ページ

2023年12月29日金曜日

父の思い出 その2

庭から台所口に回って家の中に入ろうとする時、いつもカーンと物干し竿におでこが当たって澄んだ音がするんだよね。で、、その夜もカーンと、私がいつも立てるのと同じ音がするから、誰かが家に忍び込んだってわかった。と、父が言う。犯人は取っ手をタオルで巻いた大きな出刃包丁をもった強盗だった。おひつに残ったご飯を食べているところを、忍んで近ずいた父が静かに話しかけた。
刑務所から出たばかりの人だったそうだ。父は彼の話を聞き、充分食べさせて、お金を持たせて暗いうちに送り出してやった。何も知らず眠っていた母や私たち子ども達が、朝起きたら台所に出刃包丁が転がっていて、初めて事の起こりを聞いて震えた。父はこのことを他の誰にも、二度と話さなかった。それにしても毎回庭から台所に入る時、物干しざおに頭をぶつける父の習慣は、相変わらず続いたのだった。

同じようなことが60年後に、母が亡くなって父が一人きりで住んでいたユニットで、私と娘たちが父のところに遊びに来ていた時に起こった。午前2時、バリバリという音がして隣に住んでいるおじいさんがバルコニーのしきりになっている厚いプラスチックの壁を壊して侵入してきた。認知障害があって、戦災の悪夢を思い出したらしい。父は起きて来て、彼を迎い入れ、お茶を入れ、ビスケットを食べさせ、のんきに世間話をしているところを、話し声で目が覚めた私をびっくりさせた。そして、深夜のお茶のあと、玄関からおじいさんをお見送りした。

自分の家族や昔世話になった先生などのエピソードは、誰にも似たような経験があっただろうから共感をよぶ。
13年前に亡くなった父のエピソードは、いくら書いても書きたりない。

若かった父が阿佐ヶ谷に一人住まいしていたころ、父親代わりだった大内兵衛叔父さんが、自分の1番弟子の宇佐美誠次郎の妹を、家に連れてきた。のちに2人は結婚するが、彼女が帰る時、父は、庭に下りて、両手いっぱいの自分の育てたチューリップを持たせた。「まったく震えが止まらなかったよ。」と父が言う。「チューリップがもったいなくて。」とオチを言い、私が笑ったところで母がプイと部屋から出て行く。これを何度聞かされたか。
父も兵衛もチューリップを愛し、球根から丹念に手をかけて育てた。晩年兵衛が住んだ鎌倉の家は、坂下からながめると頂上に家があったが、その斜面はみごとなチューリップで埋め尽くされていた。

大學のお弟子さんがそのまま大学に残って助手になったとき、大学近くの路上で恐喝にあった。所持金を奪われ新聞記事になった。「早稲田大学の助教授が所持金6千円を奪われた。」という記事だったが、父は「みっともない6千円しか持ってなかったなんて、大恥だ。」と怒った。そして自分が同じ目にあった時に恥ずかしくないように、現金2万円をいつもポケットに持ち歩くようになった。へんな見栄っ張り。

父は生まれつき片目が弱視でほとんど見えなかったので戦争に行かないで、早稲田第2高等学院で教えていた。戦後教育法が変わり高等学院が早稲田大学に昇格して、そのまま20代で大学講師になって、そのまま教授になり、そのまま名誉教授になった。
1953年、講師時代から千葉の内房、上総湊に釣り小屋を建て、夏は釣り三昧を学生たちと楽しんだ。上総湊の小屋がつぶれてから、外房の御宿に移ったが、71歳で退官しても、もと学生たちを釣りに連れて行く習慣はずっと続いた。
連れてこられた学生は釣りの成果がその年の成績につけられる不条理に甘んじ、子供だった私や兄の世話や炊事をまかされ、「別荘日誌」で釣りの成果を記録するのも義務だった。カワハギ、ベラ、キス、メバル、タイ、イカ、タコ、コチ何匹、と細かく記録されるが、いつも最後は「私が一番たくさん釣った。」と父の言葉で締めくくられる。

アイルランドのトリ二テイカレッジに留学したことがあって、そこでついた「朝はオートミール、夜はギネスとスコッチのぐい飲み」という習慣は死ぬまで続いた。
父が亡くなった時「大内先生が居なくなった世界をどう生きていけばいいのか?」と大泣きしたもと学生は、13回忌になる今も手紙をくれて、昔の仲間同士の飲み会に誰が参加したか、とか誰が墓参りをしてきたか、などと報告してくれる。今年は便りの最後に「長生き競争をしましょう。」とあった。彼も80歳。私も明日で74。 父との良い思い出をもった方々が、少しでも健康で長く生きていて欲しいと思う。