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2023年8月9日水曜日

映画「オッペンハイマー」


映画「オッペンハイマー」
監督:クリストファーノーラン
原作:カイバード,マーチンシヤ―ウィン作「オッペンハイマー原爆の父と呼ばれた男の栄光と悲劇」2005年ピューリッツア―賞
配役:ロバートオッペンハイマー:キリアンマーフィー
   妻、キャサリン:エミリーブラント
   グローブス陸軍中将:マットデイモン
   ストラウス国家エネルギー専門委:ロバートダウニージュニア
世界で初めて原子爆弾を開発した理論物理学者オッペンハイマーの半生記。
1926年ハーバード大学を最優秀の成績で卒業したロバートは英国ケンブリッジ大学留学を経て、独国ゲッテイゲン大学でニルスボーアに出会い、またスイスではウェルナーハイゼンベルグや、アルベルトアインシュタインに会い理論物理学の専門性を高め、博士号を取る。その後カルフォルニアバークレーで教鞭をとる。

1942年陸軍レズリーグローブス准将から、原爆を開発するための計画を持ち掛けられて、「マンハッタン計画」のリーダーとなる。翌年彼の発案で広大な砂漠ニューメキシコに、ロスアラモス研究所を建設、関係者家族すべてを移住させ、原爆開発を主導した。
時に太平洋戦争で米国軍の消耗は大きく、早急に戦争を終結させる必要があり、一方ナチドイツもソ連も原爆を開発しているという情報があり、それよりも先に米国で原爆開発をすることが急がれていた。日本でも原爆の開発が行われていて、原爆よりも強力な水素爆弾がいつどこの国で制作されるのか、どの国々も互いに疑心暗鬼に陥っていた。
1945年7月16日、ロバートたちはロスアラモスで、人類最初の核実験「トリ二テイ」を成功させる。実験の成功で米国の英雄に祭り上げられたロバートは、ヒロシマ、ナガサキへの原爆投下と、その威力に衝撃を受け、以降の水爆制作と研究所長の継続を拒否、国の命令に従わないことで、共産主義者、ソ連のスパイと中傷され攻撃されながら生きる。ロバートは共産主義者であったことはなかったが、彼の弟と妻が共産主義者だった。政治的にロバートを貶めることによって、ストラウス国家エネルギー委員は、後に商務長官となる。というストーリー。

この映画は理論物理学者の半生を描いた作品であって、ヒロシマ、ナガサキの映像は全く出てこない。日本人も出てこない。

日本は敗戦まぎわだったのに原爆が落とされて壊滅的な被害を受けた、と一方的に被害者的立場を主張する人が多いが、原爆投下前、何度も米国から勧められていたポツダム宣言を、鈴木貫太郎首相は、1945年7月26日に「ポツダム宣言黙殺、戦争邁進」と、世界に向けて発表している。
この時点でニューギニアでは第18軍10万人の兵士のうち9万人が餓死していた。沖縄では6月23日に組織的戦闘は終え、牛島満司令官はサッサと無責任にハラキリ自殺しているが、住民が投降すれば後ろから敗残兵が住民を撃ち殺し、隠れていた洞窟は火炎放射器で焼かれていた。兵士は東南アジアのジャングルでは餓死か、死ぬための万歳攻撃を命令されていた。この時点で誰一人降伏、敗戦を言っていない。
原爆投下ののちになって大本営天皇が1945年8月15日に初めて玉音放送で「残虐な原子爆弾で罪もないものを殺傷し、悲惨な損害を与えられ、このまま戦争を継続すれば我が門族は滅亡する。」ゆえに無条件降伏する、と発表した。無条件降伏せず、戦争を長引かせた末の原爆投下の責任は天皇にある。

この映画のハイライトは、言うまでもなく「トリ二テイ」の臨界実験だ。天才的物理学者たちの理論が初めて検証される瞬間。世界中の科学者が研究中の新兵器が生まれる瞬間、今か、今かというカウントダウンの後、関係者たちが予想していたよりもはるかに強力な爆発を身に浴びて、歓喜する人々、涙流して抱き合う博士、研究者、兵士たち。実験成功。何の疑いもなく最大の殺傷兵器の誕生、大成功。

この映画のクライマックスを冷静に見ていられる日本人はまず居ないだろう。
大量の涙と嗚咽でにじむ映像に耐えながら、いま沖縄の米軍基地に駐屯して日米合同演習をしている自衛隊の若者たちは、米軍と共にミサイル基地を拡大し、軍港を作りながら、「あなたたちは誰を守るつもりでいるのですか?」と問いたかった。

映画の中でトリ二テイ実験以降米軍への協力を拒否したロバートは国の裏切り者、共産主義者、スパイのレッテルを張られるが彼を支える妻が立派だ。公聴会で「キャサリンあなたはコミュニストだろう、10年前スペイン共産党にお金を送っているじゃあないか、」と追及されるが、姿勢を正したエミリーブラントが「フランコ独裁化で飢えた子供たちが路上で餓死していた。子供たちのためにお金を送って何が悪いか」と一喝するシーンに胸がすく思いだ。

トルーマン大統領が原爆投下を決断したとき、一刻も早く戦争を終える。「マイ ボーイズ バック」(うちの兵士達を帰国させたい)と言うせりふがあった。
はたして天皇は降伏するとき、皇軍230万人の死、その多くは外国の地で餓死した青年たちの姿が、頭の隅に少しでもあっただろうか。MY BOYS BACK!
MY BOYS  BACK!!!