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2013年6月5日水曜日

村上春樹「色彩を持たない多崎つくると彼の巡礼の年」


   

2013年4月出版、文芸春秋社。
2009年の「IQ84」以来、久々に発表された新しい小説、「色彩を持たない多崎つくると彼の巡礼の年」を読んだ。
私の世代で、村上春樹のことを嫌いな人に会ったことがない。同じ時代に、同じ匂いを嗅ぎ、同じ状況を見ながら年をとってきた。彼が何を書いても、内容だけでなく、同じ時代の手触りを確かめることができて、共感できる。彼の描く、アメリカ文学そのままの、明瞭で簡潔な文体が好きだ。
彼の描く男と女の会話を、「こじゃれたスノッビーの会話」だとか、「気取った中流意識」だとかいう人もいるけど、そんな会話を、意味もよくわからないまま口をとがらせて、明治の学生会館や安田講堂や六角校舎でまくしたてていた日々もあったような気がする。スノッビーなのではなくて、これが彼の文体であり、彼のスタイルなのだから、彼が年をとっても変えることはないだろう。
同時代の人の間で、一定の人気のあった大江健三郎の世界に共感を抱いたことは一度もない。彼の書く女が、現実からかけ離れた、男が想像するだけの女でしかないと感じるからだ。その意味で、村上春樹は、男と女の高くて長い垣根を越えた初めての「新しい」世代作家だったと思っている。

ストーリーは
多崎つくるは、36歳。鉄道駅に子供の時から惹かれていて、その延長で東京の大学で土木工学を学び、鉄道会社の施設部で働いている。名古屋市の公立高校で、同じクラスで同じボランテイアをしていた、仲の良い5人グループのひとりだった。5人は、正確な5角形を形造るように、互いに均等な間隔で互いを必要とし、必要とされるような親密さをもっていた。偶然、つくる以外の4人は、男友達の赤松、青海、女友達の白根、黒埜というように、色のついた苗字をもっていたので、互いに、アカ、アオ、シロ、クロと呼び合っていた。つくるだけが そのままツクルだ。5人のグループは高校卒業後も親密だったが、つくるは名古屋を出て、ひとり東京の大学に進む。大学2年のときに、突然、もう4人はつくるとは顔を合わせないと、きっぱり宣告され、グループからはじき出される。理由がわからず、自分にとって身内よりも親しかった存在だった4人の友達に拒絶され、つくるは孤立して死ぬことだけを考えていた時期もあった。

それから、16年経ち、いま、つくるは2歳年上で、旅行会社に勤める沙羅という恋人がいる。彼女に促されて、つくるは かつての4人の親友を訪ねる旅に出る。そして、つくるが皆から拒絶されたのは、シロこと、白根柚木が上京した時、つくるにレイプされたことが原因だった、と聞かされる。つくるには全く覚えのないことだ。その、シロは6年前に絞殺されていた。真相をすこしでも知るために、つくるは クロの住むフィンランドに出かける。シロは気を病んでいた。何者かによってレイプされ、妊娠させられて精神の波長を崩していった姿を、終始保護者のようについていたクロから聞かされる。そして、クロとつくるは、シロがよく弾いていたピアノ曲を一緒に聞いて、そして別れる。
というお話。その最後のところを引用すると。
  
過ぎ去った時間が鋭く尖った長い串となって、彼の心臓を刺し貫いた。無音の銀色の痛みがやってきて、背骨を凍てついた氷の柱に変えた。その痛みはいつまでも同じ強さでそこに留まっていた。彼は息を止めて目を堅く閉じてじっと痛みに耐えた。アルフレート ブレンデルは端正な演奏を続けていた。曲集は「第1年 スイス」から「第2年 イタリア」へと移った。そのとき彼はようやくすべてを受け入れることができた。魂のいちばん底の部分で多崎つくるは理解した。人の心と心は調和だけで結びついているのではない。それはむしろ傷と傷によって深く結びついているのだ。痛みと痛みによって、危さと危うさによって繋がっているのだ。悲痛な叫びを含まない静けさはなく、血を地面に流さない赦しはなく、痛切な喪失を通り抜けない受容はない。それが真の調和の根底にあるものなのだ。

そして、

シロがあのとき求めていたのは、5人グループを解体してしまうことだったのかも知れない。高校時代の5人はほとんど隙間なく、ぴたりと調和していた。彼らは互いをあるがままに受け入れ、理解し合った。一人ひとりがそこに深い幸福感を抱けた。しかしそんな至福が永遠に続くわけはない。楽園はいつか失われるものだ。シロの精神はおそらく、そういう来るべきものの圧迫に耐えられなかったのだろう。

という結論に至る。
4人の友達に拒絶されて以来、人と関わりを持つことができなくなっていた36歳のつくるが 再び4人に会って、真相に直面して、やがて自信を取りもどしていく。そのヒーリングプロセスを小説にしたもの。読者はみな、甘酸っぱい高校時代を経て、性的関係を作るという荒波をくぐって、大人になってきたわけだから、様々な意味で、小説に出てくる5人の成長過程に共感することができる。
アオは、ラガーマンがそのまま大きくなったように、セールスマンになって戦っているし、アカは望まれるまま大学や銀行に就職し、家庭を持つが、うまくいかず、本当は自分が同性愛者だったことを知る。シロは 大学時代にレイプされたことを契機に 生きる波長を崩していく。そんなシロを支えるるクロは心の平静をもとめて陶芸にのめりこみ、フィンランド人と出会って結婚する。つくるはその4人の歩んで来た道を知ることによって、自分の心の傷を修復していく。
読み終わって、優しい気持ちになっている。

この小説を単純な恋愛小説、青春小説として私は読んだ。作者は徐々に年を重ねて、ストーリーが単純になってきている。前の作品はもっと理屈っぽかったり、ストーリーにも意外性やひねりがあった。ピカソが 子供の時は驚くほど写実的で正確なデッサン画を描くのに長けていたが、年を取るに従い作風が抽象的に変わっていき、キャンバスに点がひとつ、線が一本だけ、というように凝して、単純化していったのと似ているだろうか。
私は「ねじまき鳥クロニクル」が好きで、そのころの村上春樹が一番良かったと思っている。

彼がノーベル文学賞を取ると、予想されていることで、賛否両論がどちらも同じくらいあるようだが、彼は人気作家であるだけで良い。もともとノーベル賞に文学賞など必要ない。人類の進歩に貢献した医学、科学、物理などの基礎学問の研究には、莫大な予算が必要で、チームワークで当たるものだから、公的援助が十分ではない、研究に賞を与えることに意味があるだろう。しかし文学者にはペンさえあれば良い。ましてチームワークではなく、作家個人の問題だ。振り返ってみても、ノーベル文学賞を授与された日本人作家で、ろくな作家が居ない。作家に賞を与えるには意味がなく、文学賞は、作家ではなくて、作品に与えられるべきだ。ハルキは ノーベル賞でなく、人気作家として、いつまでも書き続けていってもらいたい。