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2019年5月29日水曜日

オット、ブルースが亡くなって1年

来月でオットのブルースが亡くなって1年になります。すっかり忘れてたけど。
22年間の結婚生活のなかで、最大の彼の功績は、私の二人の娘の結婚式で、娘の手をとってヴァージンロードを歩いてくれたことです。このことは今でも感謝しています。それくらいかな。

結婚する娘に

2019年5月21日火曜日

テルアビブでユーロビジョンソングコンテスト

2019年ユーロビジョンソングコンテスト:ヨーロッパ最大規模の歌の祭典が、ガザのパレスチナ避難民にイスラエル軍がミサイルを撃ち込み、日々罪もない人々が虐殺されている場所から数百メートル先のテルアビブで行われた。これらの動きに反対表明を出す良識的なイスラエル市民もいたし、ユーロビジョンに不参加を呼びかける団体もたくさんあったが、圧倒的なイスラエル警察と軍による警備のなかで、歌の祭典が強行された。

前2000年紀にパレスチナに住んでいたヘブライ人は、強国エジプトに移住し奴隷として生存を許されていた。60万人のヘブライ人がモーゼに率いられエジプトを奪出したとき、エホバは、彼らが十戒を守ることを条件にそれを助けた。その後、約束の土地カナン(パレスチナ)に王国を建てたヘブライ人は唯一エホバを信仰し、自分たちが天地を創造した全能の神エホバによって選ばれた民族として救済されるといった選民思想を持つ。

ユダヤ人というと、誰もがナチスヒットラーによって犠牲になった600万人のホロコーストを思い浮かべるが、「ユダヤ人の選民思想であるシオニズム」は、「ヒットラーのゲルマン純血主義」よりも、はるかに強力な排外思想だ。自分たち選ばれた民族が、約束の土地で全能の神エホバだけを信じ、新しい国を建国するという思想は、他の宗教を認めない。他民族や他国文化を相いれないし認めない。
戦後、生き残って世界中に散らばっていたユダヤ人が集結して、1948年イスラエルを建国したことによってパレスチナ国家を奪われたパレスチナ人民500万人は、避難民として限られた土地に追いやられている。ネタニヤフ大統領が再選され、強硬派が力をつけており、ユダヤ人の新居住区が拡大する一方だ。イスラエル軍、警察は、抗議するパレスチナ人を迫害し、爆弾を落とし、銃撃している。

2019年5月15日、16日、18日とイスラエルのテルアビブでユーロビジョンソングコンテストが行われた。ヨーロッパ最大の祭典で、41か国のヨーロッパ各国代表に選ばれたアーチストがパフォーマンスを行い、それを見ている観衆やテレビの視聴者が携帯で人気投票をする。その後、即時投票結果が発表される。世界中で、6億人の人々が投票したり観戦する。

出場参加国が多いので、3日間に渡って選抜が行われ、第1次審査と第2次審査を通過して残った国と、ドイツ、英国、フランス、イタリア、スペイン、ビッグ5の代表の合計26か国が、最終日にパフォーマンスを競う。ビッグ5は、この国際音楽祭に多大の出資額を負担しているので第1審査が免除されている。毎年英国は、最大額出資しているのに1997年以来一度も優勝したことがない、ことをこぼしているけど、それは実力というものでしょ。
昨年はイスラエルの女性歌手が、自分でDJをしながらユニークなパフォーマンスを見せて優勝したので、開催国がテルアビブになった。今年はオランダの青年が、キーボードを弾きながら歌い、最高得点で優勝したので来年はアムステルダムで開催されることになった。

オーストラリアはヨーロッパに位置していないのに出場が許されている稀有な国だ。移民でできている国だからヨーロッパを身近に感じている人の方が多い。距離ではなく、文化だ。戦後20年間の間に移民した人々は、英国、アイルランド、ニュージーランドから88万人、北欧、オランダ、ドイツ、スカンジナビアから24万人、東欧、ユーゴスラビア、ポーランドから30万人、南欧、イタリア、ギリシャから53万人、、、戦災から逃れてきたヨーロッパ人だけでこれだけの数で、毎年移民は増えるばかりだから、文字通りの移民国家なのだ。
またオーストラリアはいまだに英国女王を元首とした国。自分を英国人だと思い込んでいて、英国のパスポートを死んでも離さない人が多い。

10年前オーストラリアで、英国から分かれて独自の大統領制にするかどうか、国民投票が行われたが、オージーは、英国女王をこのまま元首として選んだ。自国のアイデンティテイー存在基盤を、現状維持的に英国民族の末裔とすることに決めたのだ。一般にオージーは女王陛下のロイヤルファミリーは好きだが、英国議会やメイ首相は、ぼろくそに批判、自分達はオージー多民族、多文化をもった新しい国の国民だと認識している。だから、ユーロビジョンは、オージーの間でも長い事人気があって、2014年に特別参加が認められたときの人々の興奮の仕方と言ったら、怖いほどだった。
2014年は、アボリジニのジェシカ マウボーイがオーストラリアを代表して舞台で歌い、翌年からは特別参加ではなく、他のヨーロッパ諸国同様の条件で参加が許され、2015年はマレーシアオージーのガイ セバスチャンが舞台に立った。2016年は、韓国系オージーのダミ イン、2017年はアボリジニの青年、そして今年は、もともとはオペラ歌手だったケイト ミラーハイキが、投票で選ばれてオーストラリア代表として舞台に立った。オーストラリア代表がアボリジニ、マレーシア、韓国など、移民国家らしい出場者たちだが、毎年最後の第2審査まで生き残りなかなか善戦していて、今年もトップ10に入った。オーストラリアが優勝したら、どうなるんだろう。ヨーロッパは地続きだから、どの国が優勝しても参加、移動が簡単だけれど、オーストラリアは海を越え、飛行機でも丸1日かかる。毎年数十万人がユーロビジョンのために、開催国に集まって来るという数10年間の歴史が変わってしまうかもしれない。こればかりは、60憶の視聴者のチョイスだから決まってしまったら変えられないだろう。心配だ。

ユーロビジョンが国家というオーソリテイに抵抗する意味を持った歴史がある。東西の壁が高く遮られ、西側の自由で開放的な文化が東側に届けられずにいた時期、東側の人々は、パラボラアンテナを隠し持ち、隠れてユーロビジョンを見ていた。国境で遮られていても、文化の流れを食い止めることはできない。東側の人々も、西側に人々と共に、イタリアのカンッオーネを歌い、フランスのシャンソンを歌い、スペインのファドを同じように歌っていたのだ。感動的ではないか。

2016年のユーロビジョンではウクライナの女性が優勝を勝ち取ったが、彼女の歌がウクライナ民主化に弾みをつけ、彼女はその後政界入りをした。沢山のパフォーマーが、歌で政治的なメッセージを届けていることも、ユーロビジョンの特徴だ。近年はその国の少数民族の歌、女性差別、人種差別をテーマにしたパフォーマンスも多い。国の代表という意味も変わって来た。ヨーロッパだが、白い肌、ブロンズに青い目といった歌手にまずお目にかかれない。今年の最終審査に残った男性歌手のうち、一人を除いて全員が黒髪だった。イタリア代表は父親がエジプト人で、3人のアフリカンダンサーを従えて、アラビア語で歌を歌った。優勝候補とされていたスイス代表の男性歌手と4人のダンサーも、スペイン代表の歌手とダンサーも肌が黒かった。

興味深いのは最後の視聴者による人気投票だ。ウクライナはロシアの政治介入と干渉を受けて政治的に憎んでいるはずなのに、ウクライナ人の最大数の人がロシアに投票している。ロシア人もウクライナ歌手に投票している。セルビア人がスロバキア歌手に最大多数票を入れて、アルバニア人がクロアチア歌手に投票している。ポルトガル人がスペイン歌手に票を入れ、スペイン人がポルトガル歌手に票を入れる。
こういった現象をみていて人々の好みというものが、国境線や政治では語れないということがわかる。人は生まれて育ち、赤ちゃんの時から耳にしていた音階や旋律になじんで、快感を覚えるようになる。そして慣れない音や旋律に違和感を覚える。それはその人の感覚、そのものを形成しているから、政治的な状況が変わったり、国境線が変えられたり、戦争したり、移民したり、難民になっても変わることがないのだ。国境が文化の境ではない。人々は文化の広がりをもって、国境を越えて生きているのだ。人々の感覚は国境線を越える。こういった事実に気つかせてくれたのが、ユーロビジョンだった。感謝しなければならない。

今回パフォーマンスがすべて終わり集計を待つ間、ステージを飾ったのは2014年に優勝したコンチータ。ドラッグクイーンの彼女は黒い髭、胸毛をさらして、網タイツにハイヒール、濃いまつ毛をつけて優雅でパワフルなパフォーマンスをした。
そして最後のマドンナ。今年のユーロビジョンの最大のトピックはマドンナの登場だったろう。大金を積んでマドンナの出場をオーケーさせたイスラエルは得意だったろうが、これが一筋縄でいかないアメリカ人。30人ほどのダンサーとコーラスを引き連れて登場。数百メートル先で、パレスチナ人が爆撃で殺されているのだ。
ステージでマドンナの登場にはしゃぎまわっている司会者に、彼女はニコリともせず質問にろくに答えもせず、MUSIC MAKE PEOPLE COME TOGETHER (音楽で人はひとつになれる、、)を繰り返した。ステージは小オペレッタのような舞台。神は死んだ、戦争と地球温暖化、環境汚染、核による汚染で人々に未来はない。といったメッセージ。「LIKE A PRAYN」と「FUTURE」を歌った。最後に背を向けたダンサーたちの背中に、パレスチナの国旗がはりつけてあった。最後に大画面で、WAKE UP.
これがマドンナの限界だったろう。これ以上のことをしたら彼女のパフォーマンスそのものがつぶされていただろう。これだけでも良くやった、と言わなければならない。

こうして2019年ユーロビジョンは終わった。華々しい会場から数百メートル先にある、パレスチナに生まれ居住区で貧しい生活を送る人々に爆弾を落としながら、ヨーロッパの歌の祭典を主宰したイスラエル。彼らの選民思想と排他主義はユーロビジョンの趣旨に最もそぐわない、人々の魂である音楽とヨーロッパの文化を貶めている。WAKE UP。(目を覚ませ)

写真1:マドンナ    写真2:アイスランド代表が持つパレスチナの旗  
写真3:オーストラリア代表
写真4:優勝国オランダ代表    写真5:スイス代表
写真6:左がコンチータ、2014年オーストリア代表で優勝


2019年5月13日月曜日

ロシア映画「ラブレス」

原題:「LOVELESS」
ロシア、フランス、ドイツ、ベルギー合作映画
監督: アンドレイ ズビャギンツェフ
2017年第70回カンヌ国際映画祭 審査員賞受賞
2018年アカデミー賞外国映画賞 候補作
キャスト
マトベイ ノビコフ : アレクセイ
アレクセイ ロズイン: 父ボリス
マリア―ナ スピバク: 母 ゼ―ニャ
マリア―ナ バシリエバ :マーシャ
アンドリス ケイシス  :アントン

ストーリーは
2012年、セントペテルスブルグ。
高層ビルが建ち並ぶ郊外に、12歳の少年アレクセイの住むアパートがある。見渡せば森がどこまでも続いている。その眺めの良いアパートは今、売りに出されている。両親が離婚して、それぞれの愛人と一緒に住むために、処分しようとしているからだ。そしてアレクセイを両親のうちどちらが引き取ってそだてるのか、互いに養育権を放棄していて争いが続いている。しかしアパートが売れるまで、夫婦は今のアパートで顔を合わせなければならない。会えば少年のことで口汚い争いが避けられない。

高層アパートから一歩外に出ると、そこにはまだ美しい森があり、大きな湖がある。アレクセイは、学校の帰り、遠回りして森を通って家に帰る。冬が終わりつつある。森を歩けば雪が溶けた後の落ち葉が、乾いた音を立て、湖は静まり返っている。アレクセイは落ち葉に埋もれていた赤と白の長いテープを拾い、小枝にからませて、エイヤと高い大きな樹に向かって投げる。テープは手の届かないずっと高い枝にひっかかって風になびいている。

母親のゼ―ニャは街の大きな美容院のマネージャーをしている。高給取りや中流階級の妻たちが顧客だ。彼女の愛人、アントンは離婚してテイーンの娘が外国留学をしている。彼がひとりで住むアパートは、近代的で広々としていて居心地が良い。
父親ボリスの愛人マーシャは、母親と一緒に小さなアパートに住んでいて、出産まじかだ。赤ちゃんが正式なボリスの子供として生まれてくることができないので、不安を抱えている。ボリスが泊まりに来るときは、マーシャの母親が、叔母の家に泊まりに行かなければならない。

売りに出ているアパートを見に、若い夫婦が訪ねて来た日、再びボリスとゼ―ニャは大喧嘩をする。アパートが売れたらサッサと息子を連れて出て行ってよ。なんてことを言うのだ。子供には母親が必要だ。うそ、子には父親こそ必要でしょう。何だったら寄宿舎のある学校に転校させて、そのあと軍に入隊させればいいじゃない。もううんざりよ。
ゼ―ニャは席を立ち、ドアをあけたままの洗面所に入り排尿し、乱暴にドアを閉めて、寝室に閉じこもる。その開けたままだった洗面所のドアの陰には、声を出さずに泣きじゃくるアレクセイが隠れていた。大写しのアレクセイの顔。翌朝、アレクセイは朝食を取らずに学校に走っていく。

2日経って母親は家にアレクセイが居ないことに気付く。互いに愛人の家で過ごしていて、相手が家に帰っているとばかり思っていたので、学校から2日間登校していないと連絡があるまでアレクセイが家に帰っていないことに、誰も気がつかなかったのだ。ゼ―ニャは警察に連絡する。事情聴衆の後、郊外に住む、アレクセイの祖母、ゼ―ニャの母親の家に行っているかもしれないので、確かめるように、警察に言われて、夫婦は3時間運転して、祖母の家に向かう。しかしゼ―ニャの母親は、彼女に輪をかけたような自己中心の寡婦で、アレクセイのことを心配するどころか、夫婦の突然の訪問を非難するばかりだ。再び夫婦は家に向かう。醜い口論が果てしなく続く。警察の人手が足りないので、捜索にボランテイアの力を借りることになる。約40人のボランテイアが警察の指導のもとに、森に捜査を広げる。

アレクセイの友達の情報から、森の奥で打ち捨てられた昔の工場跡にボランテイアが向かう。その地下室でアレクセイのジャンパーが見つかった。しかしアレクセイの姿はどこにも見つからない。しばらくして警察では、身元不明の姿かたちを留めないほど傷だらけの遺体が見つかり夫婦が呼ばれる。しかし二人は、それをアレクセイだとは認めない。DNA検査も夫婦は拒否する。

捜査は打ち切られる。時間が経ち3年後。人々はアレクセイのことを忘れてしまったかのようだ。ボリスは、赤ちゃんの父親になり、マーシャが母親と一緒に住む狭いアパートで一緒に暮らしている。ゼ―ニャは、恋人の初老の男と暮らしている。
森の、アレクセイが学校帰りに通った湖畔。大きな樹の枝にアレクセイが放り投げて、枝に引っかかったままの赤白のテープが、風にゆれて空を踊っている。
そこで映画が終わる。

映画の初めの方で、両親の諍いに身の置き場がなく洗面所のドアの陰で泣いていたアレクセイが翌朝駆け足でアパートの階段を下りるシーンを最後に、二度と映画の中で姿を現さない。雪の舞う廃墟になった工場でジャンパーを脱いだアレクセイは、そのまま姿を消してしまった。生きていないことだけは確かだ。彼の傷ついた魂は、大木の枝で風に舞い、空に向かって羽ばたくテープのように自由に飛んで行ったしまった。

現代社会で夫婦が別れ、互いに子供を押し付け合っているというどこにでもある話。とても単純なストーリーなのだが、見ている観客は胸に鋭利な刃物を当てられたようなインパクトを与える映画だ。映画の始まるシーンでは、冬のおわり、寒空の下、乾いた空気と枯れ葉の映像が写される。かすかにピアノの音が聞こえてくる。低い Eの音の連弾。この音が段々大きな音になって響き渡る。呼吸が速くなって、恐怖感が増してくる。音が最大限まで大きくなって緊張感が最大限まで高まる。そうして映画が始まる。映画の最初のシーンで、もう監督は観客の緊張感と集中力をわし掴みにしてしまうのだ。
少年が誘拐されて血に染まったり殺人犯に切り刻まれる訳でもなく、どこの目鼻があるのかわからないほど殴られ虐待されるわけでもない。映画の中で、血が一滴として流れるわけでもないのに、これほど恐怖心が湧き、心が痛む映画も珍しい。ひとえに監督の作り出す映像の手法の巧みさにある。

監督は「現代には濃いかたちで存在する愛がない。そのラブレスな状態を見せたかった。」「AIに職業が奪われていくような時代です。我々は他人を犠牲にしなければ生き抜けない。狂気じみた生存競争のなかにいる。芸術家は時代を切り取る者。今の状況を映す映画や文学が多く生まれるのは当然のことです。」と言っている。この監督は2014年にロシアで、国内の官僚による腐敗を告発するフイルムを作って、その発表を政府に止められた経緯がある。それを同情する映画界の国際的な支持があって、この映画がカンヌ映画祭で審査員賞を与えられた、といわれている。政府の内部告発が、現代社会への告発にぼやけさせられた、そんな形でしか映画が作れなかった、ということかもしれない。

ゼ―ニャはいつも携帯電話を見てばかりいる。恋人とデイナーテーブルに付いているときでさえこれを離さないで、グにもならない写真を撮っては自己陶酔している。アレクセイが居なくなって3年経って恋人と一緒に暮らすようになっても、二人の間に会話はなく、彼女が幸せそうには見えない。
夫のボリスもゼ―ニャが妊娠して結婚せざるを得なかったように、新しい恋人マーシャが妊娠して再婚したが、そのことによって彼の人生が変わったわけでも、新しい結婚生活に愛が溢れているわけでもない。赤ちゃんが泣くわめくと、ベビーコットの中に無理やり押し込んで、赤ちゃんが泣くわめこうが抵抗しようがお構いなしだ。
ゼ―ニャと母親とのやり取りも見れば、ゼ―ニャが母親から充分に愛されることなく孤独な子供時代を送ったことは容易に想像できる。おそらく夫のボリスも同じだろう。どこにも愛がない。愛など見つかる筈がない。

愛情をもって育てられなかったアレクセイがどれほど心に深い傷を負っていたか。映画の初めで彼が夫婦喧嘩を聞かされた翌日に姿を消し、2度と姿を現さなかったことで彼の心の傷の深さを思い知らされる。
自分以外の人を愛せない人は、結婚相手を変えてみても、子供を変えてみても,愛は見つからない。なぜなら、愛はどこかに落ちているものではなく、それを持っている人と一緒になれば得られるものでもなく、自分で見つけて、育てるものだからだ。相手の生き方の中に入って行き、自分と違う相手を発見して、そのことに喜びを見出すことだ。自分と違う相手の存在を喜び、共有できるものを相手と一緒に探すこと、そういった努力を伴う行為が愛であり、人も自分も幸せにすることができる。

ラブレスという親から子への虐待を止めるには、愛が欲しいと相手を変えて見たり、別の土地に移って見たり、愛が欲しいと叫んでみても、かなえられない。ラブレスは親から子へ虐待という形でおこり、その子供が再び同じように、次の子供に虐待を繰り返す社会的な不幸の連鎖を招く。愛を見つけるには、自分を見つめることだ。自分でなく相手との違いを喜び、共感することを喜ぶことだ。愛する人が居るということが、どんなに大きな生きる支えになるか、喜びも悲しみも、怒りや驚きや笑いや、憎しみさえも愛に値する人がいるから起きてくる感情だ。愛するもののためにどんなことでもしたいと思うとき、生きる価値も出てくる。

映画ではアレクセイを探し出すためにたくさんのボランテイアが出てくる。実際にロシアで活躍するリーザ アラートという組織だ。頼まれてやるわけではない。自分の子供が突然居なくなったらどう感じるか、よその親の心配を自分の子供を心配するように思って、警察の捜査に協力する。集まって来るのは普通のおじさん、おばさんたちだ。素晴らしい人々。オーストラリアでも山火事の消防隊、ビーチでのレスキュー、山で行方不明になったひとの捜査隊、みなボランテイアで、彼らは人々の英雄だ。こうしたボランテイアの経験者は誰からも尊敬されている。人の為に生きること、それが自分のために生きることだ。このトルストイの言葉はいつも私を勇気付ける。

音楽がとても良い。ユージン ガルペリンと、サッシャ ガルぺリン兄妹の作曲だという。映画の初めのE音の連弾は、映画の最後でもこの激しい連弾で終わる。この迫力が素晴らしい。
どのシーンで使っていたのかとうとうわからなかったが、アルヴォ ペルトの曲も使われているらしい。エストニア生まれの宗教音楽、古楽、三和音などを得意とする作曲家だ。彼の音楽は鎮魂の音楽と言える。この人の世界が、この映画の湖や森の映像にそっくり重なって来る。

関係ないけど、一流企業に勤めるボリスの会社のランチシーンが面白かった。アメリカ映画だったら、女子はバナナ、リンゴとヨーグルトとかでゴリラのランチと同じような内容だし、ごっつい男なら野菜なしの骨付きステーキが普通みたいで、もう見飽きたけど、ここではさすがロシア。ボリスはでかいポテトがいっぱいと肉団子。彼と「離婚したら出世に響くかなあ。」などとしゃべっている同僚は、ブロッコリー山盛りと魚のシチューみたい。それにデザートらしき小皿がついていて、ふたりとも別の小皿に入った生野菜から食べ始めていたのには、感心感心。健康ですね。愛がないけど。

日本では去年のアカデミー賞で話題になって公開されたらしいが、こちらではやっと今頃公開された。この映画 哀しい哀しい映画だ。

2019年5月2日木曜日

映画「ボヘミアンラプソディ」と「ホテルムンバイ」

      
映画「ボヘミアンラプソディ」が、2019年第91回アカデミー賞で、主演男優賞、編集賞など4つの賞を取った。
映画は、フレデイ マーキュリーが生きていた時代にはまだ生まれていなかった若い人々を魅了させ、クイーンが再び脚光を浴びる結果となった。彼らが1981年にサンパウロのエスタジオ ドモルンビーで行ったコンサートは、観客数で世界記録を作り、未だにどのロックグループも記録更新できずにいる。1986年8月に英国ネブワース公演で、30万人の観客の前で、フレデイが絶唱したのが、最後のフレデイのコンサートになったが、この何十万人もの観客が熱狂する姿が、フレデイの目に映るシーンが、この映画の最高に興奮するところだ。フレデイの大きな目の隅から隅まで、フレデイのパフォーマンスに酔いしれる観衆若者達の姿が捉えられている。フレデイは演奏者と観客の興奮を、一つに一体化させて、観客を熱狂の渦に巻き込むことにおいて天才だった。

彼らの音楽は、ジャンルにとらわれることなく、ロカビリー、ロック、ヘビメタル、ゴスペルなどを取り入れて抜群にユニークな音楽を作った。
映画の中で、これから何をやるんだ、と聞かれてフレデイが、「俺たちオペラやるんだよ。」と言い、意表を突かれたブライアンとロジャーとジョンが、一瞬ののちにそろって、「そうだよ。俺たちオペラやるんだよ。」というシーンがある。そうして、オペラチックな「ボヘミアンラプソデイ」が生まれるのだ。かっこいい。
ブライアン メイ、ロジャーテイラー、ジョン デイーコンが一人ひとり個性を持った、知的で多才な男達で、それぞれが4人4様でいて、とてもイギリス人的。仲の良いグループだった。
例えばブライアン メイは、宇宙工学博士で、大学で研究も講義もしてきたし、自分の工学的知識をもとに特殊音響効果音を自作のギターで創作してきた。ロジャー テイラーは歯医者だ。フレデイを含めて全員がピアノもギターもシンセサイザーも演じて歌うことも作詞作曲もする、すぐれた音楽センスを持っている。
フレデイの死後、最もフレデイと仲が良くて、つながりの深かったベースのジョンがフレデイ追悼コンサートのあと引退して、2度と舞台に立たなかったことも泣かせる。

この映画が成功したのは、主演したラミ マレックがフレデイそっくりにその姿を再現したことと、彼が歌っていた歌、すべてが本物のフレデイの声で編集されたことだろう。
今年のアカデミー賞授賞式で、トップにクイーンが登場して「WE ARE CHAMPION」と「WE WILL ROCK YOU」を歌ったのは嬉しいサプライズだった。ブライアン メイのギター、ロジャー テイラーのドラム、アダム ランバートのボーカルだ。パフォーマンスのあと、71歳のブライアン メイと、69歳のロジャー テイラーは会場に残って授賞式を楽しんで居る様子が見られた。二人とも知的で優雅で美しくて、最高だ。

ところでフレデイ マーキュリーがエイズで亡くなったことはみな知っているが、ゾロアスター教信徒だったことはあまり知られていない。
フレデイは当時英国領だったアフリカタンザニアのザンジバル島で生まれた。幼少期は英国領だったインドで育ち、17歳で家族と共に英国に移住して、彼はロンドンの工業学校とイ―リングアートカレッジでデザインを学ぶ。両親は敬虔なゾロアスター教信徒だ。
ゾロアスター教には厳しい戒律があり、布教はしないこと、両親が信者だと子供も信者と認められるが、多宗教の信者と結婚すると信者であることを捨てなければならないと決められている。
もともとゾロアスター教は、古代ペルシャで、ツアラストラが創設した善悪2元論の宗教だ。紀元前からサーサン朝まで、ペルシャでは国教として信心されていたが、7世紀になってイスラム帝国の軍事侵攻によって、ペルシャがムスリムに改宗されたことを切っ掛けに、迫害された信者たちはインド西部に逃れた。この時、ヒンズー教がマジョリテイーのインドに、ゾロアスター教を布教しないことを条件で定住を許された。だから信徒は、現在10万人くらいで、減少するばかりだ。
ゾロアスター教といえば鳥葬で有名だ。沈黙の塔の石板に遺体を乗せて鳥がついばむのに任せる、究極の自然主義リサイクルだが、いまは法的に禁止され土葬になっている。
余談だが日本のカーメイカーのマツダは松田さんという創業者によって命名されたが、ゾロアスター教の守護霊アブラ マズダーの名をかけて、MAZDAが正式名になっている。

インド最大の国際金融都市、ムンバイ(かつてのボンベイ)には、ゾロアスター教信徒が大勢居住している。彼らは、かつての東インド会社との関係が深く、貿易関係者や知的職業人が多い。中でもタタ財閥は、現在のインドの金融商業活動で最大のパワーを持つ財閥だ。このタタ財閥が所有する1903年に開業した、タジマハールパレスホテルは、世界中から来た政治家、王侯貴族などが滞在する最高級のホテルだ。スイート46室を含む565室、22階建ての美しいホテル。このホテルが、2008年、175人の命を奪ったムンバイ同時多発テロで襲撃され多数の被害者を出した。放火されて建物のトップにあったドームはいまだに修復されていない。この様子が映画になった。

邦題:「ホテルムンバイ」
原題「HOTEL MUMBAI」
監督:アンソニー マラス             
キャスト
デヴ パテル : アジュン ホテルの給仕
アーミー ハマー:デヴィッド アメリカ人旅行者
ナザ二ン ボ二アデイ : ザラ デヴィッドの妻
テイーダ コバン ハーベイ:サリー ザラ夫婦の子の乳母
アヌパン カー: ヘルマン ホテルヘッドシェフ
ジェーソン アンザック: ロシア人ホテル滞在客
ストーリーは、
2008年11月26日、いつものようにタジマハール パレスホテルでは仕事始めの朝礼が始まっていた。アジュンら、給仕たちは一列に並びヘッドシェフ、ヘルマンから、お客様を神様と思って尊重し、満足されるように給仕するようにと訓示され、身だしなみから姿勢まで厳しくチェックされる。その日もいつもと変わらず、ホテルマン達は、忙しく立ち働く。 
イラン系英国人貴族のザラが、アメリカ人の夫デヴィッドと赤ちゃんのキャメロン、乳母のサリーを伴ってホテルに到着する。夫婦は乳母を赤ちゃんを部屋に残して、階下に食事に出る。

一方10人の自動小銃や手榴弾で完全武装した男達が、パキスタン、カラチ港から貨物船で渡航、ゴムボートに乗り換えてムンバイの海岸に到着した。男達は二人ずつ分かれて、夕方で混雑している駅やカフェや映画館などで、いきなり無差別乱射を始める。外国人に人気のカフェで夕食を楽しんでいた、アメリカ人のバックパッカーたちの目の前が血の海となる。

チャトラパテイシヴァ―ジ駅、オベロイトライデントホテル、レオポルドカフェ、カマ病院、ユダヤ教ナリーマンハウス、メトロアドラブ映画館、マズガーオン造船所など、12か所で、人々が一日の仕事が終わり夕食を取る時刻に、突然乱射が起こった。警察は前代未聞の出来事になすすべもなく、特殊部隊の救援を頼みに待つばかりだった。
街で起きている無差別乱射から逃げ惑う人々が、助けを求めてドアを叩いたのが、タジマハールパレスホテルだった。パニックに陥っている人々は、群れを成してホテルのロビーになだれ込むが、その中にはテロリスト達も紛れ込んでいた。ホテルのロビーで情け容赦ない射殺が始まる。階下のロビーやレストランでの殺傷は一段落すると、犯人たちは、オペレーターに銃を突き付けて、客達に一室一室のドアを開けるように命令する。ドアを開けた宿泊客たちは、たちどころに撃たれる。

ザラとデイヴィッドはレストランに身を伏せて、銃も持った犯人たちの様子を窺う。ホテルの部屋では、事態を知らずにいた乳母は、突然隣の部屋に宿泊していた老婦人が、血相を変えて部屋に踊り込んでトイレに隠れ、それを追ってきた男達が撃ち殺すのを間近に見て、洋服ダンスのなかに隠れる。レストランからデヴィッドが、犯人たちのすきをついて赤ちゃんを助けに階上に上がろうとして、犯人に人質として捕らえられる。
ホテルのヘッドシェフのヘルマンと、給仕のア―ジェイは、レストランに隠れていた生存者を安全な会議室に誘導する。そこに外から逃げ込んできた人々も合流する。テレビは、多発テロで混乱する駅や町の様子を放映している。

ニューデリーから、軍の特殊部隊が到着するのに何時間も待たなければならない。すでに、その時間は過ぎ、1日経っていた。ザラや、謎のロシア人客らは、救援がもう来ないのではないかと絶望的になり、ヘルマンやアージェイの助言を聞かずに、自分達でホテルから脱出しようとする。しかしそれらの宿泊客達は、待ちかまえていた犯人たちによって殺され、ザラは人質として捕らえられる。人質にされたデヴィッドは、見張り役の犯人の銃を奪おうとしてザラの目の前で死ぬ。犯人たちと警察との交渉は、決裂した。火がつけられ、人質にされた外国人たちは一人ひとり撃ち殺される。ザラは銃の頭に向けられて、必死でコーランを唱える。その女の頭を犯人は銃で吹き飛ばすことができない。
丸2日かかって、軍の特殊部隊300人がホテルの犯人たちを一掃、テロリストの襲撃は終わった。

10人のテロリストによる乱射で175人の命が失われ、そのうちの34人が外国人だった。犠牲者の一人に三井丸紅液化ガスの日本人社員もいた。
ニューデリーから、軍の治安特殊部隊の到着が大幅に遅れ、一般市民が無差別に殺害され始めてから、丸2日たっても10人の犯人を捕らえることができず、市民の救命が遅れた理由のひとつに、タジマハールパレスホテルが、インドの大多数がヒンズー教信者ではなく、ゾロアスター教信者の所有するホテルだったこともあったのではないか、と言われている。

映画ではロシア人で秘密部隊で働いていたらしい謎の屈強の男が出てくるが、ザラを守ろうとして、あっけなく殺される。ハンサムの代名詞みたいなアーミー ハマーも生存できない。
映画の中で、足を撃たれて動けなくなった犯人の一人が、人質たちの見張り番を任される。彼は怪我の痛みに耐えかねて、故郷の父親に電話をする。「パパ、元気?組織からお金を受け取った?」「え? まだなの?受け取ってないの?」 息子の英雄的アタックの命の代償として大金が父親に送られる、という組織の話がウソだったことが分かる。自分は捨て石だった。彼は泣きながら「パパ、元気で。」と言って電話を切り、一人ひとりの人質を処分していく。

今年2019年4月2日に、スリランカのコロンボで起きたイスラム国によるカトリック教会への爆弾テロでは250人の命が失われた。ニュージーランドのクライストチャーチでは、たった一人のレイシストによって、モスクが攻撃されて50人の信者たちが亡くなった。
これらで犯人らが使ったのが「AK自動小銃」だ。今ではオーストラリアでもニュージーランドでも所有が禁止された。これら自動的にたくさんの弾丸が連射できる銃を、「卑怯者の銃」という。狩猟は原始からある男の究極のスポーツだという人があるが、殺傷目的に開発された銃をスポーツとして狩りに使うなら、動物が苦しまずに綺麗に死ねるように、たった1発で仕留められることが、スポーツだろう。安全なところに隠れていて連発銃や散弾銃で獲物の姿が形をとどめないほどにして殺すのは、冷血で精神を病んだ者のすることだ。スポーツからは程遠い。銃は断じてスポーツではない。一度に沢山の人を殺すためのものだ。

「卑怯者の銃」AK47など自動小銃は、一度弾を込めて発射すると、発射時に発生する高圧ガスが次の弾を薬室に押し出すので自動的に再装備することができる。1分間に600発もの発射が可能な自動連射小銃が開発されている。自分が安全なところに隠れていて、短時間で最大数の「けもの」を殺すことができる「卑怯者の銃」だ。

もともと武器は、帝国主義国が他国を侵略するときに、自分達とは、肌の色や宗教や、文化の異なった人々を「野蛮人」と断定して自分たちの都合の良く植民地化する目的に使われた。野蛮人でも奴隷でもない人々が、帝国主義者が使ったのと同じ武器を持って反撃に転じるのは当然の成り行きだ。
いまテロリスト達に大量殺人が行える「卑怯者の銃」を製造販売しているのは、最先進国米国、英国、フランス、ロシア、中国、イスラエルの国々の企業だ。シリアで反政府軍に武器を供給してきたのは米国だし、トルコ、カタールといった国々とも兵器を供給している。こうした武器を使って米国や英国はアフガニスタン、イラク、スーダンや南米の国々に直接介入してきた。武器の供給の過程で、それら巨大な武器製造企業の裏では、マフィアともつながっている。

テロリスト達に大量殺人が行える武器を製造供給しているのは最先進国の企業だし、売れれば売れるほど人が死に、死の商人は肥え太る。テロリストは最先進国の企業が育てているのだ。 ロンドンもパリも執拗に狙われている。私たちは明日、どこかで爆弾の爆発や、無差別乱射に巻き込まれて命を落とすかもしれないという、危険の中を生きている。そんな場面に行き当たったら生き残るかどうかは、運次第と言うしかない。
そうした病んだ社会を資本主義が育てて来た。武器生産を止めるしか道はない。人は誰ひとり、人をだまし、傷つけ、殺すために生まれてきたのではないからだ。

「ホテルムンバイ」のようなデザスター映画は、見た後でいろんなことを考えさせられるが、これを観るなら「ボヘミアンラプソデイ」を3回みることをお勧めする。元気が出る。