父が亡くなっても家のある人たちは みな帰っていく。通夜の後も 葬式のあとも。わたしには帰る場がないから 父が前住んでいたホームに一人もどる。そして父のにおいのする部屋で、父のベッドに横になり 父のにおいの残る枕で眠る。
でもそれも もう最後。私もわたしの巣にもどる。外国という名のとらえどころのない海の果てに。そんな頼りのないところに 自分の作った小さな場所を わたしなりに守らなければならないから。
父と母が 共に息をして暮らした場にあった 薔薇の油絵を持っていく。
父が最後の日まで手元に置いていた 湯のみと茶筒をもっていく。
父が晩酌でウイスキーを飲む時 母がお相手にワインを飲んだウェッジウッドのワイングラスを持っていく。
父が物を書いていた机の上にあった 一輪挿しを持っていく。
箪笥の奥にあって 恐らく父は 一度も身に着けなかったカフスボタンを持っていく。
父が入院先でヒゲを剃っていた電気剃刀を持っていく。粉のような父の剃ったヒゲごと。
書斎に飾ってあった 娘が色鉛筆で描いた父の肖像画を持っていく。
父の大好物で いつか食べようと取ってあったカニ缶を持っていく。
父の枕元にあった 本20冊ほど持っていく。
父が 散歩のとき被っていたソフト帽を被っていく。
父の枕もとにあった懐中時計を持っていく。
父が履いていたソックスを履いていく。
箪笥に入っていた 父の匂いの残るハンカチを6枚ほどもっていく。
父が書いたペンでこれを書いている。
父の匂いのするものを、何もかも持ってかえりたい。
父が吸っていた空気を持って帰りたい。
何もかも持って帰りたい。
他の誰にも渡したくない。
それができなくて、哀しい。