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2021年6月27日日曜日

映画「水俣」とユージンスミス

映画「水俣」
原題:「MINAMATA」
監督:アンドリュー レビタス
音楽:坂本龍一
キャスト
ジョニー デップ:ユージン スミス
ビル ナイ   :雑誌ライフ編集長
美波      :アイリーン スミス
真田広之    :患者活動家、ヤマザキ
国村隼     :日本窒素社長         
浅田忠信    :患者家族、ムラマツ 
加瀬亮     :患者、カメラマン

2020年ベルリン国際映画祭で特別招待作として、ワールドプレミアムで上映され好評を得た。今年は、水俣病が公害として公式に確認されてから65年目となる。いまだに患者として認定されていない患者も居り、患者の苦しみが無くなったわけでも、問題が解決したわけでもない。

ストーリーは
ユージン スミスは第2次世界大戦で戦場カメラマンとして活躍し、雑誌ライフで作品が取り上げられ、高く評価されていた。26歳で、サイパン、硫黄島に派遣され、沖縄で日本軍の砲撃にあい重症を負った。このときの後遺症で、激しい頭痛と、固形物を咀嚼できない障害に一生苦しめられ、それがアルコール中毒の遠因となる。

1970年、51歳のユージンは、雑誌ライフ専属のカメラマンとして籍を置いていたが、わがままで酒びたりな為に、編集長の意向に合わず、衝突ばかり繰り返していた。ニューヨーク、マンハッタンに自分の仕事場をもっていたが、ある日そこに、日本の富士フイルムからコマーシャルを撮影する仕事を依頼され、通訳として同行してきたアイリーンと出会う。このときアイリーンは、20歳でカルフォルニアのスタッフォード大学の学生だった。母は日本人で父親はアメリカ人、11歳まで東京で育ったので日本語が流暢だった。初めて会ったばかりなのに、人嫌いで偏屈だったユージンはアイリーンに、これから自分のためにアシスタントになって欲しいと申し出る。そしてアイリーンもそのまま大学を中退し、二人はそのまま同棲する。アイリーンの勧めにより、ユージンは、公害病の水俣病に関心をもち、雑誌ライフの編集長に、会社から水俣に派遣してもらうように交渉するが、断られ、ユージンとアイリーンは自分達の意志で水俣に飛ぶ。

ユージンとアイリーンが水俣で見たものは、水銀中毒による悲惨な患者たちの姿だった。理解ある患者家族の世話で、小屋を借り仕事場ができた。しかしその家族からも、胎児性水俣病のために生まれつき重症の脳性麻痺患者の姿を撮影することを拒否される。人々はアメリカから来た有名なカメラマンがカメラを向けると、顔をそむける。やけになってユージンはアルコールをあおり、自分のカメラを四肢麻痺のあるシゲルにやってしまう。怒ったアイリーンは患者たちからカメラを寄付してもらって、患者たちと日本窒素との団体交渉の様子などをユージンに撮影させる。また患者でカメラマンの活動家の力を借り、窒素病院に潜入して患者の姿や秘密にされていた資料などを撮影する。水俣病患者と日本窒素との争いは、窒素の株主総会に患者団体と窒素の雇った警備員や暴力団とが衝突するなど、日本中に知られるようになった。時に、1972年ストックホルムで国連環境会議に、水俣病患者代表団が送られることになり、雑誌ライフの編集長は、ユージンに写真とストーリーを送れ、と檄を飛ばす。

はじめのころ、日本窒素社長は、ユージンを呼びつけて、50万ドルの札束を渡して母国に帰れ、という。この忠告にユージンが応じないでいると、次に人を使って、ユージンが写真を撮りフイルムをプリントするなどの仕事に使っていた小屋を放火させた。自分が撮影した作品がすべて焼け落ちて、ユージンはまたアルコールを浴びるが、患者たちがこれを機会に、自分たちの大事な肉親が水俣病で苦しんでいる姿を撮影しても良い、という許可を与える。これによってユージンは救われる。しかし、1972年1月、患者交渉団とともに200人の窒素社員の強制排除にあい、カメラを壊された上、脊椎骨折、片目失明の重症を負わされる。ユージンは、負傷による後遺症に悩まされながら患者たちと交流を重ね、ライフにも写真を載せてもらいカメラマンとして再び脚光を浴びる。1974年10月、3年間暮らした水俣を後にして、ユージンはニューヨークで、写真集「MINAMATA」を出版する。

というおはなし。

映画が始まったとたんに、「音」に感動する。坂本龍一の音楽がとても良い。ニューヨークの仕事場でカメラマンとして、乗りに乗って仕事している暗室のユージンに、デイープなロックが腹に響く。しびれる。
胎児性水俣病で体を曲げることも、言葉を発することもできない娘の世話を頼まれて、逃げ出したい気持ちを抑えて、彼女を抱きながらジョニーデップが、「フォーエバーヤング」を調子外れに歌う。生まれてきた子に幸あれ、恵あれ、という歌詞のボブ デイランの歌だ。ジョニーの声に後追いでこの曲が流れる。音楽が映像につながっている。人から人へと生活の中でつながっていく。音の使い方が秀逸だ。

印象的なシーンがいくつかある。アイリーンが、「写真の撮り方を教えて」という。ユージンは急に冷酷な顔になって、「アメリカンインデアンはむかし写真を撮られると魂を抜きとられると信じて写真を撮らせてくれなかった。しかし’魂を取られるのはカメラマンの方なんだぞ。写真をとるということは魂と引き換えに撮る覚悟がないと、撮れないんだぞ。」と言う。
また後になって、患者交渉団に対して日本窒素の警備員や暴力団が患者に襲い掛かって一方的に危害を与える姿に怒り罵言するアイリーンに向かって、ユージンは「黙れ!!!口を閉じろ。怒りをレンズに向けろ。写真を撮れ。」と怒鳴る。これがプロの「ことば」というものだろう。実際、アイリーンはユージンの死後も水俣に関わり、この映画の製作にもかかわっている。これらはユージンの遺言のようなものだろう。


伝説の写真「TOMOKO IN  HER BATH」だ。胎児性水俣病患者の娘を抱いて母親が風呂に入るシーンの音と映像が、神々しいほど美しい。このシーンを見るためだけのために、この映画を見る価値がある。素晴らしい。弱い風呂場の光に照らされて、母が抱く娘、折れ曲がった娘の手足、愛情にみちた母の横顔、信頼とあふれるほどの愛が映し出される。これほど美しいシーンを見たことがない。ユージンが、1枚の写真が1000の言葉以上の力を持つ、と言っていたが、このことだろう。素晴らしい。

映画はユージンを水俣病被害者の側に立った、ヒューマンで立派な男として描いておらず、父娘ほどに年の離れた妻アイリーンには頭が上がらないアルコール中毒で、繊細すぎる心を持った、弱さを抱えた男として描いている。水俣病訴訟も、宇井純先生の公害自主講座も、ユージンが窒素の暴行を受けて大けがをしたことも、当時東京に居て知っていたが、ユージンの人柄については知らなかった。
ジョニー デップは良い仕事をしてくれた。一流の俳優陣、音楽、製作陣、とても良い映画だ。映画配給がメジャーな会社ではないので街の大きな映画館で上映していないことがとても残念だ。

明治末期に農業と製塩業が衰退した九州熊本県で、合成肥料を作る日本窒素が工場を建設したのは、水俣の奥地の鉱山に電力を供給する水力発電所があったためと、水俣の熱心な誘致の結果だった。水銀を触媒にして塩化ビニールを合成する新技術をもった日本窒素は、日本の産業発展のための最先端をいく会社となり、小さな漁村だった水俣は一挙に人口数万人の企業城下町として繁栄した。会社は生産に追われ、水銀は無処理のまま海に捨てられた。

激しい脳神経症状を示す患者が続出したのが1956年5月。原因究明をした熊本大学医学部は、工場排水が原因だと考えたが、そこから取れる魚は多種多様の毒物を含んでいて、何が原因か同定できないでいた。そのころ日本窒素では、すでに原因が水銀であることを知っていたが、会社側も、通産省も、企業秘密にして情報を大学研究班に伝えなかった。会社側は、風土病だろうとしか、熊本大学に伝えていない。

1956年6月に新潟県阿賀野川下流で、昭和電工が工場から出るメチル水銀を垂れ流し、海産物を汚染、それを食べ水銀中毒になった第2の水俣病患者が、多発したことにより、水俣病が大きく取り上げられることになった。患者側の努力によって、1959年になって初めて水俣病の原因がメチル水銀であると認定された。しかし会社側は、わずかな患者に、わずかな見舞金で、ことを収めようとする。

1968年9月にようやく水俣病の原因が、窒素の工場排水によるもので、公害病であることが公式の認められたとき、この病気の発見から12年がたっていた。
それでも水俣病患者たちと、少額の慰謝料でことを済ませようとする加害企業窒素との争いは、果てしなく続く。政府と窒素は患者数を限定、患者を審査する認定委員会の委員を入れ替え、患者数を減らす、患者を「慰謝料目的のニセ患者」と決めつけ、窒素側を擁護する医師だけで患者認定を行う。その後も、熊本大学医学部水銀中毒研究班に対抗して、日本化学工業協会が御用学者の東大グループをつくり、水銀中毒を否定するなどの妨害が何年も続いた。

宇井純(1932-2006)は水俣病発生当時、東大工学部助手だったが、この原因究明と被害者支援に取り組み続けた。彼の地道な水俣病の研究なしに、水俣病の解明はなかった。1979-1986まで、東大で自主講座「公害原論」を主宰。自主講座は、鶴見良行、原田正純、桑原史成、荒畑寒村、石牟礼道子、高橋晄成など様々な分野の人々によって、講座が支えられた。1972年ストックホルム国連人間環境会議に出席、日本の公害状況が、国外に発信され、戦後日本の急激な経済性成長が、どれだけ人々の犠牲を強いたかが世界的に認識された。

当時不知火海岸に住んで、魚を食べていた人口は20万人、そのうち1割、2万人に何らかの水銀中毒の症状が出ていたと考えられる。そのうち患者として認定されたのは、生存者で2000人に満たない。水銀が体に蓄積されれば、心臓も肝臓にも水銀が溜まる。高血圧や糖尿病を併発するが、それは水俣病に関係ないと、患者認定を却下されている。政府も企業も限りなく患者を認定しないように切り捨てる。そのために水俣病による多様な症状が、いまだわかっていない。
また、政府は一度として水俣病全域について、健康診査をしていない。患者一人当たり200-300万円の補償(一律一人260万円の最終解決)、そのうえ国も企業も、一度として患者と患者家族に謝罪していない。
1994年に出た判決では国と県に水俣病の責任はなく、20年以上水俣を離れている患者には、時効により補償請求権が失効した、という。いまだ水俣訴訟は終わっていない。

足尾銅山鉱毒、カネミ油症、イタイイタイ病、PCB汚染、アスベスト、DDT汚染、オレンジガスなどなど、数えきれない公害が、政府と企業によって救済されないまま、患者たちは痛みを抱え、障害を抱えて生きざるを得ない。
また政府と企業が水俣病患者にしてきたことは、そのままそっくり311の東日本大震災の津波、放射能被害に当てはめることができる。一度として政府は、東京電力という企業を守るために、被害全域について健康診査を継続していない。ヒロシマ、ナガサキの被爆者に渡された「原爆手帳」さえ制作もせず、追跡健康調査さえしていない。なにひとつ解決していない。それが今の日本だ。