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2016年10月1日土曜日
映画 「はじまりへの旅」キャプテンファンタステイック
原題:「CAPTAIN FANTASTIC」
「キャプテン ファンタステイック」
監督: マット ロス
キャスト
父親ベン: ヴィゴ モーテンセン (指輪物語のアラゴン役だった役者)
母親レスリー: トリン ミラー
ストーリーは
ベンとレスリーは、ノーム チョムスキーを信奉する(詳しくはアナルコ サンジカリスト)でヒッピー。現代社会から離れ山深い森の奥地に家を建て、自給自足の生活をしながら6人の子供を育てている。7歳から18歳までの3人の男の子と3人の女の子たちは、学校に行かずベンとレスリーから教育を受けている。
ところが 母親のレスリーは、バイポラ躁うつ病と精神分裂症を併発し、治療のため、山を下りて実家に帰ったところで、自ら壁に頭を打ち付けて死んでしまった。実家の母は、レスリーの葬儀は、教会で5日後に行われるという。ベンは子供たちに事実を告げるが、年少の子供達は、自分たちの母親の死を「理解」できずに居る。ただただママに会いに行きたいと主張する子供たちを前に、ベンは自家用バスに子供たちを乗せて、妻の実家近くの教会に向かう。五日間あれば、バスでたどり着けるだろう。レスリーは遺言で、自分が死んだら火葬して、その火の回りで子供達は歌を歌い踊って楽しく過ごして見送って欲しいと書き残していた。ベンは、妻の意志を尊重して教会での葬儀と埋葬を、是が非でも中止させなければならないと思っている。
バスで移動中6人の子供たちは、初めて森の生活から下界に下りてきて、何もかもが驚きの連続だ。街では肥満体の人々ばかりなのを見てあきれ、ホットドックを食べさせるレストランのメニューに驚愕し、(犬を食べるのか)、18歳の長男はテイーンの女の子にナンパされて、思い余ってプロポーズしてしまうし、てんやわんやだ。レスリーの兄弟家族の住む家に寄っていくと、子供たちと同じ年頃のいとこたちが、知性のひとかけらもなく凡庸な事を恥じることもなく、グダグダとビデオゲームに夢中になる姿に、カルチャーショックを受ける。とうとう五日かかって、たどり着いた教会では、今まさにレスリーの葬儀が行われ、墓地に埋葬されるところだった。そこに6人の子供たちを連れたベンが闖入して、レスリーの棺に手をかけて、教会での葬儀はレスリーの遺志に反すると主張する。しかし、ベンと子供達は、たちどころにガードマンによって教会から締め出され、レスリーは彼女の両親、親族の意向通りに教会から墓地に移されて埋葬されてしまった。
埋葬の後、6人の孫たちに初めて会った、祖父母は、「このヒッピーくずれが、社会と縁を切って、祖父母とも親戚とも合わせずに、森に入り、子供達を私物化しているのは児童虐待で、立派な犯罪だ。警察を呼ぶ、弁護士を呼んでベンが子供たちと会えないように法的処置を取る、」と怒り心頭でベンを非難しまくる。一方、次男は、母親の死を受け入れられずにいて、その悲しみと怒りから、おじいさんの言うことに共鳴して、さっさとおじいさんの家に移って来る。祖父母は子供たち全員を引き取って、きちんと教育を施して責任を全うしたい、と申し出る。大きな屋敷、広い安全な環境、生活するのに何の心配もない裕福な家庭。ひととき、子供たちが祖父母に大切にされて、楽しむ様子を見てベンは、子供達を手放して一人で山に帰る決意をする。長い髪を切り、ひげを剃りたった一人になったベン。自分の教育方針は間違っていたのか。
しかし、6人の子供達は、バスの床下に隠れていたのだった。戻ってきた子供達とベンには、しなければならないことがある。墓地から「ママを取り返す」のだ。墓地を掘り返し、棺をバスに乗せ、子供達はママをしっかり抱きしめてお別れを言って、遺言通りに火葬した。ママの言った通りにママが灰になるまでみんなで歌を歌い、ギターをかき鳴らし、踊り、詩を読んでママを見送って灰を’空から撒くことができた。
というお話。
ニュージーランドを旅した時、オークランドから2時間ほど車を走らせた海岸沿いに、ベトナム戦争の嵐が吹き荒れた時期に、アメリカから兵役を拒否して逃れて来たヒッピーたちが移住してコミュニテイーを作っていた地域を通ったことがある。海に向かって無限の広がりをもった、小さな島々が散らばる美しい土地だった。当時アメリカは徴兵制があったから兵役拒否は、国辱者の「極悪犯罪者」だった。彼らを受け入れる側も、逃げてくる側も「反社会的、凶悪犯人」として弾圧された。今では信じられないだろうが、この時期、長髪にするというだけで過激派レッテルが貼られ、社会は徹底的に排除した。今でこそヒッピーは長髪、ひげ、奇妙なゆるい服を着て、花束を機動隊に差し出したり、素裸になって抱き着いたり珍妙な光景ばかり面白おかしく話題にするが、彼らとて銃を持った国家店力を前に命懸けの反戦活動をしていたのだ。
心から尊敬する作家、シオニール ホセは、著書「民衆」の書き出しで、「ぼくの名はサムソンだ。ぼくは長髪だがそのこと自体、別に何のシンボルでもない。ジェス神父に注意された時、ぼくはキリストも髪を長くしていた、と言い返した。」 といっている。初めて、この本を読んだとき、マルコス戒厳令下で、出版禁止、執筆の道も弾圧で絶たれた闘士 シオニール ホセの言葉に、思わず涙が込み上げた。長髪は明らかに反体制反政府を表示する意味を持った時代だったし反戦活動家は孤立していたのだ。
この映画は、国の教育システムも、社会の規律も、市民としての義務も権利も放棄して、6人の子供を自分のルールで育てている無政府主義者でヒッピーの家族のお話だ。ベンとその子供達は、キリスト教を完全に否定する。クリスマスを祝わずに、ノーム チョムスキーの生誕日が祝日だ。お祝いに子供達は父親から特別なプレゼントが与えられる。一人一人が父親ベンから手渡されて感謝感激する贈り物は、弓矢だったりよく切れるナイフだったりする。キャプテンであるベンは子供達にエスペラントを含む4か国語を教えた。森の中で狩猟に行き、獲物を弓矢とナイフで殺し解体して食べ、皮を服や靴にする。山を開墾し畑を作り自給自足の生活をする。生き残るのに必要な体力の基礎をつくる為、朝から山を駆け巡り、岩登りを学び、泳ぎを覚える。幼いうちから読書の喜びを体験し、常に学んだことを言葉で表現できるようにし、言葉で表現するだけでなく絵画に描き、詩を読み、音楽にして表現する楽しさを家族全員で分かち合う。
10歳に満たない子供が、4か国語を駆使し、議論が白熱すると思わず皆がエスペラントでやりとりしていたり、アメリカ合衆国憲法を諳んじて言えて、ノーム チョムスキーを引用しながらファシズムを批判するかと思うと、自分で殺した小動物の毛皮を剥いで帽子にして、おまけにバッハを愛好する。なんとも なまいきでくすぐったい。
それにしても、どこまで子供は親のものだろうか。
子供は親のものでも親のペットでもない。現実には親が子に教えられることはそんなに多くはない。親がどんなに優れていても、子供にすべてを伝えることはできないし、子の方でも親の限界を早くから気付いて自分から親を乗り越えていくものだ。
人間は社会的動物だ。アーノルド ロレンツは、他の哺乳動物は生まれてすぐに立ち上がり乳を飲むのに比べて、人は未熟児状態で生まれて、親だけでなく社会によって育てられて成長する特殊な動物であると説いた。私たちは子供を産み、保育園、幼稚園、学校などで集団教育を受けさせ、社会の中でスポーツや音楽を楽しみ、子供の成長を見守る。子供達は親からよりも同じ子供達や、社会の大人たちから多くを学んで大人になる。親は子供の教育のほんの一部に関与するだけだ。子供が親の私物でも、ペットでもあってはならないのだ。
ママなんかもう要らない。うるさい、あっちに行って。と子供が言ってくれるようになることを、親は喜ばなければならない。親の介在を必要としなくなるまで子が成長してくれたと理解して、心から喜び、子を祝福しなければならない。そして、できるだけ子供をそっとしておいてやることだ。次に、ちょっとママ手伝って、と自分から言ってくるまで、辛抱強く黙って待つことだ。これが子育ての極意だ、などと言うことは間単だが、実行は難しい。現実には、反省することしきりだ。
子供が2歳の頃、自分で散らかしながらでも食べようとする子供を制して、後かたずけが簡単だからと言うだけの理由で、スプーンを奪って食べさせてしまわなかっただろうか。 子供たちが5歳の頃、危ないからと、止めたのに走って転んで怪我をして泣く子が、自分で立ち上がりこちらに来るまで、愚痴めいた事や批判がましいことを言わずに、じっと見守ってやっただろうか。 子供が7歳の頃、バイオリンの練習時間なのに楽器のケースを開けようとしない姿を見て、黙って待ってやっただろうか。 子供が中学の頃、いじめっ子に酷いことをされたのを見て、本人と解決方法を話し合わずに腹立ちまぎれに相手の家に怒鳴り込みに行かなかっただろうか。 子供が高校の頃、本人が何をしたいのかではなくて、大学に医学部には入れると先生が言うんだから行かなかったらバカだよ、みたいなことを言い選択肢を奪わなかっただろうか。 子供が大学生の頃、学校に送り迎えを申し出る献身的ボーイフレンドを、あいつは20点、こいつは3点、とか言って品定めしなかっただろうか。 子供が結婚するころ、ねえ、あなたみたいな完璧で素敵な人が、あんな奴がダンナで良いの?あんな60点男で良いの?と幾度もしつこく問わなかっただろうか。
全部自分のことだ。子育てより子離れのほうが難しい。親はいつも子供を手助けしたいと願い、子供が転べば走って行って助け起こし、子供に良いと思うことを押し付け、輝かしい将来を実現させてもらいたいと願う。あふれる愛情を止めることができない。でも、だからこそ、肝に銘じて子供は親のものではないことを常に認識していなければならない。
父親が一人で6人の子供達を人里離れた森の中で学校に通わせることを拒否して、すべての学問を教えることはできない。また、そんなことをしてはいけないのだ。
この映画は、おとぎ話と言える。
お伽噺として見れば、この映画はとても楽しい。6人6様の知的で個性的な子供達が、実に生き生きしていて魅力的だ。実際、映画撮影に入る前に、森でみな共同生活をして、本当に家族の様に互いがすっかりなじんでから、映画を撮り始めたという。アメリカ、カナダ、イギリス、ニュージーランド、オーストラリアから集められて役を演じた選りすぐりの子役達が、キラキラと輝いている。