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2019年8月4日日曜日

映画「ホワイトクロウ:伝説のダンサー」

原題:WHITE CROW
英国映画
監督:レイフ ファインズ           
キャスト
オレグ イヴェンコ: ルドルフ ヌレエフ
レイフ ファインズ: アレクサンドル プーシキン
セルゲイ ポレーニン:ヌレエフのルームメイト
アデル エグザルホプロス:クララ サン
ルイス ホフマン
チェルバン ハムトーヴァ
ラファエル ペルソナ

ストーリーは
1938年3月17日、ヌレエフ一家が、父親の赴任先に向かうシベリア鉄道の列車の中で,ルドルフは生まれる。タタール人の父親は軍人で、ムスリムだった。ルドルフには上に3人の姉がいた。5歳の時に、母親がもらい受けた1枚のチケットで、家族はバレエを見に初めて劇場に行く。ルドルフは劇場の豪華なシャンデリアや、踊り子たちが照明に照らされて拍手を浴びる様子を見て、バレエを自分の一生の仕事にしたいと思う。そこで戦争中の貧困と食糧難もあって、幼いルドルフは地方の全寮制のダンス学校に入れられる。戦争が終わり、ルドルフが17歳になって、1955年やっと彼はレニングラード(セントぺテルスブルグ)のマリンスキーバレエ学校に入学を許される。そこでアレクサンドル プーシキンに実力を認められる。

ヌレエフはバレエ団のなかで人一番熱心に練習をする団員だったが、性格的に協調性に欠け、自己主張が強いために、いつも孤独だった。また裕福な子女が多いバレエ団のなかで、貧しいタタール人出身だったヌレエフは、ムスリムのタタール人を揶揄するホワイトクロウをいうレッテルを貼られていた。それは事実上にのけ者にされていたルドルフのあだ名でもあった。しかし彼の実力を誰も否定できなくなり、やがてプリンシパルとしてバレエ団の中心的存在になっていく。
彼はバレエ団の海外巡業でパリを訪れ、フランス文化大臣の息子の婚約者クララと親しくなって、彼女とキャバレーやバーに行き夜遊びをする。KGBはそういったフランス文化を資本主義の退廃した姿と捕えていたから、ヌレエフの監視を強化した。そしてこの海外遠征が彼にとって最後の旅になるだろうと、警告する。

パリ公演を終えて、バレエ団がパリからロンドンに移動しようとする空港で、ヌレエフはKGBに、他の団員達と別れてヌレエフだけ帰国して、モスクワ公演に合流するように命令される。KGBに取り囲まれ自由を奪われたヌレエフは、助けを求めて叫ぶ。見送りに来ていたパリバレエの団員は、急きょクララに助けを求める。亡命希望者は、自分から亡命をする国の担当官に亡命したい旨を伝えなければそれを認められない。クララは、パリ空港警察を、ヌレエフの後ろに立たせ、別れの言葉をヌレエフに言う許可をKGBからとって、ヌレエフに空港警察官に亡命する意思を伝えるようにささやく。クララの言葉に従い、ヌレエフはKGBと空港警察との激しいやり取りの末、保護されてフランスに亡命する。1961年、ヌレエフが23歳の時の事だった。
というお話。

この映画の話題性のひとつは、監督がシェイクスピア劇場出身の英国が誇る名優、レイ ファインズが監督したということだ。英国映画にも拘らず、舞台がセントぺテロスブルグとパリなので、ロシア語とフランス語で物語が進行して、それに英語字幕がつく。
ヌレエフは実際、英語を独学していて、米ソ冷戦時に珍しく英語が話せるロシア人だったそうだ。映画の中でも役者はロシア語なまりの英語を話す。米ソが一触触発で核戦争が始まるような危険な世界情勢のなかで、ヌレエフが英語を話せたことは奇跡のようだが、それが亡命するうえでものすごく役に立ったのだ。

それと、この映画が評判になったのは、何といってもルドルフ ヌレエフという世界一名高いバレエダンサーの波乱の半生を描いた作品だということだろう。ヌレエフは日本にも公演に来たし、彼のダイナミックで現代的なバレエは、いまも沢山映像になって残っていて、没後26年経っても人気が衰えることがない。

レイフ ファインズは1993年に刊行されたヌレエフの評伝を読んで、20年もの間ずっと映画にしたいと考えていたという。ヌレエフ役のダンサーを、9か月間探して、ロシアでオーデイションを繰り返してヌレエフの体つきも踊り方も似ているバレエダンサーを見つけた。
ヌレエフ自身は、短気で自己主張が強く、周りの人を平気で傷つけ、自分が思い通りのダンスが踊れるようになるまで妥協のない、極度の頑固者だった。地方巡業を断ったり、自分の実力を認めない教師に怒りをぶつけたり、高級レストランでウェイターが自分を百姓の息子だと馬鹿にしていると怒り出したり、わかままいっぱいだ。それでもダンサーとして最高のところまで行き着きたいと一心に願っている混じりけのない純粋さが、胸を打つ。

映画の中でヌレエフがひとり美術館で絵画や彫刻を食い入るように真剣に見つめるシーンがいくつか出てくる。初めて訪れたパリで、ひとりルーブルに入りテオドール ジェリコの「メデユース号の筏」を凝視する。フランスフリゲート艦メデユース号が座礁して乗組員149人のうち、わずか15人が、救命ボートの中で殺人やカニバリズムをして生き残った。男達の生と死、期待と絶望、そのすさまじさをヌレエフは見ていたのだろうか。
またセントペテルスブルグのエルミタージュ美術館で、レンブラントの「放蕩息子の帰還」を見つめる。父親の大きな手に抱きしめられる子供の安堵、それはヌレエフの子供時代に決して得られないものだった。

ヌレエフを演じたオレグ イヴェンコが素晴らしい跳躍を見せてくれる。バレエ学校の練習風景が沢山出てくるのが嬉しい。男の美しい足が床を蹴る。床をなぞるように、流れるように円を描きながら跳躍する。力強いジャンプから着地するときの激しい音。
おまけに「ダンサー、セルゲイボルーニン世界一優雅な野獣」のセルゲイ ボルーニンがマリンスキーバレエ団のヌレエフのルームメイトとして出演していて、練習風景の中でこれまた素晴らしいジャンプを見せてくれる。英国紙ガーデアンの映画評では、オレグ イヴェンコよりも,端役のセルゲイ ボルーニンがずっとチャーミングでセクシーで素敵だ、と書いてあった。でも映画ではそんなことはなく、オレグ イヴエンコがちゃんと主役になるように撮影されている。当たり前だけど、、。。実際は、二人は仲の良い仕事仲間として互いに尊敬しているそうだ。
映画の中でプーシキンが、ヌレエフに、どんなに技術が素晴らしくても語るべきストーリーが伝えられなかったら、バレエじゃない、と言っているが、オレグ イヴェンコも、セルゲイ ボルーニンもストーリーを踊りでみせてくれる力を持っている。

ヌレエフは1961年に亡命したあと1980年まで20年間英国ロイヤルバレエ団に所属してプリンシパルダンサーとして、カリオグラファーとして活躍した。19歳年上のマーゴ フォンテーンとペアを組み、ジゼル、白鳥の湖、ロメオとジュリエットなどで世界中をセンセーションの渦に巻き込んだ。マーゴは1961年にヌレエフに会った時、ロイヤルアカデミーオブダンスの校長先生で、42歳でリタイヤをするところだった。だが23歳のヌレエフとのペアが実に似合っていて、二人の踊るヴィデオを今見るとロマンチックで優雅で夢みたいだ。マーゴはその後、パナマ人で弁護士の夫が暴漢に襲われ車椅子生活を余儀なくされたため、看護するためにリタイヤして1991年パナマで、71歳で亡くなった。彼女の死亡を告げる新聞記事が出たとき、華やかだったバレリーナ人生と実生活の不幸とが思われて、悲しかったことをよく覚えている。

ヌレエフは、英国ロイヤルバレエを去ってから、パリオペラバレエのダイレクターになり、そのあとは、カリオグラファーとして活躍した。10数年前シドニーにパリオペラバレエが来た時の「白鳥の湖」はヌレエフ版の作品だった。伝統的なロシアバージョンではなく、ヌレエフ版は、より人間的な悩み、迷い、悲嘆にくれて死んでいく王子のストーリーが生き生きと語られて涙をさそった。

バレエはフランスでルイ14世によってはじめて作られて以来、男の美しさを見せるための芸術だった。そういった人々の期待に応える形でヌレエフは究極を追及し、死ぬまでバレエ芸術に身を捧げた。1993年に、54歳の若さでエイズで亡くなった時も新聞で知った。芸術家は技術を磨き、その優れた技術を手段にして物語を人々に伝えなければならない。プーシキンは、ヌレエフに繰り返しそう言った。良い言葉だ。
これから離れ小島で一人で死ぬまで暮らしなさい。でも2本だけヴィデオを持って行ってもよろしい、と言われたら、マリア カラスのオペラ「椿姫」と、ヌレエフとマーゴ フォンテーンのバレエ「ジゼル」を持っていこう。
バレエがあまり好きでない人でも、この映画で好きになるかもしれない。見て損はない。