www.eurovision.tv/page/history/year/participant-profile/?song=26903
昨年の優勝者を出したアゼルバイジャンの首都バクで開催されていたユーロビジョン ソングコンテストの結果が、昨夜出た。
今年の優勝国は、スウェーデンで、歌手のローリーンが パワフルなパフォーマンスで予想通りに、最高評を取った。
ユーロビジョンはヨーロッパの各国が、一組ずつ代表歌手を出して、国ごとに争うもの。評価は、テレビや会場で見ている人たちの携帯電話での一票による人気投票。自分の国の歌手にだけは 投票できない。
金曜、土曜が、セミファイナルで 沢山の国が振り落とされ、残った20カ国が選ばれた。最終日の日曜に、この20カ国に、イギリス、スペイン、イタリア、フランス、ドイツとアゼルバイジャンを加えた26カ国の間で パフォーマンスが繰り広げられた。
おもしろいのは オーストラリアはヨーロッパの国ではないのに、ユーロビジョンコンテストに大騒ぎすることだ。オットも過去30年あまり、このコンテストが始まった時から、見ていて、何年の優勝国がどこか、ということをほとんど全部憶えていることだ。オーストラリア人は 当然のことながら、投票権はない。しかし みんなこのイベントに参加したいから、自分達のナンバーワン、ナンバーツーを投票して悦に入っている。投票の結果が ヨーロッパ全体の人気投票の結果と、得てして異なるところが、また おもしろい。昨年は アゼルバイジャンが ヨーロッパでは一位だったが、オーストラリアでは、スペインのすごくセクシーな男性歌手が一番人気だった。
今年はヨーロッパ人もオーストラリア人も スウェーデンのパフォーマンスに人気が集中した。この曲、流行るかもしれない。とても可愛い歌手だ。
写真は、リトアニア代表とキプロス代表
どちらもサーカス並みの激しいダンスをしながらパワフルな歌を聴かせてくれた。
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2012年5月28日月曜日
2012年5月20日日曜日
映画 「アヴェンジャーズ」
監督:ジョス ウェドン
キャスト
マイテイ ソウ :クリス ヘミワース
ソウの弟、ローク :トム ヒデルソン
アイアンマン :ロバート ダウニー ジュニア
キャプテンアメリカ:クリス エバンス
ブラックウィドウ :スカーレット ヨハンソン
インクレデイブル ハルク:マーク ルファロー
ホーク アイ :サムエル ジャクソン
アメリカで最大の売り上げを記録しているコミックブック「マーベルユニバース」のコミックキャラクター スーパーヒーローが勢ぞろい、総出演して地球の侵略者と戦うお話。
まずは神の王の息子で、神々の国アスカルドから追放されたヒーロー マイテイソウと、弟のローク。第二次世界大戦のヒーロー、キャプテンアメリカ。普段はちょっと冴えない中年科学者だが 怒ると体が緑色で100倍の大きさの巨人になって 所構わず暴れまわるハルク。地球を守る使命をもった、SHIELDの片目のキャプテン、ホークアイ。アイアンマンを助けるブラックウィドー。天才科学者で原子力を使ったパワースーツで活躍するアイアンマン。みんな出てくるぞ。
世界一優れた漫画文化を持つ日本人は、アメリカのコミック誌が、いかにつまらないかを良く知っている。質の悪いぺらぺらの紙に、どぎつい色で印刷されたコミック誌をめくってみると、何かうらぶれた、しょぼい感じがする。物語性がないし、面白みにも欠ける。そんなコミック誌の収集家によってオークションで 高額で売られたり買われたりしていることが信じられない。新聞の日曜版に載っている4コマ漫画など おかしくも面白くも無いものばかりだ。
しかし、退屈だったアメリカコミックのヒーローに、命を吹き込んだのは、優れた映画監督達だった。「マイテイ ソウ」も、「ハルク」も、「アイアンマン」も 映画では実に生き生きとしたヒーローとして描かれて、映画で立派に活躍してくれて、成功した。
そんなヒーローたちが全員集合して 地球の敵と戦うのだから 面白くないわけがない。宇宙から 地球を征服する為に 異星人が、ゲジゲジ虫のロボットのような武器を、どんどん送ってきて ニューヨークなど徹底的に破壊されて見る影も無くなる。思い切り何もかもぶっ壊れて、ヒーロー達も、死にもの狂いで戦う。
全米でこの映画が公開された最初の1週間に3億ドル、世界中では合計8億ドルの興行成績を上げたという。この記録は これまで世界で最高記録だった「ハリーポッター」が公開された週の観客動員数を上回ったそうだ。
アメリカ人は本当にアクションが好きなんだな。誰もがみんなヒーローの登場を待っている。誰もがみんな 今の自分に不満をもっていて、ヒーローに救ってもらいたいと思っているのだろうか。
ヒーローたちは 自分がヒーローだから、他のヒーロー達と一緒に戦列に並ぶことに慣れていない。第二次大戦のヒーローキャプテンアメリカの 流行遅れの制服に身を包んでいる姿をちゃかして笑ったり、ハルクが予定よりも早く緑の怪物に変身してしまって、敵よりも味方を攻撃して、みんなが辟易してみたり、アクションの中にも笑いが、たっぷり用意されている。ヒーローのなかでも、アイアンマンが、最新科学と情報の豊さで、だんとつのヒーローなのだが、彼はあくまで金持ちの坊ちゃんで、基本的には自分と自分の秘書ぺッパーさえ安全ならば 他の事はどうでも良いと思っている。リーダーになって地球を救うなど、さらさら考えて居ない。ホークアイは、リーダーとして怒鳴り散らすだけ。ヒーローたちは、いつも一人で戦っているから チームワークができない。その点、キャプテンアメリカは さすがリーダー気質で メンバーひとり一人に指示を与えて、チームを統率する。
ヒーロー達の抗戦の甲斐あって、何とか敵を撃退させることができた。めでたし めでたしだ。
ところで敵ってなんだろう。前回の「スパイダーマン」でも「バットマン」でも、敵とは、正義とは何か が微妙なテーマになっていた。
スパイダーマンは 育ててくれたお爺さんに教わった、正しく生きる道を歩もうとしているが 自分の内部にある悪への魅力に振り回されていた。バットマンは 淡々と良き市民や両親を僅かな金のために殺すような理不尽な悪と戦ってきた。しかし弱いものが助けを求める声を聞いて、駆けつけてみると自分と同じバットマンスーツを着たニセモノバットマンがマスコミに脚光をあびるためにすでに出動している。悪とは何か、善とは何か バットマンは悩む。
ヒーローたちもただ やみ雲に戦っているわけではなくて自分の中の邪悪や通俗性に疑問をもったり、敵だと思い込んでいた相手にも一部の理があることに気がついたり 悩んだり、酔って馬鹿をやったりする。キャプテンアメリカにとって 敵とは敵国の日本やドイツだったし、インクレデイブル ハルクにとっての敵は「オレを怒らせた奴」だったし、アイアンマンにとっての敵とは 自分の会社スターク社の商売敵だろう。共通の敵などなかった。
私の敵は、あなたの敵とは限らない。アメリカの正義は 他の誰にとって正義なのか。アフガニスタンからの早期撤兵を約束して大統領になったオバマにコントロールの効かない現在の状況で死者ばかりが増えて、一向にアフガニスタンの治安状況は良くならない。シリアではアサド政権により、民主化運動が圧殺され、本格的にアルカイダが介入してきた。スンニとシーアとの権力争い、と簡単には説明できない。スーダンではオイルをめぐって独立した南スーダンとの争いが本格化している。正義とは何か、敵とは何か、言い切ることができない。
共通の敵はない。しかし、地球が異星人に攻撃されて侵略されるならば、他のヒーローたちと一緒に防戦はする。「攻撃はしないが、防戦はする」というところで、共同戦線をはったヒーローたち。共通の敵は居ないが、一緒に防戦はする というところが、「今」という状況を映し出しているのかもしれない。
マーベルユニバースのコミックヒーローを大集合させた、この映画に対抗して、ブロックバスターズコミックブックのヒーローたちが これまた大集合する映画が、もうじき公開されるそうだ。「スパイダーマン」、「ジ アメイジング」、「ダークナイトライブ」などだ。きっとまた 大型アクション映画になって、映画産業を振興させてくれることだろう。
2012年5月15日火曜日
石塚真一のコミック 「岳」
山は良い。山は最高だ。山の良さを説明することができない。どんなに山が良いか、行ってみたらわかるよ、としか言えない。山の良さは登ってみた人にしかわからないので説明の仕様が無い。
一番好きな山は、穂高。二番目が剣岳。三番目が槍ヶ岳。四番目が八ヶ岳。五番目が白馬三山。
本当に好きだった人が山で死んで、カラビナが外れて滑落したそうだが、単独行の人だったから誰も死に目にあえなかった。それがきっかけで5年くらいの間、ものに憑かれたように山に登った。高いところばかり歩き周るから 夏の間は顔が日焼けで2枚も3枚も皮がはがれて顔中ケロイドのようだったが 全然気にならなかった。
山頂に立ち、360度 山また山という場に立つとすべてから解き放たれる。自分というものがなくなって、ただただ胸にあるものが空になって自由になれる。山の乾いた空気、淡い太陽の光、凍るような冷たい、肌を切るような山の風。バランスをとりながら 岩に取り付く、岩から岩へ這い蹲ったりよじ登ったりする、その岩の絶対的な存在感。岩と同じ色で見分けがつかない雷鳥が歩き回り 人間の存在など全く構わずにいて、その自由な姿を見ていていつまでも見飽きない。足を踏み外して、へばりついた岩と岩の間に咲くチングルマの可憐な美しさ。多種多様な山岳植物の その楚々とした美しさ。聳え立つ、落葉松の林に心が躍る。
山をやる人を山屋 岩をやる人を岩屋というが、そうした人たちが一様に、ボロを着て無頓着なのに、立派な紳士ばかりだ。一日中単独行で歩いて、人恋しくなった頃、山小屋に着くと、山屋達は皆、とびきり親切。寡黙そうな山屋が 聞けば自分の山の経験をいくらでも教えてくれて興味が尽きることが無い。歩き疲れていても 山男達の話を聞いていると、話しが面白くて時を忘れる。下界に下りれば若い人達は左翼の派閥争いばかりしていて、俗界では若い女とみればケッコンケッコンと、騒いでいる。山から下りてくると、もう翌日には山に戻りたくなっていた。デヴッド リーンの映画「アラビアのロレンス」に、新聞記者から、どうして砂漠が好きなのか、という問いにロレンスが答えて、「砂漠は清潔だから」と言うシーンがある。それと同じニュアンスで「山は清潔だ」。
石塚真一のコミック「岳」 小学館ビッグコミック連載の1巻ー12巻が手に入ったので読んだ。泣き通し。すごく良かった。
主人公の島崎三歩は、7年前ヒマラヤ山脈西端ナンガバルパットの頂上直下で、嵐が過ぎるまで10日間、悪天候に閉じ込められてテントから動けなかった。その時、凍死した別パーテイーの8人の死体を自分のテントまで運び、死体たちと共に、ひとり過ごした。毎日死体たちに「心配ない、ない。仲間はみーんなそばにいっからさ。」と話しかけていた、、、という、そんな男だ。
北アルプスの三の沢を上がったところにテントというか、小屋を作って山岳遭難防止対策協会の民間ボランテイアをしている。遭難救助といっても半数は助からない。滑落や雪崩や疲労凍死した山の犠牲者を背負い、岩を登り 川を渡って収容する。三歩は決して遭難者を責めない。「よくがんばった。」と言い、「また山においでよ。もどっておいでよ。」と呼びかける。「みんな山に来たらいいのにね。」といつも言っている。
涸沢ヒュッテの山口山岳遭難大作協議会隊長も、谷村山荘の谷村おばちゃんも、レスキューヘリコプターの牧さんも、みな仲間だ。
長野市北部警察署、地域課の野田正人は 島崎三歩の幼馴染だが、彼の部署に新人 椎名久美が救助隊員としてやってくる。久美は遭難救助にあたって 恐怖や驚きや迷いにぶちあたり、そのたびに三歩に反発したり、疑問をもったりしながらも、励まされて一人前の救助隊に育っていく。
遭難の舞台は 秋の北穂高岳 東面の滑落、奥穂高南稜、雪庇からの墜落、槍ヶ岳北尾根の雪崩、前穂シェルンド(雪渓のわれめ)からの転落、屏風岩での雷、焼岳、滝谷からの滑落、常念岳からの滑落などなど。
山の絵が素晴らしい。その稜線に実際立った人でないと見えない山々の姿が描写してある。屏風岩のテラスにしても、実際登ってみなければ描けない絵が正確に描かれている。山が好きでないと描けないだろう。作家は、漫画家というより 本当に山が好きで山をよく登っている人にちがいない。
3巻のエピソードをひとつ
正月にひとり穂高の山に入った浩平が、行方不明になって187日。とうに捜査は打ち切られていたが、三歩は「正月にしか山にこれない人が一人で山に来たんですよ。厳冬の雪山に。僕も会いたいです。」と言って ひとり遭難者を探索していた。浩平が登った稜線には東に7つ、西に9つ、合わせて16の沢がある。一つ一つの沢を捜査して、15の沢で見つからなかったので、最後の16番目の沢で浩平が死んでいるに違いない。三歩は父親を呼んで、雪解けとともに一緒に浩平を探すことになった。父親は、浩平の死を認めたくない。浩平が山などに来なくて、どこか他に居るような気がして、駅で背広姿の若い人を見るとみな自分の息子に見えて仕方が無い。
遺体を見つけた三歩が父親を呼ぶ。「遭難から半年経っている。浩平さんかどうか分かるのはお父さんだけだよ。」しかし、変わり果てて腐臭する姿を父親は 息子だと認めずに、必死で否定する。「ちがう、こんなの息子じゃない。」と言って卒倒する。三歩は、浩平に優しく話しかけながら、遺体をバッグに収容するために動かす。「次は右手、曲げるよ。うまいうまい。」と体を動かし、「この沢に居たってことは頂上まで行けたんだね。」よくがんばった。と話しかけながら、遺体を抱き上げる。父親がそれを見て、起き上がって「息子、抱いてもいいですか?」
それに、三歩は やっと息子さんに「会えたね。もちろん。」抱いてやってください、と。
2巻のエピソードもひとつ
常念岳、大学3年の八巻君と1年の松崎君が冬山で消息を絶つ。30人の救助隊、100人のボランテイアによる探索で、見つからず3週間で捜索は中止される。メデイアは、厳冬の山での若い二人の「認識の甘さ」を非難するばかりだ。その後も三歩は毎日ひとりで捜索していたが、50日目になって、久美は人々の非難の声に居たたまれなくなって、三歩に付いて行く。ゾンデに反応があった。三歩は慎重に雪穴を掘り出していく。「薄着の3年生八巻君と厚着の後輩松崎君は新入部員、「私には認識の甘さを感じさせない立派なクライマーに見えた。」と久美は独白する。雪穴のなかで、八巻は自分の服をみな後輩に着せて、自分は裸で、しっかり後輩を抱きしめて凍死していたのだ。
この5月の連休に 日本では、山に行って遭難した人が何人もいたようだ。遭難者が出ると 必ずメデイアは「認識の甘さ」を言う。しかし、山に絶対安全はない。どんなに注意していても事故は起る。山に絶対はない。山の天候は変わりやすい。
稜線を歩いていて、右側からは冷たい雨が吹き付けてきて凍えているのに、体の左側は太陽が照り付けている というような経験を山でしたことのある人は、山の天気を読むことがどんなに難しいことか、わかるだろう。人の「認識」で、登山に「絶対安全」と望む、など、なんと自然に対しておこがましいことか。どんなに認識していても、安全に注意していても、山では事故が起るし、人は死ぬこともある。それが納得できない人は山に来なければ良い。そして、山で遭難した人を責めないで欲しい。
2012年5月12日土曜日
シェイクスピアの「マクベス」と「蜘蛛巣城」
オペラハウスの小劇場で、「マクベス」を観た。
ベル シェイクスピアという、今時こんな時勢に シェイクスピアだけを演じているというグループによる公演。行って見て、役者達が全員若い人たちばかりだったことと、観に来ている人たちも若い人ばかりだったことが 驚きだった。
シドニーのオペラハウスで オペラやコンサートを月に一度くらいの割で、観に行っているが 観客はいつも年寄りばかりだ。座っている人たちを後ろから見ると白い髪のひとばかり。車椅子や歩行器や杖を使っている人も多い。そんなだから 今回シェイクスピアを観に行って、若い人ばかりだったので とてもびっくりした。芝居が終わって 皆が席を立ち、出口に行き着くまでに待つ必要がない。みな、サッサと出て行って、エレベーターの前に長い列ができることもない。若い人たちは 足腰が軽いのだ。たった、200年の歴史しかないオーストラリアという若い国で、若い人たちが、古英語で台詞を言うシェイクスピアの芝居に魅かれて観に来ていることに、新鮮な感動を覚えた。
でも、振り返ってみたら、私がモリエールの芝居「町人貴族」と、「スカパンの悪巧み」を演じるコメデイフランセーズを観て、心底感激感動したのは 小学校5年生のときだった。大きな舞台で、朗々たる声、明確な発音で語る言葉の美しい力強さ、鍛えた体で役を演じる役者たちのしなやかで軽やかな動き、舞台芸術の多様さなど、芝居の世界に魅せられた。芝居をやりたい。
でも、自分の声帯が極端に弱いことに、程なく気がついた。興奮して大きな声を出すと 翌日は必ず声が嗄れてハスキー声になっている。その翌日は 全く声が出なくなっていて、回復するのに日数がかかる。風邪をひいても まず咽喉から悪くなる。タバコの煙が立ち込めるところで、4弦バンジョーを持って歌えるスーマーさんは、すごいと思う。舞台俳優も シンガーソングライターも、学校の先生も、自分には向いていないことがわかった。騒いでいる人を黙らせることが出来ない。以来、舞台は観るだけ、歌は聴くだけ、学校の先生は批判するだけ。
マクベスは 本来誠実な男が権力意識の強い妻をもったために、自分が仕える城主を殺してしまい 自滅していくお話だ。オペラにも、バレエにも 映画にもなっている。
映画で、いちばん印象に残っているのが、1957年、黒澤明の「蜘蛛の巣城」だ。白黒映画だが、まさに芸術作品。役者達が能の動き、顔の表情を作っている素晴らしい作品。マクベスを、戦国時代の武将に置き換えているが、原作に忠実で、海外でも評価が高かった。黒澤が「七人の侍」を作った後の、油が乗り切った頃の作品だ。主役は三船敏郎。妻が山田五十鈴だった。
「森が動く」シーンも良かったし、山田五十鈴が「手を洗っても洗っても血が取れないの。」と言いながら狂っていくところなど、お歯黒で黒髪の山田五十鈴が演じると、どんなお化け映画よりも怖かった。
この映画では面白いエピソードがある。ラストシーンで三船敏郎が多勢の弓矢に射られて殺されるが、これが黒澤による特撮ではなく真迫力を出す為に、本当の弓矢の名人が三船をめがけて次々と弓を射た。三十三間堂の通し矢の名人だったそうだ。撮影終了後、三船は 「殺す気か」と黒澤に食って掛かり、それでも腹の虫が治まらず、後日酒に酔った勢いで、散弾銃をもって、黒澤の自宅を襲った。その後も三船は頻繁に、黒澤をバズーカ砲で殺してやる といきまいていた という。これは東宝撮影所の伝説になっている。
東宝撮影所は成城にあるが、伝説といえば、1946年から1948年にかけて、「東宝争議」が起った。当時、職員1200人の解雇を通知したことに怒った組合が、撮影所の正面にバリケードを築いて立てこもった。これを排除するために、警視庁から2000人の警察官、アメリカ軍GHQからは MP150人、歩兵自動車部隊、装甲車、M4中戦車、航空機3機が出動して、東宝撮影所を包囲した。アメリカ軍は、「来なかったのは軍艦だけ」、というほどの重装備だった。成城という小さな街で起った、ひとつの労働争議のために、これほどの軍が介入した歴史的な事件だったが、あまり報道されておらず、知られていない。
12歳年上だった私の最初の夫は、自分の家が、成城のこの撮影所に近かったので、目の前を米軍の戦車が通り過ぎていくのを目撃している。細かく当時のことを、憶えていて話してくれたものだ。私が産まれた頃の話だ。
普段はとても静かな成城の街で学生時代を過ごした。緑が多く、仲間と話しをしながら、飽きることなく何時間でも散歩した。東宝撮影所が近かったから、学生会館にいると映画のエキストラ出演の依頼がよくきていて、アルバイトする学生も多かった。
成城は坂が多い。ある日、考えごとをしながら一人で長い上り坂を ゆっくり歩いていた。後ろから誰かが息をきらせながら上ってくる。ハアハア ゼイゼイいいながら、何故かこっけいな気がしたが、振り返るのも面倒で、そのまま歩いて坂の頂上まで来た。ここで その後ろから坂を上ってきた中年の太った男に呼び止められて、振り返った。、、と、そのとき、男は明らかに落胆した表情をみせて、「あ、、きれいな歩き方ですね。」とだけ言って、くるりと背を向けて坂を下りていった。 なんなのよ。全く、失礼な。「歩き方だけかよ。」、、後から思うと、この男は東宝撮影所の何かで、スカウトマンだったのだ。
それはともかく、役者にはなれなくても シェイクスピアの芝居に出てくる台詞をいくつか覚えておくと良い。ハムレットの「TO BE OR NOT TO BE」だけでなく、「森が動く」や、「洗っても洗っても血が落ちない。」の台詞など、ちょっとした会話にはさむだけで、おしゃれじゃないか。
しばらくぶりに、シェイクスピアの芝居を観て、改めて芝居の面白さを味わって、とても満足した。
2012年5月7日月曜日
男達の「白鳥の湖」
http://www.swanlaketour.com/
マチュー ボーン演出のバレエ、「白鳥の湖」ロンドン公演を、ハイビジョン3Dのフイルムで観た。
力強い男達の踊る白鳥の群舞いが素晴らしい。筋骨隆々の、よく引き締まった体を持った男達が上半身裸で、下半身に羽毛をつけて踊る白鳥だ。近年、これほど感動したバレエの舞台を他に見なかった。素晴らしいスピードと力強さ、そしてジャンプする跳躍力。エネルギーが爆発する。
マチュー ボーンは、1960年ロンドン生まれのカリオグラファーで、前衛的なバレエのグループをもって1995年から活躍している。この「白鳥の湖」はウェストエンドとブロードウェイとで、最も長く公演が続いている出し物だそうだ。ローレンス オリビエ賞、トニー賞で最優秀演出賞と最優秀カリオグラファー賞を受賞している。
監督、カリオグラフ:マチュー ボーン
音楽:チャイコフスキー
演奏:ニューロンドンオーケストラ
指揮:デヴィッド リロイド ジョンズ
キャスト
白鳥 :リチャード ウィンザー
プリンス:ドミニック ノース
クイーン:ニナ ゴルドマン
執事 :ステーブ キルカン
少年時代のプリンス:ジョセフ ヴォーガン
ストーリーは
はじめの場面では 舞台の中央に大きなベッド。幼いプリンスが眠っている。白鳥がプリンスに襲い掛かり 必死で逃げても捕まって殺されてしまうという悪夢にうなされている。いつも見るのは、同じ夢だ。 しかし、朝はいつもどおりにやってくる。侍従の命令通りに召使達がプリンスの身支度をする。プリンスが制服を着込んだところで クイーンの待つ馬車に乗り、国民への会見や公式行事に母と参加して 退屈な時間を過ごす。
次のシーンでは、プリンスが大きくなっている。若きプリンスが幼い頃と全く同じことをしている。起きてから眠るまで 全く自分の時間がない、拘束された不自由な生活をするプリンスの様子が痛ましい。
ある夜、かくれて酒を飲んでいたプリンスは母親に見つかり責められる。プリンスは、母親を愛している。飲んだ勢いで母親に襲い掛かる。しかし母親は冷たく息子を払いのけ、しっかりするように言い渡すだけ。
プリンスは身分を隠してキャバレーに行く。しかし世慣れていない彼は飲んだくれに喧嘩を売られて、店から放りだされ、笑い物になるだけだった。
月の光が照らす夜の池のシーン
世を儚んだプリンスは池に飛び込んで死のうとする。プリンスの前に立ちはだかって、美しい舞いをみせる白鳥。その美しさにプリンスは目を奪われる。力強い舞いをみせる白鳥のソロが素晴らしい。誘われるかのようにして、デュオで踊るプリンスと白鳥の踊りが秀逸だ。荒々しくプリンスを跳ね除けていた白鳥が 二人して踊るうちに互いに心引かれ、恋に陥る様子が 見ていて手を取るように伝わってくる。
それに続く白鳥たちの群舞いが 激しく勇壮で美しい。12羽の白鳥達の力強い踊りをバックに 歓びに満ちた恋する二人の踊り。プリンスと彼とは一回り体の大きな白鳥のデュオが、月の光に照らされて青く輝いてみえる。
次は宮廷の舞踏会
退屈な宮廷舞踏会に辟易しているプリンス。各国から来たダンサー達がそれぞれのお国の踊りを見せたり、貴族達は華やかに着飾り社交に忙しい。そこに、プリンスの恋する白鳥が人の姿をして突然現れる。うろたえるプリンス。会場にいたすべての女達のこころを、白鳥は、わし摑みしてしまう。白鳥の暴力的ともいえる性的な魅力にクイーンまでもが 夢中になってしまう。プリンスに、わざとつらく当たる白鳥に、プリンスは驚き、白鳥を追い求めて狂ったようになってしまう。
最後は再びプリンスの寝室
プリンスは重い病気に陥って、召使や母親に世話をされている。
そこに、夢にまで見た白鳥が 会いにやってくる。白鳥は瀕死の傷を負っているが、プリンスは それに気がつかない。出会えたことに歓び、デュオを踊る二人の前に 沢山の白鳥達が襲い掛かる。プリンスを、くちばしで突き刺し肉をえぐる白鳥達。それを助けようともがく瀕死の白鳥。二人とも 囲まれて殺される。
上空を プリンスをしっかり抱きしめたは白鳥が、天に昇っていく。
というお話。
白鳥の女王に恋をするプリンスを描いたチャイコフスキーの「白鳥の湖」が、そのままプリンスと雄の白鳥との許されざる恋の物語にされたところが現代的解釈だ。鍛え抜かれた筋肉をもった男達が上半身裸で白鳥になって、荒々しく激しく白鳥を踊る。毛つくろいをし、羽ばたき、飛び発って宙に舞う。バレエとは男の美しさを見せる為の芸術だと言われているが、その言葉がすんなり納得できる。本当に 美しい、感動的な舞台だ。
「白鳥の湖」は パリオペラバレエ、ロイヤルロンドンバレエ、キエフバレエ、ボリショイバレエ、ニューヨークバレエ団、オーストラリアバレエでも観てきた。どれが一番美しかったか、甲乙などつけがたい。キエフバレエでは ものすごく沢山の踊り子達が、普通の舞台の倍はある大きな舞台に広がって、贅沢で豪華なパフォーマンスを見せてくれて、目を瞠った。パリオペラバレエを見たときは、ヌレエフが演出した「白鳥の湖」だったので ドラマ性があって、涙が自然と出て来るほど美しかった。しかし、このマチュー ボーンの白鳥には とても感動した。
3Dテクニックがでてきた時は ちょっと立体的に見えるくらいで何だ?という感じだったが、徐々に技術が良くなってきて、特に舞台の映像化には、3Dテクが とても生きている。舞台芸術では 物語が平面的なならないように観客の前に花道ができたり、役者が観客席の後ろから飛び出してきたり、舞台のそでを上手に使ったりする。舞台ライブのフイルムを3Dにすると さらに見ている人に直接手が触れられるような 錯覚を起こさせ、画面に臨場感が出て、とても効果的だ。
男達が チャイコフスキーにあわせて群舞いするシーンや、瀕死の白鳥を踊る姿を見ていて、これがチャイコフスキーの「白鳥の湖」に一番合って居るのかもしれない と思った。とても良い舞台を観られて、幸せ。映画館でこれを観た後、DVDをロンドンから取り寄せる手続きをしてしまった。
2012年5月3日木曜日
カウリスマキの映画「ル オーブルの靴磨き」
原題:「LE HAVRE」
監督:アキ カウリスマキ
キャスト
マルセル:アンドレ ウィルム
アルレッテイ:カテイ オウテイネン
警部:ジャン ピエール ダルサン
密告者:ジャン ピエール レオ
ストーリーは
フランス北西部の港町、ル オーブルで、マルセルは妻と、つましく暮らしている。若い頃は作家として物を書いていて、芸術家らしくボヘミアンな生き方をしていたが、成功して世にでることはなかった。年老いた今、苦労させた妻と二人、日々の靴磨きをして得る小銭で何とか生活している。
ニュースでは、この港町の貨物船からアフリカの密入国者が潜んでいるところを発見され、そのうちの一人の少年が逃走していることを伝えている。
その日 マルセルが港で海を見ながら弁当を食べていると 逃走中の少年が半分冷たい海に浸かったまま隠れている姿に出会ってしまった。弁当を買って 少年の隠れているところに置いてやると 翌日には、マルセルは自分の家の犬小屋に、この少年が眠っているのを見つける。予想外の展開になってマルセルは 少年イングリッサを自分の家にかくまうことになる。
そんなときに、妻のアルエテイが病に倒れ、入院することになる。病気は重く、予後が良くない。となり近所の人々は アルレッテイの見舞いに出かけ、マルセルがかくまっている少年のために食べ物を差し入れて協力を惜しまない。
マルセルは、たった一着の背広に着替え、夜行バスでカレーの街の難民収容所の出かけて行き、少年イングリッサの祖父に会い、少年が行きたがっている母親の住所を聞き出す。父親は生きておらず、母親はロンドンで働いていたのだった。祖父を難民収容所から助け出すことは出来ないが、イングリッサを是非とも母親のところに送り届けてやりたい。マルセルは 少年をイギリスに密入国させるための船の手はずを整える。しかし船のガソリン代、2000ユーロというマルセロ達にとっては とんでもない大金を作らなければならない。
近所の人々は2000ユーロを作りために頭をひねる。おなじ靴磨きをしているチャンは 息子に玩具を買うために積み立ててきた400ユーロを出すという。ロックコンサートで資金稼ぎをしよう ということになったが、歌手で、今はただの飲んだくれのリトル ボブの助けが必要だ。彼は妻のミミが居なくなって腑抜けのようになってしまった。マルセロは、家出しているミミを説得する。ミミはあっさりボブのところに戻り、ロックコンサートは成功裏に終わり、マルセロは渡航費用を手に入れた。いざ、イングリッサを船底に潜ませでイギリスに向けて船が出ようとしたときに、執拗にマルセロをマークしていた警察署長らが追跡してきて、、、。
というおはなし。
一般的に映画は、普通の生活している人々とは違った、スターと呼ばれる美男美女が出てきて 普通の人々がいつも使っている車や家具調度品よりも洒落たものに囲まれ、そのへんで売っていないような服などを身に着けて、ちょっと小市民が住んでみたいと思うような優雅な家に住み、見ている人のために非現実的な経験をしたりして、人々を楽しませてくれるものだ。それが一般人に手の届かぬ夢物語であり、映画の中でだけ体験できる冒険だったり 普段と違う興奮や感動をもたらせてくれるものだったりする。
アキ カウリスマキ監督の作る映画は、そのすべての「一般」と対照的だ。登場人物は、美男美女とは程遠い、見ているあなたより見劣りするし、生活は貧しく、映画の中で体験していることは冴えないことばかりだ。不運続きのお人よしのおばかさんだったりする。だいたい主役も端役も笑ったり、泣いたりしない。激しいやり取りして喜怒哀楽を表現して観客を巻き込もうとなどしない。終始、無表情で、せりふを画面に向かって表情なしに並べてみせる。事件など 何も起きない。特別な出来事など何も無い。
これが、アキ カウリスマキの世界だ。見ている人は一人でじんわり感動したり、にんまり笑って そっと涙をうかべてみたりする。
だから、カウリスマキの世界は一般受けしない。それで良い。
例えば、マルセロが チャンと呼ばれる同業の靴磨きと二人で壁を背に立っている。カメラは真正面だ。マルセロに靴を磨かせていた男がカメラの横を通りカメラの後ろに歩いていく、と同時に銃声がして マルセロとチャンがちょっとだけ顔をしかめる。カメラは動かない。だから死人も映らない。マルセロとチャンのわずかな表情だけで ギャングに何が起きたか想像させる。マルセロはボソッと「代金払ってもらった後で良かった。」と言うのだ。ちょっとしたハードボイルドよりも、ハードじゃないか。バシャバシャ血が流れたり ギャング同志の抗争や、物が壊れたり、人々が叫んだり大騒ぎするよりも、ずっとハードボイルドだ。
妻が、治療中は2週間面会に来てはいけないのよ、と無表情で言う。黙って聴くマルセロ。無表情でいることによって妻に状態が良いものではなく、先が余りない、ということがわかり、哀しみに心が冷えていく様子が、見ているものにはわかる。
ヨレヨレでくたびれたマルセロのジャケット、ほこりだらけの靴、深い顔の皺、くちゃくちゃのタバコの箱、それに対照的な 上等な黒のコート、帽子、ほこり一つない完璧ないでたちの警察署長。マルセロの家のクロセットには 一組の背広があるだけ、並んだアルエッテイにも2組の服しかない。家にはテレビもラジオもありそうにない。
ロックスターだったリトル ボブはミミが出て行ったあと酒に溺れていて、もう歌えない。マルセロはミミを説得して リトル ボブが酒を相手に嘆いているところにミミをつれてくる。ボブとミミのふたりは見詰め合う目がこれほど優しく見つめあうことが出来るのかというほど 優しく優しく見詰め合う。そのままカメラは動かない。長い長い台詞の無い時間が過ぎる。で、その次には、ボブがマイクを持って絶叫し、ファン達がビートに合わせて踊りながら叫びだすシーンだ。
実に表現がうまい。
マルセロが稼ぎが少なくて、パン屋にの八百屋のも借りが貯まっている。マルセルがパンを通りがかりに摑んでいくと、店主は怒って詰め寄るし、八百屋はマルセロの目の前でシャッターを閉める。そんな隣近所の人々が マルセルが不法移民をかくまったとたん、パン屋は、いくつものパンをマルセルに持たせ、八百屋は缶詰や果物を詰めた箱を渡す。会話はいっさいない。
パン屋、雑貨屋、八百屋のおやじ、パブの女主人、靴磨きのチャン、リトル ボブ、ミミなど、このル オーブルにすむ人々の心の温かさ、しわの深い顔、クタクタの服を身の纏った人々が、みな天使に見えてくる。
難民収容所に収容されたイングリッサのおじいさんに面会を要求するマルセロは、所長に肉親でないと面会できない、と言われて、私はおじいさんの兄弟だと平然と言う。署長がおまえは白人じゃないかと言うと、マルセロは「ぼくはアルビノ(先天的色素欠亡症)であって、兄弟に間違いない。肌の色で人を差別するなんて、あなたは所長の立場で民事法に違反しているではないか。」と言い返し、屁理屈を並べ立て 無理やり面会する。マルセロの不器用だが 人のためなら必要なものは必ず掴み取る姿勢に 見ているものは心から拍手喝さいする。
派手でない。地味で言葉数が少なく、役者の動きがなく、画面の背景で物語を語るカウリスマキの手法は独特だ。彼はハリウッド嫌い。才能を認められてハリウッドに招待されたが そこで自分の映画を作るつもりはないと断った。「シネマは一日、一生懸命働いた人がその日の終わりにリラックスして楽しむ為に見るエンタテイメントだ。シネマによって その日をリフレッシュできて翌日いい人間関係が築けるのであれば その映画は成功したといえる。」と言っている。
徹底した市井の人々、権力にも法にも守られていない、貧しいが、自分の足できちんと地に立っている生活者たち、彼らなりの正義、弱者の立場に立った正義の為なら どんな犠牲も恐れない人々、小さな英雄達、小さな美しい天使達を、彼は描いている。
カリウスマキはフィンランド人だが、小津安二郎のファンで 彼の作風に強い影響を受けていることが 見ていてよくわかる。小市民の単調な生活の描写を見ていると、フランスの港町なのに、昭和初期の香りがしてくる。最後のシーンで マルセルの家の前では桜が満開になって夫婦を迎い入れてくれる。小津に敬意を表したかのように、清楚な桜だ。
渋みと苦味とペーソスが合わさって、優しい笑いをかもし出してくれる。
ときには こんな映画で、心がやさしくなれる。
観てみる価値はある。