ページ

2014年5月10日土曜日

映画 「そして父になる」




人は一度は自分はこの家の子供じゃないのではないかと、思ったことがあるのではないだろうか。98歳で亡くなった私の父は、大学では学生たちから敬愛され、それなり威厳を保っていたが、家では暴君。それでいて小心で気が弱く、亡くなるまで自分が長男なのに、実の母親から愛されず無碍にされていた、と娘の私に「告白」しては、子供のようにグジグジすることがよくあった。そんな大人げない人は 父だけかと思っていたら、親しくなった人の中にも、自分がもらいっ子だと思い込んでいる人が何人かいて驚いたが、再婚したオットまでが、同じようなことを言い出すのには、閉口した。世の中は「心の孤児」、「充分愛されなかった、もらいっ子みたいな子」、「みなし児みたいな寂しい子」で、あふれているのかもしれない。

映画「そして父になる」を観た。英語のタイトルは「LIKE FATHER LIKE SON」
監督:是枝祐和
キャスト
野々宮良多:福山雅治
野々宮慶多:二宮慶多
斉木雄大 :リリー フランキー
斉木琉晴 :黄升呟
第66回カンヌ国際映画祭2013年に出品された時に、上演後10分間のスタンデイングオベーションを受けて話題になった作品。

映画のストーリーは、
病院で赤ちゃんを取り違えられた二組の親たちと子供たちのお話。子供が6歳になり小学校に入学するために受けた血液検査で、一組の親子がじつは親子ではなかったことが分かり、同じ日に生まれた赤ちゃんが、間違って別の親に引き取られて育っていた事実が分かった。自分の子供として6歳になるまで育てて来た子供が、血のつながった子供ではないことがわかった夫婦の苦悩は大きい。二組の夫婦は、病院で引き合わされ、提案に従って血のつながった実の親子に早いうちに戻すことが、子供たちにために良いと言われて、互いに子供たちが実の親に慣れるように、週末は子供を交換したり、一緒にピクニックに行ったりして互いに慣れるように、試してみる。しかし、当の二人の子供たちは、どうして自分が、親許から引きはがされなければならないのか、そして、今まで会ったこともなかった人の家庭に泊まりに行かなければならないのか、理解できない。強引な子供の交換に、二人の子供たちは混乱するばかりだ。二組の夫婦も病院を相手取って訴訟を起こすが、6年間育てて来た子供を失うことによって深く傷つく。というお話。

たった6歳の子供たちが、突然親から引き離されて、孤独の崖っぷちに突き落とされるような経験をさせられる姿が、可哀想で可哀想で、とても感情的につらい映画だ。
福山雅治とリリーフランキーの二人の父親の対比が、興味深い。エリート社員と、しがない自営業者。上向志向の塊のような男と、出世と縁のない田舎の電気屋。勝ち組と、落ちこぼれ組。都会暮らしと、田舎者。個人主義と、大家族。核家族と、祖父まで含めた6人家族。有名私立小学校と、公立。金銭的に余裕のある家庭と、やりくりに苦労する家庭。すべてが正反対の対称をなす二人の父親の違う点は無数にあるが、共通するのは二人とも息子を愛していて、自分が一番良いと思う育て方をしてきたことだ。

慶多の父親は有名大学を出て一流会社に勤めていて自分が子供のときに、親に遊んでもらった記憶がない。自分の子供にも、ひとりで何でもできるように厳しくしつけて来た。自分がそのようにして育てられ、それが一番良かったと思っているから、自分が育ったように息子を育てているが、息子は人が良くて競争心に欠けるところに、苛立ちを感じる。だから、琉晴の父親に、「子供と遊んでやってくださいね。」と言われて戸惑う。6歳の男の子にとって、野外で思いきり体を使って遊ぶ時期に、遊びのルールやほかの子供と遊ぶ社会性を培う基本を父親から教わることができない子供は不孝かもしれない。しかし、だからといって子供と一緒に泥だらけにならない父親が悪い父親だとは思わない。
私自身、親に遊んでもらったことなどないし、七五三も、ひな祭りも、子供の日も、成人式も、誕生日でさえ、親に祝ってもらったことなど一度もない。学校で他の子供の話を聞いたりして、自分の親はよその家とは違った変な家なのだと自覚したが、よその子供を特にうらやましいと思うこともなかった。

慶多は仕事が忙しくて自分をかまってくれない父親をみて、いつもいつも寂しかった。それがいつも子供と遊んでくれるお父さんが本当のお父さんだと言われて、父親が迎えに来たときに「パパなんかおとうさんじゃない。」と言い放ち抵抗する。しかし、慶多がもう少し大きくなったら、一緒に泥だらけになって遊んでくれる父親よりも、知識が豊富で聞いたことに何でも答えられる知識人の父親や、難解な数学を教えてくれる父親の方が頼もしいと思うようになるだろう。頼りがいのある親もそうでない親も、出来の悪い親も、優秀な親も、子供はそれを自分の親として、じきに認識するようになる。そして、いずれはどんなに優秀な親も そうでない親も、子供から否定される時が来る。親は否定され、子に乗り越えられていくものだ。

一方、父親の側から考えると、子供に何を期待しても期待通りには子供は育たない。子供の性質は変えられない。子は自分の性質を持って生まれてくる。おっとり型マイペースで、他の子供との競合を嫌う子供もいれば、競争が楽しくて仕方がない積極的な子もいて、それらの特質を兼ね備えて子供は生まれてくる。親は子供のそういった特質をよく見て、良い点が伸びるような環境を整えてやることができるだけだ。
慶多はピアノが好きではないが、自分が練習するとピアノを心得ている父親が喜ぶので、練習を続けている。しかし慶多はそんな環境が合わずピアノをじきに止めるだろう。親がピアノを買い、小さなときから先生のところに通い叱咤激励してきた親の期待は無駄になる。
一方、琉晴は田舎の大家族で、家計のやりくりに苦労する家庭で3人兄弟の長男として育ってきたから、慶多のようにおっとりはしていられない。本当の父親の負けず嫌いや競争心の強い気質を受け継いでたくましい子供になっていくだろう。やがて知識欲を充分満たしてくれない心優しい父親を疎ましく思い、自立心の旺盛な子供になるだろう。そのようにして、父親は子供に乗り越えられていく。
親は子供が成長するごとに何度も何度も自分の期待を裏切られ、そのことによってありのままの子供を愛し、見守っていくことになる。

この映画では6年間、育てて来た子供が自分の子供ではないことが分かり、子供を本来の親のところに交換したあと、もう互いに会わないようにしようと 親同士で約束するが、子供たちは育ての親のところに帰りたがる。親たちは、どちらの子供を育てていくのか、結論を出すことができない、というところで終わる。親には、結論など出せない。決めるのは子供たちだ。子供が親を親と認識するまでは、決定することなどできない。映画の中で、病院で起きたことのために「私たち家族は一生苦しむことになる。」という台詞が繰り返して言われる。
そうだろうか。
子供の成長は早い。いずれ子供は親を乗り越えていく。いずれ子供は親を必要としなくなる。親は、子供のことを心配するより自分の心配をした方が良い。自分が老いて子供にめんどうをかけずに済むように、子供の世話にならずに上手に老いていけるように準備することだ。

ちょうど映画を観た後、アメリカの実際の赤ちゃん取り違いを追ったドキュメンタリーフィルムを観る機会があった。病院の手違いで小学校低学年の女の子が、血の繋がっていない親に育てられていた。同じ日に生まれた二人の女の子は、同じ小学校に通っていた。親たち、4人が顔を合わせて深刻な話し合いを続けた結論は、4人の親で2人の娘たちを 同じように可愛がって育てようということになった。子供同士も親友になった。二人して、双子のように今日はこっちの家、来週はあっちの家というふうに学校から帰ってくる。「私たちにはパパが二人いて、ママが二人もいるの。」と嬉しそうに笑顔で言う女の子たちの姿は感動的だった。
子にとって親(親代わり)は多いほど良い。親にとっても子供が多い方が良いだろう。小さな土地で核家族では息が詰まる。親と子は、互いにもっとクールに生きていけたら良い。

映画では子供たちの演技が自然でとても良かった。監督の前作「誰も知らない」も、印象的な心に残る作品だった。この監督の次の作品が楽しみだ。