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2022年5月31日火曜日

13回目の結婚記念日おめでとう

これは娘自慢。
次女の13回目の結婚記念日おめでとう。
結婚して二人の子の母親になり、仕事も順調で救急病院のマネージャーになり、夫婦円満で、趣味のヴァイオリンも続け、絵も描いている。すばらしい!
おまけに
長女も仕事をきっちり続けて患者達から信頼され、専門の勉強も続けている。立派だ!
そんな娘たちが自慢で仕方がない。
ここで13年前に、次女に結婚のときに書いものと、長女の結婚のときに書いたものをを読み返してみた。今読んでみても、幸せな気持ちになる。

https://dogloverakiko.blogspot.com/2009/04/blog-post.html

https://dogloverakiko.blogspot.com/2009/06/blog-post.html

https://dogloverakiko.blogspot.com/2014/07/blog-post.html

https://dogloverakiko.blogspot.com/2014/09/blog-post.html



2022年5月22日日曜日

経済分析の基礎

1938年、治安維持法で逮捕され1年半もの間拘禁された私の大叔父、大内兵衛は獄中で検事に「南京に新たに作られた傀儡政府の経済顧問になるなら、告訴しないでやる」と言われた。同じく逮捕拘禁されていたお弟子さんたち、有沢広之己、脇坂義太郎、美濃部亮吉も、「満州政府の顧問になるなら自由にする」と打診されていたが、みな軍国者たちの侵略が失敗に終わると予想していたので、これを拒否した。彼らは米国が日本の石油輸出を禁止した時、日本の海軍が戦争をするのに必要な石油量を一度も計算したことがない、タンカーがどれほど要るのかも把握していなかったことを知っていた。また留学していた間に、海外の経済学者と意見交換していたので日本の経済力を知っていた。

その後大内兵衛、有沢広己、脇坂義太郎、美濃部亮吉、大森義太郎、高橋正雄の全員が拘禁を解かれ無罪を勝ち取った。全員が共同謀議をかたく否定したから、治安維持法で起訴できなかったのだ。その後、大内は現状分析をするのに科学的な統計分析が不可欠でそれが経済学の基礎であることを繰り返し語っていてインタビューに答えてこんなことを言っている。
「経済学はいつもプラクテカルである。悲しかったのは日本の戦時経済論がそういう意味でさえ端的に言えば戦争のおんためにさえ、理論としてあまりにも貧弱であったことだ。日本の戦争経済学ほどペダンチックでしかも無効果でしかも無益なものはなかっただろう。ということは日本の戦争責任者は社会科学についての常識において世界的な低能者であったということであろう。同じファシストでもファシストは馬鹿に定まっているがそれにしては少し度が過ぎていた。彼らは一切の理論を無視した。御用経済学もせいぜい努力して彼らに献上したがその全部が腐った鯛で、いただけるものが一つもなかったのである。」
いつも茶目っ気たっぷりで、笑顔を絶やさずジョークを放ていた大叔父らしい言葉だ。

いま日本のウクライナ情勢を語る人々は、ウクライナ軍アゾフ隊をヒーロー扱いし、ロシア憎し、を叫び回っているが、オイルをロシアからの輸入に頼っている日本の言うこととは思えない。日本円は下がり放し、ルーブルの価値は上がっている。これからとてつもない食料不足、インフレと不況が襲ってくる。日本経済大丈夫か。

I am singing 'TEAR IN HEAVEN' written by Eric Clapton. He wrote this for his son. His 3 years old son fell from his 53th floor apartment and lost his life. It's very very sad song.




2022年5月15日日曜日

メデイアに翻弄されるのはやめよう

この戦争はプーチンの戦争だ。ロシア政府と国民の意志に反して彼が一人で始めた。この独裁者を戦争犯罪人として世界で一丸となって裁け、とプーチン悪者論が跋扈している。だけど、私たちはいつかどこかで同じことをしていなかったか。

1999年アルバニアの少年たちが後ろ手に縄で縛られて穴に連行されるニュースを見せられて、米軍とNATOがセルビアを空爆するのを眺めていた私たち。アルバニアの住民が何万人もジェノサイトの被害にあっているという米国発のニュースは偽りだった。
2019年ペルシャ湾で、オイルにまみれて死を待つ水鳥の写真を連日見せられて、イラクの独裁者サダムフセインが大量兵器を持っていると、米軍の進駐を許し、サダムが絞首刑につるされる予定の現場まで報道して見せた。事実は米軍が原油精製施設をミサイルで破壊した結果水鳥が死んだのだったし、大量兵器もなくサダムに非はなかった。オイル収奪のために米国の猿芝居だったにしては犠牲が大きすぎた。

シリアのアサド大統領政権は毒ガスで反政府の民衆を虐殺しているとして、呼吸困難で苦しむ子供たちの写真を連日ニュースで見せて、アサド倒せと連呼した人々。米軍が勝てずに手を引きシリアは再びアサド政権下で平和を取り戻した。あの時シリアの民主化のために戦う民衆を救護するといって世界の英雄扱いされたホワイトヘルメットとは何だったのか。

ロシア軍はいったんこの3月にキエフにもブッチャにも進駐したが、3月30日に撤退し移動した。ロシア軍がブッチャに居た間、市は封鎖されておらず人々の生活も普通通りでネットも使えたという。3月31日ブッチャ市長アナトーリフェドルクが、「市からロシア軍が居なくなった、市民に死亡者などは出ていない」と報告していた。4月になって報道陣がやってきたときに、無かったはずの29体の遺体が道路に転がっているのが「発見」された。ロシア兵が居た時に便宜を図った人々がアゾフ連隊に殺されたのではないか、という報道もある。「ブッチャの大虐殺」の真相はいかに。
マリアポールで、地下に避難していた住民がやっと助け出されて避難先に向かうバスの前で「本当に毎日爆弾が落ちて来て怖かった。早くロシアに避難したい。」と言っていたが、西側テレビ局は最後のロシアに避難したい、という言葉をカットして報道した、とロシアの外務官僚が言う。

メデイアは旬の話題に飛びつくが、時期が過ぎると、そのときに報道したことは事実に反していたとわかっても、わざわざ訂正して報道したりしない。人々の関心がそれたら間違ったことを報じたからと言って謝罪などしない。
だから、もうやめにしないか。戦争報道をうのみにしてだまされることを。ウクライナに武器を送ることに良心をとがめないような人が平和だ、平和だの声高に叫ぶのを。もうやめにしないか。

I am singing [ THE BOXER] written by Paul Simon, recorded by Simon and Garfunkel.


2022年5月4日水曜日

ウクライナの避難民は

1928年、DHロレンスの小説「チャタレイ夫人の恋人」でチャタレイが恋人の「森番」に、「逃げましょう,2人でオーストラリアかカナダに逃げて2人きりで暮らしましょう」というシーンがある。こんな昔からオーストラリアとカナダが、大英帝国からみると逃避行先として知られていたということは、とても興味深い。

オーストラリアの人口は2500万人に達したが、移民と難民とその子孫で形作られてきた。全人口に占める外国生まれの人の割合は29%。いまメルボルン45万人の人口のうち35万人はギリシャ人とイタリア人の子孫で、彼らは戦後の深刻な不況とイタリア内戦から逃れてきた人々だ。フランコ独裁政権からも、20万人のスペイン人が逃れてきている。1980年代のハンガリーからも東ドイツの難民が押し寄せて来ている。1973年のチリのクーデタと政情不安からも1万人あまりが難民として受け入れられた。
また1975年4月ベトナムのサイゴン陥落以降、旧ベトナム軍関係者や資産家華僑がボートピープルとして流入、9万人以上が政府によって受け入れられた。1989年中国の天安門事件では、公安警察に追われた活動家たちが、香港を経由して2万人以上が難民として受け入れられた。
また今回、2020年香港国家安全維持法の制定と、2021年の選挙制度改悪によって言論の自由も民主的議会選挙もかなわなくなった活動家達も多数オーストラリアは受け入れた。帰国すれば危険と思われる留学生には永住権が与えられ家族も受け入れられた。

しかし難民受け入れに掛かる絶大な経費(教育費、医療費、職業訓練費)を理由に、オーストラリア政府だけでなく、どこの国も年々、難民の受け入れ条件を厳しくしている。1981年に難民条約の難民議定書に加入した日本の難民受け入れは、ほとんどゼロ、0.5%以下で論外だけれども、米国は前大統領がメキシコとの国境に壁を作り移民も難民もシャットアウトし、その費用をメキシコに負担させた。
英国は今後難民はアフリカのルワンダに送り、その地で5年間生活支援するが、その後効果のなかった人々はもと来た国に帰す、そうだ。何という冷酷無比。
20世紀は難民の世紀だったと言われたが、今世紀も世界は同様の悩みを抱える。戦争がある限り、難民は押さえられない。ウクライナは国民の4分の1がすでに難民として国外流出した。これをどう収拾するのか。難民を流出させた国と流出した国とが、その国家責任を問い自力更生させることは無理だ。私たちはそれぞれの国を尊重しながら援助することしかできない。流出した難民が安心して祖国に帰還できるまで必要な援助を続けるしかない。できるだろうか。
加藤登紀子の「時には昔の話を」を歌ってみた。むかし同じ時代を過ごしたムラマツ氏と、28日に出所する共通の友人のために。

I am singing [ Let's talk about old stories] written by Kato Tokiko. for sharing memory with my best friend Muramatsu and friend who will be free soon.