらを早急に進めなければならない。子供たちを死なせないために。
コロナが終息して戻っていく社会は、再びパンデミックを繰り返さないために、今までの利潤優先の競争社会の発展をスローダウンしなければならない。森林を守り、野生動物の捕獲や売買をやめ、地場の有機農業を援助し、地域のものを食べ、屋根に太陽光パネルを置き、化石燃料による電力を拒否し、原子力発電を終結させ、フロンガスを使った電化製品をやめ、漁業網の海上投棄をやめさせ、プラスチックをなくしていく。必要なもの以外買わない。
コロナパンデミック終息後、戻っていく社会は、コロナ前と同じ社会であってはならないだろう。同じ社会に戻れば、第2第3のパンデミックが大規模に広範に、深刻に人の生存権を脅かすことになる。
経済成長をスローダウンする。そのことによってパンデミックの再来を止める。そういった叡知が人にはある、と思いたい。
I am singing Japanese old song [Red Dragonfly] and [Shadowed Moon]. When these songs were sang by people, most Japanese 90%population were agricultural workers, poor, hard working but helping each other at their community.
Right now we are suffering with pandemic COVID19,and 4,5
million people died in the world wide, 24000 in Japan, 1000 people in Australia. Every body wants to back to normal: 2019 happy past as soon as possible, after 80 % population will be fully vaccinated.
However, we should not be back exactly same world because the key of pandemic was there in the past, free Capitalism, consumer first society. Japanese economy depends 100%imported oil, 30% imported foods, still unable to give up nuclear power plants and coal power plant, continuously large amount of CO2 product in the society, and medical system was completely corrupted because of shortage of government money and privatized system.
Hope to see economy growth make slow down. Better humanity society ahead.




2021年8月26日木曜日

PPM の「PUFF」とマゴ自慢

PPMの「PUFF」を歌ってみた。
 魔法の恐竜パフは、霧に囲まれた海辺に住んでいる。いたずらっこジャッキーはパフが大好きで、まねしてヒゲやウロコを作って身に着けた。二人して大波こいでボートで旅に出た。ジャッキーはパフのしっぽに登って見張り役。お姫様や貴族たちは丁寧にお辞儀して、海賊たちは怖がって、旗を低くした。恐竜は永遠に生きるけど,ジャッキーはいつまでも子供じゃない。作り物の羽や輪は他の道具に使われて、ジャッキーはもうパフに会いに来ない。パフは悲しくて、悲しくて、頭は低く垂れ、緑のうろこも剥がれ落ちた。もうパフは勇者になれない。魔法もなくして、ひとり洞窟に閉じこもってしまったよ。

マゴの自慢話をしてみたい。
マゴが3歳の時、この曲を聴いて涙を流したのだった。たった3歳の子供の想像力と豊かな感受性に感動した。パフとジャッキーの絵がのっている絵本があったわけではない、恐竜パフの映画を見たわけでもない。小さな少年がパフと一緒に大冒険をして仲良しだったのに、少年は恐竜を忘れ、傷心の恐竜は魔法の力を失ってしまう。歌を聞いただけでパフの気持ちを察することができた3歳の子の信じがたいほどの感性の柔らかさに心打たれた。
その後も、この子は成長につれ自分で絵本を作ったり、手先器用にドールハウスを作ったり、印象的な絵をかいて驚かせてくれた。紫式部じゃあるまいし、いくらなんでもそんなに長く髪を伸ばして、と思っていたら誰が勧めたわけでもないのに、どこかから情報を得てきて、癌で髪を失った人のために自分の伸ばしてきた髪をバッサリ切ってきた。
暮れに長年一緒に生きてきた猫のクロエを私は亡くした。今でも安楽死させた獣医の前を車で通ると、どっと涙が自動的にあふれてきて前が見えなくなる。安楽死させたその日、誰もいない家に戻ると、辛くてつらくて娘たちに携帯でメッセージを入れた。すると1分もしないうちに、このマゴが、「おばあちゃんクロエを亡くして辛いでしょう。でも悲しみすぎないで。これからはクロエは、おばあちゃんの胸の中でずっといっしょにいてくれるから。」とメッセージを送ってくれた。11歳の思いやりのこもった言葉をもらって前を見ることができた。マゴの何という、心の成熟度、人の心を思いやることができるマチュアリテイ。私はマゴを見ていて、人の精神というものが、どれほどの成熟性をもつことができるのか、それは実際の年齢と関係がないことを知ったのだった。 12歳になるREMI、 お誕生日おめでとう。

I am singing [Puff the magic dragon] written by Peter Yarrow and Lenny Lipton and recorded by Peter, Paul and Mary(PPM) in 1963.PPM is American folk group formed in NY 1961. This song is about lost love, and broken heart story,, childhood playmate Puff was forgotten by Jacky.
When my grand daughter was 3, listen first time this song and she became emotional and tears. I was surprised only 3 years old girl can imagine the feeling of lost. How rich imagination and sensitive heart she has. She'll turn to 12 soon, still she has been surprising me at many ways : giving me artistic draw, playing violin for nearly 10 years, swimming like Nemo, kicking ball in soccer field, giving me hand made story book, donating her long hair for cancer patients, and showing sympathy when I lost my cat; Chloe and gave powerful message.
I learned mental maturity is not only related to age.
Gorgeous my grand daughter Remi, Happy birthday!


2021年8月24日火曜日

大叔父さん大内兵衛のオリンピック

大叔父さんの大内兵衛が治安維持法で逮捕拘禁される1年半前に、個人書簡で、オリンピックについて書いたものが見つかったので、シェアしてみる。1936年ベルリンオリンピックのときを、保田の家で夏休みを過ごしていたときの文。オリンピアンを馬や鳶に例えるなど、いつも達観していて、お茶目な彼らしい言葉に笑ってしまう。鳥にしても、鷹(タカ)でなくて、鳶(トンビ)に例えるところも、いかにも叔父さんらしい。わざと、時間ギリギリに家を出て、ドアが閉まる寸前に電車に飛び乗って、人をハラハラさせるのが好きな人だった。
「8月に入って保田の海岸の光景は一変した。小学生のラジオ体操がなくなって、若い男女の学生がたくさん森永のキャンプストアの前の砂の上にうずくまって物静かなラジオを聞いている。ベルリンの伝えるオリンピックの鼓動を彼らの若い血潮の心臓において再生産するのだという話だが、私見によれば走ることにおいては人は馬に敵わず、飛ぶことにおいては鳶にかなわない。だから本来西洋に発達したスポーツに日本がまけたとして悲しむに及ばず.勝ったからとて、そう喜ぶことはないはずで、僕はこの目前の現象がどうしてこうあるかについて全く理解するところがない。ただ、先頃の議会において外国人の真似をせぬほうがよい、という理由でメーデーの挙行を阻んだ、広田総理が、この外国にオリジンをもつオリンピック東京招致に歓喜し、その上巨額の国幣さえ投じようとしている点から考えると、オリンピックというものは何か非常時的ないし、国民神話的な効験をもつものではないかと察せられるのである。



2021年8月19日木曜日

テネシーワルツとリチャードライト

「テネシーワルツ」を歌ってみた。
1948年にピーウィーキング作曲、レッドスチュワート作詞。テネシーはアメリカ南部の州で典型的な南部の常として人種差別が激しかった。貧しい人々にまで人頭税の納税義務が課せられていたにも関わらず選挙権がなかった。公民権法によって、アフリカンアメリカンに選挙権が与えられたのは、なんと1965年になってからだ。
1968年4月4日に、マーチンルーサーキング牧師が殺されたのも、テネシー州のメンフィスだった。アフリカンアメリカンの人権運動のために遊説中だった。
メンフィスと言うとプレスリーが生まれた土地でブルースの中心地、カントリーミュージックの発祥地であり、レコード会社サンレコードにジョニーキャシュ、ジェリールイスなどが集まってきていて、ギターのギブソン本社もあって、ミュージシャンにとって明るいイメージがある。
でも子どもの時からリチャードライトを、涙と鼻水でぐちゃぐちゃになりながら読んできた自分には、メンフィスというと、怒りと悲しみのイメージしかない。
リチャードライトはメンフィスに育ち、何の理由もなく白人に自分の家族や友人たちが殺される日々の体験を通して、恐怖と屈辱と怒りをペンにたたきつけるように小説を書いた。初めて読んだ時の衝撃は忘れられない。
身近に1930年40年代に、治安維持法で逮捕、拘禁された大叔父にあたる大内兵衛や、叔父に宇佐美誠次郎がいたにもかかわらず、彼らが寡黙だったのと、家では政治の話を全くしなかったため、「やさしい叔父さんたち」の思い出しかない。自分は「人権」というものの価値を、リチャードライトから学んだと思う。

I am singing [Tennessee Waltz] written by Pee Wee King and Redd Stewart in 1948. Tennessee is one of the most conservative US South territory, and racial discrimination was strong culture. After the US Supreme Court ruled racial segregation to be unconstitutional in 1954, schools were integrated and the right of vote were given to African American in 1965.
On April 4 1968, civil rights leader Martin Luther King Jr. was assassinated in Memphis Tennessee. King participated lending march for black's right to vote, desegregation, labor rights and basic civil rights.
Since I was a small child I was deep impressed by [Black American Writer], Richard Wright. He grew up in Memphis and facing, watching, and suffering white men were killing black men without any reason only for amusement. He wrote his novels for express his full of anger, hate, and terror. I have learnt what human right are, from this writer, Richard Wright.



2021年8月12日木曜日

サイモンとガーファンクルの「アイアム アロック」

サイモンとガーファンクルの「アイアムアロック」を歌ってみた。
 冬のある日、寒くて暗い12月、僕は一人ぼっちで、窓から降りしきる雪を見ている。僕は堅固な岩。揺るぎのない島。僕は壁を作った。完全な砦みたいな壁に誰も入れない。友達なんか要らない。笑ってみたり愛して見たり、友達なんて自分が傷つくだけさ。僕は岩。僕は島。
愛のことなんか言うなよ。そんなヤツ僕の記憶の底で寝ちまってるさ。僕は誰も傷付けたり、死んだ思いをすることもない。だって僕は岩。僕は島。僕は本をたくさん持ってる。僕の詩は僕を守ってくれる。僕は武装して、まるで子宮の中にいるみたいに安全な部屋にこもってる。僕は誰も触れることもないし、誰も僕を触れない。だって僕は岩。僕は島。
シドニーはこの歌みたいに真冬で、ロックダウンがすでに8週間続いていて、家族や友達を訪ねていくこともできない。厳しい自宅隔離で自宅から10キロ以内で食料品などを買いに行くことができるだけ。自分には仕事があるが、大多数の人は仕事に行けず、1年半にわたって繰り返されたロックダウンで職場そのものが倒産寸前だったり、政府のわずかな補助金で生き延びるしかない。
これではサイモンでなくても「僕には友達も恋人もいない、痛みを感じることも泣くこともない、」と、「岩」になりたくなる。
1966年、若かったポールサイモンの感受性の強い魂に触れる曲だ。日本では昨年コビッドが流行り出してから、この8月までに33500人の自殺者が出ている。人々は共通する社会の中でルールを守りながら、少しでも自分だけでなく多くの人に良くありたいを思って生きている。社会はヒトとヒトとの関係で成り立っているが、それが遮断されたら個人はどう生きればよいのだろう。自殺者を出さない。身近な人々、孤独な魂にあたたかい息を吹き込むこと、それがワクチンよりも大切なことだ。
I am singing [ I am a rock ] written by Paul Simon, recording by Simon & Garfunkel.
I have imagined, 1966, Paul Simon was so sensitive and delicate young poet. = In a deep and dark December, I am alone, ,,I have no need friendship, that cause pain. Do not talk of love, I never loved, I never would have cried because I am a rock, I am a island,,,.
I am alone at home already for 8 weeks except working days, by the Sydney lock down law, unable to see family, unable to visit friends.
Since COVID had spread last year about 33500 people killed them selves in Japan. I believe people can not live alone. We need to talk to some one, any one, any time, and need to express selves, that is important than Vaccine.