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2021年2月21日日曜日

FB オ-ストラリア国民に謝罪

  



2月18日木曜日にフェイスブック(FB)をPCで開けてみると、FBのご案内、としてニュースを見ることができません、と画面に出てきたので驚いた。個人的にはニュースは毎晩テレビで見る習慣がついているので、FBでニュースが見られなくても不便はないが、テレビをつけてみると、そのことでてんわやんやの騒ぎになっていた。
なにしろ新聞の宅配などありえない国、広大な土地をもったオーストラリアで、紙の新聞を読む人などごく僅かだ。若い人々は毎日のニュースを、忙しい合間にFBで見る。若い人の人口の3分の1が、ニュースをFBに、頼っているそうだ。その数、170万人。

スコットモリソン首相もカンカンになって怒っている。FBがサイトを閉じたのは、国営ニュース(ABCニュース)だけでなく、各州保健省(ヘルスデパートメント)、天気予報、政府キャンベラ保健省、アボリジニーヘルスサービス、ブッシュファイヤー情報、ヒューマンライト人権保護、自殺予防チャリテイーセンターなどなどのサイトが一方的に何の予告もなく削除されたのだ。
ニュースも天気予報も国民生活になくてはならない情報だろう。アボリジニーの人にとっては、保健サービス情報は大事だし、西オーストラリアではすでにブッシュファイヤーが広がっている。いつ火事から逃れるために避難するかを判断するための情報は、命に関わる。またコロナで失業者が増え、ロックダウンが続くなかで、自殺予防のための窓口もまた、人々の命に関わる大切な情報源だ。それらのサイトをFBは削除した。

FBがオーストラリアの公的メデイアからチャリテイーへのアクセスまで、サイトを撤去したのは、政府がニュースを載せるための、お金を払わなかったからだそうだ。企業の広告代で稼ぎに稼いで私腹を肥やしている世界一金持ちの、民間企業FBが言うことか。
スコット モリソンは、FBという民間企業による「オーストラリア人いじめだ。」と大声で吠えている。オーストラリア人の怒りは収まらないが、英国の通信技術委員会ジュリアン ナイト下院議員も「FBはメデイアとしての責任を放棄した。断じて許してはならない。」と激しくFBを批判した。

一方FBは、超保守派、タカ派共和党べったりのマードックファミリーが経営するモーニングヘラルド、チャンネル9,ジ、エイジ、オーストラリアンなどのニュースは、引き続きFBで見られるようにしている。FBは自分の好きな超保守メデイアは、FBで提供し、都合の悪いメデイは排除したのだ。

この件は、2日後にFBが、「うかつにも操作上のミスでチャリテイーサイトや、人権保護サイトや、天気予報まで消してしまって、申し訳ありません。」と、アジアパシフィック地域担当サイモン ミルナー副社長が謝罪した。しかしこれで一件落着ではない。解決では決してない。FBの誰が、どんな、ミスを犯すと、ニュースや天気予報が見られなくなるのか、これだけの謝罪では、全くわからない。次に何が起こるのか予想できない。
世界で最も大きな私企業が、ちょいと指を動かしただけで、170万人のオージーが影響を受けたのだ。「えへ、、ごめんちゃ!」で済むことではない。

FBが好きなメデイアのニュースだけを流し、政府の公的なニュースを見られなくする。天気予報どころか、人権擁護やアボリジニ保健活動やチャリテイー活動のサイトまで削除して、人々がアクセスできないようにする。このように露骨にメデイアを操作するFBが、いかに保守的な立場に立っているかがわかる。今後も、このままFBからニュースを読むオーストラリアの170万人は、他社のニュースや論説を読む機会がなくなれば、保守化するし、FBが好む話題だけを取り入れ、FBの好きなものを買い、満足し、FBという企業の思うとおりに生きていきそうだ。FBは、マスメデイアに操作される人々を作っている。
金をもった民間企業が、メデイアを操作する、人々を操作する、ということが実際行われたのだ。今後、決してあってはならないことだ。

歌は加藤和彦作曲、作詞サトウハチローによる「悲しくてやりきれない」です。

2021年2月14日日曜日

加藤登紀子の「時には昔の話を」

I am singing 「My Story」by Kato Tokiko that is  requested by my life long old friend Muramatsu Kazuyuki.





加藤登紀子の「時には昔の話を」を古い友達、村松和行のリクエストの応えて歌ってみた。彼とは1968年、大学1年の時に会った。54年の歳月が経ったことになる。初めて会った時から他人のような気がせず、兄弟のように感じられたのは、育った環境が似ていて、子供の時からバイオリンを弾き、小説も書いていたからかも知れない。今度の芥川賞は、私が取るといったら、即座に俺が先に取って見せると言われた。何故か討論をしても行動していても、他の人から抜きんでていて目立ち、存在感があった。彼は高校の時から運動していて、佐世保で原子力潜水艦寄港阻止闘争から帰ってきたところだった。迷わず大学学費闘争、反ベトナム戦争の隊列を組んだが、常に一歩先を歩いていた彼は、権力に連れ去られ、長いこと獄中にあった。長期にわたる不当逮捕と拘留、無用な裁判で彼の貴重な20代の大半が失われた。その間の辛さは言葉に代えがたい。

互いに家庭をもち、私がフイリピンで暮らしていて、子供たちの父親で夫であった人を失い、暗闇の底辺で手探りしていた時、彼は手作りのバイオリンを送ってくれた。友達が作ったという、美しい低音のよく響くバイオリン。モーツアルトのバイオリンとヴィオラのためのコンチェルトの楽譜も入っていた。「オーケストラを雇って一緒に弾こうぜ」と。この人ならやりかねない、と思い、50人のフルオーケストラをバックに大きなホールで、二人でモーツアルトを演奏する姿を想像して、再び立ち上がる気力が出た。

数年に一度しか帰国して、やもめになった父を訪ねて行かない私に代わって、彼は父に花をよく送ったり、訪ねてくれた。父は居間に置いた小さな黒板に、彼の電話番号を書いていて、死ぬまで何かあったら電話で助けを呼ぶから、と頼りにした。父は、むかし早大政経で教務主任をしていたころ、早大全学闘委員長だった大口昭彦に退学を言い渡した。そのことでずっと胸を痛めていて、大口昭彦の友人だった彼と関りを持つことで贖罪したい気持ちもあったのだと思う。

この歌を作詞作曲した加藤登紀子も、その夫の藤本敏夫も、同じ時代を駆け抜けてきた。反帝全学連副委員長だった藤本の力強いアジテーションは有名だった。
昔のことを振り返ることには、失ってきたものが多くて痛みを伴いうが、54年間ものあいだ友人でいてくれた村松和行に心から感謝している。