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2020年10月19日月曜日

コロナ禍あれこれ


                        




歌は「ハレルヤ」(hallelujah)
この10月18日、ニュージーランドの総選挙で、保守国民党を破り労働党党首のジャシンダ アダーン40歳、が首相に再選されたことは喜ばしい。
世界で一番早くに国境閉鎖を敢行、コロナによる死者を世界一少数に抑えた実績や、積極的な福祉政策、税金対策などを打ち出したことが評価された。またモスリムが超右派テロリストに襲われたときに、即時にその武器となった自動小銃、セミオートマチックガンの所持を禁止した行動力は高く評価された。首相になってから出産を経験し、授乳のためにパートナーと議会に出るなど、若い女性として首相の任を自然体でこなす姿も好ましく、国民から高い支持を得た。

世界でコロナによる死者、111万人、米国だけで21万人、感染者3千800万人、といった記録が日々更新されていく。ニュージーランドでは死者25人と低く抑えられたのは、政府によって早くから対策が練られた結果だろう。

彼女が3月19日にニュージーランドロックダウン、国境閉鎖が宣言されたときは驚いたが、その5日後にはオーストラリアも国境を閉鎖した。ニュージーランドという弟に先を越されて、悔しかったのかオーストラリアのスコット モリソン首相は海外からの入国禁止だけでなくオーストラリアの国民、永住者の外国への出国まで禁止した。出国禁止、国民封じ込めは他のどの国もやっていない、オーストラリアだけの緊急事態法による決定だった。

現在オーストラリア人のコロナによる死亡は、898人。そのうち、810人がビクトリア州民だ。また死者のほとんどが80歳以上の老人だったということも特徴といえる。一般に年寄りは冬に死ぬ。いま南半球は冬を脱したところだが、毎年インフルエンザで1万人くらいの死者が出るが、今年はインフルエンザは全く流行らなかった。インフルエンザよりも致死率が高いはずのコロナで、死者がこれほど抑えられた事、冬に老人の死亡がこれほど抑えられた事は驚異といえる。国民全体の「外出禁止、自宅学習、自宅勤務」の努力の結果と言えよう。若い人々と社会の犠牲の上で、年寄りの命は保護された、ということか。

子供が学校に行けず、若い人が職場に行けず、勤務先が倒産するのをただ家で見つめ、自宅から1キロ以内で食料の買い物を済ませ、エッセンシャルワーカー(ドクター、医療関係者、スーパーマーケット従業員、ガソリンスタンド、公共機関、清掃業者など)だけがマスクをして職場と家の間を往復する、レストラン、パブに行かず、映画も美術館もコンサートもあきらめる。そういった数か月の国民の努力の結果、コロナの死者は800人台に抑えられた。
私の職場、エイジケアでは施設への入所も外出も禁止、面会禁止となり、週末は時々家に帰っていた人は、それができなくなり、家族が面会に来てくれるのだけが楽しみだった人の楽しみも奪われた。そのために自分でトイレに行けた人が、排尿便失禁でおむつを当てるようになり、施設の居住者全員の痴呆が進んだ。特にアルツハイマー患者で暴力的になる人が増え、職員が殴られるなど事故が絶えない。公立病院でも、とくに救急室で、同じような暴力事故が増えている。そのような犠牲のもとで、コロナの死者が抑えられている。

オーストラリア国民の出国禁止は、まだ解かれていない。来年1月に、国境を開けるとモリスン首相は言ったが、2021年6月までは国境を開けても、来た人が着いて2週間は、指定されたホテルで隔離されるというのだから、それでも旅行に来る人がいるのだろうか。実質は2021年7月から海外からの旅行者を受け入れる予定、ということだろう。

海外旅行の話をするのは早すぎる。海外から帰ってこられないでいるオーージーが、29000人いる。国民の4分の1が外国生まれ、移民で形作られた国で、国際結婚でない人の方が珍しい。外国に親戚が居ない人など、一人として居ない。そんなオージーには州境も国境も同じくらいに容易く乗り越えられる存在だった。親の介護でロンドンに帰っていたがロックダウンで帰国できなくなり、半年間も肩身の狭い思いで親戚の間をたらい回しされている夫婦、出張で来ていたドバイで足止めされ数か月、会社からの予算を削られてホテルに滞在できず事務所の硬い床で寝泊まりするITエンジニア、新婚旅行中に帰れなくなって、やむなくぺルーの安いモテルで自炊しながら飛行機が飛ぶのを待っている新婚夫婦、ヨットで世界一周でしていた夫婦は南アフリカで足止めされて、モテルに転がり込んだらヨットを盗まれて、、、などなど悲しい話ばかり。ようやく政府が、29000人のオージーのために帰国便を飛ばす計画を立てているが、エアフィーが高額のことと、オーストラリアに着いても指定のホテルで2週間隔離されることには抵抗あるだろう。

国境が異常に高くなったうえに、州境まで厳しく閉鎖されたままだ。メルボルンがコロナの多発でビクトリア州境が閉鎖されているのは理解できるが、観光が主産業のクイーンズランド州とタスマニア州と西オーストラリア州が、他州からの越境を許していない。毎日のようにニューサウスウェルス州プレミアと、クイーンズランド州プレミアが黄色い声で喧嘩しているのをニュースで聞く羽目に陥っている。

シドニーでは、まだ公共交通機関や人込みでのマスク着用と、人と人との間隔を1,5メートル以上開けることは義務化されている。しかし図書館、映画館、レストラン、パブは人数制限されながらも、QRコードを登録すれば入場できるようになった。QRコードは、感染者が出たら連絡が入って感染を追跡できるようにするためだ。そんな登録をしてまで映画を見るか、外食をするか、選択に迷う。街に出て見渡すと、倒産した事務所、閉鎖したレストランの看板ばかり。壮絶な眺めだ。
失業者の増大、倒産、年金の過剰な引出しによる危機、貧困増大、子供たちの学習の遅れ、観劇、コンサート、音楽活動などの実質的な文化活動阻害による損失、などなど。問題が先送り、先送りされている。1年後、2年後の社会状況を見るのが怖いのは、私だけではないだろう。

2020年10月6日火曜日

映画「シカゴ7裁判」

原題:THETRIAL OF THE CHICAGO7
監督:アーロン ソーキン                 

キャスト
エデイ レッドメイン:民主党学生組織委員長、トム ハイデン
サッシャ バロンコーエン:ヒッピー、アビー ホフマン
ジョセフ ゴードンレビッド: 検察側訴人
マーク ライランス:公民権運動家弁護士、ウィリアム クンスラー
フランク ランジェラ:地方裁判所判事、ジュリアス ホフマン
ヤシャ アブダルマテイーン2世:ブラックパンサー、ボビーシール
マイケル キートン:ラムゼイ クラーク 司法長官
ジェレミー ストロング:ヒッピー、ジェリー ルービン 

1968年8月、イリノイ州シカゴで、大統領選挙を前にして民主党の全国大会が開かれることになっていた。その年の4月にはマルチン ルーサー キング牧師が、テネシーメンフィスで暗殺され、6月にはジョンF  ケネデイ大統領の後を継いで民主党選挙キャンペーン中だったロバートF ケネデイが、カルフォルニアで右翼によって殺されていた。また、ベトナム戦争が深刻化していて、沢山の若者が徴兵で駆り立てられ、ベトナムで命を落としていた。
民主党大会で数万人の支持者が全国から集まって来ることから、シカゴでは民主党学生組織は1万人規模の集会とベトナム戦争反対のデモを予定していた。またブラックパンサー党も集会を持ち、ヒッピーも1万人の集会と音楽祭を開催する予定でいた。それに対して、政府は1万5千人の完全武装の警官隊、1万人のナショナルガードを配備した。当日は、デモの衝突によって多数の負傷者が出るが、8人の活動家らが暴力扇動共謀罪で、起訴された。

初めはブラックパンサー党のボビー シールが加わり8人の被告だったが、ボビーは独自の弁護士を立てたことから、被告は7人となり、彼らのことは、「シカゴセブン」と呼ばれるようになった。「シカゴセブン」が、なぜ全米中で注目されるようになったかというと、
1)平和的なベトナム戦争反対のデモが一方的に、完全武装した警官隊とナショナルガードによって暴力の場となった。
2)逮捕、起訴された8人は、デモの前に一度もあって共謀したことがなく共通した運動形式も同じ信条も持っていない。
3)にもかかわらず、検察は彼ら8人が、暴動を共謀して起こした、として起訴した。
4)デモ隊のなかにFBI員を潜入させたり、ウルトラ右翼に扇動させた証言がある。
5)反ベトナム運動で初めて暴力扇動共謀罪が適用された。
などの理由による。

「シカゴセブン」は、民主党学生組織のトム ハイデン(エデイ レッドメイン)のグループと、国際派ヒッピーを自称するアビー ホフマン(サシャ、バロンコーエン)とジェリー ルビー(ジェレミー ストロング)の2人のグループと、ブラックパンサーのボビー シール(ヤシャ アブダルマテイーン2世)の3つのグループに分かれ、運動体の目的も全く異なり、3つの組織に共通する信条はなかった。裁判は2年に渡って審議されたが、ベンジャミン スポック、ノーム チョムスキー、ジュデイ コリンズ、ノーマン メイラーなどの知識人らが被告たちを擁護し、アピールを出すなど、裁判を支援した。裁判長、ジュリアス ホフマンは共和党支持の悪名高いタカ派で被告らの人権など考えもしない強硬なやり方で、裁判を進め、弁護士事務所を盗聴したり、陪審員を買収したり、裁判長自ら不正行為をした。

シカゴセブン事件当時、ジョンソン大統領は直接ラムゼイ クラーク司法長官に、デモを暴動化させてどんどん逮捕しろ、と指令を出していた。FBIを使って情報を集め、ウルトラ右翼に組織を混乱させるよう働きかけもしていた。様々なスキャンダルが明るみに出たが、裁判所は、ブラックパンサーのボビー シールに4年間の懲役刑を言い渡し、それに抗議したシカゴセブンには、懲役5年の実刑を言い渡される。

映画は、法廷でのやり取りが中心で、検察側と弁護側の喧々諤々が、スリルに満ちていて引きずり込まれる。2時間全然飽きない。この映画の中心になる人権活動家で弁護士のウィリアム クンスラー(マーク ライランス)と、トム ハイデン(エデイ レッドメイン)の活躍が目を引く。二人とも英国人だが二人とも、映画ではアメリカ風の発音でしゃべっている。おまけにマーク ライランスは典型的イギリス人紳士なのに映画では似合わない長髪だ。エデイ レッドメインはオックスフォード大学で、プリンス ウィリアムの学友だった。裕福な家庭出身で在学中、本格的な機材で自由に映画をいくらでも作らせてもらった、という幸運な人だ。東京生まれの役者が台本通りに大阪弁で役を演じるのを見たときに違和感を感じるのと同じように、映画が始まってすぐ、レッドメインが学生に向かって演説を始めた途端、やっぱりアメリカ人には違和感があるらしく、「変な発音ー!」と誰かが言う声が聞こえてきて、ちょっと笑った。

民主党学生組織のレッドメインと、ヒッピーのサッシャ バロンコーエンとは、ぶつかってばかり。意見の違いというよりもヒッピーの思想自体が認められないレッドメインが、論争中「文化革命なんて夢ばっかりみてるんじゃねえよ。」と叫ぶが、社会改革をまじめに取り組む側にとってはヒッピーは、つかみどころがない。法廷でもベトナム解放戦線の旗を法廷に持ち込んだり、二人して裁判官のローブを着て出廷、怒った裁判長にローブを取るように言われると、その下には警察官の制服を着ている、というように裁判そのものをちゃかすのは面白いが、裁判の進行妨害をすることに意味があるのかないのか。

映画の一番の盛り上がりは、司法長官ラムゼイ クラーク役のマイケル キートンが出廷がするところだろう。裁判長の独自判断により陪審員のいない法廷で、証言台の彼から、「ジョンソン大統領がデモを暴動化させるように仕向けた、」という発言が引き出されたとたんに巨大な渦のような拍手の音。被告らも傍聴人達も大喜び。しかしその事実は政府の機密に関わる、とされて裁判陪審員には伝えられないことがわかって、再び重苦しい空気に戻る。

またデモ隊が完全武装装備の警官隊に行く手を阻まれ、仕方なく方向を変えて別の方向に向かう。すると再び銃を構えた別の警官隊がデモ隊の向かう方向で待ち構えている。怒るデモ隊をなだめてまた別方向に行くと、さらに行く先を警官隊がふさいでいる。同じところをぐるぐる回るように強いられて、遂にやり場のない怒りで警官隊に突っ込んでいったデモ隊を、催涙ガスと警棒の乱打が待っている。このようなことが繰り返されて暴動を起こしたのは、学生達か、挑発したのは警官隊かが法廷で問われる。デモ隊のなかにFBIの職員や、ウルトラ右翼が巧妙に配置されていて、挑発した証拠も残っている。暴動を始めたのは警官隊の方ではなかったか。しかし、「突っ込め、やっちまえ」と言ったのは僕だ。とトム ハイデンは苦しんだ挙句、正直に言う。彼の良心の発露を貶めてはいけない。

忘れてならないことは、この事件のあった1968年当時、米国では徴兵制があったことだ。若者は義務としてベトナムに派遣された。進んでベトナムのジャングルに入り女子供を殺しに行ったわけではない。国の法律に逆らえば国賊として刑務所に入ることを意味した。そうした中での反ベトナム運動だった。米国で徴兵制度が廃止されたのは、ベトナム戦争後1973年だが、徴兵制度復活を主張する根強い保守派の要求があり、何度も検討されたあと徴兵復活案が議会で否決されたのは、2004年のことだ。

映画は被告たちが、5年の懲役を言い渡されたところで終わるが、実際はその2年後に上訴審で懲役刑は取り下げられた。民主党学生組織のトム ハイデンはカルフォルニア議会で上院、下院議員としてその後も活躍、女優で活動家のジェーン フォンダと結婚する。2016年に76歳でなくなったそうだ。ジェーン フォンダの方は、83歳でいまだ現役活動家、先日も、ブラック ライブマターのデモで逮捕された。すごい人だ。
国際派ヒッピーを自称していたアビー ホフマンは1989年に自殺、ジェリー ルビンは1994年に事故死したそうだ。

この映画は始めステイブス スピルバーグが監督し、パラマウントが制作する予定だった。スピルバーグは、レッドメインが演じた役をヒース レジャーに演じさせる予定だったが、ハリウッドの全米脚本組合のストが長引き、俳優組合にまでストが波及して映画が作れなくなり、ヒースも死んでしまって、それをNETFLIXが買い取ったという。
映画製作をしたNETFLIXは、前作メキシコのアルフォンソ キユアロンが「ROMAローマ」でアカデミー外国語映画賞を受賞させた。どうしても、今年はアカデミー賞作品賞をとりたいNETFLIXとしては、是非ともこの映画で作品賞を取りたいと意欲満々だ。アカデミー作品賞の候補にはなるだろう。
映画最後の場面は感動的だ。第1回目の上映が終わり、映画を見終えた人々が目を真っ赤にして泣き顔で出てきた理由が、映画を見てわかった。良い映画だ。見て損はない。


2020年10月5日月曜日

1968年とは何だったのか

           



映画「シカゴ7裁判」「THE TRIAL OF THE CHICAGO7」という映画を見た。1968年に米国民主党全国大会が開催されたとき、反ベトナム戦争を叫ぶ平和的なデモ隊に、完全武装した警官隊が襲い掛かり沢山の負傷者を出したが、7人の活動家が逮捕、起訴された事件を扱った映画だ。NETFLIX制作で、早くも2020年のアカデミー賞にノミネイトされると言われている。1968年という時代が自分にとってどんな時代だったのか、説明することなしにこの映画の映評が書けない。そこで日本の戦後史にとって1968年とは、どんな年だったのか、書いてみたい。

第二次世界大戦では戦没者310万人、当時の人口の4%が失われた。日本兵の死因のほとんどは餓死だった。1945年8月に日本軍は連合軍に対して無条件降伏して戦争は終結され、アメリカ進駐軍によって日本は占領、統治された。
1951年にサンフランシスコ講和条約と日米安全保障条約締結を条件に、占領軍は撤収、日本は再び独立国となった。日本という国は他国を侵略したこともなければ、侵略支配されたこともない平和国家だったわけでなく、中国、韓国、フィリピン、シンガポール、ビルマ、インドネシア、ニューギニア、ソロモン諸島など沢山の国を侵略した結果、敗戦を機に米国に7年間支配され再建した国なのだ。

その10年後の1969年、日米安全保障条約(安保条約)は、日米がより軍事的に協力し強化していくことを約束し10年間延長された。そしてそのまた10年後の1970年、アジアの平和のために日米協力して軍事同盟を共同して強化していく、として議会で決議され現在に至っている。その間、米軍は朝鮮戦争、ベトナム戦争、湾岸戦争、アフガニスタン侵攻、イラク侵攻、シリア内戦などはを引き起こしているが、日本は、沖縄基地を米軍に提供し、米軍の出撃基地となり、その一翼を担ってきた。安保条約と日米地位協定だけでなく、安倍政権は憲法解釈によって積極的に戦争に海外派兵できる体制を作り、特定秘密保護法、安全保障関連法、共謀罪法などで警察国家として日本の軍事力を強化してきた。日本は侵略し、侵略され、シリアなどの戦争に加担している血なまぐさい軍事国家なのであって、決して平和な国でも、和をもって礼節をわきまえた美しい国でもない。それを胸に刻みたい。

自分は、1949年戦後米国の占領下の日本に生まれたベビーブーマー。子供のころは、街角や電車でアコーデオンを抱え義足や義手をつけた傷痍軍人が軍歌を歌って小銭を求め、上野駅の地下には孤児や家のない家族が暮らしていた。大雨が降れば荒川や江戸川が氾濫してゼロメートル地帯に住む人々が、浸水した家の屋根の上で生活している姿を京成電車から見た。
小学校5年生のときに、1960年自民党の岸内閣によって国会に警官隊を導入してに安保条約が強行採決される、暴力内閣の様子をテレビで見る。国会を取り巻く警官隊、抗議のために集まった数十万人の市民、労働者、学生、このときの安保条約反対集会は、延べ6290か所。参加人数は延べ460万人に及んだ。国会を前にしたデモで、当時東大生だった樺美智子さんが圧死する。当時ブントで全国学生連盟(全学連)議長の唐牛健太郎は、警官隊の装甲車を占拠しその上で演説をしたあと先頭に立って国会に突入した。反対運動の高まりの中でアイゼンハワー米国大統領は来日を取りやめ、岸信介政権は退陣する。

1967年ベトナム戦争が本格化し、8月に新宿駅で立川基地に米軍ジェット機の燃料を輸送する列車が衝突事故を起こし、青梅街道ガードから100メートル四方が火の海となった。王子にはベトナム戦争野戦病院が建設され、王子と沖縄ではベトナムで死んだ兵士がつなぎ合わされ綺麗に処理されて本国に送られていった。
1968年、米軍のベトナム戦争介入はさらに本格化し激しい北爆が続いていた。1月、佐世保に米軍エンタプライズとミサイル巡洋艦が寄港することになり、佐世保港がベトナム戦争出撃基地となる。それを阻止するために、延べ5万6千人の市民が集結した。
私は大学に入ると同時に、自分の大学でなく明治大学を訪れる。上原敦男(よど号ハイジャック)、遠山美枝子(赤城山で殺害)、重信房子(服役中)が最初に学生会館で会って仲良くなった活動家だった。でも、一番私が共感し、影響を受けた活動家は味岡修(三上治)だった。彼はベトナムに飛んでアメリカ兵と戦うためにベトナムに志願兵として合流しようとしていた。反ベトナム戦争、70年安保阻止運動は空前の高まりをみせていた。

大叔父はリベラルな大内兵衛、叔父は宇佐美誠次郎、父は早稲田大学政経学部教授、しかし父は私がデモに行くのを許さなかった。サッサと家を出たが、そのころはどの大学も封鎖していたから泊るところに不便はなかった。1968年と69年に2回デモで逮捕されるが、未成年だったので起訴を免れた。警察署の留置所に入る経験をして良かったのは、普通に大学生となって生きてきたがそれが普通なのではなく、警察署の雑居房にいる人たち、売春婦たち、バーでもめ事を起こしたレズビアン、朝鮮人の密売人など今まであったことのなかった人々に会えたことだ。怪我をして房に放り込まれて痛みと怒りで一杯の自分が、そんな人たちから優しく看護された。母親より優しかった手のぬくもりが忘れられない。娑婆に出てみると、ブントは二つに割れていた。関西から塩見孝也議長が過激文書をもって上京し、赤軍ができていた。そっちにいっちゃだめだ。まちがいだ。レーニンの組織論に戻ろう、と叫んでいるうちに仲間は仲間でなくなっていた。
思い描いている理想社会が一致しない、意見が異なる、方針も戦略も違う。でもだからどうした。仲間じゃないのか。どうして殴り合う。アジトを襲い寝込みを襲い、拉致して閉じ込める。どうして死ぬまで殴るのか。組織が組織である以上、人間を捨てなければならないのか。

1968年がどんな年だったか。このころの騒然とした社会状況を説明するのは難しい。誰もが暴力的だった。国はより激しく暴力装置としての国家権力をむき出しにしていた。
このころに逮捕され長期拘留されていた友人たちを思うと、どうして自分ではなくて彼らだったのか、と胸が痛む。殺された仲間たち、自死した友達の顔がよみがえってきて胸がふさがれる。
日本を離れて34年になるが、状況は少しも良くなっていない。市場原理、新自由経済政策のおかげで国の公共機関であった資源、福祉、教育が私企業に売り渡され、貧富間の格差は広がる一方だ。経済効率主義は環境汚染を広げ、地球温暖化を促進させる。日本の軍事予算は大きくなる一方で、安保条約は軍事同盟として強化されてきた。
米国は世界中に米軍基地を持ち、世界一の技術で通信網を維持し数々の戦争をしてきた。ソマリア戦争、イラン侵攻、アフガニスタン占領、シリア内戦、リビア内戦、イラン核兵器の虚言と経済封鎖、ウクライナ転覆、イエメン戦争、パレスチナ占領の容認、などなど、これらのすべてに日本は加担してきた。
私企業である軍需産業が国を支えているから、供給を満たすために需要、すなわち戦争をやめることができない。中国が国力を増し、かつての米ソ以上の米中対立は深刻な勢力争いになる。日本はそれを止めることはできない。1968年は一つの大きな通過点だった。今になってそう思う。