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2019年8月25日日曜日

浦沢直樹の漫画「MONSTER」

「MONSTER」は、1994年から2001年まで「ビッグコミック」の連載され、後に小学館から1巻から18巻まで単行本で出版された。作家、浦沢直樹は、その前に、「YAWARA」全29巻、「HAPPY」全18巻、「MASTERキートン」全18巻、「パイナップルARMY」全8巻、など主に長編漫画で人気のある作家だが、「20世紀少年」、「21世紀少年」で爆発的な漫画界のスターになった。ほかに「PLUTO」や、「BILLY BAT」がある。中でも「MONSTER」が一番好きだ。

ちばてつやの「あしたのジョー」や白戸三平の「カムイ伝」で育ったが、今でもやっぱり一番好きな漫画は、井上雅彦の「スラムダンク」だ。それと、彼の「バガボンド」、「リアル」。あだち充の「タッチ」、石塚真一の「岳」、一色まことの「ピアノの森」、ヨシノサツキの「ばらかもん」、羽海野チカの「3月のライオン」など。

子供の時から長編の物語が好きだった。トルストイの「戦争と平和」、「アンナカレリーナ」、ドストエフスキーの「カラマゾフの兄弟」、ロマンロランの「魅せられたる魂」、「ジャンクリフトフ」、マルタン ヂュガール「チボー家の人」、ガルシアマルケスの「百年の孤独」など。母は死ぬまで大変な読書家だったが、子供の私が「戦争と平和ってどんなお話?」と聞くと、「みーんなみんな死んじゃうのよ。」という。「じゃあジャンクリストフってどんな本?」と聞くと、「男の話よ。」、「では魅せられたる魂は?」と問うと、「女の話。」「カルメンは?」「三角関係で死んじゃう話。」すべて返答は簡潔。会話にならない。だから自分で読むしかなかった。

ストーリーは
1986年ドイツ、デユセルドルフ。
日本人天馬賢三は、アイスラー記念病院の脳外科医。ハイネマン医院長の論文を読んで日本から研修に来て以来、他に追随を許さない天才的な技術と判断の良さとで次々と難しい手術を成功させ、高く評価されていた。謙虚で患者や仲間からの評判も良く、若さに違わず外科部長に就任するうえ、ハイネマン病院長の娘と婚約していた。

ある夜、救急室に呼ばれたドクター天馬は医院長の命令で、有名なオペラ歌手の緊急手術を行い彼の命を救命する。しかし隣の手術室ではトルコ人移民が命を落としていた。トルコ人はオペラ歌手が運ばれてくるずっと前から待たされていたが、天馬がオペラ歌手の手術を優先したために、貧しいトルコ人は死んでしまった。家族に責められて、ドクター天馬は良心の呵責に責められる。

ニュースで東独から亡命してきた東独貿易局顧問のリーベルト夫婦が二人の双生児アンナとヨハンを連れて、デユセルドルフに到着したニュースが流れる。しかし翌朝夫婦はナイフでのどを搔き切られて、死んで発見される。そばに居た双子の兄、ヨハンも銃による頭部挫傷で重体、一人生き残ったアンナはショックで口がきけない状態で病院に運ばれる。天馬は少年ヨハンの頭の銃創をみて、自分でなければ救命できないと判断する。しかし同じ時間に市長が脳出血で倒れ、病院長は天馬に市長の手術をするように命令する。天馬は迷った末、院長の命令に従わず、少年の難手術を行い救命する。が、病院長とわいろで結びついていた市長は、他の医師の手にかかり手術台で亡くなる。

怒った病院長は天馬の外科部長の役職を取り上げ、エヴァは婚約指輪を天馬に投げつけて婚約解消する。おまけに天馬は自分が救命したヨハンの主治医まで外されてしまった。天馬はまだ昏睡状態でベッドにいるヨハンの病室で、酔った勢いで、病院長たちみんな死んでしまえばいいのに、と愚痴る。
翌日病院長と、新しい外科部長と、ヨハンの新しい担当医3人が、毒入りキャンデイーを口に入れて死亡しているのが発見された。不思議なことに、アンナとヨハンの双子が失踪していた。3人の殺人事件は、ドイツ連邦警察のルンゲ警部の担当となる。凶悪殺人なのに何の証拠もあがらず、天馬にはアリバイがある。しかしルンゲ警部は、天馬が二重人格で本当は殺人犯なのではないかと疑い天馬を監視する。病院は何事もなかったように再開し、天馬は外科部長として多忙な生活にもどる。

9年経った。1995年
ハンブルグ、ケルン、ミュンヘン、4つの異なった場所で、子供のいない裕福な中年夫婦が、9年前の双子の両親が殺されたのと同じ、営利なナイフでのどを切り裂かれて殺される事件が起きた。4件とも共通して一人の男が、事件周辺で姿を見せている。ルンゲ警部は、その男を追って、デユセルドルフにやってくる。4件の犯行の鍵を握る男は、怪我をして天馬に救命される。しかし、男の入院中警備に当たっていた警官が毒入りキャンデーで殺され、男は病院の屋上で撃ち殺される。患者を追って屋上にきた天馬は殺人犯と対面する。殺人犯は9年前のヨハンであることを自己紹介したあと、天馬が殺したいほど憎んでいた病院長たちを殺してあげたのは自分で、それは天馬が自分を救命してくれた命の親だから恩返しにした事なのだ、と言って立ち去る。
天馬は自分が、生き返ってはいけない殺人鬼モンスターを蘇らせてしまったのだということを知る。天馬は病院を辞めて、ヨハンを追う。

ハイデルベルグ 1996年
今日で20歳になるアンナは、優秀な法学部の学生で将来検察丁の検事になりたいと思っている。彼女はフルトナー夫婦の間に生まれた娘だと思っているが、10歳以前の記憶を持たない。夫婦はアンナが20歳になる誕生日に、彼らが本当の親ではないことをアンナに伝えようと思っている。しかしアンナが誰かに呼び出されている間に、夫婦はのどを搔き切られて死んでいた。アンナは呼び出されてヨハンに会う。そこでアンナの記憶が呼び覚まされる。10年前ヨハンを銃で撃ったのはアンナだった。アンナはヨハンが善良な養父母を殺しているのがヨハンだったと知ってモンスターを処分するのは自分しかいないと思い込んだのだった。ヨハンを追ってきた天馬もアンナの心情を知る。再び姿を消したヨハンを追って、アンナ、天馬、そしてランゲ警部が後を追う。そして謎の極右秘密組織もヨハンを追っていた。ヨハンはその天才的な頭脳で、裏社会の銀行の頭取を務めていた。

天馬は東西ドイツ間の壁崩壊前の、旧東独貿易局顧問リーベルト宅を訪れて、彼らが亡命する前、ヨハンを511キンダーハイム孤児院引き取ったことがわかる。ヨハンは他の孤児院にいたアンナと一緒でなければ行かないと言い張ったので、二人はリーベルトの養子となった。キンダーハイム孤児院は崩壊前の東独の内務省による実験場だった。憐れみを持たない子供を実験的に作る場で、ヨハンが立ち去ったときに教官、孤児のすべてが殺し合って、生存者が一人も残らなかったのだったという恐ろしい孤児院だった。
さらにわかったことは、ヨハンとアンナは、東独で孤児院に引き取られる前、ふたりでチェコスロバキアの国境付近を瀕死の状態で彷徨っていた。唯一持っていたのがフランツ ボナパルタの描いた絵本だった。二人は「薔薇の館」から逃げて来たのだった。そこはフランツ ボナパルタの主催する秘密組織人間改造実験所で、母親から引きはがされて二人の双子は「薔薇の館」で育ったのだった。「薔薇の館」では実験研究者、患者の児童たち、チェコ政府の関係者すべてが、何者かの催眠にかけられたかのように殺し合って全員死亡していた。

10歳以前の記憶をもたないヨハンは、ここまでの事実を知って、フランツ ボナパルタを探して、ルーエンハイムという山に囲まれた小さな山村にやってくる。旧東独極右組織が、将来ヒットラーを再び蘇らせることのできるヨハンに心酔して、ヨハンを追ってやって来る。アンナと天馬とルンゲ警部ももちろんだ。村は大雨で道路が浸水し完全に村は陸の孤島になった。電話も通じない。ヨハンは、「薔薇の館」で研究員たちが全員殺し合うところも、511キンダーハイム孤児院で教官や孤児たちが殺し合い全員死亡するところも見て、また自分を育ててくれた養父母夫婦全員を殺して来た。チェコの研究所「薔薇の館」と、東独の孤児院で起こったことが、再び繰り返されるのか。
平和だった村で、善良な夫婦にとんでもない金額の宝くじが当たったことを知らされる。ヨハンによって村人たちに銃がばらまかれ、閉鎖された村の空気のなかで、銃など手に取ったこともなかった人々が、疑心暗鬼になって催眠術にかかったように銃を撃ち合い、あちこちに死体が転がっている。人々の恐怖が爆発しそうだ。

ヨハンを前にしてアンナは憎しみの連鎖を断ち切るために、ヨハンを許す。自分はすべて忘れて正しい道を歩む決意をする。天馬もヨハンを撃ち殺せない。
ヨハンは、人質にとった村の子供を撃とうとして、子供の親に撃たれる。フランツ ボナパルタは、自分が実験場を作ったことを詫びて、極右組織の手で殺される。ヨハンは州立警察病院に運ばれ、一件落着。
天馬は病院で昏睡状態のヨハンにさよならを言いに来る。国境なき医師団に入る予定だ。もうどうでも良いことだ、と思って、天馬はアンナとヨハンは小さなときに引き離された母親がまだフランスで生きていると言う。天馬が病院の門を立ち去る時、もうヨハンのベッドは空だ。
というところで終わる。

18巻の長編をまとめるのは容易ではない。書けなかった人物など50人くらいいるし、細かいデテールなど100くらいあって書ききれないけれど、この漫画の最後のシーンが一番好きだ。ヨハンのベッドが空だ。ヨハンは再び出て行って母親を殺しにフランスに向かったに違いないが、人によっては違う解釈もありだ。しゃれた終わり方だ。

この話で面白いのは、双子のアンナもヨハンも10歳以前の記憶がないことだ。自分達の本当の親も、自分たちの名前もわからない。アンナは、20歳まで愛情深い養父母に育てられて正義感の強い愛すべき少女に育った。しかしヨハンは自分の過去を憎み、自分のことを知っている養父母をすべて殺して来た。また自分を実験と研究の材料にしてきた秘密研究所や孤児院の関係者まで葬って来た殺人鬼だ。アンナとヨハンは善悪の対比の様に描かれている。しかし二人とも「薔薇の館」で育った経験を共有している。ヨハンを追う天馬とすれ違う時、アンナは天馬に「モンスターは一人じゃない。2人居るのよ。」と叫ぶシーンがある。アンナも催眠にかけられ、ヨハンのように残酷な殺人者になることもできるのだ。

浦沢直樹の悪い癖で漫画の連載が好評だと、話をふくらませてどんどんストーリーが広がっていって、読んでいるときは面白いが話が広がり過ぎて筋が合わなくなって、苦し紛れに登場人物の会話で、無理につじつま合わせするようなところも何か所かある。それは「20世紀少年」にも言えることだ。

しかしよくできた漫画で、特記すべきはこれが1994年から2001年に書かれていることだ。
20年前にはまだチェコのナチの逃亡犯をかくまったオデッサのような秘密友愛結社や、ヒットラーの再現を願うネオナチ団体も、元東独の極右秘密結社も、移民をアリのように平気で殺せるスキンヘッドも、社会の恥のように小さくなっていた。漫画ではヨハンの心酔者として描かれている連中だ。
それが、20年たった今では、性懲りもなく地中から這い出して、いまや政治の主流になりつつある。米国のトランプ大統領、ブラジルのボルソラノ大統領、フランスのマリーヌル ペン、イタリアのマテロ サルビ二、日本のおばかさん首相。ポピュリストは オランダ、ウクライナ、スウェーデン、ギリシャでも急激に勢力を拡大している。まるで浦沢直樹が、「MONSTER」で預言をしたように、極右のトップが世界を動かすまでに成長した。新たなヒットラーの出現を待ち望む人々が増えている。
「MONSTER」は18巻で終了し、アンナはヨハンに赦しを与え、天馬は新たな医師活動に意欲を持ち、ルンゲ警部は定年で大学講師になり、だれもが一件落着したように思えるが、ヨハンは死んでいない。すでに彼はベッドを抜け出して世界を死に追いやるために出て行った。20年前の漫画が現実の状況に警告を発している。

とても面白い漫画だ。読む価値がある。英語版が再版中止になっていて、友達に読ませたいがもう手に入らないことが、すごく残念だ。

2019年8月22日木曜日

ジミーチェンのドキュメンタリー「フリーソロ」

原題:「FREE SOLO」
監督: ジミー チン
エリザベス チャイ ヴァサルヘリ
撮影: ジミー チン、クレア ポプキン
    マイキー シェファー
出演者:アレックス オイルド
    サニー マクキャンドレス
    トミー コールドウェル
ナショナルジェオグラフィック ドキュメンタリフイルム
2019年 アカデミー長編ドキュメンタリー映画賞受賞作

監督で、撮影者のジミー チンと、妻のエリザベス チャイ ヴァサルヘリは、ともに登山家で写真家だが、二人してこの映画を監督している。ジミー チンは中国系アメリカ人2世で、妻のエリザベスは母親が香港人。二人には一男一女の子供たちが居る。
「フリーソロ」は二人にとって第2作目の山岳フイルムで、第1作目は、2013年の作品「MERU・メル―」。

「MERU メル―」はヒマラヤ山脈の中国側、メル―中央峰の難攻不落の岩壁「シャークス フィン」とよばれる岩を、ジミー チンを含めた3人の登山家が世界初登坂に成功したときの記録フイルムだ。3人とも有名な登山家で、コンラッド アンカー、レナン オズダークとジミー チン。3人は、2008年に頂上まであと100メートルのところで、登頂を断念して下山している。総重量90キロの荷物を担ぎ、2台のカメラと機材を持ち、8日間の食糧で、「シャークス フィン」を17日間登り続け、悪天候と雪崩とで岩肌にビバーグしていたテントが壊れ、食糧と燃料がなくなり、登頂寸前のところで諦めて下山した。このときの失望が大きすぎて3人とも2度と同じ山に再び戻ることはないだろうと思っていたという。その後、ジミー チンは雪崩に合い600メートル落下、時速130キロのスピードで山から落ちるが、奇跡的に生還した。
またレオン オズタークは、スピードボードの撮影をしていて事故に合い、頚椎骨折で、再起不能、一生車椅子生活と診断されるが、執念のリハビリで、登山家として、これまた奇跡的な復帰をする。3人の内、残りのコンラッド アンカーは、山岳史で最も有名な登山家ジョージ マロ―二―の遺体を見つけた人だ。登山の長年のパートナーだったアレックスを、ザイルでつながりながら死なせたことで、自分を責め、のちに彼の妻と結婚して彼の3人の息子たちを育てている。3人3様の2008年メル―世界初登頂失敗後の、苦渋と失望を乗り越えて2011年 3人は再び申し合わせたようにヒマラヤに集まり、「シャークス フィン」の初登坂を成功させる。メル―はそのときの記録映画だ。

第2作目の「フリー ソロ」は、登山家はアレックス オニルドただ一人。フリー ソロとは、ザイルもハーケンもカラビナも一切使わずに、たった一人でロッククライミングするスタイルのことを言う。山は、カルフォルニア、ヨセミテ国立公園の中にある「エル カピタン」と呼ばれる1000メートル近い絶壁。ここをザイルパートナーなしで単独登頂する姿を数台のカメラで追ったドキュメンタリーフイルムだ。
ジミー チンは「この仕事を引き受けるかどうか迷った。アッレックスは山仲間で友達だ。誰も成功したことのない単独登頂の撮影中、滑落の瞬間をカメラがとらえることもあるだろう。それはアレックスの死の瞬間でもあるのだから。」と語っている。

1インチに満たない岩の尖がりに足をかけ、指3本でつかんだ岩のくぼみに全体重をかけて登っていく。ハングオーバーがあり、トラバースを幾度もしなければならない。滑りやすく全く何のとっかかりもない所が2か所もある。体重のバランスをかけて、伸ばした見えない指の先で、くぼみを掴めなかったら、そのまま落下するしかない。何度ザイルを使ってリハーサルしてみても失敗につぐ失敗。ザイルで身を確保して、すこし離れた岩壁で撮影する4人のカメラクルー。望遠レンズで下から撮影する別のカメラマン。
リハーサルの繰り返しで、すっかり煮詰まってしまったアレックス オノルドは、とうとう一人怒って下山してしまう。もうやめだ。こんな岩壁をフリー ソロで登れるわけがない。

アレックス オノルドは、1985年カルフォルニア州 サクラメント生まれ。山が好きで、19歳で大学をドロップして10年あまり車で生活しながら山から山に移動し、登山を繰り返し山岳会で華々しくデビューする。20代で、難所ばかりのロッククライミングをフリー ソロで成功させ、その世界ではスーパースターとなった。今まで誰もチャレンジできなかった「エル カピタン」をフリーソロで世界で初めて成功させることは、彼にとって自分を越えるための最大のチャレンジだった。その彼にも恋人ができる。車で生活することが普通だったアレックスが 恋人と家を買うことになる。2016年恋人とザイルを組み、登山して落下、足首を骨折する。そこでアレックスは、一念発起、自分がやらなければならない課題に直面する。今やらずにいて諦念だけでこの先、生きていくことはできない。激しいリハビリと自主訓練で、再起したアレックスは「エル カピタン」に戻る。
ジミー チンははじめ半信半疑だった。いったんアレックスは逃げ出したじゃないか。
しかしアレックスは本気だ。朝、暗いうちから登り始め、フリー ソロで登頂成功させる。
というおはなし。

山の話だ。
ジミー チンは山のすばらしさをフイルムを通して体験させてくれる。子供の頃はスキー少年、16歳で山に魅せられて登山を開始し、23歳で写真に取り憑かれ、自分で登りながら撮影するという独自の山岳ドキュメンタリーを製作するようになる。素晴らしい登山家だ。ナショナルジェオグラフィックと契約して、いつも未知の世界を見せてくれるだけでなく山の空気を連れて来てくれる。ロッククライミングでは両手両足のうち、3点は確保して固定していなければ登れない。登りながらフイルム撮影するには、ただ登る人よりも高度な技術がなければならない。6000メートル級の岩壁で、1点1点手足を確保しながら、岩を這い、強風に飛ばされながら、登山のすばらしさをフイルムに納めてくれる撮影者は、文字通りのヒーローだ。アカデミー賞受賞のあと、「フイルム撮影中一番スリリングだったのは、どんなときだった?」と聞かれて、岩壁で「ザイルを扱いながら、カメラをバッグから取り出して、そのカメラからチップを抜き出した時だったかな。」と言って笑わせてくれた。それは怖い。

デヴィッド リーンの映画「アラビアのロレンス」(1961)で、ジャーナリストがロレンスに、「どうして こんな砂漠に居られるのか?」と問われて彼は「砂漠は清潔だから。」と答える。私は山が好きだ。清潔だから。若いころ、取り憑かれたように山に登ってばかりいたことがある。山の吹き下ろす風に身を任せ、岩に取り憑いていると、山に浄化されるようだった。2000メートル級の山で太陽の直下にいると顔ばかり山焼けして、顔の皮が2枚も3枚もむけてきて、腫れあがり埴輪のような顔だったと思う。けれど下山して人の多い地上のもどってみると、自分の体が腐ってくるようで、またすぐに山に戻りたくなる。北アルプス、南アルプス、丹沢の山々、どの山も、山はどんな教師よりも多くのことを私に教えてくれた。
人生というものが、単なる自己満足だとするならば、登山は最高の自己満足だ。登山は何も生産しないし、お金にも名誉にも、業績にもならない。ただ自分を満足させてくれるだけだ。誰のためでもない。それだけ贅沢な行為だということもできる。

映画のエンデイングに、テイム マツグローが、「GRAVITY」という歌を歌っている。渋い。たくましい男が荷物を背負って、がっしりと山に取り憑いている。厳しい自然の中で、突風やがけ崩れにもてあそばれながら、岩肌を尺取り虫のように進んでいく。孤独な山男の背に、低い男の歌が語り掛けるようで、映画にみごとにマッチしている。

写真は上の2枚が、フリー ソロの「エル カピタン」
下の2枚が、ヒマラヤ メロー峰の「シャークス フィン」

山が好きな人にも、山が嫌いな人にも、自然が文句なく美しいフイルムなので見る価値がある。

2019年8月4日日曜日

映画「ホワイトクロウ:伝説のダンサー」

原題:WHITE CROW
英国映画
監督:レイフ ファインズ           
キャスト
オレグ イヴェンコ: ルドルフ ヌレエフ
レイフ ファインズ: アレクサンドル プーシキン
セルゲイ ポレーニン:ヌレエフのルームメイト
アデル エグザルホプロス:クララ サン
ルイス ホフマン
チェルバン ハムトーヴァ
ラファエル ペルソナ

ストーリーは
1938年3月17日、ヌレエフ一家が、父親の赴任先に向かうシベリア鉄道の列車の中で,ルドルフは生まれる。タタール人の父親は軍人で、ムスリムだった。ルドルフには上に3人の姉がいた。5歳の時に、母親がもらい受けた1枚のチケットで、家族はバレエを見に初めて劇場に行く。ルドルフは劇場の豪華なシャンデリアや、踊り子たちが照明に照らされて拍手を浴びる様子を見て、バレエを自分の一生の仕事にしたいと思う。そこで戦争中の貧困と食糧難もあって、幼いルドルフは地方の全寮制のダンス学校に入れられる。戦争が終わり、ルドルフが17歳になって、1955年やっと彼はレニングラード(セントぺテルスブルグ)のマリンスキーバレエ学校に入学を許される。そこでアレクサンドル プーシキンに実力を認められる。

ヌレエフはバレエ団のなかで人一番熱心に練習をする団員だったが、性格的に協調性に欠け、自己主張が強いために、いつも孤独だった。また裕福な子女が多いバレエ団のなかで、貧しいタタール人出身だったヌレエフは、ムスリムのタタール人を揶揄するホワイトクロウをいうレッテルを貼られていた。それは事実上にのけ者にされていたルドルフのあだ名でもあった。しかし彼の実力を誰も否定できなくなり、やがてプリンシパルとしてバレエ団の中心的存在になっていく。
彼はバレエ団の海外巡業でパリを訪れ、フランス文化大臣の息子の婚約者クララと親しくなって、彼女とキャバレーやバーに行き夜遊びをする。KGBはそういったフランス文化を資本主義の退廃した姿と捕えていたから、ヌレエフの監視を強化した。そしてこの海外遠征が彼にとって最後の旅になるだろうと、警告する。

パリ公演を終えて、バレエ団がパリからロンドンに移動しようとする空港で、ヌレエフはKGBに、他の団員達と別れてヌレエフだけ帰国して、モスクワ公演に合流するように命令される。KGBに取り囲まれ自由を奪われたヌレエフは、助けを求めて叫ぶ。見送りに来ていたパリバレエの団員は、急きょクララに助けを求める。亡命希望者は、自分から亡命をする国の担当官に亡命したい旨を伝えなければそれを認められない。クララは、パリ空港警察を、ヌレエフの後ろに立たせ、別れの言葉をヌレエフに言う許可をKGBからとって、ヌレエフに空港警察官に亡命する意思を伝えるようにささやく。クララの言葉に従い、ヌレエフはKGBと空港警察との激しいやり取りの末、保護されてフランスに亡命する。1961年、ヌレエフが23歳の時の事だった。
というお話。

この映画の話題性のひとつは、監督がシェイクスピア劇場出身の英国が誇る名優、レイ ファインズが監督したということだ。英国映画にも拘らず、舞台がセントぺテロスブルグとパリなので、ロシア語とフランス語で物語が進行して、それに英語字幕がつく。
ヌレエフは実際、英語を独学していて、米ソ冷戦時に珍しく英語が話せるロシア人だったそうだ。映画の中でも役者はロシア語なまりの英語を話す。米ソが一触触発で核戦争が始まるような危険な世界情勢のなかで、ヌレエフが英語を話せたことは奇跡のようだが、それが亡命するうえでものすごく役に立ったのだ。

それと、この映画が評判になったのは、何といってもルドルフ ヌレエフという世界一名高いバレエダンサーの波乱の半生を描いた作品だということだろう。ヌレエフは日本にも公演に来たし、彼のダイナミックで現代的なバレエは、いまも沢山映像になって残っていて、没後26年経っても人気が衰えることがない。

レイフ ファインズは1993年に刊行されたヌレエフの評伝を読んで、20年もの間ずっと映画にしたいと考えていたという。ヌレエフ役のダンサーを、9か月間探して、ロシアでオーデイションを繰り返してヌレエフの体つきも踊り方も似ているバレエダンサーを見つけた。
ヌレエフ自身は、短気で自己主張が強く、周りの人を平気で傷つけ、自分が思い通りのダンスが踊れるようになるまで妥協のない、極度の頑固者だった。地方巡業を断ったり、自分の実力を認めない教師に怒りをぶつけたり、高級レストランでウェイターが自分を百姓の息子だと馬鹿にしていると怒り出したり、わかままいっぱいだ。それでもダンサーとして最高のところまで行き着きたいと一心に願っている混じりけのない純粋さが、胸を打つ。

映画の中でヌレエフがひとり美術館で絵画や彫刻を食い入るように真剣に見つめるシーンがいくつか出てくる。初めて訪れたパリで、ひとりルーブルに入りテオドール ジェリコの「メデユース号の筏」を凝視する。フランスフリゲート艦メデユース号が座礁して乗組員149人のうち、わずか15人が、救命ボートの中で殺人やカニバリズムをして生き残った。男達の生と死、期待と絶望、そのすさまじさをヌレエフは見ていたのだろうか。
またセントペテルスブルグのエルミタージュ美術館で、レンブラントの「放蕩息子の帰還」を見つめる。父親の大きな手に抱きしめられる子供の安堵、それはヌレエフの子供時代に決して得られないものだった。

ヌレエフを演じたオレグ イヴェンコが素晴らしい跳躍を見せてくれる。バレエ学校の練習風景が沢山出てくるのが嬉しい。男の美しい足が床を蹴る。床をなぞるように、流れるように円を描きながら跳躍する。力強いジャンプから着地するときの激しい音。
おまけに「ダンサー、セルゲイボルーニン世界一優雅な野獣」のセルゲイ ボルーニンがマリンスキーバレエ団のヌレエフのルームメイトとして出演していて、練習風景の中でこれまた素晴らしいジャンプを見せてくれる。英国紙ガーデアンの映画評では、オレグ イヴェンコよりも,端役のセルゲイ ボルーニンがずっとチャーミングでセクシーで素敵だ、と書いてあった。でも映画ではそんなことはなく、オレグ イヴエンコがちゃんと主役になるように撮影されている。当たり前だけど、、。。実際は、二人は仲の良い仕事仲間として互いに尊敬しているそうだ。
映画の中でプーシキンが、ヌレエフに、どんなに技術が素晴らしくても語るべきストーリーが伝えられなかったら、バレエじゃない、と言っているが、オレグ イヴェンコも、セルゲイ ボルーニンもストーリーを踊りでみせてくれる力を持っている。

ヌレエフは1961年に亡命したあと1980年まで20年間英国ロイヤルバレエ団に所属してプリンシパルダンサーとして、カリオグラファーとして活躍した。19歳年上のマーゴ フォンテーンとペアを組み、ジゼル、白鳥の湖、ロメオとジュリエットなどで世界中をセンセーションの渦に巻き込んだ。マーゴは1961年にヌレエフに会った時、ロイヤルアカデミーオブダンスの校長先生で、42歳でリタイヤをするところだった。だが23歳のヌレエフとのペアが実に似合っていて、二人の踊るヴィデオを今見るとロマンチックで優雅で夢みたいだ。マーゴはその後、パナマ人で弁護士の夫が暴漢に襲われ車椅子生活を余儀なくされたため、看護するためにリタイヤして1991年パナマで、71歳で亡くなった。彼女の死亡を告げる新聞記事が出たとき、華やかだったバレリーナ人生と実生活の不幸とが思われて、悲しかったことをよく覚えている。

ヌレエフは、英国ロイヤルバレエを去ってから、パリオペラバレエのダイレクターになり、そのあとは、カリオグラファーとして活躍した。10数年前シドニーにパリオペラバレエが来た時の「白鳥の湖」はヌレエフ版の作品だった。伝統的なロシアバージョンではなく、ヌレエフ版は、より人間的な悩み、迷い、悲嘆にくれて死んでいく王子のストーリーが生き生きと語られて涙をさそった。

バレエはフランスでルイ14世によってはじめて作られて以来、男の美しさを見せるための芸術だった。そういった人々の期待に応える形でヌレエフは究極を追及し、死ぬまでバレエ芸術に身を捧げた。1993年に、54歳の若さでエイズで亡くなった時も新聞で知った。芸術家は技術を磨き、その優れた技術を手段にして物語を人々に伝えなければならない。プーシキンは、ヌレエフに繰り返しそう言った。良い言葉だ。
これから離れ小島で一人で死ぬまで暮らしなさい。でも2本だけヴィデオを持って行ってもよろしい、と言われたら、マリア カラスのオペラ「椿姫」と、ヌレエフとマーゴ フォンテーンのバレエ「ジゼル」を持っていこう。
バレエがあまり好きでない人でも、この映画で好きになるかもしれない。見て損はない。