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2018年12月24日月曜日
是枝祐和の映画「万引き家族」
私は1987年から1996年までフィリピンで夫の赴任のために家族で暮らし、そのまま帰国することなく、オーストラリアに移住した。22年経つから、30年余り日本で暮らしていない。だから、日本の貧困が実感として全くわかっていない。
1970年代、どんなひどい麻雀学生でも、ベトナム反戦運動で授業に出る暇のなかった学生も、みな結構大手のマスコミや企業に就職していたようだし、コネのない自分でも見栄も外見も気にしなければ食い詰めることはなかった。逮捕された友人たちの保釈金もバイトで作ることができた。朝鮮特需、ベトナム特需で他国の戦争を食い物にしてきた日本経済は、好調で仕事はいくらでもあったし、どんな馬鹿でも就職できた時代だった。
パリ大学の経済政治学者トマ ピケデイも言うように、資本家が十分以上に収益を得た好景気の時期には、賃労働者にも配分が充分行き渡る。好景気の下では、労働者が平均以上に生産性を上げ、配分も多く得られる。本来資本家と賃労働者の利害は対立するが、それでも余るほどの需要供給に見合う生産があったのだ。ただし好景気かどうかに関わらず、賃金格差は拡大する一方で、今後の世界経済に希望はない。資本主義社会が続く限り貧富の格差は開く一方で、庶民が貧困から脱却できる方法はない。
90年のバブル崩壊、2008年リーマンブラザーズに始まる米国の株暴落により、日本の不況はすでに20年続いている訳だから、日本社会の貧困の進行、こどもの飢餓、老人年金の減額など理屈ではわかるが、じっさい記録を読むとびっくりする。
日本全体で非正規雇用者が2000万人を超えて、全労働者の約40%を占めているという。年収200万円未満の人が1000万人を超え、生活保護受給者が215万人、貧困ラインの人は2000万人。何よりも驚くべきことは、貧困者の10%しか生活保護を受けられずにいるというのだ。福祉行政官は何をやっているのか。福祉行政に関わるものたちは、10%の人だけ生活保護するだけで平気でいるならば、自分たちは10%分の仕事しかしていないことになる。それならば、福祉行政官たちは、90%のサラリーを返上するべきではないか。
地域の福祉行政担当者は10%の仕事しかしていないことを恥じて、障害のために役所まで行って書類を記入できない人、知的障害のために生活保護申請ができない人、学校にいけない子供、充分食べられない子供を探し周り、発掘するために足を棒にして探し回るのが仕事ではないか。そんな思いで、頭に血が上っているときに、この映画が、シドニーでも上映されたので観て、さらに怒っている。偽政者は、貧困を社会現象にするな。
邦画;「万引き家族」
映画タイトル:「SHOP LIFTERS」
監督: 是枝祐和
カンヌ国際映画祭2018パルムドール受賞作品
キャスト
リリーフランキ―:柴田治
安藤サクラ:柴田信代 治の妻
樹木希林 : 柴田初枝 治の母
松田茉優 : 柴田亜紀 治の義妹
城檜吏 : 柴田翔太
佐々木みゆ: ゆり
柄本晃 :山戸頼次 駄菓子屋主人
ストーリー
東京荒川区にある古い平屋。
年金生活をしている初枝の家には、日雇いで働く息子の治とその妻、信代、信代の妹の亜紀、そして息子の翔太が一緒に暮らしていた。初枝の年金と、息子の日雇い収入と、妻がクリーニング屋に勤める収入を合わせても、生活していくには苦しく、家族は足りない分は治と翔太とで万引きをして工面して生計を立てていた。
初枝には、むかし浮気をして出て行き、再婚して別の家庭をもち、いまは裕福に暮らしている息子夫婦が居るが、その家に毎月通って「慰謝料」をせしめていた。彼女がパチンコ屋に入れば他人の箱を盗んで平気でズルをする。
息子の治は、日雇いにあぶれた日は、翔太を連れて万引きに出かける。治は翔太に、店の商品はまだ誰にも買われていないのだから誰のものでもない、と言って万引きが罪ではないと言って聞かせ、学校は学校に行かなければ勉強できない馬鹿の行くところだ、と説明して学校に行かせないでいる。
信代の妹、亜紀は風俗営業で身を立てている。
ある冬の夜、治と翔太はアパートのドアの外で寒さに震えている小さな女の子を見つけて家に連れて帰る。ゆりの体に無数の体罰の跡をみつけた家族は、家に帰りたがらないゆりをそのまま自分の家の子供として引き取ることにする。貧しくても心の通った優しい家族。
冬が過ぎ、夏には家族で海に行って海水浴を楽しんだ。それを最後に年には勝てず、初枝は亡くなる。葬儀代を出せない家族は、遺体を床下に埋める。初枝の年金はそのまま、嫁の信代が引き出して何事もなかったように生活を続ける。
しかし翔太は、初枝のへそくりを見つけて大喜びする両親の姿や、車の窓を破り車荒らしする父親を見て、徐々に疑問をもつようになる。ある日、万引きをした駄菓子屋の主人に、妹にだけは万引きをさせてはいけない、と言われたあと、ゆりがスーパーで万引きを真似しようとしたので、わざと自分が捕まるように派手に店のものを奪って逃げ、追われて道路から落ち怪我して病院に運ばれる。
家族はこれを知って、家族の秘密が漏れることを怖れて、荷物をまとめて逃亡しようとしたところで警察に逮捕される。初枝を埋葬しなかった死体遺棄、ゆりを家に連れて来た幼児誘拐、初枝の年金を受け取っていた横領、翔太を学校に行かせなかった保護者責任放棄、罪状は限りなくある。信代が一人で犯罪を犯したことにして、信代は刑務所に入り、翔太は施設に保護され、学校に通うようになる。亜紀もゆりも家庭内で児童虐待をされていたと思われる両親のもとに戻る。
治と信代とはむかし暴力をふるう信代の夫を殺害して死体を遺棄した罪で、治だけが罪をかぶり刑務所で刑期を収めた過去がある。そんな夫婦に同情した初枝が、息子として治を自分の家に住まわせるようになったのだった。そこに初枝のもと夫が残した息子夫婦の娘、亜紀が加わり、パチンコ屋の駐車場で車の中に置き去りにされていた翔太が家族に加わり、さらにゆりが連れてこられた。6人は全員が全く血のつながりのない擬似家族だった。
1年経ち、信代の依頼で、治は翔太を連れて刑務所に面会に行く。そこで、信代は厳しい顔で翔太に、松戸のパチンコ屋の駐車場から翔太を連れて来たことを話し、その車のナンバーを伝える。これで翔太は、望むならば本当の両親を探し出すことも出来る。
その夜、翔太は治に、自分が病院に送られた時、自分を置いて逃げようとしたのかどうかを問う。治はそうだと言い、そんな自分を恥じ、これからは、「とうちゃんじゃなくて、自分は翔太のおじさんにもどる」、と言う。翌朝,翔太は治にむかって「自分はあのときわざと捕まったのだ。」と告白してバスに乗り込む。去っていく息子を必死で追いかける治、、、その先にもう息子は居ない。
というストーリー
是枝監督は、「血縁がつながっていない共同体というモチーフをここ10年追いかけて来た。」と言う。私が観たのは「誰も知らない」と「「そして父になる」2013。「誰も知らない」では無責任な夫婦によって戸籍のない3人の子供達が世間から隠れて生きざるを得ない姿に胸が締め付けられるようだった。「そして父になる」では赤ちゃんの取違いで苦しむ親たちよりも、そういった苦しむ親の姿に翻弄される2人の息子たちが痛々しくてたまらない思いだった。
今回、カンヌ国際映画で最高賞が与えられ、文部科学大臣が監督に会いたがったが、是枝監督が「公権力とは潔く距離を保つ。」と言って会見を辞退したと聞く。確かに国の教育普及、科学技術向上、文化財保護などを担当する役人から「おほめをいただく」必要など全くない。役人が真面目に仕事をして、児童に十分な保護と福祉対策を講じ、必要としている家族に生活を保障していれば、このような映画は作られていなかった。
子供を作る能力がないうえ、受刑して婚期を逃した治には、家庭を持って子供を育てたいという願いがとても強かった。また、夫から暴力を受け、まともな結婚生活を経験していなかった信代も子供を育てたい母性本能が強かった。なによりこの夫婦にはあたたかい家庭が欲しかったのだ。独居老人、初枝の寂しさと優しさが、治と信代夫婦につながり、不幸な子供達が集められて偽装家族が形成された。福祉政策や教育行政に血が通わないかぎり、このような家族や子供達があちこちに多発しても不思議ではない。生活保護を必要とする人々の90%が、保護されていないような現状では治家族のように生きる人がでてきてももんくを言えない。
それでも私は「どうして翔太を学校に行かせなかったのか。」と腹を立て怒りでいっぱいになる。治も信代も初枝も自分達だけは、曲りなりにも学校教育を受けたのに、どうして翔太に教育の機会を与えなかったのか。治にとって学校は「学校に行かなければ勉強できない馬鹿が行くと所」だったかもしれないが、そういった結論を出すのは翔太ではないか。治では断じてない。子供は社会的な動物だ。親だけの力で大人になることはできない。優しさでつながりたかった治は、結果として翔太が学校に行く選択の機会を奪い、翔太の個人としての自由と尊厳を踏みにじり、教育を受けるチャンスを奪った。このことは、老婆の死体を床下に埋めたり、万引きで食いつないだり、家庭内で暴力をふるうことよりも、ずっと罪深い。ラストシーンで、去っていく翔太を乗せたバスに、治が追いつくことは決してない。
映画のキャッチフレーズが、「盗んだのはきずなでした。」ということになっているが、「きずな」はそれほど大切か。人は優しさだけでは生きていけない。思いやりだけではつながっていられない。だいたい「家庭」で、傷つかずに育ってきた人がどれだけいるだろうか。子供にとって、物理的なせっかん、教育と言う名の暴力、明白な男女差別、長男特別扱いによる順次差別、他児と比較して選別に欠け、競争に駆り立て、ネグレクト、子供の意志を踏みにじり、捻じ曲げ、押さえつけ、屈服させ、子供の人生に介入して破壊する。こういったネグレクトの全部、過酷な人権無視を、優しさと善意で行なっているのが「家庭」ではないだろうか。子供時代の私にとって家庭は、権力者によって日々屈服させられる拷問でしかなかったし、大学入学と同時に家出したころは満身創痍、傷だらけだった。父にも母にも姉にも兄にも個人として尊重された日は一日もなかったと断言できる。
国家という組織が軍事力を背景に権威によって個人を収奪する暴力装置だとすると、「家庭」は最も小さな単位の、親という権威による支配構造を形造っている。家庭とは国家の末端に属する暴力装置だ。
物理的にも経済的にも子供を完全支配する力を持つ親は、しかし、だからこそ権力者になってはいけないのだ。子供を玩具にしてはいけない。子供を支配してはいけない。
「家庭」よりも「個人」がひとりひとり良き人間として生きること、まっとうな生き方をする努力を続けることが大切なのではないか。強い個人が居て、初めて他人を尊重できる個人との関係が構築できる。真面目に学び、真面目に働き、心から人を愛し、愛するのもをいつくしみ大切にする、そのような強い個人が確立していなければ家庭は作れない。
権力構造を持たない家庭を作ることはたやすいことではない。何時壊れても、再生出来る家庭、流動体でボスのいない家庭。強い個人と個人の結束によって形作られた家庭。
互いのリスペクトによって結び合うことのできる家庭。そういった家庭を私は夢見る。
良い映画だが、考えることの多い映画だった。