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2009年7月30日木曜日
映画「ココ アバン シャネル」 と、「シェリー」
偶然だったが、パリを舞台にした女性を描いた映画を 2本続けて観た。
ひとつは フランス映画「ココ アバン シャネル」(「COCO AVANT CHANEL」)、もうひとつは イギリス映画「シェリー」(「CHERI」)だ。フランス映画の ココの方は ガブリエル シャネルの伝記映画で、彼女がファッションデザイナーとして成功するまでの 前半生期を描いたもの。
監督:アンヌ フォンテーン
キャスト
ココ:オードレイ トトゥ(AUDREY TAUTOU)
男爵:ブノワ ポールブールド(BENOIT POELVOORDE)
ボーイ:アレサンドロ 二ボラ(ALESSANDRO NIVOLA)
女友達:エマニュエル デボス(EMMANUELLE DEVOS)
ストーリーは
ココは 幼い時に 父親に孤児院に連れられてくる。母親の記憶はないが 父親のことを とても愛していて孤児院に入ってからも ココは毎週日曜日になると 玄関で父親が迎えにきてくれるのを待っていた。しかし、父親は二度と 娘の前に姿を現わさなかった。
やがて成長して孤児院を出たココは 昼間はお針子として働き、夜はキャバレーで歌手として出演したり男達の相手をして 貧しい自活生活をしていた。
孤児院時代から ずっと一緒だった親友が キャバレーで知り合った身分の高い男に見出され結婚したことを契機に ココは金を持った男に取り入ることなしに 貧困から抜け出す方法がないことを知る。そこでココは仕事を辞めて、知り合ったばかりの男爵家に 飛び込む。屋敷の入り口から玄関まで 馬車で数キロ 走らなければならないような 大地主で 豪邸に住む男爵は 社交とブランデーとたわいのない上流階級の生活に飽きていたから、ココの来訪を 驚き喜んで迎える。ちょっと風変わりな小娘の出現は 刺激に富んだ悦びだったが、キャバレーからきたココをいつまでも 屋敷に滞在させることはできない。ココは 男爵に出て行くように言われたときに、 男爵のキャビネットから 沢山ある服を次々と出して切り裂いて 自分用の乗馬服を作り、馬に跨って、乗馬ピクニックをしている男爵とその友人達の環のなかに 飛び込んでいき、社交界デビューを果たす。ウェストのくびれた裾の長いドレスに帽子にパラソル、馬に横すわりで乗る当時の女性の乗馬スタイルからはかけ離れたココの姿を上流階級の人々はおもしろがって拍手で迎える。
そして、ココはお針子としての技術を生かして 従来の女の服とは全く違う 斬新な服を身に着けて 男爵の取り巻き達の目を見張らせた。
そうしているうちに、男爵の取り巻きの一人 ボーイとよばれているイギリス人と出会って ココは恋に陥る。ボーイは 男爵のように ココに 手荒な扱いはせずに、ありのままのココを受け入れてくれるのだった。ライバルが現れると 男爵は急に ココを手放すのが惜しくなる。さんざん迷った末 男爵は結婚を申し込む。
初めての恋を知って、ココはボーイに夢中。そのボーイにはロンドンに婚約者がいて 貴族間の財産を維持するための約束事のために結婚しなければならなかった。彼はココに 「ココのようにユニークな人は一生結婚せずに自分の仕事を持って生きるべきだ」と、言って聞かせる。
ココはボーイの信頼と資金援助を得て、パリに帽子屋をオープンさせる。しかし、その恋も、ボーイの自動車事故によって終わりを告げる。
というストーリー。
ココが事業を成功させるまでの前半生を描いた映画だ。
ココは当時、女性が職業を持つということのなかった時代に、裕福なパトロンを得て 一生結婚せずに職業女性のパイオニアとして生きた。結婚したくても出来ない立場にあって やむを得ない事情であったにしろ 勇気ある生き方をした。
ココ シャネルのナンバー25は 好きな香水のひとつだが、その事業の創立者ココが 孤児院育ちで、貧困からの脱却を貴族の愛人になることで果たしたという半生は 知らなかった。いま、着ている服以外の何一つ自分の持ち物がないような状態で 貴族の心を掴んで しっかり自分の場を構築してしまう したたかさは、何も奪われるものを持たない貧しいものの強さだろう。
ココを演じた オードレイ トトゥが、いくつになっても可愛くて とても良い。
もう一つのパリを舞台にした映画は「CHERI」シェリー。
20世紀初頭に活躍した女性作家 コレット女史原作の「CHERI]の映画化だ。
監督:ステファン フレアーズ (STEPHEN FREARS)
キャスト
リー:ミッシェル パイファー(MICHELLE PFEIFFER)
シェリー:ラパート フレンド (RUPERT FRIEND)
1906年のパリ。LA BELLE EPOQUE ベル エポックと呼ばれて 貴族達が 最も華やかに その富を誇りに 贅沢三昧にふけり 豊かさを謳歌した時期のおはなし。
ストーリーは
高級娼婦だったリー(LEA DE LONVAL)は、愛人から莫大な遺産を受け継いで 何不自由なく贅沢な暮らしをしている。昔は職業上のライバルだった友人宅に招待されて そこで 昔は愛らしい子供だった友人の息子シェリーに出会う。彼はもう19歳。子供のときから 美しいリーが大好きだった。二人は 親子ほど年が離れているのに 互いに惹かれあって 恋に陥る。シェリーはそのときからリーの家に一緒に住むことになって そのまま6年という歳月がたってしまった。
25歳になったシェリーは 母親の勧めに従い 結婚することになった。リーは悲しみながらも シェリーを送り出して別れることにする。シェリーは 若い花嫁をもらい 新居に落ち着くが 何も知らない新妻にイライラするばかり、心の安らぎも 愛情も感じることが出来ない。
リーも 失って初めてシェリーの存在の大きさを思い知って 気がふさぐばかり。旅に出て 若い男と遊んでみても気が晴れず、シェリーのことばかりが思い出される。半年の長い別れの末、遂にシェリーは 耐えられなくなって リーのもとに帰る。
リーは シェリーが本当に何もかも捨てて 自分のところに帰ってきたと思い込むが、しかし、シェリーは家庭を築きながら 心のささえとしてリーとの関係を維持したかったのだ。それがわかって、リーはシェリーに言う。こわがらないで自分の足で立って歩いていきなさい。振り返ってはいけない、と。
コレットの小説は みなそうだが登場する男女のやりとりばかりで、時代の社会背景とか深刻な社会問題とかは、いっさい描写がない。
この映画も 画面いっぱいに、ベル エポックの貴族達の豪華な生活ぶりがでてきて、きれいで楽しい。ただそれだけの映画だ。男は皆 シルクハットにステッキ、三つ揃いを着て姿勢が良い。女達はレースをふんだんに使ったロングドレスの 大きな帽子やベール姿だ。家具調度品もビクトリア調の装飾の多い品々で贅沢だ。
50歳すぎても美しいミッシェル パイファーがとても良い。それにラパート フレンドの美しさには目を見張る。黒いロングヘアーにギリシャ彫刻のように鼻筋が通って、青く深みのある目、美男とはこういう男を言うのだというお手本みたいな顔、姿。そんな美しく若い男が 怒ったり、泣いたり、笑ったりする。全くもって鑑賞に値する。
2本とも20世紀初めのころのパリに生きる女を描いた映画。裕福な男の力なしに自分の足で立つこともかなわなかった時代に できる限り社会の枠にとらわれることなく生きた 現実にいた女性のお話だ。
こうした映画を観て 何を考え、何を得るか 人によって様々だろう。
いまは 21世紀。女性兵士も女性宇宙飛行士もパイロットも増えた。女性官僚も当たり前だ。
ところが日本では結婚して専業主婦になりたい女性が増える一方なのだ という。なんかが ゆがんでいるのかもしれない。
2009年7月25日土曜日
オペラ 「アイーダ」
今年の後期オペラシーズンが始まった。最初の出し物が ヴェルデイ 作曲の「アイーダ」。
豪華絢爛、大スペクタクル、どでかい規模でオペラのなかで最大のスケールのオペラだ。毎年 エジプトでは 本物のピラミッドを背景に 野外で上演されるこの「アイーダ」は エジプトの国の誇りともいえる。スエズ運河が開通したときの記念に 当時のエジプトが国の偉業を讃える為に 作らせたオペラだ。
そんなオペラだからか、今年のオペラオーストラリアの出し物の中で まちがいなく一番お金がかかっている。狭いオペラハウスの舞台を所狭しと、70人近いコーラスと、20人のバレエダンサーが 踊り 歌い とにかく華やかだった。オーケストラも入れると 総勢150人あまりになるだろうか。衣装が豪華で美しい。キラキラ ピカピカ。こんな服を着て おひめ様ごっこ やりたーい、と言う感じの衣装が次々とでてきて とても楽しい舞台になった。
指揮:リチャード アームストロング
監督:グレイム マーフィ
配役
エチオピア王女 アイーダ:タマラ ウィルソン (ソプラノ)
ラダメス将軍:ドングオン シン (テナー)
エジプト王ファラオ:デヴッド パ-キン (バス)
ファラオの娘、アムネリス:ミリヤナ ニコリック(メゾソプラノ)
エチオピア国王 アイーダの父:マイケル ルイス(バリトン)
ストーリーは
アイーダは エチオピア国王の娘だが、強国エジプトに捕らわれ 連れてこられて 奴隷にされている。しかし、エジプトの若い武将ラダメスと アイーダはひそかに愛し合っていた。ラダメスは エチオピア討伐の将軍に任命されて、戦場に行こうとしている。ラダメスが無事に 戦いに勝利して帰国すれば エジプト国王の娘、アムネリスと 結婚することになっている。アイーダは成就することのない恋と、自分の国の人々への祖国愛との板ばさみになって、苦しい思いをしている。
戦場に向かうエジプトの兵士達の男声合唱は素晴らしい。エジプトを讃える 勇壮な行進曲を 50人あまりのコーラスが力いっぱい歌う。
そしてラダメス将軍は 兵士達と共に凱旋してくる。エジプト国王ファラオも、王女アムネリスも 有頂天だ。ファラオの前に、捕虜となったエチオピア兵士達が引き出されてくる。そこで アイーダは、戦いに敗れ捕虜となった ボロボロの姿の父、エチオピア国王と 対面する。アイーダは、泣きながら 戦勝国エジプトのファラオに 父親の命乞いをする。ラダメス将軍も アイーダの気持ちを察して、一緒になって助命の嘆願をする。このときの5重奏が 美しい。ファラオ、ラダメス将軍、エチオピア国王、アイーダとアムネリスの5人が それぞれの気持ち おもいのたけを訴えるシーンだ。
期待どうりに命ながらえたアイーダの父は しかし密かに エジプト攻撃をするための兵士達を待機させていて、アイーダとラダメス将軍をそそのかして エジプト川の守備配置を聞き出して、一挙に攻撃しようとしていた。父の野望を知ったアイーダは、父親への愛情と、アムネリスと結婚してしまうラダメス将軍への愛情に引き裂かれて 打ちひしがれる。
そこにラダメス将軍が現れる。そして、アイーダに心からの愛を誓い ファラオにアイーダとの結婚を願い出るつもりだと言う。それを隠れて聞いていた、アイーダの父は、ラダメス将軍に、アイーダが本当に欲しいのならば 一緒に3人で逃げて エチオピアの王子として受け入れるから 警備配置を教えるように と迫る。いったんは 断るが、アイーダに、一緒に生きて欲しいと、言われて、とうとうラダメス将軍は 拒みきれなくなって逃げ道を教える。
こんなに愛しているのだから、、と、切々と歌い上げる 二人のデュエットが 泣かせる場面だ。
3人が逃亡の相談をしているところを ファラオに見つかって、ラダメスは、自分が盾になって、アイーダと父親を逃がし、自ら逮捕されて 反逆罪で死刑の判決を受ける。
ファラオの娘アムネリスは、裏切られたのに ラダメス将軍をあきらめきれなくて 助命を懇願するが、ラダメスは死を覚悟していて アムネリスを退ける。
ラダメス将軍が、自ら死を心に決めて、地下牢に向かっていくと そこには逃げ延びたと思っていたアイーダが待っていた。二人は永遠の愛を誓いながら静かに 息絶える。
というおはなし。
最後のデュエットは、とてもとても美しい。悲しい悲恋物語だ。
アイーダのソプラノを歌ったタマラ ウィルソンは 柔らかく透き通るような 豊かな声だ。かなり太め(体重100キロくらい)だったが、敵の武将を愛してしまった 可憐な娘の役を とてもよく演じていた。アイーダの恋敵 同じ男を愛するファラオの娘アムネリスを演じた ミリヤナ ニコリックは ベルグラードから来たセルビア人だそうだが 背が高く、抜群にスタイルの良い黒髪の美女で堂々としていて 声も良い。三角関係の頂点 ラダメス将軍 これが期待していたイタリア人の ロザリオ スピナが風邪でダウンして、急遽西オーストラリアオペラから借りてきたテナーに変わったのは、残念だった。でもそれなり声も良く それなりにハンサムで それなりに役をこなしていた。
ファラオのデヴィッド パーキンは 写真にもあるように、とびぬけて背が高く立派な体格。このファラオと 王女アムネリスとが並んで立つと エジプト王国の貫禄があって まさに適役だ。その威勢堂々とした王と姫の前で、背の高くない かなり太めのアイーダとラダメスが愛を誓い合う という構図が ちょうど記念写真を取るみたいに よく収まって マッチしている。
舞台に花を添える オーストラリアバレエのダンサー達も、兵士になったり、ファラオの御付になったり、ナイル川の妖精になったりして 忙しくも しっかり舞台回しをしていた。舞台と観客席との間の突き出しのところに、2メートル位で、舞台の端から端まで 浅いプールが造ってあって、これが、ナイル川、ということになっている。ここを、アイーダが 素足で浮かれて水と戯れながら 愛の歌を歌ったり、エチオピアから捕らえられてきた捕虜が水を求めたりする。ナイルの妖精たちが 泳いで遊ぶシーンでは バレリーナたちは 上半身何も身に着けていなかった。どうせ、クラシックバレエの踊り子達は 胸はぺっちゃんこだから、それで踊る姿も可愛らしくて良いのだけど、 ウーン バレエもここまで見せるか、、、と ため息 ひとつ。
総じて、声も良く、舞台もきれいで、本当に楽しめるオペラだった。こんなに楽しいオペラは久しぶり、とても満足。
2009年7月7日火曜日
映画 「ラスト ライド」
オーストラリア映画「LAST RIDE 」を観た。
タイトルの「ラスト ライド」は 最後の乗車とか、最後の旅とかの意味。殺人を犯した 根からの極悪 粗暴な男の、破滅に向かって、地獄への逃避行 といえば、一言で この映画を 説明できてしまう。
映画のはじめでは それがわからない。序じょにゆっくり 真実がわかっていって、一挙に破滅にむかっていく。
こんな風に 映画の結末の二分の一ほどを明かしてしまっても、これから観る人が怒る必要はない。結末がどうあれ、映画の良さは その過程にあるので 最後に男が死のうが死ぬまいが 観るだけの価値がある。
日本人のやっている映画評でよくわからないのは、ネタバレ とかここからネタバレなので映画をもう観た人だけ読んで とかいった扱いがあることだ。そんなことを言えば、カルメンといえば 三角関係の末 殺される女の話だし、椿姫は 好きな男がいるが 病死する女の話だ。だれもがストーリーの結末を知っているが、もう筋がわかっているという理由で、これらの不朽の名作オペラを観にいくことを止める愚か者はいない。
長い 抒情詩のような 本当に美しい映画だ。
監督 :グレンデイン アイビン (GLENDYN IVIN)
カメラ:グレイグ フレーザー (GREIG FRASER)
キャスト
トム ラッセル(TOM RUSSEL)CHOOK役
ヒューゴ ウィービング(HUGO WEIVING)KEV役
ストーリーは
ケヴ(KEV ケビンの愛称)は、10歳の息子 チョック(CHOOK 雛鳥とかヒヨコの愛称)を連れて オーストラリア中央部の小さな町から 南オーストラリアに向かって旅をしている。
寡黙な父親は 何故、そしてどこに向かって旅をしているのか 息子に言わない。息子も もうそれが長年の習慣ででもあるかのように 何も聞かず 従順に父親のあとを付いて行き あるときは公園のベンチで眠り 長距離バスを乗り継ぎ 町をでてからは、野宿をして 火をおこし、撃った野うさぎを食べる。砂漠では野生のラクダに起こされて、ラクダに飲み水のありかを教わる。セントラル オーストラリアの広大な荒野と、どこまでも広がる砂漠。
砂漠に突然 出現する塩湖 レイク エイラ どこまでもどこまでも続いている浅い湖を彼らは車で横断する。9500平方キロの大きさの湖のその美しさは 例えようもない。
ケヴは 車を奪い 金を盗み、飲んだくれて喧嘩をしてパブから放り出され、ガソリンスタンドで強盗をして、罪を重ねていく。そうしながらも、ケヴは息子チョックには男親らしく、湖で泳ぎを教え、キャンプの仕方を教え、遊びに付き合い 冗談を言い、息子の良い父親 保護者であろうとする。わずかな親子の会話から、ケヴが子供だったころ 荒っぽい父親に連れられて やはり同じようにして父親から育てられたこと、チョックの母親は チョックがまだ赤ちゃんだったときに 刑務所行きを繰り返すケヴを捨てて出て行ったが、アデレードに住んでいるらしいこと がわかる。父と子の心の交流 逆らうことの出来ない 絶対的な存在としての父に対する 息子のひたむきな心が しみいるようだ。
しかし旅が、湖の只中に達したときに 突然 チョックは 残酷な事実を知る。心から慕っていたマックを 父は殺してきたのだった。チョックは渾身の憤怒をこめて 父親を罵倒して父を憎む。
マックは、たったひとりの父ケヴの親友だった。ケヴが刑務所にいたときは マックが父親代わりだった。マックがくれた車の玩具は チョックのたったひとつの宝物だ。短気ですぐに暴力をふるう父親とちがって マックはいつも優しくしてくれた。マックは天涯孤独なチョックにとっては母親のような存在だったのだ。そのマックを父は殺して、金と車を奪って逃亡してきたのだった。
チョックのベッドに下着姿で入っていたマックを 父親はぺデファイルと勘違いして酔った勢いで殺してしまった。チョックは マックが何も悪いことをしていないのに殺した父親を 許すことができなくて、警察に通報して、父から離れていく。それを知った父ケヴは、息子に、正しいことをした、と褒めて 息子が一人去っていく姿を見送る。
というお話。
最後にしっかり抱き合う父子を見て、映画のはじめから チョックが 誰からもしっかり抱きしめられるシーンがなかったことに気付いた。10歳の子供にとって 大人にしっかり抱きしめられて育つことが どんなに大切な 必要なことだっただろうか。しかしそうした経験のない父親には息子の抱き方がわからない。
マックが チョックのベッドに忍び込んだことで 父親はマックを殺したが 母親代わりのマックに抱かれたチョックは それを不思議に思い 心休まるような感触を感じていた。チョックには 思いもかけない父親の怒りが理解できない。チョックには優しいスキンシップが 必要だったのだ。マックが殺された後となっては マックの不思議な行動は誰にも説明できない。マックは 可愛さの余り チョックを抱いて眠りたかったのかも知れないし、それが序序に発展していって性行為に結びついていったかもしれない。まあ確実に そうなっていただろう。その意味で父親の行為は正しい。(殺すことはなかったが。)レイプは 必ずしも 暴力を伴わない。もともと性行為は慰めであり、優しさの交歓でもあるからだ。
母と交わり、父を憎む ギリシャのオイディップス王が、ここにも居る という言い方もできる。
悲しい 本当に悲しい映画だ。
父親のケヴは 本来悪い人間ではない。自分は幼い時から 暴力的な父親に育てられ 何度も刑務所暮らしを繰り返しながら生きてきた。息子のベッドにマックが居るのを見て逆上したのを見てもわかるように、自分が幼いときに ぺデファイルの被害者だったこを如実に語っている。チョックが母親恋しさに、盗んだ車にあった口紅をつけて化粧してみたときも 父は怒り狂って息子に暴力を振るう。それが昔の自分の屈辱の過去の姿でもあったからだ。
そんな父親ケヴが 自分の息子だけは 自分が育ってきたよりは良い環境で育てたいと願い 息子を不器用ながら 守ろうと必死でいる。暴力のなかで生きてきたが、自分と息子を捨てていった 妻をいまだに愛していて 成長した息子を対面させたいと願って 旅をしている。
息子が何よりも大切だ。しかし、不器用で どのように息子のやわらかい心に触れて良いのかわからない。自分が親からも 人からも 優しくされたことがないからだ。
しかし、息子が父を見限るとき、それが息子の 自立の瞬間だ。
この映画は それを みごとに表した。
10才の子供が 父のライフルを奪い、唯一の宝物だった車の玩具を捨てるとき チョックは もうチョック(雛鳥)ではない。父を許さない、誰にも依存しない たった一人で生きていく心の決意が見えている。
その息子の決意を読み取ったうえで、父は息子を心から愛していると言って硬く抱きしめる。息子も心から愛しているといって、去っていく。
すごい男のハードボイルドの世界だ。 なんという孤独。
こんなふうにして、男は男になっていくのだろう。
現実には きっと、10歳のチョックは警察に保護され、母親のところに引き取られるか、施設に送られるのだろうが、彼の父親からの 心の自立の仕方が、本当に無残で悲しい。
タイトルの「ラスト ライド」は 最後の乗車とか、最後の旅とかの意味。殺人を犯した 根からの極悪 粗暴な男の、破滅に向かって、地獄への逃避行 といえば、一言で この映画を 説明できてしまう。
映画のはじめでは それがわからない。序じょにゆっくり 真実がわかっていって、一挙に破滅にむかっていく。
こんな風に 映画の結末の二分の一ほどを明かしてしまっても、これから観る人が怒る必要はない。結末がどうあれ、映画の良さは その過程にあるので 最後に男が死のうが死ぬまいが 観るだけの価値がある。
日本人のやっている映画評でよくわからないのは、ネタバレ とかここからネタバレなので映画をもう観た人だけ読んで とかいった扱いがあることだ。そんなことを言えば、カルメンといえば 三角関係の末 殺される女の話だし、椿姫は 好きな男がいるが 病死する女の話だ。だれもがストーリーの結末を知っているが、もう筋がわかっているという理由で、これらの不朽の名作オペラを観にいくことを止める愚か者はいない。
長い 抒情詩のような 本当に美しい映画だ。
監督 :グレンデイン アイビン (GLENDYN IVIN)
カメラ:グレイグ フレーザー (GREIG FRASER)
キャスト
トム ラッセル(TOM RUSSEL)CHOOK役
ヒューゴ ウィービング(HUGO WEIVING)KEV役
ストーリーは
ケヴ(KEV ケビンの愛称)は、10歳の息子 チョック(CHOOK 雛鳥とかヒヨコの愛称)を連れて オーストラリア中央部の小さな町から 南オーストラリアに向かって旅をしている。
寡黙な父親は 何故、そしてどこに向かって旅をしているのか 息子に言わない。息子も もうそれが長年の習慣ででもあるかのように 何も聞かず 従順に父親のあとを付いて行き あるときは公園のベンチで眠り 長距離バスを乗り継ぎ 町をでてからは、野宿をして 火をおこし、撃った野うさぎを食べる。砂漠では野生のラクダに起こされて、ラクダに飲み水のありかを教わる。セントラル オーストラリアの広大な荒野と、どこまでも広がる砂漠。
砂漠に突然 出現する塩湖 レイク エイラ どこまでもどこまでも続いている浅い湖を彼らは車で横断する。9500平方キロの大きさの湖のその美しさは 例えようもない。
ケヴは 車を奪い 金を盗み、飲んだくれて喧嘩をしてパブから放り出され、ガソリンスタンドで強盗をして、罪を重ねていく。そうしながらも、ケヴは息子チョックには男親らしく、湖で泳ぎを教え、キャンプの仕方を教え、遊びに付き合い 冗談を言い、息子の良い父親 保護者であろうとする。わずかな親子の会話から、ケヴが子供だったころ 荒っぽい父親に連れられて やはり同じようにして父親から育てられたこと、チョックの母親は チョックがまだ赤ちゃんだったときに 刑務所行きを繰り返すケヴを捨てて出て行ったが、アデレードに住んでいるらしいこと がわかる。父と子の心の交流 逆らうことの出来ない 絶対的な存在としての父に対する 息子のひたむきな心が しみいるようだ。
しかし旅が、湖の只中に達したときに 突然 チョックは 残酷な事実を知る。心から慕っていたマックを 父は殺してきたのだった。チョックは渾身の憤怒をこめて 父親を罵倒して父を憎む。
マックは、たったひとりの父ケヴの親友だった。ケヴが刑務所にいたときは マックが父親代わりだった。マックがくれた車の玩具は チョックのたったひとつの宝物だ。短気ですぐに暴力をふるう父親とちがって マックはいつも優しくしてくれた。マックは天涯孤独なチョックにとっては母親のような存在だったのだ。そのマックを父は殺して、金と車を奪って逃亡してきたのだった。
チョックのベッドに下着姿で入っていたマックを 父親はぺデファイルと勘違いして酔った勢いで殺してしまった。チョックは マックが何も悪いことをしていないのに殺した父親を 許すことができなくて、警察に通報して、父から離れていく。それを知った父ケヴは、息子に、正しいことをした、と褒めて 息子が一人去っていく姿を見送る。
というお話。
最後にしっかり抱き合う父子を見て、映画のはじめから チョックが 誰からもしっかり抱きしめられるシーンがなかったことに気付いた。10歳の子供にとって 大人にしっかり抱きしめられて育つことが どんなに大切な 必要なことだっただろうか。しかしそうした経験のない父親には息子の抱き方がわからない。
マックが チョックのベッドに忍び込んだことで 父親はマックを殺したが 母親代わりのマックに抱かれたチョックは それを不思議に思い 心休まるような感触を感じていた。チョックには 思いもかけない父親の怒りが理解できない。チョックには優しいスキンシップが 必要だったのだ。マックが殺された後となっては マックの不思議な行動は誰にも説明できない。マックは 可愛さの余り チョックを抱いて眠りたかったのかも知れないし、それが序序に発展していって性行為に結びついていったかもしれない。まあ確実に そうなっていただろう。その意味で父親の行為は正しい。(殺すことはなかったが。)レイプは 必ずしも 暴力を伴わない。もともと性行為は慰めであり、優しさの交歓でもあるからだ。
母と交わり、父を憎む ギリシャのオイディップス王が、ここにも居る という言い方もできる。
悲しい 本当に悲しい映画だ。
父親のケヴは 本来悪い人間ではない。自分は幼い時から 暴力的な父親に育てられ 何度も刑務所暮らしを繰り返しながら生きてきた。息子のベッドにマックが居るのを見て逆上したのを見てもわかるように、自分が幼いときに ぺデファイルの被害者だったこを如実に語っている。チョックが母親恋しさに、盗んだ車にあった口紅をつけて化粧してみたときも 父は怒り狂って息子に暴力を振るう。それが昔の自分の屈辱の過去の姿でもあったからだ。
そんな父親ケヴが 自分の息子だけは 自分が育ってきたよりは良い環境で育てたいと願い 息子を不器用ながら 守ろうと必死でいる。暴力のなかで生きてきたが、自分と息子を捨てていった 妻をいまだに愛していて 成長した息子を対面させたいと願って 旅をしている。
息子が何よりも大切だ。しかし、不器用で どのように息子のやわらかい心に触れて良いのかわからない。自分が親からも 人からも 優しくされたことがないからだ。
しかし、息子が父を見限るとき、それが息子の 自立の瞬間だ。
この映画は それを みごとに表した。
10才の子供が 父のライフルを奪い、唯一の宝物だった車の玩具を捨てるとき チョックは もうチョック(雛鳥)ではない。父を許さない、誰にも依存しない たった一人で生きていく心の決意が見えている。
その息子の決意を読み取ったうえで、父は息子を心から愛していると言って硬く抱きしめる。息子も心から愛しているといって、去っていく。
すごい男のハードボイルドの世界だ。 なんという孤独。
こんなふうにして、男は男になっていくのだろう。
現実には きっと、10歳のチョックは警察に保護され、母親のところに引き取られるか、施設に送られるのだろうが、彼の父親からの 心の自立の仕方が、本当に無残で悲しい。
長い抒情詩のような、美しい映像と言ったが、荒野で 月も星もない夜に チョックが、無心に 花火を持って踊って遊ぶ場面がある。漆黒になかで、花火の火の美しさと、はかなさには、息をするのもためらわれる。
また、湖の中ほどで、360度見渡す限り 水だけという 静けさのなかで、チョックが 一人しゃがみこんで 声なく泣く姿も、どんなに言葉をつくした詩よりも美しく悲しい。映画にはこんなふうに人に訴える力があったのか。
悲しい男の話を、ものすごく美しい雄大なオーストラリアの自然のなかで 映し出している。カメラワークが素晴らしい。オーストラリアがどんなに大きな大陸だったが 実感できる。
悲しい男の話を、ものすごく美しい雄大なオーストラリアの自然のなかで 映し出している。カメラワークが素晴らしい。オーストラリアがどんなに大きな大陸だったが 実感できる。
2009年7月1日水曜日
わたしのマイケル ジャクソン
マイケル ジャクソンが亡くなって 悲しい。
それも、大好きだった ヒース レジャーと同じように鎮痛剤のオーバードーズで、呼吸が止まってしまった という、そんな亡くなり方が、とても悲しい。
でも、亡くなった彼のために、翌日 議会で上院、下院議員全員が起立して黙祷をささげる姿を見て、アメリカ議会も粋なことをする と ちょっと見直した。 だって、日本の国会で、例えば 木村拓哉が死んだとして、国会議員のおっさんたちが 1分間の黙祷をするだろうか? まあ、マリナーズのイチローが死んでしまったら みんな文句なしに 黙祷するかもしれないけど。
肌の白いコーカシアンに生まれてくることは 偶然の結果だが それが自分で勝ち取った特権でないに関わらず、白人であるという特権を白人は絶対に捨てようとしない。過去においても、現在においても どんなに法が整備されて、人種や肌の色での差別が禁止され、同じ人間として扱われるようになっても 白人であることは 就職、住宅環境の選択、教育、結婚すべてにとって 有利であることに、変わりはない。
以前、公立病院の心臓外科病棟に勤めていた。病棟には33人のナースがいたが、私を除いて すべてが肌の白いコーカシアンだった時期がある。あとで中国人や ジンバブエの人や インド人の看護婦も 入ってきたけど、とにかく みんな肌が白い オージー、カナダ人、アメリカ人、スコットランド人だけだった時期、私は断じて言うが、彼らに差別されたことはなかった。みなプロに徹した ものすごく優秀なナースばかり、心臓のスペシャリストが4人もいた。普通は一つの病棟に一人だから、いかにできる人ばかりで、仕事に誇りを持っていた人たちの病棟だったか 今思うと しみじみわかる。
ある日、みなが「賭け」を始めた。何に賭けているのか知って 仰天した。折りしも マイケル ジャクソンと、デビー ロウの間に 赤ちゃんが産まれたということだった。みんなは 産まれて来た子供の肌が 黒いか白いかを 賭けていたのだった。みんな目の色を変えて 「ブラック? ホワイト?」と、ニュースに釘付けの姿を見て、思い切り しらけた。長いこと感じてきた同僚意識、できるナースへの尊敬の気持ちが すべて音を立てて崩れ落ちる感覚。
白人はマイケル ジャクソンの肌が白くなったことを 決して許そうとしない。それは 自分たちの特権崩壊につながるからだ。誰もがお金の力で 白い肌をもつことができるようになったら 自分たちの有利さが失われてしまうからだ。 民主主義、弱者救済、平等、差別撤廃 これらの言葉が白人から発せられるとき それは自分が白人であることを前提に言っているに過ぎない。 差別を受けてきた者にとっての民主主義、弱者救済、平等、差別撤廃と、それは全然別のものであること、それがわかっているのは、白人以外の人々だけなのかもしれない。
マイケルを思うと、あの日のナースたちの 興味津々の残酷で卑しい目と、「ブラック? ホワイト?」という言葉を思い出す。
ブラック?ホワイト? どっちでもいいじゃないか。
本当に どっちでもいい、と言い切れる自分が、ちょっと、誇らしい。