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2024年9月18日水曜日

おべんとう

豪国には給食と言うものがないから、子供たちは幼稚園から高校を出るまで学校にお弁当を持っていく。
お弁当の中身がピーナツバターを塗っただけの食パンだったり、ニンジンとバナナだったりすることで、日本から来たお母さん方はびっくりする。私も初めてバナナとリンゴを持って行く子を見て、上野動物園の飼育係が持っていたゴリラのランチそっくりだと思った。

写真はスーパーマーケットで売っているミニトマト、ミニキウリ、ミニキャロットの写真で、一口サイズなのでお弁当に最適だ。ヒトは社会的な動物で、男も女も社会に参加するようになったから、専業主婦という言葉は21世紀に死語になった。みんな忙しいからお弁当は簡単な方が良い。
お弁当というと優しいお母さんが毎朝作ってくれたお弁当に良い思い出を持っている人が多いかもしれないが、私の母は家事が大嫌いだった。母は子供の時から爺やと婆やに世話されて、2人の兄にチヤホヤと大事にされてきた。兄たちに両側から手を取られてベレー帽、ロングスカートにハイヒール姿の母が、銀座を闊歩する写真を見たことがある。父と一緒になって家事をすべて任されて、いつも機嫌が悪かった。その母は79歳で癌で亡くなったが、2か月違いで2人の兄も亡くなっていた。本当に仲が良かったのだ、だから兄達に両腕を任せながら幸せに旅立ったのだと思って、悲しくなくて、幸せな気持ちで見送った。

一方の父は、70歳まで早稲田の政経で教壇に立ち、「メシ食いに来い」と、どの学生にも声をかけていたから、家には書生のように半分住み着いているような学生が何人もいた。母が怒るわけだ。私は 小学校ではアメリカに押し付けられた脱脂粉乳のミルクとコッペパンの給食を食べていたが、中学になると、怒れる母のお弁当を持参することになった。
ある日、お弁当箱を開けると白いご飯の上に小さなコロッケがひとつ、その上を弁当箱の蓋をギュっと押し付けられて、破裂コロッケが飯の上で無残な姿でのびていた。それをみたガキどもが「大内の弁当すごい!」と騒ぎ出し、見物人数えきれず、、、。
運悪く翌週は課外学習で、お弁当は海苔巻きだった。きれいに細巻き干ぴょうを巻いたのを、切って器に入れてくれればよかったものの、シャレたつもりか竹の皮で包んであった。背負って走り回ったザックの中は洗濯機状態。前の姿が想像できないくらいに変形していた。それもなぜ忘れたのか、切っていない。長いままの細巻きのヒョロヒョロが、ザックの底で転がっていた。以来、「大内の弁当すごい!」は、半径50メートル内では有名だった。

今私が住むシドニー中心に、マーチンプレイスという日本でいう霞が関のようなビジネスオフィス街がある。そこに昼間だけ屋台の果物屋がいくつか店を出す。ボトルの水や果物のバナナや洋ナシやリンゴを1個ずつ売る。小さなパック入りのイチゴやスイカやパイナップルもある。ビシッと背広三つ揃いを着たビジネスマンが、パック入りのイチゴを買うなり、歩きながら食べる姿を見ると、健康的でいいなあ、と思う。子供も大人も健康的でいいなあ、と思うけれど、私は誰かが作ってくれたご飯を2段、海苔で2階建てにして、上品な出し巻き卵と佃煮が乗ったお弁当が食べたい。