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2018年3月22日木曜日

半世紀ぶりの再会:その2

    
   
三潴さんはかつて、中央線の新宿から立川までの間のすべての中高校の間では名を知らぬ者のいない強い喧嘩番長だった。
大学に入ってからはアジテーターで、他大学の行動隊長は、安保が悪い、米軍が悪い、を繰り返すだけだったが、彼のアジにはレーニンも、クレプスカヤも、サルトルもバクーニンも出て来て、内容が深かった。トルストイに傾倒していた私には彼のアジテーションは一遍の詩を聴くようでもあった。
学生大会で、全学ストライキを決行するかどうかの討議が夜まで長引いた。大学側はこのままではストライキが決行され前代未聞の不測の事態になるとして、会場を閉めて学生を解散させようともくろみ、体育会系学生を動員した。ホッケーのステイックや野球のバットを持った体育系学生が来て、時間切れで決議案が流れた。そのとき三潴さんは階段の踊り場に駆け上がり、「この大学には自由がないのか。」という後々まで伝説として語り継がれる演説をして、学生会館に残った学生たちを大泣きさせてくれた。

1967年8月米軍輸送車事故が起こった。新宿駅構内で、米軍燃料輸送列車に貨物列車が衝突、脱線、転覆してダンク車から漏れた燃料が引火して爆発した。現場周辺300メートルは火の海と化し炎は30メートルの高さまで上り、国電1100本、200万人の影響が出た。燃料はベトナム戦争でベトナム人を殺傷する航空機に使われていて、日本がベトナム戦争の兵站になっている事実を市民に知らしめた。翌年1968年、騒乱罪が発動されたが、新宿駅で米軍輸送車を止めようと、学生、労働者、市民が集まりデモをしたのは、自然の流れだった。
その翌月にデモで逮捕された。米軍が毎日北爆で同じアジア人のベトナムの婦女子を殺している最中、アメリカ大使館に石を投げたくらいのことで、18歳の女の子をしょっぴくとは、と今でも腹立たしい。菊谷橋警察署に留置されている間、警棒で殴られ足を骨折していたので歩けなかったが、雑居房にいた美少年が、いつも横についてくれて、毎朝の点呼で立てない時に肩を貸して支えてくれた。「どうして留置されているの」、と聞くと、「俺の女房に手出した奴をぶん殴ったから。」と言っていた。後で考えたら美少年って、変だよね。女子房なのに。あの美しい少年はレズビアンだったんだ。雑居房の他のおばさんたちは、売春で留置されていたらしい。というのは私もピーと、警官から面と向かって呼ばれていた。黙秘して名前がないから番号で呼ばれているのかと思っていたけど、ずっとあとで気が付いたのは、ピーとはプロステイチュート(売春婦)のことで、マルクス主義の女子学生は「人のものは自分のもの、自分のものは人のもの」と考える共産主義者で、誰とでも関係を持つからピーだ、という彼らの理論からくるものだったらしい。

そんなこんなで、いろいろあって、赤ヘルのブンドは、分派に分派を重ねて空中分解した。それでも三潴さんは、いつもお腹をすかしてやって来る私達に、しっかり飲ませ食べさせてくれる心強い先輩だった。可愛い後輩だったのは、彼の結婚までだ。そこから長い事、不通になっていた糸が、いま再びつながったことが嬉しい。

ところでビエンナーレだ。
忘れてしまわないうちに、忘備録として、ビエンナーレで印象的だった作品を書いておかないと。
ヤナギ ユキノリ
1)ICARUS CONTAINER (イカロスの器)2018年作
 巨大な貨物船に使う船荷に乗せるコンテナを何台も組み合わせて、長い迷路を作り、ところどころ鏡を使ってオブジェを置いたもの。三潴さんによると、この人はこのシリーズでデビューして高く評価されたのだそうだ。迷路は物質主義と、それを取り巻くネットワーク社会を示している。そこから飛び立って太陽に近ずき過ぎて海に落ちて死ぬイカロスとように、原子力技術を発展させた人類は、もう燃え尽きて滅びて行くことしかできない。

2)ABSOLUTE DUD 2016年作
鉄で作られた、ヒロシマに1945年8月6日に落とされたのと同じサイズの原子爆弾が天井からつるされている。
3)EYE 2018年作
薄暗い倉庫の中央に大きな目が吊るされていて、その目玉にヴィデオで原爆実験の様子画写る。裸眼で原爆が大きなキノコ雲になって、やがて水しぶきが上がる様子が捉えられる。

彼は、福岡生まれで広島で活動している1959年生まれの作家。
原子力のパワーによって生活を成り立たせてきた戦後日本の存在そのものを問いかけている。「EYE」がとても印象的で一度見ると忘れられない。原子爆弾は作られてからほとんど実験なしで日本で使われて、ヒロシマ、ナガサキが人体実験の場となった。その後も米国、ロシア、フランスなど各地で水爆実験が続けられ、人々は爆発する様子を裸眼で見せられて失明し、白血病で血を吐いて死んできた。大きく目開いた瞳に映る爆発のもようは、いま毎日この死の灰を含んだ雨に濡れ、飛散したストロンチウムを吸い込んで、セシウム入りの水を飲むわたしたちに通じる。ヒロシマが日本人の原点であること。ヒロシマなしに核問題は語れないことを強く再認識させられる。

もうひとつ印象的だったのは、サムソン ヤング 1979年生まれホンコン出身の人。
この人は絵描きでもなければ、写真家でもない。大学で哲学と作曲を学んだ人。「MUTED SITUATION」2014年作のシリーズもので、今回は「MUTED SITUATION TCHAIKOVSKY 5TH 2018作。三潴さんによると、このシリーズは日本の森美術館でも展示されていて、前に観たことがあるそうだ。ドイツ、ケルンのフローラシンフォニーオーケストラが、チャイコフスキー交響曲第5番を演奏しているフイルム。オーケストラメンバーは旋律を音を出して演奏することを止められている。それでいて熱演していて、演奏者は呼吸し、譜面をめくり、楽器が奏でる旋律ではない音、雑音を捕える。辛うじてどこを演奏しているかはパーカッションでわかる。
メロデイーがなくなり、人は45分間の交響曲で何を聴くのか。オーケストラメンバーは、何もなかったかのように指揮者をみながら演奏している。極限まで音を落とした状態で人が聞き取る雑音と呼ばれる音は一体何なのか。おもしろい。
とても哲学的な課題だ。

ヴァイオリンを子供の時から弾いてきた。ヴァイオリンが弦に弓が当たる時のカシャカシャいう雑音が、ものすごく気になった時期がある。オーケストラで弾いていて、チェロの弓を弾き返すとき、チェロ本体に弓の先が当たって不快音がでることがある。クラリネットやフレンチホーンが音を出す直前に、息が漏れる雑音も気になる。指揮者の呼吸音まで聞こえれば、腕を振り上げて動かす衣類がこすれる音まで聞き取れる。とくに、舞台では最初の一音が命だ。指揮者が指揮棒を振り上げて吸った息をちょっと止める、一瞬の呼吸音を、50人なら50人、100人近いときもあるオーケストラ団員全員が聴き分けて曲が始まる。一瞬の緊張の極、全員の集中力がオーケストラでは勝負となる。
若い作曲を勉強したアーチストが、これから音のないオーケストラ、楽譜のない交響曲をかかえて、これから何を見せてくれるのか、とても楽しみだ。

現代アートには説明が要するものが多い。ヤナギ ユキノリの「EYE] が、日本人の作品でなかったら感動しなかったかもしれない。サムソン ヤングが画家でなく、作曲家でなかったら心を動かされなかったかもしれない。どんな時代に生まれ、どんな生い立ちをして、何を学び、どんなメッセージを発して作品を創作したのか、説明なしで理解するのが難しい。
でも本当に心を奪われる感動というものは、どんな時代に生まれても、作家が有名であろうがなかろうが、何国人でどんな肌の色をしていようが、本人が何を言いたいのか、などなどといったものは、知る必要などなくて、ただ見て心が震えるものだ。

子供の時、母がカレンダーについてきたモジリアニの絵を額に入れて、居間に飾った。絵画の名も何も知らなかったが、いつまで見ていても見飽きない感動があった。
いやいやヴァイオリンを弾いていた子供だったとき、作曲家の名前も演奏家も知らないまま、メンデルスゾーンのヴァイオリンコンチェルトを何度も繰り返し聴いていると、心が解放された。
初めてNSW州立美術館に行って、ゴッホの「ペザント」(百姓)を見て、何か溢れる気持ちが湧いてきてしばらく身動きができなかった。説明を要さない感動は時代や環境や国や文化を越えて心に訴える。
いずれ現代美術も、淘汰されて、良いものは古くなっていく。前衛は次の世代に乗り越えられていく。時を経て、選ばれた現代美術は古典美術と融合一体化していくのだろうか。

2018年3月21日水曜日

半世紀ぶり三潴末雄さんとの再会


          

初めて会ったときは17歳。大学に入ったばかりで、三潴さんは4年生だった。
「ねえ、次の日曜日デートしない?」と言われて、生まれて初めて口紅をつけて来たというのに、連れて行かれたのは砂川基地。頭の上をすれすれに飛んでいく軍用機の轟音と、新芽を出したばかりの青々しい茶畑と農家のおばあさん。そして砂川闘争で凶器準備集合罪で逮捕状の出ていた味岡さんとの出会い。
乾いた喉を潤すために水を飲むような自然さで、次の日には赤いヘルメットに角材を握っていた。

アートギャラリーを主宰している彼がシドニービエンナーレのために、シンガポールから香港に移動する途中で、シドニーに立ち寄ることになった。
1994年に自分のギャラリーを持ち、アジアから現代アートを創り出す若手アーテイストを育成、発掘、紹介している。彼は自著「アートにとって価値とは何か」で、「鹿児島市の美術館に行けばモネの睡蓮やピカソの青の時代の作品を見ることができる。札幌市の近代美術館には印象派やモダンの時代の作品がコレクションされている。---日本の美術館がいかに西洋由来のアートのコレクションに大枚をはたいてきたかか一目瞭然でもある。」ではなぜ彼が「苦労を金で買いに行くような厳しい内容で、事業としての成功の展望」のないギャラリーを続けているかというと、「日本の現代アートは間違いなく日本の文化なのに、これを美術館が支えなくて一体誰が支えてくれるというのだろうか。」という動機で、ギャラリストとして活動されてる。

彼は、現代アーテイストの草間彌生、オノヨーコ、村上隆など、やっと日本でも僅かながら評価されてきた現代美術の前衛作家達を高く評価しつつ、若い芸術家たち、会田誠、山口晃、小沢剛、天明屋尚、近藤聰乃、奈良美智、鴻池朋子、山本竜己基、池田学、宮永愛子、ベトナムのジュン グエン ハツシバ、CHIN PON、猪子寿之のチームラボなど、たくさんの芸術家たちを発掘、デビューさせてきた。

2007年北京オリンピックの前には、アイウェイウェイの設計によるギャラリーを、北京で開設したが、アイウェイウェイの突然の逮捕、政府当局の介入によりギャラリーは、2014年にいったん閉鎖された。2012年にはシンガポール、ギルマンバラックスで、ギャラリーを開設。香港とジャカルタに若い芸術家たちが集まって刺激を与えあう場、としての「レジデンス」を開設している。東京の市ヶ谷にあるギャラリー、シンガポール、香港、ジャカルタ、ニューヨーク、ロンドンと、一年の200日は外国という忙しさの中で、さらに活躍幅を広げて、若い作家たちと「ニューヨークでも暴れてみたい。」と言っている。ニューヨークで新しいギャラリーが立ちあがる日が待ち遠しい。

NSW州立美術館に、ジーンズとスニーカーで現れた長身の三潴さんは、ニューヨークからシンガポール、そしてシドニーから再びシンガポール、香港へと移動している最中とは思えないほど元気で、まるでシドニーに住んでいるわけではないのに、23年間住んでいる私よりも身軽に、美術館の中を自分の家のように歩いていた。足早にビエンナーレの作品をみながら解説してもらう。世界各地で現代美術を見て回り若い芸術家を育成し、大学の講師を務め、高校生の進路講習会で語り、様々な芸術家達と交流を図る、超多忙な人から作品の説明を聞くことができるなんて、なんて贅沢なの。

どうしてキャンバスに黒い絵の具で塗りつぶしただけの絵が絵なのか、現代美術って自分にとって意味のある作品を作っているだけのくせに、他人に見てもらおうなんて自己満足すぎる、だいたい作品の背景から作家の生い立ち、作品を作った動機まで長い説明がないと全く理解できない作品にどうやって共感しろというのか。
日本の芸術って、くぎ一本使わずに建築された寺院や神殿、漆の器、古代織物、壊れた茶碗を金継ぎで再生するような伝統芸術や、骨とう品にこそ美が凝縮されているのではないか。そう思ってきたが、しかし「美術館は美術の墓場でしかない。」と言い切る若い人達の作り出すものはおもしろい。作品に共感はできなくても、おもしろいと感じ、若いエネルギーが感じられるだけで良い。

三潴さんと、NSW州立美術館、現代美術館、コカトゥー島を回って、300展示されているビエンナーレの作品の大半を早足で観た。何十キロ歩いたことか。尋常ではない長い一日。もう一か所、アートスペースという建物に設置されていたアイウェイウェイの「クリスタルボール」を、時間切れで一緒に見ることが出来なかったのが残念だった。
しかし70歳を超えて健脚な三潴さんに、ちゃんと付いて行けた自分の健脚も褒めてあげないと、、。彼は階段も手すりなしてサッサと上り下りする。50年前も、いつも三潴さんと歩くときは、長い足で大股で前を行く彼の歩調についていくために、私は息せき切って小走りでついていかなければならなかったのを、まざまざと思い出した。

大変興味深かったのは、コカトウー島の旧造船所は、昔海軍工廠があり軍艦を作っていたから、重器具、機材や、石炭発電所や立派な防空壕などがそのまま残っている。それを三潴さんが嬉しそうに写真に収めていたこと。展示されていたアート作品のほとんどを、写真にとらなかったというのに、アート作品の上、天井にそびえるクレーンや、さび付いて埃を被った造船のための機械をカメラに収めているので、「どうして」と聞くと、若い作家たちに見せるんだ、と。70年間、80年間と使われてきた機械が当時のまま埃を被っているが、これらの機械は油をさせばそのまま、まだ使える状態で歴史的な存在感を示している。それらの機械に囲まれた若い人々のアート作品は、比べると何てチャチなんだ。思い付きで作った作品など軽い、価値を見出せないものなんだ。ということを見せてやるんだ。と言っていた。
そうなの。三潴さんの言葉に発奮して、若いアーテイストが是非、50年先に生まれてくる人たちにとって価値を見出せるような作品を作っていって欲しい。

どうしても現代アートは反政府、反権力、反権威、反核、反戦に通じる。でも三潴さんは、「政治をやりたいヤツは立て看板を作れ。」とも言う。作品に政治的メッセージを込めることはできる。しかし、メッセージだけでは美術にならない、という意味の深い彼の提言なのだ。
初めて会ったときから51年ぶりに、やっと会えた大切な大切な人と一緒に、素晴らしい一日を過ごすことができた。


2018年3月17日土曜日

アイウェイウェイ「AI’S LAW OF THE JOURNEY」シドニービエンナーレにて



南半球の3月半ばといえば、秋の兆しが日々増してきて涼風さわやかと思いきや、シドニーは40度の暑さ。炎天下をシドニー湾に浮かぶ、コカトゥー島に行って、アイウェイウェイの作品「AI"S LAW OF THE  JOURNEY」(旅の掟)を見て来た。

巨大なゴム製の作品。長さ70メートルのゴム製のボートに、258人の巨大な難民が命を託している。アイウェイウェイの怒りが炸裂している。ライフジャケットを身に着けた人々に顔はない。恐怖も、飢餓も、悲哀も、憎しみも、怒りも顔に表せない。すべての感情を押し殺し、胸にとどめ、ただただ耐えている。ボートの行きつく先に希望があろうがなかろうが、国に留まり死を待つよりは少しでも可能性のあるボートに乗る。苦しくなる。観ていると、とても苦しくなる。建物を出れば、真っ青な空が広がっているというのに。平和そのものの美しい緑に囲まれた島。のんびりヨットが浮かぶシドニーの港。

コカトゥー島は、シドニー湾のフェリー発着所から小型フェリーで30分のところにあり、かつては、造船所、海軍工廠だった。そのもっと昔は刑務所、少年院、監獄として使われていたのでオーストラリアの囚人遺跡群として、世界遺産に登録されている。いまでも囚人たちが建設したレンガ造りの堅固な刑務所が丘の上に立ち、港には巨大な造船施設が残っていて、石炭による発電所から防空壕までそっくり残っている。フェリーは30分おきに発着し、キャンプに来ている小中学生や、ピクニックに来ている家族連れなどで、けっこう平日でも賑わっている。

アイウェイウェイの作品は、21回シドニービエンナーレのために出品された。ビエンナーレは、3月16日から6月11日まで。コカトウー島、NSW州立美術館、現代美術館、オペラハウス、アートスペース、アジア現代美術センターなどで、300以上の作品を見ることができる。今年ビエンナーレのキューレーター、総合芸術監督に抜擢されたのは日本人で、森美術館のチーフキューレーター片岡真実さん。アジア人として初めて監督に指名されたそうだ。作品を出品している作家の20%はオーストラリア人、アジア人が40%、欧米が40%だそうだ。      

「AI'S LAW OF THE JOURNEY」(旅の掟)は、2017年3月にチェコのプラハ国立美術館でいったん展示された。巨大な70メートルの長さのゴムボートに、難民が乗っている、この作品は世界中で起きている難民の流入を題材にしている。現在ベルリンに滞在している彼は、ギリシャのレスボス島に渡って来る難民がトルコからヨーロッパに移動しようとして途中で命を落とす現場を見て、居たたまれず作品を作った。この作品によって「ぼくは誰も責めてない。芸術家の自分としてできることをしているだけだ。」と言う。
彼の視点の原点は、「人類は一つ」そして、「私たちはすべての境界を失くし同じ価値を共有し、自分以外の人々との苦悩や悲劇をはじめとする様々な苦難に関わるべきだ。」という信念にある。

彼が2017年、23か国の難民を撮影したドキュメンタリーフイルム「ヒューマンフロー」もこのビエンナーレでみることができる。アフガニスタン、パキスタン、タイ、トルコ、イラク、パレスチナ、レバノン、シリア、ヨルダン、イスラエル、ハンガリー、セルビア、ギリシャ、ケニア、イタリア、フランス、ドイツ、スイス、アメリア、メキシコの国々で起きている人々の移動、戦火に追われ国を捨てて逃れてくる、6500万人の人々を映像に捉えた作品だ。彼は「民主的ないわゆる自由世界に暮らす恵まれた人々があまりにも人間の苦しみに無関心なこと。これは難民の問題ではない。人間の危機であり、助けることができるのに助けようとしない人々の危機だ。」と批判している。
                     
2017年8月―11月に横浜トリエンナーレでも彼のこのフイルムが上映され、会場の横浜美術館の入り口は、難民の命綱となった800のライフジャケットが展示され、美術館の外壁には14艘の救命ボートが展示されたそうだ。トリエンナーレを見に来た人は、いやおうなくアイウェイウェイのライフジャケットと救命ボートを潜り抜けなければ会場には入れなかったわけだ。
彼は2011年中国当局から、81日間拘束を受け、パスポートを没収されて4年間海外に出られなかった。子供の時、反体制派の詩人だった父親のために家族全員が、文化革命時、18年ものあいだ強制労働に従事させられた。彼の反骨精神は筋金入りだ。
 
ニュースでは毎日のように、アフリカから国を追われて脱出してきた人々のボートが転覆して40人亡くなりました、50人亡くなりましたと報道され、僧衣を着た仏教徒がロヒンジャの母子に襲い掛かかり、家に火を放つ。イラク、アフガニスタンから逃げてトルコに流入する人々、アメリカとメキシコ国境で銃をもつ国境警備隊。気が狂いそうになる。
難民を受け入れたために苦境に立つドイツのアンゲラ メルケルに対して、フランスの極右マリーヌルペン、オランダのヘルト ウィルダースなど、ヨーロッパとアメリカではポピュリズムが広範に勢力を伸ばした。難民の流入のために、自分たちの国の伝統が壊され、仕事を奪われ、生活が苦しくなり、治安も悪くなったという、ポピュリズムの妖怪が世界を跋扈している。
そうではない。グローバル競争の激化、ひたすら市場価値を求め、投機的な資本主義のマネーゲームが富んだ者を肥え太らせて、貧者との格差を広げているのだ。

難民問題は、ヒューマニテイーだけでは語れない。しかし国境などに縛られない、空を自由に飛ぶアイウェイウェイのような芸術家にとっては、共産主義国も資本主義国も、難民を見殺しにしているという意味では全く同じ、犯罪国家に過ぎない。まだ60歳のアイウェイウェイ、これからも発言し続けることだろう。頼もしい。

写真はコカトゥ島

2018年3月11日日曜日

15世紀のタペストリー「貴婦人と一角獣」を観る







1484年から1500年の間にフランドルで制作されたと言われている「貴婦人と一角獣」のタペストリーを観に、NSW州立美術館に行ってきた。
フランスの国宝だそうで、「中世のモナリザ」といわれている。フランスのカルチェラタンにあるクリュニー中世美術館の所蔵品で、ニューヨークメトロポリタン美術館に一度、2013年に日本に一度貸し出されただけで海外では展示しないと言われていたが、クリュニー中世美術館改装中の間、オーストラリアに貸し出されることになった。2月から6月24日まで。このタペストリーは、男装の作家ジョルジュ サンドが自分の小説の中で絶賛したために、世の注目をあびることになったと言われている。

15世紀に作られた作者不詳、作成動機不明、制作年月不明のタぺストリーが、フランス中部の小さな遺跡,ボウサック城で発見されたのが19世紀に入ってから。倉庫に丸めてあって、ネズミが食い襤褸のようになっていたタペストリーは、1841年の発見から、長い交渉の末、1882年に政府によって購入された。それ以来補修され、復元されて現在はクリュニー中世美術館によって収納展示されている。

6面のタペストリーは背景が赤色、そこに痩せて背の高い貴婦人と、花々と沢山の動物が描かれている。この貴婦人は6枚とも同じ女性とみられ、6面とも中央に立ち、右にライオン、左に一角獣をはべらせている。描かれている旗の紋章が、フランス王シャルル7世の時代に有力者だったジャン ル ヴィスト家の紋章なので、彼が自分の娘の結婚を祝って作らせたものではないか、と言われてる。

貴婦人の右に座るライオンは警護、従属を表し、左に座る一角獣は、純真、忠実、処女性を表す。花々のうち薔薇の花は純情、パンジーは幸運、ザクロの樹は繁栄を表す。6面のタペストリーすべてに、8匹以上の動物がいて、多いものには18匹の動物がみられる。たとえば犬(忠実)、猿(罪)、キツネ{狡猾)、ウサギ(繁殖)、ひつじ(無知)、たくさんの鳥、そしてマグパイは、マリアに受胎を告げた天使ガブリエルに例えられる。

6面のそれぞれに、どんな意味があるか解釈はいろいろあるが、人の5感を表すという解釈が有力。すなわち
第1面は、貴婦人がライオンと一角獣を横に置いて、花輪を作っている。これが臭覚。
第2面は、貴婦人が一角獣の角を握っている。これが触覚。
第3面は、貴婦人がアーモンドの実が入った器を持っている。これが味覚。
第4面は、貴婦人がパイプオルガンを奏でている。これが聴覚。
第5面は、貴婦人が自分の膝の上に一角獣の両前足を抱いて、鏡に映った一角獣の姿を見せている。これが視覚。
第6面は、宝石箱の中の宝石を手にした貴婦人で、第6感といわれる「魂の欲望」。貴婦人は宝石を、己の欲望のまま取り出そうとしているのか、それともいったん手にした宝石を戻そうとしているのか、不明。一貫して処女性を求めてきたが、欲望に走ろうとしているのか、それを押し戻して純潔を保とうとしているのか。
どのタペストリーも赤色をバックに、鮮やかな庭の花々と動物たちがバランス良く描かれていて、貴婦人は繊細で美しい衣服を身に着け、たたずまいは慎ましく、気品に溢れている。

始めてタペストリーの美しさに惹かれたのは、ローマだ。システインチャペルに入る前、バチカン教会に入るなり両側に並んだ、いくつものタペストリーに心を奪われた。彫刻でもない、絵画でもない、個人の作でなく沢山の人の気の遠くなるような根気と途方もない時間をかけて織られたタペストリーの見事なこと。こんな繊細な作業に携わる人々が居て、その一人一人が美の欲求にかられた芸術家であったこと。そんな結実であるタペストリーが、当たり前のように通路に架けてあって、人々はただ通り過ぎ、ほこりや汚れにさらされ、何世紀ものあいだ陽の光にさらされてきたことが、信じがたい。いま思えばローマはタペストリーも、彫刻も、絵画も何もかも、信じられないほどの美にあふれていて、このような空気の中で育ち、生活できる人々が、ただただ羨ましく思えた。

そこで、このフランスが誇る6面のタペストリーだ。
赤が素晴らしい。裏はもっと鮮やかな赤だそうだ。見えないけど、、。色がさめないように展示は照明がおとしてある。写真は撮れるがフラッシュは禁止だ。
ところでアーモンドの実の入った器を持つ貴婦人のタペストリーを見ていて、アッと声をあげてしまった。左端に居るのはタスマニアタイガーではないか。

タスマニアタイガーは、タスマニアに生息していた、オオカミの大きさでオオカミのような顔と声を持つ肉食動物だ。トラのような縞模様が体と尻尾にみられる。それでいて何と有袋類。この国にはカンガルー、コアラ、カモノハシなど有袋類動物の宝庫だが、中でもタスマニアタイガーの美しさは特別だった。絶滅させてしまった事は残念に尽きる。

このタペストリーが作られたのが1500年少し前。オーストラリア大陸はまだ「発見」されていない。まして端っこのタスマニアなんて、もちろん先住民族アボリジニの国だった。でもこのタペストリーにこの動物がいると言うことは、ジェームス クックがオーストラリア大陸を発見するより前の時代に、タスマニアにフランス人が来て、ジャングルでタスマニアタイガーに遭遇して、フランスの中部に戻って、その姿をタペストリーに復元したのか、、、という可能性は全く、、、ない。
これらタペストリーに描かれている動物のほとんどは一角獣を含めて想像上の生き物だったのでした。
写真はタスマニアタイガー