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2018年6月4日月曜日

村上春樹の「騎士団長殺し」

村上春樹の小説は、推理小説と同じだ。
読んでいるときが最高に愉快で楽しい。読みながら、この小説どうぞ終わらないで、と思わず願ってしまう。次には何が起こるのか、犯人は?読んでいる間中、音楽が鳴り響いている。読んでいて時を忘れて夢中になっている。でも読み終わってしまうと、もうすっかり行き止まりなんだから、がっがりだ。
村上春樹とは同世代。
だから作家の中では一番自分に身近に感じる。同じ時代の空気を吸い、同じ時代に学生だった。同級生の異性とは彼の小説に出てくるような生意気な会話をしていた。彼の作品は、ほぼ全部読んでいると思う。中でも一番好きなのは、「ねじまき鳥クロニクル」(1994)だ。彼の作品の多くは、2つの全然関係なく、時代背景も全然異なる話が、交差しながら進行する。「ークロニクル」でも日中戦争の話と、現代の若い夫婦の話が交互に語られる。そういった物語の展開の仕方が面白い。
又彼の作品は、視覚に訴える。登場人物が、どこのメーカーの、どんな服を着て、何年の何型の車を運転しているかが、まず語られる。人物の身にまとう装いや持ち物で、その人の個性も性格も趣味や、考え方や嗜好まで理解できてしまうのだ。
それと、音楽。彼の作品にはバックグランドミュージックがとても大事。音楽とともに読み進むと、一遍の映画を見ているように、彼の世界が開けてくる。とても完成度の高い映画だ。

ストーリーは
「わたし」は美大を出た後、肖像画家としてそこそこの収入を得て6年間、建築会社に勤める妻のユズと、子供はいないが平穏な生活をしてきた。しかし3月のある日曜日、突然ユズから別れてもらいたいと宣告される。「わたし」は、ユズに男が居たことを知って、着替えとスケッチブックを持って家を出る。意味もなく北に向かい、北の街々を転々とするうちに数か月後、車を乗り潰した末、美大で一緒だった友人の力を借りて小田原郊外の山の上に立つ家を借りて住むことになる。その家は日本画家として高名だが、今は90歳を超えて老人ホームに移った、雨田具彦のアトリエだった。「わたし」は、週に2度、街に下りて行き、絵画教室で絵を教える。ある日アトリエの屋根裏で、厳重に梱包されている雨田具彦の絵を発見する。それは「騎士団長殺し」というタイトルで、若い男に騎士団長が刀で殺される血なま臭く激しい暴力に満ちた、およそ雨田具彦の他の作品とはかけ離れた絵だった。作品を目にしてから不思議なことが起こり始める。夜中に山の奥から鈴が鳴り出して眠れなくなった。

同じころ、山の上のアトリエから向かいの丘の上に立つ大きな屋敷の主、免色渉から肖像画を注文される。「わたし」は、雨田宣彦が厳重に梱包して封印してあった騎士団長殺しの絵を目にして以来、作風が変わり魂を吹き込むように抽象化した免色の肖像画を完成させる。免色とは徐々に親しくなり、深夜二人で、鈴が鳴る山に入り、古い祠の横に重なった石を取り除き不思議な穴を見つける。その中には古代の鈴があった。「わたし」が鈴を持って家に帰ると、雨田具彦が描いた絵の中の騎士団長が現れ、自分はイデアだという。見える人にしか見えない60センチばかりの姿をしている。

一方、免色は「わたし」に、丘を隔てた自分の屋敷の真正面に住む14歳の秋川まりえの肖像画を描いてほしいと依頼する。この娘は「わたし」が週2回教えに行っている絵画教室の生徒だ。免色は秋川まりえが自分の娘ではないかと思っている。まりえの母親は早死して父親とその母親代わりの叔母と住んでいる。娘を見守るために免色は秋川家の向かいの丘に建つ家を買い、毎日精度の高い軍用望遠鏡で娘を遠くから見て居たが、今はまりえの肖像画を手に入れたがっている。「わたし」は乗り気ではないが、何も知らないまりえ本人は、聞いてみると意外にもモデルになることを望んで、叔母と一緒に「わたし」のアトリエに通って来るようになる。そこで免色と叔母とまりえは出会い、自然と叔母と免色とは交際するようになる。

しかしまりえは突然姿を消す。動転する免色とまりえの家族をよそに、「わたし」は騎士団長に言われるように、まりえを取り戻すために、どうしても雨田具彦に会わなければならないと思って、彼のいる伊豆の老人ホームを訪ねる。雨田を前に騎士団長は彼が描いたとおりに騎士団長を刺殺さなければならないと言い、「わたし」はその通りにする。気が付いたら「わたし」は伊豆の老人ホームからワープして、小田原の山の中の穴に居た。暗闇の穴の中で鈴を鳴らして助けを求めている内、免色によって助け出される。まりえは3日して家に戻ってきたという。3日間の記憶はない。「わたし」は4日後に、不思議な通路を通った末、免色によって救出された。まりえは邪悪な力から騎士団長によって助けられたという。

「わたし」とまりえは雨田具彦の騎士団長殺しの絵を厳重に梱包して、誰の目にも触れないように屋根裏に隠す。まりえの肖像画は完成しなかった。完成させてはならない、危険を孕んでいる。しかし「わたし」とまりえとで、メタファーは封印できた。
免色はまりえの叔母と親しく交際するようになった。彼らは結婚して、まりえと一緒に暮らすことになるかもしれない。やがて、アトリエは、どこからか火事が起きて、絵とともに焼け落ちる。絵とともにいったん開かれた狂気の輪は、封印されて焼き落ちた。
「わたし」はユズと再び暮らすことにした。別れていた間にユズは別の男の子供を産んだ。その子供を「わたし」は心から愛している。その子供は他の男の子かもしれないし、「わたし」の子供かも知れない。誰の子供であってもそんなことは些細なことに過ぎない。 
というおはなし。

登場人物が絵のように明確に見えてくる。
「わたし」は、205ハッチバックの赤いプジョーを乗り潰し、いまはパウダーブルーの中古トヨタカローラワゴンを運転する。で、着ているのは、仕事用の白い絵の具のシミが付いて、ところどころほつれた丸首のグリーンのセーター、派手なオレンジ色のダウンジャケット、ブルージーンズにワークブーツ、古い毛糸の帽子を被った36歳。

免色渉は54歳白髪で、銀色のジャガー最新のクーペを運転し、あるときは淡いグリーンのカーデガン、クリーム色のシャツ、グレーのウールのズボン。またあるときは、白いボタンダウンシャツの上に細かい上品な柄の入ったウールのベスト、青みが買ったグレーのツイードジャケット、淡い辛子色のチノパンツに茶色にスエード靴。何という趣味の良さ!

秋川まりえはスタジオジャンパーに’ヨットパーカー、穴の開いたブルージーンズ、コンバースの紺色のスニーカーといういでたちの14歳、無口で気難しい女の子。

叔母の秋川笙子は、兄の買ったブルーのトヨタプリウスをいやいや運転していて、丈の長い濃いグレーのヘリボーンのジャケットに淡いグレーのウールのスカート、模様の入ったストッキング、首にはミッソーニのカラフルなスカーフ、という淑女なわけだ。

こういった愛すべき登場人物たちが、古典音楽とオペラが鳴り響くアトリエで、ウイスキーを傾けたり、コーヒーを飲んだりしているときに、絵の中の騎士団長や、白いスバルフォーレスタに乗る邪悪な男や、メタファーな顔長や、ドンジョバンニが出て来て、山の奥からは不吉な鈴の音が鳴り響く。映画のように、視覚、聴覚、触覚、味覚、臭覚が存分に刺激される。読んでいるときが最高に楽しい。いつまでも読んでいたくなる。読んでいて、プッチーニの「トーランドット」や、「ラ、ボエーム」、モーツアルトの「ドン ジョバンニ」が聴こえてくるが、一番繰り返し繰り返し聴こえてくるのは、リチャード シュトラウスの「薔薇の騎士」だ。このドイツ語の複雑で難解な音階が何度も聴こえてくる。


そんなとき「わたし」は、「毎朝ラジオの7時のニュースに耳を傾けることを生活の一部にしていた。たとえば地球が今まさに破滅状態の淵にあるというのに、わたしだけがそれを知らないでいるとなれば、それはやはり少し困ったことになるかもしれない。朝食を済ませ、地球がそれなりの問題を抱えながらも、まだ律儀に回転を続けていることをとりあえず確認してから、コーヒーを入れたマグカップを手にスタジオに入った。」というわけだ。雨田具彦の絵を見た「わたし」にはイデア(観念)が見える。まりえにもイデアが見える。しかし絵を見ていない免色には、イデアが見えない。イデアが刺殺されたことによって、メタファーの扉が明けられる。メタファーは邪悪でもあり、女を絞め殺しそうになった自分でもあり、騎士団長を若い男が殺したときの証人でもあり、画家「わたし」そのものでもある。

免色には魅了される。彼は誰とも結婚しないと決めていた。彼には結婚や仕事の為の社交や、人と競走して商売に奔走することは、彼の美学からは外れるのでしない。でも年を取り、昔愛した女が激しい一夜を共にした後、去って行き、その9か月後に娘を産んで死んだと聞くと、それが自分の娘に違いないと思い込み、娘の住む家を毎晩軍用望遠鏡で覗き見ることが生きがいになってしまう、「華麗なるギャツビー」的メランコリーな哀しさが漂ってくる。男にとって子供との絆って、こんなにも儚いものだ。

一方「わたし」にも他の男の子を産んだユズを、未だに「ユズのことを忘れなくちゃいけないと思っても心がくっついたまま離れない。他の女と寝ていてもその女とぼくとの間にはユズがいる。」そんなわけだからムロと言う名の女の子は、自分の子供かもしれないし、自分の子供でないかもしれない。でもそんなことは些細なことだ。と言い切ってしまう「わたし」はムロを心から愛している。

免色の秋川まりえへの愛と、わたしのムロへの愛は同じ愛だ。どちらも生物学的に自分の娘ではない。しかし免色はまりえが自分の娘だと確信しているし、わたしは自分が深く愛している娘の血が誰の血であっても、そんなことは些細な事だと思っている。ふたりの父親としての愛は、無償の愛。見返りを求めない愛。騎士団長はイエスかもしれないし、まりえはマリアかもしれない。