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2019年9月29日日曜日

映画「アド アストラ」


地球はソーラーシステム(太陽系)の惑星の一つで、太陽の重力に支配されて太陽の周りを24時間で1回転しながら公転している。地球のほかには、マーキュリー(水星)、ヴィナス(金星)、マーズ(火星)、ジュピター(木星)、サターン(土星)、ウラヌス(天王星)、ネプチューン(海王星)の7つの惑星が、ほぼ同じ平面状で、円形に近い円軌道にのって太陽の周りを公転している。学校の科学の時間に、太陽から近い順に、水、金、地、火、木、土、天、海、瞑、(スイキンチカモクドテンカイメイ)と記憶させられたが、最後のプルート(冥王星)は、サイズも質量もほかの惑星とは異なることが分かって、2006年に国際天文学連合会で、惑星の分類から外された。プルートは、アメリカで人気漫画の主人公の犬の名前になっているし、根強い人気のある惑星だったので、ソーラーシステムのプラネットの仲間ではなくなったことで随分と論争が続いた。
ウラヌス(天王星)も)、ネプチューン(海王星)も、氷でできた惑星だ。サターン(土星)には大きな輪が付いていて、輪の厚さは150メートル、小さなチリや岩石の混じった氷の粒子からできている。月は、地球のまわりを回る、唯一の衛星で、地球の3分の1の大きさだ。

この映画の時代背景は「近未来」。宇宙飛行士ブラッド ピットが月から火星へ、そして木星、土星を通り過ぎて、父を探して海王星まで旅行する。浮遊感のある宇宙で、音のない空間に浮かんでいる惑星の姿が、それぞれとても美しい。赤い火星、輪のある土星、青い海王星がことさら美しく感動的だ。

原題:「AD ASTRA」(TO THE STAR)
監督:ジェームス グレイ
キャスト
ブラッド ピット  :ロイ マクブライド少佐
トミーリージョーンズ:マクブライド司令官
ドナルド サザランド:ブルイット大佐
ルス ネッガ    :ヘレン ラントス
リブ テイラー   :エバ マクブライド

ストーリーは
30年前、マクブライト司令官はクルーを率いて宇宙に生命体を探索に出たまま帰らなかった。16年前に彼らが海王星に到着したことまではわかっているが、その後消息が絶えてしまった。リマ計画とよばれるこのプロジェクトは、何かの事故で宇宙船乗務員は全員死亡したものと判断され、マクブライト司令官は国民的ヒーローとして尊敬され人々に記憶された。当時幼かった息子のロイは、父親のあとを追って自分も宇宙飛行士になった。

ある日、ロイが宇宙基地で訓練中、突然原因不明の電流(セージ)が襲い犠牲者が多数出たが、ロイは九死に一生を得る。怪我が癒えたころロイは、米軍本部に召還され、大佐から意外な命令を受ける。リマ計画の責任者だった父親は、16年前に姿を消し死亡したものと思われていたが、海王星で生きているらしい。突然地球を襲った殺人的セージは、海王星に居る父親が意図的に地球に送信しているらしい。それは宇宙に残っていた反物質(anti matter)のパワーを利用したもので、このエネルギーは途方もない破壊力をもち、制御不能な連鎖反応は、ソーラーシステムを全部破壊する恐れがある。ロイは火星まで行って、父親とコンタクトを取って欲しい、という命令だった。米軍首脳部は、マクブライト司令官が意図的に反物質を使って地球を攻撃していると考え、ロイを火星に派遣して父親をおびき出して殺して、彼のもくろみを破壊しようと考えていた。ロイは、亡くなったと思い込んでいた父親が生きていると言われて、半信半疑で命令されるまま父親探しに宇宙船、ケフェウス号に乗る。

ロイはかつての父親の親友だったというブルイット大佐とともに月の宇宙基地に行くが、月の資源を奪おうとする盗賊団に襲われてクルーのほとんどを殺される。ブルイット大佐も怪我をして一緒に火星まで行けなくなった。ロイは一人で火星に到着、軍に命令されるまま父のいる基地と交信し、軍に与えられたメッセージを読んだ。毎日それを繰り返されて、ロイは、とうとう自分が父親に向かって話しかけていると思うと、感情が勝って子供だった自分が父親にしてもらった思い出などを語り掛けることを止められなかった。それがもとでロイは軍の任務から解任される。ロイは基地の中でヘレンと言う娘に出会って、父親が写っている秘密のヴィデオをみせてもらう。彼女は父親が司令官だった隊員を両親のもった、火星生まれの女性だった。彼女の助けを借りて海王星に向かうケフェウス号に忍び込むが、船内でロイを排除しようとする3人のクルーを揉み合いになって、3人は死んでしまう。ロイは一人で海王星に行く。

海王星でロイを待っていたのは父親ただ一人だった。クルーは、司令官と意見の違いから反乱をおこして全員死亡していた。この争いのために損傷をうけた基地に反物質装置が発動して、地球にサージを引き起こしたのだった。宇宙に生命体は居ないことがわかった。ロイは父親を説得し宇宙服を着せて、海王星基地を脱出し、ケフェウス号に乗船しようとする。しかし父親は自ら命綱を絶ち宇宙空間に去っていく。
というおはなし。

ストーリーはメロドラマ。浪花節っぽい。息子が父の汚名を晴らそうと、父親探しの旅に出て一緒に帰ろうとするが、それがかなわない。哀しい息子の、父を慕う気持ちと、立派になった息子を見て、もう思い残すことはないと自ら去っていく父親。
ブラピが万感の思いで、口を閉ざしうつむく父に宇宙服を着せるシーンには泣ける。ブラピファンはここで号泣する。お父さん、あなたを尊敬していました。お父さんに誇ってもらいたくて今まで頑張ってきました。そう訴える息子の悲しみに満ちた目。ピットの感情を極力抑えた哀しい顔って、世界一哀しい顔だ。

それにしてもストーリーが、つっこみどころ満載。
宇宙船が損傷をうけたために反物質が発動して、海王星発、地球行きの、太陽系をまるごと破壊するほどのセージが襲う、それで人類全滅って、ちょっと無理な科学論理かもしれない。また最後にロイは、空気の無い宇宙なのに、宇宙に浮かんでいるケフェウス号で搭載していた原子爆弾の爆発波で、海王星から地球まで帰って来るって、いうのもちょっと無理っぽい。また、16年間たった一人で海王星で壊れた宇宙船で生き残っていた父親は、何を飲んで何を食べていたのだろうか。帰り、ロイは海王星から直接地球に帰って来たのに、行きは月に途中下車してクルー全員盗賊団に襲われて死んだりしたのは、まったく無駄な寄り道だったのか。月で襲った盗賊団はクルーを殺しただけで何も奪うものなど無かったうえ、自分達も全滅したが、それもただの無駄死になのか。なにか意味があったのか。また月に行く宇宙船で、殺人ゴリラが、飛行士の柔らかい体でなく宇宙服の強力なヘルメットを食い破り、顔を攻撃して殺しているがそこに意味があったのか。また殺人ゴリラ2頭は、なにを食べて宇宙船の中で生き残っていたのだろうか。それにしても殺人ゴリラの登場は、「エイリアン」の怖さに比べたら、全然まったく怖くなかった。

それと後ろ姿と横顔しか画面に出てこないロイの妻は、映画の初めのシーンで鍵を置いて出ていくところで始まって、映画の最後で戻って来るが、どうして? 別れようとしたり、もどってきたり、もうどっちでもいいからはっきりしなさい。
総じて、ストーリーに筋が通っていなくて、子供っぽくで、宇宙科学の知識に乏しい。役者は良い役者を使っている。しかし、84歳のドナルドサザランド、73歳のトミーリー、55歳のブラッド ピット、この映画の主役3人の平均年齢が70歳って、どうなんだろう。映画界は本気で若い優秀な役者を育てようとしていないのではないか。困ったことだ。

宇宙の画像は、「ゼロ グラビテイー」(2013)よりも、CGやモーションピクチャーの技術が進んでいるから、ずっと良い。でも同じように命綱で結びあってるブラピの鎖を自ら外して宇宙の藻屑として消えていくトミーリーよりも、「ゼロ グラフィテイ」で同じようにサンドラ ブロックの命綱を自ら切って、宇宙の闇に消えていったジョージ クルーニーを見る方が、はるかに悲しい。
この映画を「宇宙の旅」(2001)と「アポロ13号」(1995)と「インターステラ―」を足して割ったような映画だという人が居たが、私の目には、この映画は、人情っぽい中村宙哉の漫画「宇宙兄弟」と、ひとりきり宇宙で危機に立ち向かうサンドラ ブロックの名作「ゼロ グラビテイー」に限りなく近い。漫画「宇宙兄弟」も今や佳境に入って、太陽の異常フレアで、月に取り残されたNASAのムっちゃんを、ロシアクルーの弟ヒビトが救えるか、救えないのか、、、とても大事なところで、とてもわくわくして次作を待っているところだ。

空は無限に高い。宇宙は広くて大きい。宇宙の写真や画面を眺めるのが大好きな人、宇宙遊泳をしてみたい人は、この映画見逃してはいけない。月から眺めるブルーマーブル(地球)の美しさ。赤い火星、輪のある土星、巨大な木星。音の無い世界で確かに浮かんでいる蒼い海王星の美しさは、言葉に変えられない。美しい惑星の横で宇宙を浮遊するを飛行士の姿を映す映像で、ベートーベンの「月光」が静かに奏でられている。感動的だ。

2019年9月9日月曜日

映画「ワンス アポンアタイム イン ハリウッド」

ONCE UPON A TIME IN HOLLYWOOD
監督:クエン タランティーノ
キャスト
レイナルド デカプリオ:リック ダルトン
ブラッド ピット   :クリフ ブース
マーゴ ロビー     :シャロン テイト
デイモン ヘリマン   :チャールズ マンソン
アル パチーノ   :マービン シュワーズ
ストーリーは
1969年 ハリウッド。
リック ダルトンはアクションヒーローもので売れっ子のテレビ番組の俳優だ。テレビの仕事がマンネリ化してきて、映画界で活躍したいと思っている。ヒーロー役ばかり演じて来たが、実はクソ真面目で、繊細で、泣き上戸。演技が上手くいかなかったと思い込んで落ち込んだり、台詞が上手く覚えられなくて自信を失ったり、不安神経病ともいうべき性格で喜怒哀楽が激しい。仲間と一緒にいると豪胆だが、一人きりになると頼りない。落ち込んで8歳の子役に肩を抱かれてなぐさめられて、やっと立ち直れたりする愛すべきキャラだ。有名俳優の邸宅が立ち並ぶ高級住宅地ベルエアの高台に住んでいるその隣には、ロマン ポランスキ監督と女優のシャロン テイトが住んでいる。リックのスタントマン兼、運転手のクリフは唯一無二の親友だ。

クリフは9年間余り、リックのためにスタントマン、運転手、ガードマン、付き人として働いてきたが、リックと反対に感情を表に表さないクールな男だ。スタントマンとして撮影ごとに移動できるようにトラクターで生活している。いっこう家を買って定住したり、結婚するわけでなく、人気役者になりたいわけでなく、愛犬のピットブルと一緒に気楽な生活をしている。もっぱら腕力が強く、関係者の間では、妻を殺したことのある男として、ちょっと有名だ。体に自信があるから怖いものなし、失うものもないので不安も不満も持たない。リックとの友情に篤く、クールな男の中の男だ。リックとクリフは二人、泣き笑いを共にして夫婦や兄弟よりも強い絆でつながれていた。

ある日、クリフは待ち時間に、ブルース リーと口争いをしたすえ格闘技で喧嘩する結果になってしまって、スタントマンの仕事を会社から解雇される。そんなクリフは、リックを撮影所に車でドロップしたあと、ヒッチハイクしていたヒッピーの少女を拾う。彼女はジョージと言う名の男が主催するコミューンに住んでいるという。ジョージはむかしクリフと一緒にスタントマンをやっていた仲間だった。しばらく顔を見なかったが、昔使われて、廃墟になった撮影場所に住み着いて、家出少女を集めてコミューンを作ったらしい。会いに行くとジョージはすでに盲目になっていて、クリフのことを覚えても居なかった。

6か月経った。リックはイタリア人監督の強い勧めで、ヨーロッパに渡りマカロニウェスタンのヒーローとして映画に出演し、そこそこに成功して、ハリウッドに帰って来た。共演したイタリア女優フランチェスカと結婚していた。クリフに空港で迎えられ、家に戻ったリックは、クリフに苦しい心の内を打ち明ける。イタリア映画界で作ったお金で結婚生活を続けることはできると思うが、ハリウッドの一等地で今まで所有してきた家を維持するほどの力はない。まして昔の様に、クリフをスタントマン兼、運転手として給与を払っていくことができない。9年間の二人の友情と結びつきが、役者として落ち目になってきたリックには限界に達していた。そこで二人の男達は、お別れに、昔からよくやっていたように飲み明かそうということで一致した。1969年8月9日のことだった。

二人はレストラン食事をしたあとリックの家に戻り、飲み直す。武装した3人の男女が家に押し入った時、リックはプールに浮かんで飲みながら、イヤホンで音楽を聴いていた。クリスは犬の散歩から帰ったところで、昔ヒッピーからもらったマリファナを吸っていて、物が二重に見える状態だった。クリスに向かって、男が銃を構え、2人の女たちがナイフを持って飛び掛かって来る。彼らは、カルトの主、ジョージから、昔テリー メジャーが住んでいた家に行き、家にいる住人をすべて殺してくるように命令されていた。クリスとピットブルは、強盗達に立ち向かい、男と女ひとりを始末するが、クリスは重傷を負い倒れる。一人の女は何も知らずにプールで浮かんでいるリックをアタックした。リックはとっさの判断で映画で使ったことのある火炎放射器で狂った女を始末する。救急車と警察が到着し、怪我をしたクリフを病院に搬送する。

警察も救急車もすべて立ち去った後、となりの家からポランスキーの友人、ジェイ セバングが出て来て、リックになにが起こったのか問う。リックの家に強盗が入ったことを知って、シャロンはリックを自分に家に誘い入れる。シャロンと、その友人夫婦とリックの5人がにこやかに、ポランスキー邸に入る後ろ姿で、映画が終わる。1969年8月9日深夜のことだった。
というストーリー。

人々はこの日、シャロン テートの家で彼女を含む5人が惨殺されたことを知っている。それを前提として映画が作られている。

クエン タランテイーノの9作目の監督作。彼自身の思い出と郷愁のつまったハリウッド物語だ。1969年、彼は、ロスアンデルスに住む6歳の子供だった。映画好きな母親に連れられて映画を子守唄代わりに育てられたそうだ。1969年あの時代が再現されている。60年代の車、大型のキャデラックやフォードやムスタングが走り、映画館には制服を着た売り子と、正装した支配人がちゃんと居る。ハリウッドの撮影所も規模は大きいが、すべて手造りで劇場を大きくしたようなものだ。スターたちが使うトレーラーも、キャンピングカー程度の出来だ。スターたちのあこがれの坂上の高級住宅 ベルエアの邸宅も今アメリカ映画に出てくる豪邸とは比べ物にならない、普通の家よりちょっと大きめ、という感じだ。当時からセレブが集まったプレイボーイハウスも、それほど派手ではない。すべてが60年代のアメリカの姿で、リバイバルされている。この時代のハリウッドを知っている人にとっては涙ものだろう。

この映画は言うまでもなく1969年8月9日深夜に起きたシャロン テート事件を核にしている。この事件はあまりにもおぞましく、この50年間人々は誰も口にしたがらなかった。思い出したくもなかった。でもこのとき6歳だったタランテイーノにとっては、ハリウッドで生活してきて彼なりの解釈とおさらいをしておきたかったのだろう。彼はシャロンについて取材し、誰に聞いてもシャロンのことを悪く言う人は一人として見当たらなかった、と言う。文字通り天使のような女性だったシャロンが、監督と結婚して妊娠して人生のもっとも美しい喜びに満ちた日々を送っている姿に、新たに命を吹き込みたかったのだろう。
現実では当時、ポランスキーは仕事で海外に居た。シャロンは3人の友人と、通りすがりだった男の5人が一緒に、チャールズマンソンを盲信するカルト信者の3人の男女によって惨殺された。当時26歳で妊娠8か月だったシャロンはナイフで16か所刺されシャンデリアからつるされ、血でPIGと書かれた床には、生まれることのなかった男の胎児が落下してる姿で発見された。

チャールズ マンソンは音楽家だった時もあり、自作の曲を何度もメジャーデビューさせようとテリー メルジャーに頼み込んでいたが、成功しなかったことで、テリーを恨んでいた。テリーが以前、住んでいたのが、ポランスキーとシャロン テートが移り住んできた家だった。犯行の動機はそれ以外には考えられない。マンソンはまともな教育を受けおらず、子供の時から犯罪行為で警察と矯正施設を行き来していたが、自作の曲、数曲はレコーデイングされていて、ビーチボーイズやほかの音楽家との交流もあった。家出少女やヒッピーを集めてコミューンを作り、LSDで信者を洗脳し、聖書を自分流に作り直しカルトを作り出した。1969年の無差別殺害を首謀したことで収監され、2017年に83歳で獄死した。
シャロン テート事件はあまりに凄惨な事件で、LSDと、ベトナム進駐で汚染されていたアメリカの姿を映し出した。歴史を変えることはできないが、タランテイーノはハリウッドを愛する者として1969年を描き直したかったのだろう。

さすがにレオナルド デカプリオとブラッド ピット2大スターの息がぴったり合って居る。演じているリックとクリフと、本人たちの性格がかぎりなく本物に近いそうだ。レオナルドのくそまじめで、喜怒哀楽が激しいところと、ブラピのクールなところがそのまま映画でも表現されている。リックが、映画で何度も「おまえ俺の親友だろう?」と、確認するように言うたびに、クリフが、鷹揚に「I WILL TRY。」と答えるところなど、二人の性格の違いががよく表れている。インタビューで、「二人は本当に実生活でも親友なの?」と聞かれて、レオナルドが、生真面目に言葉を選んで言葉に詰まっているところを、ブラピが、即座に「撮影中8か月も一緒だったんだぜ。トイレもシャワーも食堂も8か月間、一緒に使ってたんだから、当然でしょ。」と答えていた。こんな自然なやりとりも映画のようで興味深い。

リックはテレビシリーズでいつもヒーローだが、映画界で成功したい。にも拘らず監督が持ってくるのは、マカロニウェスタンの悪役だ。すっかり落ち込んで泣き顔のリックを家までクリフが送る。その二人の目の前で、ポランスキーとシャロンが幸せそうにスポーツカーで去っていく。途端にリックが「おい、見たか?ポランスキとシャロンだぜ。おい、おい、本物だぜ」と、高校生のようにはしゃぎだして元気になるリック。落ち込んだ親友の慰め役だったクリフが、すっかり鬱から回復したリックを見て「やれやれ」と、リックの肩をたたいて別れるシーンなど、笑わせてくれる。

リックが西部劇でメキシコ国境の酒場での撮影中、台詞を忘れるところもおかしい。リックが、トチっても全く表情を変えずにいるカウボーイを前に、忘れた台詞が出てくるまで大汗かいてシーンのやり直しを繰り返す。こういうデカプリオの一生懸命なとき、役者魂が乗り移ったような 凄みのある演技をする。良い役者だ。
クリフは、リックの頼みで屋根に上って、裸になってテレビアンテナを直すシーンがある。50代になっても贅肉ひとつついていない、引き締まった青年のような体が美しい。また、格闘技のすばやい身のこなしも素晴らしい。背も体格もデカプリオの方が大きいが、ブラピのアクションのキレは、日々の厳しい鍛錬の結果だろう。立派な役者だと思う。

シャロン役のマーゴ ロビーがフォックススタジオの映画館で自分がデイーン マーチンを共演した「THE WRECKING CREW」(サイレンサー第4破壊部隊)19868が上映されているのを見て受付嬢に「私この映画に出てるのよ。」と思わず嬉しくて言うシーンがある。映画のためにポスターの前でポーズをとったり、上映中人々がおかしくて笑うところで、その反応を喜んだり、上映が終わってルンルン気分でアニストンを運転して帰る姿など愛らしい。タランテイーノ曰く、「天使のような子」が、光り輝いている。「ミスターロビンソン」の音楽に合わせて膝上20センチのミニスカート、ブーツ姿で歩く様子も生きている喜びに溢れている。このシーンのモチーフは、タランテイーノ自身がこんなふうに、自分が脚本を書いた映画を上映している館を見て、思わず案内嬢に「この映画の脚本は僕が書いたんだ。」と気が付いたら言っていた、という経験かたきている。自分がつくったものが、世に出て自分の手から離れて、人々を楽しませていることを知って嬉しい。そんな気持ちがわかる。

テレビは長い事アメリカでも日本でも、メジャーエンタテイメントだった。人々は仕事から家に帰ると食事をして家族そろって連続ドラマや、古い映画を観たものだった。この映画でも何人もの人に、日曜は、「FBI]と、「ボナンザ」を見る予定、と言わせている。自分も「ボナンザ」が好きだった。「ローハイド」、「ララ三―牧場」、「ルート66」、「サーフサイド6」、「シュガーフット」、「パパは何でも知っている」、「ベン ケーシー」、「キルデイァ先生」なんかもあった。

さて1969年は良い時代だっただろうか。自分はベトナム反戦のデモで逮捕されたのが、前年の1968年。大学1年で未成年だった。逮捕されたらしい、と家に赤電話に10円を入れて父に伝えたのは、明治で救対をやっていた重信房子と遠山三枝子だった。女もののジーンズなど無かった時代。二人ともスラックスというものを履いていて、限りなくダサかった。赤いヘルメットなど被ってアメリカ大使館に石を投げるよりは、三上治の考えていたベトナム義勇兵としてベトナムに飛んで、米軍と戦うことが本当のサヨクなのではないかと思っていた。沢山の大切な友人が拘留され、沢山の友人が自殺したり殺されたりした。良い時代ではなかったし、それに伴う胸の痛みを一生抱えていくしかない。

タランテイーノは自分なりの1969年を描いた。しかし現実は1969年には、深刻なベトナム戦争による弊害で、アメリカ社会は潰れそうだった。まだPTSD(戦争後遺症)といった概念はなかった。それにまだアメリカには徴兵制があった。血を見たこともなかったような子供みたいに純真な若い人々が徴兵でベトナムに送られ、ベトナムの女子供を殺すように教育されたのだ。LSDなどのドラッグが、あっという間に蔓延するのは当然だった。おかげで今では銃も、ドラッグも自由に手に入る。1969年が良い時代だったかどうか、答えはひとつではない。

現実の話ではない。だから楽しい映画だ。

2019年9月1日日曜日

新海誠の「天気の子」

アニメーション映画「天気の子」
英語題名:「WEATHERING WITH  YOU」
作:新海誠
音楽:野田洋次郎 RADWIMPS
登場人物
森嶋帆高:16歳 高校一年生
天野陽菜:15歳 中学生
天野凪 :小学生 陽菜の弟
須賀圭介:ミニコミ雑誌所有者
須賀夏美:圭介の姪 雑誌社の雇用員
ストーリーは
16歳の帆高は、住んでいた伊豆諸島神津島での生活と学校から逃れて、家出して東京に出てくる。上京するときの船で、須賀という男と知り合い、困ったことがあったら訪ねて来るようにと名刺を渡される。帆高は新宿に来てみたものの、身分証明書なしでは仕事が見つからず、ネットカフェで暮らすうち、マクドナルドでバイトをしている少女にハンバーガーをご馳走してもらう。しかし、仕事は見つからず所持金に事欠いた帆高は、ネットカフェにも居られなくなって、名刺を頼りに須賀を訪ねる。須賀は姪の夏美と二人で、街のjミニコミ情報誌を作っていた。訪ねて来た帆高に、須賀は事務所に住んで編集を手伝うように言う。見よう見まねで編集を手伝ううち、ある日、帆高は、マクドナルドでハンバーガーを出してくれた少女が、人相に良くない男達に囲まれているところに出くわし、とっさの機転で少女の腕を掴んで男達から引き離して逃げる。少女は陽菜と名乗り、母親を亡くしたあと小学生の弟、凪と二人で暮らしていた。

2021年の夏は、毎日が雨だった。帆高は陽菜が一時的に天気を晴れにすることができる特殊な能力があることを知る。陽菜は亡くなった母親が病院に居たとき、雨ばかりで気が沈むので母のために雨が止むように祈りながら、ある古いビルの屋上の神社の鳥居をくぐった。それ以来、陽菜が強く願うと空が晴れてくるのだった。
帆高はこの陽菜の特殊能力を、ウェブサイトで宣伝して生活の糧にする計画を考え付いた。毎日雨ばかりで困っていた人達は、このウェブサイトの「晴れ女」を見て、自分たちの特別の日を晴れにしてもらう依頼をするようになり、二人で始めた「晴れ女「のビジネスは順調に稼働するようになった。

しかし以前に、帆高が人相の悪い男達から陽菜を救い出した時、男達が持っていた拳銃の引き金を引いてしまったことが警察に知られ、刑事たちが須賀の事務所を訪れる。帆高は身元が分かってしまうと、家出してきた実家に引き戻されてしまう。また陽菜は未成年で小学生と二人で住んでいることが警察に知られると、姉弟が引き離されて施設に引き取られることになる。帆高と陽菜は凪を連れて逃亡して、3人はホテルに泊まる。ホテルで自動販売機の食べ物や、カラオケで楽しんだ後、陽菜は帆高に、自分の体がだんだん透明になってきたことを告げる。須賀夏美が「晴れ女」について取材して得た知識では、「晴れ女」について哀しい言い伝えがあり、空を晴れにするたびに晴れ女は人柱として体を空に奪われていくのだと聞かされていた。陽菜の懸念どおり、翌朝目が覚めてみると、帆高の横に眠っていたはずの陽菜の姿は消えていた。

陽菜が人柱になったことで、長雨がずっと続いていた東京は、嘘のように晴れ上がっていた。人々は太陽の光を見上げて喜んでいた。しかし帆高はこの晴れが、陽菜の犠牲によって起きたことを知って、警察の追跡を振り切りながら、陽菜がくぐったというビルの屋上の鳥居に向かう。夏美のバイクに助けられ、刑事たちの行く先を妨害する須賀に助けられながら、帆高は懸命に走り、屋上の鳥居をくぐる。一瞬の間に帆高は空に舞い上がり、雲の上にいた陽菜を見つけて救い出す。二人は一緒に地上に落ちて来て、再び東京は雨になる。やがて東京の低地地帯は水没し、人が住めなくなる。

雨は3年間止むことなく降り続き、警察の手にかかった帆高は、実家に帰されて学校に戻る。帆高は3年後、大学進学のために上京し、陽菜と再会する。
というおはなし。

英語字幕つきで街の映画館で観た。日本の映画がこのように、シドニーの街の映画館で上映されるのは、年に1本くらいだろう。だいたい英語圏に住む国民は字幕付きの外国映画を、どんな名画であっても面倒がって見ない。観客が入らないから上映しない。上映しないから外国文化への興味が薄い。とても残念なことだ。日本に居たときは、子供の時から字幕付きのロシア映画、フランス映画、イタリア映画などを見て来た自分にとって、ヨーロッパの国々の重厚な文化的な映画を観ることが出来なくなって悲しい。人が教養を積む、人が外国語を身に着けるということは、その国の文化を理解し、その国の芸術に触れ、その国の空気を吸うことだ。少しでもたくさんの国の芸術作品に身近に触れることが教育というものなのに。もっとオーストラリアでも、外国語映画を街で上映して欲しい。

昨年は、「万引家族」がカンヌ国際映画祭でパルムドールを賞与されたので、街の映画館で見ることができた。今年は韓国の映画「パラサイト」(寄生虫)が同じくカンヌ映画祭でパルムドールを受賞したので、シドニーでも一般映画館で上映した。日本の「万引き家族」も、韓国の「パラサイト」も同じようにエグい作品だった。気持ちが悪い。人をあざむき、ごまかし、うらやみ、うらぎり、盗む。そうしながら自分の家族だけは強く結び合って愛し合っている、と言われても、私は信じない。他人をだましながら自分の子だけは可愛がる、ということができるほど、人は器用に出来ていない。自分の子を愛することは、他人の子も、世界の子供も愛すると言うことだ。韓国映画「パラサイト」も家族同士の結びつきが強く、貧しい自分の家族のために裕福な家族を滅亡させる話で、「万引き家族」よりも強烈な血の海を見せられて、嫌になった。どうしてこの2作がパルムドール賞受賞したのか理解できない。「万引き家族」の監督の初期の作品は良かった。「そして父になる」など、泣きすぎて溺れそうになる。「パラサイト」の主役も、「タクシードライバー」を主演した素晴らしい役者。日韓ともに、年に1本くらいしか一般の映画館で上映しないのに、こんな作品しか上映しないなんて、、。

それはともかく、新海誠だ。
新海誠の作品で一番好きなのは、「言の葉の庭」だ。これほど美しい自然描写のあるアニメーションを未だに他に観たことがない。
メガヒットになった「君の名は」では、彗星が落ちて来て一つの街が丸ごと消え去るが、神社の巫女の娘が街の人の命を救う。その娘、宮永三葉と、身体が時々入れ替わる少年、立花瀧も不思議なお神酒の力で蘇る。今回の「天気の子」では、人柱だ。何世紀前の話だ?神社の鳥居、お盆の迎え火、夏祭りの花火、昔は海だったという東京の下町、などなどノスタルジックだ。むかしむかし、あるところで、という日本のお伽噺が、現代っ子の少年少女を使って語られる。

ストーリーは前回の作品より単純だが、終わり方は同じ。昔、出会った少年と少女が数年後に再会できるほど、東京は狭くないと思うが、それでもハッピーエンドになると安心して、幸せな気持ちになる。登場人物が5人。それぞれ魅力的に描かれている。妻を病気で失い、妻の親に自分の娘を育ててもらっている須賀の生活力の無さ、頼りなさとその幼児性ゆえに、妙に家出少年帆高の理解者であるところや、帆高が懸命に走る姿に加勢するために、思わず警官に掴みかかっていくところなど、情にもろい、良い人に描かれている。夏美もなかなか就職できない女子大生だが、家出少年の力になってやることのできる良い人だ。
陽菜の弟、凪が小学生だが高校生の帆高よりも女性心理に詳しく、帆高から「先輩」と呼ばれている。凪は女性扱いを、よく心得ている素敵な子だ。幼くしてシングルマザーに育てられてきて、その母親に病気で死なれたのだ。思いやりがあり、細かい心使いに長けている、とても魅力的な子供だ。総じて、誰も悪い人が出てこない映画だ。
ただこの映画「言の葉の庭」に比べて、あまり共鳴できないのは。陽菜がどうして晴れ女になったのか、充分描かれていないからかもしれない。病気の母親のために空が晴れて欲しかった、という点がもっとストーリーに強調されないと、運動会や、初盆や結婚式のために晴れ女になって、ジャンジャンお金を稼いでいるうちに、身体が透明になって姿が無くなっていくことが、哀しく思えない。人柱は悲しい話じゃないのか。

しかしさすがに新海誠だ。画面が美しい。この人の絵は5感を満足させる。雨が降り始め、水たまりが出来、しずくが窓を伝い、木々が息を吹き返し、水滴で重くなった花が頭をたれ、草草がうずくまる。
雨を視覚でとらえ、音で雨の強弱を感じ、雨の匂いが立ちのぼり、木々に落ちる水滴が味わえ、雨を全身で実感することができる。とても確かな筆力だ。「言の葉の庭」は短編だが、「君の名は」より「天気の子」より、100倍美しかった。ストーリーも、音楽も、自然描写も、細かい筆使いも、高度だったと思う。作者が有名になる前の初期の作品って、どうしてこんなに良かったんだろう。