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2013年6月24日月曜日
沢木耕太郎の「キャパの十字架」
うーん、この本には唸ってしまった。タイトルの後に こんなセンセーショナルな本の紹介がついている。
ー「世界が震撼する渾身のノンフィクション、、、戦争報道の歴史に燦然を輝く傑作「崩れ落ちる兵士」、だが、この作品はキャパのものなのか、76年間封印されていた真実が遂に明らかになる。」ー
私はキャパが好き。そして岡村昭彦も好き。二人ともベトナム戦争で不条理な戦争を告発するためにカメラをもって戦場に入り、キャパは帰ってこなかった。キャパの「ちょっとピンボケ」と、岡村昭彦の「兄貴として伝えたいこと」は、間違いなく私の愛読書に入る。
たった一枚の写真が人の生き方を変えてしまうことがある。実際に起こっていることを切り取った写真には、百の言葉や評論や解説や言い訳よりもインパクトが強い。強力なメッセージを含んだ写真は、起こった事実以上のものを人に訴える力を持つに至る。報道写真家の中で、従軍カメラマンの作品ほど事実を事実以上に伝えるものはないだろう。ちょっと思い返してみるだけで、報道されて有名になった何枚もの写真が思い浮かぶ。ベトナム戦争で米軍に拘束され、頭を撃ち抜かれる瞬間の少年を撮った「べトコン」の写真、ナパーム弾で家族も自分の着ていた服まで焼き尽くされて大やけどを負い、泣き叫びながら避難路を歩く全裸の少女。アフリカ、ソマリアの飢餓を撮った「ハゲワシと少女」。
そして、ロバート キャパの代表作、スペイン戦争の「崩れ落ちる兵士」。これはスペイン共和国兵士が、敵であるファシスト反政府軍の銃撃に当たって倒れるところを撮った作品とされていた。スペイン共和国が、やがて崩壊し、共和国を守るために従軍した兵士の栄光と誇りを象徴する写真として最も有名な戦争写真。アメリカの写真週刊誌「ライフ」にも掲載された、キャパが22歳の時の作品だ。この年だけでも50万人の死者を出したスペイン戦争の悲惨さは、世界中から共和国を守る為に志願して実際参戦した、作家のアーネスト ヘミングウェイや、ジョン オーウェル、アンドレ マルローなどによっても伝えらた。しかし、この共和国側に対して フランコ将軍率いるファシスト王党派が3年に及ぶ内戦で勝利し、共和国は崩壊する。当時、画家のピカソが、描いた「ゲルニカ」も、 このキャパの「崩れ落ちる兵士」の写真はスペイン戦争の悲惨さを世界に知らせる強力なメッセージだった。
沢木耕太郎は、1986年に、リチャード ウィーランの初めての本格的なキャパの伝記「ロバート キャパ」の翻訳を任される。それと同時にキャパの決定版写真集「フォトグラフス」も翻訳依頼される。その後、伝記は「キャパその青春」と「キャパその死」という2冊の本になり、写真集は「ロバートキャパ写真集、フォトグラフス」というタイトルで、日本語で出版される。沢木はキャパの生い立ちから死に至るまでの軌跡を調べるにつれて、キャパの代表作でカメラマンとしての契機になった「崩れ落ちる兵士」の写真が、いつどのような過程で撮影されたのか、疑問に思う。ネガが残っていないし、本人がこの写真についてだけは、問われても何の説明もしようとしなかった。
沢木は、キャパについて書かれたすべての書籍を検証する。2002年、アレックス カーシュウ「血とシャンパン」、2007年リチャード ウィーラン「これが戦争だ」、2009年J M ススぺレギ「写真の影」など。著者に会い、崩れ落ちる兵士の身元を確認するために当時、キャパが従軍していた戦地に何度も足を運び、家族の証言を得る。地元の郷土史家や、当時の学校の先生や、森林調査官らに会い調査した末、沢木はキャパが写真を撮った場所と日時に確証を得る。正確に「崩れ落ちる兵士」が撮影された日時に、その場所では戦闘はなかった。そこでわかったことは、「崩れ落ちる兵士」の写真は、戦闘を写したものではなく、軍の演習風景を撮影したものだということがわかる。「やらせ」だというのだ。
沢木は、同じ時に「演習」を撮影したほかの30枚の写真を徹底的に調べる。一枚一枚の写真が、どのようなアングルで撮られ、兵士達がどの方向から敵を狙い、敵がどの方向に居て、キャパはどこでカメラを構えていたのか。
当時まだ存命していた 作家、大岡昇平に、これらの写真をみせて、それらが実戦か演習の写真かを問うと、銃の構え方を見ただけで実戦経験のある作家が、たちどころに「演習ですよ。」と言い切るシーンは、印象的だ。また、連合赤軍で、懲役刑に服したことのある雪野健作に教わって、銃撃を受けた兵士が写真のようにのけぞって倒れるかどうか、を実弾の速さと重さから計算して、物理学的には、当時の銃弾に当たっただけで 写真のようにのけぞって倒れることはあり得ない、という結論を出すところも、感動的だ。
2010年に沢木は現地に飛び、郷土史家に会う。この人はキャパの写真が キャパのライカではなく、もうひとつのキャパのカメラ、ローライフレックスで撮られたものだという。2011年にも 沢木は再訪して、雲の動きや写真による影から、30枚の写真を撮った 順番を同定する。そして崩れ落ちる写真が撮られた時、同時に別の方向から同じ人物が撮られていることが確認する。写真は2台のカメラ、2人の人物によって撮られていた。カメラは、ライカとローライフレックスだ。カメラマンは、キャパと、その頃二人でいつも一緒にいたキャパの恋人ゲルダジローだ。
沢木はキャパが持っていたライカ3Aと、ローライフレックススタンダードを手に入れて、実際に同じところで何十枚もの写真を撮る。またパリに飛んで、写真の原板を掲載した当時の雑誌を、パリ国立図書館で探し、さらに渡米してマンハッタン国際写真センターで 当時掲載された雑誌を調べる。ニューヨークのカメラマンから ローライフレックスの特徴を聴くことで、写真はローライフレックスで撮られたことに確証が得られる。
そしてわかったことは、その日、軍事演習風景を、キャパとゲルダの二人が、ライカとローライフレックスで撮影していたこと。同じ場所、同じ構図で、カメラを構えていた二人の前で、坂道を銃を構えて行進してきた兵士の一人が滑って転んだ。キャパのライカは 行進する兵士とその横をまさに転びそうになった兵士を捉えた。しかし一瞬遅れたゲルダのローライフレックスは、滑って転ぶ一瞬を捉えた。、、、「崩れ落ちる兵士」は、ゲルダが撮った写真だったのだ。
当時の写真は、現実にどう映っているか 本人たちは確認できなかった。撮り終えたフィルムはロールのまま雑誌社に送られる。そこでどんな評価がなされるかは、戦地にいるキャパとゲルダは、知る由もない。
この時、キャパは22歳。ゲルダは、このあと戦場に残り共和軍の戦車が暴走してきた事故で命を落とす。26歳だった。遺体がパリに運ばれると、葬送に数千人の市民が付き添ったといわれる。キャパはこの写真で有名になった。しかし写真について説明を求められても、無言で通した。
キャパの「崩れ落ちる兵士」は、軍事演習中に、キャパの恋人ゲルダが、偶然シャッターを押してしまったために撮られた写真だった。すでに有名になってしまったキャパには ゲルダの死後、言い訳も、真実を言うことも許されなかった。黙り通しひとり十字架を背負って、戦争写真家として前に進むしか道がなかった。キャパは その後、日中戦争、第2次世界大戦ではヨーロッパで空襲下のロンドンを撮り、イタリア戦線に行き、ノルマンデイー上陸作戦では 第2次世界大戦で最大の死者を出した浜で次々に上陸する兵士とともに上陸して、無数のドイツ兵に背を向けて、有名な「波の中の兵士」を撮る。そして1954年フランスがインドシナに介入した際に「ライフ」の記者として派遣された北ベトナムで、地雷を踏んで死ぬ。享年40歳。
一枚の写真で人生が変わってしまうほどインパクトの大きな戦争写真の傑作が 「やらせ」でしかも「盗作」といえるようなものだった事実を解明して、沢木耕太郎が発表したことは、写真界にとってのタブーを侵したようなものだろう。スペイン人にとって受け入れがたい。ファシズムに抗して、スペイン戦争を戦った誇るべき歴史を考えれば、ピカソの「ゲルニカ」と、キャパの「崩れ落ちる兵士」は、スペイン戦争のイコンだ。侵してはならない聖域だった。
しかしキャパが偉大な戦争写真家だったことには変わりはない。ゲルダとともにスペイン戦争でファシストたちに蹂躙されていく人々の悲惨な歴史を、証人としてたくさんの写真で残した。キャパは 依然として高い評価をされるべきだ。ひとり十字架を背負って、いくつもの戦場で命をかけて、戦争の現場証人としてあり続けた。改めて、キャパの写真に見入る。しかし、沢木耕太郎も良い仕事をした。執念の数十年だったろう。
2013年6月17日月曜日
ロイヤルオペラ、ドミンゴの「ナブコ」
英国ロイヤルオペラ「ナブコ」が、プラセド ドミンゴ主演で公演された。そのフイルムを映画館で観た。今年4月26日に、劇場公演されたばかりのオペラ。ロンドンでしか観られない公演を 2か月もたたないうちにシドニーで、観られるなんて、何という幸運だろう。
監督:ダニエル アバド
指揮:二コラ ルインテイ
キャスト
ナブコ:プラセド ドミンゴ
アンドレア カル
ヴィタリ コワルジョ
世界一美しいテノールを、半世紀もの間、聴かせてくれたドミンゴが、ナブコを主演してバリトンを歌っている。72歳。変わらず高音がよく伸びて、低音がよく響く。かつてドミンゴのように背が高くて がっしりした体で、ハンサムなテナー歌手が他に居ただろうか。独唱だけで、何万人もの聴衆を集められるテナーの華の時期に、喉頭がんを克服したホセ カレラスを励まそうと、パバロテイに声をかけて「3大テナーのコンサート」を開催して大成功に導いた。ジョン デンバーやポップスの音楽家と共演して、敷居の高いオペラの垣根を取っ払っって、クラシックファン層を拡大した。どこに行っても誰とも打ち解ける人柄の良さや彼の度量の大きさも、実力ゆえのことだろう。フイルムではニューヨークメトロポリタンオペラの解説者、インタビュアーとして聴衆と音楽家との架け橋をユーモアたっぷりの上品な語り口で務めている。
このフイルムでもオペラの幕間に リハーサル風景や 監督による解説や歌い手のインタビューが流された。劇場に行ってオペラを観て、帰ってくるよりも得をした気分だ。もちろん、実物の舞台は良い。何年も何年もオペラオーストラリアの会員になって 年にいくつかの舞台を楽しみにしてきたが、今年は一枚もチケットを買わなかった。足腰の弱ったオットは、オペラハウスの地下駐車場から劇場までの階段を、もう上がれない。去年やっとのことで連れて行った、「魔笛」の間中、オットは疲れ切って眠っていた。その寝姿を見てもうオペラハウスには連れてこないと、心に誓った。会員でもチケットは一枚3万円余り。二人で駐車場を使い、幕間にシャンパンを飲めば7万円かかる。公演フイルムを映画館で見れば ひとり2千5百円也。
「ナブコ」は オペラオーストラリアで数年前見たが、この時の演出家が愚かで、ナブコをサダム フセインのそっくりさんにして歌わせて 頭から血の雨を降らせるという悪趣味な舞台で、最低の舞台、最低の評判だった。旧約聖書をもとにした美しいオペラに こんな「新解釈」をするなんて。それ以来、本当の「ナブコ」をぜひ見たいと思っていた。
フイルムの前に、解説者がドミンゴの練習風景を紹介する。ロイヤルオペラに現れた72歳のドミンゴ、、、思わず涙が浮かんだ。すっかり足が細くなってしまって、、、、、。でも、声の力強さは変わらない。じきに、この張りのある高音も力強いバリトンも、彼には歌えなくなる日が来るに違いない。いま、彼の美しいオペラを聴くことができる幸せを感じながら 彼の声を全身で受けて聴こうと思った。
ストーリーは
バビロ二ア国王ナブコと、その王女アビガイッレの率いられたバビロン軍が エルサレムを攻略した。ナブコには猛女アビガイッレと、可憐なフェネーナの二人の娘がいる。フェネーナは、エルサレムで人質に取られている。ナブコはフェネーラを連れ出したいと思っていたが、彼女はエルサレム王の甥にあたるイズマエーレと相思相愛の仲になっていて、二人の関係をナブコが認めてくれなければ、死ぬつもりでいる。一方の娘 アビガイッレも、イズマエーレを愛していて、フェネーナとの仲を引き裂こうとしている。
ナブコとアビガイッレは、エルサレムの街や人々を蹂躙し、神殿を破壊する。しかし、アビガイッレは、自分がナブコと奴隷との間にできた娘だったことや、ナブコがフェネーナを、自分の後継者に望んでいる書類を見つけて読んでしまった。激しく妹に嫉妬するアビガイッレは、父ナブコを監禁し、一人王位を横取りする。ひとりきりになったナブコは、自分が王よりも「神」だ、と誇り、権力に奢りすぎた自分を反省し、死刑を言い渡されたフェネーナを救うために、エホバの神に赦しを請う。ナブコは、自分たちバビロニアの神々を祭った祭壇や偶像を自ら破壊する。エホバを讃え、ヘブライ人を釈放、ナブコは許され、アビガイッレは、服毒自殺する。
というお話。
1842年、ミラノスカラ座で初演。ジョゼッペ ヴエルデイ3作目のオペラ。28歳の時の作品。旧約聖書「バンビロン捕囚」をオペラにしたもの。1813年生まれのヴェルデイが、生まれた頃は イタリアはまだ国としては存在しなかった。ミラノは、強国オーストリアの圧政下にあった。イタリアが統一されるのは、彼が48歳の時だ。「ナブコ」の第3幕で歌われる合唱曲「行け わが想い」は、イタリアの第2の国歌と呼ばれている。当時、国家統一途上にあったイタリア人の愛国心を鼓舞した、力強い合唱曲だ。イタリア王国が成立した時、48歳だったヴェルデイは、国会議員に推薦されている。国歌のように人々に愛唱された合唱曲が、イタリア人としてのアイデンティテイを明確にして国家成立の心のよりどころにもなった。
ピアニシモから始まる。土地を追われ、家族を失い、迫害された人々が 涙ながらに声をひそめて囁き合う、その声が徐々に、徐々に、やがて仲間に伝播してフォルテ強音の合唱になっていくところは、感動的だ。オペラの合唱曲の中で、最も素晴らしい曲。アイーダの「凱旋行進の曲」とともに、合唱のパワーに圧倒される。
1901年、ヴェルデイが87歳で亡くなったとき、棺が運ばれるミラノの沿道で、何万人もの市井の人々が、この合唱曲で彼を見送ったと、言われている。
行け 我が想い
金色の翼に乗って
行け 斜面に
丘に憩い
暖かく 甘い 故国のそよ風になって
行け 我が想い
我が故郷よ
ドミンゴは素晴らしかった。指揮者も猛烈に情熱的な指揮をする。
イタリアオペラの良さが詰まったオペラ。いつまでも合唱の曲が耳に残っている。
2013年6月12日水曜日
映画 「華麗なるギャツビー」
原題:「THE GREAT GATSBY]
原作は、F スコット フィツジェラルドによる1925年作品。ベストセラーになったロマンチックドラマ。アメリカ映画、ワーナーブラザーズ社による3Dフイルムで制作され、第66回カンヌ国際映画祭のオープニング作品として上映された。
監督: バズ ラーマン
キャスト
ジェイ ギャツビー :レオナルド デカプリオ
ニック キャラウェイ :トビー マグワイア
デイジー ブキャナン:キャリー マリガン
トム ブキャナン :ジョエル エドガードン
マートル ウィルソン :アイラ フィッシャー
ストーリーは
1922年。ニック キャラウェイは、第一次世界大戦に従軍した後、エール大学を卒業しウォールストリートの証券会社に就職した。ニューヨークのロングアイランドに家を借りて過ごすうち、となりの瀟洒な屋敷に住む住人に、興味をもつようになる。そのギャツビーという主人は、夜な夜な派手なパーテイーを開き、有名人や政財界の要人を招待して羽振りが良いが、深夜、桟橋で対岸の蒼い灯りを見つめる男の後ろ姿は、孤独そのものだった。
やがてニックのところにも、ギャツビーからパーテイーの招待状が届く。行ってみると贅を凝らした屋敷のパーテイーに、ニューヨーク中の人々が集まって遊び頬けているが、ギャツビーはまだ若い、物静かな青年だった。ニックとギャツビー、二人はすぐに打ち解けて親しくなる。
やがてギャツビーは ニックに、対岸に住むニックの従妹、デイジーをお茶に誘ってほしいと、頼みこむ。ギャツビーの思いつめたような表情に不審に思いながらも、ニックは自分の家に従妹のデイジーを招待する。溢れるほどの花束をもってギャツビーはデイジーを待つ。それは、デイジーとギャツビーの5年ぶりの再会だったのだ。デイジーとギャツビーは、かつて愛し合っていたが、戦争が二人の間を引き裂き、戦争が終わっても、無一文だったギャツビーは、デイジーのもとに帰って来なかった。デイジーは請われるまま大富豪と結婚して、贅沢な暮らしをしてきた。しかし、今、ギャツビーは、億万長者になってデイジーに前に現れたのだった。5年余りの時の流れなど無かったかのように、デイジーとギャツビーとは 再び愛し合う。それを知った夫のトムは、激しく怒る。
ある午後、ニューヨークのトムの別荘で、午後のお茶の時間を過ごしていて、ギャツビーはデイジーに、愛しているのはギャツビーだけだと 夫にに言うように迫る。遂にトムとギャツビーは、激しく争い合い、その場に耐えられなくなったデイジーは、ギャツビーの車で、逃げ出すようにロングアイランドに向かって運転して帰る途中、車に向かって走ってきた女を撥ね殺してしまう。女はトムの愛人、マートルだった。マートルはガソリンスタンドの主人との貧しい生活が嫌いで、そこから抜け出してくれるトムに、救いを求めていた。それでデイジーの運転する車を、トムが運転しているものと思って、車に走り寄ったのだった。デイジーは女をはねた後、車を止めずに家に帰宅する。
デイジーの後を追ったトムは 自分の愛人が、ギャツビーの車に跳ね殺されたことを知る。最愛の妻を失って嘆き悲しむ夫に、妻マートルを殺したのはギャツビーの車であることを言う。
ギャツビーはデイジーが家を出て、これからは二人で生きていけることを信じて疑わない。自分には、デイジーのいない人生などないからだ。ギャツビーはデイジーからの電話を待っている。電話が鳴った時、プールにいたギャツビーは、受話器を取ろうとしたときに、背後からマートルの夫に銃で撃たれる。
毎晩、ギャツビーの主催する贅沢なパーテイーに集まってきていた何百人もの「友達」は、ギャツビーの葬列に一人として参加しなかった。ギャツビーが自分の短い生涯で一人だけ愛した女、デイジーも、夫のトムも、ギャツビーの葬儀に来なかった。何事もなかったかのようにデイジーは旅行に出かけてしまった。
ニックは、たった一人きりで、ギャツビーを見送ったのだった。
というストーリー。
このラブロマンス物語は、1925年のフイッツジェラルドの代表作。現代アメリカ文学の代表作でもある。村上春樹の「アメリカン」な文体は、彼の影響をもろに受けてる。短くて明確な語り方。古典英国文学のように、風景描写や人物の背景など、グダグダ説明しない。にも関わらず、簡潔で的確な描写で、読み手はより具体的に情景を思い描くことができる。フィッツジェラルドとヘミングウェイとの交流も見逃せない。文体は歯切れが良く、描写が写実的で、カメラの目線で、焦点を絞ったり、緩めたりする。オーストラリアの高校では この「ザ グレイト ギャツビー」をアメリカ文学代表作として授業で読むから、オージーはみんなこの本を読んでいる。この作品は、イギリス文学でいうと、エミリー ブロンテの「嵐が丘」のアメリカ版と言えるだろうか。貧しかった青年が 生涯一人の女を愛し、女が死んだ後になっても、幽霊になっても、愛して求め合うラブロマンスだ。ヒースクリッフのキャシーへ激しい愛を アメリカ版で現代風にしたのが、このギャッビーだ。
アメリカ禁酒法下で、財力にものをいわせて自由奔放に飲み、買い、享楽に身を落とす人々に欲望の空しさを訴えて居る。金持ちのエゴイズムと、人を殺しても良心のひとかけらも見せることのない人としての堕落、あまりにもアメリカ的な文化を描いている。そのなかで、一生にたった一人の女を愛して死んでいった孤独な青年の姿が浮き彫りにされる。
バズ ラーマン監督は、「ロメオとジュリエット」、「ムーラン ルージュ」を監督した人だが、どうして3Dのフイルムで撮ったのか、という質問に答えて、絢爛豪華なパーテイーの様子を奥行きのある立体で表したかった、と言っている。確かに2Dでも3Dでもパーテイーの派手な演出はムーラン ルージュを上回る。着飾った人々が飲んだくれて馬鹿騒ぎする様子と、夜一人岬で対岸を見つめている男の孤絶感が、みごとな対比をみせている。
この映画を観ると どうしても1974年の「華麗なるギャツビー」を思い出す。これは、ロバート レッドフォードとミア ファーロウが主演した。デイジー役では、両者を比較すると、ミア ファーロウのほうが役に合っている。ミア ファーロウの、手足の長い、中性的で永遠の少女のようなたたずまいや、堅い笑顔は、演じて得られるものではない。彼女が本来持って生まれてきた不思議な魅力だ。それがとてもデイジーにマッチしていた。
ギャツビーは、今回のレオナルド デカプリオのほうが演技は巧みだ。デ カプリオは、本当に良い役者になってきた。でも、レッドフォードのほうが、原作のキャラクターに近い。孤独で物思いにふける男の雰囲気が良い。若い時はとてもハンサムだった。彼が真っ白の3つ揃いのスーツで現れるシーンなど、ストーリーもセリフも何も要らない。ただ立っていてくれるだけで絵になって、深い深いため息が出たものだ。
そんなレッドフォードも年を取り、若い映画人を育成する機関を作り、サンダース映画賞を設け、活躍している。そこで止まっていれば立派だ。が、、最新作「THE COMPANY YOU KEEP」をレッドフォードが しわくちゃな顔で主演している。1970年代に学生だった爆弾犯が、40年たって、FBIに逮捕されるストーリーで、スーザン サランドンも レッドフォードも ジュデイー クリステイーも逮捕される。レッドフォードが林を走るシーンがある。本人は走っているつもりだろうが、全然足が上がっていない。年をとったジュデイー クリステイーと、レッドフォードが、ベッドインするシーンまである。やめてくれ。76歳と72歳ですよ。君たち、いまさら何をやっているんですか。人は年をとれば醜くなる。老醜をさらすのは、公害よりも悪質だ。
ともかく、この3D、デ カプリオのギャツビー主演作は、ミュージカルを見ているように画面の移動がスムーズで、豪華でゴージャスだ。アメリカ文学の代表作に触れてみる価値はある。
2013年6月10日月曜日
村上春樹の2011年カタルニア国際賞受賞スピーチ
これは、受賞に際して彼が行ったスピーチの全文です。2年前のスピーチですが、いま、読んでみても、内容に全く変わりががありません。改めて、ここにコピーしてみました。
「非現実的な夢想家として」
僕がこの前バルセロナを訪れたのは二年前の春のことです。
サイン会を開いたとき、驚くほどたくさんの読者が集まってくれました。
長い列ができて、一時間半かけてもサインしきれないくらいでした。
どうしてそんなに時間がかかったかというと、
たくさんの女性の読者たちが僕にキスを求めたからです。
それで手間取ってしまった。
僕はこれまで世界のいろんな都市でサイン会を開きましたが、
女性読者にキスを求められたのは、世界でこのバルセロナだけです。
それひとつをとっても、バルセロナが
どれほど素晴らしい都市であるかがわかります。
この長い歴史と高い文化を持つ美しい街に、
もう一度戻ってくることができて、とても幸福に思います。
でも残念なことではありますが、今日はキスの話ではなく、
もう少し深刻な話をしなくてはなりません。
ご存じのように、去る3月11日午後2時46分に
日本の東北地方を巨大な地震が襲いました。
地球の自転が僅かに速まり、
一日が百万分の1.8秒短くなるほどの規模の地震でした。
地震そのものの被害も甚大でしたが、その後襲ってきた津波は
すさまじい爪痕を残しました。
場所によっては津波は39メートルの高さにまで達しました。
39メートルといえば、普通のビルの10階まで駆け上っても
助からないことになります。
海岸近くにいた人々は逃げ切れず、二万四千人近くが犠牲になり、
そのうちの九千人近くが行方不明のままです。
堤防を乗り越えて襲ってきた大波にさらわれ、
未だに遺体も見つかっていません。
おそらく多くの方々は冷たい海の底に沈んでいるのでしょう。
そのことを思うと、もし自分がその立場になっていたらと想像すると、
胸が締めつけられます。生き残った人々も、
その多くが家族や友人を失い、家や財産を失い、コミュニティーを失い、
生活の基盤を失いました。
根こそぎ消え失せた集落もあります。
生きる希望そのものをむしり取られた人々も数多くおられたはずです。
日本人であるということは、どうやら多くの自然災害とともに
生きていくことを意味しているようです。
日本の国土の大部分は、夏から秋にかけて、台風の通り道になっています。
毎年必ず大きな被害が出て、多くの人命が失われます。
各地で活発な火山活動があります。
そしてもちろん地震があります。
日本列島はアジア大陸の東の隅に、四つの巨大なプレートの上に乗っかるような、
危なっかしいかっこうで位置しています。
我々は言うなれば、地震の巣の上で生活を営んでいるようなものです。
台風がやってくる日にちや道筋はある程度わかりますが、
地震については予測がつきません。
ただひとつわかっているのは、これで終りではなく、
別の大地震が近い将来、間違いなくやってくるということです。
おそらくこの20年か30年のあいだに、東京周辺の地域を、
マグニチュード8クラスの大型地震が襲うだろうと、
多くの学者が予測しています。
それは十年後かもしれないし、あるいは明日の午後かもしれません。
もし東京のような密集した巨大都市を、直下型の地震が襲ったら、
それがどれほどの被害をもたらすことになるのか、
正確なところは誰にもわかりません。
にもかかわらず、東京都内だけで千三百万人の人々が今も
「普通の」日々の生活を送っています。
人々は相変わらず満員電車に乗って通勤し、高層ビルで働いています。
今回の地震のあと、東京の人口が減ったという話は耳にしていません。
なぜか?あなたはそう尋ねるかもしれません。
どうしてそんな恐ろしい場所で、それほど多くの人が当たり前に
生活していられるのか?
恐怖で頭がおかしくなってしまわないのか、と。
日本語には無常(mujo)という言葉があります。
いつまでも続く状態=常なる状態はひとつとしてない、ということです。
この世に生まれたあらゆるものはやがて消滅し、
すべてはとどまることなく変移し続ける。
永遠の安定とか、依って頼るべき不変不滅のものなどどこにもない。
これは仏教から来ている世界観ですが、この「無常」という考え方は、
宗教とは少し違った脈絡で、日本人の精神性に強く焼き付けられ、
民族的メンタリティーとして、
古代からほとんど変わることなく引き継がれてきました。
「すべてはただ過ぎ去っていく」という視点は、
いわばあきらめの世界観です。
人が自然の流れに逆らっても所詮は無駄だ、という考え方です。
しかし日本人はそのようなあきらめの中に、
むしろ積極的に美のあり方を見出してきました。
自然についていえば、我々は春になれば桜を、夏には蛍を、
秋になれば紅葉を愛でます。
それも集団的に、習慣的に、そうするのがほとんど
自明のことであるかのように、熱心にそれらを観賞します。
桜の名所、蛍の名所、紅葉の名所は、その季節になれば混み合い、
ホテルの予約をとることもむずかしくなります。
どうしてか?
桜も蛍も紅葉も、ほんの僅かな時間のうちにその美しさを
失ってしまうからです。
我々はそのいっときの栄光を目撃するために、遠くまで足を運びます。
そしてそれらがただ美しいばかりでなく、目の前で儚く散り、
小さな灯りを失い、鮮やかな色を奪われていくことを確認し、
むしろほっとするのです。
美しさの盛りが通り過ぎ、消え失せていくことに、
かえって安心を見出すのです。
そのような精神性に、果たして自然災害が影響を及ぼしているかどうか、
僕にはわかりませ
しかし我々が次々に押し寄せる自然災害を乗り越え、
ある意味では「仕方ないもの」として受け入れ、
被害を集団的に克服するかたちで生き続けてきたのは確かなところです。
あるいはその体験は、我々の美意識にも影響を及ぼしたかもしれません。
今回の大地震で、ほぼすべての日本人は激しいショックを受けましたし、
普段から地震に馴れている我々でさえ、その被害の規模の大きさに、
今なおたじろいでいます。
無力感を抱き、国家の将来に不安さえ感じています。
でも結局のところ、我々は精神を再編成し、
復興に向けて立ち上がっていくでしょう。
それについて、僕はあまり心配してはいません。
我々はそうやって長い歴史を生き抜いてきた民族なのです。
いつまでもショックにへたりこんでいるわけにはいかない。
壊れた家屋は建て直せますし、崩れた道路は修復できます。
結局のところ、我々はこの地球という惑星に勝手に
間借りしているわけです。
どうかここに住んで下さいと地球に頼まれたわけじゃない。
少し揺れたからといって、文句を言うこともできません。
ときどき揺れるということが地球の属性のひとつなのだから。
好むと好まざるとにかかわらず、
そのような自然と共存していくしかありません。
ここで僕が語りたいのは、建物や道路とは違って、
簡単には修復できないものごとについてです。
それはたとえば倫理であり、たとえば規範です。
それらはかたちを持つ物体ではありません。
いったん損なわれてしまえば、簡単に元通りにはできません。
機械が用意され、人手が集まり、資材さえ揃えばすぐに拵えられる、
というものではないからです。
僕が語っているのは、具体的に言えば、
福島の原子力発電所のことです。
みなさんもおそらくご存じのように、福島で地震と津波の被害にあった
六基の原子炉のうち、少なくとも三基は、修復されないまま、
いまだに周辺に放射能を撒き散らしています。
メルトダウンがあり、まわりの土壌は汚染され、
おそらくはかなりの濃度の放射能を含んだ排水が、
近海に流されています。
風がそれを広範囲に運びます。
十万に及ぶ数の人々が、原子力発電所の周辺地域から
立ち退きを余儀なくされました。
畑や牧場や工場や商店街や港湾は、無人のまま放棄されています。
そこに住んでいた人々はもう二度と、
その地に戻れないかもしれません。
その被害は日本ばかりではなく、まことに申し訳ないのですが、
近隣諸国に及ぶことにもなりそうです。
なぜこのような悲惨な事態がもたらされたのか、
その原因はほぼ明らかです。
原子力発電所を建設した人々が、これほど大きな津波の到来を
想定していなかったためです。
何人かの専門家は、かつて同じ規模の大津波がこの地方を襲ったことを指摘し、
安全基準の見直しを求めていたのですが、
電力会社はそれを真剣には取り上げなかった。
なぜなら、何百年かに一度あるかないかという大津波のために、
大金を投資するのは、営利企業の歓迎するところではなかったからです。
また原子力発電所の安全対策を厳しく管理するべき政府も、
原子力政策を推し進めるために、その安全基準のレベルを
下げていた節が見受けられます。
我々はそのような事情を調査し、もし過ちがあったなら、
明らかにしなくてはなりません。
その過ちのために、少なくとも十万を超える数の人々が、
土地を捨て、生活を変えることを余儀なくされたのです。
我々は腹を立てなくてはならない。
当然のことです。
日本人はなぜか、もともとあまり腹を立てない民族です。
我慢することには長けているけれど、
感情を爆発させるのはそれほど得意ではない。
そういうところはあるいは、バルセロナ市民とは
少し違っているかもしれません。
でも今回は、さすがの日本国民も真剣に腹を立てることでしょう。
しかしそれと同時に我々は、そのような歪んだ構造の存在を
これまで許してきた、あるいは黙認してきた我々自身をも、
糾弾しなくてはならないでしょう。
今回の事態は、我々の倫理や規範に深くかかわる問題であるからです。
ご存じのように、我々日本人は歴史上唯一、
核爆弾を投下された経験を持つ国民です。
1945年8月、広島と長崎という二つの都市に、
米軍の爆撃機によって原子爆弾が投下され、
合わせて20万を超す人命が失われました。
死者のほとんどが非武装の一般市民でした。
しかしここでは、その是非を問うことはしません。
僕がここで言いたいのは、爆撃直後の20万の死者だけではなく、
生き残った人の多くがその後、放射能被曝の症状に苦しみながら、
時間をかけて亡くなっていったということです。
核爆弾がどれほど破壊的なものであり、放射能がこの世界に、
人間の身に、どれほど深い傷跡を残すものかを、
我々はそれらの人々の犠牲の上に学んだのです。
戦後の日本の歩みには二つの大きな根幹がありました。
ひとつは経済の復興であり、もうひとつは戦争行為の放棄です。
どのようなことがあっても二度と武力を行使することはしない、
経済的に豊かになること、そして平和を希求すること、
その二つが日本という国家の新しい指針となりました。
広島にある原爆死没者慰霊碑にはこのような言葉が刻まれています。
「安らかに眠って下さい。過ちは繰り返しませんから」
素晴らしい言葉です。
我々は被害者であると同時に、加害者でもある。
そこにはそういう意味がこめられています。
核という圧倒的な力の前では、我々は誰しも被害者であり、
また加害者でもあるのです。
その力の脅威にさらされているという点においては、
我々はすべて被害者でありますし、
その力を引き出したという点においては、
またその力の行使を防げなかったという点においては、
我々はすべて加害者でもあります。
そして原爆投下から66年が経過した今、福島第一発電所は、
三カ月にわたって放射能をまき散らし、
周辺の土壌や海や空気を汚染し続けています。
それをいつどのようにして止められるのか、まだ誰にもわかっていません。
これは我々日本人が歴史上体験する、二度目の大きな核の被害ですが、
今回は誰かに爆弾を落とされたわけではありません。
我々日本人自身がそのお膳立てをし、自らの手で過ちを犯し、
我々自身の国土を損ない、我々自身の生活を破壊しているのです。
何故そんなことになったのか?
戦後長いあいだ我々が抱き続けてきた核に対する拒否感は、
いったいどこに消えてしまったのでしょう?
我々が一貫して求めていた平和で豊かな社会は、
何によって損なわれ、歪められてしまったのでしょう?
理由は簡単です。「効率」です。
原子炉は効率が良い発電システムであると、電力会社は主張します。
つまり利益が上がるシステムであるわけです。
また日本政府は、とくにオイルショック以降、
原油供給の安定性に疑問を持ち、原子力発電を国策として
推し進めるようになりました。
電力会社は膨大な金を宣伝費としてばらまき、メディアを買収し、
原子力発電はどこまでも安全だという幻想を国民に植え付けてきました。
そして気がついたときには、日本の発電量の約30パーセントが
原子力発電によってまかなわれるようになっていました。
国民がよく知らないうちに、地震の多い狭い島国の日本が、
世界で三番目に原発の多い国になっていたのです。
そうなるともうあと戻りはできません。
既成事実がつくられてしまったわけです。
原子力発電に危惧を抱く人々に対しては
「じゃああなたは電気が足りなくてもいいんですね」という脅しのような
質問が向けられます。
国民の間にも「原発に頼るのも、まあ仕方ないか」という気分が広がります。
高温多湿の日本で、夏場にエアコンが使えなくなるのは、
ほとんど拷問に等しいからです。
原発に疑問を呈する人々には、「非現実的な夢想家」という
レッテルが貼られていきます。
そのようにして我々はここにいます。
効率的であったはずの原子炉は、
今や地獄の蓋を開けてしまったかのような、無惨な状態に陥っています。
それが現実です。
原子力発電を推進する人々の主張した
「現実を見なさい」という現実とは、実は現実でもなんでもなく、
ただの表面的な「便宜」に過ぎなかった。
それを彼らは「現実」という言葉に置き換え、
論理をすり替えていたのです。
それは日本が長年にわたって誇ってきた
「技術力」神話の崩壊であると同時に、そのような「すり替え」を
許してきた、我々日本人の倫理と規範の敗北でもありました。
我々は電力会社を非難し、政府を非難します。
それは当然のことであり、必要なことです。
しかし同時に、我々は自らをも告発しなくてはなりません。
我々は被害者であると同時に、加害者でもあるのです。
そのことを厳しく見つめなおさなくてはなりません。
そうしないことには、またどこかで同じ失敗が繰り返されるでしょう。
「安らかに眠って下さい。過ちは繰り返しませんから」
我々はもう一度その言葉を心に刻まなくてはなりません。
ロバート・オッペンハイマー博士は第二次世界大戦中、
原爆開発の中心になった人ですが、彼は原子爆弾が
広島と長崎に与えた惨状を知り、大きなショックを受けました。
そしてトルーマン大統領に向かってこう言ったそうです。
「大統領、私の両手は血にまみれています」
トルーマン大統領はきれいに折り畳まれた白いハンカチを
ポケットから取り出し、言いました。
「これで拭きたまえ」
しかし言うまでもなく、それだけの血をぬぐえる清潔なハンカチなど、
この世界のどこを探してもありません。
我々日本人は核に対する「ノー」を叫び続けるべきだった。
それが僕の意見です。
我々は技術力を結集し、持てる叡智を結集し、
社会資本を注ぎ込み、原子力発電に代わる有効なエネルギー開発を、
国家レベルで追求すべきだったのです。
たとえ世界中が「原子力ほど効率の良いエネルギーはない。
それを使わない日本人は馬鹿だ」とあざ笑ったとしても、
我々は原爆体験によって植え付けられた、核に対するアレルギーを、
妥協することなく持ち続けるべきだった。
核を使わないエネルギーの開発を、日本の戦後の歩みの、
中心命題に据えるべきだったのです。
それは広島と長崎で亡くなった多くの犠牲者に対する、
我々の集合的責任の取り方となったはずです。
日本にはそのような骨太の倫理と規範が、
そして社会的メッセージが必要だった。
それは我々日本人が世界に真に貢献できる、
大きな機会となったはずです。
しかし急速な経済発展の途上で、「効率」という安易な基準に流され、
その大事な道筋を我々は見失ってしまったのです。
前にも述べましたように、いかに悲惨で深刻なものであれ、
我々は自然災害の被害を乗り越えていくことができます。
またそれを克服することによって、人の精神がより強く、
深いものになる場合もあります。
我々はなんとかそれをなし遂げるでしょう。
壊れた道路や建物を再建するのは、
それを専門とする人々の仕事になります。
しかし損なわれた倫理や規範の再生を試みるとき、
それは我々全員の仕事になります。
我々は死者を悼み、災害に苦しむ人々を思いやり、
彼らが受けた痛みや、負った傷を無駄にするまいという自然な気持ちから、
その作業に取りかかります。
それは素朴で黙々とした、忍耐を必要とする手仕事になるはずです。
晴れた春の朝、ひとつの村の人々が揃って畑に出て、土地を耕し、
種を蒔くように、みんなで力を合わせてその作業を進めなくてはなりません。
一人ひとりがそれぞれにできるかたちで、しかし心をひとつにして。
その大がかりな集合作業には、言葉を専門とする我々=職業的作家たちが
進んで関われる部分があるはずです。
我々は新しい倫理や規範と、新しい言葉とを連結させなくてはなりません。
そして生き生きとした新しい物語を、そこに芽生えさせ、
立ち上げてなくてはなりません。
それは我々が共有できる物語であるはずです。
それは畑の種蒔き歌のように、人々を励ます律動を持つ物語であるはずです。
我々はかつて、まさにそのようにして、
戦争によって焦土と化した日本を再建してきました。
その原点に、我々は再び立ち戻らなくてはならないでしょう。
最初にも述べましたように、我々は「無常(mujo)」という
移ろいゆく儚い世界に生きています。
生まれた生命はただ移ろい、やがて例外なく滅びていきます。
大きな自然の力の前では、人は無力です。
そのような儚さの認識は、日本文化の基本的イデアのひとつになっています。
しかしそれと同時に、滅びたものに対する敬意と、
そのような危機に満ちた脆い世界にありながら、
それでもなお生き生きと生き続けることへの静かな決意、
そういった前向きの精神性も我々には具わっているはずです。
僕の作品がカタルーニャの人々に評価され、
このような立派な賞をいただけたことを、誇りに思います。
我々は住んでいる場所も遠く離れていますし、話す言葉も違います。
依って立つ文化も異なっています。
しかしなおかつそれと同時に、我々は同じような問題を背負い、
同じような悲しみと喜びを抱えた、世界市民同士でもあります。
だからこそ、日本人の作家が書いた物語が何冊もカタルーニャ語に翻訳され、
人々の手に取られることにもなるのです。
僕はそのように、同じひとつの物語を皆さんと分かち合えることを嬉しく思います。
夢を見ることは小説家の仕事です。
しかし我々にとってより大事な仕事は、人々とその夢を分かち合うことです。
その分かち合いの感覚なしに、小説家であることはできません。
カタルーニャの人々がこれまでの歴史の中で、多くの苦難を乗り越え、
ある時期には苛酷な目に遭いながらも、力強く生き続け、
豊かな文化を護ってきたことを僕は知っています。
我々のあいだには、分かち合えることがきっと数多くあるはずです。
日本で、このカタルーニャで、あなた方や私たちが等しく
「非現実的な夢想家」になることができたら、
そのような国境や文化を超えて開かれた「精神のコミュニティー」を
形作ることができたら、どんなに素敵だろうと思います。
それこそがこの近年、様々な深刻な災害や、悲惨きわまりないテロルを
通過してきた我々の、再生への出発点になるのではないかと、僕は考えます。
我々は夢を見ることを恐れてはなりません。
そして我々の足取りを、「効率」や「便宜」という名前を持つ災厄の犬たちに
追いつかせてはなりません。
我々は力強い足取りで前に進んでいく
「非現実的な夢想家」でなくてはならないのです。
人はいつか死んで、消えていきます。
しかしhumanityは残ります。
それはいつまでも受け継がれていくものです。
我々はまず、その力を信じるものでなくてはなりません。
最後になりますが、今回の賞金は、地震の被害と、
原子力発電所事故の被害にあった人々に、
義援金として寄付させていただきたいと思います。
そのような機会を与えてくださったカタルーニャの人々と、
ジャナラリター・デ・カタルーニャのみなさんに深く感謝します。
そして先日のロルカの地震の犠牲になられたみなさんにも、
深い哀悼の意を表したいと思います。(バルセロナ共同)
「非現実的な夢想家として」
僕がこの前バルセロナを訪れたのは二年前の春のことです。
サイン会を開いたとき、驚くほどたくさんの読者が集まってくれました。
長い列ができて、一時間半かけてもサインしきれないくらいでした。
どうしてそんなに時間がかかったかというと、
たくさんの女性の読者たちが僕にキスを求めたからです。
それで手間取ってしまった。
僕はこれまで世界のいろんな都市でサイン会を開きましたが、
女性読者にキスを求められたのは、世界でこのバルセロナだけです。
それひとつをとっても、バルセロナが
どれほど素晴らしい都市であるかがわかります。
この長い歴史と高い文化を持つ美しい街に、
もう一度戻ってくることができて、とても幸福に思います。
でも残念なことではありますが、今日はキスの話ではなく、
もう少し深刻な話をしなくてはなりません。
ご存じのように、去る3月11日午後2時46分に
日本の東北地方を巨大な地震が襲いました。
地球の自転が僅かに速まり、
一日が百万分の1.8秒短くなるほどの規模の地震でした。
地震そのものの被害も甚大でしたが、その後襲ってきた津波は
すさまじい爪痕を残しました。
場所によっては津波は39メートルの高さにまで達しました。
39メートルといえば、普通のビルの10階まで駆け上っても
助からないことになります。
海岸近くにいた人々は逃げ切れず、二万四千人近くが犠牲になり、
そのうちの九千人近くが行方不明のままです。
堤防を乗り越えて襲ってきた大波にさらわれ、
未だに遺体も見つかっていません。
おそらく多くの方々は冷たい海の底に沈んでいるのでしょう。
そのことを思うと、もし自分がその立場になっていたらと想像すると、
胸が締めつけられます。生き残った人々も、
その多くが家族や友人を失い、家や財産を失い、コミュニティーを失い、
生活の基盤を失いました。
根こそぎ消え失せた集落もあります。
生きる希望そのものをむしり取られた人々も数多くおられたはずです。
日本人であるということは、どうやら多くの自然災害とともに
生きていくことを意味しているようです。
日本の国土の大部分は、夏から秋にかけて、台風の通り道になっています。
毎年必ず大きな被害が出て、多くの人命が失われます。
各地で活発な火山活動があります。
そしてもちろん地震があります。
日本列島はアジア大陸の東の隅に、四つの巨大なプレートの上に乗っかるような、
危なっかしいかっこうで位置しています。
我々は言うなれば、地震の巣の上で生活を営んでいるようなものです。
台風がやってくる日にちや道筋はある程度わかりますが、
地震については予測がつきません。
ただひとつわかっているのは、これで終りではなく、
別の大地震が近い将来、間違いなくやってくるということです。
おそらくこの20年か30年のあいだに、東京周辺の地域を、
マグニチュード8クラスの大型地震が襲うだろうと、
多くの学者が予測しています。
それは十年後かもしれないし、あるいは明日の午後かもしれません。
もし東京のような密集した巨大都市を、直下型の地震が襲ったら、
それがどれほどの被害をもたらすことになるのか、
正確なところは誰にもわかりません。
にもかかわらず、東京都内だけで千三百万人の人々が今も
「普通の」日々の生活を送っています。
人々は相変わらず満員電車に乗って通勤し、高層ビルで働いています。
今回の地震のあと、東京の人口が減ったという話は耳にしていません。
なぜか?あなたはそう尋ねるかもしれません。
どうしてそんな恐ろしい場所で、それほど多くの人が当たり前に
生活していられるのか?
恐怖で頭がおかしくなってしまわないのか、と。
日本語には無常(mujo)という言葉があります。
いつまでも続く状態=常なる状態はひとつとしてない、ということです。
この世に生まれたあらゆるものはやがて消滅し、
すべてはとどまることなく変移し続ける。
永遠の安定とか、依って頼るべき不変不滅のものなどどこにもない。
これは仏教から来ている世界観ですが、この「無常」という考え方は、
宗教とは少し違った脈絡で、日本人の精神性に強く焼き付けられ、
民族的メンタリティーとして、
古代からほとんど変わることなく引き継がれてきました。
「すべてはただ過ぎ去っていく」という視点は、
いわばあきらめの世界観です。
人が自然の流れに逆らっても所詮は無駄だ、という考え方です。
しかし日本人はそのようなあきらめの中に、
むしろ積極的に美のあり方を見出してきました。
自然についていえば、我々は春になれば桜を、夏には蛍を、
秋になれば紅葉を愛でます。
それも集団的に、習慣的に、そうするのがほとんど
自明のことであるかのように、熱心にそれらを観賞します。
桜の名所、蛍の名所、紅葉の名所は、その季節になれば混み合い、
ホテルの予約をとることもむずかしくなります。
どうしてか?
桜も蛍も紅葉も、ほんの僅かな時間のうちにその美しさを
失ってしまうからです。
我々はそのいっときの栄光を目撃するために、遠くまで足を運びます。
そしてそれらがただ美しいばかりでなく、目の前で儚く散り、
小さな灯りを失い、鮮やかな色を奪われていくことを確認し、
むしろほっとするのです。
美しさの盛りが通り過ぎ、消え失せていくことに、
かえって安心を見出すのです。
そのような精神性に、果たして自然災害が影響を及ぼしているかどうか、
僕にはわかりませ
しかし我々が次々に押し寄せる自然災害を乗り越え、
ある意味では「仕方ないもの」として受け入れ、
被害を集団的に克服するかたちで生き続けてきたのは確かなところです。
あるいはその体験は、我々の美意識にも影響を及ぼしたかもしれません。
今回の大地震で、ほぼすべての日本人は激しいショックを受けましたし、
普段から地震に馴れている我々でさえ、その被害の規模の大きさに、
今なおたじろいでいます。
無力感を抱き、国家の将来に不安さえ感じています。
でも結局のところ、我々は精神を再編成し、
復興に向けて立ち上がっていくでしょう。
それについて、僕はあまり心配してはいません。
我々はそうやって長い歴史を生き抜いてきた民族なのです。
いつまでもショックにへたりこんでいるわけにはいかない。
壊れた家屋は建て直せますし、崩れた道路は修復できます。
結局のところ、我々はこの地球という惑星に勝手に
間借りしているわけです。
どうかここに住んで下さいと地球に頼まれたわけじゃない。
少し揺れたからといって、文句を言うこともできません。
ときどき揺れるということが地球の属性のひとつなのだから。
好むと好まざるとにかかわらず、
そのような自然と共存していくしかありません。
ここで僕が語りたいのは、建物や道路とは違って、
簡単には修復できないものごとについてです。
それはたとえば倫理であり、たとえば規範です。
それらはかたちを持つ物体ではありません。
いったん損なわれてしまえば、簡単に元通りにはできません。
機械が用意され、人手が集まり、資材さえ揃えばすぐに拵えられる、
というものではないからです。
僕が語っているのは、具体的に言えば、
福島の原子力発電所のことです。
みなさんもおそらくご存じのように、福島で地震と津波の被害にあった
六基の原子炉のうち、少なくとも三基は、修復されないまま、
いまだに周辺に放射能を撒き散らしています。
メルトダウンがあり、まわりの土壌は汚染され、
おそらくはかなりの濃度の放射能を含んだ排水が、
近海に流されています。
風がそれを広範囲に運びます。
十万に及ぶ数の人々が、原子力発電所の周辺地域から
立ち退きを余儀なくされました。
畑や牧場や工場や商店街や港湾は、無人のまま放棄されています。
そこに住んでいた人々はもう二度と、
その地に戻れないかもしれません。
その被害は日本ばかりではなく、まことに申し訳ないのですが、
近隣諸国に及ぶことにもなりそうです。
なぜこのような悲惨な事態がもたらされたのか、
その原因はほぼ明らかです。
原子力発電所を建設した人々が、これほど大きな津波の到来を
想定していなかったためです。
何人かの専門家は、かつて同じ規模の大津波がこの地方を襲ったことを指摘し、
安全基準の見直しを求めていたのですが、
電力会社はそれを真剣には取り上げなかった。
なぜなら、何百年かに一度あるかないかという大津波のために、
大金を投資するのは、営利企業の歓迎するところではなかったからです。
また原子力発電所の安全対策を厳しく管理するべき政府も、
原子力政策を推し進めるために、その安全基準のレベルを
下げていた節が見受けられます。
我々はそのような事情を調査し、もし過ちがあったなら、
明らかにしなくてはなりません。
その過ちのために、少なくとも十万を超える数の人々が、
土地を捨て、生活を変えることを余儀なくされたのです。
我々は腹を立てなくてはならない。
当然のことです。
日本人はなぜか、もともとあまり腹を立てない民族です。
我慢することには長けているけれど、
感情を爆発させるのはそれほど得意ではない。
そういうところはあるいは、バルセロナ市民とは
少し違っているかもしれません。
でも今回は、さすがの日本国民も真剣に腹を立てることでしょう。
しかしそれと同時に我々は、そのような歪んだ構造の存在を
これまで許してきた、あるいは黙認してきた我々自身をも、
糾弾しなくてはならないでしょう。
今回の事態は、我々の倫理や規範に深くかかわる問題であるからです。
ご存じのように、我々日本人は歴史上唯一、
核爆弾を投下された経験を持つ国民です。
1945年8月、広島と長崎という二つの都市に、
米軍の爆撃機によって原子爆弾が投下され、
合わせて20万を超す人命が失われました。
死者のほとんどが非武装の一般市民でした。
しかしここでは、その是非を問うことはしません。
僕がここで言いたいのは、爆撃直後の20万の死者だけではなく、
生き残った人の多くがその後、放射能被曝の症状に苦しみながら、
時間をかけて亡くなっていったということです。
核爆弾がどれほど破壊的なものであり、放射能がこの世界に、
人間の身に、どれほど深い傷跡を残すものかを、
我々はそれらの人々の犠牲の上に学んだのです。
戦後の日本の歩みには二つの大きな根幹がありました。
ひとつは経済の復興であり、もうひとつは戦争行為の放棄です。
どのようなことがあっても二度と武力を行使することはしない、
経済的に豊かになること、そして平和を希求すること、
その二つが日本という国家の新しい指針となりました。
広島にある原爆死没者慰霊碑にはこのような言葉が刻まれています。
「安らかに眠って下さい。過ちは繰り返しませんから」
素晴らしい言葉です。
我々は被害者であると同時に、加害者でもある。
そこにはそういう意味がこめられています。
核という圧倒的な力の前では、我々は誰しも被害者であり、
また加害者でもあるのです。
その力の脅威にさらされているという点においては、
我々はすべて被害者でありますし、
その力を引き出したという点においては、
またその力の行使を防げなかったという点においては、
我々はすべて加害者でもあります。
そして原爆投下から66年が経過した今、福島第一発電所は、
三カ月にわたって放射能をまき散らし、
周辺の土壌や海や空気を汚染し続けています。
それをいつどのようにして止められるのか、まだ誰にもわかっていません。
これは我々日本人が歴史上体験する、二度目の大きな核の被害ですが、
今回は誰かに爆弾を落とされたわけではありません。
我々日本人自身がそのお膳立てをし、自らの手で過ちを犯し、
我々自身の国土を損ない、我々自身の生活を破壊しているのです。
何故そんなことになったのか?
戦後長いあいだ我々が抱き続けてきた核に対する拒否感は、
いったいどこに消えてしまったのでしょう?
我々が一貫して求めていた平和で豊かな社会は、
何によって損なわれ、歪められてしまったのでしょう?
理由は簡単です。「効率」です。
原子炉は効率が良い発電システムであると、電力会社は主張します。
つまり利益が上がるシステムであるわけです。
また日本政府は、とくにオイルショック以降、
原油供給の安定性に疑問を持ち、原子力発電を国策として
推し進めるようになりました。
電力会社は膨大な金を宣伝費としてばらまき、メディアを買収し、
原子力発電はどこまでも安全だという幻想を国民に植え付けてきました。
そして気がついたときには、日本の発電量の約30パーセントが
原子力発電によってまかなわれるようになっていました。
国民がよく知らないうちに、地震の多い狭い島国の日本が、
世界で三番目に原発の多い国になっていたのです。
そうなるともうあと戻りはできません。
既成事実がつくられてしまったわけです。
原子力発電に危惧を抱く人々に対しては
「じゃああなたは電気が足りなくてもいいんですね」という脅しのような
質問が向けられます。
国民の間にも「原発に頼るのも、まあ仕方ないか」という気分が広がります。
高温多湿の日本で、夏場にエアコンが使えなくなるのは、
ほとんど拷問に等しいからです。
原発に疑問を呈する人々には、「非現実的な夢想家」という
レッテルが貼られていきます。
そのようにして我々はここにいます。
効率的であったはずの原子炉は、
今や地獄の蓋を開けてしまったかのような、無惨な状態に陥っています。
それが現実です。
原子力発電を推進する人々の主張した
「現実を見なさい」という現実とは、実は現実でもなんでもなく、
ただの表面的な「便宜」に過ぎなかった。
それを彼らは「現実」という言葉に置き換え、
論理をすり替えていたのです。
それは日本が長年にわたって誇ってきた
「技術力」神話の崩壊であると同時に、そのような「すり替え」を
許してきた、我々日本人の倫理と規範の敗北でもありました。
我々は電力会社を非難し、政府を非難します。
それは当然のことであり、必要なことです。
しかし同時に、我々は自らをも告発しなくてはなりません。
我々は被害者であると同時に、加害者でもあるのです。
そのことを厳しく見つめなおさなくてはなりません。
そうしないことには、またどこかで同じ失敗が繰り返されるでしょう。
「安らかに眠って下さい。過ちは繰り返しませんから」
我々はもう一度その言葉を心に刻まなくてはなりません。
ロバート・オッペンハイマー博士は第二次世界大戦中、
原爆開発の中心になった人ですが、彼は原子爆弾が
広島と長崎に与えた惨状を知り、大きなショックを受けました。
そしてトルーマン大統領に向かってこう言ったそうです。
「大統領、私の両手は血にまみれています」
トルーマン大統領はきれいに折り畳まれた白いハンカチを
ポケットから取り出し、言いました。
「これで拭きたまえ」
しかし言うまでもなく、それだけの血をぬぐえる清潔なハンカチなど、
この世界のどこを探してもありません。
我々日本人は核に対する「ノー」を叫び続けるべきだった。
それが僕の意見です。
我々は技術力を結集し、持てる叡智を結集し、
社会資本を注ぎ込み、原子力発電に代わる有効なエネルギー開発を、
国家レベルで追求すべきだったのです。
たとえ世界中が「原子力ほど効率の良いエネルギーはない。
それを使わない日本人は馬鹿だ」とあざ笑ったとしても、
我々は原爆体験によって植え付けられた、核に対するアレルギーを、
妥協することなく持ち続けるべきだった。
核を使わないエネルギーの開発を、日本の戦後の歩みの、
中心命題に据えるべきだったのです。
それは広島と長崎で亡くなった多くの犠牲者に対する、
我々の集合的責任の取り方となったはずです。
日本にはそのような骨太の倫理と規範が、
そして社会的メッセージが必要だった。
それは我々日本人が世界に真に貢献できる、
大きな機会となったはずです。
しかし急速な経済発展の途上で、「効率」という安易な基準に流され、
その大事な道筋を我々は見失ってしまったのです。
前にも述べましたように、いかに悲惨で深刻なものであれ、
我々は自然災害の被害を乗り越えていくことができます。
またそれを克服することによって、人の精神がより強く、
深いものになる場合もあります。
我々はなんとかそれをなし遂げるでしょう。
壊れた道路や建物を再建するのは、
それを専門とする人々の仕事になります。
しかし損なわれた倫理や規範の再生を試みるとき、
それは我々全員の仕事になります。
我々は死者を悼み、災害に苦しむ人々を思いやり、
彼らが受けた痛みや、負った傷を無駄にするまいという自然な気持ちから、
その作業に取りかかります。
それは素朴で黙々とした、忍耐を必要とする手仕事になるはずです。
晴れた春の朝、ひとつの村の人々が揃って畑に出て、土地を耕し、
種を蒔くように、みんなで力を合わせてその作業を進めなくてはなりません。
一人ひとりがそれぞれにできるかたちで、しかし心をひとつにして。
その大がかりな集合作業には、言葉を専門とする我々=職業的作家たちが
進んで関われる部分があるはずです。
我々は新しい倫理や規範と、新しい言葉とを連結させなくてはなりません。
そして生き生きとした新しい物語を、そこに芽生えさせ、
立ち上げてなくてはなりません。
それは我々が共有できる物語であるはずです。
それは畑の種蒔き歌のように、人々を励ます律動を持つ物語であるはずです。
我々はかつて、まさにそのようにして、
戦争によって焦土と化した日本を再建してきました。
その原点に、我々は再び立ち戻らなくてはならないでしょう。
最初にも述べましたように、我々は「無常(mujo)」という
移ろいゆく儚い世界に生きています。
生まれた生命はただ移ろい、やがて例外なく滅びていきます。
大きな自然の力の前では、人は無力です。
そのような儚さの認識は、日本文化の基本的イデアのひとつになっています。
しかしそれと同時に、滅びたものに対する敬意と、
そのような危機に満ちた脆い世界にありながら、
それでもなお生き生きと生き続けることへの静かな決意、
そういった前向きの精神性も我々には具わっているはずです。
僕の作品がカタルーニャの人々に評価され、
このような立派な賞をいただけたことを、誇りに思います。
我々は住んでいる場所も遠く離れていますし、話す言葉も違います。
依って立つ文化も異なっています。
しかしなおかつそれと同時に、我々は同じような問題を背負い、
同じような悲しみと喜びを抱えた、世界市民同士でもあります。
だからこそ、日本人の作家が書いた物語が何冊もカタルーニャ語に翻訳され、
人々の手に取られることにもなるのです。
僕はそのように、同じひとつの物語を皆さんと分かち合えることを嬉しく思います。
夢を見ることは小説家の仕事です。
しかし我々にとってより大事な仕事は、人々とその夢を分かち合うことです。
その分かち合いの感覚なしに、小説家であることはできません。
カタルーニャの人々がこれまでの歴史の中で、多くの苦難を乗り越え、
ある時期には苛酷な目に遭いながらも、力強く生き続け、
豊かな文化を護ってきたことを僕は知っています。
我々のあいだには、分かち合えることがきっと数多くあるはずです。
日本で、このカタルーニャで、あなた方や私たちが等しく
「非現実的な夢想家」になることができたら、
そのような国境や文化を超えて開かれた「精神のコミュニティー」を
形作ることができたら、どんなに素敵だろうと思います。
それこそがこの近年、様々な深刻な災害や、悲惨きわまりないテロルを
通過してきた我々の、再生への出発点になるのではないかと、僕は考えます。
我々は夢を見ることを恐れてはなりません。
そして我々の足取りを、「効率」や「便宜」という名前を持つ災厄の犬たちに
追いつかせてはなりません。
我々は力強い足取りで前に進んでいく
「非現実的な夢想家」でなくてはならないのです。
人はいつか死んで、消えていきます。
しかしhumanityは残ります。
それはいつまでも受け継がれていくものです。
我々はまず、その力を信じるものでなくてはなりません。
最後になりますが、今回の賞金は、地震の被害と、
原子力発電所事故の被害にあった人々に、
義援金として寄付させていただきたいと思います。
そのような機会を与えてくださったカタルーニャの人々と、
ジャナラリター・デ・カタルーニャのみなさんに深く感謝します。
そして先日のロルカの地震の犠牲になられたみなさんにも、
深い哀悼の意を表したいと思います。(バルセロナ共同)
2013年6月5日水曜日
村上春樹「色彩を持たない多崎つくると彼の巡礼の年」
2013年4月出版、文芸春秋社。
2009年の「IQ84」以来、久々に発表された新しい小説、「色彩を持たない多崎つくると彼の巡礼の年」を読んだ。
私の世代で、村上春樹のことを嫌いな人に会ったことがない。同じ時代に、同じ匂いを嗅ぎ、同じ状況を見ながら年をとってきた。彼が何を書いても、内容だけでなく、同じ時代の手触りを確かめることができて、共感できる。彼の描く、アメリカ文学そのままの、明瞭で簡潔な文体が好きだ。
彼の描く男と女の会話を、「こじゃれたスノッビーの会話」だとか、「気取った中流意識」だとかいう人もいるけど、そんな会話を、意味もよくわからないまま口をとがらせて、明治の学生会館や安田講堂や六角校舎でまくしたてていた日々もあったような気がする。スノッビーなのではなくて、これが彼の文体であり、彼のスタイルなのだから、彼が年をとっても変えることはないだろう。
同時代の人の間で、一定の人気のあった大江健三郎の世界に共感を抱いたことは一度もない。彼の書く女が、現実からかけ離れた、男が想像するだけの女でしかないと感じるからだ。その意味で、村上春樹は、男と女の高くて長い垣根を越えた初めての「新しい」世代作家だったと思っている。
ストーリーは
多崎つくるは、36歳。鉄道駅に子供の時から惹かれていて、その延長で東京の大学で土木工学を学び、鉄道会社の施設部で働いている。名古屋市の公立高校で、同じクラスで同じボランテイアをしていた、仲の良い5人グループのひとりだった。5人は、正確な5角形を形造るように、互いに均等な間隔で互いを必要とし、必要とされるような親密さをもっていた。偶然、つくる以外の4人は、男友達の赤松、青海、女友達の白根、黒埜というように、色のついた苗字をもっていたので、互いに、アカ、アオ、シロ、クロと呼び合っていた。つくるだけが そのままツクルだ。5人のグループは高校卒業後も親密だったが、つくるは名古屋を出て、ひとり東京の大学に進む。大学2年のときに、突然、もう4人はつくるとは顔を合わせないと、きっぱり宣告され、グループからはじき出される。理由がわからず、自分にとって身内よりも親しかった存在だった4人の友達に拒絶され、つくるは孤立して死ぬことだけを考えていた時期もあった。
それから、16年経ち、いま、つくるは2歳年上で、旅行会社に勤める沙羅という恋人がいる。彼女に促されて、つくるは かつての4人の親友を訪ねる旅に出る。そして、つくるが皆から拒絶されたのは、シロこと、白根柚木が上京した時、つくるにレイプされたことが原因だった、と聞かされる。つくるには全く覚えのないことだ。その、シロは6年前に絞殺されていた。真相をすこしでも知るために、つくるは クロの住むフィンランドに出かける。シロは気を病んでいた。何者かによってレイプされ、妊娠させられて精神の波長を崩していった姿を、終始保護者のようについていたクロから聞かされる。そして、クロとつくるは、シロがよく弾いていたピアノ曲を一緒に聞いて、そして別れる。
というお話。その最後のところを引用すると。
過ぎ去った時間が鋭く尖った長い串となって、彼の心臓を刺し貫いた。無音の銀色の痛みがやってきて、背骨を凍てついた氷の柱に変えた。その痛みはいつまでも同じ強さでそこに留まっていた。彼は息を止めて目を堅く閉じてじっと痛みに耐えた。アルフレート ブレンデルは端正な演奏を続けていた。曲集は「第1年 スイス」から「第2年 イタリア」へと移った。そのとき彼はようやくすべてを受け入れることができた。魂のいちばん底の部分で多崎つくるは理解した。人の心と心は調和だけで結びついているのではない。それはむしろ傷と傷によって深く結びついているのだ。痛みと痛みによって、危さと危うさによって繋がっているのだ。悲痛な叫びを含まない静けさはなく、血を地面に流さない赦しはなく、痛切な喪失を通り抜けない受容はない。それが真の調和の根底にあるものなのだ。
そして、
シロがあのとき求めていたのは、5人グループを解体してしまうことだったのかも知れない。高校時代の5人はほとんど隙間なく、ぴたりと調和していた。彼らは互いをあるがままに受け入れ、理解し合った。一人ひとりがそこに深い幸福感を抱けた。しかしそんな至福が永遠に続くわけはない。楽園はいつか失われるものだ。シロの精神はおそらく、そういう来るべきものの圧迫に耐えられなかったのだろう。
という結論に至る。
4人の友達に拒絶されて以来、人と関わりを持つことができなくなっていた36歳のつくるが 再び4人に会って、真相に直面して、やがて自信を取りもどしていく。そのヒーリングプロセスを小説にしたもの。読者はみな、甘酸っぱい高校時代を経て、性的関係を作るという荒波をくぐって、大人になってきたわけだから、様々な意味で、小説に出てくる5人の成長過程に共感することができる。
アオは、ラガーマンがそのまま大きくなったように、セールスマンになって戦っているし、アカは望まれるまま大学や銀行に就職し、家庭を持つが、うまくいかず、本当は自分が同性愛者だったことを知る。シロは 大学時代にレイプされたことを契機に 生きる波長を崩していく。そんなシロを支えるるクロは心の平静をもとめて陶芸にのめりこみ、フィンランド人と出会って結婚する。つくるはその4人の歩んで来た道を知ることによって、自分の心の傷を修復していく。
読み終わって、優しい気持ちになっている。
この小説を単純な恋愛小説、青春小説として私は読んだ。作者は徐々に年を重ねて、ストーリーが単純になってきている。前の作品はもっと理屈っぽかったり、ストーリーにも意外性やひねりがあった。ピカソが 子供の時は驚くほど写実的で正確なデッサン画を描くのに長けていたが、年を取るに従い作風が抽象的に変わっていき、キャンバスに点がひとつ、線が一本だけ、というように凝して、単純化していったのと似ているだろうか。
私は「ねじまき鳥クロニクル」が好きで、そのころの村上春樹が一番良かったと思っている。
彼がノーベル文学賞を取ると、予想されていることで、賛否両論がどちらも同じくらいあるようだが、彼は人気作家であるだけで良い。もともとノーベル賞に文学賞など必要ない。人類の進歩に貢献した医学、科学、物理などの基礎学問の研究には、莫大な予算が必要で、チームワークで当たるものだから、公的援助が十分ではない、研究に賞を与えることに意味があるだろう。しかし文学者にはペンさえあれば良い。ましてチームワークではなく、作家個人の問題だ。振り返ってみても、ノーベル文学賞を授与された日本人作家で、ろくな作家が居ない。作家に賞を与えるには意味がなく、文学賞は、作家ではなくて、作品に与えられるべきだ。ハルキは ノーベル賞でなく、人気作家として、いつまでも書き続けていってもらいたい。